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2006年3月5日 - 2006年3月11日

2006年3月11日 (土)

復讐者に憐れみを

cut_b-mgear04 2002年 韓国
監督:パク・チャヌク
製作:イ・ジェスン
脚本:イ・ジョンヨン、イ・ジェスン、パク・リダメ
撮影:キム・ビョンイル
音楽:オオブ・プロジェクト
美術:チェ・ジョンファ、オ・ジェウォン
照明:パク・ヒョヌォン
出演:ソン・ガンホ、シン・ハギュン、ペ・ドゥナ
    リュ・スンボム、イム・ジウン、 ハン・ボベ
    キ・ジュボン、イ・デヨン、キム・セドン
    イ・ユンミ、 オ・グァンノク、キム・イク、チ・デハン、ホ・ジョンス

  「復讐者に憐れみを」は「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」と続く「復讐三部作」の第1作目。他の2作はまだ観ていない。まったく期待していないし、ただ批判するためだけに観ることになりそうだからさっぱり気が進まない。しかし、特に「オールド・ボーイ」は話題になり、評価も高いだけに観ておかねばならない。とはいえ、ほとんど義務感で観なければならないのはつらい(僕の嫌いなタイプの映画である可能性が9割以上という予測だから)。

  ぼやきはさておき、この作品を論じるときにリアリズムとリアルと言う言葉から入るのが良いだろう。なぜならリアルとリアリズムの混同が多く見られるからだ。リアルというのは「いかにもそれらしく見える」という意味で使われる。これはそれでいい。しかし多くの人が「復讐者に憐れみを」をリアリズムの作品と言うときは、どうやらその残酷描写がリアルで、「生身に応えるような痛さ」であるとか、「実感を伴う痛み」が生々しく直に伝わってくるという意味で使っているようだ。文学理論などで使う本来のリアリズムの意味とはだいぶ違うので最初は戸惑った。

  別にリアリズムの定義をここでしたいわけではないので、そういう意味で使われているのだろうと確認できればそれでいい。言いたいのは、多くの人がこの作品の特徴として、そしてこの作品を高く評価する理由としてそのリアルな「痛さ」を挙げていることである。最も端的なのはあちこちで見かける「痛い」映画という表現。後はそのヴァリエーション。力強い映像、強烈かつ濃厚、半端じゃない、インパクトがある、アクの強さ、強烈な映画、等々。そしてそれを体現した俳優たちの鬼気迫る熱演を一様にほめる。

  確かにソン・ガンホをはじめ、主要な俳優の演技はまことに見事である。そしてこの映画が「痛い」映画だというのもそのとおりである。だがそれだけではこの映画が優れた作品だということを意味しない。単なる「見世物」に過ぎないことをあらわしているだけかも知れない。要するに真の「リアリズム」映画だとほめるのは、単にここまでやるからすごいと言っているだけではないのか。だから耐え難い残酷さに満ちていると言いつつ褒めるのである。そこが実に面白い。この映画をホラー映画だと言う人もいるが、確かにそれに近いものがある。刺激が強烈であればあるほど、ぞっとすればするほどいい映画と言えるジャンル、インパクトの強弱が評価の指標になる珍しいジャンルである。しかも復讐をテーマとしているので、常識的な倫理観をはなから逸脱している。そこに何かただならぬ潔さ、凡百の映画を越える強烈なインパクトを感じているのだ。観る側に明確な価値観がないとホラー映画同様単にインパクトの強弱で価値を計ってしまいかねない。だがそれで価値が計れるなら本物の殺人を映したスナッフ・ビデオはそれこそ傑作に数えられることになる(本当に存在するのかどうか分からんが)。

  かくして、まるでお化け屋敷かジェットコースターのように、怖いもの見たさ、刺激の強さを求めて観客はこの映画を見に行くことになる。実際多くのブログがこの「生々しさ」は一度体験したほうが良いと勧めている。たしかにその「生々しさ」は半端じゃない。パク・チャヌク監督は「ハリウッドのスプラッター映画に比べれば全然残酷じゃないです」と言ったそうだが、この認識は間違っている。スプラッターなどは子供だましに過ぎない。それ以上にこの映画の残酷場面が生々しいのは復讐劇だからである。ただ派手に殺せば良いというスプラッターと違い、恨みと怒りがこもっているから憎しみを込めて何度も殴ったり、体を切り刻んだりする。スプラッターは首や腕が飛んだり、血がほとばしったりするが、相手を殺してしまえばそれきりのことである。あるいはギャング映画の殺し屋なら一発で息の根を止めたほうが効率的で、見つかる可能性も少ないので一連の動作がスマートである。しかし、こちらはこれでもかこれでもかと、とことん憎しみを相手の体にぶつける。相手が死んだ後も殴り続け、体を痛めつける。だから「痛い」のだ。映像テクニックもはるかに優れているから、見せ方もうまい。

