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2006年6月

2006年6月28日 (水)

ゴブリンのこれがおすすめ 19

日本映画(90年代以降)
■おすすめの50本 Artkazamidori01250wc
桜の園(1990)  中原俊監督
少年時代(1990) 篠田正浩監督
12人の優しい日本人(1991) 中原俊監督
大誘拐(1991) 岡本喜八監督
ふたり(1991) 大林宣彦監督
息子(1991)  山田洋次監督
紅の豚(1992)  宮崎駿監督
しこふんじゃった(1992) 周防正行監督
ミンボーの女(1992)  伊丹十三監督
月はどっちに出ている(1993) 崔洋一監督
午後の遺言状(1995) 新藤兼人監督
Shall We ダンス?(1995)  周防正行監督
Love Letter (1995) 岩井俊二監督
もののけ姫(1997)  宮崎駿監督
ラヂオの時間(1997) 三谷幸喜監督
がんばっていきまっしょい(1998) 磯村一路監督
愛を乞うひと(1998) 平山秀幸監督
ナビィの恋(1999) 中江裕司監督
金融腐食列島 呪縛(1999) 原田真人監督
GO(2001) 行定勲監督
千と千尋の神隠し(2001)  宮崎駿監督
阿弥陀堂だより(2002) 小泉堯史監督
ピンポン(2002) 曽利文彦監督
たそがれ清兵衛(2002)  山田洋次監督
ホテル・ハイビスカス(2002) 中江裕司監督
ジョゼと虎と魚たち(2003) 犬童一心監督
茶の味(2003) 石井克人監督
この世の外へ クラブ進駐軍(2003) 阪本順治監督
いつか読書する日(2004) 緒方明監督
犬猫(2004) 井口奈己監督
運命じゃない人(2004) 内田けんじ監督
隠し剣 鬼の爪(2004) 山田洋次監督
カーテンコール(2004) 佐々部清監督
下妻物語(2004) 中島哲也監督
深呼吸の必要(2004) 篠原哲雄監督
誰も知らない(2004) 是枝裕和監督 Momijii1
父と暮らせば(2004) 黒木和雄監督
ハウルの動く城(2004) 宮崎駿監督
パッチギ!(2004) 井筒和幸監督
村の写真集(2004) 三原光尋監督
リアリズムの宿(2004) 山下敦弘監督
笑の大学(2004) 星護監督
青空のゆくえ(2005) 長澤雅彦監督
ALWAYS 三丁目の夕日(2005) 山崎貴監督
THE有頂天ホテル(2005) 三谷幸喜監督
フライ、ダディ、フライ(2005) 成島出監督
メゾン・ド・ヒミコ(2005) 犬童一心監督
リンダ リンダ リンダ(2005) 山下敦弘監督
博士の愛した数式(2005) 小泉堯史監督
嫌われ松子の一生(2006) 中島哲也監督

●追加
延安の娘(2002) 池谷薫監督
かもめ食堂(2005) 群ようこ監督
雪に願うこと(2005) 根岸吉太郎監督
武士の一分(2006) 山田洋次監督
フラガール(2006) 李相日監督
紙屋悦子の青春(2006) 黒木和雄監督
六ヶ所村ラプソディー(2006) 鎌仲ひとみ監督
歩いても歩いても(2007) 是枝裕和監督
ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007) 山崎貴監督
河童のクゥと夏休み(2007) 原恵一監督
それでもボクはやってない(2007) 周防正行監督
夕凪の街 桜の国(2007) 佐々部清監督
めがね(2007) 荻上直子監督
アフタースクール(2008) 内田けんじ監督
おくりびと(2008) 滝田洋二郎監督
クライマーズ・ハイ(2008) 原田眞人監督
つみきのいえ(2008) 加藤久仁生監督
ぐるりのこと。(2008) 橋口亮輔監督
劔岳 点の記(2008) 木村大作監督
おとうと(2009) 山田洋次監督
風が強く吹いている(2009) 大森寿美男監督
沈まぬ太陽(2009) 若松節朗監督
ディア・ドクター(2009) 西川美和監督
あぜ道のダンディ(2010) 石井裕也監督
一枚のハガキ(2010) 新藤兼人監督
トイレット(2010)荻上直子監督
海炭市叙景(2010)熊切和嘉監督
悪人(2010) 李相日監督
マザーウォーター(2010) 松本花奈監督
必死剣 鳥刺し(2010) 平山秀幸監督
告白(2010) 中島哲也監督
八日目の蝉(2011) 成島出監督
かぞくのくに(2011) ヤン・ヨンヒ監督
まほろ駅前多田便利軒(2011) 大森立嗣監督
大鹿村騒動記(2011) 坂本順治監督
阪急電車 片道15分の奇跡(2011) 三宅喜重監督
苦役列車(2012) 山下敦弘監督
鍵泥棒のメソッド(2012) 内田けんじ監督
桐島、部活やめるってよ(2012) 吉田大八監督
希望の国(2012) 園子温監督
おおかみこどもの雨と雪(2012) 細田守監督

 こうやって並べてみると04年から集中して日本映画を観始めていることが分かる。90年代は年間に数本ずつしか観ていない。その頃は日本映画にほとんど関心がなかったし、観るべき作品もほとんどないと思っていた。今振り返ると重要な作品を結構見落としていたのではないかと不安になる。
 80年代は自分でも驚くほど日本映画を観ていたが、それは30年代から60年代にかけての巨匠の作品を手当たり次第に観ていたからで、封切り作品はほとんど見ていない。日本映画の歴史的名作とされるものの内かなりの部分をこの時期に観ている。その頃の僕にとって60年代以降の日本映画はほとんど見る価値のないものだった。その認識が変わりだしたのは90年代後半ごろからで、どん底まで落ち込んでいた日本映画が着実に力を着けつつあると確信し始めたのは04年ごろからである。

2006年6月27日 (火)

嫌われ松子の一生

Tukimi1 2006年 東宝 06年5月27日公開
監督、脚本:中島哲也
原作:山田宗樹『嫌われ松子の一生』(幻冬舎)
撮影:阿藤正一
出演:中谷美紀、瑛太、伊勢谷友介、香川照之
    市川美日子、黒沢あすか、柄本明 、宮藤官九郎
    木村カエラ、柴崎コウ、片平なぎさ、ゴリ
    竹山隆範、谷原章介、劇団ひとり、谷中敦
    BONNIE PINK、武田真治、荒川良々、土屋アンナ
    AI、甲本雅裕、角野卓造、阿井莉沙、山田花子

  久々に映画館で観てきた。「嫌われ松子の一生」は現代版『女の一生』である。いや、モーパッサンを持ち出すまでもなく、女の不幸な一生を綴った小説や映画は他にも結構ある。映画を観た後、松本清張の「絵はがきの少女」を思い出した。『憎悪の依頼』(新潮文庫)に収録されている短編で、文学の香りがする忘れがたい傑作である。語り手が子供のころ集めていた古い絵葉書を整理していると、ふと1枚の絵葉書が目に留まる。ある観光地の写真が写っているなんでもない絵葉書だが、たまたまそこに写っていた一人の少女が気になる。この子は今どうしているのだろうか。気になって仕方がない語り手はその写真がとられた場所へ行ってみる。こうしてその女の子の消息を訪ね歩いてゆくという話だ。調べてみると彼女は実に悲惨な人生を歩んだことが分かる。各地を転々とし、その度により悲惨な生活になってゆく。最後は山口県で亡くなっていた。そこまで訪ねて行った語り手は、しかし、そこで絵葉書の少女に出会う。死んだ女性の一人娘だった。なんとも悲惨な話だが、一枚の絵葉書から、そこに写った少女のその後の運命をたどるという発想が見事だった。

  英文科を出た人ならジョージ・ムアの『エスター・ウォーターズ』を思い浮かべるかもしれない。19世紀末の長編小説だが、子供を抱えた女性が一人で生きてゆこうとする先には過酷な運命が待ち受けていた。当時の女性がいかに無権利状態に置かれていたかがいやというほど伝わってくる。映画では今村昌平監督の「にっぽん昆虫記」(63年)が女の一生を映画いた映画としては一番強烈ではないか。皮肉な運命に踏まれても、踏まれてもしぶとくたくましく生き延びてゆく虫けらのような女の人生。主人公松本とめを演じた左幸子の存在感が圧倒的だった。彼女はまた内田吐夢監督の「飢餓海峡」(水上勉原作、64年)でも薄幸の女杉戸八重を演じている。日本映画史上屈指の名作、今井正監督「にごりえ」(53年)は樋口一葉原作の「十三夜」、「大つごもり」、「にごりえ」を収めたオムニバスだが、第3話「にごりえ」のお力も哀れだった。貧しい家に生まれ小料理屋の酌婦となったお力は、幸福をつかみかけた矢先に男に無理心中させられてしまう。

  これらの作品はいずれも暗い印象が付きまとうが(それは白黒映画であるせいではない)、「嫌われ松子の一生」は一転してミュージカル的要素も取り込んだ極彩色の映画である。「下妻物語」の中島哲也監督作品だから当然一筋縄ではいかない。しかしそれでも共通する要素はある。女の不幸の原因は常に男であるという点である。松子の人生とは男に頼り、男に裏切られた人生だった。作品によっては戦争などが不幸の直接的な原因だったりする場合もあるが、その場合でも例えば夫の戦死という形で女に影響を及ぼす。魯迅は「ノラは家出してからどうなったか」と題した講演で、ノラには実際二つの道しかなかったと論じた。堕落するか、そうでなければ家に帰るかである。「人生にいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」であると。たとえ「人形の家」を出ても当時の女性には経済力がない。女性がつける職業は限られていた。つまり女性が自立するにはそれを支える経済力が必要なのである。だから男に頼らざるを得ない。ジェーン・オースティンの女性登場人物たちが結婚相手探しに血眼になるのはそうしなければ生きられないからである。

  その点では松子も同じだった。松子が最も輝いているのは何らかの仕事をしているときだ。たとえそれがトルコ嬢としてであっても。19世紀までや20世紀でも戦前とは違い、20世紀の後半を生きた松子はさすがにそう簡単には社会の最底辺までは落ちない。女性も何とか一人で生きてゆくことができる。それでも彼女が男に頼ったのは愛情に飢えていたからである。彼女の人生はまた愛という幻想に惑わされた人生だったともいえる。だから彼女が不幸になるときは必ず男が絡むのである。最後の男に裏切られたとき彼女は生きる気力を失ってしまう。 無気力に取り付かれた彼女はかつての美貌も容姿も失いぶくぶくに太った中年女に成り下がってしまう。しかし松子は最後の最後にもう一度立ち直ろうとする。それまで散々辛酸をなめてきた彼女は今度は男を求めようとはしなかった。もう一度美容師として働こうと決めたのである。自分のもっとも得意な技術を生かしてまた立ち直ろうと。だが皮肉にもそう思ったとたん殺されてしまう。

  彼女の人生の最後は惨めだった。にもかかわらず、悲惨さ一色の印象が残らないのは、言うまでもなくうまくいっていた時期があるからであり、その時期が派手で明るくカラフルに彩られているからである。彼女の人生で一番明るく描かれているのは刑務所に入っているときと美容師やトルコ嬢として働いていたときである。BONNIE PINKやAIの歌にのって楽しそうに歌い踊る。そこにこの映画の新味があるわけだ。才能がある松子は美容師としてもトルコ嬢としてもNO.1に上り詰めてしまう。そのあたりはファンタジックなつくりなのでたとえ殺人を犯してもあまり現実味はない。彼女の運命が変わるための単なる変数に過ぎない。

  映画のストーリーは「絵はがきの少女」と同じような枠組みの中で展開するにもかかわらず、映画の中には活力と夢があふれている。不幸と幸福、惨めさと楽しさがないまぜになっている。明るい笑いと涙がともに味わえる、さらにCGを駆使した映像と音楽まで楽しArtbasya04200wa める。グリコ顔負けの一粒で四度おいしい作り(たとえが古いなあ)になっている。この演出法はそれなりに成功している。「メゾン・ド・ヒミコ」で踊る柴崎コウにかなり引き付けられたが(「嫌われ松子の一生」を中谷美紀以外に演じられるのは恐らく彼女だけだろう)、まるで何かのCMかと思うような生きのいいダンスを披露する中谷美紀の魅力はそれ以上だった。

  この楽しい映像はただ単に悲惨な話を和らげるためだけに使われているわけではないだろう。もちろんそれもあるが、あのCGを使った現実離れした映像はある意味で松子の夢でもある。実際は刑務所の中なのにそこには悲惨さはまったく描かれていない。むしろ明るく、悲惨さなど笑い飛ばして、いや、「踊り飛ばし」、「歌い飛ばして」いる。あれは松子の夢であり、願望だ。明らかにそうだと分かる演出にしなかったところが成功している。そしてそんな明るい夢を見られるのは松子に生きようとする強い力、したたかなまでの気力があるからだ。同棲していた作家志望の八女川徹也(宮藤官九郎)が太宰治ばりに「生まれてきてすみません」と書き残して自殺したとき、松子は「そのとき私の人生は終わった」と思った。しかし彼女は生きた。映画の最初のあたりで「火曜サスペンス劇場」をもじった片平なぎさ主演のテレビ・ドラマが何度か映される。毎回犯人はがけっぷちに追い込まれ、観念して崖から飛び降りる。松子も何度もそうなりかかりながら驚くほどの粘り腰で「運命」を土俵際で打っちゃってしまう。彼女はがけっぷちに強い女だった。

  八女川徹也に始まり、彼のライバル作家だった岡野健夫(劇団ひとり)、雄琴で松子がトルコ嬢として働いていたときのヒモ小野寺(武田真治)、床屋の主人(荒川良々)、松子が教員を辞職する原因を作ったかつての教え子龍洋一(伊勢谷友介)。彼女が選んだ男はことごとくはずれだった。それでも彼女は夢を持ち続けた。最後の男に裏切られるまで。そこにこの映画の明るさを支える要素がある。彼女が見上げる空にはいつも星が輝いていた。そしてあの印象的な「曲げて、伸ばして、お星様をつかもう」という歌が何度も流れる。星空を眺めるシーンはスウェーデンの名作「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を連想させられる。イングマル少年は悲しいことがあると星を見上げ、自分よりもっと惨めな存在を思い浮かべた。あのライカ犬に比べたら自分はまだましだ。そう思って自分を慰めた。松子は星を見て何を思ったのだろうか。どんなに手を伸ばしてもあの星には届かない。決して自分には手が届かない幸福。それでも彼女は手を伸ばすことをやめなかった。「子供たちが空に向かい両手をひろげ、鳥や雲や夢までもつかもうとしている。」久保田早紀の名曲「異邦人」のように、幼い松子も星に向かって手を伸ばしていたのだろうか。

  松子は単に男運が悪かったのだろうか。彼女は男に愛されていないと自分の存在を感じられない、あるいは、自分が生きていると実感できない女だったのだろう。僕は上で「彼女の人生はまた愛という幻想に惑わされた人生だったともいえる」と書いた。「例え、行き先が地獄であったとしても龍について行けるなら幸せ」、どんなにひどい仕打ちを受けても「それでも一人でいるよりまし」という彼女の思い込みは幻想だったと思うからだ。「人の価値とは、人に何をどれだけしてもらったかではなく、人のために何をどれだけしたか」だというせりふが出てくるが、松子の愛は龍が最後に到達した「神の愛」とも違う。彼女は確かに人に尽くし人に愛を与えたが、それ以上に彼女は愛を欲していた。

