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2006年4月9日 - 2006年4月15日

2006年4月15日 (土)

ゴブリンのこれがおすすめ 1

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督(1896-1967) Cutwindow2
■おすすめの10本
 巴里の空の下セーヌは流れる(1951)
 旅路の果て(1939)
 舞踏会の手帳(1937)
 望郷(1937)
 我等の仲間(1936)
 地の果てを行く(1935)
 商船テナシチー(1934)
 白き処女地(1934)
 モンパルナスの夜(1933)
 にんじん(1932)

■こちらも要チェック
 陽気なドン・カミロ(1951)
 ドン・カミロ頑張る(1953)

■気になる未見作品
 埋れた青春(1953)

  ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジャン・ルノアールらと共にフランス映画「黄金の30年代」を作り上げたフランス映画の名匠。

1930年代フランス映画おすすめの20本
 詩人の血(1930) ジャン・コクトー監督
 巴里の屋根の下(1930)  ルネ・クレール監督
 自由を我等に(1931) ルネ・クレール監督
 外人部隊(1933) ジャック・フェデー監督
 巴里祭(1933) ルネ・クレール監督
 モンパルナスの夜(1933) ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 最後の億万長者(1934)  ルネ・クレール監督
 にんじん(1934)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 ミモザ館(1934)  ジャック・フェデー監督 066429
 女だけの都(1935)  ジャック・フェデー監督
 地の果てを行く(1935)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 どん底(1936)  ジャン・ルノワール監督
 望郷(1936)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 我等の仲間(1936)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 大いなる幻影(1937) ジャン・ルノワール監督
 舞踏会の手帳(1937)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 霧の波止場(1938)  マルセル・カルネ監督
 格子なき牢獄(1938) レオニード・モギー監督
 ゲームの規則(1939) ジャン・ルノワール監督
 旅路の果て(1939)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督

■こちらも要チェック
 ル・ミリオン(1931) ルネ・クレール監督
 新学期・操行ゼロ(1933) ジャン・ヴィゴ監督
 アタラント号(1934) ジャン・ヴィゴ監督
 獣人(1938)  ジャン・ルノワール監督
 北ホテル(1938)  マルセル・カルネ監督

■気になる未見作品
 ジャン・グレミヨン監督作品
 幽霊西へ行く(1935)  ルネ・クレール監督

  30年代に花開いたフランス映画の伝統は40年代、50年代のマルセル・カルネ、ジャン・ドラノワ、ルネ・クレマン、ジャック・ベッケル、ジャン・コクトー、クロード・オータン・ララ、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー、イーヴ・アレグレ、ジャック・タチ等へと続き、ヌーヴェル・ヴァーグで乱暴に断ち切られる。その後の70年代、80年代はどん底。90年代に入ってようやく復活の兆しが現れる。

2006年4月11日 (火)

やさしくキスをして

Sdfai209 2004年 イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン
監督;ケン・ローチ
原題:Ae Fond Kiss
脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:バリー・エイクロイド
音楽:ジョージ・フェントン
美術:マーテイン・ジョンソン
プロデューサー:レベッカ・オブライエン
出演:エヴァ・バーシッスル、アッタ・ヤクブ、アーマツド・リアス
    シャムシャド・アクタール 、シャバナ・バクーシ
    ギザラ・エイヴァン、ゲイリー・ルイス、デヴィッド・マッケイ
    シャイ・ラムザン、ジェラルド・ケリー、ジョン・ユール
    スンナ・ミルザ 、パーシヤ・ボカリー

  2005年1月9日に書いた「2003年以降の世界の映画」という文章で、「現在はアメリカ、中国、韓国が横綱クラス、イランとイギリスそしてフランスが大関クラス」とランク付けをした。同じ文章の中で、イギリスはここ数年低迷気味だったが、2004年に久々の快作「カレンダー・ガールズ」が登場、「この勢いで早く角番を脱してほしい」と書いた。つまりイギリスを角番大関だと見ていたわけだ。しかし、2005年公開のイギリス映画の充実振りを見れば、イギリスは角番を脱して今や堂々たる正大関に復帰したことが分かる。今はむしろ中国映画やイラン映画の公開数が減っていることが気になる。今年の2月7日に書いた「2005年公開外国映画の概況」でもイギリス映画の活躍に言及している。そのときはまだ「Dearフランキー」と「運命を分けたザイル」しか観ていなかったが、その後「ラヴェンダーの咲く庭で」、「ヴェラ・ドレイク」、「オリバー・ツイスト」(06年公開)、「やさしくキスをして」と観てきた。いずれも4星、5星クラスの秀作ぞろい。イギリス映画がまた上向きになってきたことはもはや疑いない。

