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2006年8月27日 - 2006年9月2日

2006年9月 2日 (土)

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録

1975年 1975年9月公開 150分
監督、製作、構成:新藤兼人
編集:近藤光雄、藤田敬子
出演:川口松太郎、大洞元吾、牛原虚彦、田中栄三、伊藤大輔
    中野英治、入江たか子、三木茂、山田五十鈴、進藤英太郎
    山路ふみ子、田中絹代、中村鴈次郎、乙羽信子、京マチ子
    小沢栄太郎、若尾文子、香川京子、増村保造、浦辺粂子
    小暮美千代、森赫子、荒川大、柳永二郎、内川清一郎
    安東元久、酒井辰雄、依田義賢、宮川一夫

  「愛妻物語」(51)、「原爆の子」(52)、「裸の島」(60)、「地平線」(84)、「午後の遺言状」(95)に続いて、新藤兼人監督作品を観るのはこれが6本目。意外に観ていないと自分でも驚いた。もっとも、「安城家の舞踏会」(47)、「お嬢さん乾杯」」(49)、「女ひとり大地を行く」063802(53)、「しとやかな獣」(62)、「けんかえれじい」(66)、「軍旗はためく下に」(72)等々、彼の脚本作品は結構観ている。一方、溝口健二作品は「折鶴お千」(34)、「浪華悲歌」(36)、「祇園の姉妹」(36)、「夜の女たち」(48)、「武蔵野夫人」(51)、「西鶴一代女」(52)、「雨月物語」(53)、「祇園囃子」(53)、「近松物語」(54)、「赤線地帯」(56)と全部で10本観ている。こちらは逆にこんなに観ていたのかと驚いた。人の記憶とは当てにならないものだ。初めて出会った溝口作品は73年6月13日にフィルムセンターで観た「折鶴お千」。今回映画ノートを調べてみるまで観たことすら忘れていた。

  個人的なことはこれくらいにして本題に入ろう。「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」は、新藤監督が師と仰ぐ溝口健二監督の生涯を新藤監督の視点からまとめ上げた記録映画である。俳優、監督、脚本家、キャメラマンなど、溝口作品にかかわった39人の人たちに新藤監督自らがインタビューしたものである。先月の25日にNHK衛星第2で放送された「シネマの扉 溝口健二特集」で観た映像の一部は、この映画から取られている事が今回観て分かった。いかに貴重なインタビューが詰まっているかそのことでも分かる。

  ところで、「新藤監督の視点からまとめ上げた」と書いたのは、頻繁に新藤監督のナレーションが入り、また質問も監督自身の関心のある話題を中心に取り上げているからである。たとえば、新藤監督が田中絹代に溝口監督との仲をしつこく聞きだしている場面があり、きっとなった田中絹代がいい機会だとばかりにとうとうと反論するあたりは画面に緊張感がみなぎっているが、個人のプライバシーにはまったく関心を持たない僕としては全部カットしてもいいと感じた。しかしだからといって、そのことがこの映画を歪んで偏ったものにしているとは思わない。インタビューに答えた人たちがそれぞれに自分の考えを語ったように、新藤監督も自分の考えを語っただけだ、そう考えればいい。もちろん彼が聞かなかったことや編集の際にカットされた意見もあるわけだが(『ある映画監督の生涯』という本にもなっており、そちらにはインタビューのすべてが載っているようだが)、そもそも周りの人たちからのインタビューで溝口監督のすべてが分かるわけではないので、語られたものは語られたものとして受け止めればいいだろう。

  インタビューの場所は家の前の庭や街頭、果ては駅のホームのベンチなど様々な場所を選んで変化をつけている。インタビューをつなぎ合わせた作りになっているが、溝口監督の生い立ちから「大阪物語」の準備中に亡くなるまで、溝口監督の生涯をたどりながらその時々の出来事や作品に関するインタビューを織り込んでゆくという時系列的構成になっている。ところどころ溝口作品の写真や映画の一場面がインタビューに差し挟まれている。テレビのインタビューなのか、溝口監督自身がインタビューに答えている古い映像も収録されている。

  上に名前を列挙したように、インタビューを受けているのは錚々たる面々である。中でも驚いたのは伊藤大輔監督。生まれは溝口と同じ1898年だからインタビュー当時77歳。まさか動く彼の姿を観られるとは思ってもいなかった。相当に渋い顔になっていて、インタビューの途中でタバコに火をつけてスパスパ吸っている姿が印象的だった。伊藤監督は長生きで、亡くなったのは1981年。溝口監督は56年没だから、何と彼より25年も長く生きている。ちなみに、新藤監督は1912年生まれなので、二人は彼より14歳年上になる。

