最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

お気に入りブログ

« 2006年1月15日 - 2006年1月21日 | トップページ | 2006年1月29日 - 2006年2月4日 »

2006年1月22日 - 2006年1月28日

2006年1月28日 (土)

イギリス小説を読む⑥ 『エスター・ウォーターズ』その2

win2 <作者ジョージ・ムアについて>
  ジョージ・ムアは『エスター・ウォーターズ』の作者として英文学を学ぶものの間では知られているが、一般にはほとんど知られていない作家である。日本の英文学界でもジョージ・ムアを専門に研究しているという学者はまずいないだろう。『エスター・ウォーターズ』の翻訳も1988年にようやく出たばかりである。

  ジョージ・ムアはアイルランドの旧家の大地主の家に生まれた。最初は画家になるつもりだったが、フランスで過ごすうちに作家になろうと決心した。特にフランスの自然主義作家エミール・ゾラの影響を受け、自然主義の色彩の濃い作品を書いた。『エスター・ウォーターズ』にもその特徴が見られ、エスターというヒロインを通して、人生のありのままの姿が描かれている。当時の常識を逸脱した下層の女性をヒロインにし、そのなりふりかまわず生き抜こうと苦闘した人生を歯に衣を着せずに描いたため、不道徳だとのそしりを受け貸本屋から一時締め出されていた。

<エスター・ウォーターズ:英文学史上初めて登場した最下層出身のヒロイン>
  ジェイン・オースティンの描いた世界と比べると、エスターの世界は実に不安定な世界である。いつ貧困のどん底に突き落とされるか分からない世界、絶えず救貧院の陰が付きまとい、飢えと死の不安が付きまとっている世界である。読者もエスターの運命に絶えず不安を感じながら読み進まずにはいられない。たとえ幸福な時期があっても、この幸福はいつまで続くのかと不安に思わずにはいられないのだ。エスターの女中仲間だったマーガレットがいみじくも言った通り、「世の中はシーソーみたいなもので上がったり下がったり」なのである。この言葉こそエスターの浮き沈みの激しい人生を端的に表現している。いや、上流の人たちもこの点では例外ではない。隆盛を誇ったバーフィールド家も競馬で破滅してほとんど財産を失ってしまうのだから。

  エスターの生活が不安定なのは単に彼女が社会の最下層の出身だからというだけではない。結婚せずに子供をもうけたことが彼女の運命をさらに苛酷なものにさせている。彼女がウィリアムをはねつけたのは、彼女の頑固さと無知にも原因があり、さらには宗教的な信念からくるかたくなさもその一因になっている。その意味では彼女の側に非があったとも言えるが、作者の意図はエスターの性格を非難することではなく、そういうかたくなな娘を作った社会を批判することにあると思われる。字も読めないほど無学で貧しい娘が判断を誤ったとしても、彼女ばかりを責められまい。

  むしろ作品は、子供を抱えて必死に生きようとするエスターを冷たくあしらう世間に、読者の目を向けさせている。私生児を生んだというだけでふしだらな女と見なされ、ほとんどの家から仕事を断られてしまう。彼女の希望は子供だけなのだが、使用人の務めを果たすためには他人に子供を預け、離れて暮らさなければならない。自分が食べて行くだけでなく、子供の養育費も捻出しなければならない。この最悪の逆境にあって彼女を支えていたのは、何としても子供を一人前に育てなくてはいけないという思いだった。どんなことをしてでも自分は生き抜き、自分の身を削ってでも子供を育てるのだ、それまでは絶対に死ねないという決意、この決意があってこそ1日17時間の労働といった奴隷並の苛酷な労働にエスターは耐えられたのである。このたくましさ、しぶとさは、それまでのヒロイン像とは大きく掛け離れている。この決してくじけないしぶとさが、エスターというヒロインの最大の魅力である。

  エスターは現実的な女だった。生きるためには信仰よりも生活を優先した。競馬と賭け事を罪深いことだと感じながらも、「夫に従うのは妻の務め」と信じるエスターはあえて夫の仕事に口を出さない。最後まで信仰を失いはしなかったが、生活に追われてしばしば信仰を忘れかけていることもあった。信念よりも生活を優先させるこの現実的な考え方、この考clip-cathedral1 え方が彼女の活力の源である。作者はエスターにふれて「だがこのプロテスタンティズムの信仰を凌いで人間性があり、20歳という彼女の年齢が彼女の内部で脈打っていた」と書いているが、これは『ジェイン・エア』のヒロインと彼女がローウッド校で出会った薄幸の少女ヘレンを思い出させる。信仰心の篤いヘレンは不当ないじめに対しても聖書的な諦めの境地でじっと耐えている。しかしジェインは神の世界ではなく現実に生きる女性であり、不当なことには歯向かって行く。エスターはヘレン的信念と忍耐力を持ったジェインである。信仰を最後まで失わず、厳しい試練に耐える忍耐力を持ち、かつ現実と前向きに戦う力をもったヒロインだ。「夫に従うのは妻の務め」と信じる古いタイプの女であるエスターは、『余計ものの女たち』のローダ・ナンたちからはあざ笑われるだろうが、彼女には戦闘的なフェミニストも舌を巻くほどの力強さがある。

  エスターの現実的な面は金銭面にも現れている。彼女が常に気にする金銭の額は、ジェイン・オースティンの世界に出てくる何千、何万ポンドという額ではない。主にシリング(1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス)単位の額で、時にはほんの数ペンスしか手元に残っていなかったりする。『エスター・ウォーターズ』にはいやと言うほど金銭の額が出てくるが、それはもちろん彼女が金に卑しいからではない。賭け事を商売にしているウィリアムも絶えず金銭を気にしているが、彼のお金に対する意識とエスターの意識とは全く違う。ウィリアムが競馬に入れあげるのは別に生活が苦しいからではない。それに対してエスターにとっての金は、ギリギリ生活してゆくための、自分と息子を生きながらえさせるための生活資金だった。まさに生命線である。だからたとえ年14ポンドの仕事があっても、年16ポンド以上の仕事先が見つかるまで我慢するのだし、本当に困ったときには低賃金の仕事でもひきうけるのだ。

  ジョージ・ムアはどうしてこのようなヒロインを創造できたのだろうか。恐らく本文にあるように、「上流の人々が使用人たちを一段と劣った人間と考えていることを、エスターは知っていた。しかし人間は皆、同じ血と肉で作られているのだ」という考え方が作品の中で貫かれているからだろう。翻訳書の解説に、「彼女に破滅の道を辿らせなかったのは、作者がその戦いに高貴なものを見たからに他ならない」という指摘があるが、確かに作者がエスターというヒロインに魅力を感じていなければこの作品は成り立たなかっただろう。彼女のような身分の登場人物は、それまでなら夜の女に身を落とし、惨めに死んでゆくという運命を辿ることが多かった。エスターは勤勉と倹約の精神と堅実さ、そして夫と子供に尽くす女という、まさに「家庭の天使」そのものの価値観を持った伝統的タイプの女性だが、そこに作者が現実に立ち向かうしぶとい生活力をもった女を見いだしたとき、かつてないタイプの新しいヒロインを彼は作り出したのである。ただ、無教育で文盲であるはずのエスターがきちんとした標準語を話しているところに、時代の制約がまだ残ってはいるが。

  『日陰者ジュード』のヒロイン、天使のように自由なスー・ブライドヘッドは、結局社会の圧力に跳ね返され、敗北する。彼女の敗北は伝統的価値観がいかに強固で呵責ないものかを示している。エスターは敗北しなかった。踏まれても踏まれても庶民は雑草のようにまた起き上がってくるのだ。

2006年1月27日 (金)

イギリス小説を読む⑤ 『エスター・ウォーターズ』その1

aimiku-ajisai 今回のテーマ:最下層出身ヒロインの戦い

<ジョージ・ムア著作年表>
George Moore(1852-1933)  
 1885  A Mummer's Wife  
 1888  Confessions of a Young Man 『一青年の告白』(岩波文庫)
 1894  Esther Waters          『エスター・ウォーターズ』(国書刊行会)
 1898  Evelyn Innes

<ストーリー>
  物語はエスターが英国南東部のある駅のプラットフォームに立っているところから始まる。その時エスターは20歳。「がっしりした体格で短いたくましい腕をして」いる。エスターはバーフィールド家に住み込みで奉公するためにやってきたのである。人に仕えるのは初めてではないが、バーフィールド家ほどのお屋敷に勤めるのは初めてであり、不安げな様子である。屋敷の手前でウィリアムという若い男に道を尋ねた。たくましい体格の男で、彼はバーフィールド家の料理長であるラッチ夫人の息子だった。

