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2006年7月23日 (日)

OUT

La6s 2002年 日本 2002年10月公開
原作:桐野夏生
監督:平山秀幸
脚本:鄭義信
製作:古澤利夫 木村典代 
製作総指揮:諸橋健一 
プロデューサー:中條秀勝 藤田義則 福島総司
撮影:柴崎幸三 
美術:中沢克己 
音楽:安川午朗
出演:原田美枝子、倍賞美津子、室井滋、西田尚美、香川照之
    間寛平、大森南朋  千石規子、吉田日出子、小木茂光

  平山秀幸監督の作品を観るのはこれが3本目。「愛を乞うひと」(1998)、「学校の怪談4」(1999)そして「OUT」(2002)。「学校の怪談4」は「映画の小道具」という記事で紹介した講座で取り上げられた時に観た。舞台となった小学校が上田の旧西塩田小学校なのである。講座の後、暗くなってから旧西塩田小学校を見学に行った。もう廃校になって長いので夜は不気味だ。特に理科室だったところは一人だったら入れない感じ。隣の体育館も回ったが、ここは映画「卓球温泉」で卓球をする場面に使われたところだ。見学(というよりほとんど肝試し)が終わって会場に戻ると、留守番の人が新潟で震度6の大きな地震があったと興奮していた。いわゆる中越地震。日記で確かめてみると2004年10月23日。地震があったのは僕らがちょうど車で移動していた時だった。上田も結構揺れたらしいが、車に乗っていた人は誰も気づかなかった。会場にいる間に2回余震を感じた。

  「学校の怪談4」は意外なほどよくできた映画だった。日記には「予想以上に立派な映画だった。何か『トイレの花子さん』の様な子供だましの映画だと思っていたが、ジーンとさせる映画だった」と書いてある。平山秀幸監督が「愛を乞うひと」の監督だと知ったのもその時だった。「愛を乞うひと」は強烈な映画だった。娘を虐待する原田美枝子にはまさに鬼気迫るものがあった(母と大人になった娘の二役)。若いころは「巨乳」(まだそんな言葉はなかったと思うが)で知られる若手女優だった。「あゝ野麦峠」(1979)、「乱」(1985)、「火宅の人」(1986)、「釣りバカ日誌2」(1989)、「夢」(1990)、「息子」(1991)と観てきたが、「火宅の人」以外はほとんど印象が残っていない。なぜ「火宅の人」が印象に残っているかというと、見るからに枯れた当時70代の知人が「火宅の人」の原田美枝子はものすごく「そそる」と言っているのを聞いて、わざわざ観に行った映画だからである。映画そのものはまあまあだったが、確かにあの頃の原田美枝子はぴちぴちで魅力的だった。その後「胸」のことばかり言われるので嫌気がさしていた時期があった様だが(当時はかたせ梨乃と並んで双璧だったように思う)、「絵の中のぼくの村」(1996)では見事な演技派女優になっていた。彼女を優れた女優として意識したのはこの映画が最初である。その後に続いて観たのが「愛を乞うひと」。もはや疑いようはない。今や40代の女優としては最も魅力と実力を兼ね備えた女優ではないか。若い頃より美人になった気がする。大人の女性として20代、30代の女優には出せない落ち着きと色香を放っている。

  その後も「雨あがる」(1999)、「学校の怪談4」、「OUT」(2002)、「半落ち」(2003)、「THE有頂天ホテル」(2005)、「蝉しぐれ」(2005)と観てきた。どの映画でも確かな存在感を示している。81年と02年に2回出演した「北の国から」でも強い印象を残した。中でも女優としての魅力が最も発揮されているのは今回取り上げる「OUT」である。

  原作はベストセラーになった桐野夏生の小説。彼女の小説は1冊も読んでいない。だいぶ原作とは違うようなので、小説との違いをいくつかのブログ等から拾ってみた。まず原作は映画より遥かに暗く重い内容である。邦子や雅子の夫も佐竹に惨殺される。邦子の死体も解体させられるようだ。また、原作では南に逃げる事を匂わせて終わるのに映画では北に向かっている。映画では不可解に映った弥生の行動も原作やTV版ではもっと丁寧に描かれている。

