最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

« 2006年7月16日 - 2006年7月22日 | トップページ | 2006年7月30日 - 2006年8月5日 »

2006年7月23日 - 2006年7月29日

2006年7月28日 (金)

バロック・コンサート2日目

Dinner1p   今日もコンサートに行った。今日は7時半開演。15分前に着いた。まだリハーサル中だったので会場でしばらく待つ。人数は昨日よりはさすがに少なかった。

  演奏はほぼ時間通りに始まった。今日はリラックスしたムード。どうやら基本的には講習会に参加した人たちを対象にしたコンサートのようだ。チラシには「レクチャー・コンサート」とある。少し演奏家のトークもあって、そこで聴衆に課題を出していた。言葉は忘れたがある技法のことを話していた。私がどんな風に弾くかよく注意して聴いてください、質問があれば後で訊いてくださいと言っていた。

  時々赤ちゃんの泣き声が混じっていたが雰囲気は悪くならなかった。リラックスしたムードだったが、演奏は熱かった。今日の演奏会も素晴らしかった。昨日はドイツ音楽だったが、今日はフランス。すべてマラン・マレの曲だった。この作曲家も初耳だった。やはり素晴らしい曲だと思った。ホールもいいし、演奏者も素晴らしいので何を聴いてもよく聞こえてしまうのかもしれないが。

  演奏者はヴァイオリンの寺神戸亮、ヴィオラ・ダ・ガンバの上村かおりと森川麻子、チェンバロのニコラス・パール。ヴァイオリンが入るとどうしてもガンバは従に回ってしまうが、ガンバとチェンバロだけになると俄然息を吹き返したようになる。地味な楽器だが実にいろんな表情が出せる。上村かおりさんと森川麻子さんの二人は素晴らしかった。同じガンバでも上村さんのはバスなのでぐっと渋い音が出る。弓の弾きかたも二人は微妙に違う。息がぴったりと合った演奏にはぐいぐい引き込まれた。3人の演奏はジャズのピアノトリオのような緊張感がある。ジャズのインプロビゼーションとはまた違った、三者三様に弾き分けながら一糸乱れぬ演奏。講習会の参加者が多かったせいもあるだろうが、観客席にも緊張感があった。僕はまったく楽器が弾けない人間なので技術や楽理的なことは分からないが、硬軟取り合わせた演奏は講習会参加者に大いに参考になっただろう。レクチャーを兼ねた模範演奏的な色彩があったと思われるが(それはおそらく選曲にも反映しているだろう)、部外者にとって何の違和感もなかった。

  演奏の合間のトークから森川さんとニコラス・パールさんがご夫婦だと分かった。自分の演奏がないときに森川さんがニコラスさんの横に立って譜面をめくっている姿が印象的だった。二日間たっぷり楽しませてもらいました。

  東京を離れてから聴きに行くコンサートがガラッと変わってしまった。上田に来てからはほとんどクラシックばかり。東京にいた頃はクラシックも何度か聴きに行ったが、もっぱら通ったのは規模の小さなライブハウスだった。新宿の「ルイード」、「ロフト」、「ピット・イン」、渋谷の「テイク・オフ7」、「エッグマン」、「ジャンジャン」。だめだ、他にもあったが名前を忘れてしまった。六本木や下北沢、銀座にも行ったなあ。悲しいことに名前が出てこない。

  ジャズを別にすると、もっぱら女性歌手ばかり聴きに行っていた。せっかく間近で見られるのだから、聴くだけでなく見る楽しみもないとね。エポ、上田知華とカリョービン、中原めいこ、高橋真梨子、谷山浩子、それにあの頃西島三重子が好きで何度も聴きに行ったな。そうそう「ロフト」では山崎ハコを聴きに行ったっけ。彼女にふさわしい暗い場所だった。こうやって名前を挙げてみると顔が赤くなる。ミ-ハーだったのね。

2006年7月27日 (木)

夏の夜のバロック・コンサート

Photo_3   今日は信州国際音楽村のホール「こだま」で「夏の夜のバロック・コンサート」を聴いてきた。音楽村は小高い山の上にある音楽ホール。舞台は小さく大規模なコンサートはできない。室内楽のコンサートなどにぴったりのサイズ。しかし、市民会館のような多目的ホールではなく音楽専用ホールなので音響は非常によい。小ぢんまりとしていいホールだ。横に野外コンサート・ホール「ひびき」もある。こちらは木の座席がだいぶ腐食していたが、今回来てみたらきれいに改修されていた。下もコンクリを打ってある。前は土だったと思う。かなり整備されてきれいになった。

 周りの環境や眺めがいいので時々ふらっと行くことがある。ぶらぶら散歩して帰ってくる。しかしコンサートを聴くのは久しぶりだ。最後に聞いてから6、7年はたっている気がする。天満敦子さんのコンサートを聞いて以来か。久しぶりだったので今回のコンサートは楽しみだった。

  6時に音楽村に到着。着いてみたら駐車場はがら空き。人はほとんどいない。会場の入り口でチラシを確かめたら6時半開場、7時開演だった。30分間違えた。開場まであたりをぶらついて時間をすごす。ホールの周りは木が多いので涼しい。すぐ横はラヴェンダー畑。ここの名物にしたいらしい。前にラヴェンダー・アイスを食べたことがあるが、結構美味しかった。いけますよ。今日は晴れのような曇りのような微妙な天気だったので、湿気は少しあったが気温はさほど高くない。ぶらぶらするにはちょうどいい気温だった。

