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2006年5月

2006年5月31日 (水)

ランド・オブ・プレンティ

2004年 アメリカ・ドイツ 2005年10月22日公開
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、マイケル・メレディス
撮影:フランツ・ラスティグ
音楽総監修:アレックス・ステイヤーマーク
音楽監修:リンダ・コーエン
出演:ミシェル・ウィリアムズ、ジョン・ディール、ウェンデル・ピアース
    リチャード・エドソン、バート・ヤング、ショーン・トーブ
    バーナード・ホワイト、ユーリ・Z・エルヴィン、ジェフ・パリス
    ジュエリス・リー・ポインデクスター、ロンダ・スタビンス・ホワイト
    ヴィクトリア・トーマス、マシュー・キンブロー、ポール・ウエスト
    クリスタ・ラング、ウォレン・スターンズ、グロリア・ステュアート

Moon1_1   中年の白人男性が運転する1台のおんぼろ改造ワゴン車が街を巡回している。まるで警察の監視車両のように、監視カメラや様々な機材を満載している。時々屋根から監視カメラを出して、怪しい人物や不審な紙袋などを監視している。ただのアラブ人を、ただ彼がアラブ人だというだけの理由で、怪しいと決め付け追跡する。そのアラブ人がボラックスという洗剤の箱を持っていると、その箱が怪しいと思ってしまう。彼が車で走りながら流しているラジオ番組は超右翼的な番組だ。携帯の着メロはなんとアメリカの国歌。この男、実は警察関係者ではない。母国警備員を自称するポール・ジェフリーズ(ジョン・ディール)という変人である。ベトナム戦争時、特殊部隊にいた男だ。

  映画はこの男を捜して一人若い女性が飛行機でアメリカのロサンジェルスへやってくるところから始まる。ポールの姪であるラナ(ミシェル・ウィリアムズ)だ。彼女を空港で出迎えた牧師が車の中でラナに話す一言がその後の展開の予兆となる。「全米で最もホームレスが多いのがロサンジェルスだ。“アメリカの飢餓の中心地”だ。」彼女を乗せた車は、道路端に段ボール箱の「家」を作り物憂げな様子で寝転がる人たちの間を通り過ぎてゆく。豊かであるはずのアメリカの紛れもない実態。オハイオ生まれだが父親が宣教師だったためにアフリカで育ち、パレスチナにも2年いたラナは目を疑う。アフリカやパレスチナと変わらないではないか。

  「ランド・オブ・プレンティ」(豊穣の地)というタイトルにもかかわらず、この映画にはロサンジェルスの繁華街はほとんど出てこない。スラム街やロサンジェルスの北東にあるトロナという荒涼とした小さな町が映し出されるばかりである。「ランド・オブ・プレンティ」という題名はラストに流れるレナード・コーエンの曲のタイトルから取られたものである。

  僕が立っていなければいけないところに
  立つ勇気がない
  救いの手を差し伸べる気質も
  持ち合わせていない

  誰が僕をここに遣わしたのか分からない
  声を上げて祈るように
  この豊かな国の光がいつの日か
  真実を照らしだすように

  荒涼とした光景とベトナム後遺症に悩む少々頭のネジが緩んだ男、これら映画が描き出すものに対置すると「ランド・オブ・プレンティ」というタイトルはなんとも皮肉に響く。レナード・コーエンの曲がまた絶品である。カナダの有名な詩人、小説家で、かつシンガー・ソングライター。クリス・レアを思わせる独特の低音が魅力だ。歌はそれほどうまくないが、独特の味がある。いわゆる「へたうま」というやつだ。だみ声のトム・ウェイツと並ぶ「ミュージシャンに尊敬されるミュージシャン」であり、特異な独自路線を歩むカリスマ的存在。彼らの曲を歌のうまい人が取り上げるととてつもない傑作になる。中でもジェニファー・ウォーンズの傑作アルバム『レナード・コーエンを歌う』やロッド・スチュワートの「トム・トラバーツ・ブルース」(トム・ウェイツ作曲、ロッドのアルバム「アンプラグド」所収)は僕の愛聴盤、愛聴曲だ。ちなみに、「ランド・オブ・プレンティ」は『テン・ニュー・ソングス』というレナード・コーエンのアルバムに入っている(もちろんサントラ盤にも収録されている)。

  話を映画に戻そう。「ランド・オブ・プレンティ」はそれほど期待して観た映画ではないが、非常に深い感動を覚える傑作だった。9・11後のアメリカ、その精神的ショックと不安そしてそれを乗り越えて前に進もうとする姿勢をこれほど真摯に描いた作品はこれまでなかったのではないか。

  その不安を象徴するのが奇矯な行動をとるポールである。テロのショックのあまり周りがみな怪しく見えてしまうノイローゼ状態。トロナで特殊部隊さながらに暗視スコープを付けて「怪しい」家に「突入」する様は、さながら風車に突進していったドン・キホーテを思わせる。傍から見ればこっけいな行為だが、根拠のない思い込みから関係ない国に攻撃を仕掛けるという実際にアメリカが行った行為に重ねると、そこには明確な批判的姿勢が見える。ここに別の不安が垣間見える。アメリカのとっている姿勢は今のままでいいのかという不安(ポールはその意味でアメリカの現大統領とも重なる)。ポールの行為は笑って済ませられるが(同時に哀れでもあるが)、もうひとつの不安は現実的な不安である。この二重の不安を描いたところが秀逸だ。ヴェンダース自身この点について、「反アメリカ映画ではなく、あふれかえる混乱や痛みに立ち向おうとする試みで、不正や欺瞞、人を迷わせる愛国主義、誤った情報の操作といったものをこの映画では扱っている」と語っている。

  今年の前半に明らかに9・11後を意識した一連の映画が日本に入ってきたが、「ランド・オブ・プレンティ」はアメリカ国民の不安を正面から取り上げた作品として特筆すべきである。ドイツ出身のヴェンダースだかMado_hito_01_1 らこそ描けたのかもしれない。ヴェンダース自身も9・11のテロにはショックを受け、「あの事件はわたしたち、世界中の人たちすべての何かを変えた」とインタビューで語っている。しかし一歩後に引いた外国人だからこそ、9・11後のヒステリックな状況を冷静に見られたのだろう。先に触れたように、この映画はドン・キホーテを模している。探せばサンチョ・パンサ(ポールの助手ジミー、ポールを「軍曹」と呼ぶことからかつての部下だと推測される)も痩せ馬ロシナンテ(改造ワゴン車)もいることがわかる。

  しかしさらに考えるとサンチョ・パンサはジミーではなく、ラナだとも思えてくる。実際に行動を共にするのはジミーではなくラナだ。ここにヴェンダースの一歩踏み込んだ工夫が見られる。ポールが現実の見えないドン・キホーテだとすれば、ラナはまるでスラム街の掃き溜めに舞い降りた鶴のようだ。段ボールハウスが立ち並ぶロサンジェルスの街を車で走る彼女は、さながらアートフル・ドジャーに案内されてロンドンの薄汚れた裏通りを歩くオリバー・ツイストである。天使のような佇まいでその場からやや浮いている。生まれはアメリカだがアフリカで育ち、父親は牧師という設定をしていることから判断して、これは意図的なものだ。

  ポールはラナを伴ってトロナへ、そしてニューヨークのグランド・ゼロへ行く。その過程で彼の「幻想」は消失し、彼は現実に直面させられる。ラストでグランド・セロを目前にして、「意外と狭いんだな、もっとなにか迫ってくると思った」とポールがつぶやくシーンは象徴的である。彼の意識の中ではアメリカ全土がグランド・ゼロのような廃墟に見えたのかもしれない。こんなもんだったのか。彼が現実を認識した瞬間だ。重要なのは彼を変えたのはラナではないということである。ラナは、ピンク剤の影響で時々発作に苦しむポールが「奴らは俺たちの国を破壊し滅亡させるつもりだ。そうはさせない。俺が阻止しなくては」と叫んだときも、ベトナム戦争に勝った、いやベトナムだけではなく冷戦全般に勝ったのだと主張したときも強く反論していない。ただ何か言いたげな表情で見つめるだけだ。ポールを変えたのは現実である。踏み込んではみたもののただ引越しのために段ボールが必要だった「怪しい」家、弟ハッサンの遺体をわざわざ運んできてくれたラナを心からうれしそうに迎えたジョーの笑顔、ラナの母(ポールの妹)からの手紙、そしてグランド・ゼロ、これらこそがポールの妄想を消失させたのである。

  ヴェンダースは現在のアメリカが進んでいる方向を批判してはいるが、何かを積極的に提起してはいない。「今はただ耳を澄ませてその声をきこう。」そこにかぶさってくるレナード・コーエンの歌も 「この豊かな国の光がいつの日か真実を照らしだすように」と「祈るように」歌う。そこに浮かび上がるのはかすかな希望である。

  もう少し視点を変えよう。この映画は厳密にはロード・ムービーではない。全体は3部に分けられる。第1部はロサンゼルス。ここではポールの監視行動、一人で国家の安全を守ろうと躍起になっている姿とラナとの出会いが描かれる。第2部はトロナへの旅。ここは確かに旅だが旅自体はさほど重要ではない。車の中でポールとラナが交わす会話に重点が置かれているが、そこは二人をめぐる事情をわれわれに伝える説明的部分である。より重要なのはトロナで二人が経験したことである。死体を兄の下に運んでゆくという設定は「遥かなるクルディスタン」を思わせる。向かう先が荒涼とした土地だという点も似ている。第3部はニューヨークへの旅。時間的には短く、エピローグに近い。ここも旅の過程はほぼ完全に省略されている。ここでもグランド・ゼロで見て感じたことの方が重要である。

  この映画にあまり現実への対応を期待すべきではない。そもそもそれは映画の役目ではない。ドン・キホーテの枠組みを借りていることからもわかるように、全体に寓意物語のようなつくりになっている。語りの基本的な視点はラナの視点である。いや「語り」という言い方は正確ではないかもしれない。彼女には語ることよりもむしろ何かをじっと見つめている観察者の印象の方が強い。ポールの「監視」とはまた違った意味での観察。アメリカ人ではあるがほとんどを外国で過ごしてきたという設定がここで重要になってくる。あらかじめある種の「無垢さ」を付与されているわけだ。ロサンジェルス到着のアナウンスを聞いた彼女が「神様、長い間遠く離れていた私を、生まれ故郷に連れ戻してくださってありがとう」とつぶやくシーン、あるいはアメリカについた日の夜、ラナが暗闇の中で目が覚めてお祈りをあげる場面には最初違和感があった。後に彼女が牧師の娘だと分かってようやく納得する。夜の祈りの場面では彼女の戸惑いが強調される。「私は昨日までヨルダン川の西岸地区にいたのに、今はアメリカにいる。私の故郷だけどとても妙な気分。神様どうか味方して。私が間違っていても助けが必要なんです。一人ではできません。」

  ラナが敬虔な祈りをささげているシーンに、伯父のポールが車の中で9・11後の世界をののしり、泣いている場面がカットバックで差し挟まれ、二人の姿が交錯する。二人の対比は意図的なものだ。ポールとラナ。ラナのような人は現実にもいるだろうが、ポールのような人はまずいない。しかしあそこまではやらないにしても、アラブ人を見るととっさに警戒心を抱いたりすることは普通の人でも少なからずあっただろう。ましてや実際に見回りをする役目の人たちにはポールに近い感覚があったかもしれない。実際無実の人が何人も拘束されたりしたのである。ラナはおそらく平和と癒しの象徴である。二人のような人物が実際にどれだけいるかを計算しても意味がない。登場人物のリアリティあるいは存在感はそんな数字で計れるものではない。

  ロサンジェルスの貧しい街並みにラナが驚くところを見ると、彼女はどうやら大人になって初めてアメリカに来たようだ。なぜラナが必要だったのか。アメリカ中心の考え方しかできないポールに、外からアメリカを見る視点を持った人物を、しかもルーツはアメリカ人であSdglass0507 る人物を対置したかったのだろう。たとえば、ポールはラナから9・11の映像をテロリストではなく一般市民が歓声を上げて見ていたことを聞かされ愕然とする。なぜアメリカが世界中から嫌われ憎まれているのか深く追求はしないが、それでもポールにはショックだった。あるいはグランド・ゼロを眺めながら、あの日テロで亡くなった人たちの声を聞きたいとラナが言う場面もある。その人たちは「報復で人が殺されるのを望まないはずよ。」

  ポールの狂気に近い不安とラナの良心と善意。そこから生まれてくるものは特別深い認識ではない。ほとんど狂気に近いポールを否定できても、一般の人たちの不安や怒りを否定はできない。アメリカがイラクで犯した過ちは誰でも知っている。両極端と思える二人の視点は映画に反映されていても、段ボールハウスに住む人たちの視点は盛り込まれていない。確かにその点は弱い。「アメリカのあるべき姿」を母に教えられたとラナが言うと、妹は共産主義にかぶれたとポールが返す。この「アメリカのあるべき姿」という言葉が実に象徴的である。要するに理想論である。理想論は現実を批判できるが、一方で抽象的でもある。明らかに「あるべき姿」ではないアメリカに「あるべき姿」を突きつけるのは確かに批判的効果がある。だが、いかにしてその「あるべき姿」にアメリカを近づけるのかという対案がない(もっとも誰にもないのだが)。しかし1本の映画ですべてを描けるはずはない。ヴェンダース自身も「あの事件を乗り越えるにはもっとたくさんの映画を作らなければならないね」とあるインタビューで語っている。決して十分な映画ではないが、しかしこの映画を無意味だというのもまた思い上がりである。

  この映画は実に多くのことを抉り出している。たとえば、ラナがある伝道所で食事を配っていたとき、並んでいたハッサン(ポールがテロリストではないかと目を付けていた男だ)に出身はどこかと聞く場面。彼は「俺の故郷は“国”じゃない“民族”だ」と答える。明らかに周りを気にしながら。はっとさせられるせりふだ。後ろに並んでいた黒人女性がそれを聞いて思わず彼の顔を見る。アラブ人であることが分かったからだ。こういう細かい描写が素晴らしい。ハッサンに質問したときのラナは無意識のうちにアメリカ人になっている。ヨルダン川の西岸(イスラエル軍とパレスチナ自治政府によって統治されているパレスチナ自治区)に2年もいたというのに。

  あるいは、トロナで、ポールがボラックスの箱を運んでゆく「怪しげな」男たちのあとをつけ、テロリストのアジトだと勝手に思い込んで「怪しい」家に「突入」する例の場面。この場面はラナがハッサンの兄ジョーと家族の写真を楽しげに見ているシーンとカットバックされる。「怪しい」家にいたのはベッドから出られないばあさん一人だった。その婆さんはテレビのリモコンが壊れて、同じチャンネルしか見られない、ヴォリュームしか変えられないとぼやく。皮肉にもそのときテレビではブッシュの演説が流れていた。ポールがテレビをたたくとチャンネルが変わった。まさに大山鳴動ねずみ一匹。ポールの幻想がつぶれるこっけいな場面だが、見たくもないブッシュの演説をチャンネルも替えられずにずっと見ていたばあさんの姿が、一般のアメリカ市民に重なってくる。一方的な情報の垂れ流し。ここも秀逸な場面だと思う。その後ポールはラナと合流する。ジョーからハッサンのことを聞いた後でポールが漏らす言葉が痛々しい。「俺は何を追っていたのか。手がかりを失ってしまった。もう何が何だかわからない。俺がしてきたことは・・・」

 その夜、ベッドで彼はうなされる。そこで初めてベトナム後遺症が9・11のテロと結びついていることが明かされる。9・11のテロでタワーが崩れ落ちるのを見て、ベトナムでヘリコプターが撃ち落されたときの悪夢が戻ってきたのである。ポールを駆り立てていたのが漠然とした不安ではなく、むしろ恐怖だったことが分かる。うなされて泣き叫ぶポールの姿に戦争とテロが植えつけた恐怖の根深さがにじみ出ている。アメリカが初めて敗北を経験したベトナム戦争、アメリカが初めて自国内で攻撃を受けた9・11テロ。彼の、そしてアメリカの恐怖は一過性のものではなかった。映画はそう暗示している。常にナンバーワンであることを自認していたアメリカが味わった二度の屈辱と喪失感。どうすればアメリカは立ち直れるのか。

  ラストのグランド・ゼロのシーンが暗示的だ。ポールはグランド・ゼロを間近に見てこんなものだったのかと感じる。「もっと心に迫ってくるはず」だった。ヴェンダースはグランド・ゼロをアメリカが再生する原点として描いたのではないだろう。それが原点ではいつまでたっても争いの無限連鎖から逃れられない。いつまでもテロに拘っているべきではないと言っているのではないか。忘れるべきではないが、そこを原点に考えるべきではない。何だこんなものかと拍子抜けしたことが暗示しているのはそういうことではないのか。ではどうすればいいのか。それははっきりと示されてはいない。映画が観客に投げかけた課題である。

 僕の考えを最後に書いておこう。この映画は長い間アメリカがとってきた力の路線の犠牲者たちに捧げた鎮魂歌である。ポールは言うまでもなく彼のような身内を抱えたラナもまた犠牲者である。だからこそ最後にたどり着くのはグランド・ゼロでなければならなかった。そこからどういう道に進むのか。これまでの力の政策の延長線上でないのは言うまでもない。だから「再生」ではなく「新生」でなければならない。新しい道に進むためには「犠牲者」という視点からではなく「加害者」であったという視点に立たなければならない。なぜアメリカは世界中から嫌われ、憎まれているのか、それを真剣に考えることから出発するしかない。僕はそう思う。

2006年5月28日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 14

伝記映画

 最近ミュージシャンの伝記映画が多いので、そもそも伝記映画がどれくらいあるかリストを作ってみた(本館HP「緑の杜のゴブリン」のmiscellanyコーナーにある「伝記映画作品リスト」参照)。いやあ、びっくりしました。出てくる、出てくる。こんなにあるとは。思いつく限りの作品をあげてみましたが、本館HPの網羅的リストですらもれているのがまだまだありそうです。
 当然おすすめリストもかなりの数になってしまいました。やはり、何事かを成し遂げた人は映画の題材になりやすいということでしょう。かつては偉人伝の映画版として盛んに作られたのでしょうが、最近はむしろオリジナル脚本が書けなくなったことの裏返し現象のような気がします。
 ただ、それはハリウッドだけの事情かもしれません。、90年代以降の傑作群を見るとその充実振りは驚くほどです。やはり名を成した人物の人生には奥深い人間ドラマが潜んでいるということなのでしょう。80年代以降に傑作、秀作がひしめいているために、かつての定番映画がだいぶ「こちらも要チェック」コーナーに回ってしまいました。ただこちらのコーナーには「恋に落ちたシェイクスピア」や「イル・ポスティーノ」など、「伝記映画」からは若干外れるものの、作品的には優れたものも入っているのでご注意を。

