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2006年3月12日 - 2006年3月18日

2006年3月18日 (土)

クライシス・オブ・アメリカ

2004年 アメリカ
監督: ジョナサン・デミ
製作: イロナ・ハーツバーグ、ジョナサン・デミ、スコット・ルーディン、ティナ・シナトラ
脚本: ダニエル・パイン、ディーン・ジョーガリス
撮影: タク・フジモト
原作: リチャード・コンドン
音楽: レイチェル・ポートマン
出演:デンゼル・ワシントン、メリル・ストリープ、リーヴ・シュレイバー
    ジェフリー・ライト、キンバリー・エリス、ジョン・ヴォイト
    ブルーノ・ガンツ、テッド・レヴィン、ミゲル・ファーラー
    サイモン・マクバーニー、ヴェラ・ ファーミガ

  今年のアカデミー賞は社会派が圧倒した。テロリストの苦悩を描いた「ミュンヘン」、赤狩りをテーマにした「グッドナイト&グッドラック」、様々な人種・階層の人々の群像劇「クラッorora1 シュ」、CIAと石油資本を告発した「シリアナ」、炭鉱での女性差別を批判した「スタンドアップ」、カウボーイの同性愛を取り上げた「ブロークバック・マウンテン」。ノミネート作品以外にも死の商人を主題にした「ロード・オブ・ウォー」や戦争の大儀を問う「ジャーヘッド」がある。2月に開催されたベルリン映画祭でも英国にするイスラム教徒をアルカイダと間違えて虐待した問題を描いた「ロード・トゥ・グランタナモ」や深刻な失業問題を扱った「イッツ・ウィンター」をはじめ社会性の強い作品が集まった(「シリアナ」も招待作品として上映された)。

  韓国では国産映画を守っていたスクリーンクォータ制の縮小(国産映画の年間上映日数の割り当てを146日から73日に減らす)が3月7日の閣議で決定された。アメリカの圧力が背後にある。チョン・ドヨン、アン・ソンギ、チャン・ドンゴン、カン・ヘジョン、チェ・ミンシク、キム・ジウン、チョン・ユンチョルなど韓国を代表する俳優や監督をはじめ映画人はデモを行い、これに強く抗議してきた。こちらはフィクションではなく、現実的課題として映画と政治の問題が論じられている。

  いうまでもなくこれらに対する日本での反応は鈍い。韓国映画界の大問題はほとんどろくに報道されず、アカデミー賞は「ブロークバック・マウンテン」にばかり報道の関心が集まっていた。同性愛問題を認知するかどうかがハリウッドの開放度の目安というわけだ。かつてセックス描写が表現の自由のものさしのように言われていたのと同じである。性描写も含めて表現の自由を守ることはいうまでもなく重要だが、セックス描写ばかりを問題にするのは問題の矮小化である。同性愛問題も同じことだ。

  少し話題がずれたので元に戻そう。前にも書いたが、このように社会派の映画が台頭してきたのは9.11からアフガニン戦争、イラク戦争をへて今日に至るアメリカの政治姿勢に対する映画人の態度が変化してきたからである。おそらくその変化のきっかけとなった映画はマイケル・ムーア監督の「華氏911」あたりだろう。歯に衣着せぬブッシュ批判がアメリカ内外の議論を沸騰させた。ほぼそれと同じ時期にアメリカで公開されたのが「クライシス・オブ・アメリカ」である。こちらはフィクションという形を取りながら、アメリカを影で動かす巨大コングロマリットと副大統領候補の恐るべき関係を暴き出している。

  大胆な設定だが、実はこれまた過去の作品のリメイクである。元になったのはジョン・フランケンハイマー監督の「影なき狙撃者」(63年)。リバイバル時に「失われた時を求めて」と改題されている。僕が90年にレンタル店で借りたビデオはこちらのタイトルになっていた。ジョン・フランケンハイマー監督と言えばシドニー・ルメットやスタンリー・クレイマーなどと並ぶ社会派の巨deep-blue01-5 匠として知られる。傑作といえるのはデビュー直後の60年代の作品に集中している。「明日なき十代」(60年)、「終身犯」(61年)、「五月の七日間」(63年)、「大列車作戦」(64年)、「フィクサー」(68年)あたりが代表作。重厚な持ち味を遺憾なく発揮して次々と傑作を作り出していた。「五月の七日間」と「フィクサー」が最高傑作だと思うが、残念なことにどちらもまだDVDが出ていない。これらに比べると70年代以降の作品はぐっと質が落ちると言わざるを得ない(ほとんどが大味になってしまう)。62年の「影なき狙撃者」はまさに彼の絶頂期に作られたことになる。これも結構有名な作品だが、ほとんど記憶がないところを見ると、僕としてはそれほど感心しなかったと思われる。

  「クライシス・オブ・アメリカ」のストーリーは元の作品と大筋ではほぼ同じだが、40年以上時間の隔たりがあるので当然いくつかの設定に変更が加えられている。そもそも原題のThe Manchurian Candidate は直訳すると「満州の候補者」だが、中国(当時よく中共と呼ばれていた)の操り人形という意味である。まさに冷戦時代の産物である(同時に赤狩り批判も込められている)。朝鮮戦争が湾岸戦争に変えられているのは当然だが、特に大きな変更は背後で操る敵と操る手段である洗脳の仕方である。背後の敵は共産国からアメリカ内部に置き換えられる。マンチュリアン・グローバル社というアメリカ政治に奥深く食い込んでいる巨大企業である。

