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2006年4月23日 - 2006年4月29日

2006年4月28日 (金)

ヴェニスの商人

Kagami_wedding_01 2004年 アメリカ・イタリア・ルクセンブルグ・イギリス
監督・脚本:マイケル・ラドフォード
原作:ウィリアム・シェイクスピア
撮影監督:ブノワ・ドゥローム
プロダクションデザイン: ブルーノ・ルベオ
編集:ルチア・ズケッティ
音楽:ジョスリン・プーク
衣裳デザイン:サミー・シェルドン
出演:アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズ、ジョセフ・ファインズ
    リン・コリンズ、 ズレイカ・ロビンソン、クリス・マーシャル
    チャーリー・コックス、 マッケンジー・クルック、ヘザー・ゴールデンハーシュ
    ジョン・セッションズ、 グレゴール・フィッシャー、ロン・クック、アラン・コーデュナー
   アントン・ロジャース、デヴィッド・ヘアウッド

  マイケル・ラドフォード監督の「ヴェニスの商人」を観て、まず印象に残るのはシャイロックを演じたアル・パチーノの熱演だろう。これは彼の演技力に負うところが大きいが、それだけではない。この有名なシェイクスピアの戯曲を映画化するに際して、マイケル・ラドフォード監督の狙いはこれまで悪党として扱われてきたシャイロックに焦点を当てることにあった。原作ではシャイロックは単なる欲深い守銭奴である。彼の理不尽な要求をポーシャがうまく裁いてみせ、ついでに彼女の恋も見事成就するという話だ。基本的に喜劇である。この映画版は悪役に過ぎないシャイロックに焦点を当て、彼にユダヤ人のなめてきた辛酸を語らせ、一見理不尽に見える彼の要求にはそれなりの理由があることを示す。彼は残酷な守銭奴ではなく、キリスト教徒によって虐げられてきた被害者であり、キリスト教徒の定めによって財産も名誉もすべて奪われた哀れな犠牲者として描かれている。ラストでシャイロックの娘のジェシカ(ズレイカ・ロビンソン)が銛で魚を突いている父親を悲しみをたたえた目で眺めるシーンはそういう意味で必要なシーンだった。

 シャイロックに焦点を当てるといっても基本的に原作に忠実に描いているので、大幅に彼のせりふを付け足しているわけではない。むしろ他の要素をそぎ落としている。そして冒頭の字幕でユダヤ人に対する差別について説明をつけるという処理をしている。原作は戯曲なので当然せりふが中心である。映画化する際には背景説明が必要になってくるが、かといってあまり説明的では興をそぐ。基本的な状況説明を冒頭の字幕だけにしたのは適切な判断だったと思う。その説明も簡潔にしてツボを押さえている。

  16世紀ヨーロッパ社会のユダヤ人に対する排斥は自由主義の都市国家ヴェニスで
 も行われていた。彼らは塀のある工場跡かゲットーに住まわされ、夜はキリスト教徒
 が門を施錠して番をした。日中ゲットーを出る者はユダヤ人の印として赤い帽子の着
 用が義務付けられた。ユダヤ人は土地の所有を禁じられ、金貸しを営んでいたが、そ
 れはキリスト教の教えに反することだった。教養あるヴェニス人は知らぬふりをしてい
 たが、反ユダヤ人の狂信者は彼らを許さなかった。

  この冒頭の説明に続き、キリスト教徒がユダヤ人をからかっている場面を映し出す。アントーニオ(ジェレミー・アイアンズ)がシャイロックにつばを吐きかける場面も挿入されている。この段階で早くも観客は心理的にシャイロック側に立ってしまう。このようにしっかりと前提を作っているからこそ、シャイロックがユダヤ人に対するいわれのない差別を激烈に批判する場面がなおさら記憶にやきつくのである。

  ユダヤ人には目がないか?手がないのか?内臓や体つき、感覚、感情、情熱、食
 べ物が違うか?刃物で傷つかないか?同じ病気にかからず同じ薬で治らないか?
 同じ季節の暑さ寒さがキリスト教徒と違うか?針で刺しても血が出ないか?くすぐって
 も笑わないか?毒を盛っても死なないか?迫害されても復讐しないのか?それだって
 あんたたちと同じだ。ユダヤ人に迫害されたらどうする?復讐か?我々だって迫害
 されたら同じことさ。キリスト教徒を見習い復讐する。お前たちの仕打ちを真似して
 やる。どれだけ苦労をしてもお手本より上手にやるぞ。

 これを聞いているキリスト教徒たちは何も言い返せない。いや、この場面だけではない。最後までこの論理を超える論理が提起されることはない。シャイロックは最後に破滅するが、それは彼の論理が覆されたからではなく、あくまで1ポンドの肉を要求する彼の訴えが「法的に」裁かれただけである。彼が提起した問題提起は結局のところはぐらかされ、まったく別の側面から彼は裁かれる。それだけに彼の問題提起は最後まで観客の胸に突き刺さったままなのだ。

 確かに彼の「要求」は常軌を逸していた。彼の言い分に分があるとしても、肉1ポンドを要求することがユダヤ人差別を解決するわけではない。積もり積もった彼の恨みつらみが彼をそのような行動に追いやったことは理解できるが、彼の行動を是認は出来ない。なぜなら彼の行動は個人的な恨みに端を発しているからだ。裁判での彼の言い分は上に引用したせりふほどには説得力がない。「どうしようもないのだ。私にも理由はない。今までに積もった恨みとしか言えません。アントーニオが嫌いでたまらない。」