  インタビュー主体のドキュメンタリー映画で、しかも上映時間は150分もある。一部中だるみするところもあるが、いずれも貴重な証言ばかりなので最後まで引き付けられた。39人の話から浮かび上がってくるのは、撮影所では鬼のように厳しいが、撮影所の外では人Kagaribihotaru1 懐こい性格、演技指導は何も具体的な指示はなく俳優に考えさせる方式、酒と女が大好きで飲むと酒乱の癖があり、女に背中を切りつけられる情痴事件も起こしていた(これはこの映画を観るまで知らなかった)、撮影当日に脚本を検討しなおしてどんどん書き換えてゆく(まったく俳優泣かせだ)、こういった人物像である。もちろんこれは他人が見た溝口健二であって、当然これがすべてではない。あくまで溝口を理解するうえでの参考資料に過ぎない。しかしそれでも、彼の映画に対する人並みはずれた打ち込み具合(何しろテンションが下がるのを嫌って休憩時間でも撮影所から出ず、トイレは尿瓶で済ませていたというからすごい)、彼を鬼のようだと言いながら踏ん張って彼の厳しい要求にこたえた俳優やスタッフたちの情熱と誇りが画面から伝わってくる。

  さらには当時の映画製作をめぐる事情や具体的な撮影方法などがいろんな側面から語られているので、そういう意味でも貴重である。この映画は劇映画ではなくテレビの特別番組のようなものなので、作品の出来をあれこれ批評しても仕方がない。今回のレビューはむしろ様々なインタビューから印象に残った言葉を並べるというかたちをとりたい。

  まずは溝口監督に関する基本データから(引用文は必ずしも語られた言葉そのものではないことをお断りしておきます)。

<溝口健二略歴>
 1898年5月16日、溝口善太郎の長男として生まれる。1956年8月24日永眠。享年58歳。東京の池上本願寺に葬られたが、映画では分骨された京都の満願寺の石碑が映されている。

  映画の世界に入ったのはふとしたはずみ。家が浅草裏にあり、白髭橋の対岸にあった日活向島撮影所に近かったため、監督や俳優と知り合いになり、割合簡単に撮影所に入る。俳優志望だったが、助監督にさせられる。助監督暦2年で監督になる。当時女性は映画に出られず、代わりに女形が演じていた。しかしやがてレンズが女形を受け付けなくなり、それに抗議して18名の監督が辞めてしまう。それで溝口の監督昇任が早まったという事情だったようだ。

  大正12年の関東大震災で向島の撮影所が壊滅。京都の日活大將軍撮影所に引っ越す。「溝口健二が京都に生活を移したことは、その生涯に決定的なものを植えつけることになります。江戸の下町育ちという体質におよそ対照的な関西の風土が溝口健二に新しい血をまじえることになるんですね。この江戸と上方の血のまじわりは後年の溝口健二の基盤となるわけです」(新藤)。

  「赤い夕陽に照らされて」(25)を撮っている時に木屋町の売春婦に背中をかみそりで切りつけられる事件が起こる。入院して半年くらい謹慎していた。その2年後ダンサーの嵯峨千恵子と結婚。

  「都会交響曲」(29)や「しかも彼等は行く」(31)などの傾向映画を何本か作る。溝口の下に一時身を寄せていた、当時プロレタリア文学の先鋭であった林房雄の強い影響があったようだ。日活多摩川で「愛憎峠」(34)を撮った後、第一映画に移り、「浪華悲歌」と「祇園の姉妹」の名作2本を残す。新興キネマで「愛怨峡」を撮り、松竹京都撮影所で「残菊物語」(39)、「浪花女」(40)、「芸道一代男」(41)の、いわゆる「芸道三部作」を撮る。

  戦争時代末期は「戦時色に及び腰で対応した平凡な作品」(新藤)を何本か撮っている。50年代に入り「雨月物語」、「祇園囃子」、「近松物語」、「山椒大夫」(54)、「赤線地帯」等の傑作群を次々に発表。「大阪物語」の準備中に倒れ、永眠。

<昔の映画撮影の様子>
 昔はグラス・ステージ(総ガラス張りの撮影所)などなくテントだった。時々風でテントがめくれて光が差し込む。それでも無理に撮っていた。その後グラス・ステージができた。当時は今のように照明を当てて撮るのではなく、天然の光で撮影していた。だからガラス張りの撮影所が必要だった。キャメラマンは照明から現像にいたるまで全部自分でやった。1週間から10日で1本撮り上げていた。(大洞元吾、キャメラマン)

