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2006年9月10日 - 2006年9月16日

2006年9月16日 (土)

おしらせ

  今年も中国に出張で行ってきます。明日から1週間の予定です。コースは去年と同じ内蒙古のフフホトと大連です。その間はブログの更新が出来ません。この間せっせと書き溜めておきましたので、どうかそれでお許しを。また帰ってきましたら旅行記でも載せます。

ゴブリンのこれがおすすめ 27

アメリカ映画の巨匠たち

ジョン・フォード(1894-1973)
■おすすめの10本 Lady5_1
「シャイアン」(1964)
「リバティ・バランスを撃った男」(1962)
「長い灰色の線」(1954)
「静かなる男」(1952)
「三人の名付け親」(1948)
「荒野の決闘」(1946)
「わが谷は緑なりき」(1941)
「怒りの葡萄」(1940)
「駅馬車」(1939)
「男の敵」(1935)

■気になる未見作品
「タバコ・ロード」(1941)
「若き日のリンカン」(1939)

ウィリアム・ワイラー(1902-1981)
■おすすめの10本
「おしゃれ泥棒」(1966)
「コレクター」(1965)
「噂の二人」(1961)
「ベン・ハー」(1959)
「大いなる西部」(1958)
「友情ある説得」(1956)
「必死の逃亡者」(1955)
「ローマの休日」(1953)
「我等の生涯の最良の年」(1946)
「嵐が丘」(1939)

■こちらも要チェック
「L・B・ジョーンズの解放」(1970)
「黄昏」(1951)
「探偵物語」(1951)
「女相続人」(1949)
「ミニヴァー夫人」(1942)
「黒蘭の女」(1938) Car151bg
「孔雀夫人」(1936)

ビリー・ワイルダー(1906-2002)
■おすすめの10本
「お熱い夜をあなたに」(1972)
「あなただけ今晩は」(1963)
「アパートの鍵貸します」(1960)
「お熱いのがお好き」(1959)
「情婦」(1957)
「翼よ!あれが巴里の灯だ」(1957)
「昼下りの情事」(1957)
「七年目の浮気」(1955)
「サンセット大通り」(1950)
「深夜の告白」(1944)

■こちらも要チェック
「恋人よ帰れ!わが胸に」(1966)
「麗しのサブリナ」 (1954)
「第十七捕虜収容所」(1953)
「失われた週末」(1945)

フランク・キャプラ(1897-1991)
■おすすめの10本
「ポケット一杯の幸福」 (1961)
「素晴らしき哉、人生!」 (1946)
「毒薬と老嬢」 (1944)
「群衆」 (1941)
「スミス都へ行く」 (1939)
「我が家の楽園」 (1938)
「失はれた地平線」 (1937)
「オペラハット」 (1936)
「或る夜の出来事」 (1934)
「一日だけの淑女」 (1933)

  昔、まだ衛星放送もDVDもレンタルビデオ店すらなかった頃、どこの家庭でもテレビGskeiで映画を楽しんでいた。もちろん今より映画館に客が足を運んだ時代だが、テレビでも9時からと深夜を合わせると毎日映画を流していた。僕も高校2年から映画を本格的に観始めたが、高校の2、3年の時はほぼ毎日テレビで映画を観ていた。大学に入ってからも最初の2年間ぐらいはかなりテレビで映画を観ていた。観たいと思うだけの映画をテレビで放送していたのである。
  その頃よく放送されていたのは40年代から60年代にかけての映画だった。僕はこの時代の名作をほとんど映画で観たといっていい。上に挙げたアメリカ映画の4人の巨匠の作品もほとんどテレビで見た。どのタイトルも本当に懐かしい。ほとんど白黒映画だが、この時代のアメリカ映画は本当に充実していた。巨匠がひしめき、名前を聞けばすぐその代表作のタイトルやスタイルが思い浮かんだものだ。
  1000円以下の廉価版DVDが急速に普及し、この時代の映画が簡単に観られるようになってきた。まだヨーロッパ映画は遅れているが、アメリカ映画のラインナップはどんどん充実してきている。最新作もいいが、たまには白黒映画の名作も楽しんでみてはいかがでしょうか。

ゴブリンのこれがおすすめ 26

まだまだ現役ベテラン俳優

ジーン・ハックマン(1930-)
■おすすめの10本 066675
「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001)
「クリムゾン・タイド」(1995)
「許されざる者」(1992)
「ミシシッピー・バーニング」(1988)
「カンバセーション…盗聴…」(1973)
「スケアクロウ」(1973)
「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)
「さらば荒野」(1971)
「フレンチ・コネクション」(1971)
「ボニーとクライド/俺たちに明日はない」(1967)

■こちらも要チェック
「カナディアン・エクスプレス」(1990)
「レッズ」(1981)
「ナイトムーブス」(1975)
「フレンチ・コネクション2」(1975)
「ヤング・フランケンシュタイン」(1974)

ショーン・コネリー(1930-)
■おすすめの10本
「小説家を見つけたら」(2000)
「エントラップメント」(1999)
「ザ・ロック」(1996)
「レッド・オクトーバーを追え!」(1990)
「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」(1989)
「アンタッチャブル」(1987)
「薔薇の名前」(1986)
「男の闘い」(1969)
「007/ゴールドフィンガー」(1964)
「007/ロシアより愛をこめて」(1963)

クリント・イーストウッド)1930-)
■おすすめの10本
「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)
「スペース・カウボーイ」(2000)
「マディソン郡の橋」(1995)
「シークレット・サービス」(1993)
「許されざる者」(1992)
「アルカトラズからの脱出」(1979)
「ガントレット」(1977)
「ダーティ・ハリー」(1971)
「夕陽のガンマン」(1965)
「荒野の用心棒」(1964)

■追加
「人生の特等席」(2012、ロバート・ロレンツ監督、アメリカ)
「グラン・トリノ」(2008、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)

マイケル・ケイン(1933-)
■おすすめの10本 Engle2_1
「ウォルター少年と、夏の休日」(2003)
「サイダーハウス・ルール」(1999)
「リトル・ヴォイス」(1998)
「ハンナとその姉妹」(1986)
「モナリザ」(1986)
「デストラップ・死の罠」(1982)
「殺しのドレス」(1980)
「探偵<スルース>」(1972)
「ミニミニ大作戦」(1969)
「ズール戦争」(1963)

■こちらも要チェック
「ラスト・マップ/真実を探して」(2004)
「夕陽よ急げ」(1967)
「駆逐艦ベッドフォード作戦」(1965)

■気になる未見作品
「クイルズ」(2000)
「狙撃者」(1971)
「国際諜報局」(1964)

ダスティン・ホフマン(1937-)
■おすすめの10本
「レインマン」(1988)
「トッツィー」(1982)
「クレイマー、クレイマー」(1979)
「大統領の陰謀」(1976)
「マラソンマン」(1976)
「レニー・ブルース」(1974)
「パピヨン」(1973)
「小さな巨人」(1970)
「真夜中のカーボーイ」(1969)
「卒業」(1967)

■こちらも要チェック
「アウトブレイク」(1995)
「ファミリービジネス」(1989)
「アルフレード アルフレード」(1972)
「わらの犬」(1971)
「ジョンとメリー」(1969)

ジャック・ニコルソン(1937-)
■おすすめの10本
「最高の人生の見つけ方」(2008)
「アバウト・シュミット」(2002)
「恋愛小説家」(1997)
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1981)
「シャイニング」(1980)
「カッコーの巣の上で」(1975)
「チャイナタウン」(1974)
「さらば冬のかもめ」(1973)
「ファイブ・イージー・ピーセス」(1970)
「イージー・ライダー」(1969)

■こちらも要チェック
「クロッシング・ガード」(1995)
「バットマン」(1989)
「愛と追憶の日々」(1983)
「レッズ」(1981)
「ミズーリ・ブレイク」(1976)
「さすらいの二人」(1974)

アル・パチーノ(1940-)
■おすすめの10本
「ヴェニスの商人」(2004) Barakamo
「インサイダー」(1999)
「リチャードを探して」(1996)
「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」(1992)
「スカーフェイス」(1983)
「ジャスティス」(1979
「ゴッドファーザーPARTII」(1974)
「狼たちの午後」(1975)
「スケアクロウ」(1973)
「ゴッドファーザー」(1972)

■気になる未見作品
「哀しみの街かど」 (1971)

ロバート・デ・ニーロ(1943-)
■おすすめの10本
「フランケンシュタイン」(1994)
「真実の瞬間」(1991)
「レナードの朝」(1990)
「ミッション」(1986)
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)
「レイジング・ブル」(1980)
「1900年」(1976)
「タクシードライバー」(1976)
「ゴッドファーザーPART2」(1974)
「ミーン・ストリート」(1973)

■こちらも要チェック
「噂の真相/ワグ・ザ・ドッグ」(1997)
「ミッドナイト・ラン」(1988)
「アンタッチャブル」(1987)
「未来世紀ブラジル」(1985)

■気になる未見作品
「ディア・ハンター」(1978)

 これだけ大物を並べてみると壮観だ。全員現役!しかしこのクラスでも10本がすべて傑作という人はそういない。ジーン・ハックマン、ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロあたりが一番充実したリストになった。それに続くのがダスティン・ホフマンとマイケル・ケインか。逆にショーン・コネリー、クリント・イーストウッド、アル・パチーノはいい作品にめぐり合っていないと感じた。いずれも役者として素晴らしい才能を持っているのだから惜しいことだ。
 いずれも長いキャリアを持つ人たちだが、それを支えたのは演技力と人生経験だろうか。若いうちは演技が下手でも何とかなるが、中年以降はそうは行かない。ここに挙げた人たちは、いずれも中年になると渋みを増し、初老に入ると枯れた味わいが出てきた。俳優として理想的な年齢の重ね方をしてきた人たちばかりだ。
  ジーン・ハックマン、ショーン・コネリー、クリント・イーストウッドの3人が同い年だというのはこのリストを作って初めて気づいた。リスト作りはいろいろ意外なことに気づかされるので面白い。

2006年9月15日 (金)

クラッシュ

__1 2004年 アメリカ 2006年2月公開
監督:ポール・ハギス
原案:ポール・ハギス
脚本:ポール・ハギス、ボビー・モレスコ
撮影:J・マイケル・ミューロー
プロダクションデザイン:ローレンス・ベネット
衣装デザイン:リンダ・M・バス
編集:ヒューズ・ウィンボーン
音楽:マーク・アイシャム
主題歌:キャスリーン・ヨーク
出演:ドン・チードル、マット・ディロン、サンドラ・ブロック、ウィリアム・フィクトナー
    ジェニファー・エスポジート、ブレンダン・フレイザー、テレンス・ハワード
    クリス・“リュダクリス”・ブリッジス、サンディ・ニュートン、ノーナ・ゲイ
    ライアン・フィリップ、ラレンツ・テイト、キース・デヴィッド、マイケル・ペーニャ
    ロレッタ・ディヴァイン、ショーン・トーブ、ビヴァリー・トッド、トニー・ダンザ
    バハー・スーメク、アシュリン・サンチェス