■おすすめの40本
「シンデレラマン」(2005、ジェイムズ・J・ブラドック)
「五線譜のラブレター」(2004、コール・ポーター)
「ヒトラー最期の12日間」(2004、アドルフ・ヒトラー)
「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004、エルネスト・チェ・ゲバラ)
「ヴェロニカ・ゲリン」(2003)
「フリーダ」(2002、フリーダ・カーロ)
「酔画仙」(2002、チャン・スンオプ)
「永遠のマリア・カラス」(2002、マリア・カラス)
「ビューティフル・マインド」(2001、ジョン・フォーブス・ナッシュJr.)
「アイリス」(2001、アイリス・マードック)
「エリザベス」(1998、エリザベス1世)
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」(1998)
「Queen Victoria 至上の愛」(1997、ヴィクトリア女王)
「宋家の三姉妹」(1997)
「シャイン」(1995、デヴィッド・ヘルフゴット)
「英国万歳!」(1994、ジョージ三世)
「永遠の愛に生きて」(1993、C.S.ルイス/ジョイ・グレシャム)
「シンドラーのリスト」(1993、オスカー・シンドラー)
「コルチャック先生」(1991、ヤヌシュ・コルチャック)
「グラン・ブルー」(1988、ジャック・マイヨール)
「遠い夜明け」(1987、スティーブン・ビーコ)
「ラスト・エンペラー」(1987、溥儀)
「アマデウス」(1984、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト) Cutcup03
「レッズ」(1981、ジョン・リード)
「メフィスト」(1981、グスタフ・グリュンドゲソス)
「歌え!ロレッタ愛のために」(1980)
「ウディ・ガスリー わが心のふるさと」(1976)
「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975)
「マーラー」(1974、グスタフ・マーラー)
「ピロスマニ」(1969、ニコ・ピロスマニ)
「裸足のイサドラ」(1968、イサドラ・ダンカン)
「アンドレイ・ルブリョフ」(1967)
「アラビアのロレンス」(1962、T.E.ロレンス)
「五つの銅貨」(1959、レッド・ニコルズ)
「モンパルナスの灯」(1958、アメデオ・モディリアーニ)
「翼よ!あれが巴里の灯だ」(1957、チャールズ・リンドバーグ)
「イワン雷帝」(1946)
「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」(1942、ジョージ・M・コーハン)
「レンブラント描かれた人生」(1936)
「ヘンリー八世の私生活」(1933)

■追加
「ジャージー・ボーイズ」(2014、フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズ)
「ダラス・バイヤーズクラブ」(2013、ロン・ウッドルーフ)
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」(2013、デイヴ・ヴァン・ロンク)
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(2013、ジョーダン・ベルフォート)
「風立ちぬ」(2013、堀越二郎)
「それでも夜は明ける」(2013、ソロモン・ノーサップ)
「42 ~世界を変えた男~」(2013、ジャッキー・ロビンソン)
「コン・ティキ」(2012、トール・ヘイエルダール)
「シュガーマン 奇跡に愛された男」(2012、ロドリゲス)
「光にふれる」(2012、ホアン・ユィシアン)
「ハンナ・アーレント」(2012)
「リンカーン」(2012)
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(2011)
「もうひとりのシェイクスピア」(2011)
「英国王のスピーチ」(2010、ジョージ6世)
「ソーシャル・ネットワーク」(2010、マーク・ザッカーバーグ)
「インビクタス/負けざる者たち」(2009、ネルソン・マンデラ)
「花の生涯~梅蘭芳」(2008)
「セラフィーヌの庭」(2008、セラフィーヌ・ルイ)
「チェ28歳の革命」(2008、チェ・ゲバラ)
「エディット・ピアフ 愛の賛歌」(2007)
「クィーン」(2006、エリザベス2世)
「世界最速のインディアン」(2005、バート・マンロー)
「Ray」(2004、レイ・チャールズ)

■こちらも要チェック
「アビエイター」(2004、ハワード・ヒューズ)
「ビヨンドtheシー」(2004、ボビー・ダーリン)
「ネバーランド」(2004、ジャームズ・バリ)
「真珠の耳飾の少女」(2003、ヨハネス・フェルメール)
「ジャンヌ・ダルク」(1999)
「恋に落ちたシェイクスピア」(1998)
「マイケル・コリンズ」(1996)
「イル・ポスティーノ」(1995、パブロ・ネルーダ)
「まあだだよ」(1993、内田百閒)
「マルコムX」(1992)
「チャーリー」(1992、チャールズ・チャップリン)
「マイ・レフトフット」(1989、クリスティ・ブラウン)
「バード」(1988、チャーリー・パーカー)
「ローザ・ルクセンブルク」(1985)
「ハメット」(1982、ダシール・ハメット)
「ローズ」(1979、ジャニス・ジョプリン)
「奇跡の人」(1979、ヘレン・ケラー)
「レニー・ブルース」(1974)
「ビリー・ホリデイ物語 奇妙な果実」(1972)
「ゲバラ!」(1969、エルネスト・チェ・ゲバラ)
「わが命尽きるとも」(1966、トマス・モア) 048966
「奇跡の丘」(1964、イエス・キリスト)
「スパルタカス」(1960)
「愛情物語」(1955、エディ・デューティン)
「ベニイ・グッドマン物語」(1955)
「グレン・ミラー物語」(1954)
「赤い風車」(1952、アンリ・トゥールーズ・ロートレック)
「十月のレーニン」(1937)
「巨星ジーグフェルド」(1936、フローレンツ・ジーグフェルド)
「未完成交響楽」(1933、フランツ・ペーター・シューベルト)
「裁かるゝジャンヌ」(1928、ジャンヌ・ダルク)

■気になる未見作品
「力道山」(2005)
「ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方」(2004)
「アドルフの画集」(2002、アドルフ・ヒトラー)
「ミセス・パーカー ジャズ・エイジの華」(1994、ドロシー・パーカー)
「レニ」(1993、レニ・リーフェンシュタール)
「ガンジー」(1982)
「狂えるメサイア」(1972、アンリ・ゴーティエ)
「ジョルスン物語」(1946、アル・ジョルスン)
「ゾラの生涯」(1937、エミール・ゾラ)
「ナポレオン」(1927)

2006年5月25日 (木)

ゴブリンのこれがおすすめ 13

フィルム・ノワール
■おすすめの20本 Car1
「M」(フリッツ・ラング、31)               
「モンパルナスの夜」(ジュリアン・デュヴィヴィエ、33)   
「深夜の告白」(ビリー・ワイルダー、44)          
「飾窓の女」(フリッツ・ラング、44)            
「ローラ殺人事件」(オットー・プレミンジャー、44)     
「第三の男」(キャロル・リード、49)            
「アスファルト・ジャングル」(ジョン・ヒューストン、50)  
「サンセット大通り」(ビリー・ワイルダー、50)       
「都会の牙」(ルドルフ・マテ、50)             
「男の争い」(ジュールス・ダッシン、55)          
「狩人の夜」(チャールズ・ロートン、55)          
「いぬ」(ジャン・ピエール・メルヴィル、63)        
「サムライ」(ジャン・ピエール・メルヴィル、67)      
「仁義」(ジャン=ピエール・メルヴィル、70)        
「さらば愛しき女よ」(ディック・リチャーズ、75)
「ハメット」(ヴィム・ヴェンダース、83)
「レザボア・ドッグス」(クェンティン・タランティーノ、91) 
「レオン」(リュック・ベッソン、94)            
「L.A.コンフィデンシャル」(カーティス・ハンソン、97) 
「シン・シティ」(ロバート・ロドリゲス&フランク・ミラー、05)

■こちらも要チェック
「マルタの鷹」(ジョン・ヒューストン、41)
「幻の女」(ロバート・シオドマク、44)
「チャップリンの殺人狂時代」(チャールズ・チャップリン、47)
「現金に手を出すな」(ジャック・ベッケル、54)
「マダムと泥棒」(アレクサンダー・マッケンドリック、55)  
「現金に体を張れ」(スタンリー・キューブリック、56)
「成功の甘き香り」(アレキサンダー・マッケンドリック、57) 
「エヴァの匂い」(ジョゼフ・ロージー、62)         
「地下室のメロディー」(アンリ・ヴェルヌイユ、62)
「袋小路」(ロマン・ポランスキー、66)           
「シシリアン」(アンリ・ヴェルヌイユ、69)
「チャイナタウン」(ロマン・ポランスキー、74)
「グロリア」(ジョン・カサベテス、80)
「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(ガイ・リッチー、98)

■気になる未見作品
「筋金(ヤキ)を入れろ」(アンリ・ドコワン、55)
「殺人鬼に罠をかけろ」(ジャン・ドラノワ、57)
「リスボン特急」(ジャン・ピエール・メルヴィル、72)
「暗黒街のふたり」(ジョゼ・ジョヴァンニ、73)  

 「男の争い」のレビューで「フィルム・ノワール」の特徴を次のようにまとめてみた。「文体はハード・ボイルドで、登場人物は男の場合ギャングか犯罪者が多く、女はファム・ファタル、かつ黒いあるいは暗い色調を基調にし、さらに何らかの犯罪が絡んだ映画。」もちろん定義しようとすればこれで足りるわけはない。例外はいくらでも出てくる。しかし定義とはそんなものだ。隣接のジャンルにはサスペンス映画、ギャング映画、金庫破り映画やその他犯罪映画全般があるので、どこまで含めるかは選ぶ人による。ということで、ここでは「フィルム・ノワール」の代表作ばかりではなく、人によっては「これは違うだろう」と感じるものまで含めている。
 このジャンルに興味のある人は、本館HP「緑の杜のゴブリン」のmiscellanyコーナーにより網羅的な「フィルム・ノワール」作品リストを収録しているので、そちらも参照してください。

2006年5月21日 (日)

旅するジーンズと16歳の夏

2005年 アメリカ Gogo_2
原題:The sisterhood of the traveling pants
監督:ケン・クワピス
原作:アン・ブレイシェアズ『トラベリング・パンツ』(理論社)
製作:デブラ・マーティン・チェイス、デニース・ディ・ノービ
    アンドリュー・A ・コソービー、ブロデリック・ジョンソン
脚本:ディーリア・エフロン、エリザベス・チャンドラー
撮影:ジョン・ベイリー、A.S.C.
美術:ゲイ・バックリー
作曲:クリフ・アイデルマン
出演:アンバー・タンブリン、アメリカ・フェレーラ、ブレイク・ライブリー
    アクレシス・ブレーデル、ブラッドリー・ホイットフォード
    ナンシー・トラビス、 レイチェル・ティコティン、ジェナ・ボイド、レオナルド・ナム

 ずっと気になっていた映画だが、タイトルがいかにも「わたしB級映画です」と強く主張しているので手が出なかった。どこかモリー・リングウォルドやリヴ・タイラーが出ていたキャピキャピ映画を思わせるタイトルとジャケットの雰囲気。それでも観てみようと思ったのは、「カゴメのシネマ洞」でカゴメさんがほめていたから。果たして期待をはるかに上回る素晴らしい映画だった。カゴメさんありがとう。

 16歳の女の子4人を主人公にしたガールズ・ムービーなのだが、他愛のない恋愛ごっこを描いたキャピキャピ乙女映画ではない。4者4様の大人への旅立ちとそこで出会う苦悩、そして変わらぬ友情というしっかりとした物語の骨格を持ち、4人それぞれの人間的成長がくっきりと描き分けられている。

  最近ガールズ・ムービーが増えてきた気がする。「スウィングガールズ」「犬猫」「下妻物語」「リンダ リンダ リンダ」、「NANA」。どれもよくできている。先日レビューした「青空のゆくえ」は中心人物が男の子なので正確にはガールズ・ムービーとは呼べないが、主人公たちに真摯に向き合っている姿勢には好感が持てた。これらの日本の映画はどちらかというとキャピキャピ寄りだが、韓国の「子猫をお願い」は「旅するジーンズと16歳の夏」に近いテーマを持っている。こちらも、高校出たての5人の女の子たちが社会に出ても互いに友情を保とうと努力する映画である。社会の中に足場を十分築けず、浮遊しながらも精一杯生きようとする女の子たちを丁寧に描き分けていた。

  欧米の古い映画では有名な「若草物語」があるが、他にはあまり思い当たらない。女性映画が増えてくるのはようやく80年代になってから。しかし描かれる女性たちはずっと年齢層が上だ。「マグノリアの花たち」、「森の中の淑女たち」、「ガールズ・ナイト」、「キャリア・ガールズ」、「ジョイ・ラック・クラブ」等々。10代では人生の苦悩を描くには若すぎるのだろう。比較的最近のものでは「靴に恋して」「カーサ・エスペランサ」「カレンダー・ガールズ」、「8人の女たち」、「ポーリーヌ」、「彼女を見ればわかること」、「クレールの刺繍」「サマリア」「ラヴェンダーの咲く庭で」など。確かに(キャピキャピ系を別にすれば)10代の女の子を主人公にしたものはほとんどない。日本でもキャピキャピ系ではないものというと、中原俊監督の「桜の園」(90年)あたりまでさかのぼらなければならない(そういえば木下恵介監督の「女の園」というのもあった)。こう見てくると「子猫をお願い」や「旅するジーンズと16歳の夏」はかなり貴重な存在であることがわかる。

  「旅するジーンズ」という不思議なタイトルは、1本のジーンズを女の子4人が代わる代わる穿いてゆくことからきている。ティビー、カーメン、ブリジット、リーナの4人は性格も体型も違うが、なぜかそのジーンズは4人の誰が穿いてもぴったりと合ってしまう。4人が古着屋でその不思議なジーンズを発見したのは夏休みに入る直前。夏休みにリーナは祖父母の住むギリシャへ、カルメンは別れて暮らす父親のもとへ、ブリジットはメキシコでのサッカー・キャンプに参加する予定。ティビーだけは地元に残り、人生の惨めさを綴ったドキュメンタリー映画(ミジメンタリー)を製作するつもりだ。子供のころから(いや正確にはまだ胎児のころから)ずっと一緒に育ってきた彼女たちが初めて別々にすごす夏。しばしの別れを目の前にして出会った不思議なジーンズ、このジーンズには幸運をもたらしてくれる力があるのではないか。そう思った4人は、それぞれ1週間ずつはいて次の人に送ることにした。幸運のジーンズに願いを託し、4人は別々の道を歩みだす。

  その後に続く4人それぞれのストーリーが実によく描けている。原作はアン・ブレイシェアズの『トラベリング・パンツ』。原題は ”The Sisterhood of the Traveling Pants” だから、直訳すれば「旅するパンツ姉妹団」。未読だがなかなかいい出来らしい。映画は一部変更があるが、ほぼ原作に沿っているようだ。また4人を演じる女優たちがそれぞれに魅力的である。自由奔放なブリジット役のブレイク・ライブリー、内気なリーナ役のアクレシス・ブレーデル、皮肉屋のティビーに扮するアンバー・タンブリン、明るい性格のカーメンを演じるアメリカ・フェレーラ。いずれも新進女優たちばかり。中でもブレイク・ライブリーは初めての映画出演だった。

  それぞれ誰かに似ているのが面白い。アンバー・タンブリンは土屋アンナ、アクレシス・ブレーデルはヘレナ・ボナム・カーター、アメリカ・フェレーラは青木さやか、いやむしろ「ブリジット・ジョーンズ」の時のレニー・ゼルウィガーに似ている。ブリジット役のブレイク・ライブリーは金髪ですらりと足が長い典型的なアメリカ美人タイプ。その分一番個性に欠ける。ついでに言うと、リーナがギリシャで出会う大学生コストス役のマイケル・レイディもアントニオ・バンデラスを若くした感じだ。

  ブレイク・ライブリーが個性に欠けることもあって、4つのエピソードの中ではブリジットのものが一番弱い。ブリジットはメキシコのサッカ―キャンプに参加する。美人でスポーツ万Jewelgrape1 能の彼女は最初から誰よりも目立つ。すぐさま美男子のコーチに目をつけ積極的に迫ってゆく。典型的なアメリカ娘の行動パターン。新鮮味ゼロ。これだけならまったく魅力がないが、彼女の明るい笑顔の裏には自殺した母親の影が付きまとっていた。コーチのエリック(マイク・ヴォゲル)を口説き落としても満足できない。「幸せな出来事のはずなのに、むなしいのはなぜ?」。彼女の心にぽかりとあいた穴はどんなに陽気に振舞っても美形のコーチを口説き落としても埋められはしない。より重要なのは魔法のジーンズでもその穴を埋められなかったことだ。

  魔法のジーンズは4人の間を一巡するが、これを穿いてうまくいったものはいない。リーナはギリシャに行って大学生のコストスと出会う。たちまち彼に惹かれるが、彼女には越えなければならない二つの壁があった。ひとつは自分自身の内気な性格。白い家が並ぶ美しいサントリーニ島でスケッチをしているが、周りの恋人たちからは目をそらしている。服装も体の線を隠すような地味な服を着ている。もうひとつは彼女の祖父母の家とコストスの家の間にある確執。あの家の者とは付き合ってはならないと彼女は釘を刺される。しかし隠れて彼と会ううちに彼女は少しずつ大胆になってゆく・・・。4人の中で一番繊細な感じのリーナのエピソードが僕は一番好きだ。

  4人の中で一番つらい経験をしたのはカーメンである。彼女は別居している父親を訪ねてサウス・カロライナに行く。しかし彼女を待っていたのは父親との久々の水入らずの時間ではなく、予想しなかった大きなショックだった。父親はリディア(ナンシー・トラビス)という女性と同棲していた。しかも彼女には二人の連れ子がいた。カーメンは4人の中で一番陽気でみんなの支えのような存在であるが、この予想外の展開には激しく動揺してしまう。冷たく扱われてはいないが、居場所のない彼女は父親の下を去る。父親と電話で話したときに、「まるで私を不良品のように交換しようというの?」と泣きながら訴えるシーンには胸が詰まった。カーメンはプエルトリコ系で体型も4人の中で一番太っている。典型的な白人であるリディアたちと出会って彼女の劣等感が爆発する。カーメンを演じるアメリカ・フェレーラが実に魅力的だ。