  シャイロックの提起した問題が抜き差しならないのはユダヤ人全体にかかわる大きな問題がその前提として存在しているからだが、シャイロック自身はその重荷を担うにはあまりに卑小だった。シェイクスピアは大きな問題の存在を暗示するが、それを個人的問題に収斂させ、結局のところ「正義」によって「悪」が裁かれるという図式に乗っかって喜劇的に問題を処理してしまった。シャイロックを不当な扱いに抗議する英雄としては描かなかった。

  たとえば、キリスト教徒と駆け落ちした娘が見つからないと聞いて、シャイロックは嘆く。「ユダヤ民族は呪われていると今初めて感じた。世の中にある不運が私の肩にのしかかっている。そして世の中にあるため息がこの口から出る。世の中にある涙が目から流れる。」ここでは自分の不運をユダヤ人全体の運命と重ねていた。しかしジェノアで娘を見かけた、一晩で80ダカットも使ったそうだとユダヤ人の仲間から聞いたときは、「胸をえぐられるようだ。もう金が戻らない。80ダカット。たった一晩で。80ダカットも!」と嘆いてみせる。もはや娘のことなど心配してはいない。彼が気をもんでいるのは金だ。金貸し根性が染み付いているシャイロックには金がすべてなのである。彼に一定の言い分があることは認めつつも、最終的には強欲な守銭奴として否定される。映画も原作の枠組みは崩さない。だが、そこはシェイクスピア。ユダヤ人を退場させる前に思う存分思いのたけを吐き出させる。裁判の場面でシャイロックは皮肉を連発する。お前たちキリスト教徒のやってきたことは本当に正しいといえるのか?

   無実の身に恐れるものはない。あなた方は大勢の奴隷を買い取り、犬かラバのよ
 うに扱い、金を払ったからと卑しい仕事をさせる。彼らを自由にしては?娘の婿にど
 うだ?なぜ重労働をさせる?彼らにも柔らかいベッドを!あなた方と同じご馳走を!
 こう答えるのか?「奴隷は私のものだ。」私も答えるぞ。私が要求している1ポンドの
 肉は金を出して買ったもの。私のものだ。

  しかしポーシャの活躍で形勢逆転。シャイロックは肉どころか、自分の財産をすべて失い、さらにはキリスト教徒に改宗することを命ぜられる。この裁きは正しかったのか。改宗を迫る権利が法にあるのか。考えようによってはこの判決自体がキリスト教の横暴さを表しているとも取れる。シャイロックを無慈悲な守銭奴としてだけ見ていた時には痛快な逆転Engle2 劇に思えた。しかしシャイロックに一定の言い分があると感じ始めたとたん、この判決自体が果たして「公正な」ものだったのかという疑問が頭をよぎりはじめる。そう感じさせたとすれば、それは映画の力だ。シャイロックのせりふの背後に、彼個人を超えた大きな問題があることを常に観客に意識させることに成功したからだ。原作の枠組みがあるためにキリスト教自体を相対化し風刺するところまでは行かなかったが、映画を観終わった後まで尾を引く問題提起をしたことも事実だ。その点は評価できる。

 しかしシャイロックをリアルに描いた結果、皮肉なことに、この映画はちぐはぐなものになってしまった。シャイロックの人物像に社会的、歴史的要素を描きこめば描きこむほど、描写はリアリズムに近づいてゆく。もともと戯曲で、しかも喜劇だったものにリアリズムを持ち込むことによって、齟齬が生じてしまった。バッサーニオ(ジョセフ・ファインズ)とポーシャの喜劇的部分とシャイロックの悲劇性を帯びたリアリスティックな部分が無理やりつなぎ合わされることになってしまった。

 積年のうらみつらみをリアルに語るシャイロックの傍らに、どう見ても女にしか見えないポーシャが法服を着て明らかに女の声で語る姿がある。もともとの喜劇なら笑って済ませられよう。そもそも演劇には様々な制約がある。例えば、シェイクスピアの時代には女性が舞台に立てないので子どもが女性を演じていた。剣で人を刺す場面があっても、それが本当に刺していないと観客は分かっている(映画のようにリアルに血が飛び散ったりはしない)。それでも「刺した」とみなして観客は観ている。このような暗黙の了解が鑑賞の前提となっている。だが、舞台と映画は違う。アル・パチーノの熱演とリン・コリンズのお粗末な扮装が隣り合っていたのでは、もはや暗黙の前提の枠を超えて、リアリズムに亀裂が生じている。どうしても違和感がぬぐえない。裁判の後のポーシャとバッサーニオの指輪をめぐるこっけいなやり取りも、緊迫感のある法廷場面の後ではなんとも馬鹿げて映る。アル・パチーノとジェレミー・アイアンズの火花散る迫真の法廷場面に比べるとなんとも安手で物足りない。原作の枠を守る限りではこのギクシャクした「張り合わせ細工」は解決できない。喜劇にするかリアリズム劇に徹するか、二つに一つだ。そうでなければ一貫しない。しかしポーシャに絡む部分はとうていリアリズム劇にはなりえない。結局映画版はこの矛盾を解決できなかった。