  タイトルの「クラッシュ」は実に多義的だ。基本の意味は「衝突」。車の追突事故で始まり、追突事故で終わる。「衝突」はまた人種間や夫婦間などの様々なレベルの衝突・対立も意味している。レストランで同じ黒人の女性ウェイトレスに1時間以上も注文の品を待たされた黒人の若者たち。白人の客に対する対応と違うじゃないかと散々毒づく。因縁をつけて女の体中を触りまくる人種差別主義者の白人警官ライアン巡査(マット・ディロン)。「クラッシュ」にはまた「破滅、倒産」の意味もある。被害者意識に凝り固まったペルシャ人の商店主ファハド(ショーン・トーブ)。しょっちゅうアラブ人に間違えられてはからかわれ、いつもいらだっている。店の鍵だけ直してドアそれ自体の修理を怠ったばかりに何者かに店をめちゃくちゃに荒らされてしまう。弱り目に祟り目で、ドアの修理をしていなかったために保険も下りなかった。商店主ファハドは鍵屋のダニエル(マイケル・ペーニャ)を逆恨みして、彼を銃で撃つ。しかしその直前ダニエルの娘のララ(アシュリン・サンチェス)が父親に抱きついてきた。ファハドは自分のしでかしたことの重みに呆然とたたずむ。そこには、もう1つの「クラッシュ」の意味「麻薬が切れた時の虚脱感」が込められているのかもしれない。

  移民が多くまた犯罪の絶えない街、ロサンゼルス。「クラッシュ」は同時並行的に何組かの登場人物が互いに絡み合う群像劇である。映画の中ではあちこちで人や車が衝突している。人々の間には絶えず不信感と警戒心が渦巻いている。登場人物たちはいつも何かArtsnowballangel200gb にイラつき、他人とぶつかり合い、互いを傷つけまた傷つけられ、何かを奪いまた何かを失い、自暴自棄になり、または怒りに身を震わせ、あるいは呆然とたたずんでいる。いらだち、怒り、不安、焦燥感、不信感、虚脱感。裕福な暮らしをしているにもかかわらず絶えず神経がささくれ立ち、付け替えたばかりの玄関の鍵を明日の朝また新しいものに付け替えて欲しいと地方検事の夫リック(ブレンダン・フレイザー)にしつこく要求する神経質な妻ジーン(サンドラ・ブロック)。たまたま車に乗せた黒人の若者がポケットから何かを取り出そうとしたとき、不安に駆られとっさに銃で撃ってしまったハンセン巡査(ライアン・フィリップ)。この映画には警官あるいは警察関係者が多く登場する。ほとんど登場人物の3分の1近くを占めているのではないか。だが、ばたばたと悪人を撃ち倒してゆく颯爽とした英雄のごとき「正義の」警官は一人も登場しない。皆苦悩に顔をゆがめ暗い顔でうつむきがちになっている。ハリウッド大作映画のように激しい銃撃戦もなければ、派手な爆発や破壊もない。終始重たく沈鬱な空気が映画を覆っている。

  にもかかわらず、この映画を観終わった時に感じるのは絶望感ではない。むしろ深く重い感動が身をつつむ。様々な対立や犯罪や自暴自棄な行動が描かれるが、死者は一人しか出ない。憎しみや感情の行き違い、差別意識や汚い裏取引が描かれるが、映画はそれらの人々を冷たく突き放して描くのではなく、人間の弱さや、皮肉な運命に翻弄されながらも何とか這い上がろうともがく姿を共感を込めて描いているからだ。そこに「クラッシュ」のもう1つの、そしてもっとも重要な意味がある。それは映画の冒頭で語られる。語るのはこれまた警察関係者、グレアム刑事(ドン・チードル)である。

  「街を歩けばよく人と体がぶつかったりするだろ?でもロスじゃ触れ合いは皆無。人々はたいてい車の中にいる。でも触れ合いたいのさ。ぶつかり合って何かを実感したいんだ。」

  似たようなタイプの映画に「21g」がある。絡まりあう人間関係がどろどろの出口のない方向へどんどん落ちてゆく「21g」に対し、「クラッシュ」は運命に冷酷に翻弄される人々を描きながらも、結末をどうにもならない絶望的な方向へと持っていかなかった。黒人女性にセクハラした人種差別主義者の警官は、同じ女性が車の事故で危うく死にかけたところを必死で救った。ファハドに銃で撃たれた鍵屋の娘ララは、銃でも撃ちぬけない「透明のマント」によって救われた(比喩的な意味でだが)。前夜、銃声におびえてベッドの下に隠れていたララに、父のダニエルが昔天使にもらったものだと言って、「”何も通さない”透明のマント」を娘に渡していたのである。この二つエピソードは映画全体の中でもとりわけ印象的、かつ象徴的な場面である。「クラッシュ」というタイトルに込められたもっとも重要な意味、それは衝突や対立ではなく「触れ合い」だった。この映画は「ランド・オブ・プレンティ」同様、9.11後の、方向性と自信を見失い、憎しみや怒りばかりが掻き立てられ、絶えず不安に悩まされてさいなまれているアメリカ人の、いらだちささくれ立った心に捧げられたレクイエムなのである。

  群像劇である「クラッシュ」が優れているのは一つひとつのエピソードに力がある点だ。単純に不幸だったり幸せだったりするものは一人もいない。善人が罪を犯し、いやな奴に見えた人物にも意外な別の面がある。そういう描き方をしている。典型は人種差別主義者のライアン巡査。裕福な黒人夫婦、TVディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)とその妻クリスティン(サンディ・ニュートン)に難癖をつけて車を止めさせ、妻の体を触りまくった男だ。しかしそんな彼も家に帰れば、病弱の父親をかいがいしく看病している優しい息子である。それだけではない。映画のクライマックスの1つは、このライアン巡査とキャメロンの二度目の出会いである。キャメロンが事故を起こし、さかさまになった車に取り残されているところにたまたまライアン巡査が通りかかったのだ。

  彼の行動はすばやかった。運転席にもぐりこみ運転者を助けようとする。その時キャメロンは相手が前日に自分の体を触りまくった巡査だと気づきパニックになる。しかしこの時のライアンは最後まで職務に忠実な勇気ある警官として行動した。おびえるキャメロンをなだめ、もれたガソリンに火が付きそうになる緊迫した状況の下で、必死に彼女を固定しているシートベルトを切ろうとする。ガソリンに引火して車が爆発する直前に彼女を助け出す。この作品の中で最も緊迫した壮絶なシーンだ。身の危険を顧みず必死で彼女を救ったライアンの行為に、キャメロンのかたくなな嫌悪感は消えていた。二人は思わず抱き合う(DVDのジャケット写真になっているのがこの場面)。ここにも「触れ合い」があった。

  一方、ライアン巡査の相棒だったハンセン巡査(ライアン・フィリップ)には皮肉な運命が待っていた。正義感の強い彼はあまりのライアンの差別的行動に嫌気がさし、パートナーSky_window をはずしてもらった。だがこの正義漢はライアン巡査とは逆に転落して行った。上で触れた、誤って黒人の若者ピーター(ラレンツ・テイト)を射殺してしまったのは彼だったのである。撃たれたピーターもまじめな若者ではなかった。彼は仲間のアンソニー(クリス・“リュダクリス”・ブリッジス)と白人の車を奪って売り払おうとしたのだ。アンソニーは非常に被差別意識が強い男で、白人に深い恨みを抱いていた。1台目が売れなかったために彼等はもう1台小型トラックを盗んできたが、なんと荷台には不法入国と思われる東洋人が何人も乗っていた。ディーラーは、車はいいからこいつらを売り飛ばそうと二人に持ちかける。今度は人身売買にかかわりそうになる。しかし彼等は結局東洋人たちを売らなかった。街中で彼らを解放する。彼等は非道な人間になる一歩手前で踏みとどまった。

  もちろんこれだけではまだ人間描写として単純だ。登場人物たちの人間関係やエピソードが複雑に絡み合わされた時、映画の全体像は非常に複雑な様相を帯びる。これが成功した。近頃この手の群像劇が急増しているが、「クラッシュ」はそれらの中でも最も成功したものの1つである。複雑な群像劇の狙いは大きく二種類あるだろう。話を複雑にしてその意外な接点や入り組んだストーリーの展開自体を楽しむタイプ。クエンティン・タランティーノ監督「パルプ・フィクション」、ロドリゴ・ガルシア監督「彼女を見ればわかること」、ガイ・リッチー監督の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」と「スナッチ」、ジョン・クローリー監督の「ダブリン上等!」等々。群像劇を得意とするロバート・アルトマンの「ナッシュビル」、「ショート・カッツ」、「プレタポルテ」、「ゴスフォード・パーク」、あるいは日本の三谷幸喜監督「THE有頂天ホテル」やちょっと変り種だが内田けんじ「運命じゃない人」などもこのタイプに入るのではないか。これに更に行き詰まり感を加えたのがアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「アモーレス・ペロス」と「21グラム」。この2作はもう1つのタイプに近く、人間描写がぐっと色濃くなる。もうひとつのタイプは社会の縮図として人間関係を重層的にあるいはパノラマ的に描き、そこに様々な社会問題を入れ込むもの。ポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」、ラモン・サラサール監督の「靴に恋して」、ジョン・セイルズ監督の「カーサ・エスペランサ」、ダニエル・プルマン監督の「僕と未来とブエノスアイレス」、山崎貴監督の「ALWAYS三丁目の夕日」等々。思いついたものを挙げただけでもかなりの数だ。うまくいけば非常に見ごたえのあるものになるし、脚本家の腕の振るいがいもあるので好まれるのだろう。

  監督、脚本のポール・ハギスは「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本家。監督としての腕もなかなかだが、やはりこの複雑にして濃厚な脚本がしっかりしている。脚本家としての腕は一流である。「クラッシュ」は上の分類で言えば、当然後者である。人種差別、性的虐待、貧富の格差、人身売買などの社会問題を描きこみ、さらに車社会、銃社会になっている現状も象徴的に取り込んでいる。車という閉ざされた空間に閉じこもって社会との接触を避け、信用できない他人から身を守るために銃を持たざるをえない社会。その不安に満ちた社会の中で不安に身を縮め、それでも人間的ぬくもりを得ようともがく個人。もがいても這い上がれない人々、裕福でも心の満足を得られず絶えず不安に悩まされる人々。孤城と化した車はたびたび他の車と衝突する。皮肉なことにぶつかり合いが心のすれ違いを生む。

  搭乗者と外界を隔てる車だけではない。人々の中にも壁がある。例えば人種差別という壁。グレアム刑事(ドン・チードル)に裏取引を持ちかけたフラナガン検事の言葉が印象的だ。検事である彼は黒人が社会的に不利な立場にあることを一応認める。しかし、それで048966_1 も「黒人は根本的に犯罪に手を染めやすい、事実無根かも知れないが、ついそう思ってしまう」と語る。警察関係者が多く登場するのは偶然ではないだろう。警察の中にも差別意識を持っている者がいる。何という世界にわれわれは住んでいるのか。そういう問題提起があるだろう。しかしそれもライアン巡査とハンセン巡査の描き方を見ればそう単純ではない。ライアンがハンセンに「お前も何年か警官をやっていればわかる」と言った言葉が重くのしかかる。経験の少ないハンセン巡査が不用意に黒人青年を乗せてしまったことが彼をとんでもない窮地に陥れた。だが、ライアン巡査が理想の警官像というわけでもない。ライアンは確かにロスで警官として命を落とすことなく任務を全うする智恵と経験を持っている。その智恵と経験は多くの人と接し、何度も危険をかいくぐってきたことで得たものである。いわゆるたたき上げの持つ強みだ。だが、差別意識を払拭できなければ、彼もフラナガン検事のようになってゆく可能性がある。