  事のついでに「2000年代イギリス映画マイ・ベスト15」を次に挙げておこう。特に順位はつけていない。

シーズン・チケット(2000) マーク・ハーマン監督
リトル・ダンサー(2000) スティーブン・ダルドリー監督
ブリジット・ジョーンズの日記(2001) シャロン・マグワイア監督
ゴスフォード・パーク(2001) ロバート・アルトマン監督
SWEET SIXTEEN(2002) ケン・ローチ監督
人生は、時々晴れ(2002) マイク・リー監督
ベッカムに恋して(2002) グリンダ・チャーダ監督
運命を分けたザイル(2003) ケヴィン・マクドナルド監督
カレンダー・ガールズ(2003) ナイジェル・コール監督
真珠の耳飾の少女(2003) ピーター・ウェーバー監督
ディープ・ブルー(2003) アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット監督
ヴェラ・ドレイク(2004) マイク・リー監督
Dearフランキー(2004) ショーナ・オーバック監督
やさしくキスをして(2004)  ケン・ローチ監督
ラヴェンダーの咲く庭で(2004) チャールズ・ダンス監督

  ケン・ローチ監督の作品がこの中に2本入っている。「ブレッド&ローズ」(2000)はまだ観ていないが、これも期待できそうだ。次にケン・ローチ監督の「マイ・ベスト5」を挙げておく。こちらは順位つき。

1 レディバード・レディバード(1994)  
2 SWEET SIXTEEN(2002)
3 リフ・ラフ(1991)  
4 やさしくキスをして(2004)
5 カルラの歌(1996)

  名作と言われる「ケス」(1969)に対する僕の評価はあまり高くない。暗い映画で、主人公の少年にあまり共感できなかったからだ。一番暗いのは「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(1998)。とても好きになれない。オムニバスの「セプテンバー11」(2002)は映画全体としては大していいとは思わなかったが、世界貿易センタービルがテロリストに攻撃されたその日と同じ9月11日(1973年)に起こったチリのクーデターを主題に、記録映画風に撮ったケン・ローチの短編はその中でも出色の出来だった。「レイニング・ストーンズ」(1993)はビデオで、「夜空に星のあるように」(1968)はDVDで持っているがまだ観ていない。「大地と自由」(1995)も未見。

  一貫してイギリスの労働者階級を描いてきたことで知られるケン・ローチだが、「やさしくキスをして」はアイルランド人女性とパキスタン移民2世の男性を主人公に民族問題を扱っている。タイトルどおり恋愛を描いているが、そこはケン・ローチ、アイリッシュの女性とパキスタン人男性のカップルなので習慣や文化や宗教の違いといった民族問題が絡んできて非常に重い作品になっている。イギリスはアメリカほどではないが移民の国である。ロンドンなどの大都会ではかなりの数の黒人や東洋人が住んでいる。かつての植民地が第二次世界大戦後に独立して以降、旧植民地から大量の移民がイギリスに流れ込んできたからだ。インドやパキスタンからの移民も当然多い。インドからの移民を主人公にした「ベッカムに恋して」とパキスタン移民を主人公にした「ぼくの国、パパの国」という傑作が日本でも公開された。いずれも民族の相違に基づく文化や習慣の違い、さらには親の世代と子の世代のギャップがテーマに織り込まれている。しかし「ベッカムに恋して」は深刻ではなく明るい色調で楽観的に描かれている。むしろ映画のタッチとしては、最後まで世代間ギャップの問題が解決されずに終わる「ぼくの国、パパの国」に近い。「ベッカムに恋して」は人情味があって素晴らしい映画なのだが、ケン・ローチは「やさしくキスをして」で現実はそんなに甘くないぞと重く厳しい問題提起をした。

