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2006年4月

2006年4月30日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 7

フランチェスコ・ロージ監督(1922- )
■おすすめの10本 M000413fd
「遥かなる帰郷」(1996) 監督/脚本
「予告された殺人の記録」(1987) 監督/脚本
「エボリ」(1979) 監督/脚本
「ローマに散る」(1976) 監督/脚本
「コーザ・ノストラ」(1973) 監督/脚本
「黒い砂漠」(1972) 監督/脚本
「イタリア式奇跡」(1967) 監督/脚本
「真実の瞬間」(1965) 監督/脚本
「都会を動かす手」(1963) 監督/脚本
「シシリーの黒い霧」(1962) 監督/脚本

■こちらも要チェック
「カルメン」(1983)

■気になる未見作品
「パレルモ」(1990)

  イタリアを代表する社会派の巨匠。マフィア問題を追い続けてきた初期の作品も傑作ぞろいだが、後期の作品も「エボリ」や「予告された殺人の記録」など様々なテーマに挑み、優れた作品を作り続けてきた。闘牛士を描いた「真実の瞬間」は彼の作品系列の中では異色だが、「黒い牡牛」と並ぶ闘牛映画の傑作。これだけの傑作を作っているのに、DVDは「コーザ・ノストラ」しか出ていない。この不当な扱いには腹が立ってしょうがない。早く出して欲しい。

パトリス・ルコント監督(1947 - )
■おすすめの10本
「列車に乗った男」(2002)
「パトリス・ルコントの大喝采」(1996)
「リディキュール」(1995)
「イヴォンヌの香り」(1994)
「タンゴ」(1992)
「髪結いの亭主」(1990)
「仕立て屋の恋」(1989)
「タンデム」(1987)
「スペシャリスト」<未>(1984)
「愛しのエレーヌ」<未>(1983)

■気になる未見作品
「親密すぎるうちあけ話」(2004)
「歓楽通り」(2002)
「フェリックスとローラ」(2000)
「サン・ピエールの生命」(1999)
「橋の上の娘」(1999)

  こちらは一転して軽妙な作風。日本でもファンが多い。フランスらしいしゃれた作品が多いが、どこかとぼけた持ち味も魅力。「列車に乗った男」で見せた渋い味もいい。「スペシャリスト」、「愛しのエレーヌ」、あるいは「恋の邪魔者」、「レ・ブロンゼ/スキーに行く」、「レ・ブロンゼ/日焼けした連中」等の初期作品は日本未公開だが、フランスでは大ヒット。どれもよく出来てる。これらはビデオで出ていたがDVDはまだ。こちらも早く出して欲しい。

2006年4月28日 (金)

ヴェニスの商人

Kagami_wedding_01 2004年 アメリカ・イタリア・ルクセンブルグ・イギリス
監督・脚本:マイケル・ラドフォード
原作:ウィリアム・シェイクスピア
撮影監督:ブノワ・ドゥローム
プロダクションデザイン: ブルーノ・ルベオ
編集:ルチア・ズケッティ
音楽:ジョスリン・プーク
衣裳デザイン:サミー・シェルドン
出演:アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズ、ジョセフ・ファインズ
    リン・コリンズ、 ズレイカ・ロビンソン、クリス・マーシャル
    チャーリー・コックス、 マッケンジー・クルック、ヘザー・ゴールデンハーシュ
    ジョン・セッションズ、 グレゴール・フィッシャー、ロン・クック、アラン・コーデュナー
   アントン・ロジャース、デヴィッド・ヘアウッド

  マイケル・ラドフォード監督の「ヴェニスの商人」を観て、まず印象に残るのはシャイロックを演じたアル・パチーノの熱演だろう。これは彼の演技力に負うところが大きいが、それだけではない。この有名なシェイクスピアの戯曲を映画化するに際して、マイケル・ラドフォード監督の狙いはこれまで悪党として扱われてきたシャイロックに焦点を当てることにあった。原作ではシャイロックは単なる欲深い守銭奴である。彼の理不尽な要求をポーシャがうまく裁いてみせ、ついでに彼女の恋も見事成就するという話だ。基本的に喜劇である。この映画版は悪役に過ぎないシャイロックに焦点を当て、彼にユダヤ人のなめてきた辛酸を語らせ、一見理不尽に見える彼の要求にはそれなりの理由があることを示す。彼は残酷な守銭奴ではなく、キリスト教徒によって虐げられてきた被害者であり、キリスト教徒の定めによって財産も名誉もすべて奪われた哀れな犠牲者として描かれている。ラストでシャイロックの娘のジェシカ(ズレイカ・ロビンソン)が銛で魚を突いている父親を悲しみをたたえた目で眺めるシーンはそういう意味で必要なシーンだった。

 シャイロックに焦点を当てるといっても基本的に原作に忠実に描いているので、大幅に彼のせりふを付け足しているわけではない。むしろ他の要素をそぎ落としている。そして冒頭の字幕でユダヤ人に対する差別について説明をつけるという処理をしている。原作は戯曲なので当然せりふが中心である。映画化する際には背景説明が必要になってくるが、かといってあまり説明的では興をそぐ。基本的な状況説明を冒頭の字幕だけにしたのは適切な判断だったと思う。その説明も簡潔にしてツボを押さえている。

  16世紀ヨーロッパ社会のユダヤ人に対する排斥は自由主義の都市国家ヴェニスで
 も行われていた。彼らは塀のある工場跡かゲットーに住まわされ、夜はキリスト教徒
 が門を施錠して番をした。日中ゲットーを出る者はユダヤ人の印として赤い帽子の着
 用が義務付けられた。ユダヤ人は土地の所有を禁じられ、金貸しを営んでいたが、そ
 れはキリスト教の教えに反することだった。教養あるヴェニス人は知らぬふりをしてい
 たが、反ユダヤ人の狂信者は彼らを許さなかった。

  この冒頭の説明に続き、キリスト教徒がユダヤ人をからかっている場面を映し出す。アントーニオ(ジェレミー・アイアンズ)がシャイロックにつばを吐きかける場面も挿入されている。この段階で早くも観客は心理的にシャイロック側に立ってしまう。このようにしっかりと前提を作っているからこそ、シャイロックがユダヤ人に対するいわれのない差別を激烈に批判する場面がなおさら記憶にやきつくのである。

  ユダヤ人には目がないか?手がないのか?内臓や体つき、感覚、感情、情熱、食
 べ物が違うか?刃物で傷つかないか?同じ病気にかからず同じ薬で治らないか?
 同じ季節の暑さ寒さがキリスト教徒と違うか?針で刺しても血が出ないか?くすぐって
 も笑わないか?毒を盛っても死なないか?迫害されても復讐しないのか?それだって
 あんたたちと同じだ。ユダヤ人に迫害されたらどうする?復讐か?我々だって迫害
 されたら同じことさ。キリスト教徒を見習い復讐する。お前たちの仕打ちを真似して
 やる。どれだけ苦労をしてもお手本より上手にやるぞ。

 これを聞いているキリスト教徒たちは何も言い返せない。いや、この場面だけではない。最後までこの論理を超える論理が提起されることはない。シャイロックは最後に破滅するが、それは彼の論理が覆されたからではなく、あくまで1ポンドの肉を要求する彼の訴えが「法的に」裁かれただけである。彼が提起した問題提起は結局のところはぐらかされ、まったく別の側面から彼は裁かれる。それだけに彼の問題提起は最後まで観客の胸に突き刺さったままなのだ。

 確かに彼の「要求」は常軌を逸していた。彼の言い分に分があるとしても、肉1ポンドを要求することがユダヤ人差別を解決するわけではない。積もり積もった彼の恨みつらみが彼をそのような行動に追いやったことは理解できるが、彼の行動を是認は出来ない。なぜなら彼の行動は個人的な恨みに端を発しているからだ。裁判での彼の言い分は上に引用したせりふほどには説得力がない。「どうしようもないのだ。私にも理由はない。今までに積もった恨みとしか言えません。アントーニオが嫌いでたまらない。」

  シャイロックの提起した問題が抜き差しならないのはユダヤ人全体にかかわる大きな問題がその前提として存在しているからだが、シャイロック自身はその重荷を担うにはあまりに卑小だった。シェイクスピアは大きな問題の存在を暗示するが、それを個人的問題に収斂させ、結局のところ「正義」によって「悪」が裁かれるという図式に乗っかって喜劇的に問題を処理してしまった。シャイロックを不当な扱いに抗議する英雄としては描かなかった。

  たとえば、キリスト教徒と駆け落ちした娘が見つからないと聞いて、シャイロックは嘆く。「ユダヤ民族は呪われていると今初めて感じた。世の中にある不運が私の肩にのしかかっている。そして世の中にあるため息がこの口から出る。世の中にある涙が目から流れる。」ここでは自分の不運をユダヤ人全体の運命と重ねていた。しかしジェノアで娘を見かけた、一晩で80ダカットも使ったそうだとユダヤ人の仲間から聞いたときは、「胸をえぐられるようだ。もう金が戻らない。80ダカット。たった一晩で。80ダカットも!」と嘆いてみせる。もはや娘のことなど心配してはいない。彼が気をもんでいるのは金だ。金貸し根性が染み付いているシャイロックには金がすべてなのである。彼に一定の言い分があることは認めつつも、最終的には強欲な守銭奴として否定される。映画も原作の枠組みは崩さない。だが、そこはシェイクスピア。ユダヤ人を退場させる前に思う存分思いのたけを吐き出させる。裁判の場面でシャイロックは皮肉を連発する。お前たちキリスト教徒のやってきたことは本当に正しいといえるのか?