  一方人間を洗脳して操る方法は当然より現代的になっている。操られる人間の脳にチップを埋め込み、ある言葉を聴くと洗脳された人格が表れる。62年版はトランプのあるカードが引き金になっていた。しかしこれがどうも荒唐無稽な感じがする。リアリティが売り物の政治劇にSFの題材を持ち込んだようでしっくりこない。「クライシス・オブ・アメリカ」はある程度期待してみたのだが、結果は期待を下回った。その主な理由の一つはこの荒唐無稽さだ。ある合図を送ることで人物を操るという設定だから、洗脳というよりマインド・コントロールに近いが、本当にそんなことが可能なのか。治療のため医療機器をインプラントする事はすでに行われているようだが、そこから埋め込んだチップで人を操ることまではまだはるかに距離があるだろう。脳の構造は心臓などよりはるかに複雑で、ペースメーカーを埋め込むようには行かないはずだ。現代のハイテクをもってしてもこれはまだ荒唐無稽という感じはぬぐえない。むしろなんとか真理教のローテクの方がはるかに脅威としてリアリティを感じさせるのは皮肉だ。さらに、何者かが最前線から負傷した小隊を連れ去り小さな島で手術を施す、しかも息子を盲愛している母親がその息子に対する危険な手術を許すという設定も著しく説得力に欠ける。

 ジャンルとしては政治サスペンスなのだが、湾岸戦争下のクウェートで負傷した米軍大尉ベン・マルコ(デンゼル・ワシントン)が、クウェートで実際には何が起こったのかを探ってゆくという展開が今ひとつサスペンスとして弱い。しかも、副大統領候補レイモンド・ショー(リーヴ・シュレイバー)、その母親エレノア・ショー(メリル・ストリープ)、その二人の疑惑を追及するベン・マルコ大尉に焦点が絞られすぎ、その結果アメリカの政権の中枢部に巣くう根深い腐敗の追及ではなく、エレノアの野望をベンがどう食い止めるかという展開に関心が向けられてしまう。途中でFBIが絡んできて、最期にはFBIが何事もなかったかのように事件の真相をもみ消してしまうという結末の付け方は悪くはないが、かといって意外というほどでもない。全体としてみると、社会派ドラマというよりもエンターテインメントに傾いている。

  結局問題の根源を個人に収斂させてしまった。そこに問題があると思われる。実際DVDの付録映像で脚本担当のダニエル・パインが次のように語っている。「この作品が描く“敵”とは、アメリカや世界を支配しようというその考え方だ。エレノアのゆがんだ野望は世の中に悲劇をもたらす。だからこの作品では敵はマンチュリアン社ではなくエレノアなんだ。」確かにエレノア役のメリル・ストリープは圧倒的な存在感である。おかげでマンチュリアン・グローバル社がかすんでいるほどである。しかしエレノアがマンチュリアン・グローバル社に利用されていた面も当然あるはずだ。この種の会社がそんなやわなはずはない。この点ではTVドラマ「24」の方がまだ複雑に描かれていた。やはり問題を単純化しているといわざるを得ない。

  アメリカの世界支配構造は相当奥が深く、様々な要素が複雑に入り組み絡まりあっているので、1本の映画でそれをすべて描き出すのはそもそも無理である。批判政党が弱小で保守の2大政党が政権をたらしまわしにしている米国内の政治構造、武器商人や石油関連企業や多国籍企業などが米政権内に深く食い込み、内外の利権をむさぼっている構造、日本政府に代表されるアメリカの「言いなり」政権が側面からアメリカを支えている国際的政治構造、これらの複雑な構造を総体的に描き出さなければその全体像はつかめない。「クライシス・オブ・アメリカ・サーガ」といった壮大な連作でも作らなければとうてい描けるものではない。しかし様々な角度からアメリカの政治と社会を鋭くえぐる映画が現れてきた。それらの作品群を総合的に捕えることで複眼的なアメリカ像が見えてくるかもしれない。色々不満はあるが、「クライシス・オブ・アメリカ」はそれらの作品群のさきがけになった映画だと言える。

2006年3月15日 (水)

コープス・ブライド

2005年 アメリカ・イギリス
監督:ティム・バートン、マイク・ジョンソン
製作:アリソン・アベイト、ティム・バートン
製作総指揮:ジェフリー・オーバック、ジョー・ランフト
脚本:パメラ・ペトラー、キャロライン・トンプソン、ジョン・オーガスト
撮影:ピート・コザチク
プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル
編集:クリス・レベンゾン、ジョナサン・ルーカス
音楽:ダニー・エルフマン
声の出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン
       トレイシー・ウルマン、ポール・ホワイトハウス、アルバート・フィニー
       ジョアンナ・ラムレイ、リチャード・E・グラント、クリストファー・リー
       マイケル・ガフ、ジェーン・ホロックス、ディープ・ロイ、ダニー・エルフマン