 シャイロック像がリアルなだけに、他の部分のいい加減さがあれこれ見えてしまう。そもそもバッサーニオは散々遊び歩いて金を使い果たしただらしない男である。それがあっさりポーシャの望ましい婚約者になってしまう。理由はこれまた単純だ。彼がいい男だったからである。一目ぼれ。おいおい、いいのかそれで。確かに3つの箱から正しい箱を選ばせるという課題を彼はクリアしている。この箱選びは倫理的試金石になっている。正しい箱を選んだということは、見せかけにだまされない「正しい」判断力を持った男だということを意味する。彼が試験に合格した時点で、彼のだらしのない過去はすべてチャラにされる。実に都合のいい展開だ。そもそもバッサーニオだってポーシャの金狙いではなかったのか。シャイロックとどこが違うのか。

 金持ちは立派な人間だという単純な決め付け方はもちろんしていない。バッサーニオに先立って箱試験を受けた最初の二人の求婚者たちは、それこそ「おばか」を絵に描いたような男たちだった。ポーシャも単に裕福な家柄の娘というだけではなく、裁判ですぐれた能力を発揮したからこそ立派な娘だと太鼓判を押されている形になっている。しかし彼女が裁判で示したのは機知に富んでいるというだけだ。彼女はシャイロック裁判が提起している問題の核心をまったく理解していない。シャイロックなど野蛮人程度にしか思っていない。

 要するに映画「ヴェニスの商人」は中途半端に終わってしまった。名作「イル・ポスティーノ」(94)のマイケル・ラドフォード監督作品だけに、理不尽な差別に対する怒りで身をたぎらせるシャイロックの反抗を力強く描きだして見せた。高利貸しという蔑まれる商売でしか生きる道を持たず、不合理な差別への恨みから「憎しみの鬼」と化した男の復讐劇と破滅への転落を深い共感を込めて重厚なドラマに仕上げることに成功した。歴史を感じさせる濃厚な映像も画面に深みを与え効果的だった。しかしポーシャ、バッサーニオ、アントーニオ、グラシアーノ(クリス・マーシャル)、ポーシャの侍女ネリッサ(ヘザー・ゴールデンハーシュ)たちをめぐるおめでたいコメディは底が浅く、何とも脳天気で軽薄ですらある。財産を使い果たした遊び人バッサーニオの軽薄さ、考えてみればアントーニオはある意味で彼の犠牲者である。アントーニオが危険を冒してまでシャイロックから金を借りたのは彼とバッサーニオの間になにやら怪しげな関係があると匂わせている。いわれのない差別に怒りをほとばしらせるシャイロックに比べれば、彼らの生活の方こそよほど退廃的で享楽的である。

  バッサーニオがポーシャに近づけたのもシャイロックに借りた金があったからである。ユダヤ人の「汚れた」金でうわべを取り繕った男に一目ぼれしてしまうポーシャの浅はかさ。結局は金と色男が物を言う世界。そんなおめでたい連中の恋愛劇が批判的にではなくコメディの味付けをまぶして肯定的に描かれている。「ヴェニスの商人」が傑作にいたらなかったのはこのように不徹底だったからである。バッサーニオの友人ロレンゾー(チャーリー・コックス)と駆け落ちしたシャイロックの娘ジェシカ(ズレイカ・ロビンソン)のエピソードももう一つシャイロックのテーマと深く結びついていないため、どこか宙に浮いた印象を受ける。どうせシャイロックを主人公にするなら、タイトルも思い切って「ヴェニスのユダヤ人」にして、もっと現代的解釈を前面に押し出しても良かったのではないか。裁判はポーシャの機転でシャイロックが負けるが、シャイロックの主張に理があると見抜いたポーシャは、省みて自分の浅はかさに気づく。裁判の後彼女はだらしないバッサーニオを追い払ってしまう。最後にシャイロックを潤んだ目で眺めているのは娘のジェシカではなくポーシャである。こういう展開はいかがか。

■アル・パチーノ おすすめの10本
「ヴェニスの商人」(2004)
「インサイダー」(1999)
「リチャードを探して」(1996)
「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」(1992)
「スカーフェイス」(1983)
「ジャスティス」(1979
「ゴッドファーザーPARTII」(1974)
「狼たちの午後」(1975)
「スケアクロウ」(1973)
「ゴッドファーザー」(1972)

  初めて観たアル・パチーノ出演作は「ゴッドファーザー」である。やさしく明るい青年がマフィアの世界に巻き込まれてゆき、最後は目つきがまるで別人のように鋭くなって行くすさまじい演技に末恐ろしいほどの才能を感じた。しかしその後、恵まれた才能を持ちながら出演作にはあまり恵まれなかった。彼ほどの才能があればもっと出演作に名作があっていいはずだ。だが彼の才能を生かしきる作品との出会いはこれからなのかも知れない。「ヴェニスの商人」の頭抜けた演技力を観てそう思った。

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2006年4月26日 (水)

