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2006年6月4日 - 2006年6月10日

2006年6月10日 (土)

サンシャイン・ステイト

2002年 アメリカ 未公開 Oct10
監督、脚本:ジョン・セイルズ
製作:マギー・レンジー
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:メイソン・ダーリング
出演:アンジェラ・バセット、ティモシー・ハットン
    イーディ・ファルコ、メアリー・スティーンバージェン
    ジェーン・アレクサンダー、ラルフ・ウェイト ビル・コッブス
    メアリー・アリス、ミゲル・ファーラー、ジェイムズ・マクダニエル
    トム・ライト、シャーレイン・ウッダード

  寂れた街に降って湧いた開発をめぐる映画というので「ザ・リバー」(84、マーク・ライデル監督)のような映画かと思っていたが、開発をめぐる対立が映画の主題ではないと分かってくる。そのことは、例えば、開発に反対するロイド博士(ビル・コッブス)が協会で開発反対の演説をするために説教壇に上がる場面で明確になる。わたしがこれから話すのは宗教の問題ではない、と言い始めたところで突然場面が変わってしまうのだ。開発問題は主題ではなく、舞台となったフロリダの小さな町(「サンシャイン・ステイト」とはフロリダの愛称)の置かれている状況に過ぎない。では何が主題なのか。うまく表現しにくいのだが、その小さな町で営まれているごくごく日常の人間生活ということになろうか。この映画は社会問題劇というよりは群像劇である。翌年の「カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~」も一種の群像劇なので、この時期ジョン・セイルズ監督は群像劇にこだわっていたようだ。

  登場人物は多く、しかも小さな町なのでそれぞれの人間関係が複雑に交錯している。その複雑な人間関係の中心に二人の女性がいる。若い頃母とけんかして家を飛び出したが、結婚して夫とともに久々に母に会いに来たデズリー(アンジェラ・バセット)と、寂れたモーテル兼レストランを経営するマーリー(イーディ・ファルコ)。

  舞台となる町はかつては何もない湿地だった。昔はワニや蚊がたくさんいたという。今はゴルフ・コースができ、さらに開発の手が入ろうとしていた。そのゴルフ・コースでゴルフをしていた金持ちの白人男性がその土地の自然を「首輪を付けられた自然」と呼んでいた。なかなか的を射た象徴的表現である。先に名前を挙げた開発反対派のエルトン・ロイド博士(黒人)は当然もっと違った捉え方をしている。その土地に初めて来たデズリーの夫レジー(ジェイムズ・マクダニエル)に語って聞かせるかたちで彼はリンカーン・ビーチについてこう説明している。「40~50年代このビーチはわれわれに唯一許された海辺だった。黒人がこの町を作ったんだ。協力して土地を買い、家を建てた。」したがって昔はかなり貧しい町だった。この点ではデズリーの母の言葉が印象的だ。ロイド博士がわれわれには親の遺産などなくゼロから出発したと言うと、彼女は「それさえ大恩よ。親たちが必死で這い上がったからゼロから始められた」と答える。たとえゼロであってもマイナスでないだけ感謝すべきだと。いかに貧しかったかわかる。マーリー(白人)の父ファーマンも昔は黒人も白人もみな貧しく必死で働いたと現在の堕落振りを嘆いていた。

  黒人のアンジェラ・バセットと白人のイーディ・ファルコをメインにしたのは意図的だろう。主要登場人物は黒人と白人でほぼ二分されている。しかし人種問題や開発問題はどちらBeach61_1 も主題ではない。人間劇をじっくり味わう映画であり、その意味では俳優の演技と存在感が命で ある。メインの女優二人をはじめ、主にテレビで活躍する味のある俳優を多数登場させている。映画が中心なのはアンジェラ・バセットの外にティモシー・ハットンとメアリー・スティーンバージェン程度。テレビ俳優が多いのは予算の関係があったようだ。しかしビル・コブス、メアリー・アリス(デズリーの母ユーニス役)、ジェイン・アレクサンダー(マーリーの母デライア役)、シャーレイン・ウッダード(デズリーの元友人、洗濯物を干していた女性)、トム・ライト(怪我をして引退した黒人の元花形フットボール選手フラッシュ・フィリップス)など、いずれも強い印象を残す名優ぞろい。特にビル・コブス、メアリー・アリス、ジェイン・アレクサンダーの三人は人生の重みを感じさせる名演を残している。

