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2006年3月19日 - 2006年3月25日

2006年3月25日 (土)

日曜日には鼠を殺せ

1964年 アメリカ 037550
監督:フレッド・ジンネマン
原作:エメリック・プレスバーガー
撮影:ジャン・バダル
出演:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ
    ミルドレッド・ナトウィック、レイモン・ペルグラン
    パオロ・ストッパ、 ダニエラ・ロッカ、クリスチャン・マルカン
    ペレット・プラディエ、 ミシェル・ロンズデール

  フレッド・ジンネマン。社会派というとややずれるが、重厚な持ち味で様々なジャンルに傑作を残した。だが巨匠の割には以外に寡作で、10数本しか監督作品を残していない。おそらく日本ではゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」(1952)が一番有名だろう。僕の個人的評価では「ジュリア」(1977)が最高傑作だと思う。イギリスの大女優ヴァネッサ・レッドグレイヴの毅然とした姿が圧倒的だった。2位が「真昼の決闘」。それに続くのが「わが命つきるとも」(1966)あたりか。次いで本作「日曜日には鼠を殺せ」(1964)、「ジャッカルの日」(1973)、「尼僧物語」(1959) がほぼ横並びという印象である。名作と言われる「地上より永遠に」(1953)は僕にはどうも今一ぴんと来ない。初期の代表作「山河遥かなり」(1947)は未見。このところ大量に出回った廉価版DVDに入っているので、いずれ手に入れたい。

  「日曜日には鼠を殺せ」はもう30年以上前に観た映画でずっともう一度観たいと思っていた。なぜか映画ノートにはいくら探しても書いてない。書き漏らしたと思われるが、70年代に観たのは間違いない。淀川長治さんが解説をしていたのを覚えているので、テレビの「日曜洋画劇場」で観たのだろう。サッカーボールが道をぽんぽんと弾んでゆくシーンを見事だと言っていたのを観ているうちに思い出した。今回観直してそのシーンだけかすかに覚えていたのである。それ以外はほとんど忘れていた。

  「日曜日には鼠を殺せ」と言うタイトルは映画の原作から取ったものである。インターネットで調べるとRichard Braithwaiteの Barnabee's Journal:に“ I saw a Puritan-one hanging of his cat on Monday, for killing of a mouse on Sunday.”という一節があって、そこから取ったという説が有力である。日曜日に猫がネズミを殺したので、月曜日に猫を吊るしたという意味だ。淀長さんは、神聖な安息日にはネズミすら殺してはいけないが、それをあえて殺せと言うところに主人公の決意が暗示されている、という意味の解説をしていたと思う。しかし映画のタイトルはBehold a Pale Horseになっている。この意味は映画の冒頭に出てくる。「見よ、青白い馬が現れ、乗っているものの名は“死”といい、これに陰府(よみ)が従っていた。」(「黙示録」第6章、第8節)

  陰府とは英語では”Hell”、つまり地獄のことである。すぐその後に馬に乗った兵士の列が映され、さらにスペイン戦争の様子がしばらく描かれる。原作と映画のタイトルはどちらも隠喩的であいまいである。劇中にカトリックの神父(オマー・シャリフ)が重要な役で登場する。主人公のマヌエル・アルティゲス(グレゴリー・ペック)はネズミ捕りにかかったネズミのように罠にかかり、害獣のように殺される。どちらのタイトルにも宗教的な意味合いが込められているのは間違いない。