  さて、演奏会は素晴らしかった。曲目もかなり聞き応えがあるいい曲がそろっていた。演奏者はソプラノの鈴木美登里、バロック・ヴァイオリンの寺神戸亮、ヴィオラ・ダ・ガンバの上村かおり、森川麻子、坪田一子、坂本龍右、チェンバロのニコラス・パール。

  今日から音楽村で4日間ヴィオラ・ダ・ガンバ協会の夏期講習会があり、せっかく一流の演奏者が集まっているのだから公開で講師演奏会をやろうということになったようだ。宮澤賢治の作品を英語と日本語の対訳で読んでいる読書会のメンバーがガンバを弾くのでコンサートに誘われたしだい。

  演目はディートリヒ・プクステフーデとフランツ・トゥンダーの曲をそれぞれ6曲と3曲ずつ。二人ともまったく知らなかった。しかし曲は素晴らしかった。これまでバロックの演奏会には何度か行ったが、曲がいまひとつ魅力がないといつも思っていた。しかし今回の演目はどれもよかった。これまで聞いたのはイタリアやフランスの曲が多かったが、今回はドイツ。どこかなじみがある感じがした。目をつぶって聞いているとロマン派や古典派あたりの室内楽曲を聴いているような錯覚を起こすほど。演奏としてはヴァイオリンの寺神戸亮さん、ガンバの森川麻子さん(小柄でとてもかわいい人でした)と上村かおりさん、ソプラノの鈴木美登里さんが特によかった。

  前に学生時代はクラシック一辺倒だったとどこかで書いたが、大学院に入ってからジャズやロックを聴くようになって、以来滅多にクラシックは聴かなくなった。それでも一時期朝起きるとバロックのレコードをかけていた時期があった。バロックは朝が似合う(そう言えば、夜寝る前に必ずコルトレーンを聞いていた時期もあった)。その頃聞いていたのはもっぱらバッハやヴィヴァルディ。クープランやラモー、テレマンなどはいまひとつ曲に魅力を感じなかった。ホロヴィッツは当時大好きだったが、彼の「ホロヴィッツ・プレイズ・スカルラッティ」もいまひとつだった。どうもバッハやヴィヴァルディのような華がない。しかし今回知った二人はなかなか魅力的だった。新しい発見。

  早めに入場したので舞台の真正面の席に座れた。楽器の演奏の時はみな下向き加減で演奏するのでいいのだが、ソプラノの鈴木美登里さんは舞台の一番前にこちら向きで立って歌う。僕は真正面に座っていたのでなんだか目が合いそうな気がして落ち着かなかった。まあ、こっちが気にするほど向こうは観客のことなど見ていないだろうが。いや、しかし、なかなかの美人でしたよ。まっすぐ目を見られなかったのはそのせいかも。

  明日も無料コンサートがあるということなので是非行ってみようと思う。( この4日ほど映画を観ていません。現在レンタル中のDVDもなし。今日当たり手持ちのDVDを何か観てみようと思っています。映画レビューは今しばらくお待ちください。)

2006年7月25日 (火)

スタンドアップ

Doll2s 2005年 アメリカ 2006年1月公開
監督:ニキ・カーロ
製作:ニック・ウェクスラー
脚本:マイケル・サイツマン
製作総指揮:ヘレン・バートレット、ナナ・グリーンウォルド
         ダグ・クレイボーン、ジェフ・スコール
原作:クララ・ビンガム、ローラ・リーディー・ガンスラー
撮影:クリス・メンゲス
美術:リチャード・フーバー
編集:デイビッド・コールソン
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
衣装:シンディー・エバンズ
出演:シャーリーズ・セロン、フランシス・マクドーマンド、ショーン・ビーン
   リチャード・ジェンキンズ、ジェレミー・レナー、ミシェル・モナハン
   ウディ・ハレルソン、シシー・スペイセク、ジェイムズ・カーダ
   ラスティー・シュウイマー、リンダ・エモンド

  昨年末から今年の2月にかけてアメリカ映画の力作が集中的に公開された。それらの作品が半年ほど遅れて今次々とレンタル店に並び始めた。さきがけとして昨年末に公開された「ロード・オブ・ウォー」はラディカルな姿勢を最後まで貫いた傑作だった。「ミュンヘン」や「シリアナ」にはがっかりしたが、今回取り上げる「スタンドアップ」はこれまた堂々たる傑作だった。「クラッシュ」、「ジャーヘッド」、「ホテル・ルワンダ」、「アメリカ家族のいる風景」なども期待できそうだ。

  「スタンドアップ」は実話に基づいている。ミネソタ州のエヴェレス鉱山で働いていたロイス・ジェンセンというシングル・マザーがセクハラで鉱山会社を訴えた裁判(アメリカで最初のセクハラをめぐる裁判)が元になっている。原案となったノンフィクション「集団訴訟――セクハラと闘った女たち」は竹書房から文庫版で翻訳が出ている。映画では80年代末頃の設定になっていたと思うが、ロイス・ジェンセンが就業したのは1975年である。訴訟に訴え出たのは80年代のようだが、裁判所で受け付けるかどうか紆余曲折があり、その上会社側の引き伸ばし工作などによってだいぶ長引いたようだ。98年にやっと和解に至った。就業してから20年以上も経過した長い戦いだった。原告が手にした和解金はわずかだったが労働者保護法が作られるという成果を導き出した。

  差別是正措置であるアファーマティブ・アクションは60年代の後半ごろから導入されているはずなので、75年就業のロイス・ジェンセンはその措置で炭鉱に進出した最初の世代ではないと思われる。しかしまだセクシュアル・ハラスメントという言葉も一般的ではなかった頃だから相当な嫌がらせを受けていたと想像できる。