  今回は引用からはじめよう。

  ローズ・アシュトンにも誕生間もなく死んだ妹がいた。出生届も出されず、墓標にも名を記されずに終わった多くの赤ん坊の一人だ。一九〇四年、母の寝室に呼ばれたローズは、生まれたばかりの妹が枕の上で「ちっちゃな人形のように、きれいな顔で」死んでいるのを見た。母はローズに、雑貨屋へいって石鹸の箱をもらっておいで、その中に赤ん坊を入れて墓掘り人のところへ持っていって埋葬しておもらい、と言った。小さな妹のために何かしてやりたかったローズは、父親のコートの裏地を引きちぎって石鹸の箱に敷きつめた。きれいに見えるようにしてから、ようやくローズは妹の亡骸を入れたこの間に合わせの柩を持って墓koinobori_2w 地へ向かった。墓掘り人は小さな箱をしっかりと抱えたローズを見て、驚いた様子もなく、教会のそばに積み上げられた同じような箱や包みを指さした。ローズはわけがわからず、小さな赤ちゃんたちをどこに埋めるの、とたずねた。そのとき墓掘り人が言った言葉をローズはいまだに忘れない。「『いいかね、嬢ちゃん。今どきお墓を買う余裕のある人なんかいないんだ。公共墓地はいっぱいだし、埋める準備ができるまでああして置いておくしかない。一人ひとりの墓なんてもてないから、足の下とか頭の上に埋めるっきゃないんだ』。これを聞いて私はこの小さな人形のことを思い、胸が張り裂けそうになりながら家に帰りました。」

  これはディケンズからの引用ではない。アンジェラ・ホールズワース著『人形の家を出た女たち』(新宿書房、pp.189~190)からの引用である。イプセンの有名な戯曲『人形の家』(1879)のヒロインであるノラが「人形の家」を出た後どうなったか、20世紀に生きる実際の女性たちにインタビューを重ね、20世紀のノラたちは本当に「開放され」「自由に」なったのかを丹念に描き出した労作である。上の引用文に漂う悲しい沈痛な思いはまるで小説の一節のように読むものの心を捉え、何年たっても忘れがたい記憶として心に刻まれる。死人がまるで生ゴミのように軽く扱われる世界が20世紀に入ってもまだ実際に存在していたのである。小さな妹が死んでもまともな棺桶さえ作ってやれないほどの貧困。石鹸の箱にせめてもの思いで父親のコートの裏地を敷き詰めてあげる姉の思いやり(死んだ小さな妹を「人形」にたとえるのは示唆的である)。それを無造作に取り扱う墓掘り人。死が日常的な世界、これはディケンズの小説からの引用だと言われても誰もすぐには疑わないだろう。

  ティム・バートンの「コープス・ブライド」は19世紀のイギリス、ディケンズが活躍したヴィクトリア時代のイギリスを舞台にしている(元になったのはロシアの民話である)。隣り合う生者の世界と死者の世界。グレイのモノトーンで統一された生者の世界はまさにディケンズのイギリスである。グロテスクなほどディフォルメされたキャラクターたちは、まさにディケンズの登場人物たちの特徴と重なり合う。それぞれのキャラクターは特定の特徴が極限まで誇張され、一貫してその特徴に沿った行動をする。外見的特長がその人物の性格や言動と一致している。その視覚的イメージはディケンズの小説の挿絵(Oxford University Press発行のディケンズ全集に収められたイラストはそれだけでも眺めてみる価値がある)やイラスト付き諷刺誌『パンチ』のイラストを思わせる。

  それだけではない。ストーリー展開もどこかシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を思わせるところがある。対立する二つの世界、それぞれの世界に住む男女が出会い、生の世界に属する男がいっそのこと自分も死んで死の世界の女と一緒の世界に行ってしまおうと決意する。男には生の世界にも婚約者がいるところはシェイクスピアと違うが、どこか共通するものを感じる。登場人物もいかにもイギリス的。娘の結婚によって財産を狙う没宅貴族と息子の結婚で貴族との姻戚関係を持ちたいなり上がりの魚缶詰業者。実際によくあったことで、イギリス小説にもよく出てくるシチュエーションである。当時は妻や娘などは一家の当主の財産の一つのように思われていた時代である。互いの親の目論見で決められた縁組、結婚する当事者たちは結婚の直前まで会ったことすらなかった。欲望渦巻く中でこの二人(ヴィクターとヴィクトリア)だけが無垢な存在として描かれる。そこに結婚式に呼ばれたと称してちゃっかりもぐりこむ悪党バーキス卿。地上の世界は欲の皮の突っ張った人間が多数派である。

  しかし死者の世界は一転してジャズが響き渡る色彩鮮やかなアメリカ的世界である。そこが酒場だというのがいかにもアメリカ的。イギリスのパブと違って、こちらはミスター・ボージャングルをもじったボーンジャングルズを始め、骸骨たちがジャズに合わせて歌い踊るカラフルで活気にあふれたアメリカ式キャバレーの世界。欲望渦巻く暗鬱な生者の世界と浮世の憂さを一切持たない愉快で明るく陽気な死者の世界、逆転したこの対比が効果的だ。生きている間は貧困や病気に苦しめられていたものもこちらの世界ではすっかり陽気になっている。その例がヴァン・ドート家の御者を務めていたメイヒュー。たびたび激しい咳をして奥様にしかられていたが、ついに馬車の運転中に殉職、あの世に行ってしまう。しかし新入りとして死者の世界にやってきた彼は生前の悩みがなくなりほっとした表情を浮かべている。死者の世界とはまるで極楽である。上で引用したかわいそうな赤ん坊も、あちら側の世界に行ってガイコツ・ボーイやガイコツ・ガールたちと楽しそうに遊んでいるのではないかと考えると少しは慰められる。この映画にはそういう効果もあるのかもしれない。ラスト近くで死者たちが一斉に地上に出てきて、現世の当主をご先祖様が叱りつけるというギャグも出てくる。