ゴブリンのこれがおすすめ 6

女性映画(90年代以降)
■おすすめの40本
「ラヴェンダーの咲く庭で」(2005、チャールズ・ダンス監督、イギリス)
「ヴェラ・ドレイク」(2004、マイク・リー監督、イギリス他)
「いつか読書する日」(2004、緒方明監督、日本)
「ヴェロニカ・ゲリン」(2003、ジョエル・シュマッカー監督、アイルランド他)
「カーサ・エスペランサ」(2003、ジョン・セイルズ監督、米・メキシコ)
「カレンダー・ガールズ」(2003、ナイジェル・コール監督、イギリス)
「永遠のマリア・カラス」(2002、フランコ・ゼフィレッリ監督、イタリア他)
「靴に恋して」(2002、ラモン・サラザール監督、スペイン)
「死ぬまでにしたい10のこと」(2002、イザベル・コヘット監督、スペイン)
「上海家族」(2002、ポン・シャオレン監督、中国)
「ションヤンの酒家」(2002、フォ・ジェンチイ監督、中国)
「涙女」(2002、リュウ・ビンジェン監督、中国・他)
「フリーダ」(2002、ジュリー・テイモア監督、メキシコ他)
「ベッカムに恋して」(2002、グリンダ・チャーダ監督、英独)
「アイリス」(01、リチャード・エア監督、イギリス)
「アメリ」(01、ジョン・ピエール・ジュネ監督、フランス)
「女はみんな生きている」(01、コリーヌ・セロー監督、フランス)
「子猫をお願い」(01、チョン・ジェウン監督、韓国)
「ブリジット・ジョーンズの日記」(01、シャロン・マグワイア監督、英)
「ポーリーヌ」(01、リーフェン・デブローワーカントク、ベルギー他)
「マーサの幸せレシピ」(01、サンドラ・ネットルベック監督、ドイツ)
「初恋のきた道」(00、チャン・イーモウ監督、中国)
「きれいなおかあさん」(99、スン・ジョウ監督、中国)
「ひかりのまち」(99、マイケル・ウィンターボトム監督、イギリス)
「ムッソリーニとお茶を」(99、フランコ・ゼフィレッリ監督、アメリカ)
「この森で、天使はバスを降りた」(98、リー・デビッド・ズロートフ監督、米)
「セントラル・ステーション」(98、バルサル・サレス監督、ブラジル)
「Queen Victoria 至上の愛」(リチャード・ドナー監督、イギリス)
「宋家の三姉妹」(97、メイベル・チャン監督、香港・日本)
「鳩の翼」(97、イアン・ソフトリー監督、イギリス)
「ある貴婦人の肖像」(96、ジェーン・カンピオン監督、アメリカ)
「秘密と嘘」(96、マイク・リー監督、イギリス)
「いつか晴れた日に」(95、アン・リー監督、イギリス)
「女人、四十」(95、アン・ホイ監督、香港)
「活きる」(94、チャン・イーモウ監督、中国)
「レディバード・レディバード」(94、ケン・ローチ監督、イギリス)
「風の丘を越えて」(93、イム・グォンテク監督、韓国)
「紅夢」(91、チャン・イーモウ監督、中国)
「銀馬将軍は来なかった」(91、チャン・ギルス監督、韓国)
「フライド・グリーン・トマト」(91、ジョン・アブネット監督、アメリカ)

●追加
「少女は自転車にのって」(2012、ハイファ・アル=マンスール監督、サウジアラビア、他)
「ボルベール<帰郷>」(2007、ペドロ・アルモドバル監督、スペイン)
「マルタのやさしい刺繍」(2006、ベティナ・オベルリ監督、スイス)
「やわらかい手」(2006、サム・ガルバルスキ監督、イギリス・他)
「トゥヤーの結婚」(2006、ワン・チュアンアン監督、中国)
「オフサイド・ガールズ」(2006、ジャファル・パナヒ監督、イラン)
「プラダを着た悪魔」(2006、デビッド・フランケル監督、アメリカ)
「嫌われ松子の一生」(2006、中島哲也監督、日本)
「フラガール」(2006、李相日監督、日本)
「キムチを売る女」(2005、チャン・リュル監督、韓国・中国)
「かもめ食堂」
(2005、荻上直子監督、日本)
「スタンドアップ」(2005、ニキ・カーロ監督、米)
「旅するジーンズと16歳の夏」(2005、ケン・クワピス監督、米)
「シリアの花嫁」(2004、エラン・リクリス監督、イスラエル・仏・独)
「母たちの村」(2004、ウスマン・センベーヌ監督、仏・セネガル)
「OUT」(2002、平山秀幸監督、日本)

■こちらも要チェック
「クレールの刺繍」(2004、エレオノール・フォーシェ監督、フランス)
「犬猫」(2004、井口奈己監督、日本)
「サマリア」(2004、キム・ギドク監督、韓国)
「下妻物語」(2004、中島哲也監督、日本)
「ロード88 出会い路、四国へ」(2004、中村幻児監督、日本)
「エイプリルの七面鳥」((03、ピーター・ヘッジス監督、アメリカ)
「珈琲時光」(03、ホウ・シャオシェン監督、日本)
「キャロルの初恋」(02、イマノル・ウリベ監督、スペイン)
「たまゆらの女」(02、スン・チョウ監督、中国)
「夕映えの道」(01、レネ・フェレ監督、フランス)
「チャドルと生きる」(00、ジャファル・パナヒ監督、イラン)
「エマ」(96、ダグラス・マクグラス監督、イギリス)
「森の中の淑女たち」(90、グロリア・デマーズ監督、カナダ)