  恋愛は個人の問題である。しかし結婚となると親が口を挟んでくるものである。ましてや異なる民族間の恋愛、結婚となると個人のレベルを超えて家族、ひいては民族間の問題へと発展する。日本でも在日コリアンと日本人の結婚を考えれば、それが多くの困難を伴う問題であることは理解できるだろう。「パッチギ!」はまさにそういう問題を扱った映画だった。アイリッシュの女性とパキスタン移民二世の男性との恋愛も同様の、あるいはそれ以上の困難を伴うものだった。スコットランドのカソリックの高校で音楽を教えるロシーンには別居中の夫がいる。彼女はあるきっかけで教え子の女子生徒タハラの兄カシムと知り合い、たちまち恋愛関係になる。しばらくは順調に付き合っていたが、あるときカシムは、自分には親が決めたジャスミンという婚約者がいることを打ち明ける。ロシーンは、それでは私とのことは単なる遊びだったのかと腹を立てるが、それでも感情の嵐が過ぎ去った後、互いに分かれられないほど愛し合っていることに気づく。しかし同時に彼らの前には大きな困難が立ちふさがっていることも次第に明らかになってくる。

  厳格なイスラム教徒であるカシムの両親は白人で異教徒であるロシーンとの結婚を頑として認めない。旧植民地からやってきた移民である両親たちはイギリスで散々辛酸をなめて来たに違いない。当然差別もされてきただろう。彼らを支えてきたのは同じパキスタン移民のコミュニティーであり、イスラム教徒としての誇りである。息子と白人で異教徒の女性との結婚を認めることはそのイスラム社会からも疎外され孤立することを意味する。実際カシムがジャスミンとの婚約を破棄し家を出て行ったために、イスラム教徒の社会で家族は 孤立し姉の縁談が破談になってしまった。カシムの姉ルクサナがロシーンに直談判に来るAngels4_1 場面がある。彼女はロシーンに「永遠の愛を誓えるのか?」と迫る。愛はいつかはさめる。やがては弟を捨ててしまうだろう。だがそのために自分たちはイスラム社会から締め出されてしまう。そんな結婚をとても認めるわけにはいかないと。重要なのは彼女の説得が何らかの打算に基づくものではないということだ。異教徒のあなたに私たちの家族をばらばらにする権利、私たちの幸福を奪う権利があるのか?この彼女の訴えは心からのものであり、家族の気持ちとして当然のものでもあるだけに、古臭い考えだとして簡単に振り払うことは出来ない。ロシーンも永遠に彼を愛するとは答えられなかった。だが彼女はルクサナの訴えを聞き入れなかった。彼女にはまた彼女なりの考え方があった。彼女もまた自分たちの幸福を他人が、たとえ愛している相手の家族であっても、横槍を入れてこわしてしまうことなど認められなかったのである。

  きっぱりと自分の立場を守るロシーンに比べると、家族の和を大事にするカシムはロシーンと家族の板ばさみにあって悩み苦しむ。愛を取るのか家族を取るのか。どちらも彼にとって大事なものだけに悩みは深い。彼の葛藤が深刻なのは愛も家族も両方とも捨てられないからである。自分にとっての幸せが家族の不幸になる。両立は不能である。彼がこれほど悩んでいるのに対して、ロシーンは自分の権利ばかり主張していて自分勝手だという意見が結構ある。我を通すよりも和を重んじる傾向がある日本人には確かにそう見える。「パッチギ!」のような状況を考えてみればいい。「お前はそれでいい。だが家族はどうなるんだ。」結局それで押し切ってしまう。ずっとそうしてきたのだ。