  果てはエスカレートして不必要で不自然な場面まで入れ込んでいる。その典型が娘の司法解剖にドンジン(ソン・ガンホ)が立ち会う場面(韓国では司法解剖に肉親が立ち会えるのか?)とその娘がおぼれる場面。司法解剖の場面はストーリー展開と何の関係もなく、ただ体を切り刻む映像を映したかっただけである。娘が溺れるのも実に不自然で、ましてやその死体が仰向けでもうつ伏せでもなく横になって水に浮かび、顔の左半分が水面から出ているなんてことはありえない。単にそのぞっとする映像(しかも目を開けている)が撮りたかっただけである。このあたりはまさにホラー映画である。石の下から朽ち果てたリュ(シン・ハギュン)の姉の顔が出てくる場面も何の必然性もない。土に埋めなかったのは発見されることを前提にしているからである。ただ気持ち悪い映像を映したかっただけだ。

  こういった無理やり入れ込んだ映像もあるが、復讐場面が「痛いほど生々しい」という意味でリアルだという指摘は確かにそのとおりである。だが僕はこの映画を評価しない。この映画は単に刺激の強さで売っているだけの中身のない映画だと思う。その意味でもホラー映画という指摘を否定する気はない。僕がこの映画を観て最初に感じたのは、キム・ギドクと似た作風だということである。どちらも美麗な映像と情念の激烈さで不条理なテーマを描く作風である。見るものはそれに圧倒され、なんとなくすごい映画ではないかと思い込んでしまう。何か「深い」ものがそこにあるのではないかと勘違いしてしまう。

  「復讐者に憐れみを」のような作品が生まれてくるのには韓国人の国民性も関与している気がする。感情を隠したがる日本人に比べて、韓国人は大げさとも思えるほど感情をあらわに表現する。肉親に対する親近感も日本人よりずっと強い。日本では「ボラザーフッド」のような映画はまず生まれない。あそこまで入れ込む人間はからかいの対象か煙たがられる対象にしかならない。しかし韓国人はあそこまでやるのだから、それだけ兄弟を愛していたのだと考えるのだろう。

  それはともかく、この映画に完成度が高いという評価を与える人は結構多い。完成度と言うからには単に「生々しさ」だけを評価しているわけではないだろう。まるで叙情詩のような美しい自然が映し出されていることを評価する人も多い。臓器密売業者に会うため、廃墟になったビルの階段を登ってゆくリュたちを逆光で撮る場面などは確かに映像テクニックとして見事である。しかしそれだけでは傑作とするには足りない。ではテーマとしてはgolddrop1 どう評価されたのか。運命や無情な世の中に翻弄される無力な存在である人間、誰も悪人はいないのにもかかわらず、ちょっとした運命のいたずらで歯車が狂い出し、人間の心の奥底に秘めていた激しい怒りと憎しみの感情が噴出して、復讐という終わりのない悲劇の連鎖、不条理な暴力の連鎖が始まって行く。主要登場人物のほとんどは死に絶え、最後にはなにやら人間の哀しみや哀れさ、孤独感、空虚さだけが残る。ここに描かれた人間の負の連鎖には、因果応報という形で現れた、人間の根底にある欲や業が描かれている。とまあこんなことになろうか。最後の「人間の根底にある欲や業」などはまさにキム・ギドクの世界と共通する。当然「欲や業」こそが人間の本質だということになる。