  映画でも炭鉱会社は法律の縛りでいやいやながら女性を受け入れてはいるものの、セクハラは見てみぬ振り。「それくらい我慢しろ、我慢できないなら辞めろ」という姿勢が露骨だ。辞めてくれれば会社の思う壺である。単に従業員だけが野卑で愚かなのではなく、会社ぐるみだという点を見逃してはいけない。労働組合さえ何の頼りにもならない。むしろセクハラ男の味方だ。同じ女性従業員たちですら、仕事を失いたくないあまりに非協力的だ。むしろ主人公の行動を迷惑がっている。その上シングル・マザーで上の子と下の子の父親が違うために父親からも疎んじられている。主人公のジョージー・エイムズ(シャーリーズ・セロン)は孤立無援だったのである。

  映画の冒頭ジョージーは夫のドメスティック・バイオレンスを逃れて実家に避難してくる。彼女を迎える父親ハンク(リチャード・ジェンキンズ)の態度は実に冷たい。殴られた痕が残る娘の顔を見て「浮気がばれて殴られたのか」というような言葉を投げつける。この一言で、ミネソタの田舎町がいかに保守的な気風であるかがいやというほど伝わってくる。特にジョージーの上の子の父親が誰か分からないために、若い頃さんざん遊び歩いたふしだらな娘だと父親は思い込んでいる。彼ばかりか狭い地域社会ではみなそのことを知っている。映画の最後の裁判の場面で明らかになるが、実はそれはまったく根拠のない噂で、彼女には息子の父親を明かせない事情があったのだ。真相を知った父親が法廷で「その男」に殴りかかり退廷させられる場面が出てくる。

  ジョージーは実家に戻ったものの、いつまでも親の厄介になっているわけには行かない。親もそれを望んではいない。日本と違って大人になった子供は親と同居しない。ジョージーは働き口を探す。たまたま町で出会った旧友のグローリー(フランシス・マクドーマンド)から炭鉱で働くことを進められる。だが父親は同じ炭鉱で働いているので反対する。しかし母子家庭で二人の子供を育てるには給料のいい炭鉱で働く以外に道はない。

  同時採用の女性たちと職場を案内されたジョージーは早速男たちからセクハラの洗礼を受ける。すれ違いざまに汚い言葉を浴びせかけられる。それからは苦難の連続だ。ロッカールームで一人涙を流すこともあった。グローリーは「女を追い出す口実を与えちゃだめ」と励ます。グローリーは組合の役員でもあり、持ち前の負けん気で男どもの汚い言葉にやり返す。それができるのは彼女だけだ。他の女性はみなひたすら我慢している。彼女たちがなぜそうまでされてなおこの職場にかじりついているのか詳しく描かれてはいない。それぞれ色んな事情があったのだろうと想像するしかない。グローリーの夫のカイル(ショーン・ビーン)も炭鉱で体を壊して職場を離れている。他の女性たちも母子家庭であったり病気の肉親を抱えているなどの深刻な事情があったと思われる。

  ひどい扱いにジョージーは一人立ち向かおうとする。彼女は最初社長に直訴するが、「辞めるときは通常なら2週間前に申し出なければならないが、君の場合特別に今すぐ辞めていい」と冷たくあしらわれる。果ては息子まで学校で差別されることになる。ついに彼女は決心した。同じ町に住む弁護士のビル・ホワイト(ウディ・ハレルソン)を口説き落とし会社を相手取って訴訟を起こす。

Artyasinokojima250wa   以上が裁判を起こそうと決意するまでの経過である。なぜジョージーにここまでの行動が取れたのだろうか。単に女性は強いというだけでは不十分だろう。我慢している女性従業員もいる。グローリーですら集団裁判に持ってゆくには原告が最低3人必要だと協力を求められた時断っている。あるいは男性の中にも訴訟を引き受けたビル・ホワイトのような勇気ある男もいた。おそらく、ジョージーの強さは守るべきものを持っている人の強さなのだ。もちろん、その強さは彼女に最初同調しなかった他の女性たちにもあった。彼女たちにも守るべき生活があった。だから訴えることもせずじっと我慢していたのだ。あの執拗なセクハラに耐えて職場にかじりついているのは並大抵のことではない。彼女たちの背後には泣く泣く職場を辞めていったその何倍もの女たちがいるに違いないのだ。彼女たちも強い。しかしジョージーはただ受身的に生活を守るだけでは同じことが続くだけで、会社と男たちの考えを改めさせなければ根本的な解決にはならないと考えた。ただ受身的に守るのではなく、改善を求めて立ち上がった。取った方法は違っていたが、共に強かったのはどうしても守りたいものが彼女たちにあったからだ。

  ではジョージーが守りたかったものとは何であったか。ビル・ホワイトに訴訟の依頼をした時の会話に重要なヒントが含まれている。ビルは最初断る。「裁判に勝っても現実は厳しいぞ。」「正しいのに。」「正しくても現実の前では無力だ。アニタ・ヒル(注)を見ろ。法廷は鉱山よりひどいぞ。君をあばずれ呼ばわり。″誇大妄想″だの、″自分で誘った″だのと言われて傷つくだけだ。新しい仕事を見つけてやり直したほうがいい。」「やり直すのは無理よ。」「君は美しい。いくらでも・・・」「″養ってくれる男が見つかる″って?自分でちゃんと稼いで子供を養いたいの。これは女性みんなの問題よ。どうでもいいって?」