  エスターはすぐに女中仲間のマーガレットと仲良くなり、バーフィールド家の人々も幸い良い人たちで、エスターは安定した生活を送る。バーフィールド夫人は農夫の娘で、領主に見初められて結婚した人だった。エスターと同じ宗教の信者だったこともあり、エスターには優しくして何かとかばってくれた。字を読めないエスターに字を教えてくれたりもした(結局ものにならなかったが)。バーフィールド氏と息子のアーサー、そして執事のジョン・ランダルやウィリアムたちは競馬に夢中だった。バーフィールド氏は自分の馬をレースに出しており、アーサーは騎手であった。しかしエスターは信仰心のあつい娘で、賭けは罪深いことだと考えていた。

  エスターの両親はプリマス同胞教会の熱心な信者であった。しかし父は早く亡くなり、母親は再婚をした。再婚後次々に子供が生まれ、母親は貧血状態になり健康が衰えていた。エスターは小さな乳母のように妹や弟の面倒を見、母親が心配のあまり学校にも通わなかった。だからエスターは読み書きができないのである。継父のソーンダーズは機関車にペンキを塗る職人で、酒が好きだった。大家族を養うためにエスターは17歳になると奉公に出された。わずかな給金で散々こき使われて来た。

  平穏な生活に少し退屈を感じ始めていたころ、ウィリアムがエスターに近づいて来た。ある日ウィリアムにお前は俺の女房だと言われ、その言葉に酔っているうちに肉体関係を結ばれてしまった。はっと気が付いて逃げ帰ったエスターは、その後ウィリアムを許せず、何度ウィリアムが話しかけて来ても相手にしなかった。ウィリアムは不誠実な男ではないが、エスターは持ち前の頑固でかたくなな性格のため、簡単にはウィリアムを許せなかった。一方ウィリアムは何日たっても態度が変わらないエスターの頑固さにうんざりして、勝手にしろという気持ちになっていた。彼はペギーという別の女性と付き合い始め、ついには二人で屋敷を出て行ってしまう。

  しばらくは周りから同情されていたが、そのうち妊娠していることにエスターは気づく。首になる不安に駆られながら、エスターは次の給金が出るまで腹が大きくなっていることを隠し通す決意をする。子供が七カ月ほどになった時、エスターはバーフィールド夫人に事実を打ち明ける。夫人も同情してくれたが、さすがにエスターを屋敷に置いておくことはできなかった。やめた後の苦労をおもんばかって特別に四ポンドを与え、再雇用に必要な人物証明書も書いてくれた。雨と風が吹き荒れる日、エスターはバーフィールド家の屋敷を去った。

  エclip-lo6スターはとりあえず行くところもないので、親の家に戻った。家では小さな妹たちが内職でおもちゃの犬を作っていた。子供が多すぎて、かつかつの生活なのである。父親は場所がないからと言ってエスターを家に置くことを認めなかった。しかし、エスターが部屋代として週に10シリング払うというと、コロッと態度が変わり、置いてもらえることになった。父親は部屋代のほかにエスターから酒代をしばしばせびった。当時病院に入院するには病院に寄付をしている人からの紹介状が必要だった。しかし、エスターが未婚の母だと知ると次々に断られ、散々歩き回ったあげくようやく紹介状を手に入れることができた。わずかな蓄えも尽きかけたころようやく子供が生まれた。

  エスターは男の子を産んだ。出産後妹の一人が病院に来て、母親が死んだと伝えた。実は、母親も同じ時期に出産を控えていたが、子供たちのめんどうを見なければならなかったので、家で出産したのだった。しかし度重なる出産で体が弱っていた母親は、死産のうえ弱り切って死んでしまったのである。エスターは母親の葬式にも出られなかった。父親は子供たちを連れオーストラリアに行ってしまった。

  エスターはついに一人きりになってしまった。しかもベッドが足りないからと病院からも追い出される。それでもエスターは乳母の仕事を何とか見つけた。勤めの間スパイヤズ夫人に子供を預けていた。しかし赤ん坊のことが気になって仕方がない。だが女主人は週末にエスターが赤ん坊に会いに行くことを許さなかった。エスターは自分の前の二人の乳母が、二人とも預けていた赤ん坊を死なせたことが気になった。「この裕福な女の子共が生きるために、二人の貧しい女の子供たちが犠牲にされた」のだ。エスターには真実が見えて来た。

   あたしのような者の口から申すことではございませんが、そんなおっしゃり方をする
 奥様はよこしまな方です。たとえててなし子でもそれは子供が悪いんじゃございませ 
 んし、ててなし子だからといって見捨てられてよいものではありませんし、見捨てろと
 おっしゃる権利があなたさまにあるわけではございません。もしあなたさまが最初に 
 わがままをなさらず、ご自分の赤ちゃんにご自分でお乳をあげなすったならば、そん
 なことをお考えになりませんでしたでしょう。ところがあたしのような貧しい女を雇って、
 本来は別のこのものである乳を自分の子供にやらせるようになさると、もう見捨てら
 れたかわいそうな子供のことは何もお考えにならないのです。そんな子は私生児な
 んだから、死んで始末がついたほうがいい、とおっしゃるのです。...結局こういう
 ことなんです。あなたさまのような裕福な方々がお金を払って、スパイヤズさんのよ
 うな人たちがかわいそうな子供たちの始末をする。二、三回ミルクを替え、少しほっ
 たらかしにする、そうすれば貧しい奉公人の女は自分の赤ん坊を育てる面倒がなく
 なって、金持ちの女の飢えた赤ん坊を見事な子供に仕立て上げることができるんで
 す。

  エスターは首になった。一文なしで、奉公先も失ったエスターにはいよいよ救貧院しか行くところがなかった。何としても子供を救貧院に入れたくはなかったが、ほかに道のないエスターは仕方なく救貧院に入った。救貧院には年14ポンド以下の求人しかこないが、人づて にやっと年16ポンドという仕事が見つかった。一日17時間の苛酷な雑働きの仕事だった。気が狂うほど働いてエスターは結局その仕事を辞めた。次に見つけた奉公先は2年続いたが、子供がいることが分かり「だらしない女」は置いておけないと首になった。その後エスターはいろんな奉公先で歯を食いしばって耐えながら働いてきた。だが長く続かない。主人の息子に追いかけ回され解雇させられたこともあった。去って行くエスターに「器量のよい女中を置くことは危ない」という女主人の声が耳に入った。それでもエスターはくじけなかった。

  それはまことに壮烈な戦いだった。下層の者、私生児である者にむかって文明が結
 集させるすべての勢力を敵にまわして子供の命を守ろうとする母親の戦いだった。今
 日は働き口を得ていても、それが続く保証はない。自分の健康が頼みの綱で、それに
 もまして運と、雇い主の個人的な気まぐれにみじめにも左右された。街角で見捨てら
 れた母親がぼろのなかから茶色の手と腕をさしのべ、小さい子供たちのために物乞
 いをしている姿を見ると、彼女は自分の生活の危うさを思い知らされた。三か月職に
 あぶれてしまえば、自分もまた路上にさまよう身となるだろう。花売り、マッチ売り、そ
 れとも--

  「それとも--」の後には言うまでもなく「売春婦」という言葉が続くはずだ。確かに一歩間違えばエスターはそこまで転落しかねなかった。

   売春婦たちはいつもより早い時刻に郊外を後にし、白い服を腰のまわりになびか
 せ羽毛のボアを歩道から数インチのあたりまで垂らして、フラムからはるばるやって
 来ていた。だがこの優雅な装いの奥に、エスターは女中だった少女を認めることが
 できた。彼女たちの身の上は自分の身の上だった。どの娘も捨てられて、おそらくそ
 れぞれが子供を養っているのだった。だが彼女たちは働き口を見つけることにかけ
 てエスターほど幸運に恵まれなかった。違いはそれだけだった。

  当てもなくロンドンをさまよっているときに、エスターはバーフィールド家で一緒だったマーガレットに偶然出会う。マーガレットはバーフィールド家が競馬で破産したと教えた。