  人間関係ばかりではなく、デズリーとマーリーはともに自分の問題も抱えている。デズリーは女優を目指したが今はせいぜいテレビのコマーシャルの仕事がある程度。夢破れ自信を喪失している。父親(故人)は地元では有名な人物で、デズリーが十代で妊娠したとき厳格な対応をした。そのとき以来デズリーは両親に反発心を抱いたままである。そのとき彼女を妊娠させたのが当時人気の絶頂にあったフットボール選手フラッシュ・フィリップスであり、彼はある目的があって彼女とほぼ同時に故郷に舞い戻ってきていた。マーリーはアメリカ映画によく出てくる場末のレストランの経営者のイメージそのもので、人生に退屈しどこかけだるい佇まいを身にまとっている。父から受け継いだレストランを守るのに汲々とする日々。その心の隙間に入り込んできたのが、開発業者の一員であるジャック・メドウズ (ティモシー・ハットン)である。デズリーの人間関係とマーリーの人間関係は特につながりはないが、マーリーの母が元教師で、デズリーはその教え子の一人だったというのが唯一の接点である。

  他の主要登場人物としては、町おこしのために必死で努力しているフランシーン(メアリ・スティーンバージェン、「カーサ・エスペランサ」にも出演)、その夫で自殺願望のアール(ゴードン・クラップ、何度試みても自殺に失敗するこっけいな役柄)がいる。とにかくいろんな人が入り乱れていて、どこにも全体をつなぐ大きなストーリーなどはない。「カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~」同様、人生の一断面を切り取って終わっている。ラストでジャックは他の町の開発のために去って行き、マーリーはまた一人で取り残される。確かに日常の生活とはそんなものだろう。大きな事件などそうそう起こるわけではないし、ちょっとしたロマンスぐらいはあるだろうが、それも終わってしまえばまた日常に戻ってゆく。リアルといえばリアルなのだが、この映画の作りはどうも物足りない。あまりに断片的で人物と社会の掘り下げが浅い。他のジョン・セイルズ作品同様、全体に温かみがあってその点は悪くないのだが、ひとつの作品としてはインパクトが弱い。日常を描くのは難しい。退屈こそしなかったが、軽いコメディタッチの群像劇で終わっている。同じ日常を描くにしても、「ライフ・イズ・ミラクル」は思い切ったデフォルメを施し、シュールな展開を盛り込み、それが見事に成功していた。同じ方法を用いる必要はないが、何かもっとユニークな工夫が欲しかった。

  ジョン・セイルズ監督作品はこれまで「メイトワン-1920」(87)、「エイトメン・アウト」(88)、「希望の街」(91)、「パッション・フィッシュ」(92)、「フィオナの海」(94)、「アポロ13」(95)、「カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~」(03)と観てきたが、「サンシャイン・ステイト」も含めて一度もがっかりしたことはない。優れた作品を作り続けている割には知名度は高いとはいえない。インディーズの宿命かもしれないが、もっと評価されていい人だ。個人的には傑作とのうわさが高い「真実の囁き」(96、未公開)を見落としているのが残念。

  アンジェラ・バセットは大好きな女優の一人。この映画でも魅力を発揮していた。上記の「希望の街」や「パッション・フィッシュ」に加えて、「ボーイズ’ン・ザ・フッド」(91)、「マルコムX」(92)、「ため息つかせて」(95)、「ストレンジ・デイズ」(95)と観てきた。最後に観てからほぼ10年たつことになる。なつかしかった(下半身がずいぶん太くなったなあ)。モンゴメリー・バス・ボイコット運動で知られるローザ・パークス(惜しくも2005年10月24日に亡くなった)を描いたTVドラマ「ローザ・パークス物語」(02)もぜひ観てみたい。  

2006年6月 8日 (木)

空中庭園

2005年 日本 2005年10月公開 Sdfl0402
監督、脚本:豊田利晃
原作:角田光代
企画:孫家邦、森恭一
プロデューサー:孫家邦、菊池美世志
録音:上田なりゆき
美術:原田満生
編集:日下部元孝
衣装:宮本まさ江
主題歌:UA
出演:小泉今日子、板尾創路、鈴木杏、広田雅裕、ソニン
    大楠道代、今宿麻美 勝地涼、山本吉貴、渋川清彦
    中沢青六、千原靖史、鈴木晋介、國村隼 瑛太
    永作博美(特別出演)