  余談だが、メイヒューという名前は、ロンドンの街頭商人の中に入ってインタビューと観察を行い、分厚い記録を出版したジャーナリストのヘンリー・メイヒューを意識しているかもしれない(原書房から『ヴィクトリア時代ロンドン 路地裏の生活誌』として翻訳が出ている)。ヒロインのヴィクトリアという名前もヴィクトリア時代と引っ掛けてあるのかもしれない。また、だまされた花嫁コープス・ブライドはディケンズの『大いなる遺産』に出てくるミス・ハヴィシャムを思わせる。ヴィクターがエバーグロットの奥様の服にろうそくを落として火がつくというエピソードは、明らかにミス・ハヴィシャムのエピソードを意識している。もっとも、すっかり婆さんになっているミス・ハヴィシャムに対して、コープス・ブライドは死人だから(「コープス」は「死体」という意味)若さと美貌を保っているが。 しかし死せる花嫁コープス・ブライドはミス・ハヴィシャム同様満たされぬ気持ちを持ち続けていた。だがミス・ハヴィシャムのように男に復讐を企ててはいない。エミリー(コープス・ブライドの本名)には心残りはあるが怨念はない。恨みではなく、愛する人にめぐり合えない悲しみがあった。だから彼女の言動に感動するのである。何とか彼女の思いを遂げさせてあげたいと応援したくなるのである。

  死者たちの世界は幽界でも冥界でもない、死者たちは亡者でも幽霊でもない。苦しみも憂さもみな現世においてきて、今はただ人生ならぬ「骨生」を謳歌している。エミリーだってやっと探していた夫を見つけた今は他の死者たちと同じように楽しめる。それまでは地上に思いを残し、地上と地下の世界の間で成仏しきれずにひたすら夫となる人を待っていたのだろう。

  なぜエミリーが死んだのかを歌と音楽で表すところがうまい。とにかく音楽にあふれたこの世界の描き方が魅力的だ。死者の世界にはどうやら金持ちはいない。「死んでしまえばみな同じ」ということよりも、そもそも生きているとき金持ちだったり貴族だったりしたものは別のところに送り込まれてしまった感じ。地上よりもっと暗く陰惨な地獄にでも行ったのではないか。そこでは暗い死者のうめきのような音楽と不気味な死の舞踏がゆら~りゆら~りと演じられているのかもしれない。それはともかく、楽しい死者の世界には海賊や軍人はいても金持ちはいない、庶民ばかりの世界。

  とにかくそのキャラクターがいい。みんな骸骨なのだがグロテスクさはほとんどない。むしろ土産物屋に並んでいる「骨グッズ」や「「お化けグッズ」といった感じのかわいらしさが売り。実にキュートだ。人間が演じ、原作に縛られている「チャーリーとチョコレート工場」よりはるかに豊かなイマジネーションにあふれている。これぞティム・バートンの世界だ。キャラクターの造形は「ナイトメア」同様芸術の域に達している。異形なものに偏愛を示すのは何halloween-cut もティム・バートンばかりではない。骸骨におぞましさではなくキュートさをあたえるのはアニメや漫画の世界では良くあることである。たとえば、日本の漫画で言えば、ますむらひろしの『アンダルシア姫』シリーズの象子(ゾッコ)や『夢降るラビット・タウン』シリーズの骨平太(こっぺーた)。生意気だがどこかかわいらしい骨男。骸骨以外なら、妖怪たちに魅せられた水木しげるは言うまでもなく、手塚治虫の『火の鳥』シリーズや『どろろ』にも異形のものはたくさん出てくる。さらに異形のものにかわいらしさを感じさせるのは諸星大二郎の「栞と紙魚子」シリーズ。キトラさんなんかはティム・バートンの作品に特別出演させたいくらいだ。

  「コープス・ブライド」も負けてはいない。自分の体を楽器にしてしまう骸骨ミュージシャンたち、文字通り頭だけの給仕頭(head waiter)、コープス・ブライドの目から飛び出してくるマゴット(「うじ虫」という意味)。マゴットなんかは鬼太郎の目玉親父さながらだ。ヴィクターが今は骨だけになったかつての愛犬スクラップスに懐かしい芸をさせる場面で、「死んだふり」(faint dead)と言っても既に死んでいるのでスクラップスがきょとんとして動かないというギャグが可笑しかった。

  これらのキャラクターはかわいらしさが強調されるが、コープス・ブライドのエミリーにいたっては彼女のいじらしさと悲しみに共感すらしてしまう。エミリーが青白いほほに涙を流す場面は感動せずにいられない。死者の流す涙、その時われわれは人形が人間以上にわれわれの感情を揺さぶるという体験をするのだ。人形が人間の俳優以上に観る者の胸に迫ってくる。奇跡の瞬間である。ここには「演技」を超えた人間的な共感が生まれている。ある種の擬人化の力である。人間の心を持ったロボットの行動が感動を与える手塚治虫の世界に通じるものがある。仲間のロボットの「死」に抗議して他のロボットたちが集団自殺するストーリーには深く心を揺さぶられたものだ。