  この種の映画をほめるときの常套句、「運命の皮肉とそれに翻弄される人間の卑小さ」、「不条理」、「人間の本質」、「人間の奥底にある感情(あるいは欲や業)」などが総動員されている。なるほど壮観で、これだけ数がそろっていればきっと傑作に違いない。そんな気になるかもしれない。しかし人間の本質と言われるものは本当に本質なのだろうか。だいたい「本質」という言葉自体が抽象的・観念的である。「人間とはこれこれである」と一言で言ってしまえるほど人間は単純ではない。「本質」という言葉が抽象的・観念的だからこそ「人間の業」などという抽象的・観念的な概念と簡単に結びつくのだ。どうせ抽象的なのだから何だって良いのである。ある時には「人間の本質的残酷さ」だったり、「人間の本源的罪意識」だったり、「人間の心の奥底に潜む黒い情念」だったり、その場に応じていくらでも変えられる。人間の特性を「善」と「悪」に分け、「悪」の側に属する特性をとっかえひっかえ持ち出してくるのが共通の特徴である。なぜか「悪」の特性ほど高く評価される。しかしいくらでも入れ替え可能ならば、それを「本質」と言えるのだろうか。僕がこの映画を真のリアリズム映画だと思わないのは、このように抽象・観念的的な概念に行き着いてしまうからだ。

  この作品にどこか乾いたところがあると何人かが指摘している。それもそのはず、この映画には人間の葛藤が何も描かれていない。映画は無機質な感じで淡々と進む。人間的悩みや葛藤がないから当然そうなる。まるでロボットが主人公であるかのように、ただ行為だけが示される。その行為を実行するのに何のためらいもない。ただ復讐の情念や怒りだけがある。いやその情念や怒りすら内面化してほとんど描かれない。工場の流れ作業のようにただ復讐行為だけが淡々と進行してゆく。だから「乾いた」という印象が生まれる。ハードボイルドだという指摘もそこから出てくるのだろう。まったくの人工の世界、作り物の世界である。

  したがって主人公たちの行動原理にリアリティはない。話は寓話と化す。話の展開の節目節目でパク・チャヌクは「いんちき骰子」を振る。誰が何度ふっても同じ目が出る。駄洒落を言えば「裏目」という目である。何をやっても裏目に出る。その典型が上で指摘した、誘拐された娘が溺れる場面である。あんなわざわざ溺れに行くようなことをするはずがない。遠回りして水のないところを行くか、水に入ったとしても浅いところをたどってゆくはずである。無理やりの展開。だから「いんちき骰子」なのである。運命のいたずらでも、不条理でもない。作者がある集結点に向けてすべてを転がしているだけである。

  観ていてまったく引き込まれることもなく、共感することもなく、何のインパクトも受けることもなく、終始覚めて観ていたのは、ストーリーにそういう意味でのリアリティがないからだろう。どうしてもそっちに持っていきたいのね、そう感じるだけ。リアリティがないから当然インパクトもないわけだ。ボリュームを最大にしてつまらない戦争映画をみているようなもので、うっとうしいだけでインパクトが大きくなりはしない(もっともこの映画の場合、音ではなく映像にインパクトを込めているのでうまいたとえではないが)。

  障害者、貧富の差、リストラ問題、臓器密売組織の存在などの社会問題を随所にちりばめているにもかかわらず、社会性が欠如している。イギリス映画「人生は、時々晴れ」のような生活や人間関係のリアルな描写がないので、多くの人が「救いがない」と指摘しているにもかかわらず、そんな感じはほとんど受けない。「人生は、時々晴れ」の方がリアルな生活が描かれているだけに、どうしてもその生活から抜け出せないという暗澹とした気持ちになるのである。「復讐者に憐れみを」は所詮作り物だから、そんな深刻な感じは何も残らない。社会性がないから個人の行為の強烈さだけが浮き立ち、いたずらにエスカレートしてゆく。同じ「復讐が復讐を生む悲劇的連鎖」を描くのでも、ボスニアやイラクの泥沼のような状況を描くのなら、「暴力は悲しい人間の性」という命題がはるかに現実味を帯びて迫ってくるだろう(それでも政治的、経済的、歴史的説明は可能だから、必ずしも「性」という抽象的・観念的な捉え方をする必要はないと思うが)。個人レベルの復讐を描いたのでは、ただ陰惨なだけの復讐劇で終わってしまう。ただインパクトの強さだけがあって、何の深みもない。