  彼女が最後にたどり着いたのは何だったのか。彼女が最後に帰りつく場所、長い天に向かって続く階段の先にあった場所、それは家庭だった。天国への階段はいつの間にか家の階段に変わる。彼女があれほど飢えたように求め続けたものは家族の愛だった。彼女をはじめて「お帰りなさい」と迎えてくれたのは、松子があれほど嫉妬し邪険に扱ってきた妹だった。男の愛ではなく家族の愛だった。だからどの男も彼女の愛に応えられなかったのである。どの男にも満足できなかったのである。「放蕩息子の帰還」の女性版。放蕩娘はやっと帰ってきたのだ。天国にある家庭に。階段の先は光にあふれている。松子が何度も仰いだ星空は実家の階段の上にあった。

  この映画のテーマは「家庭」、あるいは「家族」だった。松子の甥笙が電話で父に、松子がいつも荒川を眺めていたのはふるさとの川に似ているからだと伝えたとき、あれほど松子を嫌っていた父(松子の弟)が初めて涙ぐむ。このエピソードもこの映画の主題がどこにあったかを暗示している。松子が妹の久美(市川実日子)にいつも辛くあたるのは父親の愛が病弱な妹にばかり注がれているからである。そう思うとあの変な顔をすると父親が笑うので何度もそれを繰り返し、それがいつの間にか癖になってしまったというのも悲しいエピソードなのである。

  松子は最初から「嫌われ松子」だったわけではない。最後に裏切られるまではむしろ輝いているときのほうが多かった。すべてをあきらめ、投げ出してしまって初めて「嫌われ松子」になった。だらしなく太り、悪臭を放つホームレスのような女の死体から始まり、その女にいったいどんな人生があったのかを逆にたどってゆく展開。何がこの女の人生の躓きになったのか。そういう関心からこの映画を観ることも可能だ。「絵はがきの少女」とちょうど逆の展開。それだけに、松子の最初の躓き、学校を追われるエピソードがあまりにもいい加減なのが惜しまれる。ありえない話だ。

  この映画はまた、「カーテンコール」「ALWAYS三丁目の夕日」などに通じる懐かしさも併せ持っている。松子の人生の展開に合わせて、当時の時代風潮が描き出されてゆく。オイルショックでトイレットペーパーを買占めたり、ソープではなくトルコ風呂と呼ばれていたり、光ゲンジが出てきたり。中山千夏の「あなたの心に」、天地真理の「水色の恋」そして和田アキ子の「古い日記」など、劇中に流れる曲も懐かしい。中でも「あなたの心に」は本当に懐かしかった、涙もの。一方いまどきの木村カエラ、BONNIE PINK、AIの曲もよかった。特に何度か流れる「LOVE IS BUBBLE」がいい。豪華配役以上に堪能できた。

  もちろんキャストもなかなかのもの。特に香川照之、柄本明、市川美日子、黒沢あすか、そして劇団ひとりは出色。だが何といってもすごいのは主演の中谷美紀。演技力の点では宮沢りえがダントツだが、歌って踊れて演技もできるという点では柴崎コウと双璧。だいぶ監督に泣かされたそうだが、その甲斐あってこれは彼女の代表作になるだろう。「博士の好きな数式」の深津絵里と並ぶ今年の収穫。年末にはいろいろな賞を争うことになるだろう。そうそう、忘れてはいけない。彼女自身が歌っている主題曲「まげてのばして」も実にいい曲だ。映画を観終わった後しばらくは頭からこのメロディが離れなかった。サントラ盤の曲目リストを見ていたら欲しくなった。サントラ盤は滅多に買わないが、これは欲しい。

2006年6月24日 (土)

映画の小道具

 今日映画に関するある講座に参加してきた。2年ほど前から行われている講座で、できTeablue_1 る限り参加している。先月はバスを仕立てて「博士の愛した数式」のロケ地めぐりをする企画があった。残念ながら平日だったのでいけなかったが、これはぜひ参加したかった。

  それはさておいて肝心の講座のほうだが、講師はフィルム・コミッションのKさん。今回のテーマは「時代劇」。毎回現場の人でないと分からない面白い話が聞けるのだが、今回の話は特に面白かった。中でも小道具の話は目からうろこが落ちる思いだった。まあ順を追って説明しましょう。最初は普通の時代劇の話。今まで上田ではそれほど時代劇の撮影は行われていなかった。それが「たそがれ清兵衛」の真田広之と大杉漣が決闘するシーンを上田で撮って以来増えてきている。あるいは、普段時代劇に出ている俳優が上田に来て現代劇を撮ってゆくケースも増えているそうだ。

 面白かったのはその後の小道具の話。Kさんによれば、変化が激しく、しかも古いものをすぐ捨ててしまう「使い捨て文化」になってしまった日本では、10年前でも時代劇になってしまうという。10年前にあったものが撮影しようとするともう手に入らないというのだ。まあ、10年前はオーバーかもしれないが、何も時代劇といっても江戸時代から前の時代と限ることはなく、大正や昭和(特に戦前)だって時代劇だという指摘はうなずけるものがある。

 昭和の時代は「ALWAYS三丁目の夕日」の大ヒットで今注目されている。ところが、例えば電気製品などを例にとれば、次々と新しい製品が現れしかも使い捨ての生活になれているので、ちょっと前の時代を撮ろうとすると小道具が手に入らないらしい。まあ電気製品ならまだ作っている会社に頼めば作った製品は保存してあるので何とか借りることはできる。困るのは日常的でほとんど保存しておく価値のないもの。いい例が新聞に折り込まれるチラシ。言われてみれば、これは確かにどこの家庭も保存はしない。新聞と一緒に捨ててしまう。しかし、例えば昭和20年代の折込チラシの本物があれば、ぐっと画面にリアリティが出る。値段もその当時の金額が分かるし、「バーゲン・セール」ではなく「大売出し」とか「特売」とかの文字が躍っている。今の感覚でそれらしいものを作ってもリアリティは出せない。新聞そのものは新聞社に保存されているのでいくらでも再生が可能だ。その新聞の隣にたとえ一枚でも本物のチラシが置いてあれば実にリアルな画面になるというわけだ。映画の撮影で必用なのはごく普通の家屋やそれ自体は何てことはない生活の道具なのである。

 そんなものが映画の撮影に役立つなどと普段意識して生活していないし、映画を観るときも小道具など特に注意して観てはいない。だからこの話は新鮮だった。テレビなどの撮影なら、小道具が手に入らなければそこをカットするか、別のもので代用してしまう。しかし映画の場合は監督のこだわりようが違う。たとえば、「博士の愛した数式」で手紙を出すシーンがあるが、手紙の重さを計る昔の秤が手に入らなくて散々苦労したらしい。郵便局に行ってもそんなものは全部処分してしまってどこにもないという。逓信博物館だかにはあるが貸してもらえなかった。フィルム・コミッションも頭を抱えたが、ネットオークションで何とか手に入れたそうである(そんなものがオークションに出ているのか!)。

 Kさんが言うにはリサイクル店に行ってもあるのは新しいものばかり。骨董屋では扱っていTel_w2ない。本当に欲しいものがどこにもない。撮影で借りた家を片付けているときにぜひ欲しい小物を見つけることもあるそうだが、個人の所有物を欲しいといってもらってくるわけには行かない。高級なものなどいらない。何でもないありふれたものが必要になる。しかしそ れがない。みんな捨ててしまう。昔の鉄道やバスの切符、切符にパンチ穴を入れる鋏(どこの駅か分かるように切れ込みの形が全部違っていた)。切符が自動販売機になる前使っていた切符に印字する機械。こういったものは自動化(機械化)あるいは更新されたとたんにこの世から消えてなくなってしまう。

 興味深かったのはラムネのビン。戦時中の昭和17、8年頃のビンが手に入らないらしい。この時代は戦争による物資不足で、ガラスなら何でも溶かして間に合わせに作っていたらしい。だからそれ以前やそれ以後のものと比べると一目で違いが分かるそうだ。それが1本テーブルにでも置いてあるだけで、当時の生活がどれほど苦しいものだったか分かる。なるほど確かにそうかも知れない。リアリティは細部に宿る。観ているほうにそれだけの識別眼や知識があるかは別として。例のラムネビンは、ラムネの製造会社に日参して拝み倒し、「そこまで言うのなら」とやっと1本もらってきたそうだ。たまたま近所のフリーマーケットで絶対に手に入らないといわれていた昔の電車の切符を1枚200円で買ったこともあったそうだ。もちろん悟られて値段をつり上げられないように、何食わぬ顔でほしくもない切符も一緒に買ってきたそうである。別段彼個人が趣味で集めているわけではない。何かの撮影で必要になるかもしれないと思うから手に入れておくのである。しかしまあ、フィルム・コミッションの仕事とは大変なものだ。撮影の許可を取ったり、ロケ地の案内、弁当やバス等の手配だけではない。そんなことまでやっているとは知らなかった。

  普段からそういうものを収集しておけばいいのだが、そのためには広大な敷地と巨大な倉庫が必要となる。撮影所を持っている映画会社ならそれなりに持ってはいるだろうが、スペースに限界があるので何でもそろっているわけではない。だから撮影スタッフやフィルム・コミッションが撮影の度に苦労するのである。国家が映画製作を支援している韓国の釜山には巨大な倉庫があり、膨大な数の小道具等がそろっているそうだ。一度中を見せてもらったときに驚嘆したという。

  こんな具合に話が文化論にまで及んで面白かった。使い捨て文化が進行する一方で、「何でも鑑定団」以来、人が古いものすべてに価値があると思い込んでひそかに隠し持って手放さない傾向が現れているという指摘も面白かった。持っているのに聞くとないと答えるという。あるいは貸してくれる場合もあるが、借り賃を要求したり保険を掛けてくれと言ってくるようになったそうだ。その一方で学校が廃品回収を始めてから、日常のなんでもないものが手に入りにくくなったとも言っていた。あるいは、特定のものにはコレクターがいて、非常に貴重なものまでそろっているが、なかなか貸してもらえないという。かといって、フリーマーケットやネット・オークションで「掘り出し物」が出るのを待っているようでは情けない。ともかくそんな社会に今の日本はなってしまったということである。

 講演後の雑談の中で、各家庭でいらなくなったものを市で集めて倉庫に保管するようにできないか、ただ保管するだけではもったいないので普段は博物館として公開してはどうか、貴重なものを持っている人のリストを作って必要なときだけ貸してもらえば場所をとらなくていい、などの意見が出た。というわけで、実に面白く、いろいろ考えさせられた講演でした。

<追記>
  小道具の話で忘れていたが、前から気になっていた韓国映画「青燕」のことを追加しておきます。気になっていたのはその映画に僕がエキストラとして参加していたからです。その時のことは本館HP「緑の杜のゴブリン」の「そら日記より」コーナーにある「韓国映画『青燕』にエキストラ出演」という記事に詳しく書いてあります。参加したのは04年の5月29日。この映画は韓国初の女性パイロットを描いた映画。日本で訓練を受け、資格取得後の初フライトで韓国に帰る途中事故で墜落死してしまう。

  初フライトで事故死してしまったため歴史に埋もれていた女性を発掘してきた映画です。その年の内に編集を終え、05年の正月ごろには日本でも公開される予定でした。しかしいつまでたっても公開されないのでどうしたのかずっと気になっていたわけです。それがこの日の話の中で事情が判明しました。竹島問題で引っかかっていたのです。韓国で上映されたときに、一部の人たちがプラカードを持って映画を観ないよう呼びかけていたりした。そういう事情なので日本の輸入会社も二の足を踏んでいるということのようです。

  政治問題の狭間で1本の映画が宙に浮いてしまっている。日本が過去の問題にきちんと決着をつけずにずるずる来てしまっているから、竹島問題にも過去のわだかまりが絡み複雑な問題になってしまう。自分が映っている場面がカットされずに残っているかも気になるが、この映画の行方も気になる。韓国の映画やドラマが大量に輸入されている影で、政治に翻弄され上映が見合わされている映画があることを心に留めておいてください。

カーテンコール

Cyou 04年 日本 05年11月公開
監督:佐々部清
原案:秋田光彦
脚本:佐々部清
撮影:坂江正明
出演:伊藤歩、藤井隆、鶴田真由、奥貫薫、津田寛治
    橋龍吾、田山涼成、栗田麗、伊原剛志 黒田福美
    井上堯之、藤村志保、夏八木勲、水谷妃里、福本清三

  この映画が扱う時代は昭和30年代から40年代と現代である。昭和30年代から40年代の日本映画界といえば頂点から急速な衰退へと移行してゆく時代に当たる。そのあたりを以前「近頃日本映画が元気だ」という文章に簡潔にまとめたことがあるので、そこから一部引用しておこう。

  しかし60年代の高度成長期に入りテレビが普及してくると、映画はテレビに次第に押されてゆき、長期低落の傾向が顕著になってくる。60、70年代には市川崑、今村昌平、浦山桐郎、岡本喜八、黒木和雄、熊井啓、新藤兼人、勅使河原宏、野村芳太郎、羽仁進、増村保造、山田洋次、吉田喜重などの新しい世代が活躍するが、もはや巨匠の時代は終わったといってよいだろう。

  それでもまだ今よりは活況を呈していた。この時代に様々な大ヒットシリーズが生まれている。70年代の東映を支えた「仁義なき戦い」、「トラック野郎」の2大ヒットシリーズ、それらと並ぶ東映の看板作品となった「網走番外地」シリーズ。東映はまた美空ひばり主演の映画も数多く製作した。ひばりと結婚したマイトガイ小林旭は石原裕次郎、「拳銃無頼帖」シリーズの赤木圭一郎とならんで日活の人気を支えた。松竹のご存知「男はつらいよ」シリーズは、第1作発表後27年間に48作が製作される大ヒットシリーズとなった。大映は勝新太郎の3大人気シリーズ、「座頭市」シリーズ、「兵隊やくざ」シリーズ、「悪名」シリーズを放ち、市川雷蔵主演の「陸軍中野学校」シリーズも大ヒットさせた。植木等の「無責任&日本一」シリーズとクレイジーキャッツの「クレイジー作戦」シリーズは喜劇の東宝。東宝はこの他にも森繁の社長シリーズと駅前シリーズ、加山雄三の若大将シリーズなどヒットシリーズをいくつも抱えていた。

  「カーテンコール」の特に前半は数々のヒット作を生んできた日本映画へのオマージュであり、懐かしい映画がたくさんスクリーンに登場する。「いつでも夢を」、「下町の太陽」、「網走番外地」、「続・男はつらいよ」等々。名作というよりも広く大衆に支持されたヒット作品、いわゆるプログラム・ピクチャーズが中心。音楽も倍賞智恵子の「下町の太陽」(歌が先にヒットし、翌年山田洋次が映画にした)、橋幸夫と吉永小百合のデュエットで大ヒットした「いつでも夢を」とグループ・サウンズ時代を代表するザ・タイガースの名曲「花の首飾り」がなつかしい。〝星よりひそかに 雨よりやさしく〟という「いつでも夢を」のメロディーは何度も流れ、特に最後の重要な場面では効果的に使われていた(「いつでも夢を」と「寒い朝」は今でもファンが多い名曲だ)。テレビが普及し映画が斜陽になってきた頃の代表曲が「花の首飾り」。64年の東京オリンピックを期に一気に普及したテレビという媒体を得て爆発的に広まったGSブーム(60年代後半)の中心にいたのは、ジュリーこと沢田研二というカリスマ的ヴォーカリストを擁したザ・タイガース(「チデジン」岸辺一徳と岸辺シロー兄弟もメンバー)。「花の首飾り」はそんな新しい時代を象徴する曲として映画の中で歌われている。堺正章、井上順、かまやつひろしが在籍したことで有名なザ・スパイダースの名も出てくる(”歌詞間違えて、スッパイダース” というギャグ)。「パッチギ」の冒頭でもオックスの有名な失神コンサートが出てくるが、まさにあの時代だ。佐々部清監督の「チルソクの夏」で描かれる時代はさらにその10年くらい後の77年である。