  ドン・チードル演じるグレアム刑事、この映画で最も苦渋に満ちた表情を浮かべていたのは彼である。憂いに沈み複雑な顔でじっと前を見つめる彼の表情は、アメリカの苦悩の象徴のように思える。彼の悩みの1つは弟に関するものである。恐らく彼の弟は死刑囚なのである。母親からは何とかして弟を救い出して欲しいと会うたびに言われている。フラナガン検事が持ちかけてきた裏取引は、ある警官の不祥事を見逃してくれれば弟を何とかしてやろうというものだった。正義を取るか、弟を取るか。彼は決断した。しかし彼の出した結論はまた別の悩みを引き出した。彼の苦悩は続く。最初と最後に出てくる彼の姿、ロスでは珍しい雪の降る中でじっと前を見てたたずむ姿。彼の前にはハンセン巡査に撃たれたピーターの死体が横たわっている。

  死体を前に立っている、己の悩みに苦しむ刑事。なんとも象徴的だ。立ちすくんでいる彼はどの方向に歩みだすのか。コリン・デクスターの『ウッドストック行最終バス』(早川文庫)に「自殺は非常に多くの他の人々の生活にかかわることだ。重荷は捨てられたのではなく、一人の肩から他の人の肩に移されただけだ」という言葉がある。完璧な人間などいない。誰もが欠点や弱さを持っている。したがって悩みもある。だからこそ「触れ合う」ことが必用なのだ。重荷を分かち合うことが必用なのだ。車の中に閉じこもっていては何も変わらない。本気でぶつかり合うことが必用なのだ。ライアン巡査が車から救い出したキャメロンと抱き合うシーンは象徴的である。ダニエルが娘のララを抱きしめるシーンと共に心に残る。暗い表情で前を見つめたたずむ男と二組の抱き合う人々のイメージ、苦悩と希望、この二つのイメージを共に同じ重みで提起したところにこの映画の際立った特徴と成功の理由がある。

2006年9月13日 (水)

ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!

2005年 アメリカ・イギリス 2006年3月公開 85分
原題: WALLACE & GROMIT IN THE CURSE OF THE WERE-RABBIT
監督: ニック・パーク、スティーヴ・ボックス
製作: ニック・パーク、クレア・ジェニングス、ピーター・ロード、カーラ・シェリー
     デヴィッド・スプロクストン
製作総指揮: ジェフリー・カッツェンバーグ、セシル・クレイマー、マイケル・ローズ
脚本: ニック・パーク、スティーヴ・ボックス、ボブ・ベイカー、マーク・バートン
撮影: トリスタン・オリヴァー、デイヴ・アレックス・リデット
プロダクションデザイン: フィル・ルイス
編集: デヴィッド・マコーミック、グレゴリー・パーラー
音楽: ジュリアン・ノット
音楽プロデューサー: ハンス・ジマー Big_0179
声の出演:
 ピーター・サリス (ウォレス)
 レイフ・ファインズ(ヴィクター・クォーターメイン)
 ヘレナ・ボナム=カーター (レディ・トッティントン)
 ピーター・ケイ (PCマッキントッシュ)
 ニコラス・スミス (クレメント・ヘッジ)
 リズ・スミス (マルチ夫人)
 ジョン・トムソン

  「ウォレスとグルミット ウサギ男の呪い」、より英語の原題に近いタイトルにするとこんな感じか。WERE-RABBITは造語で、狼男のWEREWOLFをもじったもの。WEREはbe動詞の過去形ではなくて「男」という意味の古語。

  「ウォレスとグルミット」シリーズ。97年に「チーズ・ホリデー」(89)を観てすっかり気に入ってしまった。以来「ペンギンに気をつけろ!」(93)、「危機一髪!」(95) と観てきたがどれも傑作。このシリーズとは違うが、同じニック・パーク作品で、英国アードマン社と米国のドリームワークス社が共同製作した長編「チキンラン」(00)もまた、「ウォレスとグルミット」シリーズとは違った味わいだが、よく出来た作品だった。そして今回の「野菜畑で大ピンチ!」はアードマン社とドリームワークス社の共同製作2作目。「ウォレスとグルミット」シリーズとしては初の長編となるが、これまた傑作。これまでのところニック・パーク作品にハズレなし!いやはや立派なものである。

 プリミティブで素朴な 「キリクと魔女」や切り絵アニメ「プリンス・アンド・プリンセス」で知られるミッシェル・オスロ〔6月にDVDが出た世界初の長編アニメ「アクメッド王子の冒険」(1926)は切り絵アニメの元祖でもある〕、絵に素朴な味わいがある「ベルヴィル・ランデブー」のシルヴァン・ショメ、「真夏の夜の夢」などの人形アニメ作家イジー・トルンカ、「霧につつまれたハリネズミ」や「話の話」のユーリ・ノルシュテイン、「道成寺」、「死者の書」などで知られる人形アニメの川本喜八郎等々、世界にはユニークな作風のアニメ作家がたくさんいる。しかし、作品の質に人気度を加えてみると、日本の宮崎駿、アメリカのティム・バートン、イギリスのニック・パークが現在の3大アニメーション映画作家といえるだろう。

  アニメのヒット作品というと「モンスターズ・インク」、「バグズ・ライフ」、「トイ・ストーリー」、「Mr.インクレディブル」などのピクサー/ディズニー系、「アンツ」、「チキンラン」、「シュレック」、「シュレック2」、「森のリトル・ギャング」などのドリームワークス系といったアメリカ勢が圧倒しているが、これらは特定の作家の個性は比較的希薄で、むしろ制作会社の姿勢のほうが目立つ。ピクサー系はディズニー色が強いのでどちらかというと子供向けの作風で、ドリームワークス系は皮肉や風刺の利いた大人も楽しめるアニメという印象だ。

 「ウォレスとグルミット」シリーズはそれまで長くても30分程度の長さだったが、初の長編「野菜畑で大ピンチ!」では85分という長大な長さになった(数秒分撮影するのに数日間かかるというクレイ・アニメーションにとっては文字通り「長大」である)。当然一部にCG処理も施している。恐らくCGによって製作時間もだいぶ短縮されただろう。詳しい技術的なことは分からないが、ややぎこちなかった動きが非常に滑らかになったのもCGのおかげかも知れない。粘土で出来た人形を少しずつ動かしては撮影するという制作方法だから、それまでなら宙に浮いているものを撮るには苦労しただろうが、CGを使えば作業がだいぶ楽になったはずだ。例えば、車が砂利道で急停車した時砂利が弾き飛ばされるシーンがあったが、CGを使わずにあの砂利を撮影するのはほとんど不可能だったろう。DVD付属の音声解説で確認してみたが、巨大な掃除機のような「ウサギ吸引捕獲器」に吸い込まれたウサギたちがふわふわと浮いているシーンもCG処理を施している。

Ringo   しかしなんといっても一番の変化は映画のテンポ。「ウォレスとグルミット」はゆったりとしたテンポが持ち味だった。ユニークなキャラクターと機械仕掛けや背景の細部などへのこだわり、シュールな展開のストーリーが魅力だった。この独特の世界を楽しむものであって、動きなどは少々ぎこちなくてもいい。そういうコンセプトだったと思う。いや、そのぎこちなさすら魅力の一部だったと言ってもいい。クレイ・アニメーションの性質としてスピード感は出しにくい。しかしドリームワークスと組んだとたん、画面が疾走しはじめた。「危機一髪!」でそれまでよりスピード感が増したと思っていたが、今度はそんなもんじゃない。ほとんどアメリカ・アニメ並みのスピード感が出ている。それに付随して空を飛ぶシーンが増え、その動きも自然になった。明らかにドリームワークス/CG効果である。

  ではそれによってそれまでの持ち味が崩れ、魅力が薄れたか。必ずしもそうではない。正直言って、100%満喫したかというと何か物足りないものはあった。クレイ・アニメらしい素朴な味わいがやや薄れ、どこかアメリカのアニメみたいになってしまったなという感じもした。しかし、そこはニック・パーク。基本はしっかり抑えている。「危機一髪!」のレビューで書いた「どこかとぼけたユーモアと『サンダーバード』並みのメカキチぶり」はしっかり温存している。自分のこだわりは決して捨てていない。

  さらには、恐らくアメリカと組んだからだろう、意識的にイギリスらしさをこれまで以上に押し出している。マナーハウスに住む大金持ちのレディ・トッティントンと彼女の財産を狙っ ている傲慢な紳士ヴィクターという組み合わせ、ペスト(害虫、害獣)といいながらも殺さずに捕まえては自分の家で飼う動物愛護ぶり、年に一度の町を挙げてのお祭“巨大野菜コンテスト”(TVドラマ「バーナビー警部」シリーズにも似たような催しがよく出てくる)等々。この判断は良かったのか微妙なところだ。アメリカに同化されるよりはましだが、どこか浮世離れした不思議ワールドが地上に降りてきた感じもある。ただ「危機一髪!」あたりから既にそういう傾向に移りつつあった。1作目の純粋なファンタジー・ワールド(「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」を連想させられた)から2作目、3作目となるにつれてどんどん世俗的になってきていた。他の作品へのアリュージョンも多用して、ファンタジーの世界から趣味の世界に変化していった印象がある。まあ、印象だからもう一度全作通して観てみないと確かなことはいえないが。いずれにしても、CGを駆使してスピーディになったこととクレイ・アニメらしさが後退しているという印象はどうやら無関係ではないようだ(他にも同じことを指摘している人がいる)。まあ「チキンラン」も似たような作りだったし、それほど嘆くことでもない。

  ストーリーの中心になるのは“巨大野菜コンテスト”。町中の人たちがコンテストに向けそれぞれいろいろな野菜を手塩にかけて育てている。グルミットも巨大な瓜を育てており、毎日いとおしそうに撫でさすってはうっとりとして眺めている。主催者は町の有力者レディ・トッティントン。コンテストを目前にして彼女や町中の人たちが頭を悩ませているのが野菜の「天敵」であるウサギたち。そして町中の巨大野菜を守っている集中警備システムを開発したのが町の発明家ウォレス。ほとんどの家庭の庭にはセンサー付きの置物があり、怪しい物影がその前を横切るとセンサーが作動しウォレスの家の警報がなる仕掛け。ウォレスの家の壁には彼の警備システムに加入している人たちの顔をかたどった仮面がびっしりかけてあり、センサーが反応すると庭の置物と壁の仮面の目が光る。仮面を見ればどこの家に侵入者があったかわかる。まるで「何とか警備保障」みたいだ。そうそう警備会社の名前は「アンチペスト」。害獣駆除なんでもお引き受けいたします。

  警報が鳴ると例のおなじみ「起床マシーン」で飛び起き、007並の装備を積んだ特殊改造車を駆って現場に急行。ウサギをとっ捕まえると近所の人たちが家から出てきて拍手を送る。ここまでが導入部分。ウォレスたちは捕まえたウサギを殺さず、全部家に連れ帰って飼っている。家中ウサギだらけ。あまりに数が多いのでウォレスはウサギが野菜嫌いになれば問題は解決すると考える。そこでまた例によって怪しげな機械が登場する。こういう機械を考え出すのは天才的にうまい。しかし途中操作を間違えたりして結局実験は中断してしまう。