  一人地元のメリ―ランドに残ってスーパーでアルバイトをしているティビーのエピソードも秀逸。彼女はたまたま偶然が重なりベイリー(ジェナ・ボイド)という少女と知り合う。ベイリーは小生意気な女の子で、ずうずうしくティビーが撮っていたビデオの撮影についてくる。最初のうちは迷惑がって「この子もジーンズと一緒に送っちゃいたい」などと言っていたティビーだが、ベイリーが白血病であることを知ってから態度が変わってゆく。一人だけどこにも行けず、いじけて「ミジメンタリー映画」を撮っていた彼女に転機が訪れる。このように話自体はよくある難病物である。その限りではありきたりの展開なのだが、救いはティビーの性格である。髪の一部をブルーに染め、鼻にピアスをした、一見パンク姉ちゃん風の外見。全身から「やってらんねーよ」的オーラを放ちながら(眉間に値札をペタッと貼り付けるシーンが面白い)、それでいて結構まじめなところがある。生意気で彼女の神経を逆なでするベイリーに手を焼きながら、それでいて突き放すわけでもない。ベイリーを見る目つきが少しずつ変わってゆく。心の変化が表情に表れてゆく。「幸せは大きく成功した時よりちょっとした時にかんじるもの」というベイリーが病床で語ったせりふもいいが、ベイリーと出会ってどんどん変わってゆくティビーの方が感動的だ。演じたアンバー・タンブリンは土屋アンナに顔が似ているだけではなく、役柄も「下妻物語」の白百合イチゴを思わせる。このアンバー・タンブリンも非常に魅力的だった。

  いつも4人で一緒にいたときには経験することがなかった苦い現実。その現実の前では魔法のジーンズも役に立たない。彼女たちはそれぞれの問題に自分ひとりで立ち向かわなければならない。そして彼女たちはみな乗り越えた。自分たちの前に立ちふさがった問題を。そして同時に自分たちを閉じ込めていた殻を破ることができた。夏休みを終えて久々に4人そろった彼女たちにはもうジーンズは必要なかった。ジーンズそのものには何の力もない。それは単なる「願掛け」に過ぎない。「ロング・エンゲージメント」でオドレイ・トトゥが何度もやっていたまじないのようなものだ。しかし、見方を変えれば、そこには別の力が込められていたともいえる。4人の友情だ。ジーンズそのものには何の力もないが、そのジーンズはいつしか4人の友情の象徴的存在になっていた。彼女たちは悩みながらも独り立ちしていった、しかしその「独り立ち」は親友たちの支えがあってこそできたのである。4人は再会したときに互いに変わらない友情の絆を確認しあった。もう魔法のジーンズがなくても自分で問題を乗り越えてゆける、そこに彼女たちの本当の成長があった。

  監督はケン・クワピス。彼の映画を観るのはこれが2本目。最初に見たのは妻マリサ・シルバとの共同監督作品である「ヒー・セッド、シー・セッド/彼の言い分、彼女の言い分」(91年)。ケヴィン・ベーコン、エリザベス・パーキンス主演のコメディ。未公開作品だがこれもなかなかの佳作だった。

2006年5月20日 (土)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年6月)

  新作公開、DVD発売が集中した5月のあおりか、6月はやや物足りない感じ。特に劇場新作は残り物の感あり。一方、DVDの方はいよいよ「ALWAYS三丁目の夕日」、「天空の草原のナンサ」が発売に。「白い家の少女」は未見だが、「タクシー・ドライバー」と同じ年に撮られたジョディ・フォスター主演のサスペンス。一見の価値あり。
  個人的にうれしいのはソ連版「ドン・キホーテ」。もう27年も前に「有楽シネマ」で観た。何本もある「ドン・キホーテ」映画の最高傑作。こんなレアものまでDVDになるとは!すごい時代になったものだ。

【新作映画】
5月27日公開
 「ビッグ・リバー」(舩橋淳監督、日・米)
6月3日公開
 「ココシリ」(ルー・チューアン監督、香港・中国)
 「13歳の夏に僕は生まれた」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、伊・仏・英)
 「ママが泣いた日」(マイク・バインダー監督、米・独・英)
 「花よりもなほ」(是枝裕和監督、日本)
6月10日公開
 「親密すぎるうちあけ話」(パトリス・ルコント監督、仏)
 「春の日のクマは好きですか?」(ヨン・イ監督、韓国)
 「プルートで朝食を」(ニール・ジョーダン監督、アイルランド・英)
 「インサイド・マン」(スパイク・リー監督、米)
6月17日公開
 「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督、フランス・セネガル)

【新作DVD】
5月24日
 「白い家の少女」(ニコラス・ジェスネール監督、加・米・仏)
5月26日
 「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」(ジェイムズ・マンゴールド監督、米)
 「真夜中のピアニスト」(ジャック・オディアール監督、仏)
 「マダムと奇人と殺人と」(ナディーヌ・モンフィス監督、仏・ベルギー他)
6月2日
 「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督、米) Seascene_4
6月7日
 「スパングリッシュ」(ジェイムズ・L・ブルックス監督、米)
6月9日
 「ミリオンズ」(ダニー・ボイル監督、英米)
 「ロード・オブ・ウォー」(アンドリュー・ニコル監督、米)
 「あおげば尊し」(市川準監督、日本)
 「ALWAYS三丁目の夕日」(山崎貴監督、日本)
6月21日
 「カーテンコール」(佐々部清監督、日本)
6月23日
 「シン・シティ」(ロバート・ロドリゲス監督、米)
 「天空の草原のナンサ」(ビャンバスレン・ダバー監督、モンゴル・独)
 「ある子供」(ジャン・ピエール・ダルデンヌ監督、ベルギー・仏)
 「ノー・ディレクション・ホーム」(マーティン・スコセッシ監督、英米)
 「プライドと偏見」(ジョー・ライト監督、英仏)
6月30日
 「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督、英・チェコ他)

【旧作DVD】
5月21日
 「早春二月」(サイ・ティエリ監督、1963年、中国)
5月26日
 「ドン・キホーテ」(グリゴーリー・コージンツェフ監督、1957年、ソ連)
 「レインボウ」(ケン・ラッセル監督、1989年、英)
5月27日
 「蝶採り」(オタール・イオセリアーニ監督、1992年、仏・伊・独)
 「群盗、第七章」(オタール・イオセリアーニ監督、1992年、ロシア他)
6月9日
 「アクメッド王子の冒険」(ロッテ・ライニガー監督、ドイツ)

2006年5月18日 (木)

ゴブリンのこれがおすすめ 12

ロード・ムービー
■おすすめの30本 033798_1
「怒りの葡萄」ジョン・フォード監督、1939・米
「明日に向かって撃て」ジョージ・ロイ・ヒル監督、1969・米
「イージー・ライダー」デニス・ホッパー監督、1969・米
「銀河」ルイス・ブニュエル監督、1969・イタリア・フランス
「真夜中のカーボーイ」ジョン・シュレシンジャー監督、1969・米
「家族」山田洋次監督、1970
「アギーレ/神の怒り」ヴェルナー・ヘルツォーク監督、1972・西独
「スケアクロウ」ジェリー・シャッツバーク監督、1973・米
「さらば冬のカモメ」ハル・アシュビ―監督、1973・米
「ハリーとトント」ポール・マザースキー監督、1974・米
「森浦(サンポ)への道」イ・マニ監督、1975・韓国
「旅芸人の記録」テオ・アンゲロプロス監督、1975・ギリシャ
「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」ハル・アシュビー監督、1976・米
「バウンティフルへの旅」ピーター・マスターソン監督、1985・米
「スタンド・バイ・ミー」ロブ・ライナー監督、1986・米
「春にして君を想う」フリドリック・トール・フリドリクソン監督、1991・アイスランド他
「ラテンアメリカ/光と影の詩」フェルナンド・E・ソラナス監督、1992
「エル・ノルテ 約束の地」グレゴリー・ナヴァ監督、1993・米
「風の丘を越えて/西便制」イム・グォンテク監督、1993・韓国
「ゲット・オン・ザ・バス」スパイク・リー監督、1996・米
「セントラル・ステーション」ヴァルテル・サレス監督、1998・ブラジル
「ストレイト・ストーリー」デイヴィッド・リンチ監督、1999・米仏
「ロード・オブ・ザ・リング三部作」ピーター・ジャクソン監督、2001~3・米
「アバウト・シュミット」アレクサンダー・ペイン監督、2002・米
「モーターサイクル・ダイアリーズ」ヴァルテル・サレス監督、2003・米他
「サイドウェイ」アレクサンダー・ペイン監督、2004・アメリカ
「アメリカ、家族のいる風景」ヴィム・ヴェンダース監督、2005・米
「トランスアメリカ」ダンカン・タッカー監督、2005・アメリカ
「サン・ジャックへの道」コリーヌ・セロー監督、2005、フランス
「リトル・ミス・サンシャイン」ジョナサン・デイトン他監督、2006・アメリカ

■追加
「世界最速のインディアン」(2005) ロジャー・ドナルドソン監督、ニュージーランド
「トランシルヴァニア」(2006) トニー・ガトリフ監督、フランス
「ダージリン急行」(2007) ウェス・アンダーソン監督、アメリカ
「星の旅人たち」(2010) エミリオ・エステヴェス監督、アメリカ・スペイン
「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」(2013) アレクサンダー・ペイン監督、米

■こちらも要チェック(「旅」を含む映画)
「自由を我等に」ルネ・クレール監督、1932・仏
「或る夜の出来事」フランク・キャプラ監督、1934・米
「オズの魔法使い」ヴィクター・フレミング監督、1939・米
「駅馬車」ジョン・フォード監督、1939・米
「八十日間世界一周」マイケル・アンダーソン監督、1956・米
「誓いの休暇」グリゴーリ・チュフライ監督、1959・ソ連
「俺たちに明日はない」アーサー・ペン監督、1967・米
「脱走山脈」マイケル・ウィナー監督、1968・米
「ペーパー・ムーン」ピーター・ボグダノビッチ監督、1973・米
「幸福の黄色いハンカチ」山田洋次監督、1977
「地獄の黙示録」フランシス・フォード・コッポラ監督、1979・米
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」ジム・ジャームッシュ監督、1984・米
「ダウン・バイ・ロー」ジム・ジャームッシュ監督、1986・米
「旅人<ナグネ>は休まない」イ・チャンホ監督、1987・韓国
「レインマン」バリー・レビンソン監督、1988・米
「旅する女/シャーリー・ヴァレンタイン」ルイス・ギルバート監督、1989・米
「ジャーニー・オブ・ホープ」クサヴァー・コラー監督、1990・スイス
「ユリシーズの瞳」テオ・アンゲロプロス監督、1995・伊・仏・ギリシャ
「遥かなる帰郷」フランチェスコ・ロージ監督、1996・伊・仏・独・スイス
「ニノの空」マニュエル・ポワリエ監督、1997・仏
「キャラバン」エリック・ヴァリ監督、1999・ネパール
「遥かなるクルディスタン」イエスィム・ウスタオウル監督、1999トルコ他
「山の郵便配達」フォ・ジェンチイ監督、1999・中国
「あの子を探して」チャン・イーモウ監督、2000・中国
「アメリカン・ラプソディー」エヴァ・ガルドス監督、2001・米
「カンダハール」モフセン・マフマルバフ監督、2001・イラン
「裸足の1500マイル」フィリップ・ノイス監督、2002・オーストラリア
「リアリズムの宿」山下敦弘監督、2004年・日本
「ロード88」中村幻児監督、2004・日本
「ランド・オブ・プレンティ」ヴィム・ヴェンダース監督、2004・米独
「ラスト・マップ/真実を探して」ジョーダン・ロバーツ監督、2004・米
「ブロークン・フラワーズ」ジム・ジャームッシュ監督、2005年、米
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」トミー・リー・ジョーンズ監督、2006・米
「長い散歩」奥田瑛二監督、2006年、日本
「長江哀歌」ジャ・ジャンクー監督、2006年・中国
「迷子の警察音楽隊」エラン・コリリン監督、2007年・イスラエル・仏
「バビロンの陽光」(2010、モハメド・アルダラジー監督、イラク・英・仏・他)

■気になる未見作品
「都会のアリス」ヴィム・ヴェンダース監督、1973・西独
「さすらいの二人」ミケランジェロ・アントニオーニ監督、1975・米
「まわり道」ヴィム・ヴェンダース監督、1975・西独
「さすらい」ヴィム・ヴェンダース監督、1976・西独
「自由はパラダイス」セルゲイ・ボドロフ監督、1988・ソ連
「少年、機関車に乗る」バフティヤル・フドイナザーロフ監督、1991・タジキスタン
「プリシラ」ステファン・エリオット監督、1994・オーストラリア
「世界の始まりへの旅」マノエル・デ・オリヴェイラ監督、1997・ポルトガル・仏

  「ロード・ムービー」の定義は難しい。僕のイメージでは「ハリーとトント」や「ストレイト・ストーリー」や「モーターサイクル・ダイアリーズ」のようなタイプの映画である。具体的には、一人から数人が旅に出て、旅先で出会った出来事や人とのふれあいを描く映画というイメージだ。時には途中で同伴者ができることもある。アメリカ文学によく登場する ”hobo” と呼ばれる人たちがいる。「仕事を探しながら列車に乗って各地を転々と旅する人たち」を意味する言葉である。根無し草の生活だが、文学の世界などでは自由な生き方の象徴のように描かれることが多い。有名なジャック・ケルアックの『路上』などにもこの精神が受け継がれている。

  恐らく「ロード・ムービー」もその精神を引き継いでいるものと思われる。60年代のアメリカン・ニューシネマの頃に盛んに作られるようになった。「真夜中のカーボーイ」、「明日に向かって撃て」、「イージー・ライダー」、「スケアクロウ」などがその代表作である。”hobo” のイメージで言えば、「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」あたりがぴったりとくる。ここでは「ロード・ムービー」をもっと広い意味で捉え、「旅」を重要な要素として含んでいる映画も含めて選んでみた。ビング・クロスビーとボブ・ホープの「珍道中」シリーズや日本の「寅さん」シリーズもこの範疇に入るだろうが、シリーズものは省いた。

2006年5月17日 (水)

ニワトリはハダシだ

2003年 日本 2004年11月公開 043205_1
監督:森崎東
脚本:森崎東、近藤昭二
撮影:浜田毅
音楽:宇崎竜童
音楽プロデューサー:佐々木次彦
出演:原田芳雄、肘井美佳、浜上竜也、倍賞美津子
    守山玲愛、加瀬亮、塩見三省、余貴美子
    石橋蓮司、岸部一徳、笑福亭松之助、柄本明

  これまで森崎東監督の作品は「男はつらいよ フーテンの寅」(1970)と「女咲かせます」(1987)の2本しか観ていなかった。「ニワトリはハダシだ」が3本目となる。『キネマ旬報』の2004年ベストテンで8位にランクされた作品なので前から気になっていたが、ようやく今年の3月末にDVD化された。

  様々な社会問題を取り込みながら全体としてコメディに仕立て上げている。かなりの力業である。深刻なテーマをコメディ・タッチで描くという作風は「この素晴らしき世界」「ライフ・イズ・ミラクル」を連想させるが、印象はだいぶ違う。出来もかなり落ちる。庶民的感覚があふれているところや、登場人物たちが真剣に走り回っているのだがどこかこっけいだという作りは「ライフ・イズ・ミラクル」に似ている。ではどこが違うのか。「ライフ・イズ・ミラクル」が戦争という「状態」を背景に主人公たちの人間模様を描いているのに対し、「ニワトリはハダシだ」は検察と警察がからむ汚職事件がメインのストーリーを形成しており、それを中心に展開してゆく。「ライフ・イズ・ミラクル」では戦争は間接的にしか描かれない。その分登場人物たちの人間関係を十分描けた。「ニワトリはハダシだ」ではメインの汚職事件に加えて、さらに警察や検察内の体制派・反体制派の確執、警察と暴力団の癒着、知的障害者の問題(冤罪も含む)、在日コリアンの問題、外国人労働者などの問題が絡み合っている。さまざまな問題が絡み合うメインのストーリーと交錯するようにして家族の絆(夫婦、親子)というテーマが展開されている。正直言って、あまりに内容を盛り込みすぎて消化不良になっていると言わざるを得ない。ごった煮状態になってしまった分、それぞれの問題の追求も家族のテーマの掘り下げもみな中途半端になってしまった。

  「ライフ・イズ・ミラクル」もさまざまな要素(ブラック・ユーモア、皮肉、辛辣さ、隠喩や寓意、不条理さ、寓話性とメルヘン、等々)がごった煮的にぶち込まれている。だがテーマ自体は単純であり、それをさまざまな角度や味付けで描いた。だから一貫したストーリー展開など捨てているが、そこには人生があふれかえっていた。「ニワトリはハダシだ」では問題を沢山抱え込みすぎている上に、警察とやくざと主人公の家族が追いかけっこをするというストーリーが展開の中心にあるため、めまぐるしいドタバタ的展開に追われてそれぞれの踏み込みが浅いという印象を受けるのである。勇壮な火祭り、吉原万灯篭などの観光的な映像までこれでもかと盛り込まれているのだが、ただ背景の風物として描かれているだけでテーマとは何の関係もない。

  挑戦的かつ大胆なテーマとか現代社会が抱えるタブーへの切り込みが評価されてきた森崎監督だが、その割には「ニワトリはハダシだ」の切り込みの深さをほめる人はあまりいない。在日コリアンの問題などちょっと触れられた程度で、「GO」や「チルソクの夏」「パッチギ!」などとは比べるべくもない。賄賂事件そのものもテレビドラマに出てくる程度のもので、いわばお決まりのパターンの域を出ない。しかも真相は最初から見えているようなものなので、やくざと主人公たちのドタバタ調追いかけっこが焦点になってしまう。中心となる親子のドラマもそのせいで薄められてしまっていることは否めない。だから、この映画をほめる人でも、むしろそこで展開されるドタバタの生み出すエネルギッシュな活力、痛快さ、ユーモアあふれる人間的な温かみ、ちょい役ながら次々と出てくる大物俳優の強烈な印象を与える個性の強さや新人俳優たちのさわやかさをほめている。