  この映画の事実上の主人公は、地方の小さな映画館“みなと劇場”に勤めながら日本映画の歴史とともに生きてきた一人の幕間芸人・安川修平である。安川修平の若い頃を藤井隆、年老いた頃を元ザ・スパイダースのメンバー井上堯之が演じている。今では消息不明となった安川修平を、ある失敗が元で福岡のタウン誌に異動させられた橋本香織(伊藤歩)が取材することになり、彼の人生を再構成しつつ遂にはその行方を突き止めるというのがメインのストーリーである。

  香織の実家は下関である。そこには疎遠になった父が住んでいた。香織は実家から通いながら取材を続ける。したがって「チルソクの夏」、「四日間の奇蹟」と共に下関三部作を形作っている。最初に観た佐々部清監督作品は「半落ち」。これにはがっかりした。しかし「チルソクの夏」は若い出演者たちの演技が未熟で完成度の高い作品とはいえないが、映画に込められたメッセージは強く胸に迫ってきた。「四日間の奇蹟」は未見。3本目となる「カーテンコール」もストレートで甘い映画だが観客の心をつかんでぐいぐい引きずり込んでゆく力を持った作品だ。これが3本の中では一番出来がいいと思う。ただし「チルソクの夏」と「カーテンコール」に共通する在日というテーマに関しては「チルソクの夏」の方がずっと深く追求している(だからこそ俳優たちのつたなさを超えて芯にあるテーマが胸に訴えかけてくる)。

  香織が与えられた仕事は<懐かしマイブーム>の取材。一通の葉書が彼女の関心を引いた。そこには「昭和30年代終わりから40年代中ごろまで 下関の映画館にいた幕間芸Komachi1_1 人を探して欲しい」と書かれていた。まさにテーマにうってつけの素材。香織はさっそく“みなと劇場”へ安川修平の取材に行く(「あの子を探して」の看板が見える)。館主は代替わりしていて修平のことは覚えていなかった。幸い昭和33年(東京タワーができた年、「ALWAYS三丁目の夕日」の時代)からそこに勤めているという宮部絹代(藤村志保)から話を聞くことができた。「絹代」という名前は明らかに田中絹代を意識して付けられている。「風の中の牝鳥」、「夜の女たち」、「西鶴一代女」、「煙突の見える場所」、「雨月物語」、「山椒大夫」、「流れる」、「彼岸花」、「サンダカン八番娼館 望郷」など日本映画を代表する数々の名作に出演してきた大女優である。ここにも先達に対する監督のオマージュがある。

  宮部絹代が語ったのは修平が映画館で雇われ、やがてひょんなことから芸人としての才能を買われ幕間芸人として人気を博した絶頂期から、映画が斜陽になり遂には首になるまでの彼の半生だった。彼の人生の浮き沈みは見事に映画産業の隆盛、衰退と軌を一にしていた。修平の半生を語りながら当時の映画館の様子が描かれる。絶頂期にはもう1軒映画館を経営していたので上映が終わったフィルムを自転車で修平が運んでゆく。法被を着てビラ配りや呼び込みをやり、映画館の前にできた行列を整理する。映画館前の雑踏や館内の立ち見客が時代を感じさせる。回想場面はモノクロなのだが、映される映画はカラーになっているのが面白い(昔は「総天然色」と麗々しく謳っていたものだ)。香織がホールのドアを開けて中に入るとそこは昔の空間で、彼女だけがカラーで周りの観客が白黒というシュールな場面もあった。

  修平が単なる雇い人から芸人になったきっかけは「座頭市物語」だった。昔は途中でフィルムが止まってしまうことがよくあった。投光機の熱でフィルムが見る見る溶けて行くのが見えることもあった。珍しくもないことだから普通なら特に騒ぎになることはないが、この場合は切れた場面が悪かった。座頭市(勝新太郎)と平手造酒(天知茂)の映画史上有名な決闘場面の最中にフィルムが止まってしまったのだ。観客が「馬鹿野郎、何だ肝心なところで」とばかりに怒り出すのも無理はない。騒然とする観客をなだめようととっさに修平が舞台に上がる。驚いて見守る観客たち。修平はいきなり箒を刀に見立てマイク片手に効果音を出しながら座頭市の殺陣のまねを始める。これが受けた。気を良くして歌まで歌い始める。満場やんやの喝采。この瞬間形態模写の芸人安川修平が誕生した。「形態模写」という言葉が懐かしい。「声帯模写」や「声色(こわいろ)」という言葉もあった。どれも今では死語。「ものまね」という言葉が新しく出てきたときには変な言葉だと当時は違和感を感じたものだ。

  とまあ、こんな事情でいきなり「幕間芸人」になってしまった修平。そんなわけだからどこの地方にもそんな芸人がいたわけではないだろう。少なくとも僕は見たことも聞いたこともない。ともかく、僕の子供の頃は幕間にはニュース映画を流していたものだ。あるいは全国を探せば似たようなことをやっていた人は他にもいたかもしれないが。

  話を修平本人に戻そう。後半との関連で重要なのは話をした宮部絹代が日本人だということ。彼女は、安川修平が来たのは36年だが、なぜか正社員にはならなかったと言っていた。その理由が後半で明らかになる。実は修平は在日コリアンだったことが判明する。香織はさらに調査を進め(その間にかつての同級生金田信哲(橋龍吾)が民団で活動していることを知る)、修平と妻の良江(奥貫薫)の間にできた娘美里が近くに住んでいることを突き止める。この良江を演じた奥貫薫が素晴らしい。良江と修平の出会いの場面(破れ目をガムテープで補修したロビーのイス!)や“みなと劇場”の舞台で挙げた結婚式、そして妻と子供を舞台に上げて挨拶した最後の舞台(「たった一人のファンはこいつでした、女房です」)の場面は感動的だ。藤井隆も力演だったが静かに彼を支える奥貫薫の姿が素直に心を打つ。

  香織は美里(鶴田真由)に会いに行く。どこか反応が変だ。迷惑そうに見える。何度もしつこいくらい食い下がって、やっと修平が済洲(チェジュ)島出身で母は大分出身(美里が5歳のときに亡くなる)、“みなと劇場”を首になった後はキャバレーなどで歌を歌っていたが長くは雇ってもらえなかったこと(「所詮は素人の芸だったんよ」という言葉が痛い)、そしてついには食ってゆけなくなり「いい子にしていたら迎えに来るけえ」といったまま結局二度と現れなかったことなどを聞き出す。美里は父を恨んでいたのだ。鶴田真由があっと驚く変身ぶりで、暗い影を背負って生きてきた女性の悲しい人生を見事に演じている。この後半部分は泣かせどころ満載で、安易なお涙頂戴ものになるぎりぎりのところで抑えているが、安っぽい人情ものと批判する人もいるだろう。父を嫌っている美里に、そうは言ってもお父さんには会いたいはずだと香織がしつこく食い下がるところは僕も押し付けがましさを感じた。しかし、映画の衰退とともにどこへともなく姿を消した修平の後半生が次第に明らTuki_gura_250_04_1 かになってゆく後半部分は、ミステリーのような面白さだけではなく、在日として日本で生きる辛さ、時代に取り残された人物の哀れさ、それと同時にそれでも何とか生き抜いてきたたくましさが前面に出た展開になり、ストーリーにぐっと厚みが増す。その点を評価したい。

  香織はついに修平の居所を確認し、済洲島まで会いに行く。家の中から出てきた老人(井上堯之)が「安川修平さんですね」と問いかけられ、ニコっと笑った顔が実に素晴らしかった。やっと連絡が取れた修平は閉館が決まった“みなと劇場”(撮影されたのは北九州市にある「八幡有楽映劇」という実在の映画館)にゲストとして参加する。「さよなら終幕 みなと劇場 61年間ありがとうございました 8月15日」と書かれた横断幕。その横に「懐かしの幕間芸人安川修平」と書いた立て看板。さらにその横に「閉館のお知らせ」の小さな看板。何十年かぶりに舞台に上がって修平がしわがれ声で歌った「いつでも夢を」はまさに絶品。先代館主の遺影を舞台に向けてそっと劇場の隅に立つ館主。香織の目には涙が。

  映画の最後は済洲島への美里の旅。ここは書きたいところだがぐっと我慢しよう。思えばこの映画は人生の旅を描いていたのかもしれない。時代の波に翻弄され押し流されながらも、最後は自分のペースで歩いてきた修平の旅。その修平の下へ今度は娘の美里が旅立ってゆく。いつまで待っても帰ってこなかった父。なら自分から行こう。ストレートな展開なのでラストの予想が付いてしまうが、それでも悪くないラストだ。

  原案を作った秋田光彦は「原案は私が高校時代、大阪・千日前で目撃した幕間芸人が元になってはいるが、映画のシナリオは佐々部監督のオリジナルである」と語っている。佐々部監督は「 最初は、日本映画が活気のあった時代の自分にとっての『ニュー・シネマ・パラダイス』を撮ろう、と考えていたのですが、撮っているうちに、どんどん家族が出てきた。最終的には『ニュー・シネマ・パラダイス家族編』になりました」とインタビューに答えている。この映画の特徴がよく説明されている(ちなみに、よく似た映画にマルチェロ・マストロヤンニ主演の「スプレンドール」というのもある)。

  キャストもなかなか豪華にそろえてある。上で紹介したほかに、東京時代の上司に伊原剛志、香織の父は夏八木勲、ミニコミ誌の編集長には黒田福美、劇場の映写技師には福本清三、若い頃の宮部絹代を水谷妃里、美里の夫役に津田寛治、高校時代同級生金田信哲に橋龍吾。

  「ALWAYS三丁目の夕日」もそうだが、どうしてもこの手の懐古趣味の映画は甘い人情話になってしまう。そこが魅力でもあるが物足りないところでもある。しかし満点は付けられないにしても好ましい作品であることは率直に認めたい。昨年の日本映画は実に充実していた。まだ「ゲルマニウムの夜」、「埋もれ木」などを見落としてはいるが、最後に昨年の日本映画マイ・ベストテンを上げておこう。5点満点をつけたものは1本もない。すべて4点。一応の順位はつけてあるが、ほとんど横並びに近い。

  1.  メゾン・ド・ヒミコ            犬童一心監督
  2.  運命じゃない人            内田けんじ監督
  3.  ALWAYS三丁目の夕日       山崎貴監督
  4.  いつか読書する日          緒方明監督
  5.  パッチギ                井筒和幸監督
  6.  カーテンコール             佐々部清監督
  7.  村の写真集              三原光尋監督
  8.  フライ、ダディ、フライ          成島出監督
  9.  リンダ リンダ リンダ        山下敦弘監督
  10.  青空のゆくえ             長澤雅彦監督
  11.  NANA                  大谷健太郎監督

2006年6月20日 (火)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年7月)

  新作はいまひとつの感がある。ただ、「ゴブリンのこれがおすすめ 18」で中国映画の公開数がやっとまた伸びてきたと書いたばかりだが、さらに2本増えた。喜ばしい限りである。
  一方DVDは花盛り。今年始めに封切られた作品が一気にDVD化される。特に「博士の愛した数式」はおすすめ。「クラッシュ」、「シリアナ」、「ジャーヘッド」も期待度大。旧作DVDもすごい。木下恵介監督の選りすぐりの傑作がバラで出る。BOXをもっていない人は全部買ってもいいくらい。それだけの価値はある。数が多すぎるので「カルメン故郷に帰る」だけ挙げておきます。その他ヌーヴェル・ヴァーグの代表作2作やマックス・オフュルスの珍品まである。

【新作映画】
6月17日  
 「ジャスミンの花開く」(ホウ・ヨン監督、中国)
7月1日  
 「レイヤー・ケーキ」(マシュー・ボーン監督、イギリス)
 「美しい人」(ロドリゴ・ガルシア監督、アメリカ)
7月8日  
 「胡同(フートン)のひまわり」(チャン・ヤン監督、中国)
 「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム監督、カナダ・イギリス)
 「ゆれる」(西川美和監督、日本)
 「チーズとうじ虫」(加藤治代監督、日本)
7月15日
 「時をかける少女」(細田守監督、日本、アニメ)
 「ハイジ」(ポール・マーカス監督、イギリス)
 「奇跡の夏」(イム・テヒョン監督、韓国)
7月22日  
 「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」

【新作DVD】
6月21日  
 「歓びを歌にのせて」(ケイ・ポラック監督、スウェーデン)
6月23日  
 「ダウン・イン・ザ・バレー」((デヴィッド・ジェイコブソン監督、米)  
 「ドア・イン・ザ・フロア」(トッド・ウィリアムズ監督、米)
 「あおげば尊し」(市川準監督、日本)
7月5日
 「SAYURI」(ロブ・マーシャル監督、アメリカ)
7月7日
 「博士の愛した数式」(小泉堯史監督、日本)

 「ヘイフラワーとキルトシュー」(カイサ・ラスティモ監督、フィンランド)
7月14日
 「クラッシュ」(ポール・ハギス監督、米独)
 「シリアナ」(スティーブン・ギャガン監督、アメリカ)
7月28日
 「ジャーヘッド」(サム・メンデス監督、アメリカ)

【旧作DVD】
6月21日
 「カジュアリティーズ」(69、ブライアン・デ・パルマ監督、米)
6月23日
 「誓い」(81、ピーター・ウィアー監督、オーストラリア)
 「南部の人」(45、ジャン・ルノワール監督、フランス)
 「フィオリーレ 花月の伝説」(93、タヴィアーニ兄弟、伊仏独)
6月24日
 「死刑台のエレベーター」(57、ルイ・マル監督、フランス)
 「地下鉄のザジ」(60、ルイ・マル監督、フランス)
 「魅せられて」(49、マックス・オフュルス監督、アメリカ)
 「カルメン故郷に帰る」(51、木下恵介監督、日本)
7月14日
 「マルクス一番乗り」(37、サム・ウッド監督、アメリカ)
7月21日
 「ウォーターシップダウンのうさぎたち」(78、マーティン・ローゼン監督、アニメ)

2006年6月19日 (月)

ゴブリンのこれがおすすめ 18

チェン・カイコー監督Akizr1a
■マイ・ベスト5
1 「さらば、わが愛/覇王別姫」(93)
2 「子供たちの王様」(87)
3 「大閲兵」(85)
4 「黄色い大地」(84)
5 「始皇帝暗殺」(98)

チャン・イーモウ監督
■マイ・ベスト10
1 「活きる」(94)
2 「紅いコーリャン」(87)
3 「紅夢」(91)
4 「初恋のきた道」(00)
5 「HERO」(02)
6 「あの子を探して」(00)
7 「菊豆」(90)
8 「至福のとき」(02)
9 「キープ・クール」(98)
10 「秋菊の物語」(92)

■気になる未見作品
 「一人と八人」

コン・リー
■マイ・ベスト5
1 「活きる」(94)
2 「紅夢」(91)
3 「さらば、わが愛/覇王別姫」(93)
4 「紅いコーリャン」(87)
5 「きれいなおかあさん」(01)

■気になる未見作品
 「テラコッタ・ウォリア」(89)