  最後にTV版に触れたが、TV版では田中美佐子、渡辺えり子、高田聖子、原沙知絵が4人の主婦を演じていたようだ。香川照之の役は哀川翔、間寛平の役を柄本明が演じていた。TV版はともかく、原作と映画は相当に違っているようだ。これは意図的なもので、平山監督は「単に事件を追いかけるだけならば、ノンフィクションにはかなわない。あくまでも、大人の娯楽を目指した作品に仕上げたい」と言っている。脚本を担当した鄭義信も重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したようだ。

  暗く重苦しい原作を「大人の娯楽」に変えた結果はどうか。おそらくこのあたりが評価の分かれ目だろう。映画化作品はどうしても原作のすべてを盛り込めないのでかなりの部分を大胆に削り落とさなければならない。多く不満が出されるのは4人のパート主婦たち(原田美枝子/香取雅子、倍賞美津子/吾妻ヨシエ、室井滋/城之内邦子、西田尚美/山本弥生)が抱える苦悩、出口の見出せない潤いのない日常、牢獄のようにがんじがらめにされた彼女たちの閉塞感が十分描かれていないこと。罪をかぶさられた佐竹が彼女たちに迫ってくる不気味な緊張感と恐怖が十分伝わってこないことなどである(間寛平の不気味さが足りないという指摘は多い)。夫を殺した後あっけらかんとして死体処理を雅子に任せる弥生(演じる西田尚美は深津絵里にそっくりだ)の無責任さに腹が立つのも描き込みが足りないからだ。彼女が発作的に夫の首を絞めて殺してしまうこと自体は十分理解できる。バカラ賭博にふけり家に帰れば妊娠している弥生の腹を殴りつける夫の暴力が詳しく描かれているからだ。4人の中で弥生の苦悩が一番リアルで身に迫ってくる。最も切迫していたからこそ衝動殺人に走ってしまった。殺人は殺人だが、切羽詰った状況に追い込まれた彼女にも同情できる。しかしその後の対処の仕方の部分で、なぜ彼女が無責任な態度をとるのかが理解できない。彼女の内面が十分描かれていないからだ。同様に他の3人がなぜあそこまでして死体処理にかかわるのかも十分納得できない。最初死体処理を持ちかけられた雅子は当然ながら警察に知らせるようすすめた。その彼女が気持ちを変えたのは弥生が彼女に自分の腹を触らせたからである。この子を刑務所の中で生むわけにはいかない。この無言の訴えに負けたからである。

  これとても無理があるが、女性としてこのことを重く受け止めたという一応の説明は可能である。しかし、それならそれでなぜ死体を埋めるなどの対策を考えなかったのか理解できない。自分の家の風呂場で死体を解体するなどというのは一番ありそうもない設定だ。死体は車のトランクに入っていたのである。だったら人に見られないところに運んで埋めるのが普通の発想だろう。あるいは、死体解体に巻き込まれるヨシエや邦子の側の事情も説得的に描かれてはいない。おそらく原作ではそうせざるを得ないそれぞれの事情をきちんと描いているに違いない。

  いずれにしてもこのあたりを境に映画はリアリズムから遠ざかってゆく。原作ではおそらく状況に押し出されるようにして望まざる方向へ避けようもなく押し流されてゆく女たちを描いていたと思われる。映画では、原作になかったであろうコミカルな味付けを加え、かつシュールな展開になってゆく。3人の女がまるで弁当の盛り付けをするように結構楽しみながら死体の解体を進めてゆくなどという図は本来ありえない話だ。

  では映画は小説を離れて何を描こうとしたのか。それは逆に映画的表現として新たに付け加えられた部分を見ればわかる。原作では南に逃げるはずが、映画では雅子と邦子と弥生の3人で北に向かう。北に設定を変えたのはヨシエが「知床のオーロラが見たい」と語っていたからである。一人罪を背負って自首する道を選んだヨシエに代わって雅子がその夢を引き継ぐ。雅子たちが北海道へ向かったのはオーロラを見るためである。