 「女性映画」とは「女性の生き方を描いた映画」という程度の広い意味で使っています。若干はみ出るものは「こちらも要チェック」欄に入れました。こうやってリストを作ってみて、こんなに数があったのかと驚きました。恋愛物を除いてもこれだけある。2003年ごろからこの手の映画が増えてきたと漠然と感じていたのですが、リストにすると90年代の後半ごろからどっと増え、2000年代に入ってさらに急激に増えていることがわかります。
 もう一つ驚いたのはイギリス映画が圧倒的に多いこと。フランス映画は思ったほど多くはなく、中国映画が意外に多い。これだけイギリス映画が目立って多いのにはそれなりの理由があるはずですが、それが何か今はよく分かりません。
 ともかく、リストを作ってみると意外なことに気がつきます。映画のレビューを書けない時の埋め草に始めた企画ですが、結構やりがいがありそうです。

2006年4月25日 (火)

ゴブリンのこれがおすすめ 5

少数民族映画
■おすすめの10本
「クジラの島の少女」(03、ニキ・カーロ監督、ニュージーランド)
「裸足の1500マイル」(02、フィリップ・ノイス監督、オーストラリア)
「僕のスウィング」(02、トニー・ガトリフ監督、フランス・日本)
「氷海の伝説」(01、ザカリアス・クヌク監督、カナダ)
「少女ヘジャル」(01、ハンダン・イペクチ監督、トルコ・ギリシャ・ハンガリー)
「酔っ払った馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ監督、イラン)
「遥かなるクルディスタン」(99、イエスィム・ウスタオウル監督、トルコ他)
「キャラバン」(99、エリック・ヴァリ監督、ネパール・他)
「ガッジョ・ディーロ」(97、トニー・ガトリフ監督、フランス・ルーマニア) Tonbonohuukei3
「路」(82、ユルマズ・ギュネイ監督、トルコ)

●追加
「鉄くず拾いの物語」(2013、ダニス・タノヴィッチ監督、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・他)
「ソウルガールズ」(2012、ウェイン・ブレア監督、オーストラリア)
「セデック・バレ 第一部」(2011、ウェイ・ダーション監督、台湾)
「ジプシー・キャラバン」(06、ジャスミン・デラル監督、米)
「トランシルヴァニア」(06、トニー・ガトリフ監督、仏)
「トゥヤーの結婚」(06、ワン・チュアンアン監督、中国)
「キムチを売る女」(05、チャン・リュル監督、中国・韓国)
「亀も空を飛ぶ」(04、バフマン・ゴバディ監督、イラン・イラク)
「ココシリ」(04、ルーチューアン監督、中国)
「ククーシュカ」(02、アレクサンドル・ロゴシュキン監督、ロシア)

■こちらも要チェック
「ジプシーは空に消える」(76、エミーリ・ロチャーヌ監督、ソ連)
「極北の怪異」(22、ロバート・J・フラハティ監督、アメリカ)

■気になる未見作品
「愛より強い旅」(04、トニー・ガトリフ監督、フランス)
「ジプシーのとき」(89、エミール・クストリッツァ監督、ユーゴスラビア)
「ワンス・ウォリアーズ」(94、リー・タマホリ監督、ニュージーランド)  

  「クジラの島の少女」、「裸足の1500マイル」、「氷海の伝説」が公開された2003年は記念すべき年だった。それまでクルド人やロマ(ジプシー)を描いた映画はあったが、アボリジニ、マオリ、イヌイットを描いた映画はいずれも初めて作られた。ブータンの映画「ザ・カップ 夢のアンテナ」やウルグアイ映画「ウィスキー」など、それまで知られていなかった国からの映画も入ってくるようになった。世界の映画の水準は確実に上がっている。映画先進国との差も着実に縮まっていると言ってよいだろう。

音楽映画(90年代以降)
■これがおすすめ
「ジャージー・ボーイズ」(2014、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」(2013、ジョエル&イーサン・コーエン監督、米)
「バックコーラスの歌姫たち」(2013、モーガン・ネヴィル監督、アメリカ)
「光にふれる」(2012、チャン・ロンジー監督、台湾・香港・中国)
「ソウルガールズ」(2012、ウェイン・ブレア監督、オーストラリア)
「カンタ!ティモール」(2012、広田奈津子監督、日本)
「25年目の弦楽四重奏」(2012、ヤーロン・ジルバーマン監督、アメリカ)
「カルテット!人生のオペラハウス」(2013、ダスティン・ホフマン監督、イギリス)
「アンコール!!」(2012、ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督、イギリス)
「クレイジー・ハート」(2009、スコット・クーパー監督、米)
「パイレーツ・ロック」(2009、リチャード・カーティス監督、英・独)
「オーケストラ!」(09、ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)
「ヤング@ハート」(07、スティーヴン・ウォーカー監督、英)
「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(07、オリヴィエ・ダアン監督、英・仏・チェコ)
「ONCE ダブリンの街角で」(06、ジョン・カーニー監督、アイルランド)
「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(06、ロバート・アルトマン監督、米)
「ドリームガールズ」(06、ビル・コンドン監督、米)
「ジプシー・キャラバン」(06、ジャスミン・デラル監督、米)
「ノー・ディレクション・ホーム」(05、マーティン・スコセッシ監督、米)
「風の前奏曲」(04、イッティスーントーン・ウィチャイラック監督、タイ)
「リンダ リンダ リンダ」
(05、山下敦弘監督、日本)
「スウィング・ガールズ」
(04、矢口史靖監督、日本)
「コーラス」
(04、クリストフ・バラティエ監督、仏・独・スイス)
「Ray/レイ」(04、テイラー・ハックフォード監督、アメリカ)
「ビヨンドtheシー」(04、ケビン・スペイシー監督、米・英・独)
「この世の外へ クラブ進駐軍」
(03、阪本順治監督、日本)
「アマンドラ!希望の歌」
(02、リー・ハーシュ監督、南アフリカ、アメリカ)
「北京ヴァイオリン」(02、チェン・カイコー監督、中国)
「僕のスウィング」(02、トニー・ガトリフ監督、フランス・日本)
「SUPER8」(01、エミール・クストリッツァ監督、イタリア・ドイツ)
「歌え!フィッシャーマン」
(01、クヌート・エーリク・イエンセン監督、ノルウェー)
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(99、ヴィム・ヴェンダース監督、ドイツ他)
「海の上のピアニスト」(99、ジュゼッペ・トルナトーレ監督、米・伊)
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」(98、アナンド・タッカー監督、英)
「ベルベット・ゴールドマイン」(98、トッド・ヘインズ監督、イギリス)
「ブラス!」(96、マーク・ハーマン監督、イギリス)
「風の丘を越えて」(93、イム・グォンテク監督、韓国)
「ザ・コミットメンツ」(91、アラン・パーカー監督、イギリス)