中国映画
■おすすめの中国映画(チェン・カイコー、チャン・イーモウ作品を除く)
「天雲山物語」(1980) シェ・チン監督
「標識のない川の流れ」(1983)  ウー・ティエンミン監督
「黒砲事件」(1985) ホアン・チェンシン監督
「最後の冬」(1986) ウー・ツーニュウ監督
「恋愛季節」(1986) ウアルシャナ監督
「スタンド・イン 続黒砲事件」(1987) ホアン・チェンシン監督
「芙蓉鎮」(1987) シェ・チン監督
「古井戸」(1987) ウー・ティエンミン監督
「北京物語」(1987) チェン・トンティエン監督
「乳泉村の子」(1991) シェ・チン監督
「心の香り」(1992) スン・チョウ監督
「青い凧」(1993) ティエン・チュアンチュアン監督
「女人、四十」(1995) アン・ホイ監督
「變臉この櫂に手をそえて」(1995)  ウー・ティエンミン監督
「宋家の三姉妹」(1997) メイベル・チャン監督
「シュウシュウの季節」(1998) ジョアン・チェン監督
「スパイシー・ラブスープ」(1998) チャン・ヤン監督
「きれいなおかあさん」(1999) スン・ジョウ監督
「こころの湯」(1999) チャン・ヤン監督
「山の郵便配達」(1999)  フォ・ジェンチイ監督
「西洋鏡」(2000) アン・フー監督
「鬼が来た!」(2000) チアン・ウェン監督
「思い出の夏」(2001) リー・チーシアン監督
「ハッピー・フューネラル」(2001) フォン・シャオガン監督
「インファナル・アフェア」(2002) アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督
「上海家族」(2002) ポン・シャオレン監督
「涙女」(2002) リュウ・ビンジェン監督
「小さな中国のお針子」(2002) ダイ・シージエ監督(フランス)
「ションヤンの酒家」(2002) フォ・ジェンチイ監督
「 わが家の犬は世界一」(2002) ルー・シュエチャン監督
「ココシリ」(2004) ルー・チュ-アン監督 
「キムチを売る女」(2005) チャン・リュル監督 
「胡同(フートン)のひまわり」(2005) チャン・ヤン監督 
「孔雀 我が家の風景」(2006) クー・チャンウェイ監督 
「長江哀歌」(2006) ジャ・ジャンクー監督
「トゥヤーの結婚」(2006) ワン・チュアンアン監督
「胡同の理髪」師(2006) ハスチョロー監督
「戦場のレクイエム」(2007) フォン・シャオガン監督
「ラスト、コーション」(2007) アン・リー監督 
「千年の祈り」(2007) ウェイン・ワン監督
「花の生涯~梅蘭芳」(2008) チェン・カイコー監督
「小さな村の小さなダンサー」(2009) ブルース・ペレスフォード監督、豪
「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」(2009) ジョニー・トー監督、フランス・香港
「再会の食卓」(2010) ワン・チュアンアン監督
「無言歌」(2010) ワン・ビン監督、香港・フランス・ベルギー
「北京の自転車」(2000) ワン・シャオシュアイ監督、中国・台湾
「桃さんのしあわせ」(2011) アン・ホイ監督、中国・香港

  韓国映画に押されてか、ここ数年中国映画の公開本数が極端に減っていた。それが今年に入ってチャン・イーモウ監督の「単騎、千里を走る」、チェン・カイコー監督の「PROMISE」、チャン・ユアン監督の「緑茶」、シャオ・チアン監督の「玲玲(リンリン)の電影日記」、ルー・チューアン監督の「ココシリ」と立て続けに公開された。DVDでも1963年製作の「早春二月」(サイ・ティエリ監督)が発売される(今月の21日)。これらはまだ1本も観ていないが、中国映画が日本で勢いを盛り返しているのはうれしいことだ。
  朝日新聞の6月16日付「中国電影100年 下」という記事によると、05年に製作された中国映画は260本で前年比23%増、史上最多の記録を作ったそうである。中国もご他聞にもれずシネコン・ブームとのこと。ただ外国映画の輸入数が増えると懸念されているので喜んでばかりもいられないようだ。いずれにしても、そのほんの一部しか日本で公開されていないのは惜しい。中国映画祭なども開催されているが、DVD化されなければ地方に住むものには観る機会がない。もっとどんどん輸入し、DVD化してもらいたい。知られざる傑作はまだまだあるはずだ。

2006年6月18日 (日)

古井戸

1987年 中国 87年11月公開 Kaidan
監督:ウー・ティエンミン
原題:老井
原作: チョン・イー(鄭義)著『老井』 
脚本: チョン・イー 
撮影: チェン・ワンツァイ、チャン・イーモウ 
音楽: シュイ・ヨウフー 
出演:チャン・イーモウ、リャン・ユイジン、ニウ・シンリー
    ルー・リーピン

はじめに
  呉天明(ウー・ティエンミン)監督の「古井戸」。懐かしい映画だ。今観てもまったく色褪せていない。個人的には初めて中国映画をまとめてみた中の1本。文芸座で開催された「中国映画祭‘87」で観たのである。僕の映画自伝「あの頃名画座があった(改訂版)⑧」からその辺の事情を引用しておく。

  何といっても個人的に思い入れが強いのは文芸座で開催された「中国映画祭‘87」である。10月31日から12月1日までの期間で8本が上映された。もちろん8本全部を観た。料金は一般1500円、学生1300円、前売り1200円。初めて観た中国映画はチェン・カイコーの「大閲兵」である。僕にとって思い出深い映画だ。他に「黒砲事件」、「恋愛季節」、「最後の冬」、「死者の訪問」、「スタンド・イン」、「盗馬賊」、「古井戸」を観た。最後の「古井戸」はこの年の第2回東京国際映画祭のグランプリ作品。

  東京国際映画祭は85年の第1回しか観に行っていない。まだ東京にいたにもかかわらず第2回は1度も足を運んでいない。チケットを手に入れるのが面倒だったのか込み合うのを嫌ったのか理由は覚えていない。それはともかく、文芸座で「古井戸」を観たのは87年の11月27日。今から20年近く前になる。情けないことにほとんど忘れていた。あの岩だらけのごつごつした地形、山また山の独特の景観は今回観直して鮮烈に記憶に残ったが、なぜかまったく覚えていなかった。食器を洗う時に使う表面が波状にでこぼこしているスポンジ、その波型を不規則に並べたような地形が見渡す限り続いている奇観。全県山ばかりの長野県でも見たことがない摩訶不思議な景観だ。地面には平べったい石が一面に転がっている。それが全然覚えていない。ただ井戸を掘っていたということと、いい映画だったということしか記憶になかった。いやはや年はとりたくないものだ。

呉天明(ウー・ティエンミン)監督
  監督のウー・ティエンミンは、「北京物語」(87年)の鄭洞天(チェン・トンティエン)監督や「北京の思い出」(82年)の呉胎弓(ウー・タイコン)監督と並ぶ中国第四世代を代表する監督。中国の監督や俳優の場合、名前を思い浮かべるときに最初に漢字が浮かぶかカタカナが浮かぶかで世代が分かる。90年代の半ばごろに表記が漢字からカタカナに変わったので、80年代から知っている世代は漢字が先に浮かび、90年代後半から知った名前はカタカナしか知らない。呉天明(ウー・ティエンミン)、謝晋(シエ・チン)、陳凱歌(チェン・カイコー)、張芸謀(チャン・イーモウ)、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)などは僕にとって漢字世代。リー・チーシアン(李継賢)、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)、アン・フー(胡安)、ポン・シャオレン(彭小蓮)など後の世代は逆に漢字で書かれると誰だか分からない。90年代の前半から半ばにかけては表記がだいぶ揺れている。手書きの映画ノートを見ると、例えば同じ91年に観たものでも「桑の葉」はカタカナ表記だが、同じ韓国映画でも「ディープ・ブルー・ナイト」は漢字表記になっている。香港映画「風の輝く朝に」はカタカナ、台湾映画「冬冬の夏休み」は漢字で、韓国映画「旅人は休まない」は漢字の後に括弧してカタカナを付けている。この三つの形式は95年まで混在したままで続いている。96年以降はカタカナで統一されている。僕のノートで見る限り、この頃が切り替えの年ということだろうか。

  ウー・ティエンミン監督は寡作である。監督作品は「CEO(最高経営責任者)」(02年)、「變臉 この櫂に手をそえて」(95年)、「古井戸」(87年)、「人生」(84年)、「標識のない河の 流れ」(83年)の5本しかない。このうち「CEO」と「人生」は未見。「變臉」はNHKの名作ドラマ「大地の子」で陸一心の育ての親を演じた名優朱旭(チュウ・シュイ)が主演。“變臉"とは「変面」つまり、顔に貼り付けた京劇のような隈取をした面を目にも留まらぬ早業で次々に変えてゆくというもの。両手を使ってやるのだが、1枚ずつ変えているのか最初から何重にも貼り付けてあるのを次々にはがしてゆくのか早すぎて分からない。四川地方に伝わる伝統芸で、まさに仰天もの。一度観たらさすがにこれは忘れない。ただドラマ自体は少々弱いと思った。「標識のない河の流れ」はNHKの教育で観た。もうほとんど覚えていないが、文革時代を背景にしていかだで河を行き来する3人の男たちを描いた作品。ゆったりとした河の流れが心地よいリズムを作っていた。非常に優れた映画だったと記憶している。かつてNHKが地上波で放送していたアジア映画は今となっては実に貴重だ。僕も10本以上ビデオに録画したが(「標識のない河の流れ」も録画してある)、いまだにほとんどDVDになっていない。

「古井戸」
  中国は広い。こういう映画を観るとつくづくそう思う。上海などの都市部では大規模な近代化が進んでおり、古い町並みは次々に壊されている。典型はフルーツ・チャン監督の「ハリウッド・ホンコン」のあの有名な場面。画面の手前には香港の貧民街が映っており、その背後の丘の上にはハリウッドという名の同じ形をした5つの超近代的高層ビルが立ち並んでいる。まさに黒澤明の「天国と地獄」。「わが家の犬は世界一」にも似たような場面があった。僕自身去年出張で大Mado_momizi_01連とフフホトに行ったときに近代化と貧困がすぐ隣に並存している様を実際に見てきた(「中国旅行記 中国の旅は驚きの連続だ」「中国旅行記余話」参照)。

  そうかと思うと、映画館ひとつなく移動映画館がたまにやってくるだけの小さな村があったり(「思い出の夏」)、まともな教育を受けていない代用教員が学校で教えている村があったりする(「あの子を探して」、「子供たちの王様」)。「山の郵便配達」や「小さな中国のお針子」の舞台も相当な山奥である。「最後の冬」(呉子牛監督、86年)にいたってはゴビ砂漠にある、地の果てとも思われる場所に設置された犯罪者労働改造農場が舞台。カラカラに乾いた大地以外文字通り何もない。

  カラカラ度では「古井戸」も負けてはいない。映画の冒頭あたりに天秤棒に桶を提げて水を運ぶシーンが出てくる。「水を汲むのに10キロ」というせりふが出てくるから想像を絶する大変な労働だ。まさに新藤兼人監督の「裸の島」(60年)の世界。中国の山西省の山奥の村が舞台だが、とにかく岩ばかりでカラカラの大地。平たい岩がごろごろ転がっている。山はその平らな岩が重なってできており、家も平らな岩を積み重ねて作ってある。村のいくつかの家系は代々井戸を掘ってきたが、いまだに空井戸ばかり。石灰岩の地層なので井戸を掘り当てるのが難しいのである。

  主人公の家は何代にもわたって井戸を掘り続ける孫一家。犠牲者もこれまでに何人も出してきた。映画の中でもチャン・イーモウ扮する旺泉(ワンチュアン)の父が事故にあう場面が出てくる。井戸に仕掛けた爆薬が不発だったので旺泉の父が井戸にもぐる。中で何か作業をしていたが、カチッカチッと音がしたとたん爆発する。火花が爆薬に引火したのだろう。井戸から炎と埃が吹き上げる場面は覚えていた。真上から覗くように撮っているのでぎょっとする。

  水を運ぶ村人の労働、井戸を掘る作業なども含めて、村での生活がリアルに描かれている。水がなければ生き物は生きてゆけない。ひとつの井戸をめぐって二つの村が対立し、ついには乱闘が起こる場面もある。一揆さながら手に手に鍬や棒切れを持って何十人という両村の男たちが本気で殴りあう。女も加わっている。しかもこの井戸は涸れ井戸なのである。水は出なくても井戸を使う権利を奪い合う。水はそれほど大切なもので、文字通り生命線なのである。一部の地域では水問題は今でも過去の問題となっていない。機械でボーリングすればもっと楽なのだろうが、こういう寒村ではそれだけの資金がない。すべて手掘りなのである。

  村の風俗や風習もリアルに描かれている。「初恋のきた道」でチャン・ツィイーが着ていた厚ぼったくて野暮ったいピンク色の服。この村でも女性はみんな同じような赤かピンクの服を着て、男はブルーの服を着ている。多少でもまともで垢抜けた服を着ているのは町に出て勉強してきた巧英(チャオイン)などのごく一部の人だけである。村で高校を出たのは旺泉と巧英(彼女は大学受験に失敗して村に戻ってきていた)と旺才(ワンツァイ)の外に2、3人いる程度。  そういう村だから当然古いしきたりも残っている。旺泉は巧英と恋仲だが、代々井戸を掘り続けてきた孫家は極度に貧しく、長男である旺泉は無理やり養子に出され、子持ちの寡婦喜鳳と結婚させられる。彼は婿だから毎朝″おまる″(室内便器として使われている壷)の中身を捨てさせられている。不平を言うが聞き入れてもらえない。こういった日常の描写が実にリアルである。

  原作者鄭義の作風はしばしば「グロテスク・リアリズム」と評される。原作の『老井』はかなり幻想的な作品のようだ。映画はかなりリアリスティックな作風に変えてあるが、冒頭の場面は原作を意識したのかそこだけ他とは違う独特の映像効果が施された印象的な映像になっている。画面は真っ暗で真ん中の上半身裸の男だけに一部光が当たっている。男は鉄の杭をハンマーで一心に打ち込んでいる。ひたすらハンマーを振り上げ打ち下ろす動作を繰り返す。男の顔は巧妙に映らないようにされているが、チラッと顔の一部が見える ので主演のチャン・イーモウだと分かる。ただそれだけなのだがぐいぐい引き付けられる力強い映像だった。真っ暗な背景に男の上半身がトルソーのように浮かび上がり、光と影の効果で筋肉の力強い動きが伝わってくる。まるでピカソの彫像が動き出したかのようだ(逆に言えば、優れた彫刻は静止していても動きが見える)。監督になる前に俳優と撮影監督として出発したチャン・イーモウの才能が光る素晴らしい映像美だった。

  チャン・イーモウの撮影監督としての才能は随所に発揮されている。井戸の中から入り口を撮った映像も見事だが、何といっても色の使い方が独特だ。「黄色い大地」、「紅いコーリャン」、「菊豆」、「紅夢」などで黄色や赤が効果的に使われていたが、「古井戸」でも赤が意識的に多用されていた。上記の井戸で爆発事故があった場面の後で、井戸の入り口が映される。被害者を運び上げたときに付いたと思われる血痕が井戸の周りに付着している。その後画面が切り替わり一面真っ赤な背景に被害者の戒名が書かれた白い小さな紙が映る。さらに切り替わるとそれが真っ赤に塗られた棺だと分かる。さらMoon43にその後に真っ赤な夕日が映る。真っ赤な色の棺桶など実際には使われないと思うのだが(他に2回棺が出てくるが、ひとつは白木のまま、もうひとつは黒い棺だった)、チャン・イーモウのこだわりだったのだろう。