  「日曜日には鼠を殺せ」は決して活劇ではない。スペイン戦争が終わってから20年後を描いている。かつての共和派ゲリラの英雄マヌエル・アルティゲスも中年になり、日々鬱々と無為に暮らしている。そこにある日、パコ・ダゲスという少年がスペインから国境を越えてマヌエルに会いに来る。少年は「ビニョラスを殺して」と彼に頼み込む。彼の父ホセ・ダゲスはマヌエルの親友で、マヌエルの居場所を吐かせようとビニョラス警察署長(アンソニー・クイン)に拷問されて殺されたのだ。「あなたのせいでパパは死んだ」という少年の言葉にマヌエルは一瞬きっとなるが、話にならんと少年を追い出してしまう。しかしスペインに残してきたマヌエルの母が危篤となり、ビニョラス署長はそれを利用してマヌエルを呼び寄せ、罠にかけようとたくらむ。フランスにいるマヌエルはかつての仲間のカルロスから情報を仕入れているが、カルロスと少年の情報が食い違い、それに神父の存在が絡みマヌエルはなかなか決心がつかない。このようにフランスに亡命したかつての闘士と彼を罠にかけようとするビニョラス署長の駆け引きに大部分の時間を費やしている。マヌエルとビニョラス署長の対決、クライマックスの銃撃戦は最後に出てくるだけである。

  「真昼の決闘」も決闘シーンは最後に出てくるだけで、大部分は町の人々が協力を拒み保安官がたった一人で悪党たちに立ち向かわざるを得なくなる過程を映画いている。その点では「シェーン」や「荒野の決闘」も同じである。単なる派手なドンパチ映画ではなく、人間ドラマとして描かれているからだ。もちろんマヌエルとビニョラス署長の駆け引きだけではドラマとして弱い。そこで重要になってくるのはフランシスコ神父である。彼はこの作品の中でもっとも深い人間的葛藤を経験する。彼の葛藤とはどんなものだったか。彼は他の神父たちと一緒に聖地ルルド向かう予定だったが、急遽呼び出されてマヌエルの母と最期の会話を交わすことになる。その時神父はある難問を抱え込んでしまう。マヌエルの母は神父に最期の望みを託す。「あなたの神は不信心者の最後の望みもかなえる?ルルドに行くと聞いたわ。ポーを通るわね。息子はポーのスペイン通り17番地にいるの。奴らは罠をかけて息子を待ち伏せてる。」神父「秘蹟を授けましょう。」母「そんなものは要らない。息子を助けて。署長たちに殺される。」神父「法律に背くことはできません。」母「どちらの法に従うの?神の法?署長の法?神父なら私に慈悲を。息子の命を助けて。息子を・・・助けて。」

  神の法と署長の法、どちらに従うのか。重い問いかけだった。マヌエルたちはフランスに亡命後もたびたびスペインに侵入し、銀行などを襲ってレジスタンスを繰り返していた。たまたま銀行にいた神父の一人が頭を怪我して今はボケ老人のようになっている。レジスタンスの英雄もスペインではただの強盗、テロリストにすぎない。神父の苦悩は深い。マヌエルの母はその後すぐに息を引き取る。彼女が死んではもはや罠は意味を成さない。悩んだ末、神父は汽車の中でマヌエルに手紙を書き、ポー駅で切手を買って手紙を投函しようとしているうちに汽車が出てしまう。やむなく彼は直接マヌエルを訪ねる。しかし彼は留守で冒頭に出てきたパコ少年が留守番をしていた。神父はスペインに戻ってはいけないとマヌエルに伝えるよう頼み、彼に手紙を渡す。しかし少年は神父が味方なのか確信が持てず(共和派にとってカトリック教会は敵である)、またどうしてもマヌエルに父の敵を討ってほしいので、手紙を破いて捨ててしまう。

  その後前述のようにマヌエルは誰の言うことが正しいのか迷うことになる。ルルドに行って神父を捕まえ、無理やり家に連れてくる。そこで神父と二人で話すのだが、この場面もまた重要である。話すうちに二人が同郷であることが分かる。彼は急に打ち解け、酒を酌み交わす。「神父にも故郷はあるんだな。ロルカの男がなぜ神父になった?」神父「内乱の頃、まだ10歳の時のことです。ある晩兵士が来て父を殺した。」マヌエル「なぜだ。」神父「分からない。中立だったのに。」マヌエル「殺したのは?」神父「暗くて分かりませんでした。」マヌエル「人民側じゃない。」神父、顔色を変えて。「何の違いが?命を奪う権利があるとでも?」マヌエルは答えず、「もう行ったほうがいい」とだけ言う。