  そうこうしているうちに町に巨大な怪物ウサギが現れた。中盤から後半にかけてこの巨大ウサギとウォレスたちの熾烈な戦いが展開される。これにレディ・トッティントンと結婚しNight2 て財産を手に入れようと狙うヴィクターが絡み、話はドタバタ調の破天荒な展開になってゆく。ヴィクターとウォレスは巨大ウサギ退治のライバルになる。ウォレスは捕まえようとするが、ヴィクターはライフルで撃ち殺そうとする。ヴィクターには見るからに意地の悪そうな顔をした愛犬がおり、途中グルミットとその犬が飛行機でカーチェイスならぬプレーン・チェイスをするという場面もある。遊園地の乗り物の飛行機なので(なぜか空を飛んでしまう)一定の時間が立つと止まってしまい、コインを追加で入れないと動き出さないというギャグが傑作だった。

  とにかくとんでもない発想がこの映画の魅力の1つ。レディ・トッティントンのお屋敷の広大な庭には見渡す限りウサギが巣穴を作っている。これらのウサギをいっぺんに捕獲するためのマシーンが先ほどの「ウサギ吸引捕獲器」。巣穴にホースをつなぎ一気に吸い込んでしまうという強引なマシーン。穴の外にいるウサギまで吸い込んでしまうという優れもの。ヴィクターのカツラまで吸い込んでしまうのが可笑しい。

  後は怒涛のハチャメチャ展開に。ただ見逃せないのはパロディ味。いろいろと遊んでいます。巨大ウサギがビルを上ってゆくシーンはまるでキングコング。神出鬼没でなかなか正体が分からない段階の不気味な雰囲気と巨大な影だけが建物に映るあたりは狼男のパロディ。監督自身が「世界初のベジタリアン・ホラー」と言っているように、そもそも肉食ではない巨大ウサギの驚異というのが人を食っている。何しろ被害は人間ではなく巨大野菜。そんな不自然なものを作ってコンテストをすること自体が自然に反していると言っているようだ。

  キャラクターの面白さもまた魅力の1つ。巨大ウサギをおびき寄せる囮の張りぼてメスウサギ(グルミットが動かしているが、そのなまめかしいからだの動きはとても粘土の人形とは思えない)、どこにも敬虔なところが感じられない牧師、大まかな顔の作りと実に単純で分かりやすい性格のヴィクター、豚鼻でちっともかわいくないがどこか愛嬌のあるウサギ、相変わらず想像力豊かな発明の才能を発揮しているがとんでもない失敗もしでかすウォレス、そしてなんと言っても顔や目の動きが言葉以上にものを言うグルミットがたまらなく魅力的だ。

  ウォレスは言ってみればドラえもんのように次々と物を作り出す才能とのび太のおっちょこちょいな性格を併せ持った性格で、グルミットはそれを支えるしっかりもんの女房役。今回もこのコンビの巻き起こすとんでもない大騒動に観客は引きずり回される。スピード感あふれるアメリカ製アニメの要素が増えたが、いつもの手間隙かけた手作り感や粘土の質感は相変わらず。小道具への執拗なこだわりも相変わらず相当なもの。ホラー風味の味付けがなされているが、エロもグロもない、人間味ととぼけたユーモアにあふれた作風は今回も健在だ。

2006年9月12日 (火)

ゴブリンのこれがおすすめ 25

アメリカを様々な角度から抉る

差別を抉る Cutwindow3

<人種問題>
「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」(2011) テイト・テイラー監督
「アバター」(2009) ジェームズ・キャメロン監督
「プレシャス」(2009) リー・ダニエルズ監督
「セントアンナの奇跡」(2008) スパイク・リー監督
「クラッシュ」(2004) ポール・ハギス監督
「ゲット・オン・ザ・バス」(1996) スパイク・リー監督
「黒豹のバラード」(1994) マリオ・バン・ピープルズ監督
「ラスト・オブ・モヒカン」(1992)  マイケル・マン監督
「マルコムX」(1992)  スパイク・リー監督
「ダンス・ウイズ・ウルブズ」(1991) ケビン・コスナー監督
「ボーイズ・ン・ザ・フッド」(1991) ジョン・シングルトン監督
「モ・ベター・ブルース」(1990) スパイク・リー監督
「ロング・ウォーク・ホーム」(1990) リチャード・ピアース監督
「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989) スパイク・リー監督
「グローリー」(1989) エドワード・ズウィック監督
「ミシシッピー・バーニング」(1988) アラン・パーカー監督
「カラー・パープル」(1985)  スティーブン・スピルバーグ監督
「ラグタイム」(1981) ミロシュ・フォアマン監督
「ドライビング・ミス・デイジー」(1989) ブルース・ペレスフォード監督
「小さな巨人」(1971) アーサー・ペン監督
「屋根の上のバイオリン弾き」(1970) ノーマン・ジュイソン監督
「ソルジャー・ブルー」(1970) ラルフ・ネルソン監督
「フィクサー」(1968) ジョン・フランケンハイマー監督
「招かれざる客」(1967) スタンリー・クレイマー監督
「質屋」(1967) シドニー・ルメット監督
「シャイアン」(1964)  ジョン・フォード監督
「アラバマ物語」(1962) ロバート・マリガン監督
「手錠のままの脱獄」(1958) スタンリー・クレイマー監督
「十字砲火」(1947) エドワード・ドミトリク監督

<性差別>
「ダウト」(2008) ジョン・パトリック・シャンリー監督
「トランスアメリカ」(2005) ダンカン・タッカー監督
「スタンドアップ」(2005) ニキ・カーロ監督
「モナリザ・スマイル」(2003) マイク・ニューウェル監督
「トーチソング・トリロジー」(1988) ポール・ボガート監督
「ハーヴェイ・ミルク」(1984) ロバート・エプスタイン、リチャード・シュミーセン監督
「噂の二人」(1961) ウィリアム・ワイラー監督
「非情の町」(1961) ゴットフリード・ラインハルト監督

<思想差別、赤狩り>
「グッドナイト&グッドラック」(2006) ジョージ・クルーニー監督
「真実の瞬間」(1991) アーウィン・ウィンクラー監督 Car1_1
「レッズ」(1981) ウォーレン・ビーティ監督
「ザ・フロント」(1976) マーチン・リット監督
「ジョニーは戦場へ行った」(1971) ダルトン・トランボ監督
「猿の惑星」(1968) フランクリン・J・シャフナー監督
「風の遺産」(1960) スタンリー・クレイマー監督
「黒い牡牛」(1956) アービング・ラパー監督
「真昼の決闘」(1952) フレッド・ジンネマン監督

<少数派・被差別者の視線>
「トランスアメリカ」(2005) ダンカン・タッカー監督
「アイ・アム・サム」(2001) ジェシー・ネルソン監督
「サイモン・バーチ」(1998) マーク・スティーブン・ジョンソン監督
「フィラデルフィア」(1993) ジョナサン・デミ監督
「フランケンシュタイン」(1994) ケネス・ブラナー監督
「レインマン」(1988) バリー・レヴィンソン監督
「刑事ジョン・ブック 目撃者」(1985) ピーター・ウィアー監督
「エレファント・マン」(1980) デビッド・リンチ監督

政治・社会問題を抉る
<政治問題、軍事大国主義>
「キャピタリズム マネーは踊る」(2009) マイケル・ムーア監督
「ハート・ロッカー」(2008) キャスリン・ビグロー監督
「フロスト×ニクソン」(2008) ロン・ハワード監督
「告発のとき」(2007) ポール・ハギス監督
「リダクテッド」(2007) ブライアン・デ・パルマ監督、米・カナダ
「父親たちの星条旗」(2006) クリント・イーストウッド監督
「ボビー」(2006) エミリオ・エステベス監督、アメリカ
「ボーダータウン 報道されない殺人者たち」(2006) グレゴリー・ナヴァ監督
「ロード・オブ・ウォー」(2005) アンドリュー・ニコル監督
「華氏911」(2004) マイケル・ムーア監督
「JFK」(1991)  オリヴァー・ストーン監督
「サルバドル 遥かなる日々」(1986)  オリヴァー・ストーン監督
「アトミック・カフェ」(1982) ケビン・ラファティ他監督
「ミッシング」(1982) コスタ・ガブラス監督
「地獄の黙示録」(1979) フランシス・F・コッポラ監督
「大統領の陰謀」(1976) アラン・J・パクラ監督
「カンバセーション盗聴」(1974)  フランシス・F・コッポラ監督
「5月の7日間」(1964)  ジョン・フランケンハイマー監督
「オール・ザ・キングス・メン」(1949) ロバート・ロッセン監督

<犯罪社会、暴力、貧困問題、不況>
「ウィンターズ・ボーン」(2010) デブラ・グラニック監督
「カンパニー・メン」(2010) ジョン・ウェルズ監督
「マイレージ、マイライフ」(2009) ジェイソン・ライトマン監督
「フローズン・リバー」(2008) コートニー・ハント監督
「チェンジリング」(2008) クリント・イーストウッド監督
「ダークナイト」(2008) クリストファー・ノーラン監督
「チェンジリング」(2008) クリント・イーストウッド監督
「シンデレラマン」(2005) ロン・ハワード監督
「ランド・オブ・プレンティ」(2005) ヴィム・ヴェンダース監督
「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002) マイケル・ムーア監督
「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(1994) オリヴァー・ストーン監督
「ロジャー&・ミー」(1989) マイケル・ムーア監督
「タクシー・ドライバー」(1976) マーチン・スコセージ監督
「チャップリンの殺人狂時代」(1947)  チャールズ・チャップリン監督
「怒りの葡萄」(1940)  ジョン・フォード監督
「黄金狂時代」(1925)  チャールズ・チャップリン監督

<その他の社会問題、社会の裏側>
「シッコ」(2007) マイケル・ムーア監督
「リトル・ミス・サンシャイン」(2006) ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督
「カーサ・エスペランサ」(2003) ジョン・セイルズ監督
「インサイダー」(1999) マイケル・マン監督
「トゥルーマン・ショー」(1998) ピーター・ウィアー監督
「告発」(1995) マーク・ロッコ監督
「クイズ・ショウ」(1994) ロバート・レッドフォード監督 Robo1_c
「ザ・ペーパー」(1994)  ロン・ハワード監督
「ザ・プレイヤー」(1992)  ロバート・アルトマン監督
「ザ・リバー」(1984) マーク・ライデル監督
「ジャスティス」(1980) ノーマン・ジュイソン監督
「博士の異常な愛情」(1964) スタンリー・キューブリック
「悪人と美女」(1952) ヴィンセント・ミネリ監督

<家庭の崩壊、孤独感、不毛感>
「アメリカ、家族のいる風景」(2005) ヴィム・ヴェンダース監督
「クラッシュ」(2004) ポール・ハギス監督
「アバウト・シュミット」(2002) アレクサンダー・ペイン監督
「スティーヴィー」(2002) スティーヴ・ジェイムズ監督
「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001) ウエス・アンダーソン監督
「アメリカン・ビューティー」(1999) サム・メンデス監督
「マグノリア」(1999) ポール・トーマス・アンダーソン監督
「ショート・カッツ」(1993) ロバート・アルトマン監督
「泳ぐ人」(1968) フランク・ペリー監督