   無実の身に恐れるものはない。あなた方は大勢の奴隷を買い取り、犬かラバのよ
 うに扱い、金を払ったからと卑しい仕事をさせる。彼らを自由にしては?娘の婿にど
 うだ?なぜ重労働をさせる?彼らにも柔らかいベッドを!あなた方と同じご馳走を!
 こう答えるのか?「奴隷は私のものだ。」私も答えるぞ。私が要求している1ポンドの
 肉は金を出して買ったもの。私のものだ。

  しかしポーシャの活躍で形勢逆転。シャイロックは肉どころか、自分の財産をすべて失い、さらにはキリスト教徒に改宗することを命ぜられる。この裁きは正しかったのか。改宗を迫る権利が法にあるのか。考えようによってはこの判決自体がキリスト教の横暴さを表しているとも取れる。シャイロックを無慈悲な守銭奴としてだけ見ていた時には痛快な逆転Engle2 劇に思えた。しかしシャイロックに一定の言い分があると感じ始めたとたん、この判決自体が果たして「公正な」ものだったのかという疑問が頭をよぎりはじめる。そう感じさせたとすれば、それは映画の力だ。シャイロックのせりふの背後に、彼個人を超えた大きな問題があることを常に観客に意識させることに成功したからだ。原作の枠組みがあるためにキリスト教自体を相対化し風刺するところまでは行かなかったが、映画を観終わった後まで尾を引く問題提起をしたことも事実だ。その点は評価できる。

 しかしシャイロックをリアルに描いた結果、皮肉なことに、この映画はちぐはぐなものになってしまった。シャイロックの人物像に社会的、歴史的要素を描きこめば描きこむほど、描写はリアリズムに近づいてゆく。もともと戯曲で、しかも喜劇だったものにリアリズムを持ち込むことによって、齟齬が生じてしまった。バッサーニオ(ジョセフ・ファインズ)とポーシャの喜劇的部分とシャイロックの悲劇性を帯びたリアリスティックな部分が無理やりつなぎ合わされることになってしまった。

 積年のうらみつらみをリアルに語るシャイロックの傍らに、どう見ても女にしか見えないポーシャが法服を着て明らかに女の声で語る姿がある。もともとの喜劇なら笑って済ませられよう。そもそも演劇には様々な制約がある。例えば、シェイクスピアの時代には女性が舞台に立てないので子どもが女性を演じていた。剣で人を刺す場面があっても、それが本当に刺していないと観客は分かっている(映画のようにリアルに血が飛び散ったりはしない)。それでも「刺した」とみなして観客は観ている。このような暗黙の了解が鑑賞の前提となっている。だが、舞台と映画は違う。アル・パチーノの熱演とリン・コリンズのお粗末な扮装が隣り合っていたのでは、もはや暗黙の前提の枠を超えて、リアリズムに亀裂が生じている。どうしても違和感がぬぐえない。裁判の後のポーシャとバッサーニオの指輪をめぐるこっけいなやり取りも、緊迫感のある法廷場面の後ではなんとも馬鹿げて映る。アル・パチーノとジェレミー・アイアンズの火花散る迫真の法廷場面に比べるとなんとも安手で物足りない。原作の枠を守る限りではこのギクシャクした「張り合わせ細工」は解決できない。喜劇にするかリアリズム劇に徹するか、二つに一つだ。そうでなければ一貫しない。しかしポーシャに絡む部分はとうていリアリズム劇にはなりえない。結局映画版はこの矛盾を解決できなかった。

 シャイロック像がリアルなだけに、他の部分のいい加減さがあれこれ見えてしまう。そもそもバッサーニオは散々遊び歩いて金を使い果たしただらしない男である。それがあっさりポーシャの望ましい婚約者になってしまう。理由はこれまた単純だ。彼がいい男だったからである。一目ぼれ。おいおい、いいのかそれで。確かに3つの箱から正しい箱を選ばせるという課題を彼はクリアしている。この箱選びは倫理的試金石になっている。正しい箱を選んだということは、見せかけにだまされない「正しい」判断力を持った男だということを意味する。彼が試験に合格した時点で、彼のだらしのない過去はすべてチャラにされる。実に都合のいい展開だ。そもそもバッサーニオだってポーシャの金狙いではなかったのか。シャイロックとどこが違うのか。

 金持ちは立派な人間だという単純な決め付け方はもちろんしていない。バッサーニオに先立って箱試験を受けた最初の二人の求婚者たちは、それこそ「おばか」を絵に描いたような男たちだった。ポーシャも単に裕福な家柄の娘というだけではなく、裁判ですぐれた能力を発揮したからこそ立派な娘だと太鼓判を押されている形になっている。しかし彼女が裁判で示したのは機知に富んでいるというだけだ。彼女はシャイロック裁判が提起している問題の核心をまったく理解していない。シャイロックなど野蛮人程度にしか思っていない。

 要するに映画「ヴェニスの商人」は中途半端に終わってしまった。名作「イル・ポスティーノ」(94)のマイケル・ラドフォード監督作品だけに、理不尽な差別に対する怒りで身をたぎらせるシャイロックの反抗を力強く描きだして見せた。高利貸しという蔑まれる商売でしか生きる道を持たず、不合理な差別への恨みから「憎しみの鬼」と化した男の復讐劇と破滅への転落を深い共感を込めて重厚なドラマに仕上げることに成功した。歴史を感じさせる濃厚な映像も画面に深みを与え効果的だった。しかしポーシャ、バッサーニオ、アントーニオ、グラシアーノ(クリス・マーシャル)、ポーシャの侍女ネリッサ(ヘザー・ゴールデンハーシュ)たちをめぐるおめでたいコメディは底が浅く、何とも脳天気で軽薄ですらある。財産を使い果たした遊び人バッサーニオの軽薄さ、考えてみればアントーニオはある意味で彼の犠牲者である。アントーニオが危険を冒してまでシャイロックから金を借りたのは彼とバッサーニオの間になにやら怪しげな関係があると匂わせている。いわれのない差別に怒りをほとばしらせるシャイロックに比べれば、彼らの生活の方こそよほど退廃的で享楽的である。

  バッサーニオがポーシャに近づけたのもシャイロックに借りた金があったからである。ユダヤ人の「汚れた」金でうわべを取り繕った男に一目ぼれしてしまうポーシャの浅はかさ。結局は金と色男が物を言う世界。そんなおめでたい連中の恋愛劇が批判的にではなくコメディの味付けをまぶして肯定的に描かれている。「ヴェニスの商人」が傑作にいたらなかったのはこのように不徹底だったからである。バッサーニオの友人ロレンゾー(チャーリー・コックス)と駆け落ちしたシャイロックの娘ジェシカ(ズレイカ・ロビンソン)のエピソードももう一つシャイロックのテーマと深く結びついていないため、どこか宙に浮いた印象を受ける。どうせシャイロックを主人公にするなら、タイトルも思い切って「ヴェニスのユダヤ人」にして、もっと現代的解釈を前面に押し出しても良かったのではないか。裁判はポーシャの機転でシャイロックが負けるが、シャイロックの主張に理があると見抜いたポーシャは、省みて自分の浅はかさに気づく。裁判の後彼女はだらしないバッサーニオを追い払ってしまう。最後にシャイロックを潤んだ目で眺めているのは娘のジェシカではなくポーシャである。こういう展開はいかがか。

■アル・パチーノ おすすめの10本
「ヴェニスの商人」(2004)
「インサイダー」(1999)
「リチャードを探して」(1996)
「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」(1992)
「スカーフェイス」(1983)
「ジャスティス」(1979
「ゴッドファーザーPARTII」(1974)
「狼たちの午後」(1975)
「スケアクロウ」(1973)
「ゴッドファーザー」(1972)

  初めて観たアル・パチーノ出演作は「ゴッドファーザー」である。やさしく明るい青年がマフィアの世界に巻き込まれてゆき、最後は目つきがまるで別人のように鋭くなって行くすさまじい演技に末恐ろしいほどの才能を感じた。しかしその後、恵まれた才能を持ちながら出演作にはあまり恵まれなかった。彼ほどの才能があればもっと出演作に名作があっていいはずだ。だが彼の才能を生かしきる作品との出会いはこれからなのかも知れない。「ヴェニスの商人」の頭抜けた演技力を観てそう思った。

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2006年4月26日 (水)

ゴブリンのこれがおすすめ 6

女性映画(90年代以降)
■おすすめの40本
「ラヴェンダーの咲く庭で」(2005、チャールズ・ダンス監督、イギリス)
「ヴェラ・ドレイク」(2004、マイク・リー監督、イギリス他)
「いつか読書する日」(2004、緒方明監督、日本)
「ヴェロニカ・ゲリン」(2003、ジョエル・シュマッカー監督、アイルランド他)
「カーサ・エスペランサ」(2003、ジョン・セイルズ監督、米・メキシコ)
「カレンダー・ガールズ」(2003、ナイジェル・コール監督、イギリス)
「永遠のマリア・カラス」(2002、フランコ・ゼフィレッリ監督、イタリア他)
「靴に恋して」(2002、ラモン・サラザール監督、スペイン)
「死ぬまでにしたい10のこと」(2002、イザベル・コヘット監督、スペイン)
「上海家族」(2002、ポン・シャオレン監督、中国)
「ションヤンの酒家」(2002、フォ・ジェンチイ監督、中国)
「涙女」(2002、リュウ・ビンジェン監督、中国・他)
「フリーダ」(2002、ジュリー・テイモア監督、メキシコ他)
「ベッカムに恋して」(2002、グリンダ・チャーダ監督、英独)
「アイリス」(01、リチャード・エア監督、イギリス)
「アメリ」(01、ジョン・ピエール・ジュネ監督、フランス)
「女はみんな生きている」(01、コリーヌ・セロー監督、フランス)
「子猫をお願い」(01、チョン・ジェウン監督、韓国)
「ブリジット・ジョーンズの日記」(01、シャロン・マグワイア監督、英)
「ポーリーヌ」(01、リーフェン・デブローワーカントク、ベルギー他)
「マーサの幸せレシピ」(01、サンドラ・ネットルベック監督、ドイツ)
「初恋のきた道」(00、チャン・イーモウ監督、中国)
「きれいなおかあさん」(99、スン・ジョウ監督、中国)
「ひかりのまち」(99、マイケル・ウィンターボトム監督、イギリス)
「ムッソリーニとお茶を」(99、フランコ・ゼフィレッリ監督、アメリカ)
「この森で、天使はバスを降りた」(98、リー・デビッド・ズロートフ監督、米)
「セントラル・ステーション」(98、バルサル・サレス監督、ブラジル)
「Queen Victoria 至上の愛」(リチャード・ドナー監督、イギリス)
「宋家の三姉妹」(97、メイベル・チャン監督、香港・日本)
「鳩の翼」(97、イアン・ソフトリー監督、イギリス)
「ある貴婦人の肖像」(96、ジェーン・カンピオン監督、アメリカ)
「秘密と嘘」(96、マイク・リー監督、イギリス)
「いつか晴れた日に」(95、アン・リー監督、イギリス)
「女人、四十」(95、アン・ホイ監督、香港)
「活きる」(94、チャン・イーモウ監督、中国)
「レディバード・レディバード」(94、ケン・ローチ監督、イギリス)
「風の丘を越えて」(93、イム・グォンテク監督、韓国)
「紅夢」(91、チャン・イーモウ監督、中国)
「銀馬将軍は来なかった」(91、チャン・ギルス監督、韓国)
「フライド・グリーン・トマト」(91、ジョン・アブネット監督、アメリカ)

●追加
「少女は自転車にのって」(2012、ハイファ・アル=マンスール監督、サウジアラビア、他)
「ボルベール<帰郷>」(2007、ペドロ・アルモドバル監督、スペイン)
「マルタのやさしい刺繍」(2006、ベティナ・オベルリ監督、スイス)
「やわらかい手」(2006、サム・ガルバルスキ監督、イギリス・他)
「トゥヤーの結婚」(2006、ワン・チュアンアン監督、中国)
「オフサイド・ガールズ」(2006、ジャファル・パナヒ監督、イラン)
「プラダを着た悪魔」(2006、デビッド・フランケル監督、アメリカ)
「嫌われ松子の一生」(2006、中島哲也監督、日本)
「フラガール」(2006、李相日監督、日本)
「キムチを売る女」(2005、チャン・リュル監督、韓国・中国)
「かもめ食堂」
(2005、荻上直子監督、日本)
「スタンドアップ」(2005、ニキ・カーロ監督、米)
「旅するジーンズと16歳の夏」(2005、ケン・クワピス監督、米)
「シリアの花嫁」(2004、エラン・リクリス監督、イスラエル・仏・独)
「母たちの村」(2004、ウスマン・センベーヌ監督、仏・セネガル)
「OUT」(2002、平山秀幸監督、日本)