  上野なら上野でロケをするとシナリオを2本持ってゆく。同じ役者が衣装を変えて2本分別々に撮る。当時は2本立てでロケーションをやるのは別に不思議なことではなかった。(牛原虚彦、監督)

  当時はキャメラの横で監督がせりふを読み上げる。女形がそれに応じてせりふを言い、演じる。そういうやり方だったのです。(伊藤大輔、監督)

<溝口健二:人と映画の撮り方>
   同じ映画会社の村田実監督が男性をよく描いた。だから会社からお前は女を描けと言われた。最初は会社の方針だったわけです。いろいろ撮っているうちに自然と女性に興味がわいてきた。(溝口健二)〔女性映画を得意とされていますね、という質問に答えて〕

  「滝の白糸」は脚本がなかった。その日その日に脚本を書いてくる。溝口さんの演出方法というのはね1カットの中に何カット分も入っているわけですよ。だから1カットを撮り終えた時にね、ふっとこうなっちゃうんだなあ。それはくたびれる。カットがいくら多くてもね、いTudumi_fue1 い加減にやっている監督の場合は体が疲れない。溝口さんの1カットてのは疲れる。(三木茂、キャメラマン)

  泉鏡花もの、明治ものにとらわれて呪縛されていた。これから解き放たれなければならないと自覚していたんだと思います。〔一時のスランプを脱して「浪華悲歌」や「祇園の姉妹」を作った頃を振り返って〕(依田義賢、脚本家)

  一生女優として生き抜いてゆこうと思いましたのはね「浪華悲歌」がきっかけでした。 「あっ、スキヤキや、うちもよばれよう」というせりふがうまく言えなくて2、3日かかったことがありました。リハーサル中もずっと寒くてぶるぶる震えながら橋の上に立っていた。ある時先生が後ろから近づいてきて自分のオーバーをかけてくださった。普段厳しいだけに涙がじっとたまってきましてね。(山田五十鈴)

  自分が朝一番先に撮影所に行ったと思ったら、真っ暗な中に監督が一人で座っていました。(山路ふみ子)

  とにかく戦後の民主主義というものはね、あの人まあつかめなかったね。階級意識が強かったよ。どこか官尊民卑の考え方があった。(川口松太郎)〔ベニス映画祭の時に溝口が日蓮上人の画像を持ち歩いていて、審査発表当日は必死で祈っていたことなどは依田義賢や田中絹代も触れている。〕

  「雨月物語」のある有名なシーンを撮り終えた時、緊張が解けてどっと疲れが出ました。普段は撮影中にタバコなど呑む余裕はないのですが、ほっとした森雅之さんがタバコを周りの人から1本もらった。しかしマッチがない。それを探すそぶりをした。そこへ溝口監督がたったと走って近づいてライターで火をつけてあげた。その顔はこの上もなく満足げでした。初めて俳優に平伏したという感じでした。(京マチ子)

  「楊貴妃」は溝口さんのまったく知らない世界なので戸惑っていた。正直に狼狽して、正直にめちゃくちゃなことをやっていた。そこがまた溝口さんらしい。  自分の分からない不得手なものにあったら最後、逆上して分からなくなってしまう。大騒動になっちゃう。(増村保造、監督)

  女性関係では人生の下積みで苦労したような人に特に興味を持たれ、関係されたりしていたわけですけど。(新藤兼人)

<その他>
  どうにもならない役者の持ってるものってありますよ。「そこんとこテンポもう少し上げてリズミカルに」なんて言ったってね、その役者にはそれはできない。別の良さはあるけれども、それはできないというものはありますね。それを持っている役者ははじめから持っていて、つーと言えばつーと。それが良い悪いじゃなくてね。AならAの持ち味と、Bの持ち味を組み合わせてゆく、そこにまあ演出があるわけですわね。(小沢栄太郎)

  「近松物語」の時、歴史劇は初めてで京都弁も裾の長い着物の引きずり方も分からない。浪花千恵子さんに頼み込んでいろいろ教えてもらいました。浪花千恵子さんは付きっ切りで教えてくれました。(香川京子)

2006年8月31日 (木)