  「JSA」は韓国映画史に残る傑作だったが、「復讐者に憐れみを」は異色作ではあっても優れた作品とはいえない。パク・チャヌク監督は若い頃映画評論家や映画雑誌編集者をしていたようだ。この経歴を見てなんとなく納得がいった。いかにも元映画評論家が作りそうな映画だ。元映画評論家たちが大挙して映画を作ったフランスのヌーヴェルヴァーグ時代はフランス映画のもっとも不幸な時代だった(あの停滞からいまだに完全には立ち直れていない)、僕はそう確信している(もちろん個々には優れた作品もあるが)。しかし映画評論家たちはヌーヴェルヴァーグの映画やキム・ギドクなどの映画をむやみと高く評価するのである。その影響は一般の映画愛好者にも伝染して、「魚と寝る女」のような映画が出るとすごい映画だと褒め上げてしまう。そんなことはない。「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を観て何がいいのか分からなくてお悩みのあなた。悩むことはありません。正しいのはあなたです。この2本は何の価値もないただのクズ映画です。偉い評論家がどう言ったかなんて関係ない。つまらんものはつまらん、はっきりそう言えばいい。

2006年3月 6日 (月)

大いなる休暇

tea-blue 2003年 カナダ
原題:La Grande Seduction
監督:ジャン=フランソワ・プリオ
脚本:ケン・スコット
撮影:アレン・スミス
美術:ノーマン・サラザン
音楽:ジャン=マリー・ブノワ
衣装:ルイーズ・ガニエ
出演:レイモン・ブシャール、デヴィッド・ブータン
    ブノワ・ブリエール、リュシー・ロリエ
   ピエール・コラン、リタ・ラフォンテーヌ、クレモンス・デロシェ

  カナダ製作の愛すべきほのぼのコメディである。このところカナダ映画の活躍はなかなか目覚しい。人口が少ないのでカナダ独自の映画はあまり作れないが、資本参加という形で結構多くの映画を共同制作している。2003年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した「みなさん、さようなら。」はその数少ないカナダ映画の代表作だが、「大いなる休暇」はそれを抑えて2003年にカナダでナンバー1のヒットを記録した作品である。「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、カナダもかなり銃の保有率は高いが銃の絡んだ犯罪は少ないことが紹介されている。今でも家に鍵をかけないところが多い。そんなのんびりした国の映画。しかも舞台は人口がたった125人しかいない小さな島、サントマリ・ラモデルヌ島(架空の島、撮影はケベック州北部にあるハーリントンハーバーという陸の孤島と呼ばれる小さな町で行われた)という設定。

  話はしごく単純。かつて漁業で栄え活気に溢れていた島も漁業がすたれてから次第に活気を失っていった。島民たちはもう8年間もわずかな失業手当に頼って暮らしている。何とか島おこしをしたいこの島に大規模なプラスチック工場誘致の話が持ち上がる。しかし、工場を誘致する条件として島に定住する医者が必要だった。長い間無医島だった島の住民たちはお医者さん獲得のため村を挙げて大作戦を展開する。

  「Dr.コトー診療所」みたいな話だが、ストーリーはむしろイギリス映画の傑作「ウェールズの山」に近い。ウェールズの小さな村にある日イングランド人の測量技師が二人やってくる。地図作成のため山の高さを測量していったのだが、結果は1000フィート(これを越えないと山とみなされない)にわずかに足らず、山ではなく丘だということになった。これを知ったウェールズ人たちは怒り狂う。ローマ占領時代からふるさとを敵から守ってきた郷土の誇りの山を「丘」だとは何事か。イングランド人(アングロサクソン系)に対するウェールズ人(ケルト系、独自のウェールズ語もある)の敵対意識が燃え上がり、ついにはあの手この手で二人のイングランド人を引きとめ、その間に村人総出で山のふもとから土を頂上に運び上げ、何とか「山」にしてしまおうというユーモラスな作品である(原題は「丘に登り山を降りてきたイングランド人」)。最後にはイングランド人も村人と仲良くなり、一人は村の娘(「ブラス!」のタラちゃんです)と結婚することになる。スコットランドよりずっと早くイギリスに併合されたとはいえ、もともとは別の国。映画の最初のせりふは「誰か英語を話せるものはいないか?」で、「ここは外国だ」と言うせりふも出てくる。イングランド人にバカにされてたまるかというウェールズ魂に共感してしまう。「大いなる休暇」に民族意識の要素はないが、寒村と都会の対比、産業もなく寂れた村に住む人々の誇りが描かれており、ストーリー展開も含めよく似ている。