 観ている間はそれなりに引き付けられたが、翌日レビューを書こうと思ったらかなり忘れていることに気づいた。特にストーリーの流れが思い出せなかった。あちこち印象深いシーンがあるのだが、順序がはっきり思い出せない。せりふも誰が言ったものかはっきりしない。主要登場人物がそれぞれの視点で描かれる形式なので、もともとストーリーは複雑に交錯している(「茶の味」に近い感じだ)。そのせいだろうか。調べてみたら、元の原作がそもそも6人の登場人物それぞれのモノローグからなる連作小説だった。

 観終わった後の素朴な印象は、これ見よがしでかなりあざとい演出が目立つ作品だということ。特にキャメラワークに凝った作品で、キャメラが、ということは画面が、縦に横に回転するシーンが頻繁に出てくる。豊田利晃監督の作品を見るのはこれが初めてなので、こういう傾向が彼の本来の持ち味なのかは分からない。原作を書いた角田光代もまったく読んだことがない。薬物のせいだろうという観測もあるが、これだって確かなことは分からない(彼が麻薬所持で逮捕されたことは映画を観た後、ネットであれこれ調べていてはじめて知った)。いずれにしても、こういうテクニックに走るタイプの映画は得てして人間に対する後ろ向きで意地の悪い描き方をするか、あるいはいたずらに暴力的だったりげんなりするほど情念的あるいは抽象的だったりする。

  しかしやけに目立つ凝った映像を別にすれば、内容は意外なほどオーソドックスである。京橋一家はいわゆる仮面家族で、「何事もつつみ隠さず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合う」という家族の決まりに表面的には従っているが、その実各人ばらばらで、それぞれに秘密を隠し持っている。絵に描いたようなお決まりのパターン。まるで日本中の家庭が同じような崩壊状態にあると言いたげだ。しかし、ラストは一応家族の絆を取り戻すだろうことが暗示されているので、後味は悪くない。何のことはない、よくあるタイプのファミリー再生ドラマである。

 したがって家族がばらばらになっている状態がどう描かれているか、家族が再び絆を取り戻す過程が説得的に描かれているかが焦点となる。冒頭、横に回転するキャメラがなめるように「バビロンの空中庭園」を映し出す。「空中庭園」といっても「ラピュタ」のように空に浮いているわけではもちろんなく、要するに屋上庭園のことだが、映画の冒頭に出てくる空中庭園は文字通り宙に浮いている。キャメラが引いて、これが「空中庭園」の形を模した電灯の笠であることが分かる。「空中庭園」というタイトルを意識してのことだろう、キャメラ(画面)はゆらゆらと浮遊し、何度もぐるぐる回る。

 夫と子供たちが出かけた後、京橋家の主婦絵里子(小泉今日子)はマンションの庭に出て木や花に水をやる。この庭は“ERIKO GARDEN”と名づけられている。これまた「空中庭園」である。やがて静かな音楽が流れ出し、自然音は消される。キャメラはなめるようにバスに乗っている夫、娘、息子、そして庭にいる絵里子を映してゆく。突然キャメラが一気に引いてマンションの全景が映る。次にマンションが縦に回転し「空中庭園」の文字が空に現れる。のっけから凝った映像を見せ付けられるが、導入部としては悪くない。  もちろん「仮面家族」だから(「空中庭園」というタイトルには実体のない「空中楼閣」という意味がこめられているだろう)最初は一見円満な家庭のように描かれる。冒頭の朝の場面で、娘のマナ(鈴木杏)が自分の「出生決定現場」はどこかと絵里子に質問する。普通は答えに言葉を濁す質問だが、何事も隠し事をしない家族をモットーとしているので、絵里子は「野猿」というラブホテルだったとあっさり答える。息子のコウ(広田雅裕)にいたっては家の台所で「仕込まれた」。何でも話せる明るい家庭を最初に映しておいて、すぐその後にそれぞれが隠し事をしている実態が描き出される。マナは学校には行かず、情けない名前のホテルに男友達と早速入ってみる(そのベッドがまた「回転」している)。コウも学校には行かずカメラ片手に街をぶらついている。夫の貴史(板尾創路)はといえば、飯塚麻子(永作博美)とミーナ(ソニン)という二人の愛人に振り回されている。