■こちらも要チェック
「クレールの刺繍」(2004、エレオノール・フォーシェ監督、フランス)
「犬猫」(2004、井口奈己監督、日本)
「サマリア」(2004、キム・ギドク監督、韓国)
「下妻物語」(2004、中島哲也監督、日本)
「ロード88 出会い路、四国へ」(2004、中村幻児監督、日本)
「エイプリルの七面鳥」((03、ピーター・ヘッジス監督、アメリカ)
「珈琲時光」(03、ホウ・シャオシェン監督、日本)
「キャロルの初恋」(02、イマノル・ウリベ監督、スペイン)
「たまゆらの女」(02、スン・チョウ監督、中国)
「夕映えの道」(01、レネ・フェレ監督、フランス)
「チャドルと生きる」(00、ジャファル・パナヒ監督、イラン)
「エマ」(96、ダグラス・マクグラス監督、イギリス)
「森の中の淑女たち」(90、グロリア・デマーズ監督、カナダ)

 「女性映画」とは「女性の生き方を描いた映画」という程度の広い意味で使っています。若干はみ出るものは「こちらも要チェック」欄に入れました。こうやってリストを作ってみて、こんなに数があったのかと驚きました。恋愛物を除いてもこれだけある。2003年ごろからこの手の映画が増えてきたと漠然と感じていたのですが、リストにすると90年代の後半ごろからどっと増え、2000年代に入ってさらに急激に増えていることがわかります。
 もう一つ驚いたのはイギリス映画が圧倒的に多いこと。フランス映画は思ったほど多くはなく、中国映画が意外に多い。これだけイギリス映画が目立って多いのにはそれなりの理由があるはずですが、それが何か今はよく分かりません。
 ともかく、リストを作ってみると意外なことに気がつきます。映画のレビューを書けない時の埋め草に始めた企画ですが、結構やりがいがありそうです。

2006年4月25日 (火)

ゴブリンのこれがおすすめ 5

少数民族映画
■おすすめの10本
「クジラの島の少女」(03、ニキ・カーロ監督、ニュージーランド)
「裸足の1500マイル」(02、フィリップ・ノイス監督、オーストラリア)
「僕のスウィング」(02、トニー・ガトリフ監督、フランス・日本)
「氷海の伝説」(01、ザカリアス・クヌク監督、カナダ)
「少女ヘジャル」(01、ハンダン・イペクチ監督、トルコ・ギリシャ・ハンガリー)
「酔っ払った馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ監督、イラン)
「遥かなるクルディスタン」(99、イエスィム・ウスタオウル監督、トルコ他)
「キャラバン」(99、エリック・ヴァリ監督、ネパール・他)
「ガッジョ・ディーロ」(97、トニー・ガトリフ監督、フランス・ルーマニア) Tonbonohuukei3
「路」(82、ユルマズ・ギュネイ監督、トルコ)

●追加
「鉄くず拾いの物語」(2013、ダニス・タノヴィッチ監督、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・他)
「ソウルガールズ」(2012、ウェイン・ブレア監督、オーストラリア)
「セデック・バレ 第一部」(2011、ウェイ・ダーション監督、台湾)
「ジプシー・キャラバン」(06、ジャスミン・デラル監督、米)
「トランシルヴァニア」(06、トニー・ガトリフ監督、仏)
「トゥヤーの結婚」(06、ワン・チュアンアン監督、中国)
「キムチを売る女」(05、チャン・リュル監督、中国・韓国)
「亀も空を飛ぶ」(04、バフマン・ゴバディ監督、イラン・イラク)
「ココシリ」(04、ルーチューアン監督、中国)
「ククーシュカ」(02、アレクサンドル・ロゴシュキン監督、ロシア)

■こちらも要チェック
「ジプシーは空に消える」(76、エミーリ・ロチャーヌ監督、ソ連)
「極北の怪異」(22、ロバート・J・フラハティ監督、アメリカ)

■気になる未見作品
「愛より強い旅」(04、トニー・ガトリフ監督、フランス)
「ジプシーのとき」(89、エミール・クストリッツァ監督、ユーゴスラビア)
「ワンス・ウォリアーズ」(94、リー・タマホリ監督、ニュージーランド)  

  「クジラの島の少女」、「裸足の1500マイル」、「氷海の伝説」が公開された2003年は記念すべき年だった。それまでクルド人やロマ(ジプシー)を描いた映画はあったが、アボリジニ、マオリ、イヌイットを描いた映画はいずれも初めて作られた。ブータンの映画「ザ・カップ 夢のアンテナ」やウルグアイ映画「ウィスキー」など、それまで知られていなかった国からの映画も入ってくるようになった。世界の映画の水準は確実に上がっている。映画先進国との差も着実に縮まっていると言ってよいだろう。

音楽映画(90年代以降)
■これがおすすめ
「ジャージー・ボーイズ」(2014、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」(2013、ジョエル&イーサン・コーエン監督、米)
「バックコーラスの歌姫たち」(2013、モーガン・ネヴィル監督、アメリカ)
「光にふれる」(2012、チャン・ロンジー監督、台湾・香港・中国)
「ソウルガールズ」(2012、ウェイン・ブレア監督、オーストラリア)
「カンタ!ティモール」(2012、広田奈津子監督、日本)
「25年目の弦楽四重奏」(2012、ヤーロン・ジルバーマン監督、アメリカ)
「カルテット!人生のオペラハウス」(2013、ダスティン・ホフマン監督、イギリス)
「アンコール!!」(2012、ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督、イギリス)
「クレイジー・ハート」(2009、スコット・クーパー監督、米)
「パイレーツ・ロック」(2009、リチャード・カーティス監督、英・独)
「オーケストラ!」(09、ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)
「ヤング@ハート」(07、スティーヴン・ウォーカー監督、英)
「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(07、オリヴィエ・ダアン監督、英・仏・チェコ)
「ONCE ダブリンの街角で」(06、ジョン・カーニー監督、アイルランド)
「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(06、ロバート・アルトマン監督、米)
「ドリームガールズ」(06、ビル・コンドン監督、米)
「ジプシー・キャラバン」(06、ジャスミン・デラル監督、米)
「ノー・ディレクション・ホーム」(05、マーティン・スコセッシ監督、米)
「風の前奏曲」(04、イッティスーントーン・ウィチャイラック監督、タイ)
「リンダ リンダ リンダ」
(05、山下敦弘監督、日本)
「スウィング・ガールズ」
(04、矢口史靖監督、日本)
「コーラス」
(04、クリストフ・バラティエ監督、仏・独・スイス)
「Ray/レイ」(04、テイラー・ハックフォード監督、アメリカ)
「ビヨンドtheシー」(04、ケビン・スペイシー監督、米・英・独)
「この世の外へ クラブ進駐軍」
(03、阪本順治監督、日本)
「アマンドラ!希望の歌」
(02、リー・ハーシュ監督、南アフリカ、アメリカ)
「北京ヴァイオリン」(02、チェン・カイコー監督、中国)
「僕のスウィング」(02、トニー・ガトリフ監督、フランス・日本)
「SUPER8」(01、エミール・クストリッツァ監督、イタリア・ドイツ)
「歌え!フィッシャーマン」
(01、クヌート・エーリク・イエンセン監督、ノルウェー)
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(99、ヴィム・ヴェンダース監督、ドイツ他)
「海の上のピアニスト」(99、ジュゼッペ・トルナトーレ監督、米・伊)
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」(98、アナンド・タッカー監督、英)
「ベルベット・ゴールドマイン」(98、トッド・ヘインズ監督、イギリス)
「ブラス!」(96、マーク・ハーマン監督、イギリス)
「風の丘を越えて」(93、イム・グォンテク監督、韓国)
「ザ・コミットメンツ」(91、アラン・パーカー監督、イギリス)

■こちらも要チェック
「シュガーマン 奇跡に愛された男」(2012、マリク・ベンジェルール監督、英・他)
「扉をたたく人」(07、トム・マッカーシー監督、アメリカ)
「僕のピアノコンチェルト」(07、フレディ・M・ムーラー監督、スイス)
「スティル・クレイジー」(98、ブライアン・ギブソン監督、イギリス)
「青春デンデケデケデケ」(92、大林宣彦監督、日本)
「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」(89、アキ・カウリスマキ監督)

 いわゆるミュージカルやミュージシャンの伝記映画は除いた。トニー・ガトリフ監督の「僕のスウィング」と「ガッジョ・ディーロ」は「少数民族映画」と「音楽映画」の両方にまたがる。代表として「僕のスウィング」だけを入れておいた。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」は89年作品なので厳密にはここに入らないが、ジャンルとしてはぴったりなので入れておいた。

2006年4月23日 (日)

ライフ・イズ・ミラクル

3117a 2004年 フランス、セルビア・モンテネグロ
監督: エミール・クストリッツァ
脚本: エミール・クストリッツァ、ランコ・ボジッチ
撮影:ミシェル・アマチュー
音楽: エミール・クストリッツァ、デヤン・スパラヴァロ
出演:スラブコ・スティマチ、ナターシャ・ソラック
    ヴク・コスティッチ ヴェスナ・トリヴァリッチ
    アレクサンダル・ベルチェク ニコラ・コジョ
    ストリボール・クストリッツァ

  この映画を観て最初に思い浮かんだのはソ連の文芸理論家ミハイル・バフチンのカーニヴァレスクという概念である。彼の『ドストエフスキー論』(冬樹社)を読んだのはもう20年以上前だ(今は『ドストエフスキーの詩学』というタイトルで”ちくま学芸文庫”から新訳が出ている)。他にもバフチンとの関連で論じている記事を見かけたので、僕だけの印象ではないようだ。

  ここでバフチンの説明をするつもりもないしその能力もない。ただ、誰でも「ライフ・イズ・ミラクル」の中にあふれる祝祭的な要素に気づくだろう。歌あり踊りありのお祭り騒ぎ、ユーモラスな明るさ、人間と動物が入り混じってドタバタ飛び回る破天荒な展開、とにかく生命力が横溢している。砲弾や銃弾が飛び交う中で展開される「THE有頂天ホテル」とでも言おうか。爆撃による激しい振動で天井から埃や破片が落ちてきても特にあわてる様子もない。その悠揚迫らぬ泰然自若振りがいい。