  要するに、別に汚職事件でなくても良かったのだ。庶民のヴァイタリティーと温かさを笑いとエネルギーを交えて描きたかったということだろう。その点では「ライフ・イズ・ミラクル」にも通じるものがある。舞台となった舞鶴の海の美しさ、田舎らしいのどかな風景も共通するものがある。都会派のスマートなコメディではない。

  「ライフ・イズ・ミラクル」と「ニワトリはハダシだ」のもうひとつの共通点は、ともに子供を奪われた親が子供を取り戻そうと努力する点だ。もっとも前者の場合は息子と引き換えにする敵側の女性捕虜と父親が恋愛関係になってしまうという展開になる。後者の場合はむしろ親子愛、ないしは家族愛がテーマになる。前者の場合は戦争のさなかに、それも息子が敵側の捕虜になっているというのに、親父が能天気に恋愛にふけっているという力の抜けようが戦争を無力化し、笑いを生んでいた。たとえ戦争が迫っていようが、彼らは力強く人生を楽しんでいたのである。後者はドタバタ調ながら息子サム(浜上竜也)を救おうと必死で走り回るチチ(原田芳雄)とハハ(倍賞美津子)、そして養護学校の直子先生(肘井美Photo 佳)の姿に惹かれる。中途半端な汚職問題に比べればこの部分は確かによくできている。おたおたすることなく、警察だろうがやくざだろうがひるまず立ち向かう。この部分はハードボイルドなタッチも入り込んでいて、ハハが包丁を差し出してやくざに立ち向かうシーンも出てくる。ただ展開のめまぐるしさに追われて、じっくりと家族愛が描けていないところが物足りない。原田芳雄と倍賞美津子という存在感のある役者を使っていい味を出しているのだが、どうも散漫になっている。「ライフ・イズ・ミラクル」のように、様々な要素が重複的にメイン・テーマを補強しているという展開ではない。

  印象的なシーンはいくつもある。サムを匿うために渡った島の平和なたたずまい、そこで語られたチチとハハの結婚した時のエピソード。在日であるハハが「チョンでもええのん?」と心配して聞くと、チチは「あほう。何人だって構へん、ニワトシはハダシじゃー!」と答えたという。海から上がって濡れて震えている夫の体を自分のスカートで拭きながら、「ニワトリはハダシ、ええ文句や、バタバタせんとドーンと構えときなはれ」と励ます。なかなかいいエピソードだ。

  直子先生の母が娘を励まして言う「布袋さんはな、時々知恵の薄い人のふりをしてこの世に出てきはるねん」というせりふも印象に残る。聞いているわれわれは自然と知的障害を持つサムに布袋さんのイメージをかぶせる。ここには庶民的な知恵がうまく取り入れられている。「親方日の丸が無くならない限り、この国からいじめは無くならない」というお定まりのせりふよりずっと気が利いている。

  この作品が放つインパクトは役者たちの力量に負うところが大きい。「美しい夏、キリシマ」や「父と暮らせば」 などに引き続いて観た原田芳雄はさすがの存在感。別居中の妻を演じた倍賞美津子もいい(森崎東監督の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」〔未見〕でも原田芳雄とコンビを組んでいた)。石橋蓮司、余貴美子、岸辺一徳、柄本明、笑福亭松之助(暴力団組長役がはまること)などのベテランたちもしっかり脇を支えている。だが、出色だったのは直子先生を演じた肘井美佳。この作品がデビューであるが、いきなり出だしから養護学校の生徒たちに囲まれてコサック・ダンスを披露して一気に観客をひきつけてしまう。張り切りすぎて何度もひっくり返ったりするところがまたご愛嬌。田中美佐子そっくりの顔で、目が印象的。まじないと称して寄り目にしたり、くるくると回してみたり、大粒の涙を浮かべてみたり、とにかく目が雄弁だ。そして何といっても、その目に宿るひたむきさがいい。この映画の後さほど活躍していないのは残念だ。

  サムを演じた浜上竜也は曲者ぞろいの大人たちに囲まれてどうしても印象は薄いが、唸りを上げて相手をにらみつけるときの噛み付かんばかりの目つきがすごい。なかなか自然に演じていて好感が持てる。妹のチャルこと千春役の守山玲愛もまたなんともかわいい。サムは障害を持っているという設定だが、記憶力が抜群なのを除けば一見普通の子供に見える。それはあまりリアルに演じすぎるとかえって差別感が助長されるとの判断が森崎監督にあったからだ。彼は「アイ・アム・サム」を観て始まって10分で嫌になってしまったとインタビューで語っている。だからサムを演じる浜上竜也に森﨑監督は「素でいい」と言ったそうである。障害者の描き方を考える上で実に興味深いエピソ-ドだ(名前が同じサムであることに何か含意があるのだろうか?)。

  「ニワトリはハダシだ」というタイトルは、監督によれば、東北に古くから伝わる民謡「おこさ節」の一節にある言葉だそうである。「当たり前のことが当たり前でなくなってきていることへの違和感」をこめてタイトルにしたとのこと。しかしいろいろな意味をこめているようだ。最初に出てきたときは、初めて潜水をするサムの不安を吹き飛ばす意味で、舟をこぐ時に掛け声に使っていた。冬でもハダシでいるニワトリを思えばこんなことはどうってことないという意味だろう。妻のチンジャに言ったときも「わかりきったことを聞くな。お前が朝鮮人だろうと俺はそんなことどうでもいい」という意味で使っている。京都府の舞鶴は終戦直後の大陸からの引き揚げ者を迎えた港として有名だが、かつての軍港だから今でも在日コリアンや外国人労働者が多く住んでいるそうだ。舞台設定としてはぴったりである。そういえば、汚職事件の鍵を握るベンツを盗んで、外国に売り飛ばそうとしていた外国人窃盗団なども出てきた。

  「レインマン」、「アイ・アム・サム」あるいは韓国映画「オアシス」など知的障害者を扱った外国映画は結構あるが、日本ではかなり微妙な問題だ。森崎監督はある知的障害児の母親が言った「この子を隠そうとは思わない。むしろ、うちの子は面白いんだって見せて回りたいぐらい」っていう言葉に突き動かされたとインタビューで語っている。そこから構想が膨らみ、サムが警察に犯人扱いされるストーリーを考え出したそうである。実際、知的障害者が警察の思い込み捜査で冤罪になった実例は少なくないのである。森崎監督は自らの作品を悲劇でも喜劇でもない「怒劇」と呼んでいるが、確かにこの映画にはヒューマンな要素やコミカルな要素に怒りが混じっている。しかし社会批判としては成功しているとはいえない。また、権力を笑い飛ばすにも汚職事件ではありきたりすぎる。結局社会的に弱い立場の人間の喜びや悲しみをヒューマンに描いたところが一番印象に残る。そんな映画である。

2006年5月14日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 11

女性ヴォーカルを楽しむ 2

 こちらは好きなジャンルが多いのですが、何せあまり中古市場に出回るものが少ないので、ジャンル毎の数は多くありません。特にジャズが少ないのは残念。点数をつける前のものが多くて・・・。何しろ買ってまだ聞いていないCDがそれだけで50枚以上あるという有様です。永遠にこれが続いたら、同じCDを2回以上聞くのは滅多にないことになります。買いすぎるのも考え物ですね。特にブログを始めてからは、本を読む時間とともに音楽を聴く時間がめっきり減りました。

ブリティッシュ・トラッド&フォーク系
サンディ・デニー「サンディ・デニー&ストローブス」
    〃     「ザ・ベスト・オブ・サンディ・デニー」

アイリッシュ&ケルト系  
エリン・オドネル「ア・スクラップブック・オブ・ソーツ」
エレノア・マックヴォイ「ホワッツ・フォロイング・ミー?」
ケイト・セント・ジョン「夜のいたずら」
ケルティック・ウーマン「ケルティック・ウーマン」
ザ・コアーズ「トーク・オン・コーナーズ」
    〃  「遥かなる想い」  Angel1l
シイラ・ウォルシュ「ホープ」  
シニード・オコナー「生きる力」
メアリー・ブラック 「ルッキング・バック」
     〃    「サーカス」
     〃    「メアリー・ブラック・コレクティッド」
     〃    「スピーキング・ウィズ・ジ・エンジェル」  
     〃    「ノー・フロンティアーズ」
モイア・ブレナン「ミスティ・アイド・アドベンチャーズ」
    〃    「モイア」  
モーラ・オコンネル「ワンダリング・ホーム」  
ロリーナ・マッケニット「パラレル・ドリームス」
      〃      「マスク・アンド・ミラー」
VA「ケルティック・ウーマン」  
VA「ケルティック・シスターズ」

ゴスペル系
マヘリア・ジャクソン「サンデー・モーニング・プレイヤー・ミーティング」

北欧系
アバ「アバ・ゴールド」
アンヌ・ドゥールト・ミキルセン「アンヌ・ドゥールト・ミキルセン」  
Annette Lindwall 「Silent Voices」
ヴァルティナ「コッコ」
   〃   「イキ」
ジェニファー・ブラウン「ギヴィング・ユー・ザ・ベスト」
シセル・シェルシェブー「アメイジング・グレース」
      〃       「ギフト・オブ・ラヴ」
      〃       「心のままに」
      〃       「ザ・ベスト・オブ」  
      〃      「オール・グッド・シングズ」
ジャスミン「イエス」  
ジュエル「心のかけら」
シリエ「ブレベット」  
セリア「カウ・オン・ザ・ハイウェイ」  
ソフィー・セルマーニ「ソフィー・セルマーニ」  
     〃      「プレシャス・バーデン」
dido「ライフ・フォー・レント」  
ネイミー・コールマン「ネイミー・コールマン」
バーシア「スウィーテスト・イリュージョン」  
マリア・モンテール「ディ・ダ・ディ」  
メイア 「セブン・シスターズ」
 〃 「メイア」  
リサ・エクダール「緑の妖精」
ルトリシア・マクニール「ワッチャ・ビーン・ドゥーイング」
      〃      「マイ・サイド・オブ・タウン」
      〃      「メトロプレックス」

アジア系  
アイ・ジン「わたしの1997」  
ヴィヴィアン・チョウ「純愛伝説」  
フェイ・ウォン「十万回のなぜ」

ヨーロッパ系  
ENZO ENZO「ル・ポワゾン」
カーラ・ブルーニ「ケルカン・マ・ディ」  
スザンヌ・ヴェガ「孤独」  
ドゥルス・ポンテス「ラグリマス」
パトリシア・カース「ランデ・ヴー」
     〃    「ダン・マ・シェール」  Greenearth1
     〃    「永遠に愛する人へ」
ハリス・アレクシーウ「ネフェリス通りにて」  
プリンセッサ「プリンセッサ」
マドレデウス「アンソロジー」
   〃   「海と旋律」
   〃   「ライブ・イン・リスボン」

ラテン系  
エスピリトゥ「オールウェイズ」
ガブリエラ・アンダース「ウォンティング」
サンディ・カンドゥ「ナイス・トゥ・ミート・ヤ!」  
ナラ・レオン「あこがれ」
ベレーザ「セブン・デイズ」

コンピレーション  
「リリス・フェア」  
「リリス・フェア2」
「WOMAN6」

ジャズ系
エラ・フィッツジェラルド「エラ・イン・ベルリン」
ケイコ・リー「ローマからの手紙」
サラ・ヴォーン「アフター・アワーズ」
ステイシー・ケント「ドリームズヴィル」
セシリア・ノービー「マイ・コーナー・オブ・ザ・スカイ」
ダイアナ・クラール「ラヴ・シーンズ」
ダイアン・シューア「ベスト・オブ」
ディー・ディー・ブリッジウォーター「シングズ・デューク・エリントン」
ニーナ・シモン「ニーナとピアノ」
ニーナ・フリーロン「リッスン」
    〃     「テイルズ・オブ・ワンダー」
パティ・ラベル「ベスト・オブ」
ラシェル・フェレル「デビュー!」

日本  
稲葉喜美子「倖せの隣」  
今井美樹「アイヴォリーⅡ」
   〃  「PRIDE」
   〃  「ブルーミング・アイヴォリー」
   〃  「太陽とヘミングウェイ」  
上田知華「I Will」  
大貫妙子「ピュア・アコースティック」  
小谷美沙子「i」
   〃   「PROFILE」  
鬼束ちひろ「インソムニア」
   〃   「This Armor」
神谷千尋「ティンジャーラ」  
キロロ 「長い間~キロロの森」
  〃  「キロロのうた」  
木村カエラ「KAELA」  
  〃   「circle」
クラムボン「ドラマティック」
Cocco「サングローズ」
 〃  「クムイウタ」
SAKURA「シシラ」
   〃   「ラバー・ライト」  
沢田知可子「マチュア・ヴォイス」  
白鳥英美子「グレース」
   〃    「彩り」
   〃    「アメイジング・グレイス」  Fuwa_heart1
竹内まりや「スーベニール」
   〃  「ヴァラエティ」
   〃  「クワイエット・ライフ」
   〃  「リコレクション」  
橘いずみ「どんなに打ちのめされても」  
ドリームズ・カム・トゥルー「ラブ・ゴーズ・オン」
        〃      「ザ・モンスター」
        〃      「モンキー・ガール・オデッセイ」
        〃      「ベスト」  
        〃      「THE LOVE ROCKS」
中島みゆき「ベスト・セレクション 16」  
夏川りみ「ファムレウタ」  
  〃  「てぃだ~太陽」
ネーネーズ「オキナワ」  
元ちとせ「ハイヌミカゼ」
   〃 「ノマド・ソウル」  
   〃 「ハナダイロ」
橋本一子「ターンド・パースペクティヴ」  
畠山美由紀「Diving into your mind」
林明日香「咲」
一青窈「月点心」
  〃 「&」  
平原綾香「From To」
   〃  「ODYSSEY」
ボニー・ピンク「ヘブンズ・キッチン」  
   〃    「REMINISCENCE」
松任谷由実「悲しいほどお天気」
   〃    「ひこうき雲」   
   〃   「ノイエ・ムジーク」
松本英子「Seasons」
MISIA「ラブ・イズ・ザ・メッセージ」  
美雪「フォトランダム」  
森山良子「カルヴァドスの風」
   〃 「ベスト・コレクション」  
矢井田瞳「キャンドライズ」
   〃  「シングル・コレクション」
   〃  「ダイヤモンド」  
   〃  「ヒア・トゥデイ、ゴーン・トゥマロウ」
山根麻衣「ベスト」  
又紀仁美「キス・イン・ザ・レイン」  
吉田美奈子「ステイブル」
吉野千代乃「モンタージュ」
   〃   「レイン・バラード」  
ラブ・サイケデリコ「ラブ・サイケデリック・オーケストラ」
     〃     「ザ・グレイテスト・ヒッツ」

2006年5月13日 (土)

ゴブリンのこれがおすすめ 10

女性ヴォーカルを楽しむ 1

 今日新しいパソコンが届いた。朝からずっとセットアップやら旧パソコンからのデータのコピーやら、ついでにフリーソフトをダウンロードしてヴァージョンを新しくするなどで大忙し。また昨日ブログのアクセスが20000を越えた。ということでPC新調、アクセス20000突破記念というほど大げさではないが、今回はお気に入りCDを紹介することにしました。
 5点をつけたものを中心に収録してあります。結構名盤が抜けています。それはレコードでしか持っていないケースがあるからです。CDを買い始めてしばらくたってから点数をつけ始めたので、レコード時代に買ったものやCDを買い始めて間もないころのものには点数がついてないのです。見つけ次第CDも買っているのですが、レコードだけで2000枚近くあったので全部買いなおすのはほぼ不可能でしょう。

ロック&ヴォーカル系
アニー・レノックス「ディーヴァ」  
アマンダ・マーシャル「チューズデイズ・チャイルド」  
アラナ・デイビス「フォーチュン・クッキー」  Tobira_flower2_pi_1
アリソン・デイヴィッド「ドリーミング」
ヴァネッサ・ウィリアムズ「アルフィー」
ヴァレリー・カーター「ザ・ウェイ・イット・イズ」  
ヴィクトリア・ウィリアムス「ルース」
エイミー・グラント「ハート・イン・モーション」  
    〃     「自由の歌」     〃    
    〃     「ビハインド・ザ・アイズ」  
エイミー・マン「バチェラーNo.2」  
エマ・パキ「オクシジェン・オブ・ラブ」  
キャロル・ローラ「スティル」  
サラ・ジェーン・モリス「リーヴィング・ホーム」  
サラ・マクラクラン「サーフィシング」
     〃    「アフター・グロウ」  
サンディ・リード「アイ・ビリーヴ」
ジェニファー・ウォーンズ「レナード・コーエンを歌う」
       〃      「ベスト・オブ」  
ジェニファー・ブラウン「ギビング・ユー・ザ・ベスト」  
ジェニファー・グロス「ザ・ウーマン・イン・ザ・ムーン」
シェリル・クロウ「チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ」
     〃   「ザ・ベリー・ベスト・オブ」  
     〃   「ワイルドフラワー」
     〃   「カモン・カモン」
ジョーン・オズボーン「ライチャス・ラブ」  
ショーン・コルヴィン「ア・フュー・スモール・リペアーズ」  
ジュリー・ドリスコール「ストリート・ノイズ」
ジュリア・フォーダム「風の道標」  
     〃      「揺るがぬ愛」
スーザン・オズボーン「ザ・パール」  
スパイス・ガールズ「SPICE」
セリーヌ・ディオン「レッツ・トーク・アバウト・ラブ」
     〃    「パリ・ライブ」
     〃    「フォーリング・イントゥ・ユー」
     〃    「ワン・ハート」  
ソニー・ソーントン「フォーリング・スルー・ザ・クラウド」
ダー・ウィリアムズ「ザ・オネスティ・ルーム」  
ナタリー・インブルーリア「ホワイト・リリーズ・アイランド」  
ナタリー・マーチャント「タイガー・リリー」  
パティ・スミス「ゴーン・アゲイン」
バーバラ・ディクソン「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」  
P.J.ハーヴェイ「トゥー・ブリング・ユー・マイ・ラブ」  
ピンク「ミスアンダストゥッド」
フィービ・スノウ「サムシング・リアル」  
ブリジット・セント・ジョン「サンキュー・フォー・・・プラス」  
ベス・ニールセン・チャップマン「グレイテスト・ヒッツ」
        〃         「ベス・ニールセン・チャップマン」  
        〃         「ディーパー・スティル」
ベット・ミドラー「ブロークン・ブロッサム」
    〃   「ベット・オブ・ザ・ローゼズ」  
ヘザー・ノヴァ「オイスター」
ポー「コンニチワ」
ホリー・コール「ダーク・ディア・ハート」
   〃     「calling you」  
   〃    「ある夜の出来事」
マーセラ・デトロイト「ジュエル」  
メイ・ムーア「ボヘミア」
メリー・ホプキン「ベスト・オブ」
リンダ・ロンシュタット「フォー・センチメンタル・リーズンズ」  
ルシンダ・ウィリアムズ「パッショネイト・キシズ」
      〃      「ワールド・ウィザウト・ティアーズ」
ワイノナ「ニュー・デイ・ドリーミング」