  「何の違いが?」と問われてマヌエルは答えられなかった。この点が重要だ。神父の詰問clock_sjj は正当だ。どちらが殺そうが理由もなく父が殺されたことに変わりはない。しかしマヌエルが何も答えられないということはこの映画の主題を著しく弱めている。ファシストの側か共和政府の側か、そんなことは表面的なものに過ぎない、人間という視座から見ればそんなものは相対化されてしまう。そういうことになる。これはこの作品を深めるのではなく、かえって問題を一般化してしまい、映画の底を浅くしてしまっている。スペイン戦争が持っていた歴史的、政治的意味合いを不問にふし、単なる正しい行いか誤った行いかという倫理的判断で終わらせている。単なる良心の問題に一般化されている。

  僕はこの映画を改めて観て、思っていたほどの傑作ではないと感じた。それは活劇として物足りないという問題ではない。アクション物ではなく人間ドラマとして作られているのだから。そのドラマの深さ、ドラマの中の葛藤の深さが問題なのだ。こんな一般論で終わらせるのなら、別にスペイン戦争でなくてもよかったことになる。フランシスコ神父とマヌエルのそれぞれの葛藤は傑作と呼ぶのに十分なほど深くはない、それこそが問題なのだ。

  マヌエルにも共和派に身を投じた彼なりの理由があったはずだ。何せ相手のフランコはファシストである。いくらでも言い分があったはずだ。互いの考えをぶつけ合い、それぞれになるほどと思わせる根拠があれば葛藤は深まる。ではなぜそうしなかったのか。単に20年が経過して諦めが彼の心を支配したからというのでは情けない。あるいは彼の思想の揺らぎを描きたかったのか。マヌエルが何も言い返せなかったのは、彼の政治的信条が揺らいでいたからだと。そう見ることも確かに可能だ。この映画の暗い色調もそれを裏付けているように見える。しかしそれではやはりスペイン戦争をテーマにした意味はなくなる。思想の揺らぎそれ自体は主題とするに足るものではない。独裁者フランコ対共和派という大きな対立軸がなくなれば、結局マヌエルとビニョラス署長の個人的な憎しみ合いの話に矮小化されてしまう。スペイン戦争そのものは背景に遠のき、個人と個人の対立を描いただけといわざるを得ない。

  マヌエルと神父が一夜を明かす場面は白黒画面の特性を生かして、深い陰影に縁取られた映像になっている。もちろん陰をうまく生かした映像はここばかりではない。作品のかなりの部分が暗く重苦しい色調で覆われている。暗闇の中で思い悩むマヌエル。カルロスが裏切り者であることがはっきりするが、それでも罠と知りつつマヌエルはスペインに戻りビニョラス署長を倒すことを決意する。サッカーボールを2階の窓から投げるのはそのときである。ボールは道に沿ってぽんぽんと跳ねてゆく。もう止められない、進むしかないという決意を象徴的に表しているシーンである。そこからが最後の山場。

  なぜマヌエルは罠だと知りつつそう決意したのか。マヌエルは埋めてあった銃を掘り出すために昔の仲間を誘ったときこう言う。「銃を掘り出すぞ。」「なぜ。」「母が死んだ。会いに行かねば。」「死んだ?じゃあ、行っても仕方ない。なぜ行くんだ。」「なぜ?」「ああなぜ。」「行くしかない。」「それもそうだな。」