僕と未来とブエノスアイレス

2003年 アルゼンチン・スペイン・仏・伊 2006年1月公開
原題:El Abrazo partido
Corkb01 監督:ダニエル・プルマン
製作:ディエゴ・ドゥブコフスキー、ダニエル・ブルマン
脚本:マルセロ・ビルマヘール、ダニエル・ブルマン
製作総指揮:ディエゴ・ドゥブコフスキー
撮影:ラミロ・シビータ
編集:アレハンドロ・ブロデルソン
美術:マリア・エウヘニア・スエイロ
音楽:セサル・レルネル
出演:ダニエル・エンドレール、アドリアーナ・アイゼンベルグ
   ホルヘ・デリーア セルヒオ・ボリス、ディエゴ・コロル
    アティリオ・ポソボン、シルビーナ・ボスコ 、イサーク・ファヒン
    サロ・パシク、メリナ・ペトリエラ

  久しぶりに観るアルゼンチン映画。アルゼンチン映画といえば思い浮かぶのはルイス・プエンソ監督の「オフィシャル・ストーリー」(1985)、エクトル・オリベラ監督の「ナイト・オブ・ペンシルズ」(1986)、そして何といってもフェルナンド・E・ソラナス監督。「タンゴ ガルデルの亡命」(1985)、「スール その先は・・・愛」(1988)、「ラテンアメリカ光と影の詩」(1992)などの優れた作品を放ってきた。アルゼンチンを代表する、いや中南米を代表する監督である。アルゼンチン映画に勢いがあったのは80年代。毎年のように作品が日本で公開されていた。このところひところの勢いがなくなったと思っていたら「僕と未来とブエノスアイレス」がやってきた。傑作というほどではないがさわやかな味わいの佳品である。

  メキシコからのアメリカ移民を描いた「スパングリッシュ」や南米で養子を探すアメリカ人女性たちを描いた「カーサ・エスペランサ」、これらのアメリカ映画2本をはさんで、本格的中南米映画を観るのはウルグアイの「ウィスキー」以来だ。「ウィスキー」は僕としては薄味すぎて物足りなかった。もう少し何らかの味付けが欲しかった。「僕と未来とブエノスアイレス」にはしっかり味付けがされている。その味付けは人情味。ねじめ正一の『高円寺純情商店街』をもじって言えば、「ブエノスアイレス人情商店街」といった感じの映画である。かつては政治的な作品が多かったが、最近はより身近な話題をテーマにしたこの種の映画が増えてきているようだ。出てくる人はみんないい人たちばかりで、人情に篤い。典型的な人情話。その意味では新鮮味はうすい(もっとも、中南米映画で人情ものは珍しいと言えるが)。しかしこの映画はただの人情ものではない。人情味を添えて出されるメインの料理はユダヤ人問題と父子の葛藤である。

   ガリレアと呼ばれるアーケード商店街はどうやらユダヤ人街の一角にあるらしい。登場人物の多くがユダヤ人だ。映画の冒頭、「ガリレアには物語がある」で始まるラモンのナレーションで登場人物が紹介されてゆく。ラジオ修理店のイタリア人サリガーニ(アティリオ・ポソボン)。彼の奥さんは隣で美容室を経営している。風水グッズの店を営む韓国人のキムと奥さん。生地屋のレビン兄弟(実際はいとこ同士)。インターネットカフェを経営するリタ(シルビーナ・ボスコ)。表向きは旅行代理店、陰で金融商売をしているリトアニア人のミッテルマン(ディエゴ・コロル)。文房具屋のオスワルド(イサーク・ファヒン)。ランジェリー店を営むソニア・マカロフ(アドリアーナ・アイゼンベルグ)と店を手伝っている役立たずの息子アリエル(ダニエル・エンドレール)。兄のジョセフ(セルヒオ・ボリス)はガラクタ雑貨の輸入をしている。祖母(ロシータ・ロンドネル)も近くに住んでいる。しかし父のエリアス(ホルヘ・デリーア)はイスラエルに戦争で行ったきり帰ってこない。紹介の中には入っていないが、ユダヤ教司祭(ノルマン・エルリッチ)も人物リストに加えておこう。

  面白いのは、映画の主人公が冒頭でナレーターを務めたラモンではないことである。ラモンによって「役立たず」と紹介されたアリエルが主人公なのである。母のランジェリー店を手伝っているのに、何ゆえ「役立たず」なのか?ラモンの真意は分からないが、推測はできる。アリエルはもともと建築家志望だった。しかし才能がないので諦めて、母の店を手伝いながらぶらぶらと人生を送っている。エステラ(メリナ・ペトリエラ)という恋人がいたが別れてしまい、今はネットカフェを営むリタと熱い仲(どうやらぷりぷりのお尻に惹かれたようだ)。社会の中へ一歩を踏み出せずに宙ぶらりんの状態でだらだらと日常をおくっているすねかじり息子。ラモンはそれを指して「役立たず」と言っているのだろう。

