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2006年4月2日 - 2006年4月8日

2006年4月 7日 (金)

オリバー・ツイスト

Sdlamp02 2005年 イギリス・チェコ・フランス・イタリア
監督:ロマン・ポランスキー
原作:チャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』
脚本:ロナルド・ハーウッド
撮影:パヴェル・エデルマン
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:バーニー・クラーク 、ベン・キングズレー 、ハリー・イーデン
    ジェイミー・フォアマン 、エドワード・ハードウィック、リアン・ロウ
   マーク・ストロング、マイケル・ヒース

 ロマン・ポランスキーが描くディケンズの世界。楽しみにしていた映画だったので、前売り券を買って上田の映画館で観てきた。19世紀のロンドンを再現した話題のセットは確かにすごかった。まるで実際の19世紀のロンドンにいるような気分になるほどである。何枚も映されるギュスターヴ・ドレなどの版画も素晴らしい。まるで額縁のように映画の最初と最後に配置されており、白黒の細密画が映画の雰囲気をよく表している。ちなみに、小池滋編著『ドレ画ヴィクトリア朝時代のロンドン』(社会思想社)はたっぷりドレの世界を味わえる好著。ぜひ手に入れておくことをおすすめします。19世紀のロンドン、特にその下層社会は白黒が似合う。映画のできも傑作と呼べるほどではないが決して悪くはない。

  監督のロマン・ポランスキー。これまで30本近い映画を撮ってきた。半分くらい見たがマイ・ベストテンをあげれば以下の通り。4位以下は順不同。というか「オリヴァ・ツイスト」を除いてほとんど忘れているというのが正直なところ。

1 戦場のピアニスト(2002)
2 テス(1979)
3 マクベス(1971)
4 袋小路(1965)
5 水の中のナイフ(1962)
6 吸血鬼(1967)
7 チャイナタウン(1974)
8 反撥(1964)
9 ローズマリーの赤ちゃん(1968)
10 オリバー・ツイスト(2005)

  ディケンズの『オリバー・ツイスト』はこれまで何度も映画化されているが、やはり一番出来がいいのはデヴィッド・リーン監督の「オリヴァ・ツイスト」(1948)だろう。それに次ぐのがこのポランスキー版、その次がキャロル・リード監督のミュージカル版「オリバー!」(1968)というところか。ディケンズは15の長編小説を残したが、そのほとんどは1910年代から30年代に映画化されている。ほとんどがサイレントだろう、もちろん一本も観たことはない。観たのは40年代以降のものばかりである。その中で最も出来がいいのはデヴィッド・リーンの「大いなる遺産」である。それに続くのは上に挙げた『オリバー・ツイスト』原作の3本。優れているといえるのはこの4本くらいではないか。まだディケンズの世界を満足が行くほど完璧に映像化した作品には出会っていない。大長編小説ばかりなのでそもそも2時間程度に収めるのには無理がある。特に傑作が集中する後期の作品群はプロットもより複雑化してくるので、「完全映画化」というのはあるいは永遠の夢かもしれない。また、高度にデフォルメされた彼の小説の登場人物を生身の俳優が演じるのはこれまた無理がある。やはり活字で読んで頭の中で想像した方がいい。視覚化されたとたんに、これはイメージが違うとどうしても思ってしまう。ユーライア・ヒープなどはどんなに名優が扮装を凝らしても小説のイメージ通りにはならないだろう。これはどんな原作にもありうることだが、特にディケンズの場合避けがたいことだ。

  それでもイギリスを代表する小説家だから連綿と映画化され続けている。また当然BBCなどのテレビでもドラマ化されている。こちらは収録時間が長いのでかなり原作に近く描けるが、テレビドラマだとどうしても映画より安っぽく見えてしまうのが残念。数年前に大量にBBC版が日本でも発売された。とんでもない値段なのでディケンズの研究家でもなければ手は出ないだろうが、何とかほぼ買い揃えた。残念ながらまだほとんど観ていない。

