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2006年10月8日 - 2006年10月14日

2006年10月12日 (木)

かもめ食堂

2005年 日本 2006年3月公開Cl25s_2
評価:★★★★★
原作:群ようこ(幻冬舎刊)
脚本・監督:荻上直子
撮影:トゥオモ・ヴィルタネン
音楽:近藤達郎
編集:普嶋信一
写真:高橋ヨーコ
エンディング・テーマ:井上陽水「クレイジーラブ」
出演:小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ、ヤルッコ・ニエミ
    タリア・マルクス、マルック・ペルトラ

  ほんの何年か前まで何分に一回見せ場があるなどという宣伝文句がよく使われていた。これでもかとばかり次から次へと派手なアクションを繰り広げるハリウッド製ジェットコースター・ムービー。しかしそんなものばかり観ていればいつか食傷気味になるのは道理。たまに観る分にはいいが、その手の映画は2、3日もすればどんな映画だったかもう忘れてしまっている。その対極にあるのが「観覧車ムービー」。「わが家の犬は世界一」「ストレイト・ストーリー」のレビューで使った僕の造語だが、この手のゆったりしたリズムの映画は最近けっこう多い。「ゴブリンのこれがおすすめ 29」で取り上げた″ほのぼの・のんびり・ユーモアドラマ″のリストを参照いただきたい。80本選んだが、探せばまだまだあるはず。

 ゆったりとしたリズムの映画はなんでもない日常を描いた映画に多い。「犬猫」「阿弥陀堂だより」「珈琲時光」「博士の愛した数式」等々。取り立てて大きな事件も出来事も起こらない。これらにシュールな感覚を盛り込んだのが「茶の味」「リアリズムの宿」である。映画全体に独特の空気感が漂っているという点では「かもめ食堂」もこれらの作品に共通している。「阿弥陀堂だより」がこれらの中では一番「かもめ食堂」に近いかもしれない。何かに追われるように生きているせわしない日本人の疲れ切った心が、全く別の環境におかれることによって癒されてゆくという共通のテーマを持っているからだ。

 外国映画で近い雰囲気を持っているのはやはり北欧の「キッチン・ストーリー」「過去のない男」あたりだろう。ゆったりとしたリズムだけではなく、映画の空気に共通するものを感じる。上に挙げた日本映画の空気とはまた違った空気なのだ。あるいはもっと主題に即して考えれば、中国映画「こころの湯」との共通点が思い浮かぶ。驚くほど日本の銭湯に似ている中国の銭湯が舞台である。食堂と同じように銭湯もまた人々が集まり触れ合う場であり、人々の心も体も癒す場である。世界に冠たるお風呂大国日本にこのような映画がないのはなんとも不思議だし、残念なことである。これに「月曜日に乾杯!」をくわえてみるとかなり「かもめ食堂」に近いものになる。「月曜日に乾杯!」は妻や子どもたちからろくに相手にされず、毎日同じ仕事を繰り返している生活にむなしさを感じた主人公が、ある日突然家族に黙ってふらっとヴェニスに行ってしまい、しばらくゆっくり羽を伸ばしてまた家に帰るという映画である。ヴェニスをさまよっているこの主人公は「かもめ食堂」のミドリとマサコにあたる。

 まあ、比較はこれくらいにしておこう。これ以上やってもあまり意味はない。それより時間の感覚のことに話を進めよう。日本人は総じて勤勉である。何もしないでいることは日本人にとって耐え難い苦痛なのだ。フランス人のようにのんびりバカンスを過ごすことは日本人にはほとんど拷問に近い。日本人は耐え切れなくなって途中で逃げ出してしまうとよく言われる。「かもめ食堂」の荻上直子監督も同じことを言っている。

  日本と違って、ほんとゆったりとした時間が流れているんですね。あれは日本人には真似できない。仕事はみんなきちんとやるんですが、休みはしっかりとるんです。1日10時間しか撮影できないし、土日は撮影休み。私、最初はあまりにものんびりしたペースでいらいらしてたんですが、撮影3日目にはもう諦めました(笑)。1人であせっても仕方ない、フィンランドの流儀に合わせてやっていこうと。出来上がった作品を観ると、彼らのペースに合わせて大正解でしたね。
  日本人って20時間でも平気で働いてしまう。そういう勤勉さはすごいと思いますよ。その点、フィンランド人は「仕事よりも大切なものがある」という考え方のようですね。私も地元の流儀に習って、休みの日にはプロデューサーのコテージに遊びに行って、湖に飛び込んだりサウナに入ったりしました。首都のヘルシンキでもちょっと歩けば、ムーミンが出てきそうな大自然なんですよ。
 <AOL Entertainmentの監督インタビューより>