  エスターは次にミス・ライスという女性に雇われる。子供の養育費を考えるとどうしても年clip-window2 16ポンド以上はないとやっていけないと計算したエスターは、14ポンドと提案したミス・ライスに大胆にも16ポンドを要求した。以前救貧院にいたこと、未婚の母であることを正直に打ち明けたエスターを気に入り、ミス・ライスは彼女を雇った。しかも苦しい中で子供の養育費も込めて18ポンド出してくれたのである。ミス・ライスとはうまくやって行けた。そのうちエスターはフレッド・パーソンズという文房具を扱う男と知り合った。同じプリマス同胞教会の信者であるフレッドはエスターを好きになる。エスターは28歳になり、結婚するには潮時だった。週30シリング稼ぐフレッドは結婚相手として悪くなかった。敬虔な信者であるフレッドは、彼女の過去を知っても結婚の意志を変えなかった。

  ところが思いがけずエスターは彼女の子供の父親であるウィリアムとまた出会ってしまった。彼は今はペギーとも別居していて、エスターに結婚を迫ってきた。エスターは悩んだ。貧弱な体格で、堅実ではあるが宗教的信念により考えが狭いところがあるフレッドを選ぶか、昔の恨みはあるが、子供の父親であり、たくましく、競馬の賭け元をして3000ポンドの財産があるウィリアムを選ぶか。息子のジャックは死んだと教えられていた実の父が現れて最初は戸惑っていたが、しだいになついていった。ついに結婚したらエスターと息子のジャッキーに500ポンドやると言われて、エスターの決意が固まる。かくしてエスターはウィリアムの経営するパブの女主人になった。彼女がパブを切り盛りし、ウィリアムは競馬の賭け元の商売に精を出した。ジャッキーは親元を離れ学校に通っていた。ウィリアムは賭けごとをしているが、誠実でまじめな男だった。その後数年間エスターの幸福な時期が続いた。

  だが、その幸福も長くは続かなかった。ウィリアムは競馬場から競馬場へとまわり歩くうち、ある冬の寒い日に雨に濡れて風邪を引いてしまった。体をこわし外で商売ができなくなったウィリアムは、自分のパブで非合法に馬券を売り始める。そこへ、かつて結婚まで考えたフレッドがやってきて、このまま闇で馬券を売っていると危ないと警告した。彼はあくまでも誠実であり、エスターを救おうと思って忠告したのである。しかしエスターは、いまだに信仰心をなくしてはいなかったが、自分には「夫と子供があり、それを大事にするのがあたしの務めです」と答える。もちろんエスター自身は競馬や賭け事を罪深い事だと思っていたので、夫にフレッドが言ったことを伝え、自分からも闇の馬券を売るのを止めるよう説得した。しかしウィリアムは逆に怒り出し、やめようとはしなかった。ただし、営業停止はこわいので慎重に客を選ぶよう用心することにした。

  だが、ある時おとりの客に馬券を売ってしまい、警察に検挙されてしまう。営業停止になり、店を手放さざるを得なくなった。エスターは7年間必死で働いたのに、結局何も後に残らなかったと嘆く。ウィリアムの体調も日増しに悪化し、今ではやけくそぎみに自分で競馬に賭けているが、負けがこんでいる。医者に見せるとウィリアムは結核にかかっており、エジプトに行かなければ命はないと言われた。しかしエジプトに行く金が無いので、一か八か彼は最後の賭けを始めた。一時は大穴を当てたりしたが、最後の最後にすべてを失ってしまった。エスターは死ぬ前に息子に会いたいという夫のために、学校へジャッキーを迎えに行った。スクスクと育った息子を見て、彼女は「この子のために生きなければならない。たとえ自分自身は人生に未練がなくとも」という思いをかみしめる。ウィリアムはジャッキーにけっして競馬や賭けごとには手を出さないと約束させ、そして死んでいった。

  エスターは再び、最初と同じ駅のプラットフォームに立っていた。ほとんど財産を無くし、荒れ果てた屋敷に一人寂しく住んでいる、かつての女主人バーフィールド夫人の世話をするためにまたウッドヴューに戻ってきたのだ。ちょうど18年前の振出に戻っていた。ウィリアムが死んだ後エスターはまた無一文になり、生活のために低賃金で働いていた時、バーフィールド夫人のことを思い出したのだ。夫人は快くエスターを迎えてくれた。エスターはバーフィールド家を出た後に経験したことを夫人に語って聞かせた。「苦しい戦いでございましたし、まだ戦いは終わってはおりません。息子がきちんとした仕事につくまでは終わりません。息子が一人前になって落ち着くのを見るまでは生きていたいと思います。」

  何カ月かが過ぎ、二人は主人と女中というよりも、友達同士のようになって暮らしていた。もちろんエスターは「奥様]という敬称をやめなかったし、二人が同じテーブルで食事することもなかった。それでも二人の関係は親しいものになっていた。エスターは今が人生の一番幸せな時だと思った。ジャッキーは結局よい職には就けず、軍隊に入った。作品は軍服を着たりりしい青年が荒れたバーフィールドの屋敷にやってくるところで終わる。「彼女は自分が女の仕事をやりおおせたということだけを感じていた。彼女はジャックを一人前に育て上げたのであり、それが十分な報酬であった。」

2006年1月26日 (木)

イギリス小説を読む④ 『余計者の女たち』

garbe2 <今回のテーマ> 「新しい女」と世紀末

【1 新しい女】 
  19世紀のイギリス小説--もう少し正確に言うと、1880-90年代のイギリス小説--にはヒロイン像の大きな変化が見られる。従来の良妻賢母型ヒロインに代わって、<新しい女>と呼ばれる一群のヒロインたちが登場してくるのだ。19世紀末のイギリス小説にヒロインの変貌が見られるとすれば、それは理想の女性をめぐるイデオロギーに変化があったからにほかならない。...

  19世紀の中葉以降、結婚して良妻賢母への道を歩むことが、女にとって志向すべき理想の(もしくは、唯一の)生き方ではなくなっていたのだ。換言すれば、現実の社会で女は結婚できなくなって(あるいは、結婚しなくなって)いたのだ...。生涯未婚のままで生きることを、女の正常な生の選択肢の一つとして社会的に認知せざるをえなくなったのだ。となると、良妻賢母の理想にもとづく従来の女性の生のガイドラインは、しだいに有効性を失わざるをえない。結婚しないことが女性の生の選択肢に加わったことによって、結婚は、女のもっとも理想的な、かつ唯一の生き方ではなくなってきたからだ。

  世紀末のイギリス小説には、女の本質や役割の見直しが求められるなかで、新しいヒロインが続々と登場してきたが、こうした<新しい女>の登場をうながしたもっとも大きな要因は、19世紀後半におけるフェミニズム運動の盛り上がりであろう。イギリスの場合、近代フェミニズムの成立はメアリー・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(1792)に求められるものの、この本は結局は一時的衝撃を与えたにすぎず、広く世論を喚起するにはいたらなかった。やはりフェミニズムが一つの組織された運動になっていくのは19世紀中葉からであり、事実、世紀半ばから後半にかけて、妻の財産権の確立や中高等教育の拡大などフェミニズム運動の成果がいろいろなかたちで出てきている。この時期、フェミニズム運動活性化の動機となったのは、直接的には女性の数の過多が招いた未婚女性の経済的困窮、および潜在的には「お上品ぶり」を誇示する「道具立て」の一つに物象化された既婚女性の卑屈感など、ひとえに中産階級の女性の問題であった。

   とくに未婚女性の経済的困窮は、フェミニズム運動の導火線となったものである。19世紀の半ば以降のイギリスでは、適齢期の女の数に見合うだけの適齢期の男の数が大幅に不足し、その結果、夫を見つけられない女--俗にいう<余った女>--が大量に出現した。彼女たちは経済的自立を図る必要に迫られたが、当時レディがレディの身分を失うことなく就ける仕事は、ガヴァネスの仕事しかなかったのである。しかし、かつてないほど大量の未婚女性がガヴァネスの口を求めるとなれば、需要と供給のアンバランスから、雇用条件の悪化は避けられない成り行きだろう。失業、病気、高齢化によるガヴァネスの経済的困窮を背景に、その救済策を模索する動きは、教育の機会および職業の選択における男女不平等の現実を揺さぶる大きなエネルギーを生み出さずにはおかない。こうして、ガヴァネスを中心とする<余った女>の経済的問題を口火としたイギリス・フェミニズムの運動は、やがて高等教育の拡大・選挙権の獲得・道徳におけるダブル・スタンダードの見直しへとめざましい闘いを展開していく。