  「これは女性みんなの問題よ」というせりふも大事だが、男に養ってもらうのではなく「自分でちゃんと稼いで子供を養いたい」という言葉こそ重要である。実家に帰る前は専業主婦で毎日のように夫に殴られる生活だったのだろう。もう自分は誰の世話にもならない。自分と子供の生活費は自分で稼ぎたい。あちこち壁紙が剥げている家を自分で稼いだ賃金で買ったときの彼女の誇らしげでうれしそうな顔。初めて子供たちとまともなレストランで食事をした時の彼女の顔の輝き。彼女は働くこと、自分の手で生活費を稼ぐことの喜びを初めて味わったのだ。ジョージーは「人形の家」を出て精神的に自立しただけではなく、魯迅が提起したより困難な課題、経済的自立までも手に入れたのである。さらに彼女には守るべき子供が二人いた。そもそも炭鉱のきつい仕事を選んだのも子供たちのためだ。子供のためならどんなことでもする。彼女は何度もそう言った。だが、彼女が求めたものは何も特別なことではなかった。それは当たり前の、なんでもないささやかな幸せに過ぎない。自分たちの家を持ち、仕事をして収入を得、子供を守り育てる。平凡だが幸せな生活。そのささやかな生活(もはや「夢」ではない、現実の生活)を会社と職場の男どもは許さなかったのだ。だからこそ、彼女は敢然と立ち上がったのである。ここで諦めたらやっと手に入れた自分たちの生活ばかりか人間としての誇りまでも失うことになる。

  組合の集会で父親が立ち上がって娘を誇りに思うと発言した場面も感動的だが、僕が最も素晴らしいと思うのは、ジョージーが自分で働いて生きることに喜びを感じてゆく姿を丁寧に描いたことである。会社はそれを許さなかった。執拗であからさまなセクハラにも観ていて腹が立ったが、会社と同僚の男たちがジョージーからこの生きる喜びを奪おうとしていることにより強い怒りを覚える。男から職を奪うのをやめて、女はおとなしく家庭に戻って男に「養われて」いればいい。そうすればかわいがってやるよ。女性従業員のシェリーが中に入っている簡易トイレをゆすってひっくり返し糞まみれにしてしまう、すれ違うたびに、「あばずれ、メス豚」などの汚い言葉を浴びせる、弁当箱の中にペニスの形のおもちゃを入れるなどの子供じみたいじめ(何という心の貧しさ)以上に問題なのは、その背後にあるこういう考え方だ。家庭も大事だが、女性が働きたい時や働く必用があるときにそれを保障することも大事だ。男たちが投げつけるシモネタ満載の言葉の裏に「お前らは家に引っ込んでろ」という本音が潜んでいる。

  後半は裁判の行方と同時に、一人また一人と彼女の仲間が増え、一時ずたずたになっていた家族の絆が取り戻される過程を描く。彼女はたった一人で立ち上がった。しかし一人では戦えないのだ。この後半部分は感動的だ。果敢に汚れ役に挑んだ主演のシャーリーズ・セロンも素晴らしいが(美人すぎるのでまだ汚れたりない気はするが、迷いながらもうつむかずにきっと前を見つめる姿が魅力的である)、彼女を脇で支える助演陣がまた見事だ。中でも群を抜く存在感を示したのはジョージーをずっと支え続けたグローリー役に扮したフランシス・マクドーマンド。素晴らしい女優だ。彼女をめぐるビルとカイルの会話が面白い。ビル「なぜグローリーは迫害されないんだ?」カイル「グローリーは組合の代表だった。信頼を勝ち得ていたのさ。群れに迎合しないし、誇り高い。」ビル「群れは安全だ。群れれば生きArtkazamidori01250wc_1残れるが孤立したら餌食になる。」

  女性版ウィレム・デフォーという感じの渋い顔がここでは何ともどっしりとした信頼感と力強さを与える。ジョージーに「まず男にならないとダメ」と忠告したのは彼女だった。彼女自身その言葉どおりに実践していた。だが彼女はある病気のため職場を離れてしまう。ALS(筋萎縮性側索硬化症)で体の機能が次第に奪われてゆく。それでも気丈に普段どおりに振舞おうとする姿勢に強く胸を打たれる。その彼女を温かく世話し見守る夫のカイルがまたいい。ともに辛い状況に置かれながら、ジョージーにカイルの秘密を打ち明けて愉快そうに笑ったりと陽気に振舞っている姿に胸が熱くなる。カイルはまたジョージーの息子サミーとの関係でも重要な役割を果たした。裁判でサミーは自分の父親が母親のレイプ犯だと知ってしまう。はじめて事実を知ったサミーはジョージーを憎む。カイルの元に逃げてきたサミーをカイルは決して叱らなかった。彼は「人を憎むことはキツイぞ。その覚悟はあるのか」と語りかけるのだ。彼の言葉にサミーの憎しみが解けてゆく。別れる時にカイルはサミーに「友達として」腕時計を渡す。このシーンが実に見事だった。その後のサミーとジョージーが抱き合う場面よりも素晴らしいと思う。

  カイルとビルは最初から町の男たちとは異質だった。炭鉱の男たちに迎合しようとしない。町の良心とも言うべき二人をショーン・ビーンとウディ・ハレルソンが味わい深く演じている。この二人は最初から安心してみていられる。グローリーとカイルとビル、ジョージーを支えたのはこの三人である。

  だが、町の雰囲気を一変させたのはジョージーの父親のハンクだった。組合大会に乗り込んで演説する彼女に男たちが汚い野次を浴びせかける。それをじっと聞いていた父親がやにわに立ち上がり発言を求める。下がろうとする娘を脇に立たせ、彼は言葉を噛み締めるようにゆっくりとこう発言した。「君らを仲間だと、兄弟だと思ってた。だがここに友はいない。ここで誇れる人間は娘だけだ。」