  さて、原作の『オリバー・ツイスト』。おそらく日本ではチャールズ・ディケンズ(1812~1870)と言われてまず思いつくのは「クリスマス・キャロル」(中篇)、『二都物語』、『デヴィッド・コパフィールド』あたりだろう。『二都物語』はフランス革命期を背景にした人情物みたいな話なので昔は人気があったが、今これを読む人はほとんどいないだろう。しかしなぜかいまだにいろんな所でディケンズの代表作としてこれが必ず挙げられている。この3作に続いて思い浮かぶのは今でも新潮文庫に入っている『オリバー・ツイスト』と『大いなる遺産』あたりか。

  それ以外の作品、たとえば90年代初頭にちくま文庫から出た『ピクウィック・クラブ』、『骨董屋』、『マーティン・チャズルウィット』、『荒涼館』、『リトル・ドリット』、『我らが共通の友』あたり(一部は以前三笠書房から出ていた)を読んでいる人は、よほどのディケンズ好きか英文科を出た人だろう。ミステリーが好きな人ならディケンズの未完となった最後の長編『エドウィン・ドルードの謎』(創元推理文庫)を読んでいるかもしれない。一般の人には敷居が高い岩波文庫所収の『ボズのスケッチ』、文庫版がない『ニコラス・ニクルビー』、『バーナビー・ラッジ』、『ドンビー父子』、『ハード・タイムズ』を持っていたら間違いなく研究者かディケンズ・マニアである。

  幸いなことにいずれも今では翻訳が手に入る。僕が英文科の学生だった頃はこのうちの半分くらいは翻訳がなかった。それはともかく、人気があるものと小説として優れたものとは必ずしも一致していない。僕の評価では『デヴィッド・コパフィールド』、『大いなる遺産』、『荒涼館』、『我らが共通の友』がディケンズを代表する傑作だと思う。『オリバー・ツイスト』はごく初期の作品で、とても傑作とはいえない。それでも人気があるのはおそらくストーリーが分かりやすく、波乱万丈で起伏に富んでいるからである。

  小説として傑作とはいえないが、『オリバー・ツイスト』にはディケンズの特徴がよく表れている。一つは救貧院でオリバーが言った有名なせりふ「お願いです。ぼく、もっと欲しいんです」というせりふに表れている、社会悪に対する厳しい批判的姿勢。これはディケンズのほぼ全作品に共通する姿勢である。「救貧院」といえば聞こえはいいが、英語のworkhouseそのものの「貧民苦役所」とでも訳した方が実態に近い。原作には「すべての貧乏人どもは救貧院に入ることによって、徐々に餓死させられるか、救貧院に入らないですぐに餓死させられるか、どちらかを自由に選択すべきである」という文が出てくる。『我らが共通の友』では登場人物のベティ・ヒグデンに「救貧院に入るくらいなら死んだほうがましだ」とまで言わせている。映画でもわずかなおかゆしか与えられない子どもたちと救貧院を運営している委員会のメンバーが贅沢な食事をしている場面が対比的に描かれていた。

  この対比は『オリバー・ツイスト』の作品全体でも繰り返される。フェイギン一味が登場するロンドンのアンダーワールドとブラウンロー氏に代表される上流の世界の対比。これもディケンズの全編に共通する主題である。ディケンズは階級社会イギリスを徹底して分析した作家である。『オリバー・ツイスト』ではまだ単純な比較・対比で終わっているが、後期の作品ではこれがより複雑なプロットの中でより深い分析や考察を伴って展開される。ディケンズの共感は常に社会の下積みの層に向けられていた。ポランスキーの映画が映し出した19世紀のイギリスの街並みは、馬車や紳士淑女が行きかう表通りの喧騒ばかりではなく、ネズミが這い回りあちこちで人々がけんかしている薄汚れた裏通りも当時はかくやと思わせるほどリアルに再現していた。