 「かもめ食堂」に流れているのはこういう空気であり、こういう時間感覚である。「かもめ食堂」がパリやニューヨークにあったらもっと違う映画になっていただろう。北欧であることに意味があるのだ。じっとしていられない日本人にとって、このゆったりとしたリズムが逆に心地よく感じられるのである。「かもめ食堂」を観て感じるのは「月曜日に乾杯!」の主Cutcup07 人公がヴェニスで過ごした時に感じたであろう解放感と軽やかさなのである。何かから逃げるようにして日本を出てきたミドリ(片桐はいり)やマサコ(もたいまさこ)たちにとって、それまでの人生はずしりと重く肩に食い込むものだったに違いない。サチエ(小林聡美 )だって恐らくそうだったのだ。しかし日本を離れ、全く違うリズムで人々が生きているフィンランドに来て、彼女たちは軽やかに自分のペースで生きてゆく生活を知ったのである。それは彼女たちにとって未体験の「日常生活」だったのだ。外国という非日常的空間で営まれる「日常生活」。この映画の持つなんとも不思議な感覚はそこから来ている。

  そこで経験する親密な人間関係。おいしいものを食べることはそれ自体喜びなのだという発見。彼女たちは「かもめ食堂」で生きることの喜びを見出したのである。しかし、彼女たちは決して日本人であることを捨ててフィンランドに同化しようとしたわけではない。かもめ食堂のメインメニューは「日本のソウルフード」、梅干しとオカカとシャケのおにぎりなのである。さらには、トンカツ、豚肉の生姜焼き、変化球でシナモンロール。そして忘れちゃいけない淹れ立てのおいしいコーヒー。高級な食べ物など1つもない。いわゆるお袋の味。これはサチエのこだわりである。「レストランじゃなく食堂です。もっと身近な感じ。」およそグルメとは程遠い僕にとっては高級料理よりよほど食欲をそそる。コメディ調の映画だが、うわっついたところがないのはサチエがきちんとした自分の信念を持っているからである。自分のルーツをしっかり持っているからこそサチエはいつも凛としているのである。

  サチエの「凛とした」美しさは群ようこの原作にあったもので、荻上直子監督もそれを強く意識して撮ったそうである。それに応えた小林聡美がまた立派である。これほど美しい彼女を見たのは初めてだ。彼女を支えていたのは父親とおにぎりにまつわる彼女の記憶であり、父親に教えられた合気道である。自然の「気」に自分の「気」を合わせる合気道の教えが彼女の凛とした佇まいを支え、様々な人たちを受け入れるしなやかさ(和食専門のメニューの中にシナモンロールを加えることも含めて)を身に付けさせたのだろう。客が一人も来なくても動じない。おいしいものを作り続けていればいつか必ずお客さんは来る。そういう信念を持っている。彼女のきりっとしたしなやかで強靭な自然体がすがすがしくまた頼もしい。

 普通の食堂を目指した彼女の方針は食堂のシンプルだが清潔で品のいい内装や家具のセンスのよさに表れている。その方面に疎い僕でもセンスのよさが分かる。サチエのきりっとした美しい佇まいと食堂の清楚な雰囲気そしておいしい食事が、傷ついた人たちを引き付ける。彼女のおいしい料理とやさしく包み込むような人柄に惹かれて集まってきた人たちがまたいい。ミドリとマサコ、食堂の「お客さま第1号」でコーヒーは永久に無料という特典を得ている日本オタクのトンミ・ヒルトネン(ヤルッコ・ニエミ)という青年、夫に逃げられて酒におぼれていたリーサ(タリア・マルクス)、珈琲のおいしい淹れ方をサチエに教えていったマッティ(「過去のない男」のマルック・ペルトラ)。みんな胸の奥にそれぞれの重い過去やさびしい人生をかかえている。