  父親は父親の言葉で、すなわち同じ炭鉱で働く男として語った。お前たちは仲間ではなかったのか?ジョージーの訴えよりも炭鉱の男たちにはこの言葉がこたえた。同じ職場で働く男たちの連帯感に訴えたのだ。彼らは下卑た無教養な男たちだが、それでもヤマの男たちだった。演壇を降りて退場する二人に何人もの男たちが立ち上がり拍手を送る。この描き方がいい。一方、後列に固まっていた女性たちは拍手もせず呆然と二人を見送っていた。

  よく指摘されるが、 あれほど娘に冷たい態度をとっていたハンクが急に態度を変えたのは確かに唐突である。しかし一応の説明はされている。妻のアリスが彼を変えたのだ。娘に対する夫のあまりの無理解にアリスは家を出る。娘ばかりか母親も「人形の家」を出たのだ!口では娘に我慢しなさいと言いながら、肝心な時に娘を支えたのは母親だった。この描き方もいい。これにはさすがのハンクもこたえた。そう描かれている。しかし、そもそもハンクは心からジョージーを嫌っていたわけではないと考えるべきだろう。父親とは本心を隠して往々にしてああいう態度をとるものだ。この頑固親父を演じたリチャード・ジェンキンズが渋い。そして陰で娘を支え続ける母親を演じたシシー・スペイセクがまたすばらしい。いつの間にかすっかりばあさんになってしまったが、あの目立たないようでしっかりと家族を見守っているアリスの佇まいは彼女だからこそ表現できたものだろう。アカデミー主演女優賞を受賞した「歌え!ロレッタ愛のために」(80)や、地味ながら「ミッシング」(82)、「ザ・リバー」(84)、「ロング・ウォーク・ホーム」(90)などは一見をすすめたい。

  監督を務めたのは「クジラの島の少女」の女性監督ニキ・カーロ。ハリウッドに渡ってつまらない映画を作らされないかと心配していたが、うれしいことに杞憂だった。今後も素晴らしい作品を送り出してくれるに違いない。願わくばスウェーデンからアメリカに渡った後も傑作を作り続けているラッセ・ハルストレム監督のようになって欲しい。

  ラストで流れるボブ・ディランの「スウィートハート・ライク・ユー」とキャット・パワーの「パス・オブ・ヴィクトリー」(ボブ・ディラン作曲)も耳に残った。

(注) アニタ・ヒル
  ブッシュ大統領によって最高裁判事に推薦された黒人裁判官クラレンス・トーマスの選任を決める上院司法委員会の審理で、かつてトーマス判事の部下であったアニタ・ヒル教授が彼にセクハラを受けたと証言した事件。彼女の話題がテレビで放映されている様子が映画の中で何度か映されていた。

人気blogランキングへ

2006年7月23日 (日)

久々の温泉

Earth1_1   お昼過ぎに「OUT」のレビュー完成。ホームページとブログにアップする。昼飯を食べてからいくつかの本屋を回る。徳田秋声の『あらくれ』(講談社文庫)を探していたのだがどこにも置いてない。しかし代わりにオリーヴ・シュライナーの『アフリカ農場物語』の上巻が岩波文庫から出ているのを発見。イギリスの「ニュー・ウーマン・ノヴェル」の代表作の一つ。こんなものが翻訳で出るとは!いい時代になったものだ。その後家に帰るつもりだったが、急に温泉に入りたくなった。急遽「ささらの湯」に向かう。久々だ。

  レビューを書き上げたので心の余裕ができたこともあるが、このところ車を代えてからドライブがしたくて仕方がない(「待望の連休」参照)。まっすぐ家に帰らずにわざわざ遠回りしたりしている。きのうの夕方も芸術村までふらっと車で行った。久々に温泉に行こうと思ったのもそういう気持ちの延長だろう。新しく中古で買ったインプレッサは年式が4年違うだけでこれだけ車のグレードが違うのかと驚くほど乗り心地がいいし、サニーにはなかったいろいろな装備が付いている。買ってしばらくはずっと雨だったのでまだ遠出はしていないがとにかく走るのが楽しい。ただ燃費は悪い気がする。まだガソリンを入れ替えていないので燃費を計算できないが。

  春から秋にかけては風呂に入らずシャワーで済ませているので、しばらくゆっくりと湯船に浸かっていない。温泉は広いし気分的にもゆったりとできる。特に露天風呂は気持ちがいい。のんびりした気分になれる。「ささらの湯」は家から車で20分ほど。市内には家から車で10分もかからないところに有名な別所温泉があり(「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」や「卓球温泉」などのロケ地)外湯も4つほどあるが、こちらは最近とんとご無沙汰。「ささらの湯」は職場の組合から回数券がもらえるので只で入れる。だからどうしてもそっちに足が向いてしまう。上田近辺には車があれば1時間以内に行ける日帰り温泉が「ささらの湯」以外にも6つほどある。別所温泉などの温泉郷も4つくらいある。いや、よく考えればもっとあるかもしれない。あまりに身近なので普段はありがたみも感じず、滅多に利用しない。最近は面倒で温泉券をもらいに行きもしない(4つくらいの温泉から1箇所選べる)。近くに温泉がない人には「何を贅沢な、ばちが当たる」と言われそうだ。でも実際はそんなもんです。

  家に帰るとアマゾンで注文していたDVDがどさっと届いていた。「これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年6月)」で紹介した「ドン・キホーテ」が手に入ったのがうれしい。チェコの人形アニメ作家イジー・トルンカも2本ゲット。つい先日も待望の「タヴィアーニ兄弟傑作選DVD-BOX」と「ひょっこりひょうたん島」のDVD-BOX2セットを入手。「OUT」もブックオフで買ってその日に観たのである。覚悟していた値段の半分で車が買えたのでこのところ気が大きくなっている。そろそろ気を引き締めねば。