■こちらも要チェック
「シュガーマン 奇跡に愛された男」(2012、マリク・ベンジェルール監督、英・他)
「扉をたたく人」(07、トム・マッカーシー監督、アメリカ)
「僕のピアノコンチェルト」(07、フレディ・M・ムーラー監督、スイス)
「スティル・クレイジー」(98、ブライアン・ギブソン監督、イギリス)
「青春デンデケデケデケ」(92、大林宣彦監督、日本)
「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」(89、アキ・カウリスマキ監督)

 いわゆるミュージカルやミュージシャンの伝記映画は除いた。トニー・ガトリフ監督の「僕のスウィング」と「ガッジョ・ディーロ」は「少数民族映画」と「音楽映画」の両方にまたがる。代表として「僕のスウィング」だけを入れておいた。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」は89年作品なので厳密にはここに入らないが、ジャンルとしてはぴったりなので入れておいた。

2006年4月23日 (日)

ライフ・イズ・ミラクル

3117a 2004年 フランス、セルビア・モンテネグロ
監督: エミール・クストリッツァ
脚本: エミール・クストリッツァ、ランコ・ボジッチ
撮影:ミシェル・アマチュー
音楽: エミール・クストリッツァ、デヤン・スパラヴァロ
出演:スラブコ・スティマチ、ナターシャ・ソラック
    ヴク・コスティッチ ヴェスナ・トリヴァリッチ
    アレクサンダル・ベルチェク ニコラ・コジョ
    ストリボール・クストリッツァ

  この映画を観て最初に思い浮かんだのはソ連の文芸理論家ミハイル・バフチンのカーニヴァレスクという概念である。彼の『ドストエフスキー論』(冬樹社)を読んだのはもう20年以上前だ(今は『ドストエフスキーの詩学』というタイトルで”ちくま学芸文庫”から新訳が出ている)。他にもバフチンとの関連で論じている記事を見かけたので、僕だけの印象ではないようだ。

  ここでバフチンの説明をするつもりもないしその能力もない。ただ、誰でも「ライフ・イズ・ミラクル」の中にあふれる祝祭的な要素に気づくだろう。歌あり踊りありのお祭り騒ぎ、ユーモラスな明るさ、人間と動物が入り混じってドタバタ飛び回る破天荒な展開、とにかく生命力が横溢している。砲弾や銃弾が飛び交う中で展開される「THE有頂天ホテル」とでも言おうか。爆撃による激しい振動で天井から埃や破片が落ちてきても特にあわてる様子もない。その悠揚迫らぬ泰然自若振りがいい。

  これまで観たボスニア紛争を題材にした映画には「ブコバルに手紙は届かない」(94)、「ビフォア・ザ・レイン」(94)、「ユリシーズの瞳」(96)、「パーフェクト・サークル」(97)、「ビューティフル・ピープル」(99)、「ノー・マンズ・ランド」(01)などがある。「ビューティフル・ピープル」を除いて、いずれも重苦しい映画である。題材が題材だけにそれは当然である。「ビューティフル・ピープル」だけがコメディ調であるのは舞台がイギリスだからである。この一連の映画の中に「ライフ・イズ・ミラクル」を入れてみると、それがいかに独特で破格であるか分かる。ボスニアが舞台になっているのに「ビューティフル・ピープル」以上にコミカルなのである。ひっきりなしに爆発音が聞こえるのに、全体に祝祭的なにぎやかさとおおらかな笑いがあふれている。しかしそれでいて他の深刻な映画より軽くて内容が薄いという印象を受けない。そこにクストリッツァ監督の類まれな創造性が感じられる。悲痛な現実を前にして、悲痛さを前面に出さずに、かつ現実から逃避せずに、人生の賛歌を歌い上げる。クストリッツァはこの難しい課題に挑み見事成功させた。苦渋に満ちた現実をいやというほど見せ付けられる上記の諸作と並べても少しも見劣りしない。文字通り「奇跡」のような傑作である。