  ロシーンはそういう考えに流されたくなかったのである。他人の都合で自分の幸福をあきらめたくはない。何も他人を押しのけて我を通すつもりはないが、そうしなければならないのなら仕方がない。自分から身を引くことはしない。そういう意味では彼女は合理主義者なのだ。だが利己主義者ではない。だから彼女はカシムの家族を理解したいと言う。そうは言ってもカシムの悩みの深刻さに比べると確かに彼女の認識は甘い。「カシムの家族を理解したい」という言葉も心からのものだったかというと疑問もある。そういう意味ではパキスタン人移民には「白人にはわからない」歴史があるというカシムの言葉に重みがある。しかし彼女も試練を乗り越えている。彼女はアイリッシュだからカソリックである。彼女の勤めている学校もカソリック系である。しかし戒律の厳しいカソリックの学校では教区の神父から「信仰証明書」をもらわなければ臨時教員から常勤教員にはなれない。異教徒と同棲している彼女を教区の神父は認めなかった。彼女はカソリックではない学校に転勤することを余儀なくされた。

  ロシーンとカシムの関係を単なる白人と東洋人の関係と見るのは正確ではない。彼女は長い間イギリスの植民地にされてきたアイルランド出身なのである。宗教もカソリックだから、プロテスタントが主流のイギリスでは少数派である。彼女も差別されてきたのだ。彼女が自分を譲らないのは彼女の性格もあるだろうが、家族が身近にいないためにより自由に判断できるからでもある。彼女に両親がいたら、彼女の両親もカシムとの結婚に反対しただろう。この場合は差別意識が当然絡んでいるはずだ。ケン・ローチが扱っているのはこういう何重にもがんじがらめになった世界なのである。簡単には解決が見出せない。

  彼女の考え方を示唆する重要な場面がある。音楽の授業のときに彼女はビリー・ホリデイの名曲「奇妙な果実」を流している。「奇妙な果実」とはリンチを受け木に吊るされた黒人の死体を意味している。彼女はこの曲をかけながら木に吊るされた黒人の姿などを描いたスライドを生徒たちに見せている。彼女の伝えようとしたメッセージは明らかだろう。彼女が思想的にラディカルであるかどうかは分からない。しかし教室でこのような授業を行っていることと、決して自分の意志を曲げない彼女の姿勢とはつながっている、少なくともこれだけは言える。

  白人と有色人種との違いはあるが、元植民地出身で少数派同士の恋愛。それに家族や世代の問題、民族、文化、宗教、価値観などの違い、そして差別などの問題が複雑に絡まりあう。カシムの苦悩も、ロシーンの頑固な姿勢も、カシムの家族の願いも、どれも理解できる。カシムの婚約が決まり、カシムの姉の結婚も決まり、うれしそうに家の増築に励む父親の気持ちは本当によく分かる。その喜ぶ両親を前にして心が揺れ動くカシムの気持ちにも共感できる。一方で、自分でつかんだ幸せをどんなことがあっても手放したくないというロシーンの信条も理解できる。それでいて弟と別れて欲しいと必死に訴える姉の気持ちにも心を揺り動かされる。誰が正しく、誰が間違っているか単純には判断できない。誰の言うことも理解できる。理解できるからこそ解決が見出せない。観ていて歯がゆくなるほどだ。ケン・ローチはこのような深刻な問題をわれわれに投げかけている。問題を一面的にではなく、多面的に描き出したケン・ローチのアプローチの仕方は賞賛すべきである。アメリカ映画のような単純な善と悪の判断は下さない。

  民族問題や差別問題が絡むだけに状況は『ロミオとジュリエット』以上に深刻である。いたるところに二人をさえぎる壁が存在する。誰も悪人は存在しないのに壁が作られてしまう。映画は最後まで結論は下さない。しかし最後は希望をかすかに感じさせる終わり方になっている。ロシーンとカシムが互いの愛を確認しあうシーンで終わるのだ。ケン・ローチが描く苦いラブ・ストーリー。ほんのちょっと後味に甘さが残るのが救いである。

  時に現実に圧倒されそうになりながらも、二人は最後まで分かれようとはしなかった。二人がその後どうなるかは分からない。だが迷い悩みつつも二人は自分たちの道を歩んでゆくのだろう。イスラム教徒を描きながら、ケン・ローチは9.11後に顕著になった敵対的な描き方をしなかった。現実の厳しさはなくならない。しかし二人が歩むであろう茨の道に流れるのはロバート・バーンズの詩による甘く切ない「Ae Fond Kiss...(やさしいキス)」の調べだ。