 絵里子も決してまともではない。常に笑顔を振りまいているが、言うまでもなくそれは心からの笑顔ではない。娘のマナがコンビニで立ち読みしている母親に声をかけるシーンがSdcabirth02 ある。振り向いた絵里子はものすごい怖い顔をしている(「踊る大走査線 THE MOVIE」のあのぞっとする役以来怖い役が似合う気がしてならない)。その顔が徐々にいつものニコニコ顔に変わってゆくところが不気味だ。本当に不気味なのだが、かといって猫の皮をかぶった冷酷な人間というわけでもない。彼女は本当に温かい家庭を創りたいと思っている。ただ彼女の思うとおりに家族がなってくれないのである。子供たちが学校に行っていないことや夫の浮気もうすうす感づいている。しかし何とか明るい家庭を維持しようと見てみぬ振りをしているのだ。

 そこまでして彼女が家庭を守ろうとするのは、彼女の母である木ノ崎さと子(大楠道代)との確執があったからだ。大嫌いだった母親を反面教師として、自分の家庭は明るい家庭にしようと彼女なりに努力しているのである。かつてひきこもりだった自分の苦い記憶もわだかまりとして胸の中に残っている。子供たちも根っからの不良ではないし、夫も優柔不断なだけで絵里子を嫌っているわけではない。ここにラストの家族再生への芽がある。そういう設定だ。つまりこの映画は基本的にホーム・コメディーなのである。貴史の愛人ミーナが息子の家庭教師として何食わぬ顔で家に入り込んでいて貴史が仰天する場面、入院している病院でわがまま言い放題のさと子など、こっけいな場面が随所にある。

 このコミカルな中心ストーリーだけでは平凡に過ぎると思ったのか、豊田利晃監督は独特のこわ~い演出をまぶしている。貴史役の板尾創路(いたお いつじ)がもっぱらコミカルな場面を引き受けているとすれば、怖い場面の中心はやはり小泉今日子である。彼女はパート先の同僚に「ねえナヨちゃん、何でいつもそうやって完璧な笑顔作れるの?嘘がばれないため?空っぽだから?」とからかわれる。子供の頃引きこもりがちでなよなよしていたので「ナヨ」ちゃんと呼ばれていたのである。その同僚の母親が絵里子の同級生で、母親からその話を仕入れて早速からかったのだ。あるとき絵里子はその同僚の女の子に金を貸せと迫られる。相変わらずニコニコしているのだが、突然フォークを手にとって相手を滅多刺しにするシーンが挿入される。血が飛び散る。もちろん幻想シーンである。豊田監督は血が好きなようだ。ラストで家族の絆が取り戻される直前に、自宅の庭に出た絵里子に血のような真っ赤な雨が降ってくる場面がある。真っ赤にぬれながら「やり直して、繰り返して」と狂ったように叫び続ける絵里子。なんとも気味の悪いシーンだ。

 絵里子が仮面をかなぐり捨て家族の危機が頂点に達するのは、ミーナとさと子のバースデー・パーティーの場面である。そのパーティのさなか、絵里子が作った「新しい家族」の実体を見て、ミーナは「そうか学芸会や。これは学芸会なんや。だって幼稚園の学芸会にそっくりやも。みんな分かってるのに幸せな家族の役演じてる。学芸会や」と心の中でつぶやく。仮面をかぶって学芸会を演じる京橋一家。これはなかなか気の利いたせりふだった。重要なのはその後の場面。絵里子とさと子の二人だけが部屋に残る。明かりを消してバースデー・ケーキのローソクに火をともす。そこでまたキャメラがぐるぐる二人の周りを回りだす。さと子が語り始める。さと子が初めて自分の思いを長々と語るシーンだが絵里子はそれを聞いても母親への嫌悪感を変えない。憎々しげに「アンタさぁ……死ねば?」という言葉を母親に投げかける。

 この場面では絵里子の考えは変わらないが、赤い雨が降る直前に絵里子にかかってきたさと子の電話が変化のきっかけになる。その電話で自分の間違った思い込みに気づく。息子のコウが言った「思い込んでいると、本当の物が見えない」という言葉がここで効いてくる。母親を恨むあまりに絵里子は自分で自分を追いこんでいた。幸せな家庭への憧れが逆に強迫観念となっていた。絵里子はようやくそのことに気づく。その後に続く赤い雨が降る場面で語られる「人は誰でも皆、血まみれで泣き叫びながら生まれてくる」という台詞が示唆的だ。画面の印象は不気味だが、要するに絵里子は赤い雨に打たれて赤子として生まれ変わったことが暗示されている。そしてその後に続くもうひとつの誕生日の場面。そこでやっと家族はひとつにまとまる兆しを見せる。