  エミリーとヴィクトリアとヴィクターの三角関係という絡みもうまく描けている。誰もが指摘する事だが、エミリーとヴィクトリアがそれぞれ魅力的で、普通の三角関係と違って二人とも幸せになってほしいと観る側に思わせるところにこの作品の魅力がある。金持ちのお坊ちゃんで頼りなげなヴィクターをはさんで、悲しきヒロインとして最後まで観客の共感を得てしまうエミリーと、けなげで芯が強くそしてとにかく可愛いヴィクトリアがそれぞれに真剣に、何の打算もなくヴィクターを求めるという描き方が秀逸だ。エミリーをもっと屈折したキャラクターにして、3人の絡みをもっとひねりたくなるところだが、終始後味の良いファンタジーとして美しく描いたことがこの作品の好感度を格段に高めていることは否定できない。物足りないと感じる人もいるだろうが、僕はアニメにはファンタジーが一番似合うと思う。これでいい。「チャーリーとチョコレート工場」よりずっといい出来だ。

  3人の絡みを描く際にピアノがうまく使われている。ヴィクターとヴィクトリアが出会ったのもピアノがきっかけだった。そしてなんといっても素晴らしいのが、ビクターとエミリーがピアノの連弾をするシーン。たとえようもなく美しい。言葉ではなく音楽を通じて、ともに同じ曲を弾くという行為を通じて互いの心を通じ合わせてしまう。素晴らしい場面があふれるこの作品の中で最も心を奪われる最高のシーンだった。エミリーを最後まで悲劇のヒロインとして描きとおしたこと、朽ち果てた肉体、骨だけの手というグロテスクな外面にもかかわらず彼女を美しいと感じさせてしまう人形の造形力と演出力。彼女の表情は実に豊かで雄弁だ。最後の決着のつけ方、エミリーの体が何百もの蝶となって飛んでゆくラストにもうならされた。

  ティム・バートンをB級監督だという人がまだいる。何かマニアックな感じがあるからだろうが、世界一の漫画・アニメ大国日本で「ナイトメア」や「コープス・ブライド」をマニアックだと感じること自体が信じられない。いやマニアック云々よりも、あれだけ宮崎駿が活躍していても、いまだにアニメを子供の観るものだと思っている人が多いという事こそが問題だ。もうそろそろ認識を変えようじゃないか。

  「コープス・ブライド」は「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」に匹敵する出来だと思った。「チャーリーとチョコレート工場」のレビューにティム・バートン作品のマイ・ランキングを載せたが、順位が変わったので改めてここに載せることにする。ついでにお勧めアニメも付けておきます。

1 ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(製作・原案)
  コープス・ブライド(監督・製作)  
2 ビッグ・フィッシュ  
3 シザーハンズ  
4 チャーリーとチョコレート工場  
5 マーズ・アタック  
6 スリーピー・ホロウ  
7 プラネット・オブ・ザ・エイプス  
8 エド・ウッド

【お勧めアニメ】
「アイアン・ジャイアント」(1999年、ブラッド・バード監督)
「ウォレスとグルミット」シリーズ(ニック・パーク監督)
「風の谷のナウシカ」(1984年、宮崎駿監督)
「キリクと魔女」(2002年、ミッシェル・オスロ監督)
「銀河鉄道の夜」(1985年、杉井ギサブロー監督)
「シュレック」(2001年、アンドリュー・アダムソン監督)
「チキンラン」(2000年、ニック・パーク監督)
「天空の城ラピュタ」(1986年、宮崎駿監督)
「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」(1993年、ヘンリー・セレック監督)
「ニモ」(1989年、ウィリアム・T・ハーツ監督)
「ベルヴィル・ランデブー」(2002年 シルヴァン・ショメ監督)
「火垂るの墓」(1988年、高畑勲監督)
「真夏の夜の夢」(1954年、イジー・トルンカ監督)
「未来少年コナン」(1978年、宮崎駿監督)
「モンスターズ・インク」(2001年、ピート・ドクター監督)
「やぶにらみの暴君」(1952年、ポール・グリモウ監督)

  ソ連はユーリ・ノルシュテインの「霧につつまれたハリネズミ」(1975年)や「話の話」(1979年)、ロマン・カチャーノフの「チェブラーシカ」など有名な作品をたくさん作っている。ただ僕はもう一ついいとは思わない。名作といわれるイワン・イワノフ・ワノー監督の「せむしの仔馬」は未見。有名なフレデリック・バックの「木を植えた男」も淡々としすぎて今ひとつ物足りない。ディズニーは子供のとき以来ほとんど観ていない。今のところ「ファンタジア」(1940年)が一番好きだ。

  日本の人形アニメでは「道成寺」などで有名な川本喜八郎がいる。残念ながらまだ彼の作品を見たことがない。今岩波ホールで彼の「死者の書」を上映しているようだが、何とか時間を作って観に行きたいものだ。

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2006年3月14日 (火)

マラソン

fan-2 2005年 韓国
監督:チョン・ユンチョル
脚本:ユン・ジノ、ソン・イェジン、チョン・ユンチョル
撮影:クォン・ヒョクジュン
照明:イ・ジェヒョク/ナム・インジュ
編集:ハム・ソンウォン
美術:イ・グナ
エグゼクティヴ・プロデューサー:キム・ウテク
アソシエイト・プロデューサー:チョン・テソン
プロデューサー:ソク・ミョンボ
出演:チョ・スンウ、キム・ミスク、イ・ギヨン、ペク・ソンヒョン、アン・ネサン
   チョ・ヨングァン