  アリエルは30歳である。その年になってもまだ自分の生き方に迷っている。その表れが祖父母の国であるポーランドに移住したいという願望。ユダヤ人である祖父母はユダヤG3 人狩りを逃れてアルゼンチンにやってきたのである。しかし、そのためには祖父の出生証明書が必要なのだが、祖母は彼女たちを追い払ったかつての祖国をひどく毛嫌いしていて容易に証明書を渡してくれそうもない。「ヨーロッパではユダヤ人は殺される」と信じ込んでいる祖母はアリエルのポーランド移住自体に反対するだろう。それでもアリエルはポーランドに移住すれば新しい生活が始まるだろうという漠然とした希望を捨てきれない。映画は、この希望が実は幻想であることにアリエル自身が気づきアルゼンチンで生きてゆこうと考え直すまでを描いている。一見商店街の人々が交錯する人情話的群像劇に見えるが、この映画の主題はアリエルがアイデンティティを確立してゆく過程にあるのだ。「僕と未来とブエノスアイレス」とはそういう作品である。

  となれば、この主題がどれだけ深く、どれだけ説得的に描かれているかがこの作品の評価を大きく左右する。その点を詳しく見てゆく前に公式サイトからこの映画の前提となるいくつかの情報を確認しておこう。まず、アリエルの人物設定にはダニエル・プルマン自身がある程度投影されているようだ。監督の祖父母も「戦前のポーランドでユダヤ人狩りにあってアルゼンチンに逃れてきた」人たちである。ブエノスアイレスのユダヤ人街オンセ地区は南米最大のユダヤ人居住地である。祖父母たちが逃れてきたポーランドに移住しようとアリエルは考えるわけだが、その背景には、数年前にアルゼンチンで経済危機が起き、その時「多くの人がヨーロッパに移民することによって新しい生活を夢見る集団幻想に駆られていた」という事情がある。監督自身もポーランド国籍のパスポートを手に入れたが、その後の葛藤を経てアルゼンチンにとどまったという経験を持つ。監督はアリエルについてこう語っている。「今おかれている状況から逃れようとするうちに、彼は自分の存在、アイデンティティの基盤のようなものとの対峙を余儀なくされるんだ。」

  アリエルの「アイデンティティの基盤のようなもの」とは何か。ポーランド移民の血を引くユダヤ人であること、1つはこのことだろう。しかしユダヤ人であることはアリエルにとってそれほど重要な問題ではなかった(少なくとも祖母ほどは)。むしろアリエルにとって重要なのは父親との関係である。彼は自分が生まれてすぐに家を出た父親を恨んでいる。イスラエルから毎月電話をかけてくる父とうれしそうに話している母親にも苛立ちを覚える。さらにアリエルはラビ(神父)から両親が離婚していることを教えられる。離婚証明書によれば、彼の両親は1973年8月に離婚している。父親が参戦した第四次中東戦争が始まった73年10月よりも前である。それだけではない。両親の離婚はアリエルが生まれるよりも前だったのである。アリエルはなぜそのことを隠していたのかと母親を責める。母は、戦争は人の意識を変えるのだと言うだけ。そしてイタリア映画の名作「ひまわり」をたとえに引く。その時アリエルはこの名作を見ていなかった。だから母親の気持ちを理解できない。

  映画の後半アリエルは運命の出会いを迎える。ラモンとペルー人が大きな荷物を載せた手押し車を押してゆくレースをしている時に、右腕のない男が現れる。アリエルは、一度も会ったことがないのに一目見てそれが父親だと悟る。この場面は商店街の人々をめぐるエピソード(レース)とアリエル個人の葛藤のテーマとが交差する場面であり、映画の大きな転換点でもある。ここからアリエルと父親の「対話」が始まる。アリエルが友人にビデオを借りて「ひまわり」を観るのはこの出会いの後だ。この映画を機にアリエルの考えは大きく変わる。彼は父親と初めて話をする。その時父親の言った言葉が印象的だ。右手がなくても不自由はないと言った後、父親はこう続ける。「でも一番したかったことができなかった。お前を抱きしめることだ。」しかしまだアリエルの気持ちは父親を受け入れるところまでは整理できていなかった。出会った時と同じように彼は走って父親から逃げる。彼が父親を受け入れられるようになったのは、父が母から去った理由を母から聞いた時だ。