 彼らはみんなサチエの人柄と彼女の作る食事によって見違えるように元気になってゆく。ミドリとマサコはいつのまにか「かもめ食堂」で働くようになる。店に活気が生まれ、客も増えてくる。おいしい食事を食べることは喜びであり幸せであるが、さらにそれは生きる力にもなっている。そんな描き方がいい。食堂に泥棒が入るという事件の後サチエ、マサコ、ミドリの3人がおむすびを山のように作り並んで食べるシーンにそれがよく表れている。ただおにぎりを作って食べるだけのことなのだがなぜか深く心に残る。沈んでいた彼女たちの気持ちが高揚してゆくのが観ているわれわれにも伝わってくる。もう1つ、さくさく揚げ上がったトンカツに包丁を入れたときのあのザクッザクッという音。トンカツを切る音がこんなおいしそうに聞こえるなんて!新鮮な驚きだった。食べることが生きる力を生む。「何か食べなくちゃ生きていけないよね。」そんな素朴なテーマをこれほどストレートに描いて、なおかつ感動を与える映画を他に知らない。日常繰り返すなんでもない行為に人を感動させるものを見出す。そのメッセージがじんわりと観るものの体の中に沁みこんでくる。「かもめ食堂」は遠赤外線のように心の芯まで温まる映画なのである。

  コミカルな味付けの他に、この映画にはもう1つシュールな要素がある。その典型がマサコの見つかったトランクの中に入っていたもの。そこにあるはずのないものが黄金色に輝いていた。それは森の恵みだった。この非現実的なエピソードが映画の中で浮いていないのは、フィンランドの森が持つ神秘性がうまく映画の中に導入されているからだろう。フィTree3_1 ンランドの人たちがどうしてこんなにゆったりとしていられるのかという議論になった時、日本オタクのトンミが「森があるからだ」と答える。それを聞いてマサコは早速森に行く。そこで彼女は例のあるものを取って来る。途中でそれは消えてしまうのだが、トランクを開けたら出てきたのである。このエピソードは恐らく上で引用した「首都のヘルシンキでもちょっと歩けば、ムーミンが出てきそうな大自然なんですよ」という荻上直子監督の言葉と響きあっている。上のような超自然的なことが起こってしまいそうな雰囲気、かもめ食堂があるヘルシンキの空気にはそんな不可思議なものがある。ゴブリンやエルフがその辺からひょいと出てきそうなケルトの森もこんな雰囲気だったのだろう。

 マサコはもう1つのシュールな出来事と関係している。いつもかもめ食堂をにらむようにして覗いてゆく女性がいた。ある時ついに店に入ってきてコスケンコルヴァという酒を頼む。それを飲んで彼女はすぐぶっ倒れてしまう。マサコは親身になって彼女を介抱し、その話に耳を傾ける。マサコは彼女の話を事細かにサチエとミドリに伝える。フィンランド語が分かるのと驚く二人に、マサコはもちろん分からないと平然と答える。実に面白いシーンだ。なんともシュールで滑稽なのだが、そこには悩んでいる人同士は言葉を越えて通じ合えるというメッセージが込められている。そうかも知れないとなんとなく納得してしまうのは映画の力なのだ。

 マサコがその後で言う次のせりふも面白い。「シャイだけどやさしくて、いつものーんびりリラックスして、それが私のフィンランド人のイメージでした。でもやっぱり悲しい人は悲しいんですね。」サチエはこう受ける。「どこにいたって、悲しい人は悲しいし、寂しい人は寂しいんじゃないんですか。でも、ずっと同じではいられないものですよね。人は皆変わっていくものですから。」フィンランドにだって傷ついた人はいる。しかし人にはそれを癒す力がある。

 他にも、何度も出てくる「ガッチャマンの歌を完璧に覚えている人に悪い人はいませんからね」というせりふも僕にとっては充分シュールなせりふだ。それに、もたいまさこの抑えた演技、これもそれ自体シュールだ。コーヒー豆にお湯を注ぐ前に指で真ん中に窪みを作り、「コピ・ルアック」とおまじないを唱えればおいしい珈琲ができるというのもシュールな響きがある。こういった要素が自然に映画の中に入り込めるのも、フィンランドという独特の空気があるからだろう。

