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2006年6月16日 (金)

みんな誰かの愛しい人

033799_1 2004年 フランス 2004年10月公開
原題:Comme une image(イメージのように)
監督:アニエス・ジャウィ
脚本:アニエス・ジャウィ、ジャン・ピエール・バクリ
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
音楽:フィリップ・ロンビ
出演:マルリー・ベリ、アニエス・ジャウィ
    ジャン・ピエール・バクリ、カイン・ボーヒーザ
    ロラン・グレヴィル、ヴィルジニー・ドゥサルノ
   セルジュ・リアブキン、ミシェール・モレッティ

  「ゴブリンのこれがおすすめ」で「家族を描いた映画」を紹介したばかりだが、偶然にもこれまた家族を描いた映画である。「ピエロの赤い鼻」、「ロング・エンゲージメント」、「コーラス」、「皇帝ペンギン」、「ライフ・イズ・ミラクル」、「クレールの刺繍」など、最近観たフランス映画はかなり質が高い。まだ年間ベストテンに入る作品は少ないが、総じて水準は高く、かつての輝きを取り戻しつつあると感じる。「みんな誰かの愛しい人」は04年公開作品で若干古いが、ここ何年かに観た作品の中では最もフランス映画らしい香りがする映画である。登場人物の個性が強烈で、独特のユーモアのセンスが感じられる。イギリス映画にも変わり者がよく登場するが、フランスはまた違う味わいがある。

  「みんな誰かの愛しい人」はエチエンヌ(ジャン・ピエール・バクリ)とロリータ(マルリー・ベリ)父娘を中心にした人間関係とシルヴィア(アニエス・ジャウイ)とピエール(ロラン・グレヴィル)夫妻を中心にした人間関係の二つが絡まりあって展開する群像劇である。

  中心にいる4人の中でも一番焦点が当てられているのがロリータである。ロリータは一言で言えば「フランスのブリジット・ジョーンズ」か。ぽってりとした体型で愛らしい顔立ち。しかし本家のブリジット・ジョーンズと違ってこちらはその体型に強い劣等感を抱いている。その劣等感にさらに油を注いでいるのは彼女に対する父エチエンヌの冷たい態度。彼は作品が映画化されるほどの売れっ子作家だが最近はスランプでまったく書いていない。その不調も反映しているのだろう、彼の頭の中は本のことばかりで娘のことなど眼中にない。それを象徴的に示しているのはロリータが父に渡したカセットテープ。ロリータは声楽を習っているのだが、彼女の歌を録音したテープを渡しても一向に聞こうとする様子がない。結局最後まで聞こうとしないし、ラストでロリータが仲間と舞台で歌うクライマックス・シーンでもなんと途中で会場を出て行ってしまう。シルヴィアをはじめ、映画の最初と最後ではロリータに対する態度はみな変わって行くのだが、この頑固親父だけは最後まで態度を変えない。この徹底した偏屈振りがかえっていい。いかにもフランス的だ。

  小説以外に父親が関心を示すものは新しい妻のカリーヌ(ヴィルジニー・ドゥサルノ)とその5歳の娘ルナ。エチエンヌにとって娘はこの小さい方の娘だけという感じで、その差別的態度はなんとも残酷だ。また新妻のカリーヌはほとんどロリータと年齢が変わらない若い妻で、これがまたロリータの居心地を悪くさせている。映画はこういった環境の中でロリータがコンプレックスにさいなまれる様子を事細かに描いてゆく。文字通りのロリータ・コンプレックス。もちろん、この場合はロリータ自身のコンプレックスという意味である。

  一家の中でいかにロリータの存在が薄いかを示す典型的なエピソードは彼の作品が原作になった映画の公開記念パーティー(?)に行く場面である。自作の映画化作品を一家そろって観に行くのだが、ロリータがちょっとぐずぐずしている間に父とカリーヌはさっさと先に劇場に入ってしまう。一般客と間違われたロリータは入り口で追い返され中に入れない。ロリータなど眼中にない父夫婦の無関心さとロリータのどじ振りが浮き立たせられている。