  この二つの世界はしばしば「二つの国民」(ディズレイリの小説『シビル、または二つの国民』から取られた言葉)と呼ばれるほど隔絶した世界である。『大いなる遺産』ではこの対比は主人公ピップが育った鍛冶屋の価値観と莫大な遺産を相続することになったピップが足を踏み入れたジェントルマン世界の価値観との対比・葛藤という形で表れている。彼がLe_pa 描く社会や人間関係の根底には常に階級意識と金がある。そのテーマをとことん追求したのが彼の完成した最期の小説『我らが共通の友』である。ディケンズは常に下層の人々に共感を持っていたが、彼らがいかに非人間的な環境におかれているかも深く認識していた。『大いなる遺産』の第1章を支配しているイメージ、墓地、水路標、絞首台、海賊、古い砲台、沼地、霧、監獄船、囚人、足かせ、恐怖、あるいはピップがロンドン(ピップはこの「醜く、奇形で、薄汚い都会」がすぐいやになる)に行って目の前で見ることになるニューゲート監獄などは、決してジェイン・オースティンの小説世界には入りこむことのない要素である。

  もう一つ、ディケンズの特徴は善人よりも悪人の方がよく描けていることである。彼の描く善人は善人過ぎて面白みにかける。一方、彼の小説の登場人物の中で一番生き生きしているのは悪党どもである。非人間的な下層社会の中でしぶとく生き延びてきた悪党どもにはあふれんばかりの活力がある。彼らの醜さ、卑劣さ、残酷さ、下劣さ、計算高さは貧困や差別の結果であるが、同時に生き抜くための手段でもある。彼らが生きてゆくためには、他人の弱点を徹底的に突けるしたたかさ、抜け目なさや狡猾さ、残酷さや冷酷さを身につけることが不可欠だったのである。だからこそ彼らには異様な活力があるのだ。キャラクターとして善人たちよりはるかに生きており、説得力があるのだ。それは『オリバー・ツイスト』を見れば明らかだろう。ただ周りに振り回されるだけのオリバーよりも、フェイギンやアートフル・ドジャーの方がはるかに生き生きとしたキャラクターになっている。原作がそもそもそうなのである。ちなみに、アートフル・ドジャーのドジャーはドッジボールのドッジに「人」を表す(e)rをつけたものである。つまり「ひらりと身をかわすのが巧妙な奴」、「なかなか捕まらない奴」という意味である。見事なネーミングではないか。

  『オリバー・ツイスト』あるいはその映画版の一番の欠点は主人公オリバーのキャラクターとしての弱さである。実はポランスキー版の映画では描かれていないが、原作の最後ではオリバーの出生の秘密が明かされる。彼は元々いい家柄の生まれだったのである。だからフェイギンたちと交わっても決して赤く染まらなかったのであり、簡単に上流の生活になじめるという設定になっているのである。だが、この認識にそもそも問題があるのだ。高貴な生まれのものは高貴な心を持つ、卑しい生まれのものは卑しい心しかもてない。そんなことはありえない。オリバーは生まれてすぐ捨てられ、孤児院で育ったのだからフェイギンの手下の子どもたちと同じようになっていても不思議はない。いや、むしろその方が自然である。ここにディケンズ自身の人間認識の浅さがはっきり表れている。魅力に欠ける善人が肯定的価値を与えられ主要登場人物として登場するところに彼の小説の大きな欠点のひとつがある。彼の小説がしばしば大衆小説と言われるのもこのことと無関係ではない。あるいはストーリー構成がゆるく、エピソードを積み重ねたような行き当たりばったりの展開もよく批判される。これらの欠点は後に修正されてゆくが、完全には払拭されなかった。この点は指摘しておかなければならない。

  ポランスキー版「オリバー・ツイスト」もキャラクターとしての魅力があるのはオリバーではなく、フェイギンやアートフル・ドジャーたちである。フェイギンはディケンズの数多い名物キャラクターの中でも特に有名である(昔乗っていた黒いサイクリング車に僕は「ブラック・フェイギン号」という名前をつけていた)。ロンドンのアンダーワールドの片隅で子どものすりを使ってぼろもうけしている悪党。どう見ても悪党なのだがビル・サイクスのような残虐さはない。奇妙な魅力を持った人物である。名優ベン・キングズレーが力演している。しかしそれでもフェイギンの魅力を十分には伝え切れていない。個人的には陰影の濃い白黒画面でなければ原作の持つイメージは描き出せないと思う。アートフル・ドジャー(ハリー・イーデン)も同じである。もっとすれた感じでなければドジャーらしくない。子どものくせに酸いも甘いもかみ分けた食えない奴なのである。こういう人物こそポランスキーらしい毒気をたっぷり盛り込んで欲しかった。