  これまで観たボスニア紛争を題材にした映画には「ブコバルに手紙は届かない」(94)、「ビフォア・ザ・レイン」(94)、「ユリシーズの瞳」(96)、「パーフェクト・サークル」(97)、「ビューティフル・ピープル」(99)、「ノー・マンズ・ランド」(01)などがある。「ビューティフル・ピープル」を除いて、いずれも重苦しい映画である。題材が題材だけにそれは当然である。「ビューティフル・ピープル」だけがコメディ調であるのは舞台がイギリスだからである。この一連の映画の中に「ライフ・イズ・ミラクル」を入れてみると、それがいかに独特で破格であるか分かる。ボスニアが舞台になっているのに「ビューティフル・ピープル」以上にコミカルなのである。ひっきりなしに爆発音が聞こえるのに、全体に祝祭的なにぎやかさとおおらかな笑いがあふれている。しかしそれでいて他の深刻な映画より軽くて内容が薄いという印象を受けない。そこにクストリッツァ監督の類まれな創造性が感じられる。悲痛な現実を前にして、悲痛さを前面に出さずに、かつ現実から逃避せずに、人生の賛歌を歌い上げる。クストリッツァはこの難しい課題に挑み見事成功させた。苦渋に満ちた現実をいやというほど見せ付けられる上記の諸作と並べても少しも見劣りしない。文字通り「奇跡」のような傑作である。

  このクストリッツァ・マジックを作り上げたのは祝祭的な要素ばかりではない。この映画には色々な要素がそれこそごった煮的にぶち込まれている。ブラック・ユーモアと哄笑、皮肉や辛辣さ、あふれる隠喩や寓意(トンネル、線路、トロッコ、空飛ぶベッド、ジオラマと模型の列車、等々)、不条理さ、やや屈折しているがおおらかな性(ボクシングのグローブをはめて女の尻をたたき陶酔する男女、立木の陰から突き出たサバーハの尻、素裸で泳ぐザバーハとルカ、等々)、過剰なまでにエネルギッシュな登場人物たち、寓話性とメルヘン、そして砲弾や銃弾という形で現れる戦争という現実。そこは死と隣り合わせの世界なのだ。だがこの映画を支配しているのは恐怖や不安や絶望ではない。ここには喜怒哀楽のすべて、すなわち人生がある。かつての知り合い同士が殺し合い、主人公の息子が捕虜になるといった悲惨な現実から決して目をそむけてはいないが、しかし映画の基調をなすのはユーモアと笑いだ。ヒューマンな感覚と独特のユーモアを決して忘れない。戦争を笑い飛ばせ!庶民のしたたかなバイタリティーや人を愛する情熱が笑いに力を与え、それを武器に変えた。「コープス・ブライド」で、死者の世界(明るい音楽が鳴り響く陽気な世界)の住民たちが生者の住む地上に出てきて生者を圧倒する場面があるが、ちょうどそれと同じ様な状態だ。祝祭性とユーモアと音楽が生活への闖入者である戦争を取り囲み圧倒してしまう。

  銃弾が飛んでこようが近くで砲弾が炸裂しようが、俺たちはチェスをやりたい。吹き飛ばされないようにチェスの駒を盤に貼り付けてまでチェスにこだわる。この感覚がいい。主人公たちは爆音の中でも生活を営み、飲み食い歌い踊り愛し合う。それが人生さ。現実が過酷で悲惨であればあるほど、なおさらエネルギッシュに笑って過ごそう。「SUPER8」の”ウンザ・ウンザ”という独特のうねるリズムがここではどこかロシア音楽を思わせるジンタのようなリズムに変わり、人々の気持ちを浮き立たせ、カーニヴァル的気分を盛り立ててゆく。

  「アンダーグラウンド」(1995)は戦争と歴史を寓意的に描こうとしたが、その寓意が必ずしも成功せず、中途半端な作品になってしまった。「ライフ・イズ・ミラクル」では人生そのものを描こうとした。それがこの作品を成功させている。「パパは、出張中」(1985)に描かれた苦い現実とユーモラスな感覚、それに「SUPER8」(2001)のエネルギッシュな音楽をかぶせ、「黒猫・白猫」(1998)の独特のユーモアとシュールな感覚を盛り込み、「アンダーグラウンド」の寓意と隠喩を張りめぐらす。「ライフ・イズ・ミラクル」はそんな映画だ。過酷な現実にひるまず、笑って乗り越えようとする姿勢。「私は人生というものの奇跡を信じている」というエミール・クストリッツァ監督の言葉には、前向きな強い意志が感じられる。だから、涙を流しながら線路をまたいでいる「自殺願望」のロバを登場させても、決して悲痛ではなくユーモラスなのである。同じように絶望した主人公のルカ(スラブコ・スティマチ)が線路に寝転んで自殺しようとした時、このロバが彼を救うという奇跡を描けるのである。

  このロバの例が典型だが、クストリッツァのユーモアの仕掛けの一つは動物を使った擬人化によるソフト化効果である。人間を使うとリアルになりすぎるのを動物に置き換えることによって間接化し、かつ擬人化によってユーモアを混ぜ込む。分かりやすい例が「クロアチアからの難民熊」だ。いつの間にか人家に熊が侵入し、家のドアを空けると数頭の熊が占領している。なんとそのうちの1頭は風呂に浸かっているではないか。実にシュールでユーモラスな映像である。ふと上を見上げるとその家の主人が殺されて木の枝に引っかかっているのが目に入るが、そのときはもう悲惨さは感じない。侵入していたのが熊ではなく実際の難民であったなら、ひどく深刻な場面になる。もちろんそうならない描き方も可能だが、熊に置き換えることによってよりユーモラスで寓話的な映像にすることが可能になったのである。このように現実の過酷さを寓話化することによって和らげている。これが戦争を笑い飛ばす戦略に用いられた効果の一つである。

  笑い飛ばすばかりか、文字通りベッドまで飛ばしてしまう。ルカとサバーハ(ナターシャ・ソラック)が寝ているベッドが空を飛ぶシーンには、つらい現実を何とか抜け出したいという願望が込められている。ここではファンタジーあるいはメルヘンの手法が使われている。そしてなんといってもこの映画をファンタスティックにしているのはこのベッドに乗っていた二人、ルカとサバーハの道ならぬ恋である。サバーハは敵の捕虜になったルカの息子と引き換えるためにルカの友人が捕まえてきたのだが、ルカはサバーハを捕虜として監禁したりRisuc12 はせず、家族のようにおおらかに付き合っている。サバーハがルカの妻の服を無断で借りたときには怒鳴り散らすが、代わりに義姉の服を貸してやる。ところがこれがまたえらいセクシーな服ばかりで、サバーハが次々に着替えてルカに見せるあたりはさながらファッション・ショーである。戦火が迫る中で脳天気にファッション・ショーまがいをやっているところが妙におかしい。この感覚はクストリッツァ独得のものだ。サバーハ役のナターシャ・ソラックがまたかわいらしくて、なんとも魅力的な場面である。

  敵の捕虜、しかも自分の息子の引き換え相手に恋をしてしまう。「ブコバルに手紙は届かない」ではクロアチア人のアナとセルビア人のトーマが結婚した後で内戦が始まるという展開だった。「ライフ・イズ・ミラクル」ではセルビア人のルカとムスリム(イスラム教徒)のザバーハが戦火のさなかで恋に落ちる。ルカには既に妻も子供もいるという点は別にして、内戦前であれば特に珍しくないケースだったろう。民族と宗教が入り混じっていた旧ユーゴスラビアでは、アイルランド人とインド人移民の恋愛を描いた「やさしくキスをして」のような軋轢は少なかったと思われる。しかしこの場合はサバーハはいずれ息子と捕虜交換しなければならないという皮肉な運命が待ち受けている。ここに新たな苦悩が生まれる。息子を取り戻すためにサバーハを敵に渡せるのか。しかもサバーハはいまや敵側の人間である。この苦悩もまた戦争が生んだものだ。戦争は生命を脅かすだけではない。次々に重く超えがたい課題を人間に突きつける。息子との捕虜交換相手と恋愛関係になってしまうという設定は実話に基づくのだが、これを映画の素材として取り込むことによって映画に深みが増した。クストリッツァは祝祭性とユーモアを前面に押し出しながらも、決して戦争が生み出す悲惨な現実を軽く扱わなかった。人々は苦悩しながらもそれを笑いで乗り越えていった。クストリッツァは戦争それ自体を描きはしなかったが、第三者の立場で安全なところから無責任に報道していた外国のテレビレポーターとは根本的に違う視点から事態を観ている(この報道を観ていたルカは腹をたて窓からテレビを放り投げてしまう)。終始主人公たちと同じ視線にたち、彼らをユーモアを込めて暖かく見つめていた。

  ルカたちにしてみれば戦争はある日突然始まり、無理やり彼らの生活の中に侵入してきた。わけも分からないうちに、憎しみもないのに昨日までの同じ国民が敵味方に分かれてしまう。ルカが息子の替わりに軍に入ろうとした時、友人のアレクシチ大佐(ストリボール・クストリッツァ)に「この戦争は我々の戦争ではない」と言われる。では誰のための戦争だったのか。最初はちょっとした小競り合いだったはずだ。アメリカが無闇に介入してからかえって戦争が拡大した。ルカたち一般の人たちはわけも分からずただ翻弄されるのみ。クストリッツァも戦争の意味を深く追求はしない。映画の中でもルカに「知的に探っても何も明かされない」と言わせている。ルカたちの視点で見れば確かにその通りなのだ。彼らに出来るのはただ可能な限りいつもの生活を続けることだけだ。戦争中でも生活は続けなければならない。恋愛だって同じこと。しかしルカとサバーハの恋愛はルカの息子との捕虜交換で終わらざるを得ない。橋の上での交換の場面は印象的だ。国連軍の制止を振り切りルカはサバーハを追いかけるが、橋の向こうから息子のミロシュ(ブク・コスティッチ)がやってくる。ルカは息子を抱きしめる。サバーハにかけてやろうとしたコートを息子の肩にかける。足を負傷して担架に乗せられているサバーハはルカを呼び続ける。作品中最も切ない場面である。

  息子は帰ってきた(ついでに男と駆け落ちしていた妻も戻ってきていた)がサバーハを失ってしまった。初めて絶望感を感じたルカは上で示したように自殺をしようとするが、ロバに助けられる。その直後ルカとサバーハがそのロバに乗ってトンネルを抜ける短い場面が続き、トンネルを抜けたところでストップモーションになる。悲惨さの中に陽気さと希望を描いてきたこの映画らしいラストである。

  ルカの趣味は鉄道模型を動かすことだが、その鉄道は現在敵対している国と国を結んでいる。模型の列車は難なく国境を越えてゆく。元は一つの国だった。ジオラマの中を走る模型の列車を眺めるルカがうれしそうなのは、もちろん鉄道が好きだからである。しかし同時に、国を一つに結びつけるという、ここでしか得られない幸せを噛みしめているからなのだ、そうも思えてくる。銃で撃たれたサバーハにルカが輸血する場面があるが、ここにも民族と宗教を超えたつながりと交わりが暗示されている。