  赤い色はいたるところに用いられている。旺泉(チャン・イーモウ)はいつも同じ赤い服を着ているし、旺泉と妻の喜鳳が使う新調した布団も真っ赤だ。色使いの強調もやりすぎるといやみで効果も薄れるが、この映画では実に効果的である。才人チャン・イーモウ、撮影監督としても只者ではない。

  全体としてはリアリズムの手法で作り上げている映画だが、随所にユーモアが盛り込まれている。井戸は両村のものだと記された石碑が残っていて村同士の争いはあっけなく決着が付くのだが、その石碑は何とある老婆の家の便所の敷石に使われていた。「証拠品」が運び込まれたときには相手の村の連中が臭いといって見ようとしない。実に滑稽な場面だった。音楽でも工夫が施されている。井戸掘りに飽きた若い連中が盲目の楽団を呼んで音楽を聴く場面。最初は型どおりの曲を弾いているが、退屈でうずうずしている若者たちはもっと楽しい曲をやれとけしかける。党の指導がどうのこうのと言い訳しながらも楽団はもっと色気のある曲を演奏し始める。軽快な曲に乗って踊りまくる若者たち。朝まで踊っていた。この場面は地味な展開が続くこの映画の中でいいアクセントになっていた。

  さらにストーリー上の工夫は旺泉をめぐる三角関係を織り込んだこと。無理やり結婚させられた喜鳳(ルー・リーピン、高見知佳似)と結婚後も思いを断ち切れない巧英(リャン・ユイジン)の間で旺泉は苦悩する。知的かつ都会的で洗練された巧英と伝統的で保守的だがしっかりとした芯を持った喜鳳。二人の性格もきちんと描き分けている。最初は無理やり婿入りさせられた喜鳳には愛情をもてなかった旺泉だが、ある夜いつまでも抱いてもらえない身を嘆いて喜鳳がベッドで泣き出す。さすがに不憫だと思った旺泉は初めて喜鳳を抱く。ここはいい場面だった。おそらくこの時から妻に対してもほのかな愛情がわいてきただろう。しかし彼は巧英への愛を断ち切れなかった。同じ村で生活しているので喜鳳と巧英はたびたび顔を合わせる。互いに相手を意識していることが微妙に表情に表れる。時には互いの目から火花が散る。

  旺泉と巧英の関係は村では誰でも知っていた。その二人をさらに結びつけたのはやはり井戸掘りだった。対立する村との乱闘の際、旺泉はとっさに井戸に飛び込んで英雄になった。それを県の委員に評価されて、県の水利局で行われる水文地質講習会に出るよう誘われる。講習会を終えた旺泉はたまたま町に出ていた巧英と一緒に村に戻ってくる。彼らはトラクターに乗って村に帰ってくる。おんぼろのトラクターで、しかもついでにタンクに水をたっぷり入れて運んでいるので揺れが激しい。今にもひっくり返りそうで、観ているこちらがはらはらする。後で車が出てくる場面があるが、あのトラクターを見ていたせいか普通の自動車が高級車に見えた。村に着くと人々は一斉にバケツなどを持って水のタンクに群がる。そこに羊の群れが乱入してくる。村人の持っているバケツから羊が遠慮なく水を飲んでゆく。数が多すぎてなかなか羊を追い払えない。村は大混乱。コミカルな場面だが、水は人間だけではなく家畜にとっても不可欠なのだということにはっと気づかされた。秀逸な場面だと思う。そういえばこの村には犬や猫がいなかった。家畜はともかく、犬猫にまで水をまわす余裕がないからだろう。

  ちょっと話が脱線した。引退を間近にした党の支部書記が「辞める前にこの手で井戸を掘り当てたいんだ」と後押ししたこともあって、村は地質学を学んできた旺泉を中心に若者たちを動員して井戸掘りを始める。それに先立って、村で数少ない高卒の旺才と巧英が旺泉を手伝って地質調査を始めた。三人で散々山を歩き回る。最初に触れた山々の眺めはこの場面で映し出されたものである。垂直にそそり立つ絶壁に作られた狭い道を旺泉と巧英がこわごわ進む場面も出てくる。実際にそこで撮ったと思われる映像で、観ているこっちも背筋がぞくぞくするほど怖くなった。

  皮肉な運命によって二人はまた接近してゆく。クライマックスは旺泉と旺才と巧英が井戸に入っているときに起きた落盤事故だ。一瞬画面が真っ暗になる。何も見えない。旺泉がマッチを擦ってやっと見えるようになる。旺泉と巧英は助かったが、旺才は崩れてきた土石の下敷きになってしまった。ランプひとつが光源の暗闇に取り残された二人は、互いの気持ちを確認しあう。そして一度だけ愛し合った。薄暗がりの中で互いに寄り添って横たわる二人の黄色みがかった映像には切なさとはかなさが漂う。非常に美しいシーンだった。

  二人は無事救出された。退院した旺泉はまた井戸のところへ行く。彼はまた井戸掘りを始めた。ラストはさらに掘り進めるための資金を村人に訴える場面。「子孫たちに井戸を掘らせるな」という旺泉の叫びが胸に響く。妻の喜鳳は率先してミシンを提供する。井戸から水が出なかった場合お金は返ってこない。でもだめだったらまた掘ればいいと訴える彼女の言葉もまた感動的だった。巧英も友人を介して持ち物を供出したが、本人は既に村を立ち去っていた。一夜限りの思い出を残して旺泉と巧英の悲恋は終わった。

  最後に村に建てられた石碑が映される。過去の井戸掘削の歴史が長々とつづられている。何度も刻まれる「水はなし」の文字が目に痛い。そして最後の1行が映る。「83年正月に機械式一号井完成 出水量毎時50トン」。長年村を苦しめた労苦はそのとき終わった。

2006年6月16日 (金)

みんな誰かの愛しい人

033799_1 2004年 フランス 2004年10月公開
原題:Comme une image(イメージのように)
監督:アニエス・ジャウィ
脚本:アニエス・ジャウィ、ジャン・ピエール・バクリ
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
音楽:フィリップ・ロンビ
出演:マルリー・ベリ、アニエス・ジャウィ
    ジャン・ピエール・バクリ、カイン・ボーヒーザ
    ロラン・グレヴィル、ヴィルジニー・ドゥサルノ
   セルジュ・リアブキン、ミシェール・モレッティ

  「ゴブリンのこれがおすすめ」で「家族を描いた映画」を紹介したばかりだが、偶然にもこれまた家族を描いた映画である。「ピエロの赤い鼻」、「ロング・エンゲージメント」、「コーラス」、「皇帝ペンギン」、「ライフ・イズ・ミラクル」、「クレールの刺繍」など、最近観たフランス映画はかなり質が高い。まだ年間ベストテンに入る作品は少ないが、総じて水準は高く、かつての輝きを取り戻しつつあると感じる。「みんな誰かの愛しい人」は04年公開作品で若干古いが、ここ何年かに観た作品の中では最もフランス映画らしい香りがする映画である。登場人物の個性が強烈で、独特のユーモアのセンスが感じられる。イギリス映画にも変わり者がよく登場するが、フランスはまた違う味わいがある。

  「みんな誰かの愛しい人」はエチエンヌ(ジャン・ピエール・バクリ)とロリータ(マルリー・ベリ)父娘を中心にした人間関係とシルヴィア(アニエス・ジャウイ)とピエール(ロラン・グレヴィル)夫妻を中心にした人間関係の二つが絡まりあって展開する群像劇である。

  中心にいる4人の中でも一番焦点が当てられているのがロリータである。ロリータは一言で言えば「フランスのブリジット・ジョーンズ」か。ぽってりとした体型で愛らしい顔立ち。しかし本家のブリジット・ジョーンズと違ってこちらはその体型に強い劣等感を抱いている。その劣等感にさらに油を注いでいるのは彼女に対する父エチエンヌの冷たい態度。彼は作品が映画化されるほどの売れっ子作家だが最近はスランプでまったく書いていない。その不調も反映しているのだろう、彼の頭の中は本のことばかりで娘のことなど眼中にない。それを象徴的に示しているのはロリータが父に渡したカセットテープ。ロリータは声楽を習っているのだが、彼女の歌を録音したテープを渡しても一向に聞こうとする様子がない。結局最後まで聞こうとしないし、ラストでロリータが仲間と舞台で歌うクライマックス・シーンでもなんと途中で会場を出て行ってしまう。シルヴィアをはじめ、映画の最初と最後ではロリータに対する態度はみな変わって行くのだが、この頑固親父だけは最後まで態度を変えない。この徹底した偏屈振りがかえっていい。いかにもフランス的だ。

  小説以外に父親が関心を示すものは新しい妻のカリーヌ(ヴィルジニー・ドゥサルノ)とその5歳の娘ルナ。エチエンヌにとって娘はこの小さい方の娘だけという感じで、その差別的態度はなんとも残酷だ。また新妻のカリーヌはほとんどロリータと年齢が変わらない若い妻で、これがまたロリータの居心地を悪くさせている。映画はこういった環境の中でロリータがコンプレックスにさいなまれる様子を事細かに描いてゆく。文字通りのロリータ・コンプレックス。もちろん、この場合はロリータ自身のコンプレックスという意味である。

  一家の中でいかにロリータの存在が薄いかを示す典型的なエピソードは彼の作品が原作になった映画の公開記念パーティー(?)に行く場面である。自作の映画化作品を一家そろって観に行くのだが、ロリータがちょっとぐずぐずしている間に父とカリーヌはさっさと先に劇場に入ってしまう。一般客と間違われたロリータは入り口で追い返され中に入れない。ロリータなど眼中にない父夫婦の無関心さとロリータのどじ振りが浮き立たせられている。

  しかしそのことがきっかけでロリータは偶然ある青年と知り合うことになる。酔っ払って彼女の足元に倒れた青年にコートをかけてやったのがきっかけだ。後でその青年セバスチャン(カイン・ボーヒーザ)がコートを返しに来て、そこから二人の付き合いが始まる。

  このロリータを中心としたストーリーと平行してシルヴィアとピエールのストーリーが描かれてゆく。ピエールは売れない作家。シルヴィアは何とか彼に自信を持たせようと励ましている。そのシルヴィアは実はロリータの歌の先生だった。しかし家族に冷たくされている分歌に入れ込んでいるロリータの情熱をシルヴィアはもてあまし気味だ。しかしロリータが有名な作家エチエンヌの娘だと知ったときからシルヴィアは何とか夫を紹介してもらおうとロリータに近づき始める。

  こうして家族の中で孤立して一人コンプレックスに悩まされ、いじけていたロリータの世界にセバスチャンが新しく入り込み、シルヴィアとの通り一遍だった付き合いがより濃密な関係に変わってゆく。これがロリータの転機になった。そこからロリータが自分を見出し成長してゆく様が描かれてゆく。

  ロリータをコンプレックスの塊でいじけた性格と評する人もいるが、僕はそういう印象をあまり受けなかった。確かにコンプレックスもあるしいじけている場面もあるが、彼女の置かれた状況は確かに彼女ならずとも悩まざるを得ないものだし、彼女も彼女なりにいじらしいほど前向きに努力しているからだ。「旅するジーンズと16歳の夏」のカーメンよりも太っていて彼女以上に劣等感を持っているが、親の七光りを重圧あるいは迷惑と感じたり体型が気になって仕方がないのは20歳の娘としては無理もないことだ。むしろ、悩んだりめげたりしながらも愛情と理解を求めようとする彼女を応援したくなってくる。

  もちろんセバスチャンやシルヴィアとの関係も紆余曲折があって簡単に状況が好転したりはしない。ロリータにはセバスチャンの前にもマチューという恋人がいたのだが、彼はロリータの有名な父親とのコネが目当てで付き合っていた。彼女に近づいてくる人物の多くSen はそうなのだ。セバスチャンもそうなのではないか、マチューに裏切られた彼女は疑心暗鬼になってしまう。最後の最後になるまでその疑念は晴れなかった。実際シルヴィアも最初はコネ目当てだったのである。しかしロリータに近づくにつれてシルヴィアの気持ちは変化してゆく。純粋にロリータに好意をもって接するようになる。ラストのコンサートでエチエンヌの示したつめたい態度に腹を立て、夜中にエチエンヌの家を出てゆく。同時にシルヴィアは有名作家であるエチエンヌの下を離れようとしない夫のピエールからも去っていった。映画のラストでロリータとシルヴィアという女性二人が家を出てゆく。『人形の家』のラストを連想させるが、女性の自立というよりも人間としての自立と考えた方がよさそうだ。

  これについては、シルヴィア役を演じ脚本も担当した監督のアニエス・ジャウィが次のように語っている。「父と娘の関係と、自分と同じ年頃の恋人のいる父親を持つこと。これは私自身が経験したことで、ずっと映画に取り込みたいと思っていたの。それからほんの少し“権力”についても語りたかった。それも権力を行使する側からではなく、それを受ける側から見た権力についてね。」父親という一家の権力者であると同時に有名作家であるという尊大さを併せ持ったエチエンヌ、彼にあやかり何とか成功をつかみたいとエチエンヌになびくピエール。エチエンヌの影響力に染まらなかったのはセバスチャンとシルヴィアであり、ロリータももがき苦しんだ挙句ようやくそこから抜け出せた。

  独特のユーモアのセンスやキャラクターのあくの強さなど様々な魅力を持った作品であるが、この作品に対する共感の基盤にあるのはセバスチャンとロリータ、そしてシルヴィアが選んだ生き方に対する共感である。父親に疎んじられる、自分の体型を恥じ卑屈になっているロリータを描きながらも、そのロリータを描く視線は温かい。と同時に、最後まで傲慢で態度を変えないエチエンヌの描き方に、センチメンタリズムに流されない作者の目の厳しさも感じる。

  男で唯一肯定的に描かれているセバスチャンを外国人移民に設定しているのは意図的だろう。ラシッドという本名や顔つきからしてアルジェリア出身と思われる。本名を隠してセバスチャンを名乗っていること、収入がなく家賃を何ヶ月も滞納していることにも移民であることが暗示されている。父親の勢力圏から脱したロリータにふさわしい相手は同じく枠外に置かれたセバスチャンだった。ある意味では自然な結びつきだったといえる。

  しかし結論部分ばかりを強調しないほうがいいかもしれない。何といってもこの映画はキャラクターたちを楽しむ映画であり、人間関係を阻害するディスコミュニケーションを描いている映画なのだから。ディスコミュニケーションの象徴として使われるのは携帯電話である。映画の冒頭でロリータがパーティー会場に入りそこなったのもちょっと立ち止まって携帯で話していたからである。TVドラマ「24」ではジャック・バウアーが携帯を掛け捲っている。そこでは機動力を持った便利な通信手段として描かれている。しかしこの映画ではロリータとセバスチャンがベッドでキスをしているときに携帯が鳴るという使われ方をする。

 人間関係を阻害する道具としての携帯電話。その典型はレストランでロリータとエチエンヌが食事中に父の携帯が鳴る場面。相手が誰かは分からない。聞こえるのはエチエンヌの声だけ。「大丈夫、娘と食事しているんだ。ああ毎日が楽しいよ、かわいくて賢い。」ロリータがにっこりする。父は続けて「5歳になった」と言う。ロリータは顔を背ける。後でロリータがセバスチャンに話したところによると、その後「まるで私がいないみたいに」15人と立て続けに電話で話していたという。

  こんなことが何度も続けば誰だっていじけてしまう。その上自分は太っているというコンプレックスが重なればたびたび落ち込むのも無理はない。しかしそんなロリータを映画は決して意地悪くは描かない。適度なユーモアを交えて描いている。発表会での舞台衣装を試着しているロリータが鏡を見て「マトリョーシカ人形みたい」とつぶやくシーンは、申し訳ないが、笑ってしまった。結局、舞台では黒い地味な衣装で歌っていた。