  主人公が無垢で善良な少年では生き馬の目を抜く下層社会をリアルに描けば描くほどキャラクターとしての魅力に欠けることになる。しかも上流社会と下層社会の対比というテーマはあっても、ストーリーの展開はエピソードの積み重ねという構成なので、物語の魅力はむしろ脇役の魅力と下層社会のリアルな描写、社会の矛盾に対する作者の風刺にあるということになる。脇役というとディケンズはよく女性を描けないと言われる。女性を描くと皆当時の理想とされる淑女のようなキャラクターになってしまうと。確かにその通り。しかし下層社会の女性には淑女の枠をはみ出たキャラクターが何人か登場する。このカテゴリーでも有名なギャンプ夫人のような悪女が圧倒的な存在感を持っているが、「オリバー・ツイスト」のナンシーも数少ない魅力的な女性キャラクターのひとりである。フェイギン一味の一人だから当然はすっ葉な女として登場するが、オリバーに同情するやさしい面も持っている。彼女を掃き溜めの鶴のような無垢でやさしい人物として描かなかったことが彼女の人物像に奥行きを与えている。ありえないほど純粋無垢な存在でないからこそ現実味があるのだ。彼女の殺害場面は原作でも映画でもクライマックスの一つだ。

  ポランスキー監督は「戦場のピアニスト」の次回作にディケンズ作品を選んだ理由を聞かれて次のように答えている。「何を撮るか決めるのは簡単ではなかったよ。自分の子どもたちのために一本撮らなくては、と思っていてね。というのも、子どもたちはいつも僕の仕事にすごく興味を持ってくれていたんだが、映画のテーマはあまり面白がってくれなかったんだ。それで子ども向けの物語を撮り始めたんだが、最終的にはディケンズにたどり着いた。そうなってみると、『オリバー・ツイスト』以外には考えられなかったね。」

  彼自身「子どもの頃はディケンズに夢中だった」そうだ。子供向けの作品としてディケンズの作品群から「オリバー・ツイスト」が選ばれるのは自然なことである。子どもを意識しているから最後の獄中のフェイギンの描き方などは泣かせる演出になっている。原作では後日談としてさらりと描かれているだけである。ナンシーの殺害場面やビル・サイクスが自分で首を絞める場面などは子ども向きとはいえないが、犯罪と死が日常的なディケンズの世界を描く上でははずせないシーンである。特にビル・サイクスが誤って自分の首を絞めてしまうのは、明らかに絞首刑の比喩である。おかゆをもっとくださいと要求したオリバーは、そんなことではいずれ絞首刑になるぞとバンブルに脅された。しかし絞首刑に値するのはむしろビル・サイクスのような悪党だという皮肉が込められている。いかにもディケンズらしい勧善懲悪的結末だ。確かに「オリバー・ツイスト」の段階では大衆作家のレベルだったと言える。

  しかし最後にもう一度強調しておくが、「オリバー・ツイスト」の中でも随所に発揮されていた風刺精神が後の大作家を生み出している。ディケンズを読む楽しさの一つはそこにある。人間がおかれた劣悪な条件を描くとき彼の風刺はひときわ切れ味が増す。上のおかゆ関連でいえば、葬儀屋の小僧ノア・クレイポールに「暴力を振るった」オリバーについてバンブルがサワベリー婦人に忠告した言葉は最後に引用するに足る。「奥さんはあの子に食物をやりすぎたんじゃ。・・・奥さん、あの子におかゆだけを食べさせておいたら、こんなことにはならなかったでしょうにねえ。」肉なんか食わせるから(犬も食わなかった肉である!)反抗するのだと言っているのである。オリバーがもっとおかゆをくださいと言ったとき、バンブルはかわいそうだと思うどころかもっとおかゆを減らすべきだと思ったに違いない。オリバーの訴えを聞いてバンブルたちが一瞬凍りついたのは、それが当時の価値観と秩序に対する大胆な反抗だったからである。残念ながらオリバーにはその「反抗」を最後まで貫き通す素質も意思もなかった。だが彼の始めた「戦い」は後の登場人物たちに、そして何よりディケンズ自身によって引き継がれてゆくのである。