  この三番目の領域--すなわち、道徳におけるダブル・スタンダードの見直し--におけるフェミニズム意識の盛り上がりこそ、小説が<新しい女>探求に本領発揮の機を得た背景であった。なぜなら、ダブル・スタンダードが問い直され、男と女の関係における新しい性のモラルが求められるとき、<女なるもの>の修正は必然であろう。このとき、小説は、愛や結婚や家族を通して両性関係および<女なるもの>を探求する有効な手段として、欠くべからざる役割を果たすことになる。
  川本静子『<新しい女たち>の世紀末』(みすず書房、1999年)より

【2 イプセンの『人形の家』と魯迅】
  ノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(1828-1892年)の戯曲『人形の家』は1879年に発表され、世紀末のイギリスにも大きな衝撃を与えた。ヒロインのノラ・ヘルメルは平凡な主婦であった。子どもを甘やかし、夫にかわいがられ(「ヒバリ」や「リス」や「かわいいのらくら鳥」などと夫に呼ばれて喜んでいる)、金遣いが荒い。夫のヘルメルも間もなく銀行の頭取になることが決まり、彼女の前途は順風満帆であるかと思われた。そこにクログスタットという男が現れてから、不吉な影がさしはじめる。彼は彼女が書いた借用書に不備があることを理由に、彼女を脅し始めたのである。

  いよいよ夫に知られるという段階になって、彼女は一大決心をする。ノラは、それまでの自分が夫のただの慰みものに過ぎなかったことを悟り、家を出て行くと夫に宣言する。「あたしは実家で父の人形っ子だったように、この家ではあなたの人形妻でした。」お陰で自分は何も知らない、何もできない人間になってしまった。だからまず「自分自身を教育しなければ」ならない。世間を知るために世間に出て行くのだと。夫は妻の「神聖な義務」、つまり夫に対する、そして子どもに対する義務を怠るのかと問い詰めるが、ノラは自分にはもう一つ同じくらい神聖な義務がある、つまり自分に対する義務だと言って引かない。そして「奇跡中の奇跡」、つまり「二人の共同生活が、そのまま本当の夫婦生活になれる時」が訪れない限りは、自分たちは永久に他人だと言い放ってノラは出て行く。    (新潮文庫版より)

  この作品が発表されると、賛否両論が沸き起こった。ノラの女性としての「目覚め」が唐突すぎる嫌いがあるが、それでも当時としては衝撃的なヒロインの登場だった。しかし、ノラは家出をした後どうなったか。それを取り上げて論じたのは中国の作家魯迅だった。

  魯迅は「ノラは家出してからどうなったか」と題した講演で、ノラには実際二つの道しかなかったと論じた。堕落するか、そうでなければ家に帰るかである。「人生にいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」である。「夢を見ている人は幸福」だ。確かに道が見suzu4 つからないときは、必要なのは夢である。しかし将来の夢を見ては行けない。必要なのは現在の夢である。実際、ノラは「覚醒した心のほかに、何を持って行」ったのか。何もない。はっきり言えば「金銭が必要」なのだ。「自由は、金で買えるものではありません。しかし、金のために売ることはできるのです。」したがって、経済権が最も大切である。「第一に、家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、第二に、社会にあって、男女平等の力を獲得することが必要です。残念ながら、その力がどうやったら獲得できるか、ということは、私にはわかりません。やはり闘わなければならない、ということがわかっているだけであります。」  (『魯迅文集3』ちくま文庫)

  魯迅の指摘は極めて示唆的である。魯迅はノラの姿勢を否定したわけではない。どんなに高い志があっても、経済的な裏付けがなければ結局は失敗すると言いたかったのだ。夢も必要だが、夢は闘って実現するのだと言いたかったのである。夫や親に頼る以外、何の経済的基盤も持たない女性の立場がここで示唆されている。ノラや『日陰者ジュード』(トマス・ハーディ)のヒロイン、スーの後にも古い鎖を断ち切ろうとした多くの女性が続いた。しかし「人形の家を出た女たち」の歩んだ道は決して平坦ではなかった。20世紀に入ってもなお「二人の共同生活が、そのまま本当の夫婦生活になれる時」、「家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、社会にあって、男女平等の力を獲得すること」はまだまだ実現が困難なのである。しかしそれでも、女性たちは決して夢を見ることを止めない。夢を現実にする努力は21世紀に至るまで連綿と続けられている。

【3 ギッシングの『余計者の女たち』】
1 ジョージ・ギッシング著作年表
1884  The Unclassed             『無階級の人々』(光陽社出版)
1889  The Nether World                   『ネザー・ワールド』(彩流社)
1891  New Grub Street                    『三文文士』(秀文インターナショナル)
1892  Born in Exile                        『流謫の地に生まれて』(秀文インターナショナル)
1893  The Odd Women                    『余計者の女たち』(秀文インターナショナル)
1898  Charles Dickens                    『ディケンズ論』(秀文インターナショナル)
1901  By the Ionian Sea           『南イタリア周遊記』(岩波文庫)
1903  The Private Papers of Henry Rycroft 『ヘンリ・ライクロフトの私記』(新潮文庫)
1906  The House of Cobwebs        『蜘蛛の巣の家』(岩波文庫)

2 『余計者の女たち』:二人のフェミニストと堕ちた女
  『余計者の女たち』の主人公は3人の女性たちである。ローダ・ナンとメアリー・バーフットという二人のフェミニストとモニカ・マドンである。モニカ・マドンは医師の娘で、6人姉妹(アリス、ヴァージニア、ガートルード、マーサ、イザベル、モニカ)の末娘である。父が800ポンドを残して早く亡くなった時から、姉妹たちの苦労は始まる。いずれも結婚前であったため、ガヴァネスなどをして暮らしを立てていた。800ポンドの遺産は少ない額ではないが、6人では足らず、将来の不安からには元金には手をつけずに利子で細々と暮らしていたのである。ガートルードとマーサは苦労の末に亡くなり、イザベルは自殺してしまう。アリスとヴァージニアはガヴァネスやコンパニオンをしていたが、ともにオールド・ミスで一生を送る。ヴァージニアは人生の悲惨さに耐え切れず、アル中になってしまう。

  姉妹たちの希望は末の妹で、一番の美人のモニカだった。彼女だけは結婚する。しかし、彼女の早まった結婚は結局失敗だった。彼女は姉たちのようになりたくなくて良く考えずに結婚してしまったのである。「姉たちはとても惨めで、彼女たちのようにつらい人生を生きなければならないのかと思うと、ぞっとしてしまったんです...」夫のエドマンド・ウィドソンは異常なほど嫉妬深いうえに(ほとんど今で言うストーカーである)、古い価値観の持ち主だった。「妻とは権利と義務を持った個人でもあるのだということは、ウィドソンには考えもつかないことだった。彼が言うことは、すべて自分が一段上なのだということを前提としていた。命令するのは自分で、従うのは彼女である、それが当然だと思っていた。」

  彼は「女の世界は家庭だよ、モニカ」と妻に言い聞かせ、彼女に読みたい本も読ませず、結婚前からの友人との交際も認めない。「家庭の天使」は「牢獄の女囚」にほかならなかった。彼女はあまりの窮屈さに、自由を求め始める。そんな彼女を感化したのは先の二人のフェミニストたちだった。彼女は必死に夫に訴える。「エドマンド、男と女の間には本質的な相違は大してないと思ってますの。」「もっと自由がないとそのうち人生が重荷になってしまいます。」夫は法を法とも思わぬのかと詰め寄る。彼の言う「法」とは「夫たる者の指導に従うように命じている法律」である。このような夫からモニカの心は離れ、ビーヴィスという若い男に引かれて行く。駆け落ちする寸前まで行くが、結局ビーヴィスは遊び程度のつもりだったので、逃げてしまう。失意のモニカは夫の「家を出て」姉の元に行く。その時彼女の中には夫の子どもが宿っていた。夫の疑念が解けないまま、モニカは女の子を産んで死んでしまう。