  不思議なことに「マラソン」は『キネマ旬報』の2005年ベストテンでは1点も入らず、選外になった。傑作というほどではないが、決して悪い出来ではない。かなり評判にもなった作品なので、151位までにすら入らなかったのはなんとも解せない。案外投票した人たち自身もそう思っているかもしれない。韓国映画があまりに多く入ってくるようになったので、かえってどれを観ていいのか分からなくなった、あるいは、あまりに感動作という評判が立ちすぎて、むしろ避けて通る人が多かった、そういうことなのかも知れない。感動物はもうたくさん、正直そういう雰囲気はあったと思う。僕自身それほど期待してみたわけではない。評判だったので一応観ておこうという気持ちで借りてきた。

  大量に入ってきている韓国映画にはかなりお涙頂戴物が多いと思われるが、この映画は心配したほど泣かせようという演出ではない。チョ・スンウが演じた自閉症の障害をもったチョウォンは決して同情の対象として描かれてはいない。だがいかんせんストーリーが弱い。最後にマラソンを走りきるのだろうということはタイトルから推測できる。最後までほぼ予想したとおりにストーリーは展開する。最初から結末が見えている映画である。そういう意味では傑作と呼べる映画ではない。しかし韓国映画に数多くある「難病物」に比べると(自閉症は病気ではなく障害であるが)良くできた映画だと思う。

  難病物は難病を患った本人がけなげに振舞ったり、果たせなかった夢を涙ながらに語ったりして泣かせようとする演出になりがちである。その点この映画の場合主人公が自閉症だからはっきりと自分の感情を表現できない。したがって母親との精神的葛藤も描かれない。映画はむしろ年齢は20歳でも5歳児並みの知能しかないチョウォンの振る舞いと、彼に愛情のすべてを注ぎ込む母親のキョンスク(キム・ミスク)が何とか彼を一人前のランナーとして育てようと強い意志で努力する姿を客観的に描いている。二人から一定の距離を置き、感情を排して客観的に描いたことがこの作品をお涙頂戴物にすることを防いでいる。

  障害者本人ではなく障害者を持った家族に焦点を当てると、今度はどうしても苦労話になりがちである。もちろん大変な苦労であったに違いない。実際に自分で経験しなければその苦労は分かるなどと軽々しく言えない。キョンスクは夫(アン・ネサン)やチョウォンの弟であるチュンウォン(ペク・ソンヒョン)をあえて犠牲にしてでもチョウォン一人に愛情を注ぎ込んだ。一つのことを覚えさせるのにしつこいほど何度も何度も同じ事を繰り返し教えなければならない。映画では簡単に時間を飛ばすことができるが、その間も日々同じことが繰り返されていたのである。しかし「マラソン」はこれを単なる苦労話の映画にしなかった。それは母親を客観的に淡々と描いているからであり、彼女自身が自分の内面をほとんど見せなかったからであるが、それ以上に彼女の内的葛藤に焦点を当てていたからである。

  「マラソン」はチョウォンと同じくらい母親のキョンスクに比重をかけ、その苦悩と葛藤を描いている。だがその苦悩を映画の後半まで彼女に語らせなかった。この構成がうまい。映画の前半と後半ではこの母親に対する観客の認識は変わってしまう。前半はどんな差別にも負けずに一途に息子のために努力する彼女に共感する。シマウマが大好きなチョウォンが若い女が持っているシマウマのバッグに触ってしまい、警察に引っ張られる。その女に「そんな子ほったらかしにしないで、家に閉じ込めといてよ」と罵倒される。いったんは警察署を出たキョンスクはまた引き返し、その女にきっぱりと言い返した。息子は普通の子と変わらないという彼女の信念が世間の冷たい目にひるまない強い意志を彼女の中に作り上げていたのである。

  だから「息子より一日だけ長く生きることが願い」という彼女の言葉や、走る時だけは他の人々と違わないのだからそのマラソンの才能を伸ばしてやろうとする彼女の姿勢に共感するのである。「チョウォンの足は100万ドルの足!」と何度も言い聞かせる。だが、彼女の描き方で一番見事なのは決して彼女を美化しなかったことだ。一つは強い母の内面に苦悩と葛藤があったことを描いたことである。何とか本格的なマラソンの訓練を受けさせようと、キョンスクはボストンマラソンで優勝した経験を持つソン・チョンウク(イ・ギヨン)にコーチを頼む。しかし汚い言葉やつばを吐いたりするのを覚えてきたり、酒を飲まされたりするのですぐ息子をコーチから引き離してしまう。その時にコーチから「息子にマラソンをさせているのは、あんたのただのエゴだ」、「あいつが母親なしで生きられないんじゃない。あんたが息子なしで生きられないんだ」と言われてしまう。キョンスクは「短い期間に何がわかるの?」と言い返すが、コーチに言われた言葉は彼女の頭から消えなかった。彼女は「子供の気持ちは顔を見れば分かる」と思っていたが、本当にそうなのか。そういう疑問が彼女の中に沸いてくる。チョウォンは本当に走ることが好きなのか、彼女の中で初めて自信が揺らぎ出す。ついに彼女は胃潰瘍で倒れる。

  病床へ見舞いに来た夫に彼女が語った言葉は感動的である。「好きなことを見つけてあげたかった。でも気づいたら私が夢中になっていた。夢見たり、癒されたりしてたわ。何も知らない子どもに苦労させて。でも途中で止めることはできなかった。生きがいを失う気がして。」そしてチョウォンが子どものとき動物園で迷子になったときのことを覚えていたと夫に打ち明ける。実はそのとき彼女はチョウォンの世話に疲れて、握っていた手を離してしまったのである。「本当はあの時チョウォンを捨てたのよ。どうしても育てる自信がなかったの。・・・あの子はまた捨てられると思って“つらい”と言わずに生きてきたのかも。」