 一応筋は通っている。しかし観終わった後特に深い感銘を覚えるわけではない。基本がホーム・コメディだけに、家族崩壊という問題に深く踏み込んでいるわけではないし、人物造形もかなり紋切り型だ。その平板さを補うために原作以上に絵里子の「狂気」を強調するあざとい演出を試みたが、コメディにホラーの味付けをしたようなものでややちぐはぐな印象が残る。もっとコメディに徹した方がよかったかもしれない。普通に秘密を持つ普通の家族、それでいい。

 あのマンションはおそらくバブル期に建てられたのだろう。濡れ手で粟の安易な金儲けを経験してしまってから、勤勉だった日本人がおかしくなってしまった。堅実なものづくりができなくなってしまった。三菱の欠陥車、ホリエモンや村上ファンドの事件も明らかにバブル以降の傾向の延長線上に起きた事件である。家族の変質はもっと前から徐々に進行していたが、バブル以降一気に加速したように思う。家族崩壊を本気で論じるならもっと広い社会的、歴史的視野で論じるべきである。そうしないのならコメディでいい。

2006年6月 5日 (月)

ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

1998年 イギリス 2000年1月公開
原題:Hilary and Jackie
原作:"A Genius in the Family"、『風のジャクリーヌ』(ショパン社)
監督:アナンド・タッカー
脚本:フランク・コットレル・ボイス
撮影:デヴィッド・ジョンソン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:エミリー・ワトソン、レイチェル・グリフィス、ジェームズ・フレイン
   デヴィッド・モリッシー、チャールズ・ダンス、セリア・イムリー
   ビル・パターソン、オーリアル・エヴァンス、キーリー・フランダース

  先日「ゴブリンのこれがおすすめ 14」で伝記映画を取り上げた時はまだ「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を観ていなかった。なんとなく暴露もののような印象があって手がPiano1 出なかったのである。観たいと思っていた新作DVDが借りられなかったので、手持ちのDVDからたまたま選んだのがこの映画だった。最初の場面からぐっと引き付けられた。最後のあたりでは久々に涙を流した。どうしてもっと早く観ておかなかったのかと後悔するほどの素晴らしい作品だった。

  ジャクリーヌ・デュ・プレ。イギリスはドイツ、オーストリア、イタリア、ロシアなどに比べるとクラシックの大作曲家を生まなかったが、粒ぞろいのオーケストラや室内楽団を保有する国である。しかしどういうわけか弦楽器の名演奏者が育たない。その数少ない例外がチェロのジャクリーヌ・デュ・プレである。僕は今でこそ様々なジャンルの音楽を聴くが、学生の時はクラシック一辺倒だった。そのころ買ったジャクリーヌ・デュ・プレの名盤「ハイドンとボッケリーニのチェロ協奏曲」(ジョン・バルビローリ、ロンドン交響楽団/ダニエル・バレンボイム指揮、イギリス室内管弦楽団)は今でも数少ない愛聴盤のひとつである。CDも買ったがやはりレコードの方に思い入れがある。レコードを久々に棚から引っ張り出してみた。ジャケットにジャックリーヌの顔が大きく写っている。どことなくカレン・カーペンターに似ている。結構美人だ。うっすらと笑みを浮かべたその顔には何の陰りもない。

  「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」は伝記映画のジャンルに入るが、彼女の芸術的苦心や苦悩はそれほど描かれてはいない。むしろ焦点は芸術家・プロの演奏家としての生き方と普通の人生との相克である。それは姉との確執という形で表面化する。邦題は「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」となっているが映画の原題は「ヒラリーとジャッキー」。ジャッキーはジャクリーヌ(エミリー・ワトソン)の愛称で、ヒラリー(レイチェル・グリフィス)は姉の名前である。二人とも子供の頃から音楽的才能を発揮し、地元のコンクールでともに楽器別の優勝者になっている。しかし姉は普通の生活を選び、ジャッキーはプロの演奏家の道を選ぶ。別々の道を選びながらも、二人の間には不思議な絆があった。映画の冒頭で幼い二人が仲良く遊んでいる光景がまるで思い出の中の1シーンのように懐かしい雰囲気を帯びて映し出される。二人が海岸に走ってゆくと、波打ち際に大人の女性が一人立っていた。逆光で顔は見えない。ジャッキーはその人物と何か言葉を交わす。結局その人物が誰かわからないまま画面は切り替わる。

  ジャッキーは才能をどんどん伸ばして一流の演奏家になってゆく。ダニエル・バレンボイム(ジェームズ・フレイン)という売り出し中のピアニストとも結婚する。順風満帆のように見えるが、その頃から彼女に奇矯な行動がちらほら現れてくる。