  現実を理性で捉えようとすれば踏み迷うばかりだ。この不条理に満ちた現実をどう理解できるというのか。「知的に探っても何も明かされない」理解するのではなく感じるのだ。悲惨な現実の中にある明るい面を。つらくても生きていれば人生を楽しめる。「ライフ・イズ・ミラクル」というタイトル(正確なタイトルは「ライフ・イズ・ア・ミラクル」である)に込められた意味は、悲惨な人生の中に奇跡が起こるという意味ではないだろう。人生そのものが奇跡なのだ。

エミール・クストリッツァ マイ・ランク
1 ライフ・イズ・ミラクル(2004)
2 黒猫・白猫(1998)
3 パパは、出張中(1985)
4 SUPER8(2001)
5 アンダーグラウンド(1995)

未見
アリゾナ・ドリーム(1992)
ジプシーのとき(1989)

2006年4月21日 (金)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年4月下旬~5月)

  連休前とあって4月の下旬に新作映画の封切りやDVDの発売が集中しています。そこで今回は4月下旬を含めてご案内します。
 「DVDを出して欲しい映画」として挙げていた「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」がついに発売。デヴィッド・リーン監督の「ライアンの娘」も初DVD化。以前出たボックスに入っていたイオセリアーニの2作もバラで発売に。
 「タンゴ・ピアソラ×ソラナスDVD-BOX」は佳作「タンゴ ガルデルの亡命」、「スールその先は・・・愛」に加えて、なんとあのシュールな傑作「ラテン・アメリカ 光と影の詩」を収録!ビデオは持っているけどDVDでも欲しい。フェルナンド・E・ソラナス監督の代表作が3本入ったボックス、これは買いです。

【新作映画】
4月29日
 「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
 「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督、オーストリア他)
 「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督、英米仏日)
 「戦場のアリア」(クリスチャン・カリオン監督、仏独他)
 「太陽に恋して」(ファティ・アキン監督、独)
 「ファーザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
 「プラハ!」(フィリプ・レンチ監督、チェコ)
 「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ監督、米仏)
 「僕の大事なコレクション」(リーヴ・シュライバー監督、アメリカ)
5月中旬
 「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス監督、英独)
5月13日
 「ダック・シーズン」(フェルナンド・エインビッケ監督、メキシコ)
 「玲玲(リンリン)の電影日記」(シャオ・チアン監督、中国)
 「明日の記憶」(堤幸彦監督、日本)
5月20日 Big_0064
 「ひだるか」(港健二郎監督、日本)
 「雪に願うこと」(根岸吉太郎監督、日本)
 「ジャケット」(ジョン・メイブリー監督、米独)
 「ガーダ・パレスチナの詩」(古居みずえ監督、日本)
5月27日
 「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督、日本)

【新作DVD】
4月28日
 「女は男の未来だ」(ホン・サンス監督、仏・韓国)
5月12日
 「大停電の夜に」(源孝志監督)
 「ランド・オブ・プレンティ」(ヴィム・ヴェンダース監督、米独)
5月26日
 「空中庭園」(豊田利晃監督)
5月27日
 「バフマン・ゴバディ DVD-BOX」(バフマン・ゴバディ監督、イラン)

【旧作DVD】
4月22日
 「歌うつぐみがおりました」(オタール・イオセリアーニ監督、ソ連)
 「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」(ハル・アシュビー監督、アメリカ)
 「四月」(オタール・イオセリアーニ監督、ソ連)
 「タンゴ・ピアソラ×ソラナスDVD-BOX」
 「扉の影の秘密」(フリッツ・ラング監督、アメリカ)
 「ルイス・ブニュエル DVD-BOX ①」(ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)
4月25日
 「田舎司祭の日記」(ロベール・ブレッソン監督、フランス)
 「霧の波止場」(マルセル・カルネ監督、フランス)
4月26日
 「デルス・ウザーラ」(黒澤明監督、ソ連・日本)
4月28日
 「ふくろうの河」(ロベール・アンリコ監督、フランス)
5月3日
 「怒りのキューバ」(ミハイル・カラトーゾフ監督、ソ連・キューバ)
5月12日
 「イグアナの夜」(ジョン・ヒューストン監督、アメリカ)
 「渇いた太陽」(リチャード・ブルックス監督、アメリカ)
 「ライアンの娘」(デヴィッド・リーン監督、アメリカ)
 「わが町」(川島雄三監督)

2006年4月19日 (水)

ゴブリンのこれがおすすめ 4

シェイクスピアの映画化作品
■おすすめの10本
「恋に落ちたシェイクスピア」(1998) ジョン・マッデン監督
「プロスペローの本」(1991) ピーター・グリーナウェイ監督 『テンペスト』
「ヘンリー5世」(1989) ケネス・ブラナー監督 『ヘンリー五世』
「テンペスト」(1979) デレク・ジャーマン監督 『テンペスト』
「マクベス」(1971) ロマン・ポランスキー監督 『マクベス』
「リア王」(1971) グリゴーリ・コージンツェフ監督 『リア王』
「オーソン・ウェルズのオセロ」(1966) オーソン・ウェルズ監督 『オセロ』
「フォルスタッフ」(1966) オーソン・ウェルズ監督 『ヘンリー4世』他
「ハムレット」(1964)  グリゴーリ・コージンツェフ監督 『ハムレット』
「真夏の夜の夢」(1959) イジィ・トルンカ監督 『真夏の夜の夢』

■こちらも要チェック
「ヴェニスの商人」(2004) マイケル・ラドフォード監督 『ヴェニスの商人』
「リチャードを探して」(1996)  アル・パチーノ監督 『リチャード三世』
「蜘蛛巣城」(1957) 黒澤明監督 『マクベス』

 あまり知られていないが、ソ連はシェイクスピア研究が盛んなことで有名だった。グリゴーリ・コージンツェフ監督の「ハムレット」と「リア王」は紛れもない傑作である。特に「ハムレット」の現代的解釈は見事で、これを観た後ではローレンス・オリビエ版は古色蒼然としてとても観られたものではなかった。何度も紹介しているイジィ・トルンカ監督の「真夏の夜の夢」はせりふなしの人形アニメ版。20年ほど前に観た時には驚嘆したものだ。オーソン・ウェルズ監督の2作もユニークだ。彼の巨躯はフォルスタッフを演じるのにぴったりだった。

ベトナム戦争映画
■おすすめの10本
「ホワイト・バッジ」(1992) 韓国 チョン・ジヨン監督
「カジュアリティーズ」(1989) ブライアン・デ・パルマ監督
「7月4日に生まれて」(1989) オリヴァー・ストーン監督
「ディア・アメリカ 戦場からの手紙」(1988) ビル・コーチュリー監督
「フルメタル・ジャケット」(1987) スタンリー・キューブリック監督
「グッドモーニング・ベトナム」(1987) バリー・レヴィンソン監督
「プラトーン」(1986) オリヴァー・ストーン監督 Tuki_gura_250_04
「無人の野」(1980) グェン・ホン・セン監督 ベトナム 
「地獄の黙示録」(1979) フランシス・フォード・コッポラ監督
「帰郷」(1978) ハル・アシュビー監督

■こちらも要チェック
「ジャックナイフ」(1989) デヴィッド・ジョーンズ監督
「天と地と」(1993)  オリヴァー・ストーン監督

 韓国映画「ホワイト・バッジ」と「帰郷」はベトナム戦争後遺症もの。「無人の野」はベトナム戦争をベトナム側から描いた秀作。この歴史的戦争を冷静に見られるまでには一定の時間がかかったのだろう。80年代に力作が集中している。

朝鮮戦争映画
■おすすめの5本
「ブラザーフッド」(2004) カン・ジェギュ監督
「シルバースタリオン 銀馬将軍は来なかった」(1991) チャン・ギルス監督
「長雨」(1979) ユ・ヒョンモク監督
「M★A★S★H」(1970) ロバート・アルトマン監督
「帰らざる海兵」(1963) イ・マニ監督

■追加
「高地戦」(2011) チャン・フン監督、韓国

 この5本の中では「シルバースタリオン 銀馬将軍は来なかった」と「長雨」がダントツの傑作。なんとしてもこの2本は観て欲しい。どちらも戦場ではなく銃後をえがいている。戦闘場面という見せ場がなくてもこれだけの人間ドラマが描ける。韓国映画の力量の高さをこの2本から知ることが出来る。「シュリ」以降の傑作群が決して何もないところから生まれたのではないことが理解できるだろう。「帰らざる海兵」は最前線を描いているが、雲霞のごとく現れる中共軍とのすさまじい戦闘シーンは「ブラザーフッド」に引けを取らない。
 ちなみに、「長雨」、「帰らざる海兵」、「森浦(サンポ)への道」、「朴さん」、「誤発弾」、「ハンネの昇天」、「荷馬車」、「ノダジ」など60、70年代の作品8本が2000年末にビデオになっている(「韓国映画の流れ」参照)。ぜひ探し出してご覧になることをおすすめする(「ノダジ」だけは今ひとつ)。特に「森浦への道」はロード・ムービーの傑作。必見です。

2006年4月18日 (火)

ゴブリンのこれがおすすめ 3

北欧映画
■おすすめの10本
キッチン・ストーリー(2003) ベント・ハーメル監督 ノ ルウェー
過去のない男(2002) アキ・カウリスマキ監督 フィンランド
歌え!フィッシャーマン(2001) クヌート・エーリク・イエンセン監督 ノルウェー
幸せになるためのイタリア語講座(2000) ロネ・シェルフィグ監督 デンマーク
マイ・リトル・ガーデン(1997) ソーレン・クラウ・ヤコブセン監督 デンマーク
愛と精霊の家(1993) ビレ・アウグスト監督 デンマーク
ロッタちゃん はじめてのおつかい(1993) ヨハンナ・ハルド監督 スウェーデン
バベットの晩餐会(1987) ガブリエル・アクセル監督 デンマーク
ペレ(1987) ビレ・アウグスト監督 デンマーク
マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ(1985) ラッセ・ハルストレム監督 スウェーデン

■追加
ル・アーヴルの靴みがき(2011) アキ・カウリスマキ監督、フィンランド・仏・独
ミレニアム2(2009) ダニエル・アルフレッドソン監督、スウェーデン・他
ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女(2009) ニールス・アルデン・オプレヴ監督、スウェーデン・他)
春にして君を想う(1991) フレドリック・フリドリクソン監督 アイスランド・他

■こちらも要チェック
かもめ食堂(2005) 群ようこ監督 日本
ククーシュカ ラップランドの妖精(2002) アレクサンドル・ロゴシュキン監督 ロシア
ヘイフラワーとキルトシュー(2002) カイサ・ラスティモ監督 フィンランド

■気になる未見作品
精霊の島(1996) フリドリック・トール・フリドリクソン監督 アイスランド

 北欧(アイスランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド)映画といえば誰でもイングマル・ベルイマンを思い出す。あまりに巨大な存在なのでここではあえてはずしてある。こうやって並べてみると、いかにも北欧らしいゆったりとしたリズムと独特のタッチを持った作品が多いことに改めて気づかされる。もっと北欧の映画に出会いたいと思う。まだまだ知られざる傑作があるに違いない。