 「かもめ食堂」を観終わった後はさわやかな気持ちになれる。そしておにぎりや生姜焼きが食べたくなるだろう。しかしただ軽いだけの映画ではない。この映画が問いかけているのは「人生にとって必用なものとは何か?何が人を生き生きとさせるのか?」というものだ。それでいて重くもならない。出来上がった作品は実に軽やかである。どろどろの人間関係など一切描かれない。誰も死なないし、誰も叫ばないし、劇的な事件も起こらない。にもかかわらず十分な手ごたえがある。実に稀有な作品である。この映画の成功には何といっても小林聡美、片桐はいり、もたいまさこという3人の女優が大きく貢献している。外国でロケしながら、少しも肩肘張っている風がない。3人の演技力が優れていることは言うまでもない。しかしそれ以上に、俳優にとってきわめて重要な条件、そこにいるだけであたりの空気を変えてしまうような存在感をそれぞれに持っていたからこそ、フィンランドという独特の雰囲気の中で自然に演じられたのだ。これは努力して身に付けられるものではないだろう。俳優としての資質にかかわるものだ。こんな素晴らしい女優たちが日本にいる。誇るべきことではないか。

 もちろん群ようこの原作も優れたものであったに違いない。このようなシチュエーションを考え出しただけでも並々ならぬ才能を感じさせる。監督の荻上直子についても一言触れておきたい。彼女の作品を観るのは「かもめ食堂」が初めて。1作目の「バーバー吉野」と2作目の「恋は五・七・五!」は何度か手に取ったことはあるが、借りるにはいたらなかった。観ていないので断言はできないが、「かもめ食堂」の完成度が一番高いと考えて間違いないだろう。群ようこの原作と3人の優れた女優との出会いが傑作を生んだのだ。他にない独特の持ち味を持った監督なので今後の活躍が楽しみである。

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2006年10月11日 (水)

アメリカ、家族のいる風景

2005年、ドイツ・アメリカ 2006年2月公開
原題:DON'T COME KNOCKING
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:サム・シェパード
原案:ヴィム・ヴェンダース、サム・シェパード
製作総指揮:ジェレミー・トーマス
製作:カーステン・ブリューニグ、イン・アー・リー、ペーター・シュヴァルツコフ
音楽:T・ボーン・バーネット
撮影:フランツ・ラスティグ
美術:ネイサン・アモンドソン
衣装:キャロライン・イースリン
出演:サム・シェパード、ジェシカ・ラング、サラ・ポーリー、ガブリエル・マン
    ティム・ロス、フェアルーザ・バーク、エヴァ・マリー・セイント
    トム・F・ファレル、ジェームズ・ギャモン、ロドーニ・A・グラント
    ジョージ・ケネディ、ティム・マティソン、ジュリア・スウィーニー

  アメリカは芯から病んでいる。そして今曲がり角に来ている。この間の一連のアメリカ映画を観てそう感じた。01年の9.11以後何かが変わった。

032561   ハリウッドは相変わらず大作を作り続けているが、新しいシナリオに事欠き、外国映画や過去のヒット作の焼き直し、あるいはシリーズもので急場しのぎをしている。今のアメリカにかつてのような勢いや明るさがないと見るや、「シービスケット」「シンデレラマン」「アビエイター」のような成功物語が成立しうる時代に題材を求めたり、「五線譜のラブレター」「RAY」「ビヨンドtheシー」などの伝記映画に活路を見出そうとしている。

  9.11直後は勇ましい映画も作られていたが、「宇宙戦争」では強大な敵の前になすすべもなく逃げ惑うアメリカ人の姿が描かれている。「ミュンヘン」や「ジャーヘッド」では戦う意義すら喪失している。もはや強いアメリカという標語は色あせ「サイドウェイ」や「アメリカ、家族のいる風景」などでは男は情けない哀れな姿をさらけ出している。アニメの世界ですらスーパー・ヒーローには生きにくい時代になってきた。「Mr.インクレディブル」ではかつてのヒーローたちが身を縮めるようにして暮らしている。未見だが「スパイダーマン」の2作目はピーターがおとなしく大学に通い、学費のためにバイトをしたり、悪党扱いされて悩んだりしている(どちらも最後には大活躍するが)。「ミリオンダラー・ベイビー」のヒロインは快進撃の途中で事故に会いチャンピオンになれなかった。