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2006年4月 3日 (月)

黒いオルフェ

Moonharp_w3 1959年 フランス・ブラジル合作
製作・監督:マルセル・カミュ
脚本:ジャック・ヴィオ
原作:ヴィニシウス・ヂ・モライス
撮影:ジャン・ブールゴワン
音楽:アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ
出演:ブレノ・メロ、マルペッサ・ドーン、レア・ガルシア
    ルールデス・デ・オリヴァイラ、アデマール・デ・シルヴァ
    ワルデタール・デ・リーザ

  ギリシャ神話のオルフェウスを描いた映画作品には49年のジャン・コクトー作品「オルフェ」、59年の「黒いオルフェ」、99年のブラジル映画「オルフェ」がある。コクトー作品はギリシャ神話を大胆に脚色したもので、死神がバイクに乗って街を疾走するシーンが印象的だった(60年の遺作「オルフェの遺言」はオルフェウス神話とは直接の関係はない)。「黒いオルフェ」はヴィニシウス・デ・モライスの戯曲をフランス人監督マルセル・カミュがオール・ブラック・キャストで描いた異色作。1959年にカンヌ映画祭グランプリ、1960年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞。当時絶賛された映画だが、そこに描かれていたのはあくまで外国人の見たブラジル、西洋人の目から見たエキゾチックなブラジルに過ぎない。カーニバルの活気と楽しさにあふれているが、その背後にある貧困、犯罪の蔓延という現実が十分描かれていない。おそらくそういう思いがブラジル人にはあるのだろう。その欠けているものを描こうとしたのがブラジル版「オルフェ」というわけだ。興味深いがまだこちらは観ていない。

  もう1本「黒いオルフェ」と同じ59年に映画化されたオルフェ映画がある。シドニー・ルメット監督、マーロン・ブランド主演の「蛇皮の服を着た男」。これはテネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』を映画化したものだ。ほとんど知られていない作品だがなかなかの力作。74年にたまたまテレビで観て以来観る機会がなかったが、なんと去年DVDが出た。まだ手ごろな値段の中古版が出ないが、いずれ入手したい。

  「黒いオルフェ」を観るのは今回で3度目になる。今回観てやはり一番強烈なのは音楽と色彩の洪水だ。年に一度のリオのカーニバルの前日に始まり、カーニバル当日にクライマックスを迎え、その翌日の朝に終わる。途切れることなくサンバのリズムが映画の中で鳴り響いている。静かな場面でも遠くから音楽や歌が聞こえている。音楽は常に踊りと結びついている。サンバのリズムに乗って踊り回る人々。その人々の服装や飾り付けの強烈な原色の色彩。リズムと踊りと色彩と熱気が一体となって、画面の中で渦を巻いている。

  冒頭、船に乗って人々がリオにやってくる場面が映し出されるが、船の甲板でもう人々は踊り出している。このうねるようなリズムが全編途切れなく続いている。リオのカーニバルは言わばブラジル版「ええじゃないか」の世界で、貧しい人々も借金してまで衣装をそろえ、その日ばかりはすべてを発散して踊り続ける。普段丘の上に住む貧しい人々もいっせいに山を降りて踊りに加わる。激しいリズムとくるくる回りながら踊る体の動きには生の息吹があふれかえっている。サンバのリズムが聞こえてくるだけで体が自然に動き出す。体の中にリズムが埋め込まれた人々。この映画を観ていて、音楽でアパルトヘイトを突き崩した南アフリカの人々を描いた傑作「アマンドラ!希望の歌」を思い出した。ここでも音楽は生きる力だった。うねる太鼓のリズム、はじける肉体、あふれかえる熱気。歌に込めた自由への意思。ここでの音楽は抑圧を跳ね返す力にすらなっていた。