  村人にだまされるのは美容整形を専門とする青年医師クリストファー・ルイス。島に見切りをつけてモントリオールで警官になった元町長が彼をコカイン所持で捕まえ、格好の「犠牲者」として島に送り込んできたのだ。クリストファーはモントリオールで都会生活をしてきたので、島で与えられた家の内装やインテリアを「趣味が悪い」と散々こき下ろしたりする。そんなクリストファーに何とか島を気に入ってもらって定住してもらおうと切羽詰った島民が智恵を振り絞って一芝居打つ。

  イギリス関連で面白いのは、なぜか彼がクリケット好きだということ。舞台になったケベック州はカナダのフランス語圏で、映画のせりふも全部フランス語である。その彼がなぜイギリスの伝統的スポーツであるクリケットを好きになったのか何の説明もない。おそらく英語圏のほうにクリケット好きの知り合いでもいたのだろう。ともかく、このクリケットに絡む話がこっけいだ。クリケットといえばイギリスでは上流のスポーツ。階級社会のイギリスでは、中流はラグビー、庶民はサッカーとスポーツの好みも分かれている。以前何かのレビューに書いたが、クリケットのルールはさっぱり理解できない。一度直接イギリス人に聞いたことがあるが、いくら聞いても理解できなかった。とにかく1試合終わるのに長い場合は1週間もかかるというのだから、金と暇のある金持ちにしかできないスポーツであるのは確かだ。2、3年前にもっと早く試合が終わるようルールを改正する動きが出ているという記事を新聞で読んだことがある。

  それはともかく、カナダ人にもクリケットがどんなものかさっぱり理解できなかったようだ。何とかクリストファーの気を引こうとユニフォームや道具(あのバットのようなものは船の櫂を加工して作った)を作り、一夜漬けでルールを読んで(もちろんさっぱり理解できない)真似事をしてみせる。船で島にやってきたクリストファーが海岸近くで行われているクリケットの試合(決勝戦という触れ込み)を見て、上陸して近くで見てみたいと突然言い出して大慌てになるシーンが可笑しい。とっさにみんなで万歳をして試合が終わったことにするが、船に戻りながらクリストファーは「両方とも優勝したのか?」と首をひねっている。変だと気づきそうなものだが、最後まで変だと気づかないところがコメディたるゆえん。ケベック州は独立の動きを見せているようだが、クリケットを持ち出してきたのはカナダの英語圏を意識してのブラック・ユーモアかもしれない(衛星放送でクリケットの試合を流しているらしいのでそれなりに観る人もいるのだろう)。

  もう一つクリケットがらみで傑作な場面がある。村唯一のレストランでみんながクリケットの試合をテレビで観戦している。クリストファー一人が興奮して観ている。クリストファーがトイレに行っている間に誰かがテレビ画面をクリケットからアイスホッケーに変えてしまう。それまでつまらなそうに観戦していた村人がいっせいに身を乗り出し、本気で興奮し始める。sea1 口々にクリケットなんて何が面白いのかさっぱり分からん、あんなのはスポーツではないと散々こき下ろす。どよめく歓声に得点が入ったかとあわててトイレから出てきたクリストファーに、村の銀行員がしどろもどろで見てもいない試合の経過を説明する。国の文化の違いが見えて実に面白い場面だった。

  他にもあちこちにくすくす笑いたくなるような工夫が凝らされている。人は何に一番喜ぶかというアイデアを出し合って、お金を拾うのが一番うれしいというので毎晩クリストファーが通る道端のランタンの下に札を挟んで置いたり、さっぱり魚がつれないクリストファーの針に冷凍の魚を引っ掛けたりと、とても効果があるとは思えない「工夫」をするところが逆に可笑しい。どうやっても見栄えが良くならない家に市長がとった苦心の解決策には笑ってしまった。はてはクリストファーの動向をうかがうために電話の盗聴まで仕組む。盗み聞きで仕入れた謎の「マシン」と足の関係にみんなが振り回されるあたりもこっけいだ。しかしあまりに常套手段過ぎてどうかと思う場面もある。島民が200名以上いないと工場が誘致できないと知ると、視察に来た工場責任者の動きに合わせて島民が服を着替えて別の場所に移動するあたりがそうだ。どたばた劇にありがちな設定であまり笑えない。