  さらに彼女を側面から支えているのはシルヴィアの存在だ。演じたアニエス・ジャウィは実に魅力的だった。エチエンヌを演じたジャン・ピエール・バクリと「ムッシュ・カステラの恋」でも競演しているが(こちらも監督はアニエス・ジャウィ)、ジャン・ピエール・バクリの印象しか残っていない。しかし「みんな誰かの愛しい人」ではロリータ役のマルリー・ベリ以上に印象的だった。非常に知的でしっかりとした自分の意思を持った女性。彼女の存在がなければこの映画は大きく変わっていただろう。その意味でロリータ以上にこの映画を支えていた。

  この映画のラストシーンはセバスチャンを追いかけていったロリータが彼と二人で道端に並んで座っている場面だ。セバスチャンがぼそっと一言いう。「疲れる子だよ」。この言葉に込められたやさしい響きがこの映画の基本的な姿勢をよく表している。

2006年6月14日 (水)

ゴブリンのこれがおすすめ 17

家族を描いた映画(2)

■おすすめの90本
「おおかみこどもの雨と雪」(2012、細田守監督、日本)
「みんなで一緒に暮らしたら」(2011、ステファン・ロブラン監督、仏・独)
「再会の食卓」(2010、ワン・チュアンアン監督、中国)
「おとうと」(2009、山田洋次監督、日本)
「ラブリーボーン」(2009、ピーター・ジャクソン監督、米・英・ニュージーランド)
「ぐるりのこと。」(2008、橋口亮輔監督)
「夏時間の庭」(2008、オリヴィエ・アサイヤス監督、フランス)
「千年の祈り」(2007、ウェイン・ワン監督、米・日本)
「トゥヤーの結婚」(2006、ワン・チュアンアン監督、中国) Chouse1b
「マラソン」(05、チョン・ユンチョル監督)
「海を飛ぶ夢」(04、アレハンドロ・アメナーバル)
「ミスター・インクレディブル」(04、ブラッド・バード監督)
「きみに読む物語」(04、ニック・カサヴェテス監督)
「茶の味」(03、石井克人監督)
「ホテル・ハイビスカス」(03、中江裕司)
「グッバイ・レーニン!」(03、ヴォルフガング・ベッカー監督)
「みなさん、さようなら。」(03、ドゥニ・アルカン監督)
「クジラの島の少女」(03、ニキ・カーロ監督)
「ビッグ・フィッシュ」(03、ティム・バートン監督)
「タッチ・オブ・スパイス」(03、タソス・ブルメティス監督)
「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」(02、ジム・シェリダン監督)
「家族のかたち」(02、シェーン・メドウス監督)
「キャロルの初恋」(02、イマノル・ウリベ監督)
「阿弥陀堂だより」(02、小泉堯史監督)
「ベッカムに恋して」(02、グリンダ・チャーダ監督)
「月曜日に乾杯」(02、オタール・イオセリアーニ監督)
「SWEET SIXTEEN」(02、ケン・ローチ)
「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(01、ウエス・アンダーソン監督)
「ヤンヤン夏の想い出」(00、エドワード・ヤン監督)
「この素晴らしき世界」(00、ヤン・フジェベイク監督)
「リトル・ダンサー」(00、スティーヴン・ダルドリー監督)
「酔っ払った馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ監督)
「山の郵便配達」(99、フォ・ジェンチイ監督)
「太陽の雫」(99、イシュトヴァン・サボー監督)
「初恋のきた道」(99、チャン・イーモウ監督)
「きれいなおかあさん」(99、スン・チョウ監督)
「愛を乞うひと」(98、平山秀幸監督)
「宋家の三姉妹」(97、メイベル・チャンメイベル・チャン監督)
「アントニアの食卓」(95、マルレーン・ゴリス監督)
「女人、四十」(95、アン・ホイ監督)
「フォレスト・ガンプ一期一会」(94、ロバート・ゼメキス監督)
「ギルバート・グレイプ」(93、ラッセ・ハレストレム監督)
「愛と聖霊の家」(93、ビレ・アウグスト監督)
「ジョイ・ラック・クラブ」(93、ウェイン・ワン監督)
「リバー・ランズ・スルー・イット」(92、ロバートレッドフォード監督)
「乳泉村の子」(91、シェ・チン監督)
「銀馬将軍は来なかった」(91、チャン・ギルス監督)
「ふたり」(91、大林宣彦監督)
「エンジェル・アット・マイ・テーブル」(90、ジェーン・カンピオン監督)
「芙蓉鎮」(87、シェ・チン監督)
「ペレ」(87、ビレ・アウグスト監督)
「ベルナルダ・アルバの家」(87、マリオ・カムス監督)
「愛と宿命の泉」(86、クロード・ベリ監督)
「追憶のオリアナ」(84、フィナ・トレス監督) Tm1
「家と世界」(84、サタジット・レイ監督)
「冬冬の夏休み」(84、ホウ・シャオシェン監督)
「エル・スール」(83、ヴィクトル・エリセ監督)
「泥の河」(81、小栗康平監督)
「無人の野」(80、グェン・ホン・セン監督)
「天雲山物語」(80、シェ・チン監督)
「木靴の樹」(78、エルマンノ・オルミ監督)
「家族の肖像」(74、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「叫びとささやき」(72、イングマル・ベルイマン監督)
「地獄に堕ちた勇者ども」(69、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「ケス」(69、ケン・ローチ監督)
「山猫」(63、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「アラバマ物語」(62、ロバート・マリガン監督)
「家族日誌」(62、ヴァレリオ・ズルリーニ監督)
「マンマ・ローマ」(61、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督)
「誤発弾」(61、ユ・ヒョンモク監督)
「キクとイサム」(59、今井正監督)
「荷車の歌」(59、山本薩夫監督)
「楢山節考」(58、木下恵介監督)
「熱いトタン屋根の猫」(58、リチャード・ブルックス監督)
「米」(57、今井正監督)
「鉄道員」(56、ピエトロ・ジェルミ監督)
「夫婦善哉」(55、豊田四郎監督)
「浮雲」(55、成瀬巳喜男監督)
「大地のうた」(55、サタジット・レイ監督)
「エデンの東」(55、エリア・カザン監督)
「長い灰色の線」(54、ジョン・フォード監督)
「ホブスンの婿選び」(54、デヴィッド・リーン監督)
「シェーン」(53、ジョージ・スティーブンス監督)
「お茶漬けの味」(52、小津安二郎監督)
「めし」(51、成瀬巳喜男監督)
「愛妻物語」(51、新藤兼人監督)
「セールスマンの死」(51、ラズロ・ベネデク監督)
「ベリッシマ」(51、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「花嫁の父」(50、ヴィンセント・ミネリ監督)
「晩春」(49、小津安二郎監督)
「ママの想い出」(48、ジョージ・スティーブンス監督)
「安城家の舞踏会」(47、吉村公三郎監督)
「南部の人」(45、ジャン・ルノワール監督)
「父ありき」(42、小津安二郎監督)
「偉大なるアンバーソン家の人々」(42、オーソン・ウェルズ監督)
「一人息子」(36、小津安二郎監督)
「妻よ薔薇のように」(35、成瀬巳喜男監督)
「隣の八重ちゃん」(34、島津保次郎監督)

2006年6月12日 (月)

ゴブリンのこれがおすすめ 16

家族を描いた映画(1)

■おすすめの40本 Family
「シンデレラマン」(05、ロン・ハワード監督)
「アメリカ・家族のいる風景」(05、ヴィム・ヴェンダース監督)
「やさしくキスをして」(04、ケン・ローチ監督)
「Dearフランキー」(04、ショーナ・オーバック監督)
「村の写真集」(04、三原光尋監督)
「エイプリルの七面鳥」(03、ピーター・ヘッジス監督)
「大統領の理髪師」(04、イム・チャンサン監督)
「ピエロの赤い鼻」(03、ジャン・ベッケル監督)
「わが家の犬は世界一」(02、ルー・シュエチェン監督)
「たそがれ清兵衛」(02、山田洋次監督)
「上海家族」(02、ポン・シャオレン監督)
「人生は、時々晴れ」(02、マイク・リー監督)
「アメリカン・ラプソディ」(01、エヴァ・ガルドス監督)
「アメリカン・ビューティー」(99、サム・メンデス監督)
「ぼくの国、パパの国」(99、ダミアン・オドネル監督)
「太陽は、ぼくの瞳」(99、マジッド・マジディ監督)
「運動靴と赤い金魚」(97、マジッド・マジディ監督)
「秘密と嘘」(96、マイク・リー監督)
「いつか晴れた日に」(95、アン・リー監督)
「活きる」(94、チャン・イーモウ監督)
「青い凧」(93、ティエン・チュアンチュアン監督)
「息子」(91、山田洋次監督)
「わが心のボルチモア」(90、バリー・レビンソン監督)
「マルセルの夏」(90、イヴ・ロベール監督)
「となりのトトロ」(88、宮崎駿監督)
「パパは出張中!」(85、エミール・クストリッツァ監督)
「田舎の日曜日」(84、ベルトラン・タヴェルニエ監督)
「長雨」(79、ユ・ヒョンモク監督)
「敵」(79、ユルマズ・ギュネイ監督)
「群れ」(78、ゼキ・ウクテン監督/ユルマズ・ギュネイ)
「故郷」(72、山田洋次監督)
「屋根の上のバイオリン弾き」(71、ノーマン・ジュイソン監督)
「家族」(70、山田洋次監督)
「朴さん」(60、カン・デジン監督、韓国) Sdrain01
「喜びも悲しみも幾年月」(57、木下恵介監督)
「東京物語」(53、小津安二郎監督)
「麦秋」(51、小津安二郎監督)
「どっこい生きてる」(51、今井正監督)
「わが谷は緑なりき」(41、ジョン・フォード監督)
「我が家の楽園」(38、フランク・キャプラ監督)
「生まれてはみたけれど」(32、小津安二郎監督)

■追加
「ファミリー・ツリー」(2011、アレクサンダー・ペイン監督、アメリカ)
「クリスマス・ストーリー」(2008、アルノー・デプレシャン監督、フランス)
「マイ・ライフ、マイ・ファミリー」(2007、タマラ・ジェンキンス監督、米)
「歩いても 歩いても」(2007、是枝裕和監督)
「約束の旅路」(2007、ラデュ・ミヘイレアニュ監督)
「ボルベール<帰郷>」(2007、ペドロ・アルモドバル監督)
「リトル・ミス・サンシャイン」(2006、ジャナサン・デイトン・他監督)
「グエムル 漢江の怪物」(2006、ポン・ジュノ監督)
「孔雀 我が家の風景」(2005、リー・チャンウェイ監督、中国)
「胡同のひまわり」(2005、チャン・ヤン監督、中国)

■気になる未見作品
「家族ゲーム」(83、森田芳光監督)
「ウホッホ探検隊」(86、根岸吉太郎監督)
「海辺の家」(01、アーウィン・ウィンクラー監督)
「アイス・ストーム」(97、アン・リー監督)
「セレブレーション」(98、トマス・ヴィンターベア監督、デンマーク)

  家族を描いた映画は無数にあります。全部拾い上げたら大変な数になるでしょう。いわゆるファミリー・ドラマを始め、家族というより親子や兄弟姉妹を中心にしたもの、ある家族の年代記、あるいは擬似家族のようなものにいたるまで、光の当て方、焦点の当て方しだいで様々なタイプがあります。ここでは一応家族がほぼそろっているタイプのものを中心に取り上げてみました。数が多いのでそれ以外は次回取り上げることにします。
 こうやって並べてみると日本、韓国、中国などのアジア映画が多いことに気づきます。ファミリードラマを得意とするアメリカ映画は意外に少なくむしろイギリス映画が結構目立ちます(当然、僕の取り上げ方や好みを反映しているわけですが)。個人主義がより確立している欧米の映画では親子愛や夫婦愛を描く方にシフトしている作品が多くなります。 記憶の新しい比較的最近のものがどうしても多くなるのは仕方のないことで、お許し願いたい。次回は古いものもできるだけ拾い上げてみたいと思います。

2006年6月10日 (土)

サンシャイン・ステイト

2002年 アメリカ 未公開 Oct10
監督、脚本:ジョン・セイルズ
製作:マギー・レンジー
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:メイソン・ダーリング
出演:アンジェラ・バセット、ティモシー・ハットン
    イーディ・ファルコ、メアリー・スティーンバージェン
    ジェーン・アレクサンダー、ラルフ・ウェイト ビル・コッブス
    メアリー・アリス、ミゲル・ファーラー、ジェイムズ・マクダニエル
    トム・ライト、シャーレイン・ウッダード

  寂れた街に降って湧いた開発をめぐる映画というので「ザ・リバー」(84、マーク・ライデル監督)のような映画かと思っていたが、開発をめぐる対立が映画の主題ではないと分かってくる。そのことは、例えば、開発に反対するロイド博士(ビル・コッブス)が協会で開発反対の演説をするために説教壇に上がる場面で明確になる。わたしがこれから話すのは宗教の問題ではない、と言い始めたところで突然場面が変わってしまうのだ。開発問題は主題ではなく、舞台となったフロリダの小さな町(「サンシャイン・ステイト」とはフロリダの愛称)の置かれている状況に過ぎない。では何が主題なのか。うまく表現しにくいのだが、その小さな町で営まれているごくごく日常の人間生活ということになろうか。この映画は社会問題劇というよりは群像劇である。翌年の「カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~」も一種の群像劇なので、この時期ジョン・セイルズ監督は群像劇にこだわっていたようだ。

  登場人物は多く、しかも小さな町なのでそれぞれの人間関係が複雑に交錯している。その複雑な人間関係の中心に二人の女性がいる。若い頃母とけんかして家を飛び出したが、結婚して夫とともに久々に母に会いに来たデズリー(アンジェラ・バセット)と、寂れたモーテル兼レストランを経営するマーリー(イーディ・ファルコ)。

  舞台となる町はかつては何もない湿地だった。昔はワニや蚊がたくさんいたという。今はゴルフ・コースができ、さらに開発の手が入ろうとしていた。そのゴルフ・コースでゴルフをしていた金持ちの白人男性がその土地の自然を「首輪を付けられた自然」と呼んでいた。なかなか的を射た象徴的表現である。先に名前を挙げた開発反対派のエルトン・ロイド博士(黒人)は当然もっと違った捉え方をしている。その土地に初めて来たデズリーの夫レジー(ジェイムズ・マクダニエル)に語って聞かせるかたちで彼はリンカーン・ビーチについてこう説明している。「40~50年代このビーチはわれわれに唯一許された海辺だった。黒人がこの町を作ったんだ。協力して土地を買い、家を建てた。」したがって昔はかなり貧しい町だった。この点ではデズリーの母の言葉が印象的だ。ロイド博士がわれわれには親の遺産などなくゼロから出発したと言うと、彼女は「それさえ大恩よ。親たちが必死で這い上がったからゼロから始められた」と答える。たとえゼロであってもマイナスでないだけ感謝すべきだと。いかに貧しかったかわかる。マーリー(白人)の父ファーマンも昔は黒人も白人もみな貧しく必死で働いたと現在の堕落振りを嘆いていた。