アメリカの多面性、様々な角度からの視線
<移民の視点>
「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」(2009) ウェイン・クラマー監督
「扉をたたく人」(2007) トム・マッカーシー監督、アメリカ
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(2006) トミー・リー・ジョーンズ監督
「スパングリッシュ」(2004) ジェームズ・L・ブルックス監督
「イン・アメリカ三つの小さな願いごと」(2002)ジム・シェリダン監督
「アメリカン・ラプソディ」(2001) エヴァ・ガルドス監督
「ジョイ・ラック・クラブ」(1993)  ウェイン・ワン監督
「グリーン・カード」(1990) ピーター・ウィアー監督
「わが心のボルチモア」(1990)  バリー・レビンソン監督
「ディープ・ブルー・ナイト」(1984) ペ・チャンホ監督
「エル・ノルテ 約束の地」(1983) グレゴリー・ナヴァ監督

<労働組合の視点>
「アメリカン・ジャスティス」(2000) トニー・ビル監督
「メイトワン1920」(1987)  ジョン・セイルズ監督
「ノーマ・レイ」(1979)  マーチン・リット監督
「地の塩」(1954) ハーバート・ビーバーマン監督

<反戦、反体制、カウンター・カルチャー>
「帰郷」(1978)  ハル・アシュビー監督
「ジュリア」(1978) フレッド・ジンネマン監督
「ウディ・ガスリーわが心のふるさと」(1976) ハル・アシュビー監督
「カッコーの巣の上で」(1975) ミロス・フォアマン監督
「ジョニーは戦場へ行った」(1971) ダルトン・トランボ監督
「イージー・ライダー」(1970) デニス・ホッパー監督
「キャッチ22」(1970) マイク・ニコルズ監督
「真夜中のカウボーイ」(1969) ジョン・シュレシンジャー監督
「俺たちに明日はない」(1967)  アーサー・ペン監督
「下り階段を上れ」(1967) ロバート・マリガン監督
「突撃」(1957) スタンリー・キューブリック監督
「攻撃」(1956) ロバート・アルドリッチ監督
「西部戦線異状なし」(1930) ルイス・マイルストン監督

  今年のアメリカ映画はこれまでの年と一味もふた味も違う。昨年の暮れからアメリカの現在や9.11後の世界を批判的に問い直す作品が次々に日本で公開されている。「ロード・オブ・ザ・ウォー」、「ランド・オブ・プレンティ」、「クラッシュ」、「ジャーヘッド」、「ミュンヘン」、「スタンドアップ」、「アメリカ、家族のいる風景」、「シリアナ」、「ブロークバック・マウンテン」、「スティーヴィー」、「グッドナイト&グッドラック」、「ユナイテッド93」、「ワールド・トレード・センター」。9.11後のアメリカの苦悩する姿が映画に映し出されてきている。これほど硬派で深刻なアメリカ映画がまとまって公開されたことはかつてなかったのではないか。この機会にアメリカの姿を批判的、かつ多面的に映し出した映画を通して、アメリカを捉えなおしてみよう。
  なお、ベトナム戦争関連の作品は既にこのシリーズで取り上げているのでここでははずしてあります。

2006年9月11日 (月)

寄せ集め映画短評集 その14

  パソコン内をあちこちひっくり返していたら「寄せ集め映画短評集」の原稿がまだ残っているのに気づきました。とっくに使い切ったと思っていたのですが。もう3、4年前の古い原稿なのですが、一般に知られていない韓国映画の古典が何本か含まれているので、一部手を加えてあえて載せることにしました(ほとんどは本館HP「緑の杜のゴブリン」に既に入っています)。これで本当に打ち止め。もう逆さに振っても何も出ません。

「朴さん」(1960年、カン・デジン監督、韓国)
  予想をはるかに上回る傑作だった。「誤発弾」と同じでまるで日本映画を観ているようだ。音楽といい話し方といい家族を中心にした人情話的ストーリーといい、どこを取ってもかつての日本映画そっくりだ。昔の韓国映画は日本映画から多くを学んだという印象は確信に近いものになった。
  何といっても朴さんの頑固親父振りがいい。こういう頑固親父も昔の日本映画にはよくAki_minori 出てきた。親孝行の息子と娘2人の三人の子供がいる。それぞれがほぼ同時に恋愛をしている。しかし息子が嫁を取るのは歓迎するが、娘たちが男と付き合うのは断固許さない。娘をあばずれとののしり、挨拶に来た男たちを追い返えそうとする。長女は元やくざと付き合っている。彼はやくざから足を洗い、車の免許を取って運転手になってまじめに働こうとしている。それでも、あれはやくざものだからと朴さんは娘の交際を認めない。次女は会社の上司と恋愛中だが、相手は良家の息子で、その叔母から身分違いだと言われ、朴さんは腹を立てる。ティーバッグの飲み方を知らなかったためにその叔母に笑われる。朴さんは子どもたちを大学にやれなかった自分を悔やむ。
  息子は親孝行で順調にやっていたが、社長に見込まれてタイ支店の初代店長に抜擢された。息子は行きたいと思うが父親を残してゆくのが心配だ。果たして父親は反対する。そうこうするうち長女は業を煮やして駆け落ちしてしまう。次女は恋人が徴集されて軍隊に入り、その叔母のちょっかいで結婚が難しくなっている。家族がばらばらになりそうな状態だったが、例の次女の恋人の叔母からバカにされた反動で、朴さんは息子に出世をしろとタイ行きを許す。
  息子の結婚式の場面は感動的だ。父親に世話ができなくてすまないと泣きながらわびる息子を朴さんが慰める。今日は父さんと寝たいというファザコン的せりふも出てくるが、ここは親を大事にする韓国の伝統の延長線上にあると解釈すべきだろう。最後は飛行場で息子を見送った後、一足早く飛行場を出た朴さんが道を歩いて帰る場面で終わる。
  息子が去ってゆく悲しみを抑えながら、何とか頑張って生きてゆこうと決心する。帰ってくる時には孫の2,3人も連れてこいよとつぶやきながら。この頑固親父を時には叱り、時にはあきれながらいつもそばにいて支えている妻もなかなかいい。どこにでもいる妻/母親だが、この頑固親父とうまく付き合っているところがほほえましい。
  日本映画もこの種のホームドラマがなくなって久しい。韓国映画でも事情は同じだろう。この映画を観て良質の現代的ホームドラマを観たくなった。家族がどんどん小さくなったために絶えてしまったジャンルだが、この映画は今でも色あせていない。

「リメンバー・ミー」(2000年、キム・ジョングォン監督、韓国)
  韓国映画得意の恋愛映画だが、傑作とはいえない。まあ、あまり期待もしていなかったが。「イルマーレ」と同じような時空を超えた超自然的な恋愛ドラマだが、「イルマーレ」は手紙が媒介で、どこから配達されるのか最後まで分からない。謎のままで終わっているために、逆に破綻がない。「リメンバー・ミー」は無線が媒介だ。1978年ごろの世界に住む女性と1999年の世界に住む男性が無線でつながってしまう。互いに住む時代が違うのだから、交信できるのは何らかの超自然的な現象だということになる。まあ、一種のファンタジーだからそんなことはどうでもいい。
  「イルマーレ」と違うのは、「リメンバー・ミー」では、1970年代にいた女性が2000年にも生存していて、ヒーローと中年になったヒロインが最後に出会う点である。これが興醒めだ。「イルマーレ」のように最後まで謎を残しておくべきだった。2000年には40代になっているはずの女性がメガネをかけただけで少しも老けて見えないのも不自然だ。「黒水仙」でも同じことがあった。顔や若さにこだわっているようじゃ本物の役者とはいえない。「イルマーレ」の様な青色を基調にした色彩感覚や寒々とした映像の魅力もない。ヒロインがどこか軽薄で共感できない。最後の3分の1はそれでもぐいぐい引き込む力があったが、最後に2人が出会う設定に問題がある。
  無線を通して主人公2人は次第に惹かれあうのだが、それぞれが自分の世界に恋人がいるという設定が「イルマーレ」と違っていて、かつ工夫を感じるところだ。ヒロインが思いを寄せている相手が実はヒーローの父親であり、母親はヒロインの友達だったという設定も悪くはないが、そのことが双方に引き起こす苦悩が十分掘り下げられていない。「イルマーレ」は最後まで主人公2人の接点はないわけだが、「リメンバー・ミー」は接点を持たせることでファンタジー性を弱めている。「イルマーレ」と比べると「リメンバー・ミー」はテレビ・ドラマに近い感じがする。

「MUSA武士」(2001年、キム・ソンス監督、韓国・中国)

  てっきり韓国映画だと思っていたら、韓国と中国の合作だった。高麗の使臣団として明に派遣された一団がスパイ扱いされ流刑にされる。そこに蒙古軍が襲撃してきて明の軍隊を全滅させる。しかし朝鮮民族に恨みはないと彼らの命は見逃す。一団は朝鮮に帰ることにし、砂漠を横切る。しかし蒙古軍が明の姫を捕虜にしていることを知り、彼らは彼女を助けて恩を売り、明の王に拝謁を願おうと考えた。蒙古軍を襲撃しまんまと姫を救う。しかし蒙古軍は姫を取り返そうと追撃してくる。途中漢民族の難民に出会い、姫の意見でやむなく彼らも一緒に連れてゆくことになる。海辺の砦に明の軍隊がいるという姫の意見で一団はそこに向かうが、着いてみると砦には誰もいなかった。そこに蒙古軍が迫り、最後の一戦を迎えることになる。あまりの犠牲者の多さに姫のせいだと責める漢の難民たち。しかし朝鮮の軍隊は最後まで決戦に挑む。激しい戦闘の結果どちらもほぼ全滅。生き残ったのは姫と一人の州鎮軍戦士チン・リプ(アン・ソンギ)、そして数人の難民たちだけだ。チン・リプは船に乗って朝鮮を目指して去ってゆく。
  予想以上に迫力のある戦闘場面だった。ストーリーもそれほどご都合主義的ではない。期待以上のいい映画だった。武器が中国のものと似ているせいか、全体に中国の活劇のようだ。日本のように剣を二本の腕で正面に構える方が特殊なのかもしれない。ただし、中国映画のようにワイヤーアクションで空を飛んだりはしない。その分はるかにリアルだ。何となくB級映画だと思っていたが、意外な収穫だった。戦士たちが精悍で、姫役のチャン・ツィイーも相変わらずかわいい。何と言っても姫さまだもの。
  明、高麗、元という三つの国が交錯する歴史ドラマだが、使臣団と高麗軍の内部にも対立がある。槍の達人ヨソル(チョン・ウソン)は使臣団副使の奴隷だった。副使が死に際に彼を奴隷から解放したが、その後も他の兵隊からさげすまれている。使臣団の責任者は龍虎軍の将軍チェ・ジョン(チュ・ジンモ)だが、しばしばミスを犯し、指揮をチン・リプに譲る。エリート軍団である龍虎軍にお対し、州鎮軍は下級武士部隊である。立派な鎧を着けた龍虎軍に比べると州鎮軍はみすぼらしい黒っぽい服を着ているだけだ。しかし州鎮軍は一人ひとりが優れた特技を持ち、特にその隊長であるチン・リプは優れた戦略家でもある。彼らは下級武士とさげすまれているが、龍虎軍は林の中での元軍との戦いで将軍のチェ・ジョンを除いて全滅してしまい、最後に残った兵士は州鎮軍だけである。国同士の争いの中に高麗国内の身分問題を描きこみ、ストーリーに奥行きを与えている。解説を読まないとこのあたりの事情はよく分からないのだが、決しておざなりの付け足しではない。