  「黒いオルフェ」の中で音楽は絶えず聞こえているのだが、もちろんメリハリが付けられている。当然静かな場面もある。そこではもう一つのブラジルの音楽が取って代わる。この映画の頃から急速に盛り上がっていったボサノヴァが取り入れられているのだ。オルフェ(ブレノ・メロ)がギターの弾き語りで歌う有名な「カーニバルの朝」は日本でも知られる名曲。他にも「フェリシダージ(悲しみよさようなら)」やラストで子供たちが朝日に向かって歌う「オルフェのサンバ」など静かな曲が効果的にさしはさまれている。

  だが、このリズムと踊りの狂乱のさなかで展開されるドラマは今回観て弱いと思った。ギリシャ神話を現代によみがえらせる、しかもヨーロッパではなく南米のブラジルを舞台にするという試みの大胆さは賞賛に値するが、ドラマ展開にどうしても無理がある。神々の意思が現実を左右する神話の世界に比べると現代社会ははるかに複雑である。この二つの世界はかなり異質な世界であって、その二つを結び付けようとするとどうしても齟齬が生まれる。中でも問題となるのは「死」や「運命」の描き方だ。冒頭あたりでオルフェは婚約者のミラ(ルールデス・デ・オリヴァイラ)と役所の婚姻係へ行く。係りの男に名前を聞かれオルSun11 フェが答えると「じゃあ花嫁さんはユリディスだ」と言われる。ここにオルフェとユリディスの運命的出会いが暗示されている。実は市電の運転手をしているオルフェは既にユリディス(マルペッサ・ドーン)と会っていた。彼が運転する市電に乗った客のひとりがユリディスだったのである。ユリディスはカーニバルを見物に来たのではなく、彼女を追い掛け回している謎の男から逃れるために、リオに住む従姉妹のセラフィナ(レア・ガルシア)を訪ねてきたのである。ところがそのセラフィナの家はオルフェの家の隣だった。出会った二人はたちまち互いにひきつけられてしまう。

  その夜二人は結ばれるが、彼女には死の影が迫っていた。彼女を追い回していた男(アデマール・ダ・シルヴァ)がリオにも姿を現す。その男は髑髏のマスクをかぶり、黒ずくめの服には骸骨が描かれている。明らかにこの男は死神を象徴している。実に不気味な存在なのだが、ドラマの展開にうまく嵌め込まれているとは言い難い。骸骨姿が画面から浮いているという意味ではない。むしろカーニバルの最中で人々は皆様々な衣装を身につけているから、誰も彼を取り立てて意識しないくらいである。そうではなく、ファンタジーならともかく、普通の現代劇に「死」の象徴としての髑髏マスクを登場させたのではリアリティがないということである。コクトーのように最初からシュールな展開であれば違和感はないのだが、突如何の理由も脈絡もなく死神が現れ、人を黄泉の国に連れ去るというのは神話の世界ならぬ現代世界ではリアリティに欠ける。

  言い方を換えれば、オルフェとユリディスの悲劇的運命をうまくドラマ化できていないのである。ギリシャ神話の元の話を無理やり入れ込んでいる感じだ。さすがにオルフェがユリディスを連れ戻すために黄泉の国に行く話しを入れ込むことはできないので、苦し紛れにオルフェに夜の街をさまよわせる。病院から警察署に行き、最後に不思議な祈祷所に行く。そこで霊媒の口を通じてオルフェはユリディスの声を聞く。振り向いてはいけないと言われたが、オルフェは気になって振り返ってしまう。オルフェが振り返ってしまったためにユリディスは蘇えることができなくなってしまった。オルフェは嘆きつつユリディスの遺骸を丘の上に運ぶ。そこで嫉妬したミラに石を投げつけられ、崖から転落する。

  「振り返ってはいけない」というのはオルフェが黄泉の国からユリディスを連れ帰るときに言われる有名な言葉だが、どうも現実味が薄い。単なる神話とのつじつま合わせにしか思えない。ミラの嫉妬が実に現実的なだけに、祈祷所でのエピソードには違和感がある。またオルフェがさまよう人気のない夜の街や無機質な病院や警察署が映像として力がない。要するに、現代的な死の世界を描けなかったのだ。このあたりが一番弱いところである。