  映画全体としても簡単に先が読めてしまい、結末も特にひねりもないのでさほど出来が良いとは言いがたい。ただ出色なのは島の抱えている問題を笑いに紛らすことなくきちんと描きこんでいたことである。映画の冒頭で島の男がぞろぞろと集まってきて郵便局の前に行列をつくっている場面が描かれる。生活保護の書類を受け取っていたのである。行列はそのまま銀行に移動し、またズラリと並んで現金に換える。銀行員が預金しないかと言っても誰も「はい」と言わない。村人のほとんどが生活保護でやっと生活しているからである。かつての海の男のプライドもすっかり傷ついているのだ。行列は映画の中ほどにも出てくる。こちらはクリストファーに診てもらおうと並んでいる患者の列だ。村人はみな何かの病気を抱えている。長い間医者がいなかったので、みな本当に医者を必要としているのである。失業手当を受け取る長い列と病院の前に並ぶ長い列。この長い列がこの島の現状を象徴的に表している。

  同じカナダの島でも『赤毛のアン』のプリンス・エドワード島とはまったく違う、活気のうせた貧しい島。短期間だけ滞在する旅行者の目にはのんびりとのどかで平和な風景と穏やかなスロ一ライフがうらやましく映るかもしれないが、実は高齢化が進み、村には失業者があふれている。教会には牧師さえいない。漁業がすたれた今では他にこれといった地場産業もない。郵便局も銀行も職員は一人、レストランは一軒しかない。衛星放送が入るテレビは村で1台だけ。携帯も届かない(携帯を使われると盗聴できないので、うそをついたのかもしれないが)離れ小島。何とか島に工場を誘致して村に産業を育てたいという気持ちは十分理解できる。この点をしっかり描いたこと、そして何よりも島に暮らす人々の地に足がついた生活を彼らの視点で描いたことがこの映画に単なるどたばたコメディ以上の価値を与えている。

  ある日クリストファーは恋人のブリジットにだまされていたのを知り、自棄酒を飲んでみんなで僕をだましていたと酔っ払って嘆いていた。新市長のジェルマン(レイモン・ブシャール)はそれを聞き、村中で彼をだましていることを後悔し始める。いつものように教会で集会を開いて、もうだますのをやめようとジェルマンは提案する。このあたりからコメディ調が薄れ、幾分シリアスな色調が混じってくる。そしてついに真相を知ったクリストファーがジェルマンを問い詰める結末へ。詳しくは見てもらうとして、ラストはもちろんハッピー・エンディングである。そんなことならわざわざこんな遠回りしなくても最初からはっきり頼めばよかったのに。そう思えてしまうところがまた可笑しい。人をだます話なのに島民たちの必死の努力に共感してしまうのは、なんとしても経済的に自立して自分たちの誇りを取り戻したいと願う彼らの気持ちが伝わってくるからであり、彼らをそうさせている島の現状をきちんと描きこんでいたからである。ただのATMだと揶揄されながらも村のために何とか工場の誘致費5万ドルを工面しようとした銀行員アンリ(ブノワ・ブリエール)の涙ぐましい努力には、笑いの中にほろ苦さが混じっている。

  傑作とは呼べないが、明るいユーモアと人情に包まれたほのぼのとした味わいには捨てがたい魅力がある。最初と最後に出てくる島民たちの夜の生活、明かりが消えあちこちから女性の声が漏れてくる、やがてまた小さな明かりがつき、家々の煙突から煙が立ち昇る。生活環境は変わっても村人の基本的な生活は変わらない。全体を包む、ゆったりとしたリズムが心地よい。

  出演しているのはほとんど知らない俳優たちだが、とても個性的で味がある俳優ぞろいだ。ジェルマンを演じたレイモン・ブシャール、クリストファー役のデヴィッド・ブータン、銀行員アンリ役のブノワ・ブリエールの他に、一生涯島から出たことのないイヴォンを演じたピエール・コランとクリストファーを魅了する村一番の美女を演じたリュシー・ロリエも実に魅力的だ。監督のジャン=フランソワ・プリオは本作が初の長編映画。CM業界でも数多くの作品を手掛け、カンヌ広告映画祭ではシルバーベアー賞を受賞している。脚本はスタンダップコメディアンとしてカナダでは有名なケン・スコット。劇中に偽医者役で登場している。

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