  アメリカは自信を失い進むべき方向を見出せずにいるようだ。犯罪、人種差別などの様々な差別問題、政治への不信、問題は山積しているが出口が見出せない。不信感が広がり、人間関係がきしみだす。家族が崩壊し帰るべき家とて見出せない。「ランド・オブ・プレンティ」「クラッシュ」「ラスト・マップ/真実を探して」「スティーヴィー」などを観ればアメリカの傷の深さが見て取れるだろう。この時代に「ノー・ディレクション・ホーム」というタイトルのボブ・ディランのドキュメンタリーが公開されたのは恐ろしいほどぴったりのタイミングだった。40年以上も前の歌が今のアメリカのわき腹にぐさりと突き刺さる。しかし、互いに不信感や敵意をぶつけ合いながらも、同時に何かを求めあってもいる。「クラッシュ」のようにぶつかり合いつつ人間的な触れ合いを求めている。自分の居場所を見出せずもがき続ける人々。

  かつてはアメリカはあこがれの国であった。今や「スパングリッシュ」「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では移民の目から冷静に見つめられている。メキシコに養子を探しに行った「カーサ・エスペランサ」のアメリカ人女性たちは皆それぞれに自分たちの問題を抱えていた。

  一方、「華氏911」「ロード・オブ・ウォー」を観ればアメリカ政府がこれらの問題をよそに、相変わらず力の政策を無理やり続けていることが見えてくる。「ボウリング・フォー・コロンバイン」で描かれたように銃社会も当分変わりそうにない。銃を持つことは人に安心感を与えるどころか、逆に不信感をつのらせることは「クラッシュ」の「透明マント」のエピソードで描かれている。

  今年の後半に入って9.11を直接描いた映画がついに登場した。「ユナイテッド93」と「ワールド・トレード・センター」。どちらも未見だが、限定された状況をどのように描いたか気になる。現場の混乱や緊張感に焦点を絞ればサスペンスや臨場感は盛り上がるが、その分広い社会的視野がスクリーンの外に追いやられる。単なるサスペンス映画、アクション映画に終わっていなければいいが。

  「アメリカ、家族のいる風景」はサム・シェパードと再び組んだので「パリ、テキサス」としばしば比較されるが、むしろ以上のような文脈の中においてとらえられるべきだろう。前作「ランド・オブ・プレンティ」と対になっている作品で、ぶつかり合いながらも人間的つながりを求め続けるという意味では「クラッシュ」にもつながる作品である。

  主題やストーリーという点では確かに「パリ、テキサス」に近い。ただ、「アメリカ、家族のArtwildstrawberry01300w いる風景」では同じような孤独感が描かれていても、より今のアメリカを意識しているように感じる。主人公のハワード・スペンス(サム・シェパード)がB級西部劇の俳優という役柄に設定されているのが象徴的だ。ジョン・ウェイン的な強いアメリカのイメージにつながりつつも、今ではすっかり売れなくなっている落ち目の商売。演じるスペンス自身も放蕩の限りを尽くしてきたが、今や老境に入り自分の人生にむなしさを感じている。ついに仕事を放り出し突然失踪するという情けなさがむしろ強調されている。明らかに現在のアメリカそのものを象徴している。食堂の壁に貼ってある、昔自分が主演した映画のポスターをじっと見つめるハワードのさびしい背中が印象的だ。

  「アメリカ、家族のいる風景」には大都会が一度も出てこない。ハワードが出演している西部劇の撮影場所ユタ州モアブ、ハワードの母親が住むネバダ州エルコ、ドリーンの住むモンタナ州ビュート。どこも寂れて乾いたアメリカの小さな町や荒野だ。荒涼として活気のないアメリカ。「メルキアデス・エストラーダ」もそうだが、アメリカのどこを舞台にするかによってアメリカそのものの印象が変わってくる。ここに描かれる寂れた町のイメージは決して昔のアメリカのイメージではない。人は大都会にだけ住んでいるわけではない。大都会と大都会の間には、ヴェンダースの映画によく出てくる一面何もない平原にただ道だけがまっすぐ伸びているような場所もあり、途中ところどころ寂れた町が点在している。にぎやかな大都会の陰に隠れてあまり意識されないが、これもまたアメリカの現実である。「アメリカ、家族のいる風景」にしても、「メルキアデス・エストラーダ」にしても、あえてこういう場所を舞台に選んだのはハリウッドの大作に対するアンチテーゼでもある。大都会ばかりがアメリカではない、いや、こちらこそ本当のアメリカだとまで言いたげだ。