  さあ、今日はこれから「スタンドアップ」を観るぞ。またアメリカ映画。このところ充実している。楽しみ、楽しみ。

OUT

La6s 2002年 日本 2002年10月公開
原作:桐野夏生
監督:平山秀幸
脚本:鄭義信
製作:古澤利夫 木村典代 
製作総指揮:諸橋健一 
プロデューサー:中條秀勝 藤田義則 福島総司
撮影:柴崎幸三 
美術:中沢克己 
音楽:安川午朗
出演:原田美枝子、倍賞美津子、室井滋、西田尚美、香川照之
    間寛平、大森南朋  千石規子、吉田日出子、小木茂光

  平山秀幸監督の作品を観るのはこれが3本目。「愛を乞うひと」(1998)、「学校の怪談4」(1999)そして「OUT」(2002)。「学校の怪談4」は「映画の小道具」という記事で紹介した講座で取り上げられた時に観た。舞台となった小学校が上田の旧西塩田小学校なのである。講座の後、暗くなってから旧西塩田小学校を見学に行った。もう廃校になって長いので夜は不気味だ。特に理科室だったところは一人だったら入れない感じ。隣の体育館も回ったが、ここは映画「卓球温泉」で卓球をする場面に使われたところだ。見学(というよりほとんど肝試し)が終わって会場に戻ると、留守番の人が新潟で震度6の大きな地震があったと興奮していた。いわゆる中越地震。日記で確かめてみると2004年10月23日。地震があったのは僕らがちょうど車で移動していた時だった。上田も結構揺れたらしいが、車に乗っていた人は誰も気づかなかった。会場にいる間に2回余震を感じた。

  「学校の怪談4」は意外なほどよくできた映画だった。日記には「予想以上に立派な映画だった。何か『トイレの花子さん』の様な子供だましの映画だと思っていたが、ジーンとさせる映画だった」と書いてある。平山秀幸監督が「愛を乞うひと」の監督だと知ったのもその時だった。「愛を乞うひと」は強烈な映画だった。娘を虐待する原田美枝子にはまさに鬼気迫るものがあった(母と大人になった娘の二役)。若いころは「巨乳」(まだそんな言葉はなかったと思うが)で知られる若手女優だった。「あゝ野麦峠」(1979)、「乱」(1985)、「火宅の人」(1986)、「釣りバカ日誌2」(1989)、「夢」(1990)、「息子」(1991)と観てきたが、「火宅の人」以外はほとんど印象が残っていない。なぜ「火宅の人」が印象に残っているかというと、見るからに枯れた当時70代の知人が「火宅の人」の原田美枝子はものすごく「そそる」と言っているのを聞いて、わざわざ観に行った映画だからである。映画そのものはまあまあだったが、確かにあの頃の原田美枝子はぴちぴちで魅力的だった。その後「胸」のことばかり言われるので嫌気がさしていた時期があった様だが(当時はかたせ梨乃と並んで双璧だったように思う)、「絵の中のぼくの村」(1996)では見事な演技派女優になっていた。彼女を優れた女優として意識したのはこの映画が最初である。その後に続いて観たのが「愛を乞うひと」。もはや疑いようはない。今や40代の女優としては最も魅力と実力を兼ね備えた女優ではないか。若い頃より美人になった気がする。大人の女性として20代、30代の女優には出せない落ち着きと色香を放っている。

  その後も「雨あがる」(1999)、「学校の怪談4」、「OUT」(2002)、「半落ち」(2003)、「THE有頂天ホテル」(2005)、「蝉しぐれ」(2005)と観てきた。どの映画でも確かな存在感を示している。81年と02年に2回出演した「北の国から」でも強い印象を残した。中でも女優としての魅力が最も発揮されているのは今回取り上げる「OUT」である。

  原作はベストセラーになった桐野夏生の小説。彼女の小説は1冊も読んでいない。だいぶ原作とは違うようなので、小説との違いをいくつかのブログ等から拾ってみた。まず原作は映画より遥かに暗く重い内容である。邦子や雅子の夫も佐竹に惨殺される。邦子の死体も解体させられるようだ。また、原作では南に逃げる事を匂わせて終わるのに映画では北に向かっている。映画では不可解に映った弥生の行動も原作やTV版ではもっと丁寧に描かれている。

  最後にTV版に触れたが、TV版では田中美佐子、渡辺えり子、高田聖子、原沙知絵が4人の主婦を演じていたようだ。香川照之の役は哀川翔、間寛平の役を柄本明が演じていた。TV版はともかく、原作と映画は相当に違っているようだ。これは意図的なもので、平山監督は「単に事件を追いかけるだけならば、ノンフィクションにはかなわない。あくまでも、大人の娯楽を目指した作品に仕上げたい」と言っている。脚本を担当した鄭義信も重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したようだ。