  まったく意味のある会話になっていない。要するになぜ彼があえてほとんど自殺行為に近い選択をしたのか何も説明されていないのである。だが何となく分かる気がする。観客にそう思わせてしまうところがこの作品の力である。罠と分かっていて死地に赴く。最初に観たときそこに一番感動した。しかし今回見直していささか驚いたのは、そこにまったく悲壮感が込められていないことだ。昔の仲間と銃を掘り出すあたりからピレネーを越えて単身スペインに向かうあたりまで、ずっと軽快な曲が流れている。少しも悲壮感がない。まるでピクニックにでも行く感じだ。いかにもと言うような悲壮感漂う音楽を派手に流して盛り上げるのではなく、一種の異化効果を狙ったものだろう。しかしこれでよかったのか疑問に思う。むしろ一切の効果音を排して、自然音だけで淡々と客観的に描いたほうが良かったのではないか。穴を掘るスコップの音、銃を手入れするカチャカチャという音、山の斜面を登ってゆく砂利を踏む音。むしろ即物的に描いた方がより緊張感は高まっただろう。

  敵地に忍び込んだマヌエルは屋根に上り、狙撃用の銃を持った警官を襲う。その銃を使ってビニョラス署長に狙いをつける。するとその横に裏切り者のカルロスが現れた。銃は一発しか撃てない。周りには警官が大勢潜んでいる。2発目を撃つ前に集中砲火を浴びる。どっちを撃つか?結果は言わないでおこう。いずれにしてもマヌエルは撃たれて死ぬ。出発したときからそれは分かっていた。遺体安置所の母の遺骸の隣にマヌエルの遺体が並べられる。なるほどこれが彼の目的だったのかもしれない。神父に「何の違いが」あるのかと問われて答えられなかった時、ある意味で彼の運命は決していた。大儀を失ってしまえばもう何もこだわることはない。彼は母の元に戻りたかったのだ。そう思えてくる。

  主演のグレゴリー・ペックはなかなか渋い味を出して好演している。オマー・シャリフは実に印象的な役だ。「アラビアのロレンス」と「ドクトル・ジバゴ」が代表作だが、この作品も記憶にとどめる価値がある。アンソニー・クインは残念ながら今ひとつあくが強くない。原作はエメリック・プレスバーガーの小説である。マイケル・パウエルとの共同監督で、「赤い靴」、「ホフマン物語」、「黒水仙」、「天国への階段」などイギリス映画史上有名な作品を何本も作り出してきた人だ。特にその鮮やかな色彩の美しさ、鮮明さは今見ても色あせない。

2006年3月23日 (木)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年4月)

【新作映画】
4月1日公開
 「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督、日本)
4月8日公開  
 「家の鍵」(ジャンニ・アメリオ監督、伊仏独)  
 「美しき運命の傷痕」(ダニス・タノビッチ監督、伊仏ベルギー)  
 「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督、アメリカ)
 「タイフーン」(クァク・キョンテク監督、韓国)
 「寝ずの番」(マキノ雅彦監督、日本)
 「プロデューサーズ」(スーザン・ストローマン監督、アメリカ)
4月15日公開  
 「ダンサーの純情」パク・ヨンフン監督、韓国)
 「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」(カーク・ジョーンズ監督、英米仏)  
 「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
4月22日公開
 「Vフォー・ヴェンデッタ」(ジェイムズ・マクティーグ監督、米独)
 「ニュー・ワールド」(テレンス・マリック監督、アメリカ)
4月29日公開
 「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
 「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督、オーストリア他)
 「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督、英米仏日)
 「戦場のアリア」(クリスチャン・カリオン監督、仏独他)
 「太陽に恋して」(ファティ・アキン監督、独)
 「ファーザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
 「プラハ!」(フィリプ・レンチ監督、チェコ)
 「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ監督、米仏)