  キョンスクはつらい気持ちを夫に打ち明けることで心の重荷を下ろす。彼女は反省し、もうチョウォンを無理やり走らせるのをやめようと決心する。この彼女の葛藤と反省は心からのものだ。だからこそ感動的なのである。だが、それでも彼女にはまだ変わっていない面があった。それはマラソン大会の日に表れる。マラソンを禁じられたチョウォンは大会の日一人でバスに乗って会場に行ってしまう。後から心配して駆けつけてきたキョンスクが言った言葉は、「そんなに走りたかったのね。じゃあ思い切って走ってきなさい」ではなかった。彼 green_hill 女は無理やりチョウォンの腕を押さえて走らせまいとするのである。彼女の反省は本物だったが、それでもチョウォンの行動は自分が決めるという考えにまだ縛られていたのだ。走らせるのも、止めるのも、決めるのは彼女。長いこと波打ち際で砂の城を築くように同じ事を何度も何度も最初からやり直してきた彼女は、息子には自分で判断する力がないという認識を無意識のうちに持っていたのである。自覚的な意識のさらに奥底にある無意識の思い込み。映画はそこまで描いていた。傑作とはいえないものの、並の「感動作」などよりもこの映画が優れているのは、深く矛盾を抱えたキョンスクの意識を美化することなく丹念に描いていたからである。

  子育てで悩んだことのない女性などいない。ましてや障害を持った子を育てる親の意識に迷いや矛盾がないはずはない。子供のためと思いつつ、それでよかったのかと迷わない日はないだろう。キョンスクはその迷いを、チョウォンを一流のランナーにすることこそこの子の幸せと思い込むことで押さえつけてきたのだ。手を離してしまった自分への深い反省を込めて。しかしそうすることでいつの間にか彼女は息子から離れられなくなっていたのである。周りが見えなくなっていた。彼女はコーチのチョンウクの言葉で我に返り、「あんたはいつも兄貴ばかり。俺の気持ちを考えたことがあるのか」という次男の言葉で長男べったりだった自分に気づき、チョウォンの行動で自分の中の無意識の思い込みに気づかされたのである。そうは言っても、彼女の浅はかさを批判的に描いているというのではない。もう二度と手を離すまいという彼女の強い決意もわれわれは十分理解できる。だからこそ、あれは自分のエゴだったのかという彼女の苦悩の深さが観るものの胸に響くのである。

  マラソン大会の時、キョンスクは握った子どもの手を再び離した。今度こそ迷いなく。チョウォンは彼女の手から飛び立っていった。走っている時のチョウォンの表情が素晴らしい。母親の手は離したが、走りながら彼は沿道の人たちの伸ばした手に次々とタッチしてゆく。初めて家族とコーチ以外の人に「触れた」のだ。途中で走れなくなるが、その時すっと彼の前にチョコパイを持った手が伸びてくる。それをつかもうと彼はまた走り出す。まるで馬の前にぶら下げたニンジンみたいで笑えるが、あの手はキョンスクの手だったのだろう(もちろん幻である)。しかし再び走り出したチョウォンはせっかくつかんだそのチョコパイを途中で捨ててしまう。もう誰の助けも要らない。後は自分でシマウマのように走るだけ。そこに彼の成長がうかがえる。

  母親のキョンスクが自分の思い込みによって見えなくなっていたのは、自分の周りのことだけではない。息子の成長に気づかなかった。それを知っていたのはコーチのチョンウクだった。最初のうち、走ってのどが渇いた時にチョウォンは自分一人で水を全部飲んでしまう。コーチが水をくれと言っても見向きもしない。それは自閉症から来るもので悪気はない。しかしある時、走り終わった後彼はペットボトルの水を全部飲まずに半分残し、それをコーチに差し出した。スモモもコーチに分けてやるようになる。そこには確かな成長があった。

  食事のときにおならをしたり、弟に敬語を使ったり、音楽が鳴るとところかまわず踊り出したり、シマウマ模様を見ると触らずにいられなかったりしていた「子ども」は、フルマラソンに参加したとき初めて母親の手を離れ解き放たれた。会場に行くバスにも自分ひとりで乗ったのである。しかし彼は走り終わったときまた母親の手に戻る。成長はしたけれども、やはりまだシマウマとチョコパイとジャージャー麺とテレビ番組「動物の王国」が何より好きなチョウォンのままなのである。手はつながなくともまだ一緒に歩かなければならない。

  手は離れていても心がつながっていれば親子の絆は切れたりはしない。これは母と子のそれぞれの成長の物語だった。手を離すこと、それは息子の成長を認めることだった。子どもを守ることは子どもを何から何まで拘束することではない。20年かけてやっとキョンスクはそういう認識に達した。あまりにも過酷な20年間。チョウォンは少し成長したが、キョンスクを必要としなくなったわけではない。彼女の長いたゆまざる苦労があったからこそチョウォンは飛びたてたのである。完走した後チョウォンがカメラの前で見せたあのさわやかな笑顔は、キョンスクが何度も「スマイル」と教えたからこそあの場面で自然に出たのだ。