やさしいキスを そしてお別れ
さようなら それは永遠
胸は張り裂け 涙絞りつつ
あなたを思えば 嘆きと溜息が・・・

  彼らは険しい道を決して彼らだけで歩んでゆくのではない。振り返れば後ろにはカシムの妹タハラの姿が見えるはずだ。彼女は自分に対する差別には体を張って対抗した。カシムとロシーンが出会ったきっかけは、白人の男子生徒がタハラを「パキ、パキ」とパキスタン人に対する差別語で呼んだことである。彼女は男の子たちをどこまでも追いかけていった。彼女には兄にない強さがある。彼女も親の反対を押し切り、地元グラスゴーの大学ではなくエジンバラ大学に進学することを宣言する。自分の目指すジャーナリズム学部はエジンバラ大学にしかないからだ。両親の悩みがまた増える。子供は親の思うようには育たないものだと分かっていても、親としては一抹の寂しさと悲しみを禁じえないだろう。いや、それどころか家族崩壊の危機である。カシムとロシーンに焦点を当てているので両親の苦悩は間接的にしか描かれないが、子どもを持つ人が見れば身につまされるだろう。同じ血が流れていても子どもはイギリスで育っている。時代の流れは否応なく人々を押し流してゆく。同じ姉妹でも親に言われるままに結婚を決めた長女のルクサナと末娘のタハラの価値観には大きな開きがある。この映画は時代に押し流されてゆかざるを得ない人々にささげた哀歌(エレジー)なのである。明日は見えない。しかし確実に変化はやってくる。

 カシムたちが進んでゆく長く険しい道にはかつてそこを歩んだ何人もの足跡が残されているはずだ。カシムとロシーンの前にもたくさんの人が歩んできた道であり、タハラの後に続く者も次々に現れるだろう。最後に魯迅の「故郷」からの一節を引用して終わろう。

 「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

 

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2006年4月 9日 (日)

ミュンヘン

Earth1 2005年 アメリカ
監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:トニー・クシュナー、エリック・ロス
撮影:ヤヌス・カミンスキー
美術:ロッド・マクリーン
音楽:ジョン・ウィリアムス
出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ
    マチュ-・カソヴィッツ、ハンス・ジシュラー
    ジェフリー・ラッシュ

  スティーヴン・スピルバーグ。ジョージ・ルーカスと並び、日本でも絶大な人気を誇る超有名監督である。しかし彼は巨匠と呼べるだろうか。こういう疑問を呈したくなるのも、彼の作品にすぐれたものはあまりないのではないかと思っているからである。もし彼の映画からマイ・ベスト5を選ぶとすれば次のようになる。

1 「シンドラーのリスト」
2 「プライベート・ライアン」
3 「カラー・パープル」
4 「激突!」
5 「ET」

  「アミスタッド」は観ていないが、ベスト5に入る可能性はある。4位までは割りとすぐに決まったが、5位には悩んだ。「JAWS」、「未知との遭遇」、「インディ・ジョーンズ」シリーズ、「ジュラシック・パーク」シリーズ、「宇宙戦争」、どれも悪くはないが今ひとつだ。有名度で「ET」を選んだ。ベスト5で苦労するとすれば巨匠とは呼べないのではないか、そう思うのだ。

  先週末、映画館で「ミュンヘン」を観てきた。「オリバー・ツイスト」よりこちらを先に見たのだが、今ひとつ「ミュンヘン」には気が乗らないので、順序が逆になってしまった。「ミュンヘン」には賛否両論あるようだ。僕自身の評価はどちらかと言えば否定的である。テーマの描き方が一貫していたかどうか、その点に関して疑問があるからだ。

  かつて80年代半ばにベトナム戦争を描いた「プラトーン」を巡って大論争が巻き起こった。各種雑誌が特集を組み、連日のように新聞に賛否両論の投書が載っていた。これほどの論争はあれ以来なかったと思う。その論争を整理した文章を当時書いていたので引用しておこう。