【新作DVD】
4月1日  
 「ドミノ」(トニー・スコット監督、米仏) 4月5日
 「ヴェニスの商人」(マイケル・ラドフォード監督、米英他)
 「スウィート・スウィートバック」(メルビン・バン・ピーブルズ監督、米)
 「ライフ・イズ・ミラクル」(エミール・クストリッツァ監督、仏他) 4月7日 030712_02_q
 「愛をつづる詩」(サリー・ポッター監督、英米)
 「イン・ハー・シューズ」(カーティス・ハンソン監督、米)
 「そして、ひと粒のひかり」(ジョシュア・マーストン監督、米他)
 「メリンダとメリンダ」(ウディ・アレン監督、米)
 「理想の女」(マイク・バーカー監督、英米伊他)
4月14日
 「蝉しぐれ」(黒土三男監督、日本)
4月21日
 「エリザベスタウン」(キャメロン・クロウ監督、米)
 「輝ける青春」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、伊)
 「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(マイク・ニューウェル監督、英米)
4月28日
 「女は男の未来だ」(ホン・サンス監督、仏・韓国)

【旧作DVD】

4月22日
 「歌うつぐみがおりました」(オタール・イオセリアーニ監督、ソ連)
 「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」(ハル・アシュビー監督、アメリカ)
 「四月」(オタール・イオセリアーニ監督、ソ連)
 「タンゴ・ピアソラ×ソラナスDVD-BOX」
    ※傑作「ラテン・アメリカ 光と影の詩」を含む。
 「扉の影の秘密」(フリッツ・ラング監督、アメリカ)
 「ルイス・ブニュエル DVD-BOX ①」(ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)
4月25日
 「田舎司祭の日記」(ロベール・ブレッソン監督、フランス)
 「霧の波止場」(マルセル・カルネ監督、フランス)
4月26日
 「デルス・ウザーラ」(黒澤明監督、ソ連・日本)
4月28日
 「ふくろうの河」(ロベール・アンリコ監督、フランス)

2006年3月21日 (火)

いつか読書する日

medaka7 2004年 
監督:緒方明
脚本:青木研次
撮影:笠松則通
照明:石田健司
美術:花谷秀文
音楽:池辺晋一郎
衣装:宮本まさ江
出演:田中裕子、岸部一徳、仁科亜季子、渡辺美佐子
    上田耕一、香川照之、鈴木砂羽 奥田佳菜子
    杉本哲太、左右田一平、神津はづき、田根楽子
    馬渕英里何、柳ユーレイ

  昨年の日本映画の好調を裏付ける作品。韓国の名作「八月のクリスマス」を思わせる抑えた演出で、原稿用紙に日記を綴ってゆくようなそんな佇まいの映画だ。副題を付けるなら「牛乳配達は二度恋のベルをならす」。

  舞台となるのは西東市という架空の街だが、実際の撮影は緒方監督が少年の頃住んでいた長崎市で行われた。映画はまだ薄暗い早朝に大場美奈子(田中裕子)が坂道を自転車で走り下りてくるところから始まる。今まで知らなかったが、長崎は坂が多い街だ。ほとんど街全体が山の斜面に造られているという印象である(もっとも、市電が走っているから中心部は平地なのだろう)。自転車を走らせる美奈子は勤め先の牛乳販売店に向かっていた。販売店で美奈子は冷蔵庫から牛乳を取り出し、店主(懐かしや!左右田一平)と一緒に軽トラックに牛乳を積み込む。自転車で配達するには坂が多すぎて不便なのだろう。配達地区まで車で来ると美奈子は袋に牛乳を入れ替え、歩いて坂道を登りながら牛乳を配ってゆく。一軒一軒牛乳箱から空き瓶を取り出し、新しい牛乳瓶を入れてゆく。ある家ではいつも老人が玄関前に座っており、美奈子は直接老人に牛乳瓶を手渡し、その場で飲み終わるのをまってまた空き瓶を受けとる。この一連の手順を大場美奈子ははっはっと息をして坂道を駆け上がりながら繰り返す。特に急な階段の前では「よしっ」と掛け声をかけてから上り始める。日常の事細かな行動の繰り返しを丹念に描写してゆく。まるでウルグアイ映画「ウィスキー」のようだ。