  途中で産気づいた弥生を病院に置いてきたので最後は雅子と邦子の二人でアラスカを目指す。最後に二人を拾うトラックの運転手として吉田日出子が出てくる。アラスカにオーロラを見に行くという二人の話を聞いて、彼女は豪快に笑う。「いやいやいや、なまら(?)でっかい夢でないかい!ハハハハハハ。」映画はこの結末にもっていきたかったのだ。荒唐無稽な二人の計画を吉田日出子が豪快に笑って受け止めることによって、映画は二人の夢を肯定的に受け入れている。

  要するに、原作はともかく映画は閉塞状況を打ち破って牢獄のような日常生活から抜け出してゆく(OUT)女たちをユーモアをこめて温かく描き出すことに主題があった。女の解放と再生を描きたかったのである。北へ向かう彼女たちには夢以外何もない。たとえオーロラを見ることができても、その後の生活の保証はない。最後にはファンタジーになってしまう。この点も評価の分かれ目だろう。

Sizuka2   このラストに説得力がないという批判も少なくない。確かにそのとおりである。しかし全面的に否定するつもりもない。問題は彼女たちを支えていた夢の質である。ヨシエの語った夢はどんな夢だったか。毎日10円ずつ貯金してゆけば、10年で3万6500円になる。その金で知床のオーロラを見に行きたかったと彼女は語ったのである。しかしついにその夢は実現することはなかった。彼女には世話をしなければならない姑(千石規子)がいる。彼女を置いてはいけないし、金をためることもできなかった。どんなに空を見上げ夢を見ようとも、彼女の足は現実という鎖につながれていた。それはリストラされ毎日を無為に過ごしている夫良樹(小木茂光)やまったく口も利かない息子と暮らしている雅子も同じだった。一人暮らしのむなしさを補うためにブランド品を買い捲り借金取りに追われている邦子も同様だ。ヨシエの語った夢はそんなむなしい日常に縛られている自分を励ますささやかな希望だった。それは彼女たちがおかれている生活がいかに無味乾燥で抑圧的であるかを逆に映し出している。ばかげた夢だが笑うべきではない。

  死体処理に嬉々として励む彼女たちに不思議な開放感があるのは(もちろん最初は顔を背けていたが)、非日常的なスリルを彼女たちが楽しんでいるよう描きたかったからだ。北海道の病院の前で弥生と雅子が交わす言葉にそれが表れている。「雅子さん、何でここまで付き合ってくれたんですか。」「巻き込まれたの、あんたに。楽しかったよ。ドキドキした。久しぶりだったそういうの。」彼女たちを追う佐竹に期待ほどの凄みがないのは迫り来る恐怖ではなく、それを乗り越えて現実から脱出して行く彼女たちのバイタリティを描きたかったからだ。吉田日出子が豪快に笑ったのはこの奇妙な女二人連れにこのバイタリティーを感じたからである。毎日10円ずつためてゆくというささやかな夢が最後には「でっかい夢」になる。

  偶然共犯者になってしまった4人の女たちは不思議な連帯感で結ばれてゆく。ただの行き掛かり上の共犯者仲間から同士になった。一人でできなかったことが力をあわせればできたからだ。あれほど自己中心的でいい加減だった邦子(工場での働きっぷりにそれが現れている)も弥生と分かれる時に大事なバッグを渡す。「これ本物だから。お金ないけどあげる。出産祝い。」初めて夢を持つことができた邦子にはもうブランド物のバッグはいらなくなったということだろう。これが実は象徴的だ。つまり、繰り返すが、彼女たちは夢以外何も持たずにアラスカに向けて旅立ったのだ。

  ここまで来て、やはり思い出されるのは魯迅の言葉である。魯迅は『人形の家』を論じた「ノラは家出してからどうなったか」と題した講演で、ノラには実際二つの道しかなかったと論じた。堕落するか、そうでなければ家に帰るかである。「人生にいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」である。「夢を見ている人は幸福」だ。確かに道が見つからない時に必要なのは夢である。しかし将来の夢を見ては行けない。必要なのは現在の夢であると。