  ローダ・ナンはモニカよりも10歳年上である。自信と知性にあふれ、挑戦的な表情をした女性だ。彼女もガヴァネスをしていたが、うんざりして止めてしまう。代わりに速記、簿記、ビジネスレター、さらにはタイプライターまで習った。ついには女子のための職業訓練所の共同経営者になってしまう。そのもう一人の経営者がメアリ・バーフットである。二人とも当時の最先端のフェミニストだが、ローダ・ナンの方がより過激である。メアリー・バーフットは温和な改良主義者だが、ローダ・ナンは結婚を否定する女性である。この二人の会話は当時のフェミニストたちの考え方や振る舞い方をよく伝えている。二人の論争場面などはそれまでの小説では考えられなかったものである。

 ローダはメアリー・バーフットのいとこであるエヴァラード・バーフットに言い寄られるうちに、しだいに彼に引かれて行く。しかしある誤解がきっかけでローダの気持ちが変わり、結局彼女はバーフットの求婚を断る。バーフットは遺産が入り、1500ポンドの年収がある。玉の輿のケースだ。しかしローダは結婚しないことを選んだ。ここに結婚を拒否し、自分の信念に従い独身を通すヒロインがついに登場したのである。

2006年1月25日 (水)

村の写真集

_0372004年 日本
監督・脚本:三原光尋
撮影:本田茂
音楽:小椋佳
出演:藤竜也、海東健、宮地真緒、甲本雅裕、桜むつ子
    吹石一恵、大杉漣、原田知世、 ペース・ウー

  僕がまだ学生の頃だったろうか。理由は忘れたが父と常磐線に乗っていた。窓の外は延々田んぼが続く。「茨城は本当に田舎だな」と思わず僕が言うと、その言葉に馬鹿にしたような響きを感じ取ったのだろう、父がすかさず「田舎がなければ人は生きてゆけない」と言った。その言葉にはっとなった。確かに都会人は旅行に行くときには必ず田舎に行く。普段は便利な都会に住んでいるが、羽を伸ばそうと思ったときには田舎に行く。日本中すべて都会ばかりだったならば、人間は一体どこでほっと息をつくのか。

  「村の写真集」は日本版「山の郵便配達」である。父と息子が並んで山を歩くという意味でも、父が息子に何事かを伝えるための「旅」という意味でも、そして「親父の背中」映画という意味でも。ダムに沈もうとしている村の人々を写真に残すために、村の写真家が東京から呼び戻した息子を連れて山を歩いて上り、一軒一軒家を訪ね歩いてゆく。舞台となった徳島県の山間部、池田町、山城町、西祖谷山村などの風景が実に美しい。親父は何も言わず、教えず、ただ黙々と山を登り写真を撮る。息子は反撥を感じながら親父についてゆき、その背中から何かを感じ取る。昔ながらの親父気質、不言実行。そして昔ながらの職人気質、習うのではなく見て盗め。

  ここで問題提起を一つ。なぜ美しい村の風景ではなく、村人を撮るのか。答えはいくつか考えられる。美しい山村の景色をこれでもかとばかり撮れば却ってそのインパクトが失われるし、単なる徳島観光案内映画になってしまいかねない。ストーリーも痩せてしまうだろう。幸い「村の写真集」は適度に美しい風景を織り込む程度で抑えているために、ところどころ映し出された山の風景がかなりのインパクトを与えている。そしてもう一つの理由は、恐らく「山の郵便配達」を意識しているからだ。手紙などの郵便物は人と人をつなぐ「絆」である。郵便配達は一軒一軒回りながら家族の近況を伝えたり、祝い事や親の死などを伝える。美しい山は単なる風景ではなく、人間が済み生活を営んでいる生活の舞台である。あくまで人間が主役なのである。郵便配達が歩く道は人々をつなぐ線である。美しい風景を撮るだけなら人と接する機会はそれだけ減る。いやでもドラマは父と息子の関係だけに絞られてしまう。だから「村の写真集」も単なる風景ではなく人間を撮るのだろう。

  父親は体が病で弱っていたにもかかわらず、頑固に険しい山道を歩き、一軒一軒訪れて写真を撮り続ける。息子の孝は車で行った方が能率的だろうというが、父親は自分の信念を変えようとしない。何度も父親と撮影を共にしてようやく息子も「歩かないと見えてこないものがある」ということに気付く。車で行っては見過ごしてしまうもの。それは何だろうか。父親が山を降りる途中息子を案内した絶景のビュー・ポイントがあった。これもその一つだろう。もちろんそれだけではない。山の斜面に住む人たちが毎日のように上り下りする山道、その苦労を自ら体験しなければ彼らの生活を撮れない。そういう考えもあっただろう。韓国映画「おばあちゃんの家」で何度も家の前の斜面を上り下りするおばあちゃんの姿が重なる。何気なく咲いている道端の花や微妙な季節の変化なども歩きでなくては気付かない。あるいは、わざわざ重い機材を抱えて山道を上り下りする苦行に精神修行の様な重みを込めるという意味合いもあるかもしれない。歩けなくなった父親を背負う場面にはその色合いが濃厚だ。日本人には割合すっと入ってくる考えかたである。彼らの歩みは映画自体のゆったりとしたリズムと重なる。時間がたゆたうように流れてゆく。

  「山の郵便配達」を意識している以上、描かれるテーマも共通している。村に住む人々との心の通い合い、父と息子の葛藤と絆、家族の絆、故郷の風景へのノスタルジア。「山の郵便配達」はこれらのテーマを実にバランスよく描いていた。しかし「村の写真集」は「山の郵便配達」と比べると、村人との交流が十分描けていない。「山の郵便配達」にはなんでもないことながら、印象深いシーンがたくさんあった。手紙を届ける際にちょっと交わす一言、あるいは字が読めない老人に手紙を音読してやる、等々。「村の写真集」でこれに匹敵するのは戦争で亡くした息子の写真を大事に抱えて息子の帰りを待つ老婆(桜むつ子)のエピソードくらいではないか。「帰ってきた時に私がいないと寂しいだろうから」と言って村を離れようとしない。写真屋親子はもっと村人と言葉を交わすべきだった。ただ人々の写真を撮るだけではなく、そこに人々の生活や思い出を映しこむべきだった。だが、むしろ写真を撮る父親の姿を映してしまう。なぜならそこにどうしたらいい写真が撮れるのかというテーマが絡んでくるからである。その結果父子の関係の方に力点が置かれる。

  ところがこの父子、演技力からいえば相当なアンバランスがある。父親役の藤竜也はしだいに体が弱ってゆくにもかかわらず、決して信念を曲げない頑固な父親像を余すところなく演じきった。近年の彼は渋さが光る。この映画は彼でもっているようなものだ。藤竜也は息子役の海東健と「海猿」でも共演しているが、そこでも経験豊かで、厳しさの中に人間的深みを感じさせる教官役を見事に演じていた。年を取るに従い渋みと重厚さをにじませる味のある俳優になってきた。一方の海東健はさっぱり印象が残っていない。藤竜也と比べると海東健は格段に見劣りすると言わざるを得ない。

  父親の写真の技術はよく分からないが、写真を撮る際の掛け声が驚くほど様になっている。自信に満ち、力強い声。つられて撮られる方もつい笑顔を見せてしまう。観ている観客もあれならいい写真が取れたに違いないという気になってしまう。そして父親は撮った後必ず「ありがとうございました」とお礼を言う。つまるところ写真は技術ではないと言っているのである。どううまく撮るかではなく、映される人たちの自然な姿をどう引き出すか、ここに、技術的には長けている若い息子には乗り越えられない父親との大きな隔たりがある。父親は何十年farmhouseも前の古いカメラを使っている。技術云々ではない(もちろん十分な技術を持っているに違いないが)。父親は最後の一枚は山の男たちを撮ると決めていたが、病に伏せ息子にその大役をになわせる。息子が撮った「最後の一枚」にはいらいらした気持ちが顔に表れた人たちが映っていたのだろう、自分の写真が父親の撮った他の写真に遠く及ばないことに息子は気付く。少なくともそれが分かる程度にまで彼は成長していた。同じ息子が撮った写真でも、魚を釣った子供たちは本当にうれしそうに映っていた。無理やり作らせた笑いではなく、自然に湧き出てきた笑みだったからだ。だから息子も写真に撮らせてほしいと思ったのだし、実際いい写真が撮れたのである。