  チョウォンを演じたチョ・スンウ、キョンスク役のキム・ミスク、ともに見事だった。自閉症の障害をもったチョウォンを演じたチョ・スンウの演技は、「オアシス」で重度の脳性麻痺を患った女性を演じたムン・ソリのような見た目に派手な演技ではない。しかしちょっとした目の動きや体の動作で言葉にならない様々な「意思」を伝えていた。「春香伝」は観ていないが、「ラブストーリー」でさわやかな青年を演じ、「H」では一転してレクター博士を連想させる服役中の殺人鬼を演じていた。「マラソン」で彼の演技の幅はさらに広まった。中年四天王や「ペパーミント・キャンディー」、「オアシス」、「シルミド」のソル・ギョングなど、韓国には素晴らしい俳優がたくさんいる。チョ・スンウも彼らに匹敵するいい役者になるだろう。

  キム・ミスクは22年ぶりの映画出演だそうである。テレビドラマで日本でも知られているようだが、僕は韓国のドラマは一切観ていないのでこの映画ではじめて知った。若さと美貌を売り物にする女優ではない。しっかりとした存在感があって、彼女も素晴らしい。

  そして監督のチョン・ユンチョル。彼もまた本作が長編デビュー作とのこと。もう何度も言ってきたが、新人監督が次々に現れるところに韓国映画の勢いが表れている。陸続と出てくる新人監督の誰に対しても次回作を期待したくなる。こんな国は現在韓国以外に考えられない。

  「チョウォン」という名前はハングル語で「草原」という意味だとあるブログで紹介されていた。なるほどぴったりの名前である。チョウォンと草原とシマウマ。彼は今もどこかの草原を駆けているのだろうか。

2006年3月12日 (日)

久々にコレクターの血が騒いだ

021859    最近中古品はもっぱらアマゾンで注文している。上田あたりでは見かけることすらないものでも、ネットなら根気よく探せば結構安く手に入る。自分で「ラウンド」と称している中古店めぐりは今でも続けているが、いいものはめったに手に入らない。ネットで買うより地元の店で買うほうが送料がかからない分安上がりなのだが、地元には何せいいのがあまりない。それでもびっくりするような物が手に入るときがたまにある。中古店が新規に開店した時だ。客を引き付けるためだろう、結構掘り出し物が見つかる。「ゲオ」の上田店と小諸店が開店したときも大漁だった。しかし今日ほどの大漁はこれまで経験したことがない。

  僕が古本屋めぐりを始めたのは70年代初め、東京中の中古レコード店めぐりを始めたのは80年代初め。以来今日まで本、CD、DVDは基本的に中古で買ってきた(車も中古車以外は買ったことがない)。もう30年以上のキャリアだが、1日で3万円以上一つの店で買ったことはない。今日はじめてそれをやった。手持ちの金が足りなくて一度出直したほどである。「ブック・オフ」の上田中央店に初めて行ったのである。まだ開店してそれほどたっていないと思われる。前に一度見かけたことがあるが、それきり忘れていた。今日たまたま新聞の折り込みチラシを見て思い出したのである。今ならまだいいのが残っているだろうと思って多少の期待はしていたのだが、まさかこれほどとは。完全にコレクター魂に火がついて買いまくってしまった。DVD5枚、CD14枚、本2冊。締めて34050円也。もう財布はすっからかん。明日銀行で金を下ろさねば。

  中古店に入ったら端から端まで、CDならAからZまでなめるように見て行く。欲しいCDはメモ用紙に数千枚びっしりリストアップしてある。棚の前でめぼしいのを見つけたら、すでに持っているかどうかメモを見て確かめる。これを怠ると同じものを買って泣くことになる(買ったものは線を引いて消すのだが、これも忘れるとやばいことになる)。分厚いメモを手にしてDVDとCDの棚を端から端まで見ている客がいたら、それは僕です。

  今日の成果は以下のとおり。中古店では珍しくジャズが結構たくさん置いてあった。しかし、ケルト・ミュージック系がほとんどなかったのは残念。

[DVD]
「偉大なるアンバーソン家の人々」オーソン・ウェルズ監督
「大きな鳥と小さな鳥」ピエル・パオロ・パゾリーニ監督
「上海特急」ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
「嘆きの天使」ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
「巴里の女性」チャールズ・チャップリン監督

[CD/ロック・ソウル・ブルース etc.]
アーニー・ディフランコ「エデュケイテッド・ゲス」
アンジェラ・ジョンソン「ゴット・トゥー・レット・イット・ゴー」
エルヴィス・プレスリー「30ナンバー・ワン・ヒッツ」
ケリー・ジョー・フェルプス「スリングショット・プロフェッショナルズ」
PPM「レモン・トゥリー&アザー・グレイト・ソングズ」
フランツ・ファーディナンド「ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター」
マディ・ウォーターズ「ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ」
ミッシー・エリオット「アンダー・コンストラクション」

[CD/ジャズ]
アーチー・シェップ「デジャ・ヴー」
アート・ブレイキー「カフェ・ボヘミアのジャズ・メッセンジャーズvol.1」
オスカー・ピーターソン「ガール・トーク」
ブルーベック/デズモンド「ザ・デイヴ・ブルーベック・カルテット」
ボビー・ハッチャーソン「ハプニングス」
マッコイ・タイナー「インセプション」

[本]
エリザベス・ギャスケル『メアリー・バートン』(近代文芸社)
藤沢周平『蝉しぐれ』(文春文庫)

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