  「OUT」のラストには希望がある。警察から逃げているはずの彼女たちに悲壮感は漂っていない。むしろ開放感や爽快感がある。しかしこの映画は上で指摘したように、すでに早い段階でファンタジーになってしまっている。ファンタジーは幻想でもある。この先彼女たちはどうなるのか。鎖は断ち切り開放されたが、彼女たちを待っている未来は不確定だ。なぜなら現実は変わっていないからだ。彼女たちは現実から逃避したのであって、現実を変えたわけではない。彼女たちの前向きの姿勢が生む爽快感は『人形の家』に通じるが、開放感が幻滅に変わるかもしれない不安が絶えず付きまとっている、つまり逃避しただけで終わっている点もまた『人形の家』と同じなのである。

  雅子は師匠と慕うヨシエが警察に自首する直前に彼女と最後の言葉を交わす。「師匠、あたしやってける。何もなしでやってける。」「やってけるよ。案外しぶといもんさ、人間って。」しかしこの言葉を裏付けるものは何もない。あるのは夢と漠然とした希望だけ。この言葉と自信だけでは魯迅が指摘した「夢から覚めた後の現実」を乗り切れる保証はない。

  リストラ、老人介護、カード破産、ドメスティック・バイオレンス。彼女たちが逃げ出した後もこれらの現実は消えうせはしない。弥生の夫、雅子の夫と息子、映画の中で男たちはだらしなく無気力だ。それは単に彼ら個人の問題ではなく、社会の矛盾の現れでもある。「OUT」では、これらの矛盾がほかならぬ女性問題として表れる。男たちが行動しないから女がそれらを引き受けて処理しなければならない。付けが全部女性に回ってくるわけだ。そして女たちはそれらを処理した。その結果警察に追われることになったが、彼女たちは逃げるのではなく向かっていた。夢に。

  現実社会の恐怖に正面から向き合うのではなく、ファンタジーに逃げてしまった描き方に不満も残る。それでもこれだけは言っておくべきだろう。生気を失い、ただ無為に過ごす無気力な男たちと違って女たちは少なくとも行動した。その行動力が生きる力を生み出すかもしれない。途中で夢破れるものもいるかもしれない。だが生きがいを見つけるものもいるかもしれない。さすがに1879年に書かれた『人形の家』から100年以上たっている。『人形の家』のノラは夫の財産の一部のように扱われ自分では何も判断できなかった。最後にようやく自分の意思を持ち、決然として「人形の家」を出てゆく。それが今や、無気力な夫と息子を励まし生計を維持しているのは雅子である(何かと口やかましい雅子に男たちが却ってうんざりしてしょげ返る気持ちも分からなくもないが)。いずれにしても人生はそれぞれ自分で掴み取るものだ(4人がカラオケで歌った「人生いろいろ」が暗示的だ)。そして彼女たちに掴み取れるチャンスは100年前よりずっと広がっている。少なくともその点は変わった。この100年の間に。

  原田美枝子、倍賞美津子、室井滋、西田尚美の4人はそれぞれに持ち味を発揮していて素晴らしかった。ローン会社の男を演じた香川照之もまた出色。間寛平は確かに凄みが足りなかったが懸命に役に打ち込んでいた。撮影日記に記された「間は、セットにじっと佇んでいる。飾らず、作らず、ただ存在することが佐竹の狂気を表現する方法であることを、舞台人でもある間は本能で身に付けた。間の迫真の演技に、倍賞にも緊迫感が漲る。」という言葉をきちんと受け止めておきたい。

原田美枝子出演作品
■おすすめの5本(「OUT」を除く)
 「THE有頂天ホテル」(2005)
 「愛を乞うひと」(1998)
 「絵の中のぼくの村」(1996)
 「息子」(1991)
 「火宅の人」(1986)

■こちらも要チェック
 「学校の怪談4」(1999)

香川照之出演作品
■おすすめの5本(「OUT」を除く)
 「嫌われ松子の一生」(2006)
 「いつか読書する日」(2004)
 「刑務所の中」(2002)
 「美しい夏キリシマ」(2002)
 「鬼が来た!」(2000)

■気になる未見作品  
 「故郷の香り」(2003)

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