  ジャッキーにはどんなに名声を得てもどこか満たされないものがあった。ロンドンや外国での華々しい活躍の裏で、故郷や家族への思いが募っていった。印象的なエピソードがある。外国での演奏旅行中どうしても洗濯ができず、彼女は洗濯物を実家に送る。しばらくしてジャッキーがホテルに戻った時洗濯物が届けられていた。ジャッキーはホテルのフロント係の目の前で包みを開け洗濯物を顔に押し当てる。「私のうち、私のうちの匂い!」部屋に上がり、ベッドに洗濯物を広げてその匂いをかぐ。ここは非常に感動的な場面だ。人気の絶頂にありながら、彼女の心には埋めがたい隙間ができていた。

  彼女の演奏に対する打ち込みようは恐ろしいほどだったという。力演のあまり大量の汗をかいたようだ。マドリッドで巨匠カザルスに食事に誘われた時も、使いの者にわきの下が匂うからと言って断る場面も描かれている(腕を上げると使いの女性が「おおっ」とのけぞるところが可笑しい)。音楽に激しく打ち込んだ分、その反動も大きかったのだろう。家Sdnight01 族から離され一人孤独に悩む。次第に募る故郷と姉への思い。自分も姉のような平凡な幸せが欲しいと願うジャッキーの渇きに似た思いがなんとも切ない。しかし演奏活動を続ける限りそれは望むべくもない。徐々にストレスがジャッキーを押しつぶしてゆく。幸福な子供時代からあまりに遠く隔たってしまった。平凡さすらうらやましい。音楽をやめようとまで思い悩む姿は痛々しいほどだ。ヒラリーがジャッキーに言った「平凡な幸せを掴むのも才能がいるのよ」という言葉が胸をえぐる。

  ジャッキーは夫のダニエルにも同じ欲求を話す。「チェロを弾けなくても私を愛してくれる?」・・・ダニエル「音楽に乗って揺れる体、酔い輝いてる目。ダンスとダンサーをご覧、いつも一体だ。」「普通の人間の暮らしをしたいの。」「田舎に引っ込んでパンでも焼くのか?ニワトリに餌を?アマチュア連中と音楽会。」「姉を侮辱するの?」「違うよ。」「姉は自分で道を選んだわ。私たちは曲芸のサル。」

  彼女の心の隙間は徐々に拡大してゆく。平行して奇矯な行動もエスカレートしてゆく。姉の「普通の人間の生活」への憧れもゆがんだ形で表れる。ジャッキーは休養をとり、癒しを求めて田舎に住む姉夫婦を訪ねる。姉夫婦はジャッキーを歓迎する。しかしジャッキーはヒラリーにとんでもない欲求を突きつける。義理の兄キーファーが欲しい。精神的ストレスがどうにもならないセックスへの渇きとして表れていた。妹の病的な行動に危険を察知したヒラリーは悩んだ末夫と寝ることを許す。この映画の中でもっともスキャンダラスな場面である。もちろん映画は興味本位の描き方はしていない。姉、姉の夫、そしてジャッキー本人も悩み苦しんでいる様を冷徹に見つめてゆく。ジャッキーの姉のヒラリーと弟のピアーズ共著の原作は出版後激しい批判を浴びた。イギリス音楽界の至宝ジャクリーヌ・デュ・プレのスキャンダラスな暴露本。確かに批判も出るだろう。われわれには真相はわからない。問題は映画として説得力があるかどうかだ。少なくとも、ジャッキーの奇矯な行動は極端な精神的ストレスと後に発病する不治の病から来るものだという映画の描き方には納得が行く。

  ヒラリー、キーファー、ジャッキーの間の不自然な関係は長くは続かなかった。やがてジャッキーは演奏活動を再開する。しかし姉妹の間に深い傷を残した。ジャッキーが田舎の姉夫婦を訪ね、姉夫婦がうれしそうにジャッキーを迎える場面は実は二度描かれる。二度目は上の「私たちは曲芸のサル」というせりふのすぐ後。映画の前半はヒラリーの視点で描かれていた。名声の絶頂にいた妹に深い悩みがあることにヒラリーは気づき、妹の非常識な望みに戸惑う。ジャッキーの視点から描かれた後半部分はヒラリーに見えなかったジャッキーの内面の苦悩に光を当てる。ダニエルとの夫婦仲にも隙間が生じ、ジャッキーが精神的に不安定になっている事情が観客にはわかってくる。音楽家として人間として悩んでいたことがわかる。二つの視点は二度描かれるジャッキーが帰郷する場面で交錯する。ジャッキーは傷ついて帰ってきたのだ。そして姉を裏切ることによってさらに傷は深まってゆく。視点をかえて二度繰り返し描くことによって、ジャッキーの心の闇をより深くえぐってゆく。デヴィッド・リーンの名作「逢びき」の手法を応用した見事な演出である。