カントリー系
インディゴ・ガールズ「ライブ」
     〃      「ストレンジ・ファイア」
     〃      「インディゴ・ガールズ」
     〃      「4.5」
     〃      「パワー・オブ・トゥー」
     〃      「1200カーフューズ」 
     〃      「ノーマッズ・インディアンズ・セインツ」   
シャナイア・トゥエイン「アップ」  
ディキシー・チックス「ワイド・オープン・スペイセズ」  
トリーシャ・イヤウッド「エヴリバディ・ノウズ」  
     〃      「ソングブック」
ニーコ・ケイス「ファーニス・ルーム・ララバイ」
フェイス・ヒル「フェイス」  
リアン・ライムス「アイ・ニード・ユー」
     〃   「リアン・ライムス」
     〃   「ブルー」
     〃    「シッティング・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド」
     〃   「トゥイステッド・エンジェル」
     〃   「グレイテスト・ヒッツ」
     〃   「ディス・ウーマン」

フォーク系
キャロル・ロール「ウェスターン・シャドウズ」
ジュリー・マス「サークル・オブ・ワン」
    〃   「太陽に向かって」  
トレイシー・チャップマン「ニュー・ビギニング」  
ナンシー・グリフィス「針のない時計」
      〃     「フライヤー」
      〃     「夜空に輝く青いバラ」  
PPM「イン・コンサート」  
ベス・オートン「デイブレイカー」  
メアリー・チェイピン・カーペンター「ア・プレイス・イン・ザ・ワールド」
メアリー・ルー・ロード「ベイビー・ブルー」

シンガー&ソングライター系
カーリー・サイモン「人生はいたずら」  
キャロル・キング「つづれおり」  
ケイティ・カーティス「ア・クラッシュ・コース・イン・ローゼス」
ケリ・ノーブル「フィアレス」
ジェス・クライン「ドロウ・ゼム・ニアー」  
    〃    「ストロベリー・ラヴァー」
ジャニス・イアン「ハンガー」
    〃    「ザ・グレイテスト・ヒッツ」
ジュエル「スピリット」
  〃  「心のかけら」
ジョニ・ミッチェル「ブルー」  
ビヴァリー・クレイヴェン「プロミス・ミー」
ローラ・ニーロ「抱擁」

ソウル、R&B系
アイク&ティナ・ターナー「リバー・ディープ・マウンテン・ハイ」  
アニタ・ベイカー「ラプチュア」  
アレサ・フランクリン「レディ・ソウル」  
    〃       「あなただけを愛して」
    〃       「スパークル」
アン・ヴォーグ「EV3」
    〃   「ファンキー・ディーヴァズ」  
アンジェラ・ジョンソン「ゴット・トゥー・レット・イット・ゴー」
アンドレア・マーティン「ザ・ベスト・オブ・ミー」
ウェンディ・モートン「ウェンディ・モートン」  
エターナル「エターナル」
オリータ・アダムズ「リズム・オブ・ライフ」
カーリーン・アンダーソン「ブレスト・バードゥン」  06instrument_1
グラディス・ナイト&ピップス「ザ・ベスト」
       〃        「アンソロジー」  
       〃        「さよならは悲しい言葉」
       〃        「イマジネーション」
ケリー・プライス「ミラー・ミラー」
ショーラ・アーマ「マッチ・ラブ」
     〃   「スーパーソニック」
ジョーン・アーマトレイディング「ホワッツ・インサイド」
ダイアナ・キング「シンク・ライク・ア・ガール」  
ディオンヌ・ファリス「野性」
ディナ・キャロル「オンリー・ヒューマン」  
   〃     「ソー・クロース」
デニ・ハインズ「イマジネイション」  
デニス・ラサール「ベスト・オブ・デニス・ラサール・オン・マラコ」  
デブラ・モーガン「ダンス・ウィズ・ミー」
    〃     「イッツ・ノット・オーヴァー」  
デボラ・コックス「センチメンタル」  
トニ・ブラクストン「シークレッツ」  
トリーネ・レイン「そよかぜを胸に抱いて」
     〃   「ファインダーズ・キーパーズ」  
ナタリー・コール「スターダスト」
     〃   「スノウ・フォール・オン・ザ・サハラ」
     〃   「ラヴ・ソングス」
     〃   「ザ・ソウル・オブ・ナタリー・コール1975-1980」  
     〃   「テイク・ア・ルック」
パフ・ジョンソン「ミラクル」  
P.J.ハーヴェイ「トゥー・ブリング・ユー・マイ・ラヴ」
ブレンダ・カーン「デスティネーション・エニウェア」
ホイットニー・ヒューストン「ザ・グレイテスト・ヒッツ」
       〃       「天使の贈りもの」
       〃       「ホイットニーⅡ」
       〃       「そよ風の贈りもの」
メイシー・グレイ「ザ・トラブル・ウィズ・ビーイング・マイセルフ」  
ローリン・ヒル「MTVアンプラグド」

2006年5月11日 (木)

死刑執行人もまた死す

1943年 アメリカ
監督:フリッツ・ラング
脚本:ベルトルト・ブレヒト、フリッツ・ラング、ジョン・ウェクスリー
撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
出演:ブライアン・ドンレヴィ、ウォルター・ブレナン、アンナ・リー、デニス・オキーフ          ジーン・ロックハート、ビリー・ロイ、アレクサンダー・グラナック
    ウィリアム・ファーナム

Cliplo5   「死刑執行人もまた死す」を最初に見たのは1987年12月30日。当時三百人劇場で企画されていた「ヨーロッパの名匠たち フリッツ・ラングとジャン・ルノワール」特集の一環だった(「あの頃名画座があった⑧」参照)。この時が日本初公開で、幻の名画がはじめてベールを脱いだのである。

  なお、この作品は1999年に「フリッツ・ラング1999」としてリバイバル上映されている。その時上映されたのは「完全版」で、87年公開時にカットされていた14分が付け加えられていた。その頃は既に東京を離れていたのでこの興味深い特集は観ていないが、今回観たDVDはこの完全版である。

  改めて観て思ったのは、これがきわめてヨーロッパ的な映画だということだ。単にチェコが舞台というだけではない。ドイツ軍占領下の暗く不安な日々の描写、ゲシュタポの不気味な存在と、何百人もの人質を取られる抑圧的な雰囲気。これはナチスに実際に占領された経験を持つヨーロッパ人でなければ描けないものだ。アメリカ映画に出てくるドイツ軍は戦場で出会う敵に過ぎない。ドイツ軍兵士に顔はない。ただアメリカ軍に撃たれてばたばたと倒れてゆくだけの存在である。この違いは大きい。原案を作ったフリッツ・ラングもベルトルト・ブレヒトも亡命ドイツ人である。「生きるべきか死ぬべきか」のエルンスト・ルビッチもドイツ人である(彼の場合はハリウッドにヘッド・ハンティングされてアメリカに渡った)。だから作れたのだ。日常生活の隅々にまでドイツ軍の存在が意識される、息が詰まるような抑圧状態。外国軍に占領支配されたことがないアメリカン人にはなかなか描けない。

  タイトルの死刑執行人とはドイツ軍のハインドリッヒ総督を指していると一般に解釈されているが、英語のタイトルが”Hangmen Also Die”と複数形になっているのが気になる。レジスタンスに紛れ込んだスパイのチャカも含めているのか、あるいはヒトラーをはじめとするナチス全体を暗示しているのかもしれない。

  舞台となるのはナチス軍占領下のプラハ。女性が買い物をしている日常の描写から始まる。その女性が不審な動きをする男を見かけたところからストーリーが動き始める。その男は実はハインドリッヒ総督を撃って逃走中の暗殺犯だった。彼を追うゲシュタポが現れた時点で目撃者の女性は事態を察知し、嘘をついてまったく違う方向を教える。ところが、皮肉なことに、進退窮まった暗殺犯は窮余の策でその女性の家にかくまってもらうことになる。こうして何とかゲシュタポの手を逃れるが、かくまったノヴォトニー教授一家は事件に巻き込まれることになる。ゲシュタポは犯人が捕まるまで、市民を人質に取り次々に処刑してゆくという手段に打って出る。いくつもの映画で描かれた、お決まりの卑劣な手段である。連行された人質の中には暗殺犯をかくまった女性マーシャ(アンナ・リー)の父ノヴォトニー教授(ウォルター・ブレナン)も含まれていた。

  後半は暗殺犯であるスヴォボダ医師(ブライアン・ドンレビー)にしだいにゲシュタポの手が迫ってゆく過程とレジスタンスによる反撃(ナチスのスパイだったチャカを暗殺犯に仕立てあげる)が描かれ、緊迫した展開が続く。

  この映画を語る上でどうしても触れておかねばならないのは脚本と演出の見事さである。脚本を担当したのはフリッツ・ラングの他にベルトルト・ブレヒトとジョン・ウェクスリー。「死刑執行人」とあだ名されたドイツ人総督暗殺という事実を元に、一種の倒叙形式で暗殺犯の逃走とゲシュタポの追跡から、ナチスによる人質作戦、そしてレジスタンス側の反撃という緊迫したストーリーを作り上げた。人質をとられても決して犯人を密告しないというチェコ人たちの描き方(「チェコに裏切り者はいない」というせりふが出てくる)、拷問を受けても白を切りとおした老婦人、あるいは処刑場に向かう人質たちの歌う“No surrender!”という歌などはいかにもブレヒトらしい描き方である。このあたりは確かに日本のかつての独立プロ映画、例えば山本薩夫や亀井文夫の作品にもあった生硬さを感じる。しかし紋切り型というほど単純な描き方ではない。実際、「チェコに裏切り者はいない」と言いつつも、チャカという裏切り者も出てくるし、ヒロインのマーシャも父を救いたい一心で一旦は暗殺犯を密告しようと警察に行ったのである。

  「死刑執行人もまた死す」が一流のサスペンス映画でもあることは確かである。しかし、この映画を麻薬組織やテロ組織VS警察のような、一般のサスペンス映画と同じレベルで観るべきではない。ファシズムはフィクションではなく現実的な脅威だった。ユダヤ人抹殺計画も含む世界的規模の暴虐行為だった。かつて有名な映画批評家岩崎昶(いわさきあきら)が、さまざまな悪役キャラクターが映画で描かれたがそのほとんどはナチスのイメージに基づいているという意味のことを書いていた。その後「エイリアン」等の地球外生物が現れてやっとナチスのイメージから脱却できるようになった。しかし地球上ではまだナチスのイメージを超える悪役は生まれていない。原爆で脅しをかけるテロ組織など武器の強力さで上回るものはあるが、世界支配をたくらむ組織的な暴虐行為となるとナチスを超えるものはない。岩崎昶はまた制服に対するナチスの異常なほどのこだわりについても語っている。あの独特の制服と鉄兜。人心を束ねる威圧的効果としてはこれ以上のものはいまだに考えられない。片手を挙げかかとを重ねる敬礼の仕方、足を曲げずにまっすぐ上げて行進するスタイルなどは今でもいろいろなところで使われている。これだけのイメージが定着しているのはそれだけの実態があったからである。

  「死刑執行人もまた死す」でも実行犯にひたひたと迫るナチスの脅威は見事に描かれている。あの制服が現れるだけで画面に緊張が走る。うまいのはゲシュタポの描き方である。ゲシュタポの警部グリューバー(アレクサンダー・グラナッハ)の人物像は中でも出色だ。決して悪鬼のごとき極悪非道な人物としては描かれていない。むしろ慇懃無礼にねちねちと迫ってくるいやらしさがよく描けている。拷問場面も直接は描いていない。むしろ言葉で追い詰めてゆく。「偉大な民族だなチェコ人は。最後の一人まで頑固だ。損をするぞミス・ノヴォトニー」。一方であの制服で街を威圧し、人質をとって何人かずつ殺してゆくという強硬手段をとりつつ、他方でねちねちと締め上げる。壁に不気味な彼の影が映るあたりはドイツ時代の表現主義的技法がうかがえる。ニヤニヤ笑いを浮かべる本人以上に壁に映った実態のない影の方に底知れない不気味さを感じる。見事な描き方だ。

  しかしそれでいて全編を恐怖が支配しているという描き方にはなっていない。後半ははらはらどきどきの連続だが、それはむしろヒッチコック的スリラーに近いもので、恐怖が下敷きにはなっていない。むしろ反撃計画がうまくいくかどうか、うまくゲシュタポをだませるかという緊張感が支配している。それはナチスに対する抵抗を全面に押し出しているからである。人質を取られても誰一人密告するものが現れない、昂然と顔を上げて歌を歌いながら処刑場に向かう人質たち、拷問を受けても口を割らなかった人々。映画はむしろチェコの人々が敢然とナチスに立ち向かう姿勢を英雄的に描いている。暗殺の実行犯だけが英雄なのではない。彼をナチスに引き渡せば人質は帰ってくる(はずだ)が、それはナチスにチェコSedang3人の魂を売り渡すに等しい。“No surrender!”。実際にはチャカのような裏切り者は結構いたはずでその意味では理想的な描き方だが、やはりこの映画の最も感動的な部分は決して屈服しない道を選んだチョコの人々の描き方である。

  その典型がマーシャの父親ノヴォトニー教授である。1回目に見たとき一番記憶に残っていたのは彼だった。西部劇の脇役、それも悪役で知られるウォルター・ブレナンだが、ここでは同じ人かと思うくらい知的で強い意志を持った人物を見事に演じている。彼の一世一代の名演技といって良いのではないか。マーシャは家にかくまったヴァネック(暗殺犯スヴォボダがとっさに使った変名)に父親のことを「昔は革命家で共和国創始者の一人よ」と紹介している。どんな事態に立ち至っても落ち着きを失わず、冷静に対処する姿はただならぬ存在感で、断然他の登場人物を圧倒している。教授が面会に来たマーシャに息子への伝言を託す場面は、実に感動的だった。ブレヒトが一番思いを込めたシーンではないか。

   息子よ、これから言う事を大人になったら思い出せ。その頃祖国は既に侵略者
 を追い出し、自由の国となり、民衆が主人公となる国になっている。それは至福の
 日々。老若男女誰もが飢えを知らぬ世の中。好きな物を読み、そして考え語りあえ
 る世の中だ。そんな世の中になったら忘れるな。自由は帽子や菓子のように粗末
 にできんのだ。自由は戦い取るものだ。私を思い出すなら父親としてではなく、自
 由のために戦った者として思い出せ。

  「民衆が主人公となる国」、「老若男女誰もが飢えを知らぬ世の中」などの表現はいかにもコミュニストらしい言葉である。しかし祖国が外国の軍隊の支配下にある現実を思えば、「自由は戦い取るものだ。私を思い出すなら父親としてではなく、自由のために戦った者として思い出せ」という言葉には感動せざるを得ない。

  もちろん、ナチス側を演じる俳優たちも強烈な存在感を持っている。冒頭に出てくるハインドリヒ総督を演じたH.H v.トゥオドースキーの、冷酷さが体からにじみ出るほどの威圧感、ゲシュタポの警部グリューバーを演じたアレクサンダー・グラナッハの慇懃ながら虫唾が走るほどしつこいアクの強さ、ジーン・ロックハート扮するスパイの卑劣さ、いずれも有名俳優を使わずこれだけの演技をさせている。この点も特筆ものだ。

  たたみ掛けるような後半の演出も見事だが、細かい場面の描き方がまたよくできている。スヴォボダ医師がゲシュタポに追われて映画館に逃げ込むが、そこに総督が撃たれたとの情報が口伝に伝わり、思わず全員が立ち上がって拍手をする場面、スヴォボダ医師とマーシャが盗聴を意識して偽の会話をする場面、あるいはスパイのチャカのイニシャルK.C.が刻まれているライターなどの小道具の使い方もうまい。

  最後の終わり方も秀逸だ。87年公開時のエンド・タイトルは「FIN」となっていたが、「完全版」では「NOT THE END」となっている。最初に「NOT」と出て、次に「THE END」が現れる。問題はまだ解決していない、ファシズムとの戦いはまだ続くという決意のようなものが伝わってくる。実際、戦争のさなかに作られたのだからこのメッセージはリアルである。

  完全版で復活した場面は、何とか父を救おうとゲシュタポ本部に向かおうとするマーシャを市民が取り囲み祖国を裏切るのかと詰め寄るシーンや人質の青年が“No surrender!”と歌う場面などである。このカットされたシーンがジョン・ウェクスリーによって差し変えられた部分と重なるのかどうかは分からない。しかし、いずれにしても、ナチスに屈しないプラハ市民の誇り高い姿が描かれている部分で、必要なものだったと思う。

  「死刑執行人もまた死す」は戦時中に作られたために反ナチ色が強く出ているとよく言われる。しかしそれはおかしい。「ゴブリンのこれがおすすめ 9」で取り上げた40本の大部分は戦後に作られたものである。90年代以降、ナチスやヒットラーを描いた映画はむしろ増えているのである。製作時期は関係ない。いつどんな時代でもファシズムは否定されなければならない。国策映画だから戦意高揚映画を作ったというようなことではない。ナチスに追われてアメリカに亡命してきたラングとブレヒトは、ヨーロッパで勢いを増しているファシズムに心底危機感を覚えたからこそこの映画を作ったのである。

追記
  岩崎昶の正確な文章を調べようと書棚から久しぶりに『ヒトラーと映画』(1975年、朝日選書)を引っ張り出してきた。問題の箇所はこうなっている。

   ヒトラーとその党がドイツを制覇するにいたった一つの有力な手段として制服があ
 る。ナチのユニフォーム、ドイツ軍のそれはついこの間日本において三島由紀夫と
 その「楯の会」の若いメンバーたちに魅力的に見えたくらいであるのだから、性来ユ
 ニフォーム好きで、心理的にユニフォーミティー、コンフォーミズムに弱いドイツ国民
 に強烈にアピールしたことは想像に余りがある。
   制服、祭典、儀式、この三つのものはヒトラーのもっとも得意とするものであり、そ
 れはまた映画にもっともたくみに演出され反映した。その代表的な例は、後に詳説
 するが、レーニー・リーフェンシュタールの天才によって作られた「意志の勝利」「オリ
 ンピア」などである。