  どうしても父親でなければ山の男たちの写真は撮れない。息子は病床の父に無理やり頼み込み、もう一度山に登る。足が弱っている父親は途中でうずくまり、息子が背負ってゆく。ここも明らかに「山の郵便配達」の有名な場面を意識している。そして父親が撮った村の「最後の写真」。被写体は同じなのに明らかに違った写真になっている。息子はこの父親の背中、いや、父親の掛け声とシャッターを押す指先、そして映される人たちとの呼吸の合わせ方から何かを学んだであろう。父親がカメラの横に立っただけで映される男たちの顔には自然に笑みが浮かんでくるのである。

  しかし藤竜也がこれほど好演しているにもかかわらず、全体としてみれば「村の写真集」は傑作とはいえない。「山の郵便配達」と比較すれば映画の出来は明らかに劣る。一番の欠点は脚本と演出の甘さだ。簡単に先が読めてしまう展開。何箇所かある山場もありきたりである。孝の姉が最後に帰ってくることも予想できてしまう。予定調和へと向かう予想通りの展開で、いい意味で裏切られることがない。孝の台湾人の恋人のエピソードにも必然性が感じられない。それにどうしても「山の郵便配達」の二番煎じという印象がぬぐい去れない。

  それでもこの作品には魅力があることを率直に認めたい。「ALWAYS三丁目の夕日」が都会のノスタルジーを誘う映画だとすれば、「村の写真集」は郷愁を誘う日本の風景へのノスタルジーを描いた作品である。もっとストーリー展開に工夫がほしいという思いは残るが、さわやかな余韻を残すいい映画である。

   僕はタイとかベトナムとか、日本以外のアジアの国を旅行するのが好きなんです。
 向こうの国って経済的には貧しいけど、その分、家族の絆がある。食卓には大勢の
 家族が集まり、みんなで一緒にご飯を食べている。今の東京ではまず見られないん
 じゃないかな。みんな携帯電話の液晶を見ることに必死になって、周りに目を向けて
 いない。携帯電話から得る情報も必要だけど、直に人間と話さなければ得られない
 情報もいっぱいある。僕は作品でそれを伝えていきたい。それは僕にとって変わら
 ないテーマだし、これからも描き続けていきたい部分ですね。

  三原光尋監督があるインタビューで語った言葉には共感を覚える。遠くない将来、きっと素晴らしい作品を生み出してくれるのではないか、そう期待させるものがある。

2006年1月23日 (月)

イギリス小説を読む③ 『ジェイン・エア』

angel3テーマ:結婚と身分--成功をつかんだガヴァネス

1 ブロンテ姉妹作品目録
①Charlotte Brontë (1816-55)  
Jane Eyre(1847) 『ジェイン・エア』(岩波文庫)  
Shirley(1849)  『シャーリー』(みすず書房)   
Villette(1853) 『ヴィレット』(みすず書房)  
The Professor(1857) 『教授』(みすず書房)

②Emily Brontë (1818-48)  
Wuthering Heights(1847)  『嵐が丘』(新潮文庫、岩波文庫)

③Ann Brontë (1820-49)  
Agnes Grey(1847)  『アグネス・グレイ』(みすず書房)  
The Tenant of Wildfell Hall(1848) 『ワイルドフェル・ホールの住人』(みすず書房)

2 シャーロット・ブロンテ小伝
  シャーロット・ブロンテは1816年、ヨークシャーの牧師の家に生まれる。父はアイルランドの貧農の生まれ。娘たちの結婚も阻むような気難しい男で、苦労して聖職に就いた。5歳の時に母を失う。6人の子供はみな虚弱で、一番上の二人(マリアとエリザベス)は1825年に亡くなり、1848年から翌年にかけて弟のパトリック・ブランウェルが31歳、エミリーが30歳、アンが29歳で夭折している。姉妹の中で一番長生きしたシャーロットでさえも39歳で亡くなっている。皮肉にも、早死にの一家の中で最後まで生き残ったのは父だった。1847年シャーロット31歳の時に『ジェイン・エア』を発表し評判になる。エミリーの『嵐が丘』とアンの『アグネス・グレイ』も同年に出版された。3人の代表作が同時に発表されたこの年は英文学史上重要な年である。1854年に父の補佐役だったニコルズという牧師と結婚するが、9カ月後に死亡する。

3 『ジェイン・エア』:あるガヴァネスの精神の遍歴
(1)ストーリー
  ジェイン・エアは孤児である。美人ではない。ジェイン(正式にはジャネット)の父は貧しい牧師だった。母は金持ちのリード家の娘で、不釣り合いだという周りの反対を押し切って結婚した。母の祖母は怒って一文も財産を譲らなかった。結婚1年後に父はチフスにかかり、母も感染し、二人とも1カ月もたたないうちに相次いで亡くなった。ジェインは母方の伯父リード氏にひきとられた。伯父は彼女をかわいがってくれたが、伯父の死後、ジェインは居候同然のひどい扱いを受けていた。女中のベッシーだけが唯一の理解者だった。

  伯母は反抗的なジェインに手を焼き、厄介払いするためにジェインをブロックルハースト氏が経営するローウッド校に入れることにした。ブロックルハースト氏に言わせれば、堅実さがローウッド校のモットーである。簡単な食事、質素な服装、簡素な設備等々を方針としている。しかし、その実態は劣悪な校舎で、寒さをしのぐ服もなく、とても食べられないような食事を子供に与えているということであった。ジェインはそこでヘレン・バーンズと仲良くなる。ヘレンは非常に頭が良いのだが、だらし無いと言われていつも先生にしかられている。ジェインが反抗的なのに対して、ヘレンはじっと耐えてしまうタイプだ。しかしジェインはヘレンから多くのことを教えられた。また、教師の中にも一人だけテンプル先生という、優しい人柄でジェインたちをよく理解してくれる天使のような人がいた。劣悪な環境のせいでローウッド校で病気がはやり、学校は事実上病院に変わってしまった。ヘレンも感染して死んでしまう。学校のひどい経営が暴露され、その後改善された。ジェインは主席で卒業し、2年間そこで教師を務めた。新しい経験をしたいと思ったジェインは家庭教師(ガヴァネス)の口を探し、ロチェスター氏の家で雇われることになった。ジェインはまだ18歳だった。

  ジェインはアデルという女の子の家庭教師としてソーンフィールドにあるロチェスター氏の屋敷に住み込むことになった。(アデルは或るフランス人女性--ロチェスターのかつての愛人だったことが後で分かる--の娘でロチェスター氏と血のつながりはない。)ロチェスターは40歳前くらいの莫大な財産を持った男で、「きびしい目鼻だちと太い眉をした浅黒い顔」をしている。がっしりとした体格と強い意志を持っているが、彼もまた必ずしも美男子ではない。ロチェスター家で初めてジェインは人間としてまともな扱いを受けた。美人のイングラム嬢とロチェスターが結婚するといううわさがあったが、実はロチェスターはジェインに魅かれていた。家庭教師をまともな人間扱いしないイングラム嬢たちと対照的に、ロチェスターは身分の差など気にもかけない。ロチェスターはジェインに結婚を申し込み、ジェインもそれを受ける。しかし結婚式の当日、メースンという人物が現れ、ロチェスターには既に妻がいることを暴露する。ジェインは以前から3階の屋根裏部屋から恐ろしい叫び声がするのを聞いており、何か謎があると思ってはいた。実は、屋根裏部屋にはロチェスターの発狂した妻バーサが監禁されていたのである。結婚式は取りやめになった。ロチェスターとしてはバーサは妻の資格はないと思っているのだが、ジェインはロチェスターが自分を情婦にしようとしたのだと考え、翌日黙って屋敷を出て行く。

  一文なしで2、3日さまよい歩き、乞食のような扱いを受ける。やっと親切な二人の女性(ダイアナとメアリ姉妹)に救われる。この二人の兄であるセント・ジョンに頼まれて、ジェインは小学校の教師になる。熱病のような情熱を秘めたセント・ジョンは宣教師になろうと決心する。そのジョンがあるきっかけからジェインの正体を見抜き(ジェインは偽名を使っていた)、彼女の伯父が亡くなりジェインに2万ポンドの遺産が入ると伝えた。またジェインは彼らの従兄弟だということも分かる。ジェインは2万ポンドを従兄弟たちと4等分し、それぞれ5000ポンドずつ分けることにした。