  しかしそのことがきっかけでロリータは偶然ある青年と知り合うことになる。酔っ払って彼女の足元に倒れた青年にコートをかけてやったのがきっかけだ。後でその青年セバスチャン(カイン・ボーヒーザ)がコートを返しに来て、そこから二人の付き合いが始まる。

  このロリータを中心としたストーリーと平行してシルヴィアとピエールのストーリーが描かれてゆく。ピエールは売れない作家。シルヴィアは何とか彼に自信を持たせようと励ましている。そのシルヴィアは実はロリータの歌の先生だった。しかし家族に冷たくされている分歌に入れ込んでいるロリータの情熱をシルヴィアはもてあまし気味だ。しかしロリータが有名な作家エチエンヌの娘だと知ったときからシルヴィアは何とか夫を紹介してもらおうとロリータに近づき始める。

  こうして家族の中で孤立して一人コンプレックスに悩まされ、いじけていたロリータの世界にセバスチャンが新しく入り込み、シルヴィアとの通り一遍だった付き合いがより濃密な関係に変わってゆく。これがロリータの転機になった。そこからロリータが自分を見出し成長してゆく様が描かれてゆく。

  ロリータをコンプレックスの塊でいじけた性格と評する人もいるが、僕はそういう印象をあまり受けなかった。確かにコンプレックスもあるしいじけている場面もあるが、彼女の置かれた状況は確かに彼女ならずとも悩まざるを得ないものだし、彼女も彼女なりにいじらしいほど前向きに努力しているからだ。「旅するジーンズと16歳の夏」のカーメンよりも太っていて彼女以上に劣等感を持っているが、親の七光りを重圧あるいは迷惑と感じたり体型が気になって仕方がないのは20歳の娘としては無理もないことだ。むしろ、悩んだりめげたりしながらも愛情と理解を求めようとする彼女を応援したくなってくる。

  もちろんセバスチャンやシルヴィアとの関係も紆余曲折があって簡単に状況が好転したりはしない。ロリータにはセバスチャンの前にもマチューという恋人がいたのだが、彼はロリータの有名な父親とのコネが目当てで付き合っていた。彼女に近づいてくる人物の多くSen はそうなのだ。セバスチャンもそうなのではないか、マチューに裏切られた彼女は疑心暗鬼になってしまう。最後の最後になるまでその疑念は晴れなかった。実際シルヴィアも最初はコネ目当てだったのである。しかしロリータに近づくにつれてシルヴィアの気持ちは変化してゆく。純粋にロリータに好意をもって接するようになる。ラストのコンサートでエチエンヌの示したつめたい態度に腹を立て、夜中にエチエンヌの家を出てゆく。同時にシルヴィアは有名作家であるエチエンヌの下を離れようとしない夫のピエールからも去っていった。映画のラストでロリータとシルヴィアという女性二人が家を出てゆく。『人形の家』のラストを連想させるが、女性の自立というよりも人間としての自立と考えた方がよさそうだ。

  これについては、シルヴィア役を演じ脚本も担当した監督のアニエス・ジャウィが次のように語っている。「父と娘の関係と、自分と同じ年頃の恋人のいる父親を持つこと。これは私自身が経験したことで、ずっと映画に取り込みたいと思っていたの。それからほんの少し“権力”についても語りたかった。それも権力を行使する側からではなく、それを受ける側から見た権力についてね。」父親という一家の権力者であると同時に有名作家であるという尊大さを併せ持ったエチエンヌ、彼にあやかり何とか成功をつかみたいとエチエンヌになびくピエール。エチエンヌの影響力に染まらなかったのはセバスチャンとシルヴィアであり、ロリータももがき苦しんだ挙句ようやくそこから抜け出せた。