「ハンネの昇天」(1977年、ハ・ギルジョン監督、韓国)
  もっとシュールな映画かと思っていたが、民族色豊かな、というより土俗的な作品だった。マニョンは仙女滝の下で一人の女性を助ける。天女のように美しい女でハンネと名乗った。マニョンには彼を好いている村の女がいるが、彼女はハンネに激しく嫉妬する。丁度村祭りの直前でよそ者のハンネは村にたたりをもたらすと村人たちは彼女を快く思わMado_akari1 ない。やがてハンネはマニョンの死んだ母親とそっくりだということが分かる。また村の外にマニョンが出かけたとき出会った女もハンネそっくりだった。誤ってその女をマニョンは殺してしまう。しかし村に戻るとハンネはいつも通りそこにいた。
  祭りが始まり、祭主が一人こっそり抜け出してハンネの所に押し入り彼女を犯してしまう。実は20年前にも彼はマニョンの母親を犯していた。マニョンの母親は仙女滝から飛び降りて自殺してしまった。マニョンは祭主に飛び掛かるが、祭主はマニョンにお前の父親は自分だと告げる。マニョンはハンネを追うが、ハンネは仙女滝から飛び降り、彼も後を追ったと思われる。
  なんとも不思議な輪廻転生の話だが、手塚治虫の『火の鳥』に出てくる八百比丘尼の話を連想させる。解説には「土俗的な輪廻転生譚を通じて”袋小路”にある時代状況を観念的に表現している」とある。村の祭りは摩訶不思議な祭りだ。モンゴルか中国の少数民族の祭りのように銅鑼や太鼓をジャンジャン鳴らして練り歩く。お面の形も独特だ。韓国にこんな祭りがあったとは。やはり日本と違って大陸につながっているだけあって、大陸的な祭りだ。村の女がオカメ面ばかりなのがおかしい。だからハンネは飛び切りの美人に見える。マニョンが天女かと思うのも無理はない。
  「長雨」(79年)同様民族色が濃い映画だが、こちらも77年の映画で、「長雨」と製作時期が近い。偶然か。それともこの時期なにかこのような映画を作らせる何かがあったのか。先ほどの解説では「袋小路」に入っている時代状況が背後にあるという説明になっている。確かにどこか観念的なところがあるが、伝説や昔話にはこのような話は珍しくない。もっと違う事情が背後にありそうだ。
  主人公が昔の宍戸錠のようにほっぺたが異常に膨らんでいるのがおかしかった。祭主役はこれまでも何度も見かけたファン・ヘ。大分老けていたのですぐには気づかなかった。

「H」(2002年、イ・ジョンヒョク監督、韓国)
  韓国版「羊たちの沈黙」という宣伝文句通り似た設定になってはいる。しかし獄中の殺人犯(「ラブストーリー」で好青年を演じたチョ・スンウが扮している)の位置づけが違う。彼は警察にヒントを与えるのではなく、彼が逮捕された後も続く連続殺人事件を陰で操っているのだ。
  作品の雰囲気は予想通り「カル」と同じで血なまぐさく、不気味さを漂わせている。謎解きは二重三重に入り組んでいてそれなりに最後まであきさせない。獄中の殺人鬼を演じたチョ・スンウは不気味さには欠けるが、謎めいたせりふと謎めいたそぶりで刑事たちと観客を煙にまいている。女性刑事を演じたヨム・ジョンアは終始きつい顔を崩さない。事件に絡んで恋人だった刑事が自殺しているからだが、それにしても終始しかめ面では今一魅力に欠ける。もっとも、DVD付録のメイキングではきつい訓練に音を上げて泣き出す場面が映されていて(あまりに情けなくて途中で止めてしまったが)、それと比べれば精悍な(女性に使うのも変だが)刑事像をうまく演じてはいる。「カル」にも出ていたらしいが、まったく印象はない。もう一人の直情型の刑事役を演じるチ・ジニは型どおりの演技。
  真相は見てのお楽しみとするが、相当無理な設定であるとだけ言っておこう。先行するアメリカ映画から色々学んでそれを乗り越えようと努力しているのは分かるが、その結果無理な設定を持ち込んでしまっている。この点に難があるが、全体としては平均以上の出来である。
  ところで、韓国の俳優は、男優にせよ女優にせよ、日本人の俳優に似ているのはどうしてか。ヨム・ジョンアは秋野暢子似だ。ハン・ソッキュは歌手の小田和正そっくり。「殺人の追憶」のキム・サンギョンは渡部篤郎に似ていた。イ・ヨンエは奥菜恵に瓜二つだし、「ほえる犬は噛まない」のペ・ドゥナは坂井真紀似だ。他にも何人もいる。日本でも韓国でも同じような顔が好まれるということか。

「SSU」(2002年、イ・ジョングク監督、韓国)
  韓国海軍所属の海難救助隊の話だが、作りは「シュリ」によく似ていた。男女の恋愛を主軸に、ラストは悲劇的な結末を迎える。いかにもさあ泣いてくださいという作りだ。前半はとても軍隊の話とは思えないほど恋愛中心の話になっている。幼馴染のジュンとテヒョンは同期のスジンを共に愛してしまう。その三角関係が中心に描かれる。やがてテヒョンが先にスジンを好きになったことを知ったジュンは、自ら身を引く。しかしスジンの思いはジュンに向けられていた。
  スジンはイギリスに行くが、数年して少佐になって戻ってくる。彼らの直属の上官になった。出世欲にかられ無理やり潜水記録に挑ませようとする上官や、落ちこぼれだがジュンとテヒョンに反抗的な部下の存在が複線として描かれる。いかにも常道的な作りだ。
  事故で潜水艦が沈没。救助隊はその救助に向かう。潜水艦の乗組員を潜水艇に乗り移らせるが、潜水艇の定員オーバーのためスジンは例の反抗的な部下と二人で潜水艦に残る。しかしその直後潜水艦がさらに深いところまで滑り落ちてしまう。ジュン(名誉欲にかられた上官の無理な命令に背いたため営倉に入れられていたが、救助のために刈り出される)とテヒョンたちが救助に向かう。しかしジュンはスジンを忘れるために無理な潜水訓練を続けていたため潜水病になっていた。スジンは助かったが、引き上げる際にジュンとテヒョンのパイプが絡まってしまう。ジュンは潜水病のため瀕死の状態だった。上官はパイプを切断せよと迫る。迷った末にテヒョンはパイプを切断する。このあたりはまさに「シュリ」を思わせる。潜水してはならない体になっていたジュン。スジンを助けるためにジュンはもぐり英雄的な死を迎える。いかにもという作りになっている。しかし確かに後半部分は緊張が高まりぐっと観客を引き寄せる力を持っている。キネ旬のベストテンでは選外だったが、決して悪い作品ではない。しかしあざとい展開だと言わざるを得ない。

「荷馬車」(1961年、カン・デジン監督、韓国)
  前半はやや退屈だが後半はよかった。馬車引きの父親が雇い主の車にはねられ足を怪我してしまう。雇い主は車の心配はしても馬車引きの心配をするどころかぼんやり歩いているからだと怒鳴りつける。息子が抗議に行っても礼儀知らずだといって追い返す。社会的地位の問題があらわに描かれている。災難は続く。口の利けない長女は夫に暴力をArtbasya04200wa_1 振るわれ家に逃げ帰っていたが、父親からは情けないと言われ、ついに自殺する。次女は男にだまされ捨てられる。次男は盗みをして警察に捕まる。頼りは長男だけだが、司法試験の結果が出るまで何ヶ月もかかる(勉強部屋の壁に「考査突破」の張り紙が貼ってあるのが日本と同じで笑ってしまう)。
  長男は父親に代わって荷馬車を引く。司法試験の発表の日、長男は合格していた。発表会場の前に家族全員が集まる。父親に親切にしていた雇い主の家の家政婦も来ている。息子にお母さんになってほしいといわれ、彼女は父親に寄り添う。
  長男の司法試験合格ですべてが解決してしまう結末にはあっけない感じがするが、見終わったときにはいい気分になれる。ホーム・コメディのジャンルに入る作品だが、社会の底辺に生きる人たちを温かい目で描いている点に共感できる。

「夜歩く男」(1948年、アルフレッド・ワーカー監督、アメリカ)

  「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。48年の映画だが、画質は心配したほど悪くはない。内容もなかなかだ。ジャケットの「アメリカン・リアリズムの傑作」という言葉に惹かれて買ったのだが、確かによく出来た犯罪捜査ものだ。リアリズムというのは大げさな感じもするが、ロサンゼルスで実際に起こった事件を元に忠実に再現しているからだろう。犯人は最初から出てくる。いわゆる倒叙ものだ。犯人役のリチャード・ベースハートがなんとも不気味な雰囲気を出している。
  警察官が不審な人物を尋問中に銃で撃たれた。現場には何の手がかりも残されていなかった。犯人の男は電気技術に詳しいことぐらいしか分からない。その男は盗品を自分の手作り品だとして売っていた。ところがある時その商品を見た客が、これは自分が作ったもので盗まれたものだと言ってきた。そこから警官殺しと盗品転売事件が結びつき始める。警察は盗品を売りにきた男を呼び出し、二人の警官を張り込ませていたが、犯人は警官を撃ち殺して逃走する。彼は地下の排水路を利用して逃げていた。犯人の男はその後も強盗事件を繰り返す。警察は目撃者を集めてモンタージュを作る。今ではおなじみのモンタージュ写真だが、どうやら当時としては初めての試みだったようだ。
  ようやく犯人の身元が割れ、犯人の家を警官が取り巻く。犯人は事前に察知し地下排水路に逃走する。真っ暗なトンネルの中で懐中電灯だけがきらめくシーンはなかなかよく出来ている。結局犯人は追い詰められ射殺される。79分の短い映画で地味な配役であるためほとんど知られていなかったが、ちょっとした「幻の傑作」である。監督はアルフレッド・ワーカー。まったく知らない。冒頭の犯人が電気店に押しこもとする辺りの描写は壁に映る影の効果をうまく使っており、ドイツ表現主義映画の影響も感じられる。