  この出だしが象徴的である。この映画の大半はなんでもない日常を描いている。美奈子以外の主要登場人物である小説家の皆川敏子(渡辺美佐子)と市役所の福祉課に勤務する高梨槐多も、最初は美奈子が牛乳を配達している内の2軒としてさりげなく登場する。同じことの繰り返しなのは朝の牛乳配達ばかりではない。昼はスーパーでレジ打ちのパート。夜は布団に入って一人で本を読む。この1日のサイクルを彼女はずっと繰り返してきたのだ。大場美奈子は50歳。いまだ独身。これまで特に大きな変化もなく一人で暮らしてきた。

  正直最初の30分は幾分退屈で、時間が長く感じられた。もちろんこの単調な日常描写のためである。なぜこれほど日常を事細かに描写するのか。それは彼女がこの単調な生活を自分に強いてきたからである。牛乳の配達が終わってからスーパーへ自転車で向かう美奈子の横を高梨槐多の乗った市電が追い抜いてゆく。美奈子と槐多は互いに顔を合わせない。どこか思わせぶりなのだが、最初はそれがどういうことなのか観客には分からない。

  実は美奈子と槐多は高校の同級生で恋人同士だった。ところがある事故がきっかけで突然二人の関係は切れてしまった。通勤途中顔を合わせなかったのは意識して互いを見ないようにしていたのである。美奈子が勤めるスーパーに槐多が買い物に来ることもあるが、槐多はわざわざ別のレジに並ぶ。分かれてから30余年。二人は互いに知らん顔をしながら、それでいて互いを忘れられずにいた。いや忘れられないからこそ互いに知らん顔をしている。槐多には妻がいる。妻の容子(仁科亜季子)は癌を患い先が長くない。寝たきりである。映画が進むにつれそういった事情が分かってくる。

  牛乳瓶の音で槐多の妻容子が目を覚まし、夫の槐多に起きているかと聞く場面が最初のあたりでさりげなく描かれる。何度か同じような場面が出てくるが、やがて毎朝槐多は美奈子が階段を上り牛乳箱の瓶を入れ替える音に耳をすましていたことが分かってくる。自転車の美奈子を市電の槐多が追い抜いてゆく場面も後半でもう一度出てくるが、今度は互いに相手を意識している。同じような場面を何度も繰り返し描くが、事情が分かってくると最初に出てきた場面を思い出し、そうかあれはこういうことだったのかと思い返すことになる。美奈子も槐多も30年間それぞれの思いを押し隠して生きてきた。美奈子が一生懸命走るのも昔の思い出を振り切るためである。「淋しかったらクタクタになればいいのよ。」思い出したくないからくたくたになるまで働き、寝てしまう。一見単調な繰り返しのように思えるが、ストーリーが進むにつれて前に出てきた場面を違った思いで反芻することになる。平凡な生活の中に隠された心のうずきが少しずつ見えてくる。その描き方がうまい。

  同じ町に住みながら、一生分かれ分かれの生活をするはずだった二人を再び結びつけたのは槐多の妻容子だった。彼女はふとしたことから二人の秘められた思いに気づいてしまう。もう自分の命が長くないことを知っている容子は、美奈子を呼び自分が死んだ後は夫と付き合ってほしいと告げる。夫にも同じことを話す。このあたりは非現実的だ。そもそも30年もお互いに昔の気持ちを持ち続けているというのも実際にはありえない話である。緒方監督自身もあるインタビュー(非常に学ぶところの多い優れたインタビュー)で「話そのものを取り出した場合、実はやっぱりファンタジーですよ。・・・ところどころに一種の寓話性みたいなものを残しておきたいなというのが狙いとしてあります」と語っている。おそらくここで評価が分かれるだろう。きれい事過ぎてありえないと受け取る人もいれば、ありえないからこそ引き込まれるのだという人と。男女でも別れるだろう。おそらく「マディソン郡の橋」に近いケースではないか。30年も同じ人を思い続けるということ自体に女性は惹かれるだろう。その点男は冷めている。