  このクストリッツァ・マジックを作り上げたのは祝祭的な要素ばかりではない。この映画には色々な要素がそれこそごった煮的にぶち込まれている。ブラック・ユーモアと哄笑、皮肉や辛辣さ、あふれる隠喩や寓意(トンネル、線路、トロッコ、空飛ぶベッド、ジオラマと模型の列車、等々)、不条理さ、やや屈折しているがおおらかな性(ボクシングのグローブをはめて女の尻をたたき陶酔する男女、立木の陰から突き出たサバーハの尻、素裸で泳ぐザバーハとルカ、等々)、過剰なまでにエネルギッシュな登場人物たち、寓話性とメルヘン、そして砲弾や銃弾という形で現れる戦争という現実。そこは死と隣り合わせの世界なのだ。だがこの映画を支配しているのは恐怖や不安や絶望ではない。ここには喜怒哀楽のすべて、すなわち人生がある。かつての知り合い同士が殺し合い、主人公の息子が捕虜になるといった悲惨な現実から決して目をそむけてはいないが、しかし映画の基調をなすのはユーモアと笑いだ。ヒューマンな感覚と独特のユーモアを決して忘れない。戦争を笑い飛ばせ!庶民のしたたかなバイタリティーや人を愛する情熱が笑いに力を与え、それを武器に変えた。「コープス・ブライド」で、死者の世界(明るい音楽が鳴り響く陽気な世界)の住民たちが生者の住む地上に出てきて生者を圧倒する場面があるが、ちょうどそれと同じ様な状態だ。祝祭性とユーモアと音楽が生活への闖入者である戦争を取り囲み圧倒してしまう。

  銃弾が飛んでこようが近くで砲弾が炸裂しようが、俺たちはチェスをやりたい。吹き飛ばされないようにチェスの駒を盤に貼り付けてまでチェスにこだわる。この感覚がいい。主人公たちは爆音の中でも生活を営み、飲み食い歌い踊り愛し合う。それが人生さ。現実が過酷で悲惨であればあるほど、なおさらエネルギッシュに笑って過ごそう。「SUPER8」の”ウンザ・ウンザ”という独特のうねるリズムがここではどこかロシア音楽を思わせるジンタのようなリズムに変わり、人々の気持ちを浮き立たせ、カーニヴァル的気分を盛り立ててゆく。

  「アンダーグラウンド」(1995)は戦争と歴史を寓意的に描こうとしたが、その寓意が必ずしも成功せず、中途半端な作品になってしまった。「ライフ・イズ・ミラクル」では人生そのものを描こうとした。それがこの作品を成功させている。「パパは、出張中」(1985)に描かれた苦い現実とユーモラスな感覚、それに「SUPER8」(2001)のエネルギッシュな音楽をかぶせ、「黒猫・白猫」(1998)の独特のユーモアとシュールな感覚を盛り込み、「アンダーグラウンド」の寓意と隠喩を張りめぐらす。「ライフ・イズ・ミラクル」はそんな映画だ。過酷な現実にひるまず、笑って乗り越えようとする姿勢。「私は人生というものの奇跡を信じている」というエミール・クストリッツァ監督の言葉には、前向きな強い意志が感じられる。だから、涙を流しながら線路をまたいでいる「自殺願望」のロバを登場させても、決して悲痛ではなくユーモラスなのである。同じように絶望した主人公のルカ(スラブコ・スティマチ)が線路に寝転んで自殺しようとした時、このロバが彼を救うという奇跡を描けるのである。

  このロバの例が典型だが、クストリッツァのユーモアの仕掛けの一つは動物を使った擬人化によるソフト化効果である。人間を使うとリアルになりすぎるのを動物に置き換えることによって間接化し、かつ擬人化によってユーモアを混ぜ込む。分かりやすい例が「クロアチアからの難民熊」だ。いつの間にか人家に熊が侵入し、家のドアを空けると数頭の熊が占領している。なんとそのうちの1頭は風呂に浸かっているではないか。実にシュールでユーモラスな映像である。ふと上を見上げるとその家の主人が殺されて木の枝に引っかかっているのが目に入るが、そのときはもう悲惨さは感じない。侵入していたのが熊ではなく実際の難民であったなら、ひどく深刻な場面になる。もちろんそうならない描き方も可能だが、熊に置き換えることによってよりユーモラスで寓話的な映像にすることが可能になったのである。このように現実の過酷さを寓話化することによって和らげている。これが戦争を笑い飛ばす戦略に用いられた効果の一つである。

  笑い飛ばすばかりか、文字通りベッドまで飛ばしてしまう。ルカとサバーハ(ナターシャ・ソラック)が寝ているベッドが空を飛ぶシーンには、つらい現実を何とか抜け出したいという願望が込められている。ここではファンタジーあるいはメルヘンの手法が使われている。そしてなんといってもこの映画をファンタスティックにしているのはこのベッドに乗っていた二人、ルカとサバーハの道ならぬ恋である。サバーハは敵の捕虜になったルカの息子と引き換えるためにルカの友人が捕まえてきたのだが、ルカはサバーハを捕虜として監禁したりRisuc12 はせず、家族のようにおおらかに付き合っている。サバーハがルカの妻の服を無断で借りたときには怒鳴り散らすが、代わりに義姉の服を貸してやる。ところがこれがまたえらいセクシーな服ばかりで、サバーハが次々に着替えてルカに見せるあたりはさながらファッション・ショーである。戦火が迫る中で脳天気にファッション・ショーまがいをやっているところが妙におかしい。この感覚はクストリッツァ独得のものだ。サバーハ役のナターシャ・ソラックがまたかわいらしくて、なんとも魅力的な場面である。