   ラストがいい。父親はアリエルにバベルの靴を一緒に買いにいこうと誘う。二人は肩を組み、アルゼンチンで最高の靴屋へと歩いてゆく。この映画の素晴らしいところは決して泣かせる場面を作らなかったことだ。最後までコメディタッチを貫いている。泣かせるせりふParis13 よりも二人で靴を買いに行くという終わり方のほうがずっとしゃれている。その後にアリエルのナレーションが入る。「昨夜自分が父親になる夢を見た。子供は出てこないのに父親の気分だった。空中を浮遊するような不思議な感覚だ。誰かを思い切り抱きしめたくなった。なぜかは分からないが。」自分が父親の立場になって考えられるようになった時、彼は父親を理解できるようになった。心が浮き立つような「浮遊」感の中で、彼はそれまでの目的もなくだらだらと生きていた「浮遊」生活に終止符を打った。

   自分の人生を見出したのはアリエルばかりではない。父親も過去を吹っ切れたからブエノスアイレスに戻ってこれたのだ。元夫が戻ってきたことで母親にも明るさが戻ってきた。そして辛い過去を乗り越えた人物がもう一人いる。アリエルの祖母だ。彼女は元歌手で、ワルシャワのクラブで歌っていた。しかし辛い過去を思い出したくないために歌うことをやめてしまった。彼女は祖父の出生証明書が欲しいと頼みにきたアリエルに意外なほどあっさりと証明書を渡す。そして同時に歌の封印を解き、歌い始める。その時から彼女に歌が戻ってきた。それまで避け続けてきた祖国にあえて行こうとする孫に、彼女は何かを託そうとしたのだろう。その時彼女も過去を乗り越えたのだ。エンドロールが流れる中、歌手に戻った彼女がステージで歌っている。その最後の歌詞が心に残る。「残された手で生きていこう」。「ひまわり」のような、胸を揺さぶる感動はこの映画にない。しかし親子の絆を結びなおし、過去へのこだわりを乗り越えることでそれぞれに生きる道を見出して行くこの映画のラストは実にさわやかだ。

   作品の出来という点で言えば、アリエルの葛藤が充分深く掘り下げられていないので傑作にはいたらなかった。アリエルの葛藤が掘り下げられないのは、彼の葛藤が父親との関係に収斂しているからである。父親と和解した時にポーランドに移住するという彼の夢は自然に消えていった。その夢は恐らく社会に根を張っていないという漠然とした自覚から発したもので、その意味では一種の逃避だった。不在だった父親が戻り彼と家族の絆はしっかりとしたものになった。家族の絆を通し社会との絆もよりしっかりとしたものになる。だからアリエルはブエノスアイレスにとどまる決心ができた。そう言いたいのだろう。父親の不在、映画の描き方では問題の根本はそこにあったことになる。そういう意味でアリエルが父親になった夢を見たと語ることが必要だったのである。しかし父親の不在ですべてが説明されてしまうのではあまりに単純すぎる。そう思わざるをえない。もっと様々な要因が絡んでいるはずだし、仮に主たる原因が父親の不在にあるのだとしたらもっとその点を描きこむべきだ。どうしても物足りない思いが残る。

  父親というテーマも充分追求されているとは言えない。子供と親の年齢は同じだという考え方がある。つまり、子どもができて初めて人は親になるのである。30年間エリアスには事実上子供はいなかった。しかし、たとえ片腕しかなくても息子を抱きしめたいと思ったとき、エリアスは初めて「親」になった。30年間の彼の思いは何も説明されていないが、アリエルを見る彼の視線は確かに親の視線だった。しかしアリエルはどうか。彼の心の変化は「ひまわり」や母親の告白を通して間接的に描かれているだけだ。彼に子供はいない。親になった夢を見ただけだ。アリエルの場合、「親」になることはモラトリアムの段階を脱し一人前の「大人」になるという比喩だろう。映画で示されたのはその可能性だけだ。父親を得ることはできたが、これからどう人生を選び取ってゆくのかまだ示されていない。この点も不満はあるが、しかし底が浅いとはいえない。悩まずに成長できる者などいない。人生に目的を見出せない若者が悩みながらも何に悩んでいるのか分からないというのは、それはそれでリアルである。父親は見出せたが、まだ自分を見出せていない。これからの人生をどう生きてゆくのか、それは今後の彼の課題なのだ。