「ファインディング・ニモ」(2003年、アンドリュー・スタントン監督、アメリカ)
  なかなかよく出来たアニメだ。「モンスターズ・インク」「シュレック」とアメリカ製アニメのレベルはこの2、3年で頂点に達している。CDによる映像はもう実写と比べてもさほど見劣りしない。色鮮やかで美しい珊瑚礁の海底を見事に再現している。しかもアニメだけに実写では映せない描写も可能だ。その力がもっとも発揮されるのはキャラクターの創造だ。実物に似せながらも独特のキャラクターをもった登場人物(登場魚?)の創造。記憶喪失の魚、魚は友達だと言うサメ、まるで漫画のようなタコ。アニメの力がもっとも発揮されるのはこのキャラクターの創造だろう。
  ただ主題とストーリーはあくまで子ども向きだ。父と子の愛情が主題であり、さらわれた子どもを必死で探す父親の冒険がストーリーの中心だ。ただ、ニモは人間にさらわれ、地上に連れ去られている。海に住むクマノミが地上の息子を取り戻すにはかなり無理をしなければならない。アニメだからこそその障害を軽々と越えられる。勢い物語はファンタジーの世界に入る。そういう意味でやはり子ども向きのアニメなのだ。
  もちろんファンタジーやアニメがすべて子ども向きとは限らない。トールキンの『指輪物語』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は大人の目線で見ても見劣りしないファンタジーだ。前者は大人の知識があってこそ十分その物語を楽しめるようになっている。映Meruhen1s 画版「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズはそうでもないが。しかし後者は大人の知識を必要としないように思える。にもかかわらず大人の想像力を刺激して止まない。『不思議の国のアリス』と「ファインディング・ニモ」の違いはどこにあるのか。おそらく前者のナンセンスを支えている皮肉や風刺の質に秘密があるのだろう。『不思議の国のアリス』の風刺は『ガリヴァー旅行記』の風刺とどこか通じるものがあるに違いない。それがおそらく「ファインディング・ニモ」には欠けているのだ(同じアメリカのアニメでも「シュレック」にはディズニー・アニメに対する皮肉が込められている)。だが、だからといって「ファインディング・ニモ」がつまらないわけではない。大人も十分楽しめる。ただ楽しめばいいのだ。毒がないのだからそうするしかない。

2006年9月10日 (日)

ホテル・ルワンダ

Kairou1 2004年 南アフリカ・イギリス・イタリア 2006年1月公開
原題:HOTEL RWANDA
監督:テリー・ジョージ
製作:A・キットマン・ホー、テリー・ジョージ
脚本:ケア・ピアソン、テリー・ジョージ
撮影:ロベール・フレース
音楽:アンドレア・グエラ、ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
    アフロ・ケルト・サウンド・システム
共同制作総指揮:ケア・ピアソン、ニコラ・メイエール、イジドール・コドロン
特別顧問:ポール・ルセサバギナ
出演:ドン・チードル、ソフィー・オコネドー、ニック・ノルティ、ホアキン・フェニックス
    デズモンド・デュベ、デイヴィット・オハラ、カーラ・シーモア、ファナ・モコエナ
    トニー・キゴロギ、ハキーム・ケイ=カジーム

  散発的に銃声が響く中、1台の戦車が南ベトナム大統領官邸の鉄柵を押し倒し広い中庭に侵入する。兵士や他の戦車が次々にそれに続く。もはや抵抗するものも少なく激しい銃撃戦はない。やがて旗ざおから南ベトナムの旗が降ろされ、するすると南ベトナム解放戦線の旗が掲げられる。2階のベランダに一人の兵士がラウドスピーカー(拡声器)を持って現れる。その兵士はベランダから身を乗り出すようにして叫んだ。「ピース・フォーレヴァー、フォーレヴァー、ピース・フォーレヴァー、フォーレヴァー」。

  南ベトナム政府が降伏し実質的にベトナム戦争が終わった日。このニュース・フィルムはこれまで何百何千と見てきたあらゆるニュース・フィルムの中でもっとも強烈に記憶に残っているものである。中でも兵士が叫んだ言葉が印象的だった。「われわれは勝利した」でもなければ、「ベトナム万歳」でもなく、「祖国は統一された」でもない。「平和よ永遠に」。長かった。ベトナム人にとってそれは本当に長い戦争だった。65年の北爆開始から数えても75年4月30日のサイゴン陥落まで10年。アメリカの前にはフランスからの独立戦争もあった。もうこれで戦争は終わったのだ。これからは永遠に平和なのだ。兵士が叫んだ言葉は偽らざる心境だったろう。

  ベトナム戦争が終結した日、僕は生まれて初めて歴史を実感した。僕にとってそれまで歴史とはフランス革命や日清戦争のような過去の出来事だった。あの日初めて、未来の歴史書や年表に間違いなく大きく書かれるはずのベトナム戦争の終結という歴史的出来事を同時代人として共有していることを実感したのだ。

  記憶が失せないうちにと思って僕が上の短い文章を書きとめておいたのはもう何年も前だ。さすがに記憶はだいぶ薄れてきたが、兵士が叫んだあの言葉は今でもはっきりと耳に残っている。「平和ボケ」という言葉が何の警戒心も無く無神経に語られている今日、あの兵士が叫んだ言葉の意味をもう一度考え直してみることは無駄ではないだろう。

  フツ族とツチ族の対立で94年の4月から6月にかけての100日間に少なくとも80万人が虐殺されたと言われるルワンダの大量虐殺事件。それを題材にした「ホテル・ルワンダ」を観て、直接関連の無いベトナム戦争のことを僕が思い出したのはこのような文脈においてである。

  7月に「ロード・オブ・ウォー」を取り上げた。「ロード・オブ・ウォー」が民族紛争などの混乱に乗じて武器を売り飛ばす側を描いたものだとすれば、「ホテル・ルワンダ」は売られた武器がどう使われたかを描いた映画である。まずこの関係を念頭においておくべきだろう(フツ族の民兵が中国から安い値段で買ったナタを運んでいる場面も出てくる)。紛争の陰には常に大国と武器商人の影が付きまとっている。

  フツ族とツチ族。その間に本質的な違いなどあろうはずもない。もともとツチ族とフツ族は対立関係にあったわけではない。同じ言語を話し、同じ地域で暮らしてきた。にもかかわらず100万人近い人間が虐殺される。政治的な利害関係が絡んでいたからだ。植民地支配する国(ドイツ、後にベルギー)が一方を重んじ、一方を軽んじたからである。民族対立をあおりつつ支配するのは植民地支配の常套手段だ。フツ族とツチ族の間に支配、被支配関係が生まれ、独立後も対立が続く。フツ族とツチ族の対立は植民地支配の負の遺産なのである。ここにもまた憎しみの連鎖が作動している。  

  映画はどちらの立場にも立たない。むしろ西洋人の目からはほとんど区別がつかないことを強調している。白人の報道カメラマン、ダグリッシュ(ホアキン・フェニックス)が酒場で隣に座っている女性たちに君はどっちだと聞く場面が印象的だ。答えを聞いても彼はフツもツチも見分けがつかないとぼやく。この視点が大事である。

  シドニー・ポラック監督の「インディアン狩り」(67)という映画がある。バート・ランカスターと黒人俳優オシー・デイヴィス主演の映画で(タイトル通りインディアンも絡んでいる)、映画の出来としては傑作というほどではないが、ラスト近くに極めて印象的な場面が出てくる。黒人のオシー・デイヴィスと白人の無法者が格闘している。近くに立っているバート・ランカスターが悪党のほうを撃とうとするがなかなか撃てない。なぜなら二人の見分けがつかないからだ。二人は泥水に浸かり泥まみれになって転げまわっている。泥で顔も肌の色も見分けがつかないのだ。結局バート・ランカスターは何とか悪党をしとめるのだが、この場面が象徴していることは明確だろう。泥で覆われてしまえば黒人も白人も見分けがつかない。肌の色などはなんら人間の本質的な違いではない、そう言っているのだ。(注)

  しかし現実には、白人と黒人ほどの違いもないフツ族とツチ族の間に互いに殺しあうほどの憎しみが渦巻いていた。なんともやりきれないが、それがまた現実である。「ホテル・ルワンダ」という映画を観ることは、そういう現実と正面から向き合うことである。ある印象的な場面がある。赤十字で働く女性パット・アーチャー(カーラ・シーモア)は目の前で子供たちが殺されるのを目撃した。「一人の女の子が背中に妹をおぶってた。殺される直前私に叫んだの。”お願い助けて、ツチ族をやめるから。”」ツチ族をやめてフツ族になるなどどうしてできよう。不可能だと分かっているからこそ、そうまで言わざるを得なかった少女の言葉が胸に突き刺さる。

  「ホテル・ルワンダ」はこの大虐殺事件に巻き込まれそうになった主人公たちがホテルに閉じ込められ、苦心の末国外に脱出するまでを描いている。主人公のポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)はルワンダの首都キガリにある4ツ星ホテル「ミル・コリン・ホテル」のOct5 支配人である。優秀なホテルマンで、エリートであった。しかしどんなにエリートであれ、所詮はアフリカ人にすぎないことを戦争によって思い知らされる。平和維持軍のオリヴァー大佐(ニック・ノルティ)がポールにこう語りかけるのだ。「分かるだろうポール。君は頭がいい、スタッフの信望も厚い。だがオーナーにはなれん。黒人だからだ。”ニガー”ですらない。アフリカ人だ。」ニグロという言葉には特に差別的な意味は込められていないが、ニガーは明確な差別語である。だが、アフリカ人はそのニガー以下なのである。面と向かってそう言われ、一流ホテルの支配人としてのポールの誇りとエリート意識がもろくも崩れ去る。大佐がその後に言った言葉はさらに打撃的だった。「軍は撤退する。」ホテルにやってきたベルギー軍はポールたちではなく白人のみを救助するためにやってきたのだ。アフリカ人同士の紛争から国連は手を引いてしまった。西欧の大国にとってルワンダの原住民などおよそ救う値打ちがないのだ。こうしてポールは「非白人」避難民と一緒にホテルに取り残される。

  オリヴァー大佐は決してポールを軽蔑して上の言葉を言ったのではない。白人たちの安全だけを考えて、危険な紛争地からの白人の脱出にばかり気を配る西欧人の対応を自嘲気味に語ったのである。大佐は「俺につばを吐け」といってこの話を切り出したのだ。報道キャメラマンのダグリッシュも退去の際ホテルマンが差し出す傘を断り、「恥ずかしい」といって雨に濡れたままでバスに乗り込んでいった。この映画はアフリカ人の苦悩ばかりではなく、西欧人の良心と苦悩もあわせて描いている。平和維持軍は現地に残り活動を続けたが、生命の危険があるとき以外は武器を使えない。悔しさに歯軋りしながらも、オリヴァー大佐は体を張って任務を全うしようと努力したのだ(平和維持軍は全土で300人しかおらず、ホテルの警備には4人しか回せない状況だった)。赤十字のパット・アーチャーも現地に踏みとどまり、何人ものツチ族の孤児たちを救った。しかし彼らの意思も勇気も現実の前ではほとんど無力だった。国連軍の撤退によってポールたちは絶体絶命の状況に投げ出される。彼らには身を守る何の手段もない。

  そこからポールの苦難と活躍が始まるのだが、「ホテル・ルワンダ」は決して彼を人並みはずれたヒーローとしては描かなかった。この映画の製作は南アフリカ・イギリス・イタリアだが、アメリカではなくイギリスが一枚噛んでいることに注目すべきだ(監督のテリー・ジョージは北アイルランドのベルファスト生まれ)。ハリウッド製作ならもっと違った映画になっていただろう。イギリスは南アフリカのアパルトヘイトを描いた力作「遠い夜明け」(リチャード・アッテンボロー監督、87年)や「ワールド・アパート」(クリス・メンゲス監督、87年)を作ってきた。「ズール戦争」(サイ・エンドフィールド監督、63年)では、イギリスの植民地支配にこそ直接触れなかったが、ズール族を公平な視点で描いていた。決して野蛮人のようには描かなかった。サッチャー政権以後イギリスはどんどんリトル・アメリカ化してきているが、イギリス映画人の批判精神はまだまだ健在である。