  ジェインは家庭教師をしていたダイアナとメアリを勤め先から呼び戻し一緒に住む。セント・ジョンはいよいよインドへ宣教師として赴くことになり、ジェインに結婚して一緒にインドに行こうと迫る。しかし、敬虔で誠実なクリスチャンであると認めつつも、セント・ジョンのなかに非情で冷酷なところがあると感じていたジェインはその申し出を断る。そんな折り、ジェインはロチェスターが彼女を呼ぶ声を聞くという、超自然的な体験をする。矢も盾も止まらなくgirl1なったジェインはロチェスターの屋敷へ行く。しかし屋敷はバーサのせいで火事になり、完全に廃墟になっていた。バーサは屋根から飛び降り死んだという。ロチェスターは召使たちを救おうとして重傷を負い、両目を失明し片手を失っていた。ジェインはロチェスターがいるファーンディーンに向かい、変わり果てた彼と会う。聞くと、彼も同じ日の同じ時間にジェインの声が聞こえたと言う。二人は再び愛を確かめ合って、結婚する。それから10年立った時点が、ジェインが語っている現在時点である。後にロチェスターは片方の目が少し回復して、見えるようになった。セント・ジョンは今も宣教師として人類のために働いている。

(2)婿捜し物語りという枠組み
  一人の人間としての成長過程、特に精神的成長が小説のテーマとなり、構成要素となる背景には、産業革命によって急速に変わってゆくヨーロッパ社会の中で既成の価値体系が崩れてゆき、従来の生き方が若い世代の青年に人生の意味を提出するものでなくなってしまったという認識がある。それは言いかえれば、既成の人生航路では達成できない人間的成長が明確に意識され始めたことでもある。・・・
  女性作家が女性の成長を扱った小説のパターンの一つに、婿捜し物語がある。婿捜しは、ヒーローとヒロインからなる「ロマンス」を貫く重要なモチーフであり、近代小説においても、人妻の恋、心理的恋愛とともに、恋愛小説の根底を流れるパターンである。・・・  婿捜しというモチーフの中心には、結婚という社会制度、そしてその制度のもたらす個人的な幸福に対する信頼がある。結婚はしなくてはならないものという思想、あるいは信念がなくては、婿捜しの物語は成立しない。同時にまた、どんな結婚でもよいのではなく、最も望ましい結婚という理想的結婚の観念が、結婚する当人、すなわち個人の幸福と矛盾対立するところに、恋愛が婿捜しから独立して取り扱われるようになる根拠の一つがあったのであるが、近代において個の主張が重要になるにつれて、結婚と恋愛はおのおの独立したテーマとして文学上扱われるようになる。・・・
  水田宗子『ヒロインからヒーローへ--女性の自我と表現』(田畑書店、1992年)

(3)ヒロインとしてのジェイン
  ジェインは美人ではない。昔も今もヒロインは美人と決まっているのだが、あえて作者は伝統に逆らって普通の容貌の女性をヒロインにした。美貌を女性の価値と見る男の価値観を引っ繰り返したかったからだろう。

  川本静子氏は19世紀の「女性問題」は、中流階級の女性に関する限り、ひとえに困窮したレディの問題にほかならないが、それは事実上「ガヴァネス問題」という形であらわれると述べている。しかし、ジェインは決して「余った女」ではない。男が見つからなくて結婚できず、ついには社会の最底辺にまで堕ちて行くという運命をたどったわけではない。彼女はロチェスターという理想の男とめぐり会い幸福な結婚をするのである。しかし、単なる通俗小説的な成功物語というわけではない。彼女は当時の価値観に大胆に反抗し、財産や身分よりも人間的な関係を求めてロチェスターに行き着いたのである。

  『ジェイン・エア』は発表当時社会的議論を巻き起こしたが、それはこの作品には当時の価値観に従わない要素が満ちあふれているからである。レディ・イーストレイクはこの作品には「高慢な人権思想」がみられ、危険な書物だと言った。孤児という運命を謙虚に受け止めるのではなく、それに不満を言うなどもってのほかだというわけだ。確かに『ジェイン・エア』は、ヴィクトリア時代の保守的な文学伝統と社会常識を脅かす要素をもっていた。

・激しい感情をあらわにする
  →不当な扱いに対する反抗、自分を認められたいという思い、自由へのあこがれ、
   知識や未知の世界に対するあこがれ
・女から求愛する。
・身分の違いを越えて結婚を考える
 →結婚:自分を金銭的な投機の対象とは考えていない、情熱や感情の一致を重視する
・男女の平等意識 
・男や社会の考えをそのまま受け入れるのではなく、自分の価値観で判断する。
 →絶えず自己批評、自己分析を繰り返しながら成長してゆく。  
 →例:ジェインは小学校で教えることになって品位を落としたと感じる
  しかしこれはすぐに克服する。彼女の考え方というよりは、社会的価値観を受け身的
  に反映したもの。
・リード一家やイングラム嬢を初めとするロチェスターが付き合っている上流家庭の人物
 はみな美男美女だが、いずれも高慢で、傲慢で、意地の悪い俗物として描かれてい
 る。それに対して、ロチェスターを自分と同類の人間だと感じる。

  しかしその一方で伝統的な側面も合わせ持っている。
・財産や身分のもつ価値を完全には否定していない
 →結局は自分よりも身分が上のロチェスターと結婚し、都合よく遺産も相続する。せい
   ぜい遺産の分け前を従兄弟たちに与えるだけだ。
  遺産相続後の生活はメアリは絵を描き、ダイアナは百科事典の読破を続け、ジェイ
   ンはドイツ語を勉強しているという優雅な生活だ。
 →作品自体も、ロチェスターに妻がいることが分かり、彼の元を飛び出す当たりから話
   の展開が慌ただしくなる。遺産が入り、バーサが都合よく死んでくれるなど、話が
   意外な方向に目まぐるしく展開して行くメロドラマ的な展開になっている。なぜ自分
   はこんな目に遭うのか、「不合理だ、不公平だ」と激しく反抗していた前半の力強さ
   はなくなっている。  
 →現実と自己が溶け合わない疎外された段階、次に現実から圧迫され悩まされる段
   階を経て、自己が現実を認識して現実に溶け込む段階へと至る、コントの「3段階
   の法則」のパターンに当てはまるという指摘がある。結局現実を何ら変えることな
   く、うまく現実の中に収まってしまうという意味では当たっている。  
 →ヘレンの聖書的諦めの境地を結局ジェインは理解できなかった。ジェインは神の世
   界ではなく現実の世界に生きる女性なのである。この点がジェインの強み(不当な
   扱いを跳ね返して行く)であると同時に限界(現実の中に収まってしまう)でもある。
・遺産を相続するとさっさと教師を辞める。
 →男に養われるという「家庭の天使」に止まらずに、経済的自立を目指す発言もしてい
   るが、それも遺産を相続するまでのこと。貧しい子供たちを教育しながら、彼らにも
   個人差があると気づいてゆくが、これも遺産が入ると人に任せてしまう。
・セント・ジョンの宣教活動がもつ帝国主義的意味に気づかない

2006年1月22日 (日)

イギリス小説を読む② 『高慢と偏見』

テーマ:婿探し物語

【ジェイン・オースティン作品年表】
Jane Austen ジェイン・オースティン(1775-1817)  
 Sense and Sensibility(1811)          『いつか晴れた日に』(キネマ旬報社)  
 Pride and Prejudice(1813)        『高慢と偏見』(岩波文庫)
 Mansfield Park(1814)                  『マンスフィールド・パーク』(集英社)  
 Emma(1815)                          『エマ』(中公文庫)  
 Northanger Abbey(1818)            『ノーサンガー・アベイ』(キネマ旬報社)  
 Persuasion(1818)             『説きふせられて』(岩波文庫)

  オースティンに続くブロンテ姉妹、ジョージ・エリオットと、19世紀の女性の一流作家が皆牧師の娘であるのは偶然ではない。牧師は大学教育を終えた当時最高の知識階級であり、蔵書も豊富で、牧師館に出入りする大勢の人々が人間を観察する機会を与えた。
   青山吉信編『世界の女性史7 イギリスⅡ 英文学のヒロインたち』
   (評論社、1976年)

【主要登場人物】
■エリザベス・ベネットElegant6
  本作品のヒロイン。ベネット家の次女。両親のほかに、上に長女のジェイン、下に三女のメアリ、四女のキャサリン、末娘のリディアがいる。父親のミスター・ベネットはしっかりした人物ではあるが、家族の騒動をはたから見て面白がっている。ミセス・ベネットは娘たちを結婚させることしか頭にない、単純な人物。金持ちでいい男が現れるたびに大騒ぎする。