  ぱらぱらとめくってみただけなので、「ナチスを超える悪役のイメージはない」云々の部分は見つからなかった。しかし、ぱらぱらと見ただけでも、面白い記述が随所に見られる。たとえば、「ナチ党はどこの分野でもまず『組織』の整備確立からはじめたが、それが・・・実際的な効果を・・・あげたのは、ドイツ人の持っている無比の組織的天才のなすところといわなければならない。組織的天才、ということばのなかに、私は組織する天分だけではなく、組織される天分をもふくめて考える。元来この二つのものはたがいに補完するものとしてしか存在しえない。規格と命令によっていっせいに同一の行動をとることをドイツ人と日本人ほど好きな国民はいない。」

  フリッツ・ラング関連で面白かったのは第2章の第3節「フリッツ・ラング亡命する」だ。ここは面白いので全部読んだ(読んだのはもう20年以上前なのですっかり忘れていた)。かいつまんで紹介しておこう。彼の「ニ―ベルンゲン」はヒトラーやゲッベルスに絶賛された。しかし「マブーゼ博士の遺書」はゲッベルスの命令で上映禁止にされた。あるとき友人にゲッベルスがラングを高く評価しているようなので、直に会って禁止を解くよう頼んでみてはどうかと助言される。半信半疑で会いに行ったラングを果たしてゲッベルスは大歓迎した。これに気を良くしたラングは例の件を持ち出すが、ゲッベルスはそれには答えず、まったく別の仰天すべき提案を持ち出した。

  「ヒトラー総統もあなたの熱烈なファンです。・・・あなたに私の直属で協力していただきたい。ドイツ映画のすべてをあげて、あなたの采配にまかせます。」あわ立つ心を顔に出さず、ラングはこれは一刻の猶予もできないと腹を決める。10分以内にここを出れば銀行の窓口締め切りに間に合う。預金を全部引き出してすぐ駅に向かおう。しかしこんな好条件をラングが断るなどと思ってもいない上機嫌のゲッベルスは、ユダヤ人ボイコット運動などのことをとうとうとまくし立てている。このあたりはヒッチコック映画さながらだ。じりじりしながら待たされたラングがやっと開放されたときには、銀行はとっくに閉まっていた。もう手遅れだ。しかし危機感に追われるようにラングは家にとってかえすと、有り金だけを持ってパリ行きの寝台車に飛び乗った。

  とまあ、こんなしだい。そのうちゆっくりと読み直してみたい。機会があればブログでも紹介します。

2006年5月 9日 (火)

ゴブリンのこれがおすすめ 9

反ファシズム、反ナチ、ナチス占領下の日々を描いた映画
■おすすめの40本
「ピエロの赤い鼻」(ジャン・ベッケル監督、2003年、フランス)
「戦場のピアニスト」(ロマン・ポランスキー監督、(2002年、ポーランド・仏)
「キャロルの初恋」(イマノル・ウリベ監督、2002年、スペイン)
「この素晴らしき世界」(ヤン・フジェベイク監督、2000年、チェコ)
「ふたりのトスカーナ」(アンドレア&アントニオ・フラッツィ監督、2000年、伊)
「太陽の雫」(イシュトヴァン・サボー監督、1999年、カナダ・ハンガリー)
「蝶の舌」(ホセ・ルイス・クエルダ監督、(1999年、スペイン)
「マイ・リトル・ガーデン」(ソーレン・クラウ・ヤコブセン監督、1997年、デンマーク他)
「レ・ミゼラブル」(クロード・ルルーシュ監督、1995年、フランス)
「シンドラーのリスト」(スティーヴン・スピルバーグ監督、1993年、米)
「コルチャック先生」(アンジェイ・ワイダ監督、1990年、ポーランド他)
「さよなら子供たち」(ルイ・マル監督、1987年、仏・西独)
「炎628」(エレム・クリモフ監督、1985年、ソ連)
「白バラ」(ミヒャエル・フェアホーヘン監督、1982年、西独)
「メフィスト」(イシュトヴァン・サボー監督、1981年、ハンガリー・西独)
「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督、1977年、アメリカ)
「追想」(ロベール・アンリコ監督、1975年、フランス)
「抵抗のプラハ」(ウラジーミル・ツェヒ監督、1971年、チョコスロバキア)
「道中の点検」(アレクセイ・ゲルマン監督、1971年、ソ連)
「影の軍隊」(ジャン・ピエール・メルヴィル監督、1969年、フランス)
「地獄に堕ちた勇者ども」(ルキノ・ヴィスコンティ監督、1969年、伊・スイス)
「抵抗の詩」(トーリ・ヤンコヴィッチ監督、1969年、ユーゴスラビア)
「脱走山脈」(マイケル・ウィナー監督、1968年、アメリカ)
「パリは燃えているか」(ルネ・クレマン監督、1966年、仏・米)
「国境は燃えている」(ヴァレリオ・ズルリーニ監督、1965年、イタリア)
「鬼戦車T-34」(ニキータ・クリヒン他、監督、1965年、ソ連)
「大列車作戦」(ジョン・フランケンハイマー監督、1964年、米・仏・伊)
「僕の村は戦場だった」(アンドレイ・タルコフスキー監督、1962年、ソ連)
「ゼロ地帯」(ジッロ・ポンテコルヴォ監督、1960年、イタリア)
「アンネの日記」(ジョージ・スティーヴンス監督、1959年、アメリカ)
「夜と霧」(アラン・レネ監督、1955年、フランス)
「平和に生きる」(ルイジ・ザンパ監督、1947年、イタリア)
「海の牙」(ルネ・クレマン監督、1946年、フランス)
「戦火のかなた」(ロベルト・ロッセリーニ監督、1946年、イタリア)
「鉄路の闘い」(ルネ・クレマン監督、1945年、フランス)
「無防備都市」(ロベルト・ロッセリーニ監督、1945年、イタリア)
「自由への闘い」(ジャン・ルノワール監督、1943年、アメリカ)
「死刑執行人もまた死す」(フリッツ・ラング監督、1943年、アメリカ)
「生きるべきか死ぬべきか」(エルンスト・ルビッチ監督、1942年、アメリカ)
「チャップリンの独裁者」(チャールズ・チャップリン監督、1940年、アメリカ)

■追加
「ソハの地下水道」(2011、アグニェシュカ・ホランド監督、独・ポーランド)
「サラの鍵」(2010、ジル・パケ=ブランネール監督、フランス)
「ペーパーバード 幸せは翼にのって」(2010、エミリオ・アラゴン監督、スペイン)
「黄色い星の子供たち」(2010、ローズ・ボッシュ監督、フランス・ドイツ・ハンガリー)
「イングロリアス・バスターズ」(2009、クエンティン・タランティーノ監督、米)
「ワルキューレ」(2008、ブライアン・シンガー監督、アメリカ・ドイツ)
「カティンの森」(2007、アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド)
「パンズ・ラビリンス」(2007、ギレルモ・デル・トロ監督、メキシコ・スペイン・他)

■こちらも要チェック
「ヒトラー最期の12日間」(オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督、2004年、ドイツ)
「名もなきアフリカの地で」(カロリーヌ・リンク監督、2001年、ドイツ)
「ムッソリーニとお茶を」(フランコ・ゼフィレッリ監督、1998年、アメリカ)
「大脱走」(ジョン・スタージェス監督、1963年、アメリカ)
「ニュールンベルグ裁判」(スタンリー・クレイマー監督、1961年、米)
「誓いの休暇」(グリゴリー・チュフライ監督、1959年、ソ連)
「ドイツ零年」(ロベルト・ロッセリーニ監督、1948年、イタリア)

■気になる未見作品
「白バラの祈り - ゾフィー・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督、05年)
「パティニョールおじさん」(ジェラール・ジュニョー監督、2002年、フランス)
「モレク神」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、99年、ロシア他)
「戦争のない20日間」(アレクセイ・ゲルマン監督、1976年、ソ連)

Trump_jw   次回フリッツ・ラング監督の反ナチ映画の名作「死刑執行人もまた死す」を取り上げる予定なので、ついでに関連作品のリストを作ってみた。こうやって見ると以外に少ない。もっとあるはずだという気がするのだが、そう感じるのはアメリカの戦争映画がかなりあるからだろう。それらを入れれば確かに相当な数になる。なお、「要チェック」欄に入れたものはやや枠から外れているもので、決して残り物ではありません。むしろいずれも傑作です。

  年代順に見ると50年代、70年代そして80年代のものが少ない。ところが90年代から逆に増え出している。終戦直後はまだ記憶が生々しくて却って作れなかったのだろう。60年代に一つのピークを迎えている。また、70年代ごろまでは反ナチ、反ファシズムの抵抗映画が多く、80年代以降はむしろナチス占領下の不安と恐怖に満ちた状況が多く描かれている。戦争の記憶が風化しつつある時代に逆に戦争の時代を描く映画が増えている。特に2000年代に入ってからはかなりのハイペースだ。作品的にも「この素晴らしき世界」や「戦場のピアニスト」などの傑作が生まれている。日本でも先日取り上げた「父と暮せば」が作られている。これは戦争やファシズムの記憶が風化しつつあることに対する危機感の表われだと見ていいだろう。ちなみに、今年に入っても第1次世界大戦を描いた「戦場のアリア」が公開されている。04年の「ロング・エンゲージメント」など、こちらも連綿と描き継がれている。

  皮肉なことに、第二次世界大戦の記憶が薄れて行く一方で、ベルリンの壁が崩れて以降、地域紛争やテロの記憶は日々新たにされている。悲しいことだが、戦争とテロは今なお今日的な差し迫った問題なのである。

2006年5月 7日 (日)

青空のゆくえ

V127a 2005年 日本
監督:長澤雅彦
プロデュース:牛山拓二
企画:牛山拓二
脚本:山村裕二、日向朝子
撮影:服部徹夫
美術:富田麻友美
音楽:サン・パオ
挿入歌:山崎まさよし
出演:中山卓也(高橋正樹)、森田彩華(速見有美)、黒川芽以(高橋亜里沙)
    佐々木和徳(杉原雄大)、多部未華子(河原春奈)、三船力也(山下勝也)
    悠城早矢(鈴木貴子)、橋爪遼(矢島信二)、西原亜希(市田尚子)
    市野世龍(野辺稔)、山本茉央(河原百合子)、竹井みどり(河原富子)
    目黒真希(山下昭子)、岡村洋一(河原平蔵)

  あるブログで高く評価されていたのでDVDを借りて観た。なるほどすがすがしい映画だ。キャストを見るとテレビドラマのような作りかと思えるが、どうしてしっかりと作ってある。人気の若手女優を多数起用しながらも、安易で安手のアイドル映画にしなかった。「深呼吸の必要」にどこか通じるものを感じた(別にみんな一緒に一つの目標に向かって打ち込むわけではないが)。その点をまず評価したい。

  小学生、中学生、高校生、年齢にすればわずかな違いだが、この年代は1、2年で大きく変わる。「青空のゆくえ」は小学生でもなく、高校生でもない、中学生という微妙な年齢をターゲットにした。人を好きになるという感情が芽生え始めた年齢、好きなのかそうでないのか自分でもはっきりしない。だからねっとりした嫉妬もなく、どろどろした恋のつばぜり合いもなく、またいじいじ、じめじめしたところもない。実にさっぱりしている。だから観終わった後がすがすがしいのだ。しかし既に個性は十分現れている。この映画は一人ひとりの個性を実に丁寧に描き分けている。少年、少女たちに対して真摯に向き合い、微妙な心の揺れや、感情の波紋が広がってゆくさまを丁寧に描いている。「青空のゆくえ」が際立っているのはその点である。

  言い換えれば、ジャリタレ相手に作っていない。大人の観る映画だ。その意味では今の中学生の実情を正確に反映しているとは言いがたいかも知れない。これは大人たちが自分たちの中学生時代を振り返って懐かしむ映画であるといくつかのブログが指摘している。確かにその通りだろう。主人公の中学生たちが実年齢よりもやや大人びて、落ち着きがあるのもそのせいである。時代は現代なのに懐かしさを感じるのは、もっと上の世代が中学時代を振り返ったという趣のつくりになっているからである。舞台を東京の三軒茶屋にしたのもその辺を計算してのことだろう。それが悪いと言っているのではない。むしろ、そういう設定にしたからこそ、この映画は大人の鑑賞に耐える映画になったのである。

  主要登場人物は7人。この人数は一人の中学生が普段付き合っている人間の範囲としては妥当なところだろう(ほとんど女の子ばかりというのはあまり一般的とは言えないが)。クラスの仲間、クラブの部員、近所の人、まだ中学生だからそれほど交際範囲は広くない。その中にも当然付き合い方の濃淡に差がある。一本の草や木を抜けば、その下から意外に複雑に広がった根が出てくる。同じように人間も社会に根を張って生きている。大地に収まっているときには見えないが、意外に深く広く根を張っていることが分かる。この映画は、一人の男子生徒がアメリカに引っ越す前に、自分の根の張り方を確認し、思い残したことを整理してゆく過程を描いている。と同時に彼の周りの生徒たちもやはり根を張っており、それが地面の下で一部絡まりあっていることが明らかにされてゆく。そういう映画だ。

  中学生という若木だからまだそれほど深く広く根を張ってはいない。したがってそれほど複雑に根が絡まりあってはいない。一番絡まりあっているのは家族だろうが、学校の友達関係を中心に描いているので、家族はほとんど出てこない。「死」とは関係ないごく日常の「別れ」がテーマである。恋愛が絡んでもキス・シーンなど出てこない。さらに特筆すべきは、塾通いや受験勉強が出てこないこと。お決まりのパターンを使わない。あくまで一人の生徒の転校が巻き起こした心の中の波紋を中心に描いている。そこがいい。

G3_1   登場人物の中心にいるのはバスケットボール部のキャプテン高橋正樹(中山卓也)。彼はクラスメイトたちに両親の都合でアメリカに行くことを発表する。彼の話を複雑な思いで受け止めたのはバスケットボール部女子キャプテンの速見有美(森田彩華)、学級委員長で正樹と同じ苗字の高橋亜里沙(黒川芽以)、酒屋の娘で正樹とは幼なじみの河原春奈(多部未華子)、男っぽい性格で正樹しか友達がいない鈴木貴子(悠城早矢)、帰国子女で正樹のメル友である市田尚子(西原亜希)。他にバスケット部の副キャプテン杉原雄大(佐々木和徳)や幼馴染だが不登校になってしまった矢島信二(橋爪遼)など男子生徒も出てくるが、比重は圧倒的に女子生徒に傾いている。

  正樹がクラスで宣言した「やり残したこと」とは一体なんなのか、彼は誰が好きだったのかを縦糸に、正樹と彼を取り巻く女子生徒たちの関係や女子生徒同士の関係を横糸にして話は展開してゆく。最後に学校の校庭で行われるお別れパーティ(花火大会、タイムカプセルの埋設)でクライマックスを迎える。

  正樹がアメリカに飛び去った後に映される青空が印象的だ。青空は映画の途中で何度も挿入されるが、これはまだ若い彼らの前に広がる可能性を暗示しているのだろう。そういえば登場人物の一人が「この空はアメリカにもつながっている」というようなせりふを言っていた。無限に広がる空だが、どこかでつながってもいる。

  5人の女の子がそれぞれ魅力的である。中でも魅力的だったのは森田彩華(有美)と悠城早矢(貴子)。前者はバスケットをしているときの姿が様になっている(その上に美人だ)。後者ははっきりとものを言うすっぱりとした性格が魅力的。ただ、有美、春奈、貴子の3人は途中まで区別がつかなかった。同じ人物が違う服を着ているのかと思っていた。みんな同じ顔に見えるというのは年を取った証拠か、情けない。はっきりキャラの違う亜里沙と尚子だけは最初から区別がついた(尚子役の西原亜希は「リンダリンダリンダ」の香椎由宇と顔つきも体型も似ていると思った)。中山卓也は役者として特に魅力は感じなかったが、役柄としては「やり残したこと」を渡米までに解決しようと真剣に努力しているところに共感できる。最後はすべてうまくまとまってしまう。その分話がストレートになり深みに欠けるので、幾分物足りない気がする。しかし、こういうあまりひねっていない(ひねくれていない)作品もさわやかでまたいい。

  監督の長澤雅彦は既に「ココニイルコト」、「ソウル」、「卒業」、「13階段」などを撮っている中堅どころ。彼の作品を見るのはこの映画が初めて。今後の作品が楽しみだ。音楽もCl25s なかなか印象的だと思ったら「あの子を探して」や「初恋のきた道」で知られるサン・パオが担当していた。山崎まさよしの挿入歌「僕らは静かに消えてゆく」もうまく使われている。

  この映画は10年後にまた「その後」を撮る計画らしい。タイムカプセルもその時のために実際に各俳優が自分で考えて書いたものを保管してあるそうである。果たして「ビフォア・サンセット」のようにうまくいくか。まあ、あまり心待ちにするよりは忘れてしまった方がいい。そのほうが10年後の再会が新鮮になる。

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2006年5月 6日 (土)