  暗く重苦しい原作を「大人の娯楽」に変えた結果はどうか。おそらくこのあたりが評価の分かれ目だろう。映画化作品はどうしても原作のすべてを盛り込めないのでかなりの部分を大胆に削り落とさなければならない。多く不満が出されるのは4人のパート主婦たち(原田美枝子/香取雅子、倍賞美津子/吾妻ヨシエ、室井滋/城之内邦子、西田尚美/山本弥生)が抱える苦悩、出口の見出せない潤いのない日常、牢獄のようにがんじがらめにされた彼女たちの閉塞感が十分描かれていないこと。罪をかぶさられた佐竹が彼女たちに迫ってくる不気味な緊張感と恐怖が十分伝わってこないことなどである(間寛平の不気味さが足りないという指摘は多い)。夫を殺した後あっけらかんとして死体処理を雅子に任せる弥生(演じる西田尚美は深津絵里にそっくりだ)の無責任さに腹が立つのも描き込みが足りないからだ。彼女が発作的に夫の首を絞めて殺してしまうこと自体は十分理解できる。バカラ賭博にふけり家に帰れば妊娠している弥生の腹を殴りつける夫の暴力が詳しく描かれているからだ。4人の中で弥生の苦悩が一番リアルで身に迫ってくる。最も切迫していたからこそ衝動殺人に走ってしまった。殺人は殺人だが、切羽詰った状況に追い込まれた彼女にも同情できる。しかしその後の対処の仕方の部分で、なぜ彼女が無責任な態度をとるのかが理解できない。彼女の内面が十分描かれていないからだ。同様に他の3人がなぜあそこまでして死体処理にかかわるのかも十分納得できない。最初死体処理を持ちかけられた雅子は当然ながら警察に知らせるようすすめた。その彼女が気持ちを変えたのは弥生が彼女に自分の腹を触らせたからである。この子を刑務所の中で生むわけにはいかない。この無言の訴えに負けたからである。

  これとても無理があるが、女性としてこのことを重く受け止めたという一応の説明は可能である。しかし、それならそれでなぜ死体を埋めるなどの対策を考えなかったのか理解できない。自分の家の風呂場で死体を解体するなどというのは一番ありそうもない設定だ。死体は車のトランクに入っていたのである。だったら人に見られないところに運んで埋めるのが普通の発想だろう。あるいは、死体解体に巻き込まれるヨシエや邦子の側の事情も説得的に描かれてはいない。おそらく原作ではそうせざるを得ないそれぞれの事情をきちんと描いているに違いない。

  いずれにしてもこのあたりを境に映画はリアリズムから遠ざかってゆく。原作ではおそらく状況に押し出されるようにして望まざる方向へ避けようもなく押し流されてゆく女たちを描いていたと思われる。映画では、原作になかったであろうコミカルな味付けを加え、かつシュールな展開になってゆく。3人の女がまるで弁当の盛り付けをするように結構楽しみながら死体の解体を進めてゆくなどという図は本来ありえない話だ。

  では映画は小説を離れて何を描こうとしたのか。それは逆に映画的表現として新たに付け加えられた部分を見ればわかる。原作では南に逃げるはずが、映画では雅子と邦子と弥生の3人で北に向かう。北に設定を変えたのはヨシエが「知床のオーロラが見たい」と語っていたからである。一人罪を背負って自首する道を選んだヨシエに代わって雅子がその夢を引き継ぐ。雅子たちが北海道へ向かったのはオーロラを見るためである。

  途中で産気づいた弥生を病院に置いてきたので最後は雅子と邦子の二人でアラスカを目指す。最後に二人を拾うトラックの運転手として吉田日出子が出てくる。アラスカにオーロラを見に行くという二人の話を聞いて、彼女は豪快に笑う。「いやいやいや、なまら(?)でっかい夢でないかい!ハハハハハハ。」映画はこの結末にもっていきたかったのだ。荒唐無稽な二人の計画を吉田日出子が豪快に笑って受け止めることによって、映画は二人の夢を肯定的に受け入れている。

  要するに、原作はともかく映画は閉塞状況を打ち破って牢獄のような日常生活から抜け出してゆく(OUT)女たちをユーモアをこめて温かく描き出すことに主題があった。女の解放と再生を描きたかったのである。北へ向かう彼女たちには夢以外何もない。たとえオーロラを見ることができても、その後の生活の保証はない。最後にはファンタジーになってしまう。この点も評価の分かれ目だろう。

Sizuka2   このラストに説得力がないという批判も少なくない。確かにそのとおりである。しかし全面的に否定するつもりもない。問題は彼女たちを支えていた夢の質である。ヨシエの語った夢はどんな夢だったか。毎日10円ずつ貯金してゆけば、10年で3万6500円になる。その金で知床のオーロラを見に行きたかったと彼女は語ったのである。しかしついにその夢は実現することはなかった。彼女には世話をしなければならない姑(千石規子)がいる。彼女を置いてはいけないし、金をためることもできなかった。どんなに空を見上げ夢を見ようとも、彼女の足は現実という鎖につながれていた。それはリストラされ毎日を無為に過ごしている夫良樹(小木茂光)やまったく口も利かない息子と暮らしている雅子も同じだった。一人暮らしのむなしさを補うためにブランド品を買い捲り借金取りに追われている邦子も同様だ。ヨシエの語った夢はそんなむなしい日常に縛られている自分を励ますささやかな希望だった。それは彼女たちがおかれている生活がいかに無味乾燥で抑圧的であるかを逆に映し出している。ばかげた夢だが笑うべきではない。

  死体処理に嬉々として励む彼女たちに不思議な開放感があるのは(もちろん最初は顔を背けていたが)、非日常的なスリルを彼女たちが楽しんでいるよう描きたかったからだ。北海道の病院の前で弥生と雅子が交わす言葉にそれが表れている。「雅子さん、何でここまで付き合ってくれたんですか。」「巻き込まれたの、あんたに。楽しかったよ。ドキドキした。久しぶりだったそういうの。」彼女たちを追う佐竹に期待ほどの凄みがないのは迫り来る恐怖ではなく、それを乗り越えて現実から脱出して行く彼女たちのバイタリティを描きたかったからだ。吉田日出子が豪快に笑ったのはこの奇妙な女二人連れにこのバイタリティーを感じたからである。毎日10円ずつためてゆくというささやかな夢が最後には「でっかい夢」になる。