  僕自身、上のありえない設定以外にもこの映画には腑に落ちない点をたくさん感じる。美奈cyouzu1子はラジオ番組に匿名で「私には大切な人がいます。でも私の気持ちは絶対に知られてはならないのです」と投書する。しかし隠しておきたいのならどうして投書するのか。なぜ美奈子はその投書と牛乳配達の美奈子を結び付けたのか。前者は、完全に隠し切るのは息 苦しいから匿名で投書したのだと一応の説明はつくが、後者は女の勘だというのではすっきりしない。またそうと分かってからも、容子はどうして自分の気持ちを槐多と美奈子に直接伝えるようなことをしたのか。普通ならひっそりと分からないように二人を引き寄せる方法を考えるだろう。ちょっと不自然だ。

  ファンタジーだからと言ってしまえばそれまでだが、色々と意図的な誘導を感じてしまう。槐多が笑い顔のままで死んだのもありえない話だ。これなどもリアリティを無視した象徴的な描き方である。あるいは、認知症老人問題、育児放棄・児童虐待といった現代の社会問題が出てくるが、うまくドラマの中でつながっていない。どういうわけかドラマに厚みを加えるというよりは、逆に話が拡散してしまっている感じを受ける。また、あれほど美奈子が働いている場面がありながら、どういうわけか美奈子にあまり生活感がないのも不思議だ。一人暮らしだからだろうか。

  しかしこれらの疑問はあっても、この作品にはそれらを超える不思議な魅力がある。その魅力のかなりの部分は田中裕子と岸部一徳の存在感にある。二人とも50歳という設定。「きみに読む物語」のような老人同士の愛情を描いた作品は少ないが、中年の恋愛を肯定的に描いた作品も同様に少ない。その意味で貴重な作品である。演じている田中裕子もちょうどその年齢である。彼女ももう50になるのか。1979年のNHKテレビ小説「マー姉ちゃん」でデビューしてから四半世紀以上たっている。デビューした頃からあののっぺりした顔がどうしても好きになれなかった。うまい女優だと思ったこともない。しかしこの映画の彼女はなかなかいい。化粧もせず日々の生活を平々凡々と生きている中年の女性を余すところなく演じている。ほとんど無表情な役なのだが、派手な役よりもこういう役柄の方が彼女には合っているのかもしれない。美奈子に感情移入してしまうことはないが、共感はできる。

  無表情な人物を演じさせたら岸部一徳もすごい。以前からそうなのだが、彼が出てくるとあたりの音が消える(気がする)。画面全体に透明感が漂い出すというのか、せりふ無用の不自然なほど静けさに満ちた世界になる。実に不思議な雰囲気を持った俳優だ。全体にせりふの少ないこの映画にはぴったりの配役である。ほとんど妻と会話を交わすことなく淡々と世話をし、美奈子への思いを無表情な顔の奥に隠し仕事に励む男。まだしゃんとしている美奈子に比べると背中を丸めた立ち姿は隠しようもなく中年を感じさせる。容子が死ぬ前、一度だけスーパーのガラス越しに彼と美奈子の目が合ったことがある。ガラス越しに交わす無言のまなざし。この映画を象徴する場面だ。

  決して明るい映画ではないが、秘めた思いを描きながら鬱屈もしていない。二人が一生懸命日常を生きているから。会話の少ない映画だが、様々な場面やそのつながりからそこに描かれていないことまで読み取れる。今井正の名作「にごりえ」のレビューにも書いたが、これは昔から日本人が得意としてきた表現法である。緒方監督自身もそのあたりを十分意識して演出している。「映画ってスクリーンだけじゃなくて、人の心に入ったときに初めて完結するんですね。映画はやっぱり僕は見世物ではなく、見えないものを映すものだろうと思っているんで。それは例えば人を好きになったときの気持ちであったり、心の揺れであったり、葛藤であったり、あるいは空気であったり、ようするにパッと目にわからないもの。」