ゴブリンのこれがおすすめ一覧

 「ゴブリンのこれがおすすめ」は番号ばかりで中身が分かりにくいので、一覧表を作りました。

ゴブリンのこれがおすすめ 1
  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1930年代フランス映画
ゴブリンのこれがおすすめ 2
  ニキータ・ミハルコフ監督、70年代から90年代のソ連・ロシア映画
ゴブリンのこれがおすすめ 3
  北欧映画、東欧映画
ゴブリンのこれがおすすめ 4
  シェイクスピアの映画化作品、ベトナム戦争映画、朝鮮戦争映画
ゴブリンのこれがおすすめ 5
  少数民族映画、音楽映画(90年代以降)
ゴブリンのこれがおすすめ 6
  女性映画(90年代以降)
ゴブリンのこれがおすすめ 7
  フランチェスコ・ロージ監督、パトリス・ルコント監督
ゴブリンのこれがおすすめ 8
  フェデリコ・フェリーニ監督、ルキノ・ヴィスコンティ監督
ゴブリンのこれがおすすめ 9
  反ファシズム、反ナチ、ナチス占領下の日々を描いた映画 
ゴブリンのこれがおすすめ 10
  女性ヴォーカルを楽しむ 1
ゴブリンのこれがおすすめ 11
  女性ヴォーカルを楽しむ 2
ゴブリンのこれがおすすめ 12
  ロード・ムービー
ゴブリンのこれがおすすめ 13
  フィルム・ノワール
ゴブリンのこれがおすすめ 14
  伝記映画
ゴブリンのこれがおすすめ 15
  記憶喪失もの
ゴブリンのこれがおすすめ 16
  家族を描いた映画(1)
ゴブリンのこれがおすすめ 17
  家族を描いた映画(2)
ゴブリンのこれがおすすめ 18
  チェン・カイコー、チャン・イーモウ、コン・リー、中国映画
ゴブリンのこれがおすすめ 19
  日本映画(90年代以降)
ゴブリンのこれがおすすめ 20
  ファンタジー映画
ゴブリンのこれがおすすめ 21
  95年以降のヨーロッパ映画
ゴブリンのこれがおすすめ 22
  記録映画/ドキュメンタリー
ゴブリンのこれがおすすめ 23
  知られざる傑作
ゴブリンのこれがおすすめ 24
  デヴィッド・リーン、キャロル・リード、イギリス映画(30-70年代)
ゴブリンのこれがおすすめ 25
  アメリカを様々な角度から抉る
ゴブリンのこれがおすすめ 26
  まだまだ現役ベテラン俳優
ゴブリンのこれがおすすめ 27
  アメリカ映画の巨匠たち
ゴブリンのこれがおすすめ 28
  ギャバン、K.ヘプバーン、ウエルズ、デ・シーカ、黒澤、今井
ゴブリンのこれがおすすめ 29
  ほのぼの・のんびり・ユーモアドラマ
ゴブリンのこれがおすすめ 30
  老人映画
ゴブリンのこれがおすすめ 31
  群像劇
ゴブリンのこれがおすすめ 32
  子供が主役の映画
ゴブリンのこれがおすすめ 33
  マストロヤンニ、M.ブランド、マックイーン 
ゴブリンのこれがおすすめ 34
  イギリス女優
ゴブリンのこれがおすすめ 35
  戦争を描いた映画
ゴブリンのこれがおすすめ 36
 アフリカ関連映画
ゴブリンのこれがおすすめ 37
 レディ・ソウルを楽しむ
ゴブリンのこれがおすすめ 38
 アイリッシュ/ケルト・ミュージック、ブリティッシュ・トラッド
ゴブリンのこれがおすすめ 39
 世界のユニークなアニメ映画
ゴブリンのこれがおすすめ 40 中南米映画
 中南米映画
ゴブリンのこれがおすすめ 41 中国・台湾映画
 中国・台湾映画
ゴブリンのこれがおすすめ 42
 ケイパー・ムービー、脱走劇・脱出劇

* * * * * * * *

 上記「これがおすすめ」シリーズとは別ですが、映画リストを集めた記事を参考として以下に挙げておきます。

岩波ホール上映作品 マイ・ベスト50
ゴブリンのおすすめイギリス映画 マイ・ベスト150+α
14歳までに観ておくべき映画トップ50
DVDを出してほしい映画
DVDを出してほしい映画 その2
ドイツ映画ベスト100

 なお本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「世界中の映画を観てみよう」コーナーに、国別のおすすめ映画リストを掲載しています。掲載日の日付は古いですが適宜更新しています。


2006年5月 5日 (金)

庭のテラスで読書、至福の時

Sdcutmo307   今年の連休はずっと庭の手入れをしている。連休後半に入っても庭の手入ればかり。このところ仕事が忙しく、ブログにも時間をとられて庭は荒れ放題だった。この3日間だいぶ手を入れたので庭もすっかりきれいになった。 1時ごろ食事に出かける。天気がいいので近くのラーメン屋まで歩いて食べに行った。片道15分くらいか。このぐらいの距離なら歩くのもいいものだ。帰りに鉢植え用の花を買ってきた。

  すぐ買ってきた花を植えた。その後庭の手入れをする。まだ手入れの行き届かないところがあるが、あの荒れ放題だったときに比べるとだいぶすっきりした。ふと見ると、シロヤマブキ(山吹とは別種)の花が二つ三つ咲いていることに気づいた。白い花はたくさんあるが、僕はこの花の白さが一番好きだ。大きすぎず小さすぎず、形もきれいだ。そしてその白さ。こんなきれいな白い花は他にないと思う。近くにある山吹も花芽が大きくなってきたので、連休明け頃に黄色い花が咲き出すだろう。

  連休前はどこかいい喫茶店があれば行ってみようかと考えていた。しかし雑誌で探しても、行ってみたいと思うような新しい店は見つからなかった。そこで考えを変えた。どうせ喫茶店に行ってもそう長くはいられない。金も時間もかかる。それなら、自分の家の庭をもっと快適にして、そこでゆったりと本でも読めばいいではないか。庭もだいぶきれいになってきたので、早速その考えを実行に移した。

  庭の手入れでだいぶ汗をかいたので、まずシャワーを浴びて汗を流した。すっきりしてからテラスに出る。ガーデンテーブルにパラソルをたて、冷たい飲み物を用意して本を読み始めた。今の季節だと湿気が低いので、気温は高くても日陰だとちょうどいい暖かさになる。それに何と言っても外は気持ちがいい。

  考えてみれば、自分の家の庭なら時間も金も節約できる。出かける手間は省ける。なにせ家から0分。場所代もいらない。飲み物代も只。何時間粘っても誰からも文句を言われMy_garden ない。快適な気温で、庭の眺めも悪くない(回りは住宅ばかりだがそっちは見ないようにすればいい)。少し読書に疲れたたら、ちょっとその辺を散歩する。20メートルも行けば田んぼに出る。そこから独鈷山が眺められる。遠くには美ヶ原や浅間山も見える。しばし辺りを眺めて気分を入れ替えた。こうして2時間ほど読書にふけった。暗くなる前に藤沢周平の『蝉しぐれ』を読み終えた。映画版と違って深い感動を覚えた。文四郎とお福の今生の別れの場面は涙が出た。「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか。 」映画でも使われたせりふだが、さすがに原作の方は胸に深く沁みた。

  自宅のテラスで過ごす至福の時。家のすぐ前だが、これだって立派なアウトドア・ライフだ。自宅の庭がこんなに快適だなんて。どうしてもっと前に思いつかなかったのだろう。これは残り二日もこれで行くしかないな。天気が続くことを祈ろう。

  さて、夜は映画三昧だ。

ゴブリンのこれがおすすめ 8

Lady5 フェデリコ・フェリーニ監督(1920-93) 
■おすすめの10本
「ジンジャーとフレッド」(1985)
「そして船は行く」(1983)
「フェリーニのローマ」(1972)
「フェリーニの道化師」(1970)
「魂のジュリエッタ」(1964)
「81/2」(1963)
「甘い生活」(1959)
「カビリアの夜」(1957)
「道」(1954)
「青春群像」(1953)

■こちらも要チェック
「フェリーニのアマルコルド」(1974)
「サテリコン」(1969)
「世にも怪奇な物語」(1967) オムニバス

■気になる未見作品
「白い酋長」(1951)


ルキノ・ヴィスコンティ監督(1906—1976)

■おすすめの10本
「家族の肖像」(1974)
「ルードウィッヒ/神々の黄昏」(1972)
「ベニスに死す」(1971)
「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)
「異邦人」(1968)
「山猫」(1963)
「若者のすべて」(1960)
「ベリッシマ」(1951)
「揺れる大地」(1948)
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)

■こちらも要チェック
「熊座の淡き星影」(1965)
「夏の嵐」(1954)

  イタリア映画界を代表する2大巨匠。イタリア映画と聞いて誰でも最初に思い浮かべるのはこの二人かもしれない。僕のマイ・ベスト3は以下の通り。 
  フェリーニ:「道」、「カビリアの夜」、「甘い生活」
  ヴィスコンティ:「山猫」、「地獄に堕ちた勇者ども」、「ベニスに死す」

  イタリア映画の偉大な時代は第二次世界大戦後に始まる。いわゆる「ネオ・リアリズモ」の傑作を次々に放った巨匠ロベルト・ロッセリーニに代表される時代だ。その後も勢いは増すばかり。上記の二人を含む、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルイジ・ザンパ、ジュゼッペ・デ・サンティス、ピエトロ・ジェルミ、レナート・カスティラーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ヴァレリオ・ズルリーニ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、フランチェスコ・ロージと名匠、巨匠がひしめく50年代から70年代に傑作が集中する。
  80年代以降はヴィットリオ&パオロ・タヴィアーニ、ベルナルド・ベルトルッチ、ジュゼッペ・トルナトーレが活躍するが、かつての栄光は薄れた。2000年代に入っても下降線が続く。時々個々に優れたものは現れるが、イタリア映画再生の道は遠い。何がこの不振の原因なのか。時間があれば探求してみたい課題だ。

2006年5月 4日 (木)

父と暮らせば

Yukatabijin1 2004年 日本
監督:黒木和雄
原作:井上ひさし「父と暮せば」(新潮社刊)
脚本:黒木和雄、池田眞也
企画:深田誠剛
撮影監督:鈴木達夫
美術監督:木村威夫
音楽:松村禎三
出演:宮沢りえ、原田芳雄、浅野忠信

  ずっと気になっていた作品だが、近所のレンタル店に置いてなくてこれまで観られなかった。やっとアマゾンで2000円の中古品を手に入れたので早速観てみた。果たして、期待を上回る傑作だった。

  実は、「父と暮らして」は映画より先に芝居の方を観ている。2004年の7月に「市民劇場」の例会で観たのである。こまつ座の公演で西尾まりと辻萬長が主役の二人を演じていた。井上ひさし原作、こまつ座の公演とあって期待していたのだが、今ひとつという印象だった。もうだいぶ忘れているので、当日の日記から感想を引用しておこう。「1幕もので時間的にはあっけなく終わってしまった。会話を通して、娘がかたくなに結婚を拒否する気持ちの奥に親友の死と父親の死が絡んでいることが分かる。ぐっとくる場面だ。しかし劇後の感想は今ひとつというものだった。全体に喜劇仕立てになっていて、悲惨な話を生のまま出さない工夫をしているが、それが感動を弱めてしまっていると感じた。」

  同じ原作に基づいているのに、劇場版と映画版とでこのような差が表れたのは何が原因だろうか。一つは役者の違いだろう。映画版の宮沢りえと原田芳雄は見事に呼吸が合っていて、実に素晴らしい演技だった。それともう一つ思いつく理由はコメディ的要素とシリアスな要素のバランスだろう。演劇版はバランスがコメディに寄りすぎたために感動を弱めてしまったが、その点映画版はバランスの取り方が絶妙だった。コミカルな要素を活かして軽妙に話を進めながらも、美津江がなぜあれほどかたくなに幸せになることを拒むのかが明らかになってゆく山場は妥協なく、心の中をえぐるようにしてぐいぐいと推し進めてゆく演出だった。そして最後にまたコミカルなトーンが戻ってくる。このような演出だったために、コミカルになりすぎることもなく、シリアスになりすぎることもなく、感動がダイレクトに伝わってきたのである。

  また舞台では出来ない映画の技法としてクローズアップやフラッシュバック、あるいはモンタージュがある。人物の顔のクローズアップはもちろん、舞台でははっきり見せなかった原爆瓦や熱で溶けてねじれたガラス瓶が大きく映し出される。この効果は大きい。また丸木位里、俊夫妻の原爆の図、お地蔵さんの首、焼けただれた日本人形、そして原爆ドームなどの映像が効果的に挿入されている。まあ、演劇版との比較はこれくらいにしておこう。演劇版も何種類かあるし、その日によって出来も違うわけだから、当然優れたものもあったはずだ。

  この作品、何と言っても井上ひさしの原作が秀逸だ。いきなり押入れの中から登場する父親(福吉竹造)。この登場の仕方がとっぴで、最初からひきつけられる。しばらく何気ない会話が続くうちにようやくこの父親が実は幽霊であることが分かってくる。父と娘は同じ場所で原爆にあったのだが、偶然のいたずらで父親は死に娘は生き残ったのである。なぜ父親の幽霊が出てくるのか。それは美津江が恋をしたからである。なぜ娘が恋をすると父親の幽霊が出てくるのか。それは自分だけが生き残ったことへの負い目にさいなまれる娘が自分の恋心を押し殺し、「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と思いつめているからである。見かねた父親が「美津江の恋の応援団長」としてしゃしゃり出てきたのである。ストーリーは、娘がそこまで思いつめるようになった理由を父親が聞き出してゆくという展開になる。このストーリー展開がうまい。いったいあの時何があったのか。観客はぐんぐん二人の会話に引き込まれてゆく。

  ほとんど二人の会話に終始するので原爆投下直後の悲惨な状況は直接描かれない。視覚的、肉体的悲惨さではなく心に深く負った傷に焦点を当てている。美津江はまた軽い原爆症を患っているようだ。生き残ったものも筆舌に尽くしがたい悲痛な記憶と心の傷を背負い、放射能による癒えることのない病に苦しむ。見た目にはすがすがしい美津江の姿と目に見えない傷や苦悩とのギャップ、これがなんとも皮肉だ。

  悲惨な現実を直接描く代わりに象徴的な描き方を多用している。原爆瓦や熱で溶けねじれたガラス瓶、一面の焼け野原や焼けただれた日本人形もそうだが、一番強烈なインパクトを与えるのはお地蔵さんの首である。ある日美津江が庭に出ると、庭に置かれている石地蔵の首がふと目にとまった。どうしても気になってその首の向きを替えると、顔の右側がケロイドのように削れていた。これは原爆の資料を集めている木下青年から預かったものだろう(彼が美津江の思い人である)。かなりショッキングな映像だ。しかしこれはわれわれ以上に美津江に衝撃を与えた。この地蔵を見て彼女は同じような状態になっていた父親を思い出したからだ。そこから瀕死の父親を助けずに自分だけ逃げたというつらい思い出がよみがえってくる。このあたりの話の持って行き方も見事だった。

  廃墟となった広島の映像は出てくるが、そこに死体などは写っていない。あくまでも直接的な描写は避けている。黒木和雄監督があえて舞台劇のような限られた空間で描こうとしたのも、舞台劇の空間、すなわち擬似リアリティの空間を必要としたからだろう。映画にすSagi_1 るのだから原爆投下直後のリアルな再現映像を入れたくなるところだ。しかし原作は二人の対話で成り立っている。それを再現映像にしてしまっては原作の味が出ないと判断したのだろう。心の傷ではなく、見た目の悲惨さに注意が向かってしまうからだ。したがって元旅館だった美津江の家の中で父と娘が交わす会話がほとんどを占める。もちろん当時の悲惨な様子がまったく触れられないわけではない。美津江が見聞きしたむごたらしい光景が彼女の言葉を通して父親に(と同時に観客に)伝えられる。「もんぺの後ろがすっぽり焼け抜けていた」美津江の親友福村明子、防火用水槽の中で立ったまま死んでいた別の友人・・・。

  このように美津江が心の奥底に閉じ込めていたものを少しずつ父親に話してゆくにつれて、彼女が自分を殺して生きている理由が明らかになってゆく。それが何であったかは詳しく書かない。最後は美津江の血を吐くようなせりふになる。「あの時の広島は死ぬるんが自然で、生き残るんが不自然なことじゃったんじゃ。」「うちは生きとるんが申し訳のうてならん。だけど死ぬ勇気もないです。」

  父の竹造はこれを聞いて娘の気持ちを理解したが、それでも引き下がらなかった。彼はなおも説得する。「わしの一等最後に言った言葉がお前に聞こえとったんかいのう。『わしの分まで生きてちょんだいよー。』それじゃけ、お前はわしに生かされとんじゃ。まっことあのようなむごい別れが何万もあったということを覚えてもらうために生かされとんじゃ。お前が勤めている図書館もそげなことを伝えるためにあるんとちゃうか。人間の悲しかったこと楽しいかったこと、それを伝えるんがおまえの仕事じゃろが。それも分からんようになったなら、もうお前のようなあほたれなバカたれには頼らん。誰か他に代わりを出してくれや。わしの孫じゃ。ひ孫じゃ。」

  この言葉にようやく美津江は納得する。最後に映される美津江の表情は明るい。「わしの分まで生きてちょんだいよー」という父親の明るい声と美津江の「おとったん、ありがとありました」という最後のせりふがいつまでも心に残る。

  全編当時の広島弁を使ったことが素晴らしい効果を挙げている。他県のものが聞いてもどこか懐かしさを感じるその柔らかい響きが重くなりがちな主題を和らげている。『吉里吉里人』や『國語元年』を書いた井上ひさしらしいこだわりだ。原田芳雄の飄々とした父親像と宮沢りえのさわやかさも心を和ませる。と同時に、コメディ仕立てに逃げず、美津江の心の中をさらけ出させ、彼女の背後には生き抜けなかった何万もの人たちがいることを常に観客に意識させている。このさじ加減が絶妙なのだ。

  原作や黒木和雄監督の演出も見事だったが、何と言っても素晴らしいのは主演の二人だ。原田芳雄が素晴らしいのは言うまでもないが、僕は特に宮沢りえをほめたい。今の日本でこれほど卓越した演技力と品格を持った女優が他にいるだろうか。一時不遇な時代もあったが、今や間違いなく彼女は日本を代表する演技派女優となった。最初の出会いがまず衝撃的だった。あのポカリスエットのCMだ(これが最初に出演したCMではないようだが)。転がる缶を手を伸ばしながら追いかける彼女のかわいらしさは信じられないほどだった。テレビの番組ではなくCMを録画したいと思ったのはあれが初めてだ。その当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、あのヌード写真集を出したあたりから一時泣かず飛ばずになった。

  彼女が女優として非凡な才能を持っていると最初に感じたのは「北の国から」で“しゅう”を演じたときからだ。彼女の“しゅう”は素晴らしかった。内田有紀より遥かに良かった。そしてそれが確信に変わったのは「たそがれ清兵衛」である。あの映画を観たとき僕は彼女を絶賛した。しかし彼女はそこにとどまらなかった。「父と暮らせば」では、演技者の力量が映画の成否を決める二人芝居に挑んだのである。芸達者の原田芳雄とがっぷり四つに組んだ迫真の演技は「たそがれ清兵衛」の朋江役を凌ぐとさえ思った。何しろ、せりふは原田芳雄よりも彼女の方が圧倒的に多いのだ。それだけではない、原田がせりふを言っているときの彼女の反応や表情がまた見事である。肩肘張りすぎて「一人芝居」にならなかった。あくまで二人のコラボレーションを大事にした。そこに役者としての確かな成長を見た。絶妙の間合い(短かったり長かったり、時には相手のせりふにかぶせるように反論したり)、せりふのメリハリ、相手のせりふから受ける反応、表情と身振り、ほとんど完璧だった。ほとんど全編せりふで構成されている対話劇を、無難にではなく本当に美津江になりきって演じた。まだ30歳そこそこだろうが、もはや大女優である。