  偶然共犯者になってしまった4人の女たちは不思議な連帯感で結ばれてゆく。ただの行き掛かり上の共犯者仲間から同士になった。一人でできなかったことが力をあわせればできたからだ。あれほど自己中心的でいい加減だった邦子(工場での働きっぷりにそれが現れている)も弥生と分かれる時に大事なバッグを渡す。「これ本物だから。お金ないけどあげる。出産祝い。」初めて夢を持つことができた邦子にはもうブランド物のバッグはいらなくなったということだろう。これが実は象徴的だ。つまり、繰り返すが、彼女たちは夢以外何も持たずにアラスカに向けて旅立ったのだ。

  ここまで来て、やはり思い出されるのは魯迅の言葉である。魯迅は『人形の家』を論じた「ノラは家出してからどうなったか」と題した講演で、ノラには実際二つの道しかなかったと論じた。堕落するか、そうでなければ家に帰るかである。「人生にいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」である。「夢を見ている人は幸福」だ。確かに道が見つからない時に必要なのは夢である。しかし将来の夢を見ては行けない。必要なのは現在の夢であると。

  「OUT」のラストには希望がある。警察から逃げているはずの彼女たちに悲壮感は漂っていない。むしろ開放感や爽快感がある。しかしこの映画は上で指摘したように、すでに早い段階でファンタジーになってしまっている。ファンタジーは幻想でもある。この先彼女たちはどうなるのか。鎖は断ち切り開放されたが、彼女たちを待っている未来は不確定だ。なぜなら現実は変わっていないからだ。彼女たちは現実から逃避したのであって、現実を変えたわけではない。彼女たちの前向きの姿勢が生む爽快感は『人形の家』に通じるが、開放感が幻滅に変わるかもしれない不安が絶えず付きまとっている、つまり逃避しただけで終わっている点もまた『人形の家』と同じなのである。

  雅子は師匠と慕うヨシエが警察に自首する直前に彼女と最後の言葉を交わす。「師匠、あたしやってける。何もなしでやってける。」「やってけるよ。案外しぶといもんさ、人間って。」しかしこの言葉を裏付けるものは何もない。あるのは夢と漠然とした希望だけ。この言葉と自信だけでは魯迅が指摘した「夢から覚めた後の現実」を乗り切れる保証はない。

  リストラ、老人介護、カード破産、ドメスティック・バイオレンス。彼女たちが逃げ出した後もこれらの現実は消えうせはしない。弥生の夫、雅子の夫と息子、映画の中で男たちはだらしなく無気力だ。それは単に彼ら個人の問題ではなく、社会の矛盾の現れでもある。「OUT」では、これらの矛盾がほかならぬ女性問題として表れる。男たちが行動しないから女がそれらを引き受けて処理しなければならない。付けが全部女性に回ってくるわけだ。そして女たちはそれらを処理した。その結果警察に追われることになったが、彼女たちは逃げるのではなく向かっていた。夢に。

  現実社会の恐怖に正面から向き合うのではなく、ファンタジーに逃げてしまった描き方に不満も残る。それでもこれだけは言っておくべきだろう。生気を失い、ただ無為に過ごす無気力な男たちと違って女たちは少なくとも行動した。その行動力が生きる力を生み出すかもしれない。途中で夢破れるものもいるかもしれない。だが生きがいを見つけるものもいるかもしれない。さすがに1879年に書かれた『人形の家』から100年以上たっている。『人形の家』のノラは夫の財産の一部のように扱われ自分では何も判断できなかった。最後にようやく自分の意思を持ち、決然として「人形の家」を出てゆく。それが今や、無気力な夫と息子を励まし生計を維持しているのは雅子である(何かと口やかましい雅子に男たちが却ってうんざりしてしょげ返る気持ちも分からなくもないが)。いずれにしても人生はそれぞれ自分で掴み取るものだ(4人がカラオケで歌った「人生いろいろ」が暗示的だ)。そして彼女たちに掴み取れるチャンスは100年前よりずっと広がっている。少なくともその点は変わった。この100年の間に。

  原田美枝子、倍賞美津子、室井滋、西田尚美の4人はそれぞれに持ち味を発揮していて素晴らしかった。ローン会社の男を演じた香川照之もまた出色。間寛平は確かに凄みが足りなかったが懸命に役に打ち込んでいた。撮影日記に記された「間は、セットにじっと佇んでいる。飾らず、作らず、ただ存在することが佐竹の狂気を表現する方法であることを、舞台人でもある間は本能で身に付けた。間の迫真の演技に、倍賞にも緊迫感が漲る。」という言葉をきちんと受け止めておきたい。

原田美枝子出演作品
■おすすめの5本(「OUT」を除く)
 「THE有頂天ホテル」(2005)
 「愛を乞うひと」(1998)
 「絵の中のぼくの村」(1996)
 「息子」(1991)
 「火宅の人」(1986)

■こちらも要チェック
 「学校の怪談4」(1999)

香川照之出演作品
■おすすめの5本(「OUT」を除く)
 「嫌われ松子の一生」(2006)
 「いつか読書する日」(2004)
 「刑務所の中」(2002)
 「美しい夏キリシマ」(2002)
 「鬼が来た!」(2000)

■気になる未見作品  
 「故郷の香り」(2003)

« 2006年7月16日 - 2006年7月22日 | トップページ | 2006年7月30日 - 2006年8月5日 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
無料ブログはココログ