  黒人のアンジェラ・バセットと白人のイーディ・ファルコをメインにしたのは意図的だろう。主要登場人物は黒人と白人でほぼ二分されている。しかし人種問題や開発問題はどちらBeach61_1 も主題ではない。人間劇をじっくり味わう映画であり、その意味では俳優の演技と存在感が命で ある。メインの女優二人をはじめ、主にテレビで活躍する味のある俳優を多数登場させている。映画が中心なのはアンジェラ・バセットの外にティモシー・ハットンとメアリー・スティーンバージェン程度。テレビ俳優が多いのは予算の関係があったようだ。しかしビル・コブス、メアリー・アリス(デズリーの母ユーニス役)、ジェイン・アレクサンダー(マーリーの母デライア役)、シャーレイン・ウッダード(デズリーの元友人、洗濯物を干していた女性)、トム・ライト(怪我をして引退した黒人の元花形フットボール選手フラッシュ・フィリップス)など、いずれも強い印象を残す名優ぞろい。特にビル・コブス、メアリー・アリス、ジェイン・アレクサンダーの三人は人生の重みを感じさせる名演を残している。

  人間関係ばかりではなく、デズリーとマーリーはともに自分の問題も抱えている。デズリーは女優を目指したが今はせいぜいテレビのコマーシャルの仕事がある程度。夢破れ自信を喪失している。父親(故人)は地元では有名な人物で、デズリーが十代で妊娠したとき厳格な対応をした。そのとき以来デズリーは両親に反発心を抱いたままである。そのとき彼女を妊娠させたのが当時人気の絶頂にあったフットボール選手フラッシュ・フィリップスであり、彼はある目的があって彼女とほぼ同時に故郷に舞い戻ってきていた。マーリーはアメリカ映画によく出てくる場末のレストランの経営者のイメージそのもので、人生に退屈しどこかけだるい佇まいを身にまとっている。父から受け継いだレストランを守るのに汲々とする日々。その心の隙間に入り込んできたのが、開発業者の一員であるジャック・メドウズ (ティモシー・ハットン)である。デズリーの人間関係とマーリーの人間関係は特につながりはないが、マーリーの母が元教師で、デズリーはその教え子の一人だったというのが唯一の接点である。

  他の主要登場人物としては、町おこしのために必死で努力しているフランシーン(メアリ・スティーンバージェン、「カーサ・エスペランサ」にも出演)、その夫で自殺願望のアール(ゴードン・クラップ、何度試みても自殺に失敗するこっけいな役柄)がいる。とにかくいろんな人が入り乱れていて、どこにも全体をつなぐ大きなストーリーなどはない。「カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~」同様、人生の一断面を切り取って終わっている。ラストでジャックは他の町の開発のために去って行き、マーリーはまた一人で取り残される。確かに日常の生活とはそんなものだろう。大きな事件などそうそう起こるわけではないし、ちょっとしたロマンスぐらいはあるだろうが、それも終わってしまえばまた日常に戻ってゆく。リアルといえばリアルなのだが、この映画の作りはどうも物足りない。あまりに断片的で人物と社会の掘り下げが浅い。他のジョン・セイルズ作品同様、全体に温かみがあってその点は悪くないのだが、ひとつの作品としてはインパクトが弱い。日常を描くのは難しい。退屈こそしなかったが、軽いコメディタッチの群像劇で終わっている。同じ日常を描くにしても、「ライフ・イズ・ミラクル」は思い切ったデフォルメを施し、シュールな展開を盛り込み、それが見事に成功していた。同じ方法を用いる必要はないが、何かもっとユニークな工夫が欲しかった。

  ジョン・セイルズ監督作品はこれまで「メイトワン-1920」(87)、「エイトメン・アウト」(88)、「希望の街」(91)、「パッション・フィッシュ」(92)、「フィオナの海」(94)、「アポロ13」(95)、「カーサ・エスペランサ ~赤ちゃんたちの家~」(03)と観てきたが、「サンシャイン・ステイト」も含めて一度もがっかりしたことはない。優れた作品を作り続けている割には知名度は高いとはいえない。インディーズの宿命かもしれないが、もっと評価されていい人だ。個人的には傑作とのうわさが高い「真実の囁き」(96、未公開)を見落としているのが残念。

  アンジェラ・バセットは大好きな女優の一人。この映画でも魅力を発揮していた。上記の「希望の街」や「パッション・フィッシュ」に加えて、「ボーイズ’ン・ザ・フッド」(91)、「マルコムX」(92)、「ため息つかせて」(95)、「ストレンジ・デイズ」(95)と観てきた。最後に観てからほぼ10年たつことになる。なつかしかった(下半身がずいぶん太くなったなあ)。モンゴメリー・バス・ボイコット運動で知られるローザ・パークス(惜しくも2005年10月24日に亡くなった)を描いたTVドラマ「ローザ・パークス物語」(02)もぜひ観てみたい。  

2006年6月 8日 (木)

空中庭園

2005年 日本 2005年10月公開 Sdfl0402
監督、脚本:豊田利晃
原作:角田光代
企画:孫家邦、森恭一
プロデューサー:孫家邦、菊池美世志
録音:上田なりゆき
美術:原田満生
編集:日下部元孝
衣装:宮本まさ江
主題歌:UA
出演:小泉今日子、板尾創路、鈴木杏、広田雅裕、ソニン
    大楠道代、今宿麻美 勝地涼、山本吉貴、渋川清彦
    中沢青六、千原靖史、鈴木晋介、國村隼 瑛太
    永作博美(特別出演)

 観ている間はそれなりに引き付けられたが、翌日レビューを書こうと思ったらかなり忘れていることに気づいた。特にストーリーの流れが思い出せなかった。あちこち印象深いシーンがあるのだが、順序がはっきり思い出せない。せりふも誰が言ったものかはっきりしない。主要登場人物がそれぞれの視点で描かれる形式なので、もともとストーリーは複雑に交錯している(「茶の味」に近い感じだ)。そのせいだろうか。調べてみたら、元の原作がそもそも6人の登場人物それぞれのモノローグからなる連作小説だった。

 観終わった後の素朴な印象は、これ見よがしでかなりあざとい演出が目立つ作品だということ。特にキャメラワークに凝った作品で、キャメラが、ということは画面が、縦に横に回転するシーンが頻繁に出てくる。豊田利晃監督の作品を見るのはこれが初めてなので、こういう傾向が彼の本来の持ち味なのかは分からない。原作を書いた角田光代もまったく読んだことがない。薬物のせいだろうという観測もあるが、これだって確かなことは分からない(彼が麻薬所持で逮捕されたことは映画を観た後、ネットであれこれ調べていてはじめて知った)。いずれにしても、こういうテクニックに走るタイプの映画は得てして人間に対する後ろ向きで意地の悪い描き方をするか、あるいはいたずらに暴力的だったりげんなりするほど情念的あるいは抽象的だったりする。

  しかしやけに目立つ凝った映像を別にすれば、内容は意外なほどオーソドックスである。京橋一家はいわゆる仮面家族で、「何事もつつみ隠さず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合う」という家族の決まりに表面的には従っているが、その実各人ばらばらで、それぞれに秘密を隠し持っている。絵に描いたようなお決まりのパターン。まるで日本中の家庭が同じような崩壊状態にあると言いたげだ。しかし、ラストは一応家族の絆を取り戻すだろうことが暗示されているので、後味は悪くない。何のことはない、よくあるタイプのファミリー再生ドラマである。

 したがって家族がばらばらになっている状態がどう描かれているか、家族が再び絆を取り戻す過程が説得的に描かれているかが焦点となる。冒頭、横に回転するキャメラがなめるように「バビロンの空中庭園」を映し出す。「空中庭園」といっても「ラピュタ」のように空に浮いているわけではもちろんなく、要するに屋上庭園のことだが、映画の冒頭に出てくる空中庭園は文字通り宙に浮いている。キャメラが引いて、これが「空中庭園」の形を模した電灯の笠であることが分かる。「空中庭園」というタイトルを意識してのことだろう、キャメラ(画面)はゆらゆらと浮遊し、何度もぐるぐる回る。

 夫と子供たちが出かけた後、京橋家の主婦絵里子(小泉今日子)はマンションの庭に出て木や花に水をやる。この庭は“ERIKO GARDEN”と名づけられている。これまた「空中庭園」である。やがて静かな音楽が流れ出し、自然音は消される。キャメラはなめるようにバスに乗っている夫、娘、息子、そして庭にいる絵里子を映してゆく。突然キャメラが一気に引いてマンションの全景が映る。次にマンションが縦に回転し「空中庭園」の文字が空に現れる。のっけから凝った映像を見せ付けられるが、導入部としては悪くない。  もちろん「仮面家族」だから(「空中庭園」というタイトルには実体のない「空中楼閣」という意味がこめられているだろう)最初は一見円満な家庭のように描かれる。冒頭の朝の場面で、娘のマナ(鈴木杏)が自分の「出生決定現場」はどこかと絵里子に質問する。普通は答えに言葉を濁す質問だが、何事も隠し事をしない家族をモットーとしているので、絵里子は「野猿」というラブホテルだったとあっさり答える。息子のコウ(広田雅裕)にいたっては家の台所で「仕込まれた」。何でも話せる明るい家庭を最初に映しておいて、すぐその後にそれぞれが隠し事をしている実態が描き出される。マナは学校には行かず、情けない名前のホテルに男友達と早速入ってみる(そのベッドがまた「回転」している)。コウも学校には行かずカメラ片手に街をぶらついている。夫の貴史(板尾創路)はといえば、飯塚麻子(永作博美)とミーナ(ソニン)という二人の愛人に振り回されている。

 絵里子も決してまともではない。常に笑顔を振りまいているが、言うまでもなくそれは心からの笑顔ではない。娘のマナがコンビニで立ち読みしている母親に声をかけるシーンがSdcabirth02 ある。振り向いた絵里子はものすごい怖い顔をしている(「踊る大走査線 THE MOVIE」のあのぞっとする役以来怖い役が似合う気がしてならない)。その顔が徐々にいつものニコニコ顔に変わってゆくところが不気味だ。本当に不気味なのだが、かといって猫の皮をかぶった冷酷な人間というわけでもない。彼女は本当に温かい家庭を創りたいと思っている。ただ彼女の思うとおりに家族がなってくれないのである。子供たちが学校に行っていないことや夫の浮気もうすうす感づいている。しかし何とか明るい家庭を維持しようと見てみぬ振りをしているのだ。

 そこまでして彼女が家庭を守ろうとするのは、彼女の母である木ノ崎さと子(大楠道代)との確執があったからだ。大嫌いだった母親を反面教師として、自分の家庭は明るい家庭にしようと彼女なりに努力しているのである。かつてひきこもりだった自分の苦い記憶もわだかまりとして胸の中に残っている。子供たちも根っからの不良ではないし、夫も優柔不断なだけで絵里子を嫌っているわけではない。ここにラストの家族再生への芽がある。そういう設定だ。つまりこの映画は基本的にホーム・コメディーなのである。貴史の愛人ミーナが息子の家庭教師として何食わぬ顔で家に入り込んでいて貴史が仰天する場面、入院している病院でわがまま言い放題のさと子など、こっけいな場面が随所にある。

 このコミカルな中心ストーリーだけでは平凡に過ぎると思ったのか、豊田利晃監督は独特のこわ~い演出をまぶしている。貴史役の板尾創路(いたお いつじ)がもっぱらコミカルな場面を引き受けているとすれば、怖い場面の中心はやはり小泉今日子である。彼女はパート先の同僚に「ねえナヨちゃん、何でいつもそうやって完璧な笑顔作れるの?嘘がばれないため?空っぽだから?」とからかわれる。子供の頃引きこもりがちでなよなよしていたので「ナヨ」ちゃんと呼ばれていたのである。その同僚の母親が絵里子の同級生で、母親からその話を仕入れて早速からかったのだ。あるとき絵里子はその同僚の女の子に金を貸せと迫られる。相変わらずニコニコしているのだが、突然フォークを手にとって相手を滅多刺しにするシーンが挿入される。血が飛び散る。もちろん幻想シーンである。豊田監督は血が好きなようだ。ラストで家族の絆が取り戻される直前に、自宅の庭に出た絵里子に血のような真っ赤な雨が降ってくる場面がある。真っ赤にぬれながら「やり直して、繰り返して」と狂ったように叫び続ける絵里子。なんとも気味の悪いシーンだ。

 絵里子が仮面をかなぐり捨て家族の危機が頂点に達するのは、ミーナとさと子のバースデー・パーティーの場面である。そのパーティのさなか、絵里子が作った「新しい家族」の実体を見て、ミーナは「そうか学芸会や。これは学芸会なんや。だって幼稚園の学芸会にそっくりやも。みんな分かってるのに幸せな家族の役演じてる。学芸会や」と心の中でつぶやく。仮面をかぶって学芸会を演じる京橋一家。これはなかなか気の利いたせりふだった。重要なのはその後の場面。絵里子とさと子の二人だけが部屋に残る。明かりを消してバースデー・ケーキのローソクに火をともす。そこでまたキャメラがぐるぐる二人の周りを回りだす。さと子が語り始める。さと子が初めて自分の思いを長々と語るシーンだが絵里子はそれを聞いても母親への嫌悪感を変えない。憎々しげに「アンタさぁ……死ねば?」という言葉を母親に投げかける。

 この場面では絵里子の考えは変わらないが、赤い雨が降る直前に絵里子にかかってきたさと子の電話が変化のきっかけになる。その電話で自分の間違った思い込みに気づく。息子のコウが言った「思い込んでいると、本当の物が見えない」という言葉がここで効いてくる。母親を恨むあまりに絵里子は自分で自分を追いこんでいた。幸せな家庭への憧れが逆に強迫観念となっていた。絵里子はようやくそのことに気づく。その後に続く赤い雨が降る場面で語られる「人は誰でも皆、血まみれで泣き叫びながら生まれてくる」という台詞が示唆的だ。画面の印象は不気味だが、要するに絵里子は赤い雨に打たれて赤子として生まれ変わったことが暗示されている。そしてその後に続くもうひとつの誕生日の場面。そこでやっと家族はひとつにまとまる兆しを見せる。

 一応筋は通っている。しかし観終わった後特に深い感銘を覚えるわけではない。基本がホーム・コメディだけに、家族崩壊という問題に深く踏み込んでいるわけではないし、人物造形もかなり紋切り型だ。その平板さを補うために原作以上に絵里子の「狂気」を強調するあざとい演出を試みたが、コメディにホラーの味付けをしたようなものでややちぐはぐな印象が残る。もっとコメディに徹した方がよかったかもしれない。普通に秘密を持つ普通の家族、それでいい。

 あのマンションはおそらくバブル期に建てられたのだろう。濡れ手で粟の安易な金儲けを経験してしまってから、勤勉だった日本人がおかしくなってしまった。堅実なものづくりができなくなってしまった。三菱の欠陥車、ホリエモンや村上ファンドの事件も明らかにバブル以降の傾向の延長線上に起きた事件である。家族の変質はもっと前から徐々に進行していたが、バブル以降一気に加速したように思う。家族崩壊を本気で論じるならもっと広い社会的、歴史的視野で論じるべきである。そうしないのならコメディでいい。

2006年6月 5日 (月)

ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

1998年 イギリス 2000年1月公開
原題:Hilary and Jackie
原作:"A Genius in the Family"、『風のジャクリーヌ』(ショパン社)
監督:アナンド・タッカー
脚本:フランク・コットレル・ボイス
撮影:デヴィッド・ジョンソン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:エミリー・ワトソン、レイチェル・グリフィス、ジェームズ・フレイン
   デヴィッド・モリッシー、チャールズ・ダンス、セリア・イムリー
   ビル・パターソン、オーリアル・エヴァンス、キーリー・フランダース

  先日「ゴブリンのこれがおすすめ 14」で伝記映画を取り上げた時はまだ「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を観ていなかった。なんとなく暴露もののような印象があって手がPiano1 出なかったのである。観たいと思っていた新作DVDが借りられなかったので、手持ちのDVDからたまたま選んだのがこの映画だった。最初の場面からぐっと引き付けられた。最後のあたりでは久々に涙を流した。どうしてもっと早く観ておかなかったのかと後悔するほどの素晴らしい作品だった。