東欧映画
■おすすめの30本
ライフ・イズ・ミラクル(2004) エミール・クストリッツァ監督 セルビア・モンテネグロ
戦場のピアニスト(2002) ロマン・ポランスキー監督 ポーランド
ノー・マンズ・ランド(2001) ダニス・タノヴィッチ監督 スロヴェニア、他
この素晴らしき世界(2000) ヤン・フジェベイク監督 チェコ
太陽の雫(1999) イシュトヴァン・サボー監督 ハンガリー
黒猫・白猫(1998) エミール・クストリッツァ監督 ユーゴスラビア
パーフェクト・サークル(1998) アデミル・ケノビッチ監督 ボスニア
ガッジョ・ディーロ(1997) トニー・ガトリフ監督 ルーマニア・フランス
コーリャ愛のプラハ(1996) ヤン・スビエラーク監督 チェコ
アンダーグラウンド(1995) エミール・クストリッツァ監督 ハンガリー
ビフォア・ザ・レイン(1994) ミルチョ・マンチェフスキー監督 マケドニア
ブコバルに手紙は届かない(1994) ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督 ユーゴスラビア
コルチャック先生(1991) アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド
デカローグ(1988) クシシュトフ・キェシロフスキ監督 ポーランド
略奪の大地(1988) リュドミル・スタイコフ監督 ブルガリア
スイート・スイート・ビレッジ(1985) イジー・メンツェル監督 チェコ
パパは出張中!(1985) エミール・クストリッツァ監督 ユーゴスラビア
鉄の男(1981) アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド
メフィスト(1981) イシュトヴァン・サボー監督 ハンガリー
歌っているのはだれ?(1980) スロボダン・シャン監督 ユーゴスラビア
ハンガリアン狂詩曲(1978) ヤンチョー・ミクローシュ監督 ハンガリー
大理石の男(1977) アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド
ハンガリアン(1977) ゾルタン・ファーブリ監督 ハンガリー
パサジェルカ(1964) アンジェイ・ムンク監督 ポーランド Relief
水の中のナイフ(1962)  ロマン・ポランスキー監督 ポーランド
尼僧ヨアンナ(1961) イエジー・カワレロウィッチ監督 ポーランド
夜行列車(1959)  イエジー・カワレロウィッチ監督 ポーランド
灰とダイヤモンド(1958) アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド
影(1956) イエジー・カワレロウィッチ監督 ポーランド
地下水道(1956) アンジェイ・ワイダ監督 ポーランド

■こちらも要チェック
ふたりのベロニカ(1991) クシシュトフ・キェシロフスキ監督 ポーランド
春の驟雨(1932) パウル・フェイェシュ監督 ハンガリー

■追加
ソハの地下水道」2011) アグニェシュカ・ホランド監督、独・ポーランド
カティンの森(2007) アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド

 東欧映画となると一転して暗く、重く、深刻なテーマの作品が並ぶ。また特にボスニア紛争以降は気がめいるような作品が圧倒的に多い。いかにこの地域が苦悩に満ちたつらい歴史を経てきたかがこのリストを観れば分かる。「この素晴らしき世界」のラストに込められた、祈るような平和への希望。赤ん坊を抱いて空を見上げる主人公の姿が目に焼きついて離れない。この地域全体に平和が訪れることを祈らずにはいられない。

2006年4月17日 (月)

蝉しぐれ

Komachi1 2005年:日本
監督:黒土三男
脚本:黒土三男
原作:藤沢周平『蝉しぐれ』
撮影:戸澤潤一
音楽:岩代太郎
イメージソング:「かざぐるま」一青窈
出演:市川染五郎、木村佳乃、今田耕司、ふかわりょう
    原田美枝子、緒形拳、石田卓也 、佐津川愛美
    久野雅弘、岩渕幸弘、小倉久寛、根本りつ子
    渡辺えり子、原沙知絵、 大地康雄、緒形幹太
    田村亮、三谷昇、柄本明、加藤武、大滝秀治

  「たそがれ清兵衛」、「隠し剣 鬼の爪」に続く藤沢周平の映画化。たいした評判ではなかったのでそれほど期待はしていなかったが、結果はその低い期待をさらに下回ってしまった。すぐれた原作を元にしながらこの程度の映画にしかならなかったのにはいくつか原因が考えられる。一つは脚本の貧しさ。もともと長編小説を高々2時間程度の映画で忠実に再現することは望むべくもない。そぎ落とさざるを得ない要素が多すぎる。それでも元の小説の「映画化作品」として作られた以上、少なくとも原作のエッセンスを伝え得ていなければならない。しかし前半の少年時代に時間をかけすぎて、後半の展開が十分描ききれていない。伏線もなく、複雑な事情はばっさり切り落とされている。

  原作は主人公の成長が描かれた長編小説だが、映画では単に少年役と青年役が代わっただけ。主人公たちの心の葛藤が十分描かれていない。陰謀渦巻く藩の裏事情もあっさりと処理されてしまう。残るのは文四郎とふくの悲恋だけ。二人の再会は分かれてから長い時間が経過しているからこそその思いの深さに胸を打たれるのだが、映画ではわずか数年後という設定になっている。何のことはない、美男美女を撮りたかったから中年ではなく若いうちに再開を果たす設定にしたのだ、そう勘ぐりたくなる。

  配役にも疑問が残る。文四郎の子ども時代を演じた石田卓也はせりふも心もとないまさに素人芝居。観ていて終始不安を感じた。それに比べるとふくの少女時代を演じた佐津川愛美はいい。特にアップで撮ったときの憂いを含んだ表情が素晴らしい。だが、ちょっと離れて撮ると色黒の田舎娘にしか見えない。そういう設定ではあるのだが、もっと撮り方に工夫が欲しかった。成長した文四郎役の市川染五郎は、美形だけあってさすがに見栄えがする。剣技も悪くない。ただ少年時代とまったく顔が変わってしまうのはご愛嬌か。大人のふくを演じたのは木村佳乃。あまりに洗練されすぎていて、こちらもあの田舎娘っぽかった少女時代と隔たりが大きすぎる。何より不満なのは、自分の意思ではなく君主の命令で無理やり側室にさせられたふくの憂い、幸せそうな表情の裏に隠された陰りが彼女の顔からはまったくにじみ出てこないことだ。ただ彼女を美しく洗練された姫様のように映そうとしている。こういうテレビドラマのような安っぽい描き方がこの映画から奥行きを奪っている。長い間離れ離れに暮らす運命にありながらも互いに最初の頃に抱いた思いをなくさずにいたからこそ、最後の別れがなおいっそう切なく胸に染み入るのである。「これで、思い残すことはありません」という言葉に込められた万感胸に迫る思いが映画では伝わってこない。原作にあるそのせりふすらカットされている。映画はただ単に綺麗に描いただけにとどまっている。

  文四郎の両親を演じた原田美枝子と緒形拳はさすがにうまいが、彼らの演技力と存在感を十分生かしているとはいえない。それでも緒形拳が切腹前に文四郎と会う場面は素晴らしい出来だ。広い空間の中で向き合うふたり。感情を抑えて穏やかに話すふたりを囲む空気に緊張感が満ちている。しかし川が氾濫したときの描き方はがっかり。あの場面にはまず緊張感がない。川の水が堤防のふちすれすれまで増水している場面が出てこない。ただ濁流を映すだけだ。緒形拳が堤防を切る場所を変えて欲しいと訴え出る場面は前半のハイライトの一つだ。原作の場合そこで緒形拳は暴風と雨に負けない大音声で訴えることになっている。しかし遠景で撮っているので声がよく聞こえない。相手を圧倒する迫力が伝わってこない。また、堤防を決壊させて川の水が堤防の裂け目から流れ出る場面は映されなかった。なんとも拍子抜けである。金がないのでこれで我慢してくれという感じで情けない。ここは文四郎が父の人間性に打たれ、父を尊敬する気持ちになる重要な場面のはずだ。それがさらっと流されている。

  一番キャスティングで疑問に思ったのは成長した文四郎の友人小和田逸平と島崎与之助の配役。なんと今田耕司とふかわりょうが起用されている。驚きを通り越してあきれてしまった。おふざけ演技はしていないが、このふたりでは原作とイメージがかけ離れすぎているし、あまりにも重みに欠ける。特に今田耕司ではとても藩きっての秀才には見えない。大地康雄と大滝秀治も登場するがちょい役で本領を発揮する機会すらなかった。別に彼らでなくてもよかったという感じだ。原沙知絵にいたっては前半に思わせぶりに出てくるが、彼女にまつわる筋が丸ごとカットされているのでそれっきりになってしまう。ひとり抜群の存在感を示していたのは柄本明のみ。登場場面はそれほど多くはないが、飄々とした持ち味を存分に発揮していた。

  伏線、脇筋、エピソード、そして何よりお家騒動の詳しい事情を大幅にカットしているのYorugaoで、ドラマがすっかりやせてしまった。それを補うかのように日本の美しい風景を映した映像がふんだんに挿入される。だが肝心のドラマが貧弱ではどんなに映像が綺麗でも焼け石に水である。「春の雪」もそうだったが、この手の日本映画(絵ばかり美しくてドラマが貧 弱)は結構昔から多い。山田洋次作品とは違って山形弁を使わせなかったのも、リアリティよりも見かけを重視した結果だろう。市川染五郎や木村佳乃が「~でがんす」と話したのでは様にならない、そう考えたのではないか。そう考えると宮沢りえは立派だった。観光ビデオじゃないぞ。もっとしっかり作って欲しい。

  要するに、トレンディドラマがはやっていた頃の日本映画と同じような低い志で作られた映画なのである。映像ばかりがいたずらに美しいだけ。美男美女、あるいはテレビの人気者を配して客を集めればいいという情けないつくり。ふかわりょうや今田耕司の起用にそれが典型的に表れている。製作会社やプロデューサーの意向もあったのかもしれないが、基本的には監督そして脚本家としての黒土三男の力量不足である。原作にあった深い人間観察がほとんど削られてしまった。原作の持ち味をほとんどそぎ落として受け狙いの「泣ける」悲恋映画にしてしまった。

  藤沢周平の有名な長編小説を元にしながらこの程度の完成度では、正直もったいないという気持ちだ。せめて監督を山田洋次か、そうでなくても彼クラスの人(ほとんどいないが)に任せるべきだった。監督と共同で脚本をもっと練るべきだった。残念でならない。