  黒木和雄監督のインタビューによると、原爆資料館を訪れた彼女について、「これまで多くの芸能人が来たけれど、学ぶ格好を見せるだけ。宮沢さんは本気で一日中資料を読み、涙していた。こんな俳優は初めて」と資料館スタッフが感激しながら語ったそうである。また相手役の原田芳雄も「撮影が始まって2~3時間で目の色が変わった」そうだ。撮影現場には「鬼気迫る」ものがあったとも語っている。もともと「地味な原爆の映画に少しでも客が入るようにと、旬な女優を使いたいと思った」というのが起用の狙いで、最初は不安に思っていたとのこと。しかし彼は結果的に「あたり」を引き当てたのである。

  「父と暮らせば」は「TOMORROW/明日」(88年)、「美しい夏キリシマ」(03年)に続く“戦争レクイエム”三部作の最後を飾る作品。岩波ホールで公開され、25週という歴代2位のロングランとなった。黒木和雄監督はその後第4部となるべき作品「紙屋悦子の青春」(8月に岩波ホールで公開予定)を完成させて、今年の4月12日に急逝された。死因は脳梗塞、享年75歳。  「残された者が背負う罪悪感」というテーマに挑んだのは「父と暮らせば」の舞台を観て感激したからだが、黒木監督自身同じような体験があるからでもあろう。「美しい夏キリシマ」ではその「うしろめたさ」を描いた。そして「父と暮らせば」では、そのうしろろめたさを克服する娘を描いたのである。

  新藤兼人監督の「原爆の子」や今村昌平監督の「黒い雨」など原爆関連の映画は何本も観てきたが、「父と暮らす」が最も優れていると感じた。中沢啓治の『はだしのゲン』やこうの史代の『夕凪の街 桜の国』と共に今後も読み継がれ、鑑賞され続けていって欲しい作品だ。

  既に遠い過去となった、われわれの知らない戦争とどう向き合うのか。あるいはそれをどう語り継ぐのか。この映画はわれわれにそういう問題を突きつけている。ソ連映画「炎628」の原題「来たれ、そして見よ」をもじって言えば、この映画のメッセージは「生きよ、そして語れ」となろう。

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2006年5月 1日 (月)

クレールの刺繍

Engle1 2004年 フランス
監督:エレオノール・フォーシェ
脚本:エレオノール・フォーシェ、ガエル・マーセ
撮影:ピエール・コットロー
音楽:マイケル・ガラッソ
出演:ローラ・ネマルク、アリアンヌ・アスカリッド
    マリー・フェリックス、ジャッキー・ベロワイエ
    トマ・ラロプ、アルチュール・ケアン、アン・キャノヴァス

 数日前に「ゴブリンのこれがおすすめ 6」で女性映画リストを挙げたばかりだが、また新しい女性映画に出会った(急遽リストに追加した)。いかにもフランス映画らしい、そしていかにも女性監督の映画らしい繊細な作品。思わぬ妊娠をして「匿名出産」をしようとしている17歳のクレール(ローラ・ネマルク)と最愛の息子を事故で奪われたメリキアン夫人(アリアンヌ・アスカリッド)、この二人の心理が共に同じ刺繍を作り上げる作業を通して微妙に変化してゆく過程を描いてゆく。二人の出会いのきっかけはクレールの友人の兄ギョーム(トマ・ラロップ)が起こしたバイクの事故である。ギョームは顔に大怪我をし、その上一緒に乗っていた友人イシュハンを死なせてしまう。そのイシュハンの母親がメリキアン夫人だったのである。どことなく「12g」を思わせる人間関係だが、話の展開は「12g」のようなどろどろした息苦しい方向には向かわない。刺繍という共同作業を通して二人は心を通い合わせ、クレールは自分で子どもを育てる決心をし(ギョームとの新しい愛も芽生え始めている)、息子を失い自殺まで企てたメリキアン夫人は生きる気力を取り戻してゆく。

 ストーリーはこれだけである。クレールはそれまではいたって平凡な、特に潤いのない生活を送っていたのだろう。前半にスーパーでアルバイトをしている場面が出てくる。同僚に最近太ったなどといわれて抗がん剤の副作用だと答えてごまかしていた。スーパーのバイトは平凡さの象徴である。「いつか読書する日」の田中裕子もスーパーでバイトをしていた。田中裕子の場合はその平凡な生活の中に情熱を秘めていたのだが、クレールは早い段階で親から独立しているので独立心はあるのだが、何か生きがいを見出すところまでいっていない。わずかに趣味の刺繍に自分の世界を見出しているだけだ。その閉じられた自分だけの世界をさらに広い世界へと押し開いたきっかけがメリキアン夫人との出会いだったのである。

 この映画はきわめて感覚的な映像とせりふを抑えた静謐な空間で構成されている。特に前半はコラージュ的に短いショットをつなぎ合わせており、ストーリーは流れない。正直前半は退屈だった。後半になってメリキアン夫人との出会いを経て二人で刺繍をつづっていくあたりからテーマが明らかになり、物語が動き出す。後半はどんどんひきつけられていった。しかしストーリー自体は特に起伏があるわけではない。せりふも少ない。したがって感覚的に捉えることが必要になるが、その前提となる状況を観客がきちんとつなぎ合わせてゆくこともまた必要である。クレール、メリキアン夫人、ギョーム、それぞれのおかれた状況を理解した上でなければ、感覚的な映像の持つ意味合いを深く理解できない。

 クレールが早い段階で家を出たのは彼女の独立心もあろうが、母親とうまく折り合わないことが理由としては大きいだろう。印象的な場面がある。クレールがスーパーを止めたと聞いた母親が心配してクレールの下宿までやってくる場面である。久々の再会だが、そこに母娘の暖かい絆はない。クレールが妊娠したことをそれとなく知らせようと母親にふくらんだお腹を見せても、母親はまったく気づかなかった。クレールはそんな母親に我慢が出来なくて家を出たのだろう。クレールは自分の明確な目標を持ったしっかりとした性格の女性というわけではない。お腹の子の父親はスーパーの同僚だが、妊娠を知っても責任のある態度を示さない。クレールもそんなことは期待していない。もともとその程度の付き合いだったのだ。ごく平凡に流されて生きてきた。当然母親としての自覚もない。腹の中の赤ん坊を映し出したモニターを見ようともせず、子供の性別にも関心を示さない。だから医者に言われるままに最初は匿名出産を選んだのである。

 妊娠を知ってからクレールの心は不安定になる。それは当然だ。わずか17歳の女性がはじめての妊娠で不安を感じないはずはない。大きなお腹を抱えて働き続けられるのか、母親に打ち明けるべきか、本当に匿名出産でいいのか。先を考えれば不安ばかりだ。そんなクレールの唯一の慰めが刺繍だったのである。母胎とは本来生命を生み育てる豊穣な大地である。しかしクレールの大地は乾いていた。そしておそらくクレールの母親の大地も乾いていたのだ。フォーシェ監督の言葉が示唆的である。「植物も生えないような大地の匂い、そしてクレールを花開かせようとメリキアン夫人がその大地を豊かにしていく、そんな物語を描きたいと思いました。」

 クレールがメリキアン夫人と、そして彼女を通じて刺繍と出会って初めて乾いた大地に潤いがもたらされた。母になる決意が持てず思い悩む少女、息子をなくし失意に沈む母親、友人を死なせてしまって生きる気力を失った青年。「21g」と似た設定ながら「クレールの刺繍」は生の再生へと向かう。何か大切なものを失ったままで人間は生きられないからだ。空白・空虚さを埋めるために互いに求め合う。新しい愛、芯から打ち込める仕事の発見、心から尊敬できる人との出会い。そして何より象徴的なのはクレールの体の中で成長してゆく赤ん坊の存在である。新しい生命が生の息吹を吹き込んでゆく。実の親子の間で作れなかった深く理解し合える関係が他人同士の間に作られてゆく。心の通い合いがあって刺繍という技術もまた次の世代へと伝えられてゆく。

 友を失ったギョームと息子を失ったメリキアン夫人の苦悩も描かれているが、クレールの苦悩ほどは詳しく描かれていない。メリキアン夫人が自殺を図り、見舞いに来るクレールTeablue を煙たがる様子も描かれているが、ギョームはむしろ「回復」の象徴としての役割の方が大きい。彼が最初に登場したときには顔にひどい傷を負っていた。だが、登場するたびに傷が小さくなってゆく。メリキアン夫人は終始そっけない態度で無口である。クレールもまた無口だ。二人の間には終始沈黙がある。その沈黙を破るのはタタタタタというミシンの音とプチッ、プチッという刺繍に針を刺す音だけ。時計の音さえ聞こえる(静寂を最も効果的に表すのは完全なる無音ではなく静かに時を刻む時計の音である)。

 閉ざされた空間と静寂が支配する中で二人は黙々と刺繍をする。わずかなせりふで淡々と行為だけが進行する映像を通して二人の心の動きが実に「雄弁に」語られる。この映画の最も優れている点は「無言の会話」を映し出すこの表現力である。このほとんど無言の行為を通して妊娠や出産に対するとまどいや不安をクレールが少しずつ乗り越えてゆく過程、そして生きる気力を一旦失ったメリキアン夫人が生命力に満ち溢れたクレールと接することによって生への意欲を取り戻してゆく過程が同時に描き出されてゆく。フォーシェ監督は刺繍という行為そのものだけではなく、その場に流れる空気を映像化することに成功した。ほとんど説明的な映像を交えず、行為と短い会話で描いてゆく。退院したメリキアン夫人にクレールがプレゼントした手製のショール、それをラクロワに見せた夫人がクレールに語った「デビュー作から評価されるのは稀なことよ」という優しい言葉。二人の心の動きと変化はこういった描写で簡潔に表現される。

  そしてなんといっても二人で刺繍の共同作業をしている場面。フォーシェ監督はその無言の場面を通して2人に沈黙の会話をさせた。生を授かった女性と息子の生命を失った女性の思いが複雑に交錯する。刺繍が出来上がってゆくにつれてクレールも刺繍職人として、また子を宿した女性として成長してゆく。彼女の成長は膨らんで行く彼女のお腹とシンクロしている。刺繍が完成したとき一人の「母親」が誕生する。少女から母へ、人間的成長と産む性としての自覚、一針一針地道に仕上げられていく刺繍と女性としての成長が同時に描かれるのだ。

 このような演出をどのように思いついたのか。「きっかけは、糸(fil)と親子の愛情(filiation)です」とフォーシェ監督は語っている。その発想は「祖母が何年間も裁縫箱にためていた衣類を繕う姿」がら湧いてきたものだという。彼女のインタビューは示唆に満ちている。

   裁縫は映画作りの隠喩そのものです。映画を見ていると、技術スタッフたちの
 苦労など想像しないものですよね。それと同じで、ステージ上のファッション・モデ
 ルを見て、その背後に多くの職人が費やした膨大な時間など考えないもので
 しょう。この 映画の刺繍を制作してくれたルサージュ氏やナジャ・ベリュイェのアト
 リエを訪れたとき、私が探し求めていた雰囲気を感じ取ることができました。つま
 り、女性たちが醸し出す、あの暗黙の雰囲気、連帯感です。映画では、刺繍は
 ちょうど日記のような役割を果たしていて、人物の気持ちを表しています。ク
 レールは、 テクニックは二の次で、回収したウサギの毛皮や配管用の座金(薄
 い金属板の輪)などの素材で制作を始めます。この映画では、触感という感覚を
 大切にしたかったのです。そして、メリキアン夫人の作品を見た瞬間、官能的と
 も言える感覚がクレールの体を駆けめぐるのです。クレールのお腹が大きくなる
 につれて、 メリキアン夫人宅で作業をする刺繍の腕が上がっていく必要がありま
 した。クレールにとってあのアトリエは、まるで胎内のような、もしくは洞くつのよう
 な隠れ場所なのだと思います。

 前半の技に懲りすぎた複雑なショットのつなぎ方には疑問を感じるが、全体を通してみるとやはり優れた作品だと言える。主要な二人の役柄を演じた女優のキャスティングもぴったりとはまっていた。メリキアン夫人を演じたアリアンヌ・アスカリッドについてフォーシェ監督が「彼女は、険しい表情の老け役を演じることを承諾してくれ、まるで手袋をはめるようにすっと役柄に入っていきました」と語っているのが印象的だ。なお、彼女を起用する際に、メリキアン夫人の国籍を当初のチェコ人からアルメニア人に変更したそうだ。クレールを演じるローラ・ネマルクはそばかすだらけの顔だがなかなか魅力的な顔立ち。赤毛の髪をこれでもかとばかり大きく波打たせている。刺繍をするときに青いスカーフで髪をくるむが、そのときのイメージがフェルメールの「青いターバンの少女」にはっとするほど似ている。「真珠の耳飾の少女」のスカーレット・ヨハンソンより似ていると思った。

 最後に、僕は刺繍のことは何も知らないが、二人が縫っている刺繍は実は裏表逆になっているそうである。裏面を表にして縫っている。だから出来映えを確かめるためには下から見なければならない。ギョームが刺繍の下にもぐりこむ場面があるが、それはこういう理由からだった。あるブログを読んで納得したしだい。

連休前半終了 水槽替えと庭の手入れ

Images_57_4   連休の前半はこれまでやれなかったことをやることにした。一つは金魚の水槽を大きいものに替えること。60センチの水槽は既に買ってあったが、水槽の交換には時間がかかりそうなので連休まで手をつけなかった。もう一つは庭の手入れ。このところ忙しくてろくに水もやっていない。芝生が伸び放題で、境目を乗り越えて庭全体に広がっている。何とかしなくてはと前から思っていたが、忙しさにかまけて何もしてなかった。

  連休初日の土曜日は水槽の交換に当てた。カインズホームで水槽の砂利とオーナメント(岩と水草)を買ってきた。早速60センチ水槽への入れ替えを始める。大変な作業だった。まず買ってきた砂利を水洗いする。結構泥が出る。次に今の水槽の水と金魚をバケツに移す。古い水槽を取り外し、新しい60センチの水槽を置く。かなり大きい。底に砂利を入れる。次にバケツで水を入れる。これが大変。6、7杯入れただろうか。およそ60リットル入るようだ。

  それが終わるとカルキ抜きを入れて水を中和する。しばらく置いてから金魚を移した。うまく馴染んでくれるか心配だったが、良かった元気に泳いでいる。今度は濾過器を組み立てて水槽に設置した。ライトも取り付ける。これで完了。いよいよ電源を入れる。おおっ。素晴らしい。ちょっと水草が足りなかったのかスカスカの気がするが、少しは開放感があったほうがいいのかも知れない。そのうちまた本物の水草を買ってきて増やそう。今いる金魚たちはもう何年生きているのだろうか。多分もう買ってから4、5年はたっているだろう。だいぶ体も大きくなってきて、前の水槽では狭く感じ始めたのが大きい水槽に替えるきっかけだった。

  ライトをつけるとまるで熱帯魚の水槽のようだ(実際金魚と熱帯魚の両方に使えるものだが)。網ですくって移すときにうろこが何枚か剥げ落ちている金魚がいる。多分大丈夫だろう。いずれ再生するのではないか(根拠のない期待)。もう1匹買って来ようか。にぎやかな方がいい。記念に金魚に名前をつけようかな。

  翌日の日曜日に金魚をもう2匹買ってきた。頭の天辺だけが赤く、全体が白い金魚だ。水槽に入れるとなんとまあ小さいこと。それまでいた4匹はかなり大きくなっており、新たに買ってきた2匹はまるで子どものようだ。しばらくじっと眺めていたが、小さな新人たちはおとなしく2匹並んで隅のほうを泳いでいる。一番大きい2匹は水槽を大きくしてから悠々とかなりのスピードで泳ぎ回るようになった。時々さっと反転するので、小さい2匹はそのあおりを食って時々弾き飛ばされそうになる。一番大きいまだら模様を二番目に大きいのがしきりに追い掛け回している。一番大きいのがメスで、二番目がオスなのだろうか。とにかくそのしつこいこと。ずっと追いかけていた。まだら嬢は嫌がっているように見える。それはともかく、水槽を眺めるのは実に楽しい。まさに癒しの時間。しばらくはこれが癖になりそうだ。

Big_0135   今日は庭の手入れ。プランターから雑草を抜き、伸びきった芝生を刈る。久々に芝生用バリカンを使った。バリカンがつかえない境目のところは芝刈りハサミを使う。ハサミを使いすぎて手の握力がなくなってきた。庭の手入れをしてすっかり汗をかいた。まだまだ半分も手入れは終わっていないが、残りは水曜日以降にやろう。その後テラスのガーデンテーブルでタバコを吸う。気持ちがいい。近所の人が前を通るとき「夕涼みですか」と声をかけてくれた。

  ゆっくりと庭を眺める。ユキヤナギは満開を過ぎて花がだいぶ散ってきた。ミツバツツジの薄紫の花が綺麗だ。ツツジは白、赤と何種類か植えてあるが、ミツバツツジの色が一番好きだ。他のつつじはまだ花が咲いていない。去年あまり咲かなかったドウダンツツジはうまく咲くだろうか。シバザクラの白と赤の花も綺麗に咲いている。芝生がだいぶ入り込んでいるがちゃんと咲いてくれたので一安心。プランターの宿根草も一部咲き始めている。名前は忘れてしまった。ヤマボウシとシャラとエゴの木が小さな葉を付け始めている。これから新緑が楽しみだ。新緑の緑の鮮やかなことといったら、花以上に綺麗だとすら思う。ただコニファーが何本か枯れてしまった。切らないとだめかなあ。そろそろ庭師さんでも頼んで本格的に手入れしてもらおうか。

  明日は一日だけ仕事。気が重いが、あさってからまた連休だ。連休後半は近所にちょっと出かける程度にして、映画と読書にたっぷり時間をかけよう。

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