■ジェイン・ベネット
  エリザベスの姉。優しく人が良くて疑うことを知らない性格。いつも相手の立場に立ってものを考える。ビングリーと引かれ合うが、途中でダーシーに仲を引き裂かれる。ダーシーが誤解に気づき、再び交際を始め、めでたく結婚する。

■ミスタ・ダーシー
  本作品の主人公。登場人物の中で最も身分の高い人物だが、無口で高慢な男と思われエリザベスに毛嫌いされる。一度エリザベスに求婚するが、冷たく拒否される。しかし様々な誤解や偏見を乗り越え最後にはエリザベスと結婚する。年収約1万ポンドの大地主。

■チャールズ・ビングリー
  ベネット家の近所に引っ越して着た青年。ジェインと恋に落ちるが、ダーシーに仲を引き裂かれる。後にダーシーの誤解も解け、ジェインと結婚する。年収4~5千ポンド。

■ミスター・コリンズ
  エリザベスたちのいとこに当たる。ミセス・ベネットと並び、本作品中最も喜劇的な人物。大仰な言葉遣いでやたらと長々しい話をして周りの人を呆れさせる。

【作品とヒロインの特徴】
1 田舎の上層中流階級の社会を描いた小説

  『高慢と偏見』は地方のアパー・ミドル(上層中流)階級を中心に描いた写実的風俗小説である。そのまま第1級の社会史の資料として使えると言われるほどであり、当時の中上流の人々の暮らしがリアルに描かれている。例えば、上流階級の社交の様子が頻繁に出てくる。当時は上流の人たちが集まると、パーティーを開いておしゃべりに花を咲かせ、飲み食いしたあげくにトランプなどのゲームをするというのが普通だった。『高慢と偏見』の中にはまさにこのとおりの場面が何度も描かれる。話の内容もだれがだれと結婚するかといった他愛のないものである。会話に知的な要素が交じることは少ない。エリザベスはあまりに情けない会話の内容に呆れることがあるが、彼女自身もあまり本を読まない女性で、学問的な会話などしていない。

  登場人物の中心をなしているのは地方の上層中流階級から上流階級の人々である(ただし貴族は登場しない)。下層の人々(召し使い等を除いて)も登場しない。一部の登場人物を除いて、大部分は一体何をして暮らしているのかと思う人たちばかりである。労働の場面や職場に出掛ける場面は皆無に近い。何をして食べているのか分からない人物が出てきたら、その人はまず地主階級だと思ってよい。彼らは地代で暮らしている(数百から数千ヘクタールの土地を持ち、これを小作人や農業経営者に貸して年に数千ポンドもの地代を取る)ので働く必要がないわけである。したがって登場人物たちは狭い田舎の社会の中で遊び暮らしているだけである。何も仕事がない未婚の娘たちは隣人との付き合いに好きなように時間を使った。友達や親類同士で何週間も、時には1~2カ月以上も泊めたり泊まりに行ったりする。労働は描かれず性道徳の観念も一律に保守的である。このような世界をおもしろく描くことができたのは、オースティンの人間観察、人間鑑定の確かさと作品構成の緻密さ、そして女性にとっての本当の幸せとは何かを真剣に追求しようとする真剣な姿勢のお陰である。「愛のない結婚は決してすべきでない」と考えるオースティンは、ヒロインのエリザベスに相手が真に自分に値する男かどうかを真剣に吟味させてゆく。これを底で支えているのは、オースティンの実に正確な人物描写である。

2 主題は結婚
  オースティンの小説はいずれも恋愛と結婚を主題としている。その主題を通じて、人生における幸せとは何か、優れた人間性やマナーとは何かが追求され、また、当時に生きる人々の赤裸々な人間模様が描き出されている。タイトルの由来はエリザベスの偏見とダーシーの高慢さを指している。ともに様々な試練と経験をへて互いにその欠点に気づき、それを矯正してゆく。もちろんダーシーにも偏見はあり(特に身分の低い者に対する偏見)、エリザベスにも自分は他の人よりもよく物事が見えているという高慢な思い上がりがある。

engle1   登場人物の多くは当時の価値観を無意識のうちに受け身的に受け入れており、当然のように有利な結婚相手を捜すことに血道を上げる。したがってオースティンの小説には年収○○ポンドという表現がうんざりするほど頻出するのである。だがそのような恋愛騒動の背後には女性には自立(自活)の道がないという厳しい現実がある。遊び暮らす女性たちの背後には、オースティンがあえて描こうとしなかった下層の人々の悲惨な現実がある。このような現実とのかかわりを極力作品の外に追いやってしまったことはオースティンの作品に一定の限界を与えてはいるが、それはまた彼女の作品の魅力でもある。実際、この作品には深刻な場面はほとんど無く、むしろ基調になっているのは喜劇的色彩である。その喜劇的要素が読者をどんどん引き込んで行く原動力の一つになっている。その喜劇的側面の中心にいるのはミセス・ベネットやミスター・コリンズという単純で分かりやすい人物である。

  エリザベスは5人姉妹であり、姉妹それぞれを描き分けることによって当時の女性の様々な考え方を複線的に描くことができる。長女のジェインと次女のエリザベスは分別があるが、下の3人は未熟な女性(まだ子供だが)として描かれている。末娘のリディアにいたっては軍隊の将校にあこがれ、ついには美男だが浮気で金遣いの荒いこの将校と駆け落ちまでしてしまう。

  ただし、ベネット家の子供は娘ばかりだったので、限定相続によって財産は男系親族(作中では従兄弟のコリンズが相続者)に取られてしまうことになっている。もし娘が売れ残ったら、分けてもらった動産の利子や、身内の情けにすがって、周りから軽蔑されながら細々と食いつないでゆくしかない。いきおい女たちは豊かな生活と社会的尊敬を維持するために、結婚をするしかなかった。他に自活の方法はなかったのである。同じような状況はオースティンの『いつか晴れた日に』(原題は『分別と多感』)でも描かれている。ダッシュウッド夫人は子供がいずれも娘ばかりのため、亡くなった夫の財産はほとんどが先妻の息子と孫息子に行ってしまう。屋敷まで取られた形で、彼女と三人の娘ははるかに小さな別の家へ移り、生活費を切り詰めて暮らすことを余儀なくされるのである。

  ただ、当時のイギリスの結婚は恋愛結婚が原則だった。親が相手を選ぶドイツやフランスとは違って、ふつう娘には夫を選択する権利が認められていた。双方の財産が等しいのが適当な結婚の条件と考えられていたが、相手の家の資産の方が多ければ娘たちにとって幸いなのは言うまでもない。

3 エリザベスの性格と魅力
  エリザベスの性格を理解するには、次回取り上げるシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』の同名のヒロインと比較するとより浮き彫りになるだろう。自己分析と自己批評を繰り返したジェイン・エアに対し、エリザベスは専ら周りの人たちを観察することに専念する。また、ジェイン・エアは必ずしも結婚を念頭に置いて行動していないが、エリザベスは結婚のことしか頭にない母親や姉妹の影響を受けて、かなり結婚のことを意識している。これはジェイン・エアが孤児として育ち散々苦労を重ねてきたのに対し、エリザベスの方は当面の生活に苦労しない(将来に不安はあるが)上流の恵まれた家庭に育ったという出発点の違いによる影響が大きい。一方、様々な経験を通して人間や世の中を見る目を豊かにし、理想の結婚相手を見いだすという点では、ジェインもエリザベスも共通している。

  エリザベスの魅力は身分が上の人たちにも物おじせず、卑屈にもならずに対等に渡り合うそのはつらつとした精神と行動力にある。5人の姉妹の中では長女のジェインと次女のエリザベスだけが分別のある人物として作者から肯定的に描かれているが、ジェインの方はしとやかな女性という類型的な描かれ方をしており、その点が型破りなところがあるエリザベスと比べると印象が薄い理由である。また、エリザベスは自分では公平で正確な判断力があると思っているが、実はダーシーの誠実さに気づかず、逆に人当たりはいいが一皮むくと浪費家で浮気もののウィカムにコロリとだまされたりと、案外誤った判断をしているところがある。完璧ではなく欠点もあり、しかも誤りに気づいたときは潔くそれを認める誠実さを持った女性として描かれていることも、彼女の人物造形に深みを与えている。

  次回はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を取り上げます。

« 2006年1月15日 - 2006年1月21日 | トップページ | 2006年1月29日 - 2006年2月4日 »

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