   そもそも、この作品の魅力はアリエルの葛藤を人情コメディという枠組みの中にうまくはめ込んで描いたことにある。アルゼンチン社会のエッセンスを凝縮したような、職種も出身国もごちゃまぜの商店街の人たちがみな魅力的だ。このあたりを充分書くスペースはないが、アリエルの母ソニアを演じたアドリアーナ・アイゼンベルグについてだけ言っておこう。美人ではないが、実に魅力のある女優である。表情が豊かで、人間味にあふれている。分かれた夫エリアス役のホルヘ・デリーアと並んで、一番印象に残った俳優だ。

   商店街が適度にうらぶれている様がまたいい。見ているとあまり外から客がやってくるようには思えない。商店街の人たちが互いに利用しあっている感じなのだ。悪く言えば寂れている、よく言えば隣人同士としての連帯感のようなものが感じられる。この街の佇まいと雰囲気がまたいい味を出しているのだ。庶民による庶民のための人情劇。悪くない味わいだ。

 ああ、久しぶりにピアフの「バラ色の人生」が聴きたくなった。

2006年8月29日 (火)

北海道ミニ旅行記

  25日から北海道で3泊した。最初の2晩は札幌のビジネスホテルに泊まった。ずっと天気は晴天。気温は30度くらい。北海道では異常な暑さだということだが、連日33、4度あった上田から来ると涼しく感じた。上田は湿気の低い所だが札幌はさらに低かった。とても過ごしやすかった。27日は北海道マラソンの日で街のあちこちで旗を配ったりして準備が進んでいたが、マラソン自体は見られなかった。

  一日目は食事の後おとなしくホテルでテレビを観ていた。NHK衛星第2で「シネマの扉 溝口健二特集」を_1やっていた。うまく編集されていて面白かった。その後続けてみた「伝説の碁打ち・本因坊秀策」がこれまた面白い。僕は将棋はやったことがあるが、囲碁はさっぱり理解できなかった。この番組は史上最強の名人と語り伝えられる本因坊秀策の生涯を描いた番組だが、それと共に囲碁のルールがまったくの素人にもよく分かるように解説されていた。「初心者にも分かる名勝負」というサブタイトルに偽りなし。この番組を見てやっと囲碁がどういうゲームなのか分かった。秀策の無類の強さ、その人柄なども興味深かった。彼はコレラが流行した時に懸命に弟子たちの看病に励み、ついには自分がコレラにかかって死んでしまった。彼が看病した人たちはみな助かったという。皮肉というよりも、それだけ彼の看病が行き届いていたということだろう。二日目の夜はカラオケ三昧。

  三日目は支笏湖畔にある「丸駒温泉旅館」に泊まった。札幌の街は結局ほとんど見て回れなかった。旅館の送迎車で移動したが、札幌から「丸駒温泉旅館」までは1時間くらいかかった。しかし札幌とその周辺はかなり大きな市街地だ。30分以上走っても街並みが途絶えない。40分以上走ってやっと山の中に入る。山の中に入ると長野を思い出してどことなく安心するから面白い。僕もすっかり長野の人間になってしまったようだ。

  6時ごろ旅館に着いたがもう薄暗くなっていた。それでも湖ははっきり見えた。素晴らし_5 い眺めだ。やっぱり来てよかった。札幌でビジネスホテルなんかに泊まっているよりずっといい。部屋に入ってしばらくしてから風呂へ。温泉がまた素晴らしい。まず、露天風呂に行ったが、これは長い渡り廊下を降りてゆく。外風呂は湖のすぐ近く(左の写真の石垣の奥)。後で聞いたが、沸いている温泉は支笏湖の水(と言うかお湯)で、冷たい水と混じらないよう仕切ってあるだけなので、実際には湖に浸かっている事になるらしい。深さが150センチほどもある深い風呂で、結構広さもある。立って入る温泉である。そういう温泉があるのは知っていたが、入るのは初めて。底には玉砂利が敷いてある。この玉砂利の量で温度を調節しているのだそうだ。温泉の水位は湖と同じ。どこかで繋がっているのだろう。水位が低い冬場は寝そべって入るようだ。最近水かさが増しているらしい。風呂が深いのでお湯に浸かっていると湖は見えないが、大きな湖水のすぐ横で温泉に浸かるのもいいものだ。

  渡り廊下を戻って大浴場に行く。なんとこちらにも露天風呂がある。こちらは高い位置にあるので湖を下に見下ろせる。お湯に浸かって体を温めてから、湯船の近くに並んでいるイスに座って湖を眺める。ちょっと寒いが気持ちがいい。温泉に浸かりながら湖を見下ろすなんて滅多に経験できるものではない。その後食事。料理も非常に美味しかった。