  やがて悩めるジャッキーをさらに追い詰める出来事が起こる。突発性硬化症がついに発症したのだ。ジャッキーはコンサートの直前に自分がいつの間にか失禁していたことに気づく。演奏は何とか最後までやれたが、演奏後自分では立てなかった。その後は不治の病が徐々に彼女の体を冒してゆく様子をこれまた冷徹に描き出してゆく。激しい痙攣が彼女を襲う。見舞いに来た姉にひどい言葉を浴びせる。もうずいぶん前から、ことある毎に姉を侮辱する言葉を吐いていた。姉への思いが極端にゆがんで表れている。

  夫のダニエルは仕事と称して家に寄り付かなくなる。1本の電話からジャッキーは彼の 浮気に気づく。一人さびしく家に残されたジャッキーは不自由な指で昔の自分のレコードをかける。音楽が流れる中キャメラは彼女の周囲をなめるように写し取る。隣の部屋に掛けられた黄色い演奏会用の美しい衣装がなんともむなしく映る。彼女の正面には誰も弾くことはないチェロが置かれている。ジャッキーは身体が麻痺して、車椅子に座っている。やがて彼女はレコードを止め泣き崩れる。

  この映画は冒頭とラストのイメージ描写を除けば、終始姉妹二人の関係を冷静に描いている。ラストで甘い思い出にくるんでしまうが、全体は決して露悪的でもなく美Gogo_2_1化してもいない。最初は姉のほうが才能を認められ、ジャッキーは姉と一緒にいたいがために一生懸命練習に励む。しかし妹のほうが才能で上回ると、姉は妹のレッスンが終わるのを母と待っているという屈辱的な立場に転落する。退屈で何度もフルートを口に運ぶが、結局音を出せないヒラリーの姿がなんとも哀れだ。このようにありのままに二人の関係を描いたことがこの作品を成功させていると言ってよい。

  ラストでヒラリーと弟ピアーズが乗っている車のラジオからジャッキーの死を報じるニュースが流れる。1973年、28歳で演奏活動から隠退を余儀なくされてから14年。42歳だった。ヒラリーは弟に車を停めるよう頼み、車から降りる。彼女が歩いてゆくにつれて時間が逆転してゆく。黄金の国へ行った話しが読み上げられ、幼い二人が海岸へ走ってゆく場面に。波打ち際に一人の女性が立っていた。前にも出てきた映像。立っていたのは大人のジャッキーだった。彼女は幼いジャッキーにささやく。「心配しなくていいのよ。」

  このラストは実に見事だ。しかしそれ以上に印象的なのはその前の場面である。この場面があったからこそラストに忘れがたい余韻が残るのである。

  ヒラリーはジャッキーにひどく侮辱されて以来、しばらく妹を避けていた。しかしある嵐の晩、彼女は何か胸騒ぎを感じた。それまでのいきさつをすべて投げ捨て、弟を連れてジャッキーに会いに行く。ジェーン・エアが遠く離れたロチェスターの声を聞くあの有名な場面を思わせる。ヒラリーがジャッキーの部屋に入ると、ダニエルがベッドに寄り添いジャッキーに何か飲ませようとしている。ジャッキーは激しく痙攣していた。ヒラリーが交代して妹を抱く。激しく痙攣している妹に姉は語りかける。

  「本当に愛している人ってイメージが焼きついてる。その人を思うとそのイメージが浮かぶ。BBCでドラムを破った日のママ。誰かを失ったらイメージを思い浮かべ、その人を取り戻す。私の中のあなたのイメージを知りたい?ジャクリーヌ・デュ・プレのイメージ、それはあの浜辺、あなたがチェロを弾き始める前の話よ。プロの演奏家にも今のあなたにもなる前。私たちは遊んでいた。私がまだ13歳のころ。私は黄金の国へ行った。キンバローゾ・コトパクシーが私の案内役。オリノコから灼熱のカラハリ砂漠、ヴェルト草原の大自然からステップ地帯へ。そして故郷へ。あの日言ったことを覚えてる?あなたは言った“心配しないでいい”と。その通りだったわ。」いつしかジャッキーの震えは止まっていた。