  敵の捕虜、しかも自分の息子の引き換え相手に恋をしてしまう。「ブコバルに手紙は届かない」ではクロアチア人のアナとセルビア人のトーマが結婚した後で内戦が始まるという展開だった。「ライフ・イズ・ミラクル」ではセルビア人のルカとムスリム(イスラム教徒)のザバーハが戦火のさなかで恋に落ちる。ルカには既に妻も子供もいるという点は別にして、内戦前であれば特に珍しくないケースだったろう。民族と宗教が入り混じっていた旧ユーゴスラビアでは、アイルランド人とインド人移民の恋愛を描いた「やさしくキスをして」のような軋轢は少なかったと思われる。しかしこの場合はサバーハはいずれ息子と捕虜交換しなければならないという皮肉な運命が待ち受けている。ここに新たな苦悩が生まれる。息子を取り戻すためにサバーハを敵に渡せるのか。しかもサバーハはいまや敵側の人間である。この苦悩もまた戦争が生んだものだ。戦争は生命を脅かすだけではない。次々に重く超えがたい課題を人間に突きつける。息子との捕虜交換相手と恋愛関係になってしまうという設定は実話に基づくのだが、これを映画の素材として取り込むことによって映画に深みが増した。クストリッツァは祝祭性とユーモアを前面に押し出しながらも、決して戦争が生み出す悲惨な現実を軽く扱わなかった。人々は苦悩しながらもそれを笑いで乗り越えていった。クストリッツァは戦争それ自体を描きはしなかったが、第三者の立場で安全なところから無責任に報道していた外国のテレビレポーターとは根本的に違う視点から事態を観ている(この報道を観ていたルカは腹をたて窓からテレビを放り投げてしまう)。終始主人公たちと同じ視線にたち、彼らをユーモアを込めて暖かく見つめていた。

  ルカたちにしてみれば戦争はある日突然始まり、無理やり彼らの生活の中に侵入してきた。わけも分からないうちに、憎しみもないのに昨日までの同じ国民が敵味方に分かれてしまう。ルカが息子の替わりに軍に入ろうとした時、友人のアレクシチ大佐(ストリボール・クストリッツァ)に「この戦争は我々の戦争ではない」と言われる。では誰のための戦争だったのか。最初はちょっとした小競り合いだったはずだ。アメリカが無闇に介入してからかえって戦争が拡大した。ルカたち一般の人たちはわけも分からずただ翻弄されるのみ。クストリッツァも戦争の意味を深く追求はしない。映画の中でもルカに「知的に探っても何も明かされない」と言わせている。ルカたちの視点で見れば確かにその通りなのだ。彼らに出来るのはただ可能な限りいつもの生活を続けることだけだ。戦争中でも生活は続けなければならない。恋愛だって同じこと。しかしルカとサバーハの恋愛はルカの息子との捕虜交換で終わらざるを得ない。橋の上での交換の場面は印象的だ。国連軍の制止を振り切りルカはサバーハを追いかけるが、橋の向こうから息子のミロシュ(ブク・コスティッチ)がやってくる。ルカは息子を抱きしめる。サバーハにかけてやろうとしたコートを息子の肩にかける。足を負傷して担架に乗せられているサバーハはルカを呼び続ける。作品中最も切ない場面である。

  息子は帰ってきた(ついでに男と駆け落ちしていた妻も戻ってきていた)がサバーハを失ってしまった。初めて絶望感を感じたルカは上で示したように自殺をしようとするが、ロバに助けられる。その直後ルカとサバーハがそのロバに乗ってトンネルを抜ける短い場面が続き、トンネルを抜けたところでストップモーションになる。悲惨さの中に陽気さと希望を描いてきたこの映画らしいラストである。

  ルカの趣味は鉄道模型を動かすことだが、その鉄道は現在敵対している国と国を結んでいる。模型の列車は難なく国境を越えてゆく。元は一つの国だった。ジオラマの中を走る模型の列車を眺めるルカがうれしそうなのは、もちろん鉄道が好きだからである。しかし同時に、国を一つに結びつけるという、ここでしか得られない幸せを噛みしめているからなのだ、そうも思えてくる。銃で撃たれたサバーハにルカが輸血する場面があるが、ここにも民族と宗教を超えたつながりと交わりが暗示されている。

  現実を理性で捉えようとすれば踏み迷うばかりだ。この不条理に満ちた現実をどう理解できるというのか。「知的に探っても何も明かされない」理解するのではなく感じるのだ。悲惨な現実の中にある明るい面を。つらくても生きていれば人生を楽しめる。「ライフ・イズ・ミラクル」というタイトル(正確なタイトルは「ライフ・イズ・ア・ミラクル」である)に込められた意味は、悲惨な人生の中に奇跡が起こるという意味ではないだろう。人生そのものが奇跡なのだ。

エミール・クストリッツァ マイ・ランク
1 ライフ・イズ・ミラクル(2004)
2 黒猫・白猫(1998)
3 パパは、出張中(1985)
4 SUPER8(2001)
5 アンダーグラウンド(1995)

未見
アリゾナ・ドリーム(1992)
ジプシーのとき(1989)

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