  映画は大きな二つの目から始まる。巨大な岩にぽっかり開いた二つの穴。その横を馬に乗った男が通ってゆく。次には巨大なアーチのような岩の下をくぐる。奇岩が点在する荒れた土地。西部劇の舞台によく使われた場所だ。主人公のハワード・スペンスは西部劇の撮影中に突然失踪する。映画の衣装のまま行方をくらましたハワードが逃げる途中で衣装を他人と取り替える場面がある。落ちぶれた西部劇俳優から私人へ。そのとたんかっこよさも脱ぎ捨ててしまう。西部劇の衣装を脱ぎ捨ててしまえば、そこにいるのは乾ききった人生にやりきれなさを感じているただの初老の男。映画俳優という虚飾に満ちた商売柄思いのままに楽しく適当に生きてきた人生。しわだらけの渋い顔とごつい体躯には人生の年輪が表れているが、性格的には大人になれない大きな子供。それまで送ってきた身勝手で荒廃した人生の見返りで心にぽっかり穴が開いている。冒頭の荒涼とした風景は彼の満たされない気持ちを映し出した心象風景なのか。

  イギリス映画のしょぼくれた主人公(例えば「人生は、時々晴れ」のティモシー・スポール)とは違い、情けないところは同じだがちゃっかりホテルで若い女を何人もベッドに連れ込んだりして「参ったな、またやってしまった」なんてぼやいているあたりはいかにもアメリカ的。イギリス映画の濡れ落ち葉親父は失業やアル中や家族の中の存在感の低さに悩むが、アメリカの黄昏親父は軽~く生きてきた人生の付けに悩む。逃げる途中ハワードは焚き火を前にして、「どうして死ななかったのか」と苦しい胸のうちを吐き出すが、その悩みの苦しさがさっぱり伝わってこない。何で、あるいは何から逃げているのか観客にはよく分からない。そう、この映画が前作の「ランド・オブ・プレンティ」と違うのはこの軽さとユーモアの味付けである。

  何もかも投げ捨てて逃げ出したハワードは、西部劇の派手派手衣装を脱ぎ捨てて丸裸のまま(もちろん比ゆ的な意味で)母親に会いに行く。30年ぶりにひょっこり帰ってきた放蕩息子を母親は何事もなかったかのようにあっさりと受け入れる。母親役はなんとエヴァ・マリー・セイント!最後にテレビで観たのは「アメリカ上陸作戦」(1966)あたりか。もう30年くらい前だ。かつての金髪ほっそり女優もすっかりばあさんだ。それはともかく、内心の動揺はあったろうに、あわてず騒がず、落ち着き払って息子を迎える姿はまさにすべてを守り包む母親のイメージそのもの。堂々たる存在感はさすがだ。

  その母親から彼に子供がいると伝えられる。20年ほど前にモンタナの女性から彼の子供を身ごもったと電話があったというのだ。仰天したハワードはすぐモンタナに向かう。なぜ彼が子供に会いに行ったのかははっきりしない。彼の悩みがはっきりしないのだからそれも当然だ。ともかく、そこから映画は彼の人生やり直しの旅に変わる。最初は逃避行であったものが、新たな人生を模索する旅に変わってゆく。初老にいたってふと人生のむなしさに気づいた男が故郷に帰り、そこからまたロードに立つ。ここでの旅は「人生の旅」を表していると考えるべきだろう。

  彼の旅は苦渋に満ちているがどこか滑稽でもある。滑稽さという点ではハワードを追うサター(ティム・ロス)がいい味を出している。真面目そうで、そうでもなさそうで、不思議な存在感を醸し出している。「ランド・オブ・プレンティ」のような、9.11後のアメリカの不安という大きな荷物を背負わせていないだけに語りは軽い。