  翌朝7時前に起きて大浴場に行く。その後朝食。バイキング方式だが、これも美味しかった。バスが出るまで時間がたっぷりあったので、ちょっと散歩に出る。支笏湖はカルデラ湖なので浜辺がない。湖の周りを山が囲んでいる地形だ。したがって大規模な観光施設など作りにくい。その分ひなびた感じがあって却っていい。湖の写真を何枚か撮る。

  10時に旅館のバスで湖の反対側に出る。こちらは比較的建物が多く並んでいて、観光_7 地らしい感じだ。ここでしばらく時間をつぶして、普通のバスで空港に向かう予定だった。しかしバスの時間がうまく合わない。仕方がないので、丁度止まっていた札幌行きに乗って、札幌から空港に向かうことにした。そこでいろいろ写真を撮ろうと思っていただけに残念だった。そこからが苦難の旅。家に着いたのはそれからおよそ8時間後だった。

2006年8月28日 (月)

ブログ開設1周年を迎えました

Crossregr   今日やっと北海道から上田に戻ってきました。いやあ、北海道は遠い。飛行機に乗っている時間は1時間半程度ですが、バス、電車、飛行機、モノレール、タクシーを乗り継ぐ旅はしんどい。空港までと空港からが疲れる。帰宅した時はもうへとへとでした。

  まあ、このことはまた別に書くとして、本題に入りましょう。先にお知らせしたように、正確には昨日の27日になりますが、ブログを開設してから1年がたちました。ブログとしては破格の長ったらしい文章で、かつ映画情報としては決して新しくないにもかかわらず、これまで3万近いアクセスをいただきました。これまで当ブログを読んでいただいた方々、TBやコメントをいただいた方々に心から感謝いたします。

  当ブログは日記やエッセイなども含んではいますが、基本的には映画のレビューを中心にしたブログです。劇場で公開された新作ではなくDVDで観た作品を中心に取り上げているので、基本的にネタばれで書いてきました。僕自身がマニアやオタクではないので、当然ブログの内容もオーソドックスなものです。スタッフやキャストの個人情報などはほとんど取り上げていません。基本的に、取り上げた映画がどういう内容の作品なのか、どのような特徴があり、どこに共感したか、どこに疑問を感じたかなどに焦点を絞って書いてきました。技法面にはほとんど関心がありません。とにかく映画を全体として捉えようと努力しています。作品のある面を深くこと細かに考察・分析することが作品の理解を深めることは当然あるでしょう。しかしその場合も生きた作品全体の一部として観なければならないと思います。切り落とした腕をいくら調べても、それは死んだ腕にすぎません。生きた体の一部であってこそ腕はしなやかにまた力強く動くのです。これが映画を観るとき、本を読むときの僕の基本的な姿勢です。

  文章は硬いですが、分かりやすく書くように努力しているつもりです。本格的な映画評論ではないので、そういう関心を持っている人には物足りないでしょう。映画は基本的に大衆文化ですし、僕自身の関心も自分が観てどう思ったかということにあるので、「感動的である」「そこがいい」「がっかりした」などの表現を多用しています。そうではない書き方もあるのですが、ブログというメディアの性格も考えてあえてそういう書き方で押し通してきました。

  また、最新作はほとんど扱っていませんが、これまで30年以上映画を観続けてきた経験を活かして、僕なりにいろんな情報を盛り込んできたつもりです。多少でもお読みになった方の参考になれば幸いです。「これから観たい&おすすめ映画・DVD」や「ゴブリンのこれがおすすめ」などのシリーズも作ってみました。これからも続けてゆくつもりです(もっとも「ゴブリンのこれがおすすめ」シリーズはいつかは種が尽きるしょうが)。

  ブログを続けてきて得た一番の財産は、ブログを通じてたくさんの方と「知り合えた」ことです。直接の面識はありませんが、頻繁にTBやコメントを交わす常連の方も何人かできました。この機会に、改めて御礼を申し上げます。また、こちらから訪れたブログもたくさんあります。いろんなことを学ばせていただきました。これらのブログにも感謝。

  この先いつまで続けられるか分かりませんが、体力と気力が続く限り書き続けてゆくつもりです。記事を書くのは相当しんどい作業なのですが(テンションが上がらないと記事はかけません)、今では生きがいにまでなっています。ブログの最大の利点はTBやコメントなどで読んでいただいた方から反応が返ってくることです。それらを励みにまたがんばります。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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