  独特のユーモアのセンスやキャラクターのあくの強さなど様々な魅力を持った作品であるが、この作品に対する共感の基盤にあるのはセバスチャンとロリータ、そしてシルヴィアが選んだ生き方に対する共感である。父親に疎んじられる、自分の体型を恥じ卑屈になっているロリータを描きながらも、そのロリータを描く視線は温かい。と同時に、最後まで傲慢で態度を変えないエチエンヌの描き方に、センチメンタリズムに流されない作者の目の厳しさも感じる。

  男で唯一肯定的に描かれているセバスチャンを外国人移民に設定しているのは意図的だろう。ラシッドという本名や顔つきからしてアルジェリア出身と思われる。本名を隠してセバスチャンを名乗っていること、収入がなく家賃を何ヶ月も滞納していることにも移民であることが暗示されている。父親の勢力圏から脱したロリータにふさわしい相手は同じく枠外に置かれたセバスチャンだった。ある意味では自然な結びつきだったといえる。

  しかし結論部分ばかりを強調しないほうがいいかもしれない。何といってもこの映画はキャラクターたちを楽しむ映画であり、人間関係を阻害するディスコミュニケーションを描いている映画なのだから。ディスコミュニケーションの象徴として使われるのは携帯電話である。映画の冒頭でロリータがパーティー会場に入りそこなったのもちょっと立ち止まって携帯で話していたからである。TVドラマ「24」ではジャック・バウアーが携帯を掛け捲っている。そこでは機動力を持った便利な通信手段として描かれている。しかしこの映画ではロリータとセバスチャンがベッドでキスをしているときに携帯が鳴るという使われ方をする。

 人間関係を阻害する道具としての携帯電話。その典型はレストランでロリータとエチエンヌが食事中に父の携帯が鳴る場面。相手が誰かは分からない。聞こえるのはエチエンヌの声だけ。「大丈夫、娘と食事しているんだ。ああ毎日が楽しいよ、かわいくて賢い。」ロリータがにっこりする。父は続けて「5歳になった」と言う。ロリータは顔を背ける。後でロリータがセバスチャンに話したところによると、その後「まるで私がいないみたいに」15人と立て続けに電話で話していたという。

  こんなことが何度も続けば誰だっていじけてしまう。その上自分は太っているというコンプレックスが重なればたびたび落ち込むのも無理はない。しかしそんなロリータを映画は決して意地悪くは描かない。適度なユーモアを交えて描いている。発表会での舞台衣装を試着しているロリータが鏡を見て「マトリョーシカ人形みたい」とつぶやくシーンは、申し訳ないが、笑ってしまった。結局、舞台では黒い地味な衣装で歌っていた。

  さらに彼女を側面から支えているのはシルヴィアの存在だ。演じたアニエス・ジャウィは実に魅力的だった。エチエンヌを演じたジャン・ピエール・バクリと「ムッシュ・カステラの恋」でも競演しているが(こちらも監督はアニエス・ジャウィ)、ジャン・ピエール・バクリの印象しか残っていない。しかし「みんな誰かの愛しい人」ではロリータ役のマルリー・ベリ以上に印象的だった。非常に知的でしっかりとした自分の意思を持った女性。彼女の存在がなければこの映画は大きく変わっていただろう。その意味でロリータ以上にこの映画を支えていた。

  この映画のラストシーンはセバスチャンを追いかけていったロリータが彼と二人で道端に並んで座っている場面だ。セバスチャンがぼそっと一言いう。「疲れる子だよ」。この言葉に込められたやさしい響きがこの映画の基本的な姿勢をよく表している。

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不機嫌の連鎖反応。 本日の映画は『みんな誰かの愛しい人』。コンプレックスの塊のような女性ロリータを中心に、2つの家族とその仲間達が、みなそれぞれの思惑に従って意見の衝突や和解を繰り返しながら人生を送っていく姿を描いた作品。とっても女性的な視点で描かれている..... [続きを読む]

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