  モンタナ州ビュートでハワードは昔一時的に付き合っていたドリーン(ジェシカ・ラング)と再会する。ドリーンとの間にできた息子アール(ガブリエル・マン)や、さらに母親の違う自Sdrain01_1 分の娘スカイ(サラ・ポーリー)ともそこで出会う。不器用なハワードはドリーンに昔のよりを戻そうなどと持ちかけてきっぱり拒否されたり(「あなたは今度は私の人生の中に隠れたいだけよ」というせりふが強烈)、息子のアールにはいまさら父親面して出てくるなと激しく拒絶されたり(「ハワード・スペンス?歯医者みたいだ」というせりふには笑った)と散々な目にあう。すっかり落ち込み、怒り狂ったアールが自分の部屋から表の通りに放り投げた家具の山にあったソファに力なく倒れこみ泣き出す。ハワードは立ち上がることも出来ず、そのまま翌日までソファにへたりこんでいる。キャメラはゆっくりと回転しながらこの孤独感と後悔にさいなまれる男をひたすらなめるように映し出す。この映画の中で最も印象的な場面だ。

  ハワードの窮状を救ったのは娘のスカイだった(アールの腹違いの姉に当たる)。スカイは「ランド・オブ・プレンティ」のラナ(ミシェル・ウィリアムズ)に近い役割を果たしている。癒しの力を持った女性。似たようなタイプの女性を二つの映画で用いているところに何らかのヴェンダースの価値観が表れているかも知れない。そういえば、ハワードの母親、ドリーン、スカイ、アールの恋人アンバー(フェアルーザ・バーク)と、この映画の中でしっかりしているのは女性ばかりだ。

  しかしその女性たちも心の奥に寂しさを隠し持っている。この映画に登場するのはいずれも満たされない心の隙間を持った人物ばかりだ。もはや単純な力強いヒーローにはリアリティがない。ヴェンダースは代わりに迷えるカウボーイ、等身大のアメリカの家族を描く。ハワードにとって人生をやり直すにはもはや遅すぎた。しかしスカイが彼と息子の間に入り込むことによって、最後に彼と子供たちの心はようやく通じ合うことができた。

  「ランド・オブ・プレンティ」では自信を失い不安を感じながら生きているアメリカ人たちを描いた。一方「アメリカ、家族のいる風景」のテーマは家族の再生である。二つの作品を並べてみれば、アメリカ人が立ち直るには、まずばらばらになってしまった家族の絆を取り戻すことから始めなければならないというメッセージが読み取れる。ヴェンダースとシェパードは3年かけて「アメリカ、家族のいる風景」の脚本を練り上げたということだ。だとすると9.11後に脚本を練り始めたことになる。彼らにこの脚本を書かせたのは9.11後のアメリカの現状とそれを憂う彼らの気持だったに違いない。ヴェンダースはこの作品の完成後8年間住んだアメリカを離れた。彼はこう語っている。「アメリカをめぐって様々な問題がある。けれどもこの国はいまだとても美しい国なのだということを見て欲しかった。」

   「アメリカ、家族のいる風景」が「ランド・オブ・プレンティ」と違って喜劇的な明るさを持っているのはこのためだろう。結局ハワードはサターに見つかり撮影現場に連れ戻されるが、去り際にかすかな希望が描きこまれている。しかし、「アメリカ、家族のいる風景」の感動はそれほど深くない。あまりにあっさりと「家族」の心が通じ合いすぎるという印象が拭い去れないのだ。それはこの作品に喜劇的な要素があるからではない。「ライフ・イズ・ミラクル」は「アメリカ、家族のいる風景」より遥かにコミカルな作品だが、ボスニア問題を深刻に描いた他の作品に劣らぬほど重く現実が描きこまれており、かつ深い感動があった(もちろん「ライフ・イズ・ミラクル」は稀有な例ではあるが)。そうではなく、恐らくハワードの悩みがどこか空疎なのだ。だから彼の葛藤が充分に描かれないのであり、ソファに倒れこむシーンのような象徴的な描写に頼らざるを得ないのだ。家族の絆再生の触媒としてスカイのようなやや非現実的な人物を必要とするのも同じ理由からだ。「美しい」アメリカを描く前にもっと膿を出しておくべきだった。

2006年10月 9日 (月)