  ベトナムの戦場でのアメリカ軍の実体を偏見なく正面から見据えた映像の迫真性、戦場での兵士の極限状態と異常心理、残虐行為、仲間同士の殺し合い、死と隣り合わせの恐怖、軍隊内の退廃や亀裂などが、体験者のみが描ける生々しさで圧倒的な音響効果とともに観客に投げ付けられる。アメリカで公開された時、深い沈黙が劇場内をおしつつんでいたという事実が、いかにこの映画がアメリカの国民にとってショッキングであったかを物語っている。だが、他方で様々な批判の声も寄せられている。それらの批判をまとめると、「プラトーン」はベトナム戦争の一部を局部的にとらえたものに過ぎず、ベトナム人は最後まで「対象」化され、西部劇のインディアン同様にあくまで「敵」であり、したがって侵略戦争としてのベトナム戦争の本質がとらえられていない、ということになるだろう。こ の批判は重要であり、かつ正当だろう。要するに、この映画は一兵士の眼を通して描かれているために、戦場での赤裸々な人間の葛藤や悲惨な実情が直接的に伝えられているが、この「直接性」が一方で作品の視野に限界を与えてしまっているということなのだ。つまり、主人公の視点の限界を作品それ自体が乗り越えられなかったために、主人公の認識の限界がほとんどそのまま作品自体の限界になってしまっているということなのだ。もっとも、このような形になったのはプロデューサー側の「意向」があったのかも知れない。しかいいずれにせよ、ベトナム戦争に対してこれ程真摯な姿勢を示した作品が現れたことを決して過小評価すべきではない。
  「世界映画の現況(その6)」1987年6月29日

  ほぼ20年前の古い文章だが(本館HP「緑の杜のゴブリン」の「電影時光」コーナーに収録してあります)、論争の要点はつかめると思う。「プラトーン」はなぜアメリカ兵がベトナムにいるのかを真摯に考察した映画だが、一方で迷彩服を着た若者たちが肩を怒らせて満足げに劇場を去って行くような映画でもあった。わざわざ長い引用をしたのも、同じような印象を「ミュンヘン」から受けたからである。

  前売り券を買って劇場まで出かけていって「ミュンヘン」を観たのは、自分の使命に次第に疑問を持ち始めてゆくテロリストを描いていると言われていたからである。期待はずれという批判も眼にしてはいたがそれなりに期待してはいた。

  1972年のミュンヘン・オリンピック開催中にパレスチナ・ゲリラがイスラエル選手団を襲撃する場面から始まり、報復のために結成された暗殺チームが今度はアラブのテロリスト指導者を次々に暗殺してゆく。アヴナー(エリック・バナ)をリーダーとする暗殺チームは、急ごしらえの上に特別な訓練を受けたエキスパートたちでもない。爆弾のスペシャリストという触れ込みのロバート(マチュ-・カソヴィッツ)はなんと爆弾を仕掛ける方ではなく解除する方の専門家だった。そんなわけで最初の何回かは爆薬の適量が分からず、爆発が小Waveleaf さすぎたり大きすぎたりしてなかなかうまくいかない。それがちょっとしたユーモラスな味付けになっている、全体としては暗殺にいたるまでのプロセスを息詰まるような迫真力で描いてゆく。まるで自分が戦場にいるかのようなリアリティでノルマンディー上陸作戦を描いた「プライベート・ライアン」の手法を連想すればいい。テロリスト指導者暗殺のプロセスが何度も繰り返し描かれる。最後に主人公が自分たちのやっている行為の意義を見失っていく様子も描かれるが、中途半端で終わっていると言わざるを得ない。むしろ全体としてみれば、暗殺チームの活躍を描いたエンターテインメント映画だったという気がする。

   昨年の1月に上田で大林宣彦監督の講演を聞いたことがあるが、その中で彼はツイン・タワーを襲ったテロの映像について語っていた。あれを観たとき彼は「やられた」と思ったそうである。あの9.11の映像はそれまでの映画を無力にしてしまうほどの圧倒的迫力があった。自分たちはそれまで何をやっていたのか。彼ら映画人は自分たちの映画つくりの根本的見直しを迫られた。あれを超えなければならない。単に迫力ある映像を作ると言う意味ではなく、テロを否定し平和への願いを込めた映画を作らなければならない。