  もう一人重要な役割を果たしているのは容子である。全体にせりふが少ないこの作品にあって、病に伏せている容子はさらにせりふが少ない。しかしこの作品中で最も印象的な言葉を読者に投げかけてくるのは容子だ。容子から美奈子とのことを言われ、槐多は「俺さ、若いころにさ、絶対平凡に生きてやるって決めたんだよ。・・・必死になって、そうしてきたんだ。邪魔なんだあの人」と答える。それに対して容子が浴びせた言葉は強烈だった。「あなたはずっと気持ちをね、殺してきたのよ。気持ちを殺すって周りの気持ちも殺すことなんだからね。あの人と向き合いなさいよ、付き合いなさいよ。あたしにできることって、もうこれしかないじゃない。」最期に書き残した手紙もずばりと核心に踏み込んでいる。「あなたたちは互いに知らんぷりをしながら、結局惹かれあっているのです。ただ決して認めようとしないのです。」

  容子を演じた仁科亜季子は主演の二人に比べると存在感は薄いが、体が弱って行くはかなさのようなものはよく描かれている。こういうせりふがあった。容子「昼間蚊が飛んでた。夏でもないのに。」槐多「刺された?」容子「刺してもくれない。」美奈子と夫の間の秘められた愛情を知った時、容子はどんな思いだったのか。これもはっきりとは示されない。三人がそれぞれ胸のうちに思いを秘めている。それを退屈にならずに、また説明的にならずに描きとおした監督や脚本家の力量は賞賛すべきである。

  容子の葬儀の後、美奈子と槐多はそれぞれの母親と父親が事故で死んだ場所へ行く。そこで二人は互いの気持ちを確かめあう。二人は美奈子の家に行き初めて愛し合う、雨と涙でびしょ濡れになりながら。それまで封印されていたものが一気に噴き出す。しかしその短い盛り上がりの後、急転直下事態は予想外の方向に展開してゆく。

  緒方監督は「この映画のテーマというのは『人は過去にふりまわされて生きていくものではないか』ということです」と語っている。やっと過去から開放され幸福をつかんだと思った矢先に、指から幸福がすり抜けてゆく。しかし今度もまた美奈子はそれを乗り越えていった。美奈子はいつものように牛乳を配達し終えた後、そのまま坂を上りきって丘の上から街を見下ろす。ここで映画は終わる。美奈子が打ちひしがれていないのが救いだ。その表情は落ち着いていて明るい。ショックがないわけはない。過去を忘れることはないだろうが、引きずりはしないだろう。ある意味で、30年間胸に突き刺さっていたとげが抜けたのである。ほんの一晩だったが槐多の気持ちを確かめることができた。彼の肌を感じることができた。それを思い出にまた生きて行ける。美奈子をいつも温かく見守っている皆川敏子(渡辺美佐子)に「これからどうしていくの?」と聞かれ、美奈子は「読書でもするわ」と答える。また一日一日を力強く生きてゆくだけ。

  淡々とした展開の映画だが、非常に強い余韻を残す。坂道に響く美奈子の息遣いと牛乳瓶の音がいつまでも耳に残る。丘から眺める長崎の街は美しい。坂ばっかりの街だが、どの坂にも表情がある。その坂を美奈子は明日もまた駆け上ってゆくのだろう。

  最後に余談だが、槐多は有名な画家の息子という設定になっている(父の絵を売りに行く場面が出てくる)。となれば、槐多という名前は夭折した画家村山槐多から取った名前だろう。画家だった父が尊敬する村山槐多の名を息子に付けたと推測できる。ただ、わざわざそういう名前をつけたことが映画の中で特に意味を持たされていない気がする。

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