  マルセル・カミュは死に付きまとわれた女とギター引きの恋を悲劇として描きたかったのかもしれない。だが、結果的には、今風に言うと、訳の分からぬストーカーに恋人の命を奪われた男の話で終わっている。以前観たときはカーニバルの躍動的な描写とキャストを全員黒人にしたことに感心して、ストーリーの弱さはあまり気にならなかったように思う。多少不満も感じたのだろうが、ギリシャ悲劇を下敷きにしていることを意識すれば話はつながっていると思っていた。しかしどうもそれほど単純ではなさそうだ。いろんな要素が介在している。ギリシャ神話と現代の世界観の違い、原作となった舞台劇と映画の違い(映画は演劇よりも格段にリアリティが要求される)、そして古代悲劇と現代悲劇の違い。突き詰めればリアリティの問題である。

  上で、リオのカーニバルはブラジル版「ええじゃないか」の世界だと書いたが、それはつまり踊り狂う人々の熱気の影に普段の貧しい生活の苦しみがあることを意味している。お祭り騒ぎの後はまたつらい日常が待っている。カーニバルの踊りがあれほど熱気に満ちているのは日常生活の悲しみと苦しみを思いっきりぶちまけているからだ。その悲しみにギリシャ神話のオルフェを重ね合わせれば素晴らしい芸術が生まれるだろう。カミュ自身が実際にリオでカーニバルを見たときの感想をそう語っている。しかしその日常はあまり描かれない。オルフェがカーニバルに備えて、もらったばかりの給料で質屋からギターを引き出す場面や、彼らの住むみすぼらしい粗末な家を映す程度で済ましている。だが、ブラジルの現実をもっと描きこめばいいのか。99年のブラジル版「オルフェ」はそれを試みたが、どうやら必ずしも成功はしなかったようだ(未見なので断言はできないが)。

  現実を描きこめば描きこむほど元のギリシャ神話との乖離が広がる。ではそもそも古代神話を現代に取り込むこと自体が無理なのか。そうかも知れない。少なくとも古典的世界観をそのまま持ち込むことはもはや無理だ。だが、まったくつながらないわけではないだろう。神話とは言っても、ギリシャ神話の神は人間に近い。人間と同じ姿であり、恋愛もすれば嫉妬もする。だから比喩的に使うことは可能かもしれない。「黒いオルフェ」はあまりに話の展開を元の神話に合わせ過ぎた。そこから齟齬が生じた。神話とのつながりは暗示程度にとどめ、思い切ってもっと換骨奪胎すべきだったのではないか。

  オルフェとユリディスの恋は悲劇的結末を迎える。崖から転落したオルフェとユリディスは折り重なるように倒れている。二人は死んでやっと結ばれたかのようだ。しかしほとんど悲哀感はない。実に乾いている。それは意識的なものだろう。なぜならある意味でオルフェは死んでいないからだ。オルフェの奏でていたギターは彼と親しくしていた少年が代わって奏でている。少年がギターを弾くと太陽が昇る。オルフェがギターを弾いて陽を昇らせたように。新しいオルフェの誕生。女の子が現れ少年二人と丘の上で踊る。丘の上から見下ろす海の景色が美しい。オルフェがカーニバルに用意した新曲「カーニバルの朝」を少年たちに弾いて聞かせたとき、少年はオルフェにギターを貸して欲しいと頼む。オルフェは古いギターだからと断る。見るとギターに“オルフェは私の主人”と書いてある。オルフェが言う。「昔もオルフェがいた。これから先もいるだろう。でも今のオルフェは俺だ。」

  何代にもわたって生まれ変わってきたオルフェ。竪琴はいまやギターに代わったが、生まれ変わる度にユリディスと出会い、愛の歌を奏で、恋をする。そして死神が現れてはまた彼女を連れ去ってゆく。少年二人と踊っていた少女は次の代のユリディスなのだろう。人間は何度生まれ変わっても恋をする。そして死がそれを分かつ。このパターンは代わらない。神話と現代のつながりはここにある。

  ストーリーの展開に十分こなれていないところはあるが、映像の力、音楽と踊りの躍動感、神話を現代のブラジルに置き換えた大胆な脚色、これらは今でも十分魅力的である。

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