  かといってまったく心に何も残らないというわけではない。そこは藤沢周平の原作だ、いい場面もいくつかある。市川染五郎は存在感があるので、彼が出てくると画面が引き締まる(逆に言うと彼の魅力に頼った映画だということになるが)。最も印象的なのは文四郎が父助左衛門の遺骸を大八車に乗せて引いてゆく場面だ。父は謀反人とされているので周りから冷ややかな目で見られ、ひしゃくで水をかけられたりもする。上り坂に差し掛かっててこずっているときに坂の向こうからふくが現れる。最初はかすんでよく分からないが近づいてくるうちにふくだと分かる。ふくは助左衛門の遺骸に手を合わせ、二人で力を合わせて大八車を押して坂を上ってゆく。ふくは無言だが、悲しみと無念さがこもった彼女の表情が実に雄弁だった。この場面は演出も含めて実に見事だった。シエ・チン監督作品「天雲山物語」の名場面、ソンウェイが病気のルオチンを荷車に載せて雪山を越えてゆくシーンには及ばないが、優れた場面だった。

  ただ謀反人の子としての汚名を着せられた文四郎が経験する屈辱とそれを耐えて母を助けながら生きてゆく姿が十分描かれない。それがまた残念だ。「たそがれ清兵衛」や「隠し剣 鬼の爪」同様、「蝉しぐれ」の主人公は下級武士である。身分は低いが卑屈にならず、また出世欲に駆られもせず、ひたすら慎ましく誠実に生きようとする。しかし前2作では、主人公は心ならずも藩命で人を斬らざるを得なくなる。その人間的な葛藤にしっかりと焦点が当てられていた。「たそがれ清兵衛」では倒される側の人間性までしっかりと描きこんでいた。その悲痛で過酷な運命にわれわれは共感するのである。決闘シーンも見事だが、ドラマの核心に深い人間的な葛藤が描かれているからこそすぐれた作品になった。繰り返すが「蝉しぐれ」ではその人間ドラマが貧弱なのだ。

  「文四郎さんの子供が私の子供で、私の子供が文四郎さんの子供であるという道はなかったのでしょうか。」ラストでふくが語るこのせりふは印象的だが、そこにいたる長い年月とその間互いに秘めていた思いが十分描かれていないので感動が薄い。あの幸せそうで明るい木村佳乃の表情からは、君主の子を身ごもりながらも自分が本当に生きたかった人生を生きられなかった無念さや悲しみはうかがえない。若い頃の文四郎とふくを描くのに映画の半分を費やしたのは長すぎるが、若い頃の二人をしっかりと描くこと自体は重要である。淡い恋心を互いに感じていた時期があったからこそ、最後の二人の再会と別れが観る者の胸を打つのである。もっと焦点を絞って前半を縮め、文四郎が大人になってからのストーリーを十分展開させるべきだった。2時間半くらいの長さにすればお家騒動や陰謀ももっと描きこめただろう。

  時代劇に欠かせない殺陣の場面は悪くはない。まるで「七人の侍」の菊千代のように抜き身の刀を畳に刺して、人を斬っては別の刀に持ち替えるという演出は視覚的に見ごたえがある。ただ、いかに腕が立つとはいえ、二人であれだけ人数を相手にして無事生き残るというのはリアリティに欠ける。まるで昔のチャンバラ劇だ。不思議な剣を使う犬飼兵馬との決闘シーンも盛り上がりにかける。犬飼兵馬に人間的なふくらみが持たされていないので、へんてこりんな剣を使う奴という以上には描けていない。

  黒土三男監督はテレビドラマ「蝉しぐれ」の脚本も手がけている(こちらは観ていない)。彼は「映画では、テレビで描けなかった日本人の気高さを描きたかった」と語っている。主役に市川染五郎と木村佳乃を抜擢したのもそのコンセプトに基づいているとのこと。彼は「日本人の気高さ」をどう捉えていたのだろうか?裏切り者の息子という汚名に耐え、父の教えを守り慎ましくかつ潔く生きようとする文四郎、運命の無情さに翻弄され出家しようとまで思いつめながらも、どうしても文四郎への思いを断ち切れず最後に身を任せるふく、ふたりを隔てていた長い年月とそれでも決して消え去らなかった互いの思い、試練に耐えたふたりだからこそラストの逢瀬には深い感動が伴う。はずだった。残念ながら期待したほど深い感動ではなかった。決してお涙頂戴という描き方ではないが(ふくと語り合う文四郎の体が障子の影に半分隠れているという描き方は、二人の身分差という距離を示していてうまいと思った)、ふたりが経た試練が十分描かれていないために感動が深まらない。

  川に浮かぶ小船が長々と映し出されるラストシーンは美しい。確かに美しい映画だ。キャメラは確かに日本の美しさを捕えていた。その美しさは自然の美しさだ。清流の清らかさや緑の中でひときわ目に生える桜のピンク。しかし一番美しいのは手付かずの美しさではない。点々と人の姿が映る田んぼの緑が桜以上に美しい。そこには人間の営みがある。自然に寄り添い、自然を加工し、自然の中で物を育ててきた人々。日本の美とは何かを考えさせられた。

  しかしただ美しいとだけ言ってはいられない。清流には蛇が潜んでいる。蛇に指を噛まれたふく。その指に口を当てて血を吸い出した文四郎。その行為によってふたりは結び付けられたが、ともに過酷な運命に翻弄されることにもなる。人間社会の中に潜む蛇はもっと陰険だ。陰謀渦巻くお家騒動。「たそがれ清兵衛」、「隠し剣 鬼の爪」、「蝉しぐれ」、いずれも下級武士たちが陰謀に巻き込まれ苦悩する。ワンパターンではあるが、そこに描かれた苦悩や葛藤はそれぞれ丁寧に描き分けられている。そこに藤沢周平の筆力を感じる。その苦悩や葛藤を十分深く描けなかったこと、「蝉しぐれ」が「たそがれ清兵衛」や「隠し剣 鬼の爪」に遠く及ばなかった理由はそこにある。

2006年4月16日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 2

Sagi ニキータ・ミハルコフ監督(1945-  ) 
■おすすめの10本
 12人の怒れる男(2007)
 シベリアの理髪師(1999)
 太陽に灼かれて(1994)
 ウルガ(1991)
 黒い瞳(1987)
 持参金のない娘(1984)
 五つの夜に(1979)
 オブローモフの生涯より(1979)
 機械じかけのピアノのための未完成の戯曲(1976)
 光と影のバラード(1974)

■こちらも要チェック
 ヴァーリャ! 愛の素顔(1983)
 ふたりの駅(1982) 出演
 愛の奴隷(1976)
 貴族の巣(1970) 出演

 最初は俳優をやっていたがやがて監督になる。俳優時代に出演した「貴族の巣」の監督は実の兄であるアンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー。もう30年以上も前に観たのでどんな容姿だったか覚えていない。82年のエリダール・リャザーノフ監督「ふたりの駅」に出演したときにはかなりのマッチョだった。
 「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」を初めて観たときは、その新鮮な映像感覚に驚嘆したものだ。もう60歳だが「太陽に灼かれて」や「シベリアの理髪師」の充実ぶりを見ればまだまだ第一線でやれそうだ。
  チェーホフやオストロフスキー、ゴンチャロフなどのロシア文学を題材にするのが得意。兄も「貴族の巣」のほかに「ワーニャ伯父さん」を映画化している。父が作家で母が詩人という血を引いているのだろう。

70年代から90年代のソ連・ロシア映画おすすめの25本
 湖畔にて(1970) セルゲイ・ゲラーシモフ監督
 罪と罰(1970) レフ・クリジャーノフ監督
 リア王(1970)  グリゴーリー・コージンツェフ監督
 がんばれかめさん(1971) ロラン・ブイコフ監督
 帰郷(1971) ウラジミール・ナウモフ、アレクサンドル・アロフ監督
 道中の点検(1971) アレクセイ・ゲルマン監督
 遠い日の白ロシア駅(1971) アンドレイ・スミルノフ監督
 ワーニャ伯父さん(1971) アンドレイ・ミハルコフ・コンチャロフスキー監督
 エゴール・ブルイチョフ(1972) セルゲイ・ソロヴィヨフ監督
 惑星ソラリス(1972) アンドレイ・タルコフスキー監督
 ルカじいさんと苗木(1973) レゾ・チヘイーゼ監督
 思い出の夏休み(1975) セルゲイ・ソロヴィヨフ監督
 機械じかけのピアノのための未完成の戯曲(1977) ニキータ・ミハルコフ監督
 モスクワは涙を信じない(1980) ウラジーミル・メニショフ監督
 ジャズメン(1983) カレン・シャフナザーロフ監督
 ノスタルジア(1983)  アンドレイ・タルコフスキー監督
 ふたりの駅(1983) エリダル・リャザーノフ監督
 持参金のない娘(1984) エリダル・リャザーノフ監督
 炎628(1985) エレム・グリモフ監督
 死者からの手紙(1986) コンスタンチン・ロプシャンスキー監督
 翌日戦争が始まった(1987) ユーリー・カラ監督
 メッセンジャー・ボーイ(1988) カレン・シャフナザーロフ監督 Mado_hito_01
 タクシー・ブルース(1990) パーベル・ルンギン監督
 太陽に灼かれて(1994)  ニキータ・ミハルコフ監督
 シベリアの理髪師(1999) ニキータ・ミハルコフ監督

■こちらも要チェック
 枯葉(1966) オタール・イオセリアーニ監督 グルジア
 ピロスマニ(1969) ゲオルギー・シェンゲラーヤ グルジア
 ジプシーは空に消える(1976) エミーリ・ロチャヌー監督
 サクリファイス(1986)  アンドレイ・タルコフスキー監督 スウェーデン・フランス
 ロビンソナーダ(1986) ナナ・ジョルジャーゼ監督 グルジア
 コシュ・バ・コシュ(1993) バフティヤル・フドイナザーロフ監督 タジキスタン
 コーカサスの虜(1996) セルゲイ・ボドロフ監督 カザフスタン

2006年4月15日 (土)

ゴブリンのこれがおすすめ 1

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督(1896-1967) Cutwindow2
■おすすめの10本
 巴里の空の下セーヌは流れる(1951)
 旅路の果て(1939)
 舞踏会の手帳(1937)
 望郷(1937)
 我等の仲間(1936)
 地の果てを行く(1935)
 商船テナシチー(1934)
 白き処女地(1934)
 モンパルナスの夜(1933)
 にんじん(1932)

■こちらも要チェック
 陽気なドン・カミロ(1951)
 ドン・カミロ頑張る(1953)

■気になる未見作品
 埋れた青春(1953)

  ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジャン・ルノアールらと共にフランス映画「黄金の30年代」を作り上げたフランス映画の名匠。

1930年代フランス映画おすすめの20本
 詩人の血(1930) ジャン・コクトー監督
 巴里の屋根の下(1930)  ルネ・クレール監督
 自由を我等に(1931) ルネ・クレール監督
 外人部隊(1933) ジャック・フェデー監督
 巴里祭(1933) ルネ・クレール監督
 モンパルナスの夜(1933) ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 最後の億万長者(1934)  ルネ・クレール監督
 にんじん(1934)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 ミモザ館(1934)  ジャック・フェデー監督 066429
 女だけの都(1935)  ジャック・フェデー監督
 地の果てを行く(1935)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 どん底(1936)  ジャン・ルノワール監督
 望郷(1936)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 我等の仲間(1936)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 大いなる幻影(1937) ジャン・ルノワール監督
 舞踏会の手帳(1937)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督
 霧の波止場(1938)  マルセル・カルネ監督
 格子なき牢獄(1938) レオニード・モギー監督
 ゲームの規則(1939) ジャン・ルノワール監督
 旅路の果て(1939)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督