  ジャクリーヌ・デュ・プレ。イギリスはドイツ、オーストリア、イタリア、ロシアなどに比べるとクラシックの大作曲家を生まなかったが、粒ぞろいのオーケストラや室内楽団を保有する国である。しかしどういうわけか弦楽器の名演奏者が育たない。その数少ない例外がチェロのジャクリーヌ・デュ・プレである。僕は今でこそ様々なジャンルの音楽を聴くが、学生の時はクラシック一辺倒だった。そのころ買ったジャクリーヌ・デュ・プレの名盤「ハイドンとボッケリーニのチェロ協奏曲」(ジョン・バルビローリ、ロンドン交響楽団/ダニエル・バレンボイム指揮、イギリス室内管弦楽団)は今でも数少ない愛聴盤のひとつである。CDも買ったがやはりレコードの方に思い入れがある。レコードを久々に棚から引っ張り出してみた。ジャケットにジャックリーヌの顔が大きく写っている。どことなくカレン・カーペンターに似ている。結構美人だ。うっすらと笑みを浮かべたその顔には何の陰りもない。

  「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」は伝記映画のジャンルに入るが、彼女の芸術的苦心や苦悩はそれほど描かれてはいない。むしろ焦点は芸術家・プロの演奏家としての生き方と普通の人生との相克である。それは姉との確執という形で表面化する。邦題は「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」となっているが映画の原題は「ヒラリーとジャッキー」。ジャッキーはジャクリーヌ(エミリー・ワトソン)の愛称で、ヒラリー(レイチェル・グリフィス)は姉の名前である。二人とも子供の頃から音楽的才能を発揮し、地元のコンクールでともに楽器別の優勝者になっている。しかし姉は普通の生活を選び、ジャッキーはプロの演奏家の道を選ぶ。別々の道を選びながらも、二人の間には不思議な絆があった。映画の冒頭で幼い二人が仲良く遊んでいる光景がまるで思い出の中の1シーンのように懐かしい雰囲気を帯びて映し出される。二人が海岸に走ってゆくと、波打ち際に大人の女性が一人立っていた。逆光で顔は見えない。ジャッキーはその人物と何か言葉を交わす。結局その人物が誰かわからないまま画面は切り替わる。

  ジャッキーは才能をどんどん伸ばして一流の演奏家になってゆく。ダニエル・バレンボイム(ジェームズ・フレイン)という売り出し中のピアニストとも結婚する。順風満帆のように見えるが、その頃から彼女に奇矯な行動がちらほら現れてくる。

  ジャッキーにはどんなに名声を得てもどこか満たされないものがあった。ロンドンや外国での華々しい活躍の裏で、故郷や家族への思いが募っていった。印象的なエピソードがある。外国での演奏旅行中どうしても洗濯ができず、彼女は洗濯物を実家に送る。しばらくしてジャッキーがホテルに戻った時洗濯物が届けられていた。ジャッキーはホテルのフロント係の目の前で包みを開け洗濯物を顔に押し当てる。「私のうち、私のうちの匂い!」部屋に上がり、ベッドに洗濯物を広げてその匂いをかぐ。ここは非常に感動的な場面だ。人気の絶頂にありながら、彼女の心には埋めがたい隙間ができていた。

  彼女の演奏に対する打ち込みようは恐ろしいほどだったという。力演のあまり大量の汗をかいたようだ。マドリッドで巨匠カザルスに食事に誘われた時も、使いの者にわきの下が匂うからと言って断る場面も描かれている(腕を上げると使いの女性が「おおっ」とのけぞるところが可笑しい)。音楽に激しく打ち込んだ分、その反動も大きかったのだろう。家Sdnight01 族から離され一人孤独に悩む。次第に募る故郷と姉への思い。自分も姉のような平凡な幸せが欲しいと願うジャッキーの渇きに似た思いがなんとも切ない。しかし演奏活動を続ける限りそれは望むべくもない。徐々にストレスがジャッキーを押しつぶしてゆく。幸福な子供時代からあまりに遠く隔たってしまった。平凡さすらうらやましい。音楽をやめようとまで思い悩む姿は痛々しいほどだ。ヒラリーがジャッキーに言った「平凡な幸せを掴むのも才能がいるのよ」という言葉が胸をえぐる。

  ジャッキーは夫のダニエルにも同じ欲求を話す。「チェロを弾けなくても私を愛してくれる?」・・・ダニエル「音楽に乗って揺れる体、酔い輝いてる目。ダンスとダンサーをご覧、いつも一体だ。」「普通の人間の暮らしをしたいの。」「田舎に引っ込んでパンでも焼くのか?ニワトリに餌を?アマチュア連中と音楽会。」「姉を侮辱するの?」「違うよ。」「姉は自分で道を選んだわ。私たちは曲芸のサル。」

  彼女の心の隙間は徐々に拡大してゆく。平行して奇矯な行動もエスカレートしてゆく。姉の「普通の人間の生活」への憧れもゆがんだ形で表れる。ジャッキーは休養をとり、癒しを求めて田舎に住む姉夫婦を訪ねる。姉夫婦はジャッキーを歓迎する。しかしジャッキーはヒラリーにとんでもない欲求を突きつける。義理の兄キーファーが欲しい。精神的ストレスがどうにもならないセックスへの渇きとして表れていた。妹の病的な行動に危険を察知したヒラリーは悩んだ末夫と寝ることを許す。この映画の中でもっともスキャンダラスな場面である。もちろん映画は興味本位の描き方はしていない。姉、姉の夫、そしてジャッキー本人も悩み苦しんでいる様を冷徹に見つめてゆく。ジャッキーの姉のヒラリーと弟のピアーズ共著の原作は出版後激しい批判を浴びた。イギリス音楽界の至宝ジャクリーヌ・デュ・プレのスキャンダラスな暴露本。確かに批判も出るだろう。われわれには真相はわからない。問題は映画として説得力があるかどうかだ。少なくとも、ジャッキーの奇矯な行動は極端な精神的ストレスと後に発病する不治の病から来るものだという映画の描き方には納得が行く。

  ヒラリー、キーファー、ジャッキーの間の不自然な関係は長くは続かなかった。やがてジャッキーは演奏活動を再開する。しかし姉妹の間に深い傷を残した。ジャッキーが田舎の姉夫婦を訪ね、姉夫婦がうれしそうにジャッキーを迎える場面は実は二度描かれる。二度目は上の「私たちは曲芸のサル」というせりふのすぐ後。映画の前半はヒラリーの視点で描かれていた。名声の絶頂にいた妹に深い悩みがあることにヒラリーは気づき、妹の非常識な望みに戸惑う。ジャッキーの視点から描かれた後半部分はヒラリーに見えなかったジャッキーの内面の苦悩に光を当てる。ダニエルとの夫婦仲にも隙間が生じ、ジャッキーが精神的に不安定になっている事情が観客にはわかってくる。音楽家として人間として悩んでいたことがわかる。二つの視点は二度描かれるジャッキーが帰郷する場面で交錯する。ジャッキーは傷ついて帰ってきたのだ。そして姉を裏切ることによってさらに傷は深まってゆく。視点をかえて二度繰り返し描くことによって、ジャッキーの心の闇をより深くえぐってゆく。デヴィッド・リーンの名作「逢びき」の手法を応用した見事な演出である。

  やがて悩めるジャッキーをさらに追い詰める出来事が起こる。突発性硬化症がついに発症したのだ。ジャッキーはコンサートの直前に自分がいつの間にか失禁していたことに気づく。演奏は何とか最後までやれたが、演奏後自分では立てなかった。その後は不治の病が徐々に彼女の体を冒してゆく様子をこれまた冷徹に描き出してゆく。激しい痙攣が彼女を襲う。見舞いに来た姉にひどい言葉を浴びせる。もうずいぶん前から、ことある毎に姉を侮辱する言葉を吐いていた。姉への思いが極端にゆがんで表れている。

  夫のダニエルは仕事と称して家に寄り付かなくなる。1本の電話からジャッキーは彼の 浮気に気づく。一人さびしく家に残されたジャッキーは不自由な指で昔の自分のレコードをかける。音楽が流れる中キャメラは彼女の周囲をなめるように写し取る。隣の部屋に掛けられた黄色い演奏会用の美しい衣装がなんともむなしく映る。彼女の正面には誰も弾くことはないチェロが置かれている。ジャッキーは身体が麻痺して、車椅子に座っている。やがて彼女はレコードを止め泣き崩れる。

  この映画は冒頭とラストのイメージ描写を除けば、終始姉妹二人の関係を冷静に描いている。ラストで甘い思い出にくるんでしまうが、全体は決して露悪的でもなく美Gogo_2_1化してもいない。最初は姉のほうが才能を認められ、ジャッキーは姉と一緒にいたいがために一生懸命練習に励む。しかし妹のほうが才能で上回ると、姉は妹のレッスンが終わるのを母と待っているという屈辱的な立場に転落する。退屈で何度もフルートを口に運ぶが、結局音を出せないヒラリーの姿がなんとも哀れだ。このようにありのままに二人の関係を描いたことがこの作品を成功させていると言ってよい。

  ラストでヒラリーと弟ピアーズが乗っている車のラジオからジャッキーの死を報じるニュースが流れる。1973年、28歳で演奏活動から隠退を余儀なくされてから14年。42歳だった。ヒラリーは弟に車を停めるよう頼み、車から降りる。彼女が歩いてゆくにつれて時間が逆転してゆく。黄金の国へ行った話しが読み上げられ、幼い二人が海岸へ走ってゆく場面に。波打ち際に一人の女性が立っていた。前にも出てきた映像。立っていたのは大人のジャッキーだった。彼女は幼いジャッキーにささやく。「心配しなくていいのよ。」

  このラストは実に見事だ。しかしそれ以上に印象的なのはその前の場面である。この場面があったからこそラストに忘れがたい余韻が残るのである。

  ヒラリーはジャッキーにひどく侮辱されて以来、しばらく妹を避けていた。しかしある嵐の晩、彼女は何か胸騒ぎを感じた。それまでのいきさつをすべて投げ捨て、弟を連れてジャッキーに会いに行く。ジェーン・エアが遠く離れたロチェスターの声を聞くあの有名な場面を思わせる。ヒラリーがジャッキーの部屋に入ると、ダニエルがベッドに寄り添いジャッキーに何か飲ませようとしている。ジャッキーは激しく痙攣していた。ヒラリーが交代して妹を抱く。激しく痙攣している妹に姉は語りかける。

  「本当に愛している人ってイメージが焼きついてる。その人を思うとそのイメージが浮かぶ。BBCでドラムを破った日のママ。誰かを失ったらイメージを思い浮かべ、その人を取り戻す。私の中のあなたのイメージを知りたい?ジャクリーヌ・デュ・プレのイメージ、それはあの浜辺、あなたがチェロを弾き始める前の話よ。プロの演奏家にも今のあなたにもなる前。私たちは遊んでいた。私がまだ13歳のころ。私は黄金の国へ行った。キンバローゾ・コトパクシーが私の案内役。オリノコから灼熱のカラハリ砂漠、ヴェルト草原の大自然からステップ地帯へ。そして故郷へ。あの日言ったことを覚えてる?あなたは言った“心配しないでいい”と。その通りだったわ。」いつしかジャッキーの震えは止まっていた。

  ジャッキーを演じたエミリー・ワトソン、ヒラリー役のレイチェル・グリフィス。ヒラリーをあからさまに侮辱する時のエミリー・ワトソンの顔は本当に憎々しげである。観ていて腹が立つほどだ。だからどんなに侮辱されてもやさしく妹を支え続けるレイチェル・グリフィスに心を惹かれる。彼女の端正な顔は実に美しく魅力的だった。しかしその差は役柄から来ている。ともに名演だった。

  劇中使われるジャクリーヌ・デュ・プレ本人の演奏は言うまでもなく素晴らしい。名演とされるエルガーのチェロ協奏曲のコンサート・シーンは圧巻である。体を大きく動かすジャクリーヌ・デュ・プレの演奏スタイルを再現させたエミリー・ワトソンの熱演も見事。もうひとつ音楽的演出で出色だったのは、ベートーヴェンを演奏中に突然キンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」を演奏し始める場面。乗りにのって最後に「これが正しいベートーヴェンだ」とダニエルが口にする(仕掛けたのもダニエル)。彼女が活躍したのがいつの時代だったのかを強烈に印象ずける意表をつく演出だった。そういえば、キーファーがSOHOで上映中の「突然炎のごとく」を観にヒラリーを連れて行こうとするのを、父親が「そんないかがわしい場所に行くことは許さん」と反対する場面もあった。

  演出といえば、原作からの脚色、キャメラワークも含め見事だった。これほど一つひとつの場面が鮮明に記憶に残る作品は滅多にない。

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2006年6月 4日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 15

記憶喪失もの
■おすすめの10本
「博士の愛した数式」(05年、小泉堯史監督)
「ボーン・スプレマシー」(04年、ポール・グリーングラス監督)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(04年、チャールズ・ダンス監督)
「きみに読む物語」(04年、ニック・カサヴェテス監督)
「過去のない男」(02年、アキ・カウリスマキ監督)
「アイリス」(01年、リチャード・エア監督)
「メメント」(00年、クリストファー・ノーラン監督)
「シベールの日曜日」(62年、セルジュ・ブールギニョン監督)
「白い恐怖」(45年、アルフレッド・ヒッチコック監督)
「心の旅路」(42年、マーヴィン・ルロイ監督)

■こちらも要チェック
「エターナル・サンシャイン」(04年、ミシェル・ゴンドリー監督) Big_0064_1
「ボーン・アイデンティティ」(02年、ダグ・リーグマン監督)
「マルホランド・ドライブ」(01年、デヴィッド・リンチ監督)
「マジェスティック」(01年、フランク・ダボラン監督)
「ロスト・ハイウェイ」(96年、デヴィッド・リンチ監督)
「ロング・キス・グッドナイト」(96年、レニー・ハーリン監督)
「恍惚の人」(73年、豊田四郎監督)
「かくも長き不在」(60年、アンリ・コルピ監督)

■気になる未見作品
「ザ・ジャケット」(05年、ジョン・メイブリー監督)
「明日の記憶」(05年、堤幸彦監督)
「50回目のファースト・キス」(04年、ピーター・シーガル監督)
「私の頭の中の消しゴム」(04年、イ・ジェハン監督)
「バタフライ・エフェクト」(04年、エリック・ブレス&J・マッキ―・グラバー監督)
「いま、会いにゆきます」(04、土井裕泰監督)
「Re:プレイ」(03、ローランド・ズゾ・リヒター監督)
「記憶の旅人」(99、マーティン・ダフィ監督)
「愛と死の間で」(91、ケネス・ブラナー監督)
「記憶の代償」(46年、ジョセフ・L.マンキーウィッツ監督)

  最近記憶喪失や認知証を扱った映画が目立って増えている。記憶喪失ものには大きく三つの分野があるようだ。「白い恐怖」に代表されるサスペンス、スリラー、アクション系統、「きみに読む物語」などのラブ・ロマンス系統、そして「博士の愛した数式」のような人間ドラマの系統。後ろの二つの系統では記憶喪失というよりは認知症やアルツハイマー等の問題が取り上げられることが多い。
 50本ほどあげた中からここまで絞ったが、見逃しているのがもっとある気がしてならない。ここ最近のものはほとんど拾い上げられたが、昔のものが手薄だ。もっと何かあったはずだが、記憶が・・・

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