  和平協定成立直後にハビャリマナ大統領が暗殺され、ルワンダ国内は一気に民族間紛争が激化する。ポールはフツ族だが、妻のタチアナ(ソフィー・オコネドー)はツチ族である。いつ家族の身に危険が迫るか分からない。映画はサスペンス映画の様相を呈しはじめる。避難民が次々に逃げ込んできて、ホテルは難民キャンプの様になってしまう。ポールのとっさの機転でホテル本社の社長(ジャン・レノ)に裏からフランス政府に手を回してもらい、何とかホテルの安全は当面保たれた。政府軍(フツ族)を援助しているのはフランスだったのである。ここにも「ロード・オブ・ウォー」の世界がある。しかしこのままではまるで猛獣がうろつくジャングルの中で逆に檻に入ってかろうじて身を守っているような状態である。フランスから援助を受けているルワンダの政府軍はまだ統制がきくが、彼らが去ってしまえば民兵が何をするか分からない。この危機的状況からいかに脱出するか。映画は何度も危機的な状況を設定しサスペンスを盛り上げる。

  ポールは抜け目の無い男であった。映画の最初のあたりで政府軍の将軍をもてなしている場面が出てくる。将軍がクロークにカバンを預けてあるとそれとなく支配人のポールに伝える。するとポールはさっとその場を辞し、クローク係に高級酒2本を渡し、将軍のカバンに入れろと指示する。賄賂である。鼻薬として1本1万フランもするハバナ産の葉巻を贈ったりもしている。内戦が続く不穏な情勢の中で権力者に取り入って抜け目無くやってきた。妻のタチアナが、向かいの家の男が連れ去られるのを見てポールに何とかして欲しいと頼んだ時、ポールはこう答えた。「タチアナ、俺は毎日将校や外交官や観光客をもてなしている。恩を売っておいて、いざという時に助けてもらうためだ。」彼の心は家族の安全を心配するだけでいっぱいで、たとえ親しい隣人であっても危ない橋を渡る気はなかった。

  「わが家の犬は世界一」の主人公も同じだったが、特別な権力を持たない人間の武器は賄賂とコネである。家に踏み込んできた民兵たちに妻や匿っていたツチ族を殺すと脅された時は、民兵の隊長に賄賂を渡して何とかその場を逃れた。あるいは、最後に立てこもったホテルの中でポールは従業員や「滞在客」たちにこう呼びかけた。「援助は来ない。介入軍もだ。自衛するしかない。外国の有力者に連絡してくれ。私たちの危機を知らせてお別れを言うんだ。だがその時、電話を通して相手の手を握りなさい。手を離されたら死ぬと伝えるんだ。彼らが恥じて救援を送るように。忘れるな。ここは難民キャンプじゃない。兵士はここが4ツ星ホテルだと知ってる。それが私たちの命綱だ。」

  何という心細い命綱か。いつの間にか従業員100人のほかに避難民が800人も集まってきていた(最終的には1268人の避難民をホテルに匿った)。彼ら全員の命はポールにかかっていた。最初は家族のことだけを考えていたが、いつしか彼の意識はホテルにいる全員に向いていた。決して颯爽とはしていない。しかし彼は常にネクタイを締め、きちOpen1_1 んとした服装を崩さずホテルマンとして振舞った。この描き方がいい。妻のタチアナが「隣人たちが感謝してた」と話したとき、ポールはこう言った。「今は後悔してる。支配人になったとき言われた。”ホテルの品位を落とすな”、”いつでも尊厳を保て”と。」しかし単にホテルマンとしての使命感だけでここまではできない。危機に直面して人間の真価が問われる。もともと持っていた素質が危難に際して鍛え上げられたのだ。彼はフツ族もツチ族も分け隔てなくホテルに受け入れた。映画のラストでポールの言った言葉「いつでも部屋は空いていた」に示されるように、彼のそういう姿勢がホテル内を1つにまとめ上げたのだろう。

  もちろん彼も生身の人間。くじけそうになった時もある。食料調達の後川沿いの道を走っていたポールたちは深い霧につつまれ前が見えなくなってしまう。車が妙に揺れる。車を止め、車外に出たポールは何かに躓きひっくり返る。霧が少しはれた時、そこに見えたのは累々と横たわる死体の山だった。その後何とかホテルまで戻り血の着いたシャツを着替えるが、どうしてもネクタイがうまく結べない。やがてポールは床に崩れ落ち泣き崩れる。心の動揺を言葉や表情で直接表現するのではなく、ネクタイで象徴的に表す描き方が実に秀逸だった。

  ポールたちは最後に二度目の脱出を図る(1度目は途中で民兵に襲われホテルに逃げ帰る)。もう賄賂に使う金も酒も宝石も残されていない。刀折れ矢尽き。平和維持軍のトラックに分乗して民兵たちの中を突っ切る。彼らが助かったのは丁度その時ツチ族がフツ族を襲撃したからだ。前線を突破した彼等はツチ族支配地区の難民キャンプに到着する。自分たちの力ではどうすることもできず、平和維持軍という外国人に頼らなければならないという現実。大国に翻弄されてきた小国の悲劇。その点はよく描かれていた。

  武器も使えない状況で現場に残った平和維持軍に対しては好意的に描いているが、西側諸国に対するこの映画の視線は冷ややかである。この映画を観てきた人が必ず指摘する重要な場面がある。報道キャメラマンのダグリッシュがホテルの1キロ先でナタで住民を殺している虐殺現場をビデオに撮ってくる。たまたまその映像を観たポールがダグリッシュに言う。「あの残虐行為を見れば必ず助けに来る。」これに答えるダグリッシュの表情は苦渋に満ちている。「世界の人々はあの映像を見て”怖いね”と言うだけで、ディナーを続ける。」遠いアフリカで起きている残虐行為に世界がいかに無関心であるか。映画は観ているわれわれにその事実を突きつけている。カメラに写された現実とそれをお茶の間で遠い国のニュースとして観る人々、その隔たりは悲しいほど大きい。

  しかし、ただ無力感に襲われているだけではこの映画を観た意味はない。自分自身無力感に襲われながらもダグリッシュは紛争地に赴いた。身の危険を知りながらもカメラを回した。ほとんど何もできない悔しさに歯軋りしながらもオリヴァー大佐は最後までポールたちを守り抜いた。そういう人たちがいる。自分の家族だけではなくホテルに逃げ込んできた人全員を救ったポールだけが活躍したわけではない。互いに殺しあう人間たちのおろかな現実に圧倒的されながらも、やはりポールや大佐や赤十字のアーチャーたちに僕は共感を禁じえない。負の面だけに目を向けるのではなく、反対の面にも目を向けよう。虐殺ばかりではなくその後の経過にも目を向けよう。ツチ族によるルワンダ愛国戦線(RPF)は全土を完全制圧した後、新政権を樹立。ビジムングを大統領に選んだ。その後を引き継いだポール・カガメ大統領は出身部族を示す身分証明証を廃止した。民族融和の政策を図り、民主化を進めているようだ。もちろん、まだまだこの先どうなるか分からない。一所が落ち着いてもまた別のところで紛争が噴き出す。しかしとにかく前を見るしかない。

  映画のラストは明るい調子で終わる。しかし、エンドロールのバックに流れるMillion Voicesの曲はわれわれに疑問を投げかける。なぜアフリカはアメリカのように「アフリカ合衆国」になれないのか?なぜイギリスのように「アフリカ連合王国」になれないのか?絶望はいらない。疑問を持ち、絶えず問い続けることが必要なのだ。疑問を持たなくなった時、現状肯定と無関心が始まる。

  ポールを演じたドン・チードルが何と言っても素晴らしかった。「青いドレスの女」、「ボルケーノ」、「アウト・オブ・サイト」、「トラフィック」、「ミッション・トゥ・マーズ」、「オーシャンズ11」、「ソードフィッシュ」。彼の出演作をこれまで7本も観ていたのだが、どういうわけかほとんど彼の印象がない。こんなに観ていたのかと調べてみて自分で驚いたほどだ。僕が彼を初めて意識したのは映画ではなくテレビドラマだった。「ER」第10シーズンにパーキンソン病にかかっているインターン役で出てきた時だ。結局ドラマのレギュラーにはならず途中で病院をやめてしまうのだが、短い間にもかかわらず鮮烈な印象を残した。ヒューマンな役どころが実によく似合う。「クラッシュ」にも出ているようだ。今後の活躍が楽しみである。

  もう一人、オリヴァー大佐を演じたニック・ノルティにも触れておきたい。彼は本当に素晴らしかった。あの精悍な顔が実に頼もしく思えた。しかし彼の顔は常に苦渋にゆがんでいる。血のりが付いた彼の部下の青いヘルメットを民兵が彼の前に放り投げても、手出しができない。首相を護衛していた部下たちが首相と共に殺されたのだ。身をよじるほどの悔しさに彼は耐えた。武器を持ちながら武器を使えない悔しさ。平和維持軍とはいったい何なのか。考えさせられた。しかし銃を使うことなくホテルの人々を守った彼は、アメリカ映画のヒーロー像とは違う別のヒーローだった。「ダブル・ボーダー」での迫力もすごかったが、恐らく彼はこの映画で「ダブル・ボーダー」も「48時間」も超えた。素晴らしい性格俳優になったものだ。

<参考> アフリカ関連の映画
「アマンドラ!希望の歌」(02年、リー・ハーシュ監督、南アフリカ・アメリカ)
「名もなきアフリカの地で」(01年、カロリーヌ・リンク監督、ドイツ) 
「白く渇いた季節」(89年、ユーザン・パルシー監督、アメリカ)
「遠い夜明け」(87年、リチャード・アッテンボロー監督、イギリス)
「ワールド・アパート」(87年、クリス・メンゲス監督、イギリス)
「アモク!」(81年、スウヘイル・ベン=バルカ監督、モロッコ・ギニア・セネガル)
「アレキサンドリアWHY?」(79年、ユーセフ・シャヒーン監督、エジプト)
「チェド」(76年、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル)
「放蕩息子の帰還」(76年、ユーセフ・シャヒーン監督、エジプト)
「エミタイ」(71年、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル)
「アルジェの戦い」(66年、ジッロ・ポンテコルヴォ監督、イタリア・アルジェリア)

 →「ゴブリンのこれがおすすめ 36 アフリカ関連映画」という記事により詳しいリストが載っているので、関心があればそちらも参照していただきたい。

<注>
 ロバート・ワイズ監督の「拳銃の報酬」にも「インディアン狩り」とほぼ同じ象徴的意味を込めた場面が出て来る。ロバート・ライアンとハリー・ベラフォンテは互いに人種的憎悪を持ちながら、金のために手を組んで銀行強盗を働く。しかしもう一歩というところで失敗。首謀者のエド・ベグリーは警官に撃たれて死ぬが、2人は逃げ切れる可能性はあった。しかしロバート・ライアンの人種的偏見に基づくある行動がその可能性をつぶしてしまった。二人は仲間割れして互いに銃で撃ち合い、ついにはそれた弾がオイルタンクを撃ち抜き、2人は黒焦げになる。死体を収容に来た男が「どっちがどっちだ」と警官に聞くが、結局見分けがつかないまま二つの死体は運ばれてゆく。これがラストシーンである。

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