蒼い時と黒い雲

Bicycle2_1  中国から帰ってきてからものすごく忙しかった。映画を観る時間がなかなか取れない。それでも何とか中国にいっている間更新ができなかった埋め合わせをしようと、何とか2本観てレビューも書いた。しかし頑張れば頑張るほどゆとりがなくなる。土曜日も夕方まで仕事だったので、この連休でやっと一息つけた。午前中庭の手入れをした。近くの田んぼに出て山を眺める。気持ちがいい。午前中こんなにゆっくり過ごしたのは久々だ。ブログを眺めながらCDを聞く。これまた久しぶり。買っても聞いていないCDがたまる一方。

 午後、「湯楽里館」に行く。上田市の隣の東御市にある日帰り温泉施設で「ゆらりかん」と読む。風呂に入る時はいつもメガネをはずすのだが、外の景色が眺めたくて今日はかけたまま入る。上田の近くにはたくさん温泉があるが、やはりここが一番いい。何といっても露天風呂からの眺めが格別だ。丘の斜面にあるので湯船の横に立つと町を見下ろせる。遠くの山もきれいだ。夜は夜景がまた美しい。メガネをかけていってよかった。しかし風が冷たくて長く外に立っていられない。ぬるいお湯にゆったりと浸かり雲を眺める。やっぱり休みはいい。のんびり出来ることはそれ自体幸せなことなのだ。休みになって改めてそう思う。風呂上がりにアイスクリームを食べてから外に出ると、もう薄暗くなっていた。隣に地ビール「ORAHO」を飲ませるレストランがあるのだが、今日は一人なので諦める。

 帰り道浅間サンラインを通ると夕暮れの空が幻想的で美しかった。夕暮れ時に小諸方面からサンラインや18号を通って上田に帰る時には時々このような空を観ることができる。もともと雲を眺めるのは好きだが、夕焼け空や飛行機の上から眺める雲海と並んで好きなのは、日が沈む前後の「蒼い空」。「蒼い時」という表現があるが、夕暮れや明け方の「蒼い時」には世界が違って見える。一日で一番好きな時間帯だ。今日見た夕暮れ時の神秘的な空はぞっとするほど美しかった。地平線の近くは夕焼けの名残で薄いオレンジ色。上空のほうは光が薄れた薄暗い「蒼い」空。大きな雲や小さな雲が空のあちこちに筆で書いた水墨画のように黒い影を作っている。こんなにゆっくり夕空を眺めたのはいつ以来だろう。一日のうちのほんの短い時間しか見られない。あくせくしているとつい見逃してしまう。車を止めてずっと眺めていたいくらいだ。いやむしろ、太陽を地平線ぎりぎりに沈んだところで2時間くらい止めて、流れる雲が大空のスクリーンの上に次々と作り出してゆく神秘的な光と影のショーをずっと眺めていたいと思う。広い原っぱに出て、イスの背を倒して斜めに空を見上げる。目に見える範囲すべてがスクリーンだ。映画のスクリーンなんて比じゃない。山の端と空全体がスクリーンになった壮大なスケールの天体ショー。しかも入場無料。片手にポップコーンの袋を持って、おっと危ない。車の運転をしながらではじっくりと眺めていられないのが残念。いや、考えようによっては、これが本当のドライブイン・シアターかもしれない。

 家に帰って食事。しばらくゆっくりしてから「かもめ食堂」を観る。いい!これはいい。今年公開の日本映画を観るのは「嫌われ松子」以来3ヶ月半ぶり。相変わらずコメディ調の映画で、最近の日本映画でいいと思うもののほとんどはコメディの要素が強い。しかし「かもめ食堂」におちゃらけたところはまったくない。癖のある女優を3人そろえているが、彼女たちを見る視線は温かくまっすぐだ。フィンランドで開店した日本食堂が舞台。しかし、外国で生活しているのにどこにも肩を張っている風がないのがいい。3人ともよく個性が描き分けられている。中でも小林聡美が実に魅力的だ。彼女の明るさがそのままかもめ食堂の魅力になっている。そんな描き方がまたいい。「かもめ食堂」の前に観た「アメリカ、家族のいる風景」、まだ観ていないがもう1本借りてきた「Vフォー・ヴェンデッタ」と共に近々レビューを書きます。

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