  ジャッキーを演じたエミリー・ワトソン、ヒラリー役のレイチェル・グリフィス。ヒラリーをあからさまに侮辱する時のエミリー・ワトソンの顔は本当に憎々しげである。観ていて腹が立つほどだ。だからどんなに侮辱されてもやさしく妹を支え続けるレイチェル・グリフィスに心を惹かれる。彼女の端正な顔は実に美しく魅力的だった。しかしその差は役柄から来ている。ともに名演だった。

  劇中使われるジャクリーヌ・デュ・プレ本人の演奏は言うまでもなく素晴らしい。名演とされるエルガーのチェロ協奏曲のコンサート・シーンは圧巻である。体を大きく動かすジャクリーヌ・デュ・プレの演奏スタイルを再現させたエミリー・ワトソンの熱演も見事。もうひとつ音楽的演出で出色だったのは、ベートーヴェンを演奏中に突然キンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」を演奏し始める場面。乗りにのって最後に「これが正しいベートーヴェンだ」とダニエルが口にする(仕掛けたのもダニエル)。彼女が活躍したのがいつの時代だったのかを強烈に印象ずける意表をつく演出だった。そういえば、キーファーがSOHOで上映中の「突然炎のごとく」を観にヒラリーを連れて行こうとするのを、父親が「そんないかがわしい場所に行くことは許さん」と反対する場面もあった。

  演出といえば、原作からの脚色、キャメラワークも含め見事だった。これほど一つひとつの場面が鮮明に記憶に残る作品は滅多にない。

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2006年6月 4日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 15

記憶喪失もの
■おすすめの10本
「博士の愛した数式」(05年、小泉堯史監督)
「ボーン・スプレマシー」(04年、ポール・グリーングラス監督)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(04年、チャールズ・ダンス監督)
「きみに読む物語」(04年、ニック・カサヴェテス監督)
「過去のない男」(02年、アキ・カウリスマキ監督)
「アイリス」(01年、リチャード・エア監督)
「メメント」(00年、クリストファー・ノーラン監督)
「シベールの日曜日」(62年、セルジュ・ブールギニョン監督)
「白い恐怖」(45年、アルフレッド・ヒッチコック監督)
「心の旅路」(42年、マーヴィン・ルロイ監督)

■こちらも要チェック
「エターナル・サンシャイン」(04年、ミシェル・ゴンドリー監督) Big_0064_1
「ボーン・アイデンティティ」(02年、ダグ・リーグマン監督)
「マルホランド・ドライブ」(01年、デヴィッド・リンチ監督)
「マジェスティック」(01年、フランク・ダボラン監督)
「ロスト・ハイウェイ」(96年、デヴィッド・リンチ監督)
「ロング・キス・グッドナイト」(96年、レニー・ハーリン監督)
「恍惚の人」(73年、豊田四郎監督)
「かくも長き不在」(60年、アンリ・コルピ監督)

■気になる未見作品
「ザ・ジャケット」(05年、ジョン・メイブリー監督)
「明日の記憶」(05年、堤幸彦監督)
「50回目のファースト・キス」(04年、ピーター・シーガル監督)
「私の頭の中の消しゴム」(04年、イ・ジェハン監督)
「バタフライ・エフェクト」(04年、エリック・ブレス&J・マッキ―・グラバー監督)
「いま、会いにゆきます」(04、土井裕泰監督)
「Re:プレイ」(03、ローランド・ズゾ・リヒター監督)
「記憶の旅人」(99、マーティン・ダフィ監督)
「愛と死の間で」(91、ケネス・ブラナー監督)
「記憶の代償」(46年、ジョセフ・L.マンキーウィッツ監督)

  最近記憶喪失や認知証を扱った映画が目立って増えている。記憶喪失ものには大きく三つの分野があるようだ。「白い恐怖」に代表されるサスペンス、スリラー、アクション系統、「きみに読む物語」などのラブ・ロマンス系統、そして「博士の愛した数式」のような人間ドラマの系統。後ろの二つの系統では記憶喪失というよりは認知症やアルツハイマー等の問題が取り上げられることが多い。
 50本ほどあげた中からここまで絞ったが、見逃しているのがもっとある気がしてならない。ここ最近のものはほとんど拾い上げられたが、昔のものが手薄だ。もっと何かあったはずだが、記憶が・・・

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