  あの貿易センターの映像は確かにすさまじいものだった。突然テレビの画面が切り替わり、ヘリコプターから撮った黒煙を上げているツイン・タワーの映像が映し出された。誰もが最初は何がなんだか分からなかった。やがてそれがライブ映像であり、テロリストに乗っ取られた旅客機が貿易センタービルの片方に激突したことがようやく分かってくる。そうこうしているうちに2機目が突っ込み、ついにはツイン・タワーが相次いで崩壊し始める。まるでスローモーションのように上からゆっくりと真下に崩れ落ちてゆく巨大タワー。地上ではまるで火砕流のように噴煙が舞い上がる。その一部始終が息を呑んで見つめる全世界の人たちの目の前で展開された。世界同時上映されたテロのロードショー。世界が初めて体験した世界同時中継によるテロ現場の目撃。大林監督の言うとおりである。どんな映画もなしえなかった未曾有の映像をわれわれは体験したのである。

  現場に密着した映像はそれだけで観るものの目を奪ってしまう。「ミュンヘン」ではテロ行為の詳細な描写が大部分を占め、最後に込めようとしたテロリストたちの心の葛藤をわきに追いやってしまった。何か中途半端で、釈然としないままに終わってしまった。おそらく「ミュンヘン」に感じる不満はそこにある。テーマと娯楽性のバランスを間違えていないか?これではただのヴァイオレンス・スリラーだ。

  対象に密着すればするほどリアルな映像になるが、その分視野が狭くなる。行為自体がメインになり、是非の判断は後ろに遠のく。実際暗殺チーム自体も同じだったろう。個人的に憎しみを感じているわけではない相手の暗殺行為を着々と実行してゆくだけ。爆破シーンや射殺シーンが極めてリアルに描かれていく。肉体が砕け散り、血が飛び散るリアルなテロ行為の再現映像に力を込すぎ、同じパターンを淡々と繰り返すので、最後の頃になってやっと描かれる主人公の苦悩があまり伝わってこないのだ。暗殺すべき男の娘を危うく巻き込みそうになって危うく爆破を止めたりするシーンも出てくるが、じっくり考える時間を観客に与えず、むしろはらはらどきどきの緊張した場面を作ることに狙いがあったようにも感じる。暗殺の対象となる男たちが誰一人テロリストらしく見えない、むしろごく普通の生活をしている男たちだという描き方は確かにされている。ただ、それは暗殺のプロセスの中でさっと描かれているに過ぎない。主人公たちの苦悩も十分には描かれない。

  どんなに迫力ある映像を作り上げたとしてもそれだけでは十分な意味を持ち得ない。一つの完結した作品として作られる以上、テーマとの結びつきや構成がしっかりしていなければすぐれた作品にはならない。9.11テロの映像も用い方しだいではテロへの批判にもなるし、テロの教科書にもなる。生命保険のコマーシャルにすることすら可能だ。やはり肝心なのはテーマなのだ。そのテーマの描き方が弱い。

  彼が暗殺した男たちも冷酷なテロリストではなく普通の人間ばかりだ。家族を愛する同じ人間同士。愛国心に動かされ使命を果たしてきたが、自分たちのやっていることはテロリストたちのやっていることとどこが違うのか。やがて仲間も殺され、彼らも狙われる側に回る。むなしい殺人行為。たとえ何人殺してもその穴をまた別のものが埋める。自分たちの行為は正義なのか。報復にどんな大儀があると言うのか。テロでテロに対抗しても解決にはならない。暴力の連鎖を生むだけだ。アヴナーはパレスチナの指導者たちを暗殺してゆくうちにそのことに気づく。悩んだ末彼は大儀を見失い、国も失う。彼はアメリカに移住する。国家のために戦うことをやめたとき、彼は愛する家族との安らぎの日々を手に入れることが出来た。

  確かにそういう風に描かれてはいる。しかし暗殺のプロセスを描くほどには彼の心のゆれはリアルに描かれない。だから今ひとつ説得力を感じない。彼らの苦悩や迷いが十分描かれないのは、そうするためにはイスラエルやアメリカの姿勢により徹底した批判を加えることになるからだろう。そこまで踏み込めなかったのはユダヤ人ヒューマニストである彼の限界だったのだろうか。いずれにしても最後に残るのは怒りでも批判でもない、むなしさである。

 次回はケン・ローチ監督の「やさしくキスをして」を取り上げます。

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