■こちらも要チェック
 ル・ミリオン(1931) ルネ・クレール監督
 新学期・操行ゼロ(1933) ジャン・ヴィゴ監督
 アタラント号(1934) ジャン・ヴィゴ監督
 獣人(1938)  ジャン・ルノワール監督
 北ホテル(1938)  マルセル・カルネ監督

■気になる未見作品
 ジャン・グレミヨン監督作品
 幽霊西へ行く(1935)  ルネ・クレール監督

  30年代に花開いたフランス映画の伝統は40年代、50年代のマルセル・カルネ、ジャン・ドラノワ、ルネ・クレマン、ジャック・ベッケル、ジャン・コクトー、クロード・オータン・ララ、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー、イーヴ・アレグレ、ジャック・タチ等へと続き、ヌーヴェル・ヴァーグで乱暴に断ち切られる。その後の70年代、80年代はどん底。90年代に入ってようやく復活の兆しが現れる。

2006年4月11日 (火)

やさしくキスをして

Sdfai209 2004年 イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン
監督;ケン・ローチ
原題:Ae Fond Kiss
脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:バリー・エイクロイド
音楽:ジョージ・フェントン
美術:マーテイン・ジョンソン
プロデューサー:レベッカ・オブライエン
出演:エヴァ・バーシッスル、アッタ・ヤクブ、アーマツド・リアス
    シャムシャド・アクタール 、シャバナ・バクーシ
    ギザラ・エイヴァン、ゲイリー・ルイス、デヴィッド・マッケイ
    シャイ・ラムザン、ジェラルド・ケリー、ジョン・ユール
    スンナ・ミルザ 、パーシヤ・ボカリー

  2005年1月9日に書いた「2003年以降の世界の映画」という文章で、「現在はアメリカ、中国、韓国が横綱クラス、イランとイギリスそしてフランスが大関クラス」とランク付けをした。同じ文章の中で、イギリスはここ数年低迷気味だったが、2004年に久々の快作「カレンダー・ガールズ」が登場、「この勢いで早く角番を脱してほしい」と書いた。つまりイギリスを角番大関だと見ていたわけだ。しかし、2005年公開のイギリス映画の充実振りを見れば、イギリスは角番を脱して今や堂々たる正大関に復帰したことが分かる。今はむしろ中国映画やイラン映画の公開数が減っていることが気になる。今年の2月7日に書いた「2005年公開外国映画の概況」でもイギリス映画の活躍に言及している。そのときはまだ「Dearフランキー」と「運命を分けたザイル」しか観ていなかったが、その後「ラヴェンダーの咲く庭で」、「ヴェラ・ドレイク」、「オリバー・ツイスト」(06年公開)、「やさしくキスをして」と観てきた。いずれも4星、5星クラスの秀作ぞろい。イギリス映画がまた上向きになってきたことはもはや疑いない。

  事のついでに「2000年代イギリス映画マイ・ベスト15」を次に挙げておこう。特に順位はつけていない。

シーズン・チケット(2000) マーク・ハーマン監督
リトル・ダンサー(2000) スティーブン・ダルドリー監督
ブリジット・ジョーンズの日記(2001) シャロン・マグワイア監督
ゴスフォード・パーク(2001) ロバート・アルトマン監督
SWEET SIXTEEN(2002) ケン・ローチ監督
人生は、時々晴れ(2002) マイク・リー監督
ベッカムに恋して(2002) グリンダ・チャーダ監督
運命を分けたザイル(2003) ケヴィン・マクドナルド監督
カレンダー・ガールズ(2003) ナイジェル・コール監督
真珠の耳飾の少女(2003) ピーター・ウェーバー監督
ディープ・ブルー(2003) アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット監督
ヴェラ・ドレイク(2004) マイク・リー監督
Dearフランキー(2004) ショーナ・オーバック監督
やさしくキスをして(2004)  ケン・ローチ監督
ラヴェンダーの咲く庭で(2004) チャールズ・ダンス監督

  ケン・ローチ監督の作品がこの中に2本入っている。「ブレッド&ローズ」(2000)はまだ観ていないが、これも期待できそうだ。次にケン・ローチ監督の「マイ・ベスト5」を挙げておく。こちらは順位つき。

1 レディバード・レディバード(1994)  
2 SWEET SIXTEEN(2002)
3 リフ・ラフ(1991)  
4 やさしくキスをして(2004)
5 カルラの歌(1996)

  名作と言われる「ケス」(1969)に対する僕の評価はあまり高くない。暗い映画で、主人公の少年にあまり共感できなかったからだ。一番暗いのは「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(1998)。とても好きになれない。オムニバスの「セプテンバー11」(2002)は映画全体としては大していいとは思わなかったが、世界貿易センタービルがテロリストに攻撃されたその日と同じ9月11日(1973年)に起こったチリのクーデターを主題に、記録映画風に撮ったケン・ローチの短編はその中でも出色の出来だった。「レイニング・ストーンズ」(1993)はビデオで、「夜空に星のあるように」(1968)はDVDで持っているがまだ観ていない。「大地と自由」(1995)も未見。

  一貫してイギリスの労働者階級を描いてきたことで知られるケン・ローチだが、「やさしくキスをして」はアイルランド人女性とパキスタン移民2世の男性を主人公に民族問題を扱っている。タイトルどおり恋愛を描いているが、そこはケン・ローチ、アイリッシュの女性とパキスタン人男性のカップルなので習慣や文化や宗教の違いといった民族問題が絡んできて非常に重い作品になっている。イギリスはアメリカほどではないが移民の国である。ロンドンなどの大都会ではかなりの数の黒人や東洋人が住んでいる。かつての植民地が第二次世界大戦後に独立して以降、旧植民地から大量の移民がイギリスに流れ込んできたからだ。インドやパキスタンからの移民も当然多い。インドからの移民を主人公にした「ベッカムに恋して」とパキスタン移民を主人公にした「ぼくの国、パパの国」という傑作が日本でも公開された。いずれも民族の相違に基づく文化や習慣の違い、さらには親の世代と子の世代のギャップがテーマに織り込まれている。しかし「ベッカムに恋して」は深刻ではなく明るい色調で楽観的に描かれている。むしろ映画のタッチとしては、最後まで世代間ギャップの問題が解決されずに終わる「ぼくの国、パパの国」に近い。「ベッカムに恋して」は人情味があって素晴らしい映画なのだが、ケン・ローチは「やさしくキスをして」で現実はそんなに甘くないぞと重く厳しい問題提起をした。

  恋愛は個人の問題である。しかし結婚となると親が口を挟んでくるものである。ましてや異なる民族間の恋愛、結婚となると個人のレベルを超えて家族、ひいては民族間の問題へと発展する。日本でも在日コリアンと日本人の結婚を考えれば、それが多くの困難を伴う問題であることは理解できるだろう。「パッチギ!」はまさにそういう問題を扱った映画だった。アイリッシュの女性とパキスタン移民二世の男性との恋愛も同様の、あるいはそれ以上の困難を伴うものだった。スコットランドのカソリックの高校で音楽を教えるロシーンには別居中の夫がいる。彼女はあるきっかけで教え子の女子生徒タハラの兄カシムと知り合い、たちまち恋愛関係になる。しばらくは順調に付き合っていたが、あるときカシムは、自分には親が決めたジャスミンという婚約者がいることを打ち明ける。ロシーンは、それでは私とのことは単なる遊びだったのかと腹を立てるが、それでも感情の嵐が過ぎ去った後、互いに分かれられないほど愛し合っていることに気づく。しかし同時に彼らの前には大きな困難が立ちふさがっていることも次第に明らかになってくる。

  厳格なイスラム教徒であるカシムの両親は白人で異教徒であるロシーンとの結婚を頑として認めない。旧植民地からやってきた移民である両親たちはイギリスで散々辛酸をなめて来たに違いない。当然差別もされてきただろう。彼らを支えてきたのは同じパキスタン移民のコミュニティーであり、イスラム教徒としての誇りである。息子と白人で異教徒の女性との結婚を認めることはそのイスラム社会からも疎外され孤立することを意味する。実際カシムがジャスミンとの婚約を破棄し家を出て行ったために、イスラム教徒の社会で家族は 孤立し姉の縁談が破談になってしまった。カシムの姉ルクサナがロシーンに直談判に来るAngels4_1 場面がある。彼女はロシーンに「永遠の愛を誓えるのか?」と迫る。愛はいつかはさめる。やがては弟を捨ててしまうだろう。だがそのために自分たちはイスラム社会から締め出されてしまう。そんな結婚をとても認めるわけにはいかないと。重要なのは彼女の説得が何らかの打算に基づくものではないということだ。異教徒のあなたに私たちの家族をばらばらにする権利、私たちの幸福を奪う権利があるのか?この彼女の訴えは心からのものであり、家族の気持ちとして当然のものでもあるだけに、古臭い考えだとして簡単に振り払うことは出来ない。ロシーンも永遠に彼を愛するとは答えられなかった。だが彼女はルクサナの訴えを聞き入れなかった。彼女にはまた彼女なりの考え方があった。彼女もまた自分たちの幸福を他人が、たとえ愛している相手の家族であっても、横槍を入れてこわしてしまうことなど認められなかったのである。

  きっぱりと自分の立場を守るロシーンに比べると、家族の和を大事にするカシムはロシーンと家族の板ばさみにあって悩み苦しむ。愛を取るのか家族を取るのか。どちらも彼にとって大事なものだけに悩みは深い。彼の葛藤が深刻なのは愛も家族も両方とも捨てられないからである。自分にとっての幸せが家族の不幸になる。両立は不能である。彼がこれほど悩んでいるのに対して、ロシーンは自分の権利ばかり主張していて自分勝手だという意見が結構ある。我を通すよりも和を重んじる傾向がある日本人には確かにそう見える。「パッチギ!」のような状況を考えてみればいい。「お前はそれでいい。だが家族はどうなるんだ。」結局それで押し切ってしまう。ずっとそうしてきたのだ。

  ロシーンはそういう考えに流されたくなかったのである。他人の都合で自分の幸福をあきらめたくはない。何も他人を押しのけて我を通すつもりはないが、そうしなければならないのなら仕方がない。自分から身を引くことはしない。そういう意味では彼女は合理主義者なのだ。だが利己主義者ではない。だから彼女はカシムの家族を理解したいと言う。そうは言ってもカシムの悩みの深刻さに比べると確かに彼女の認識は甘い。「カシムの家族を理解したい」という言葉も心からのものだったかというと疑問もある。そういう意味ではパキスタン人移民には「白人にはわからない」歴史があるというカシムの言葉に重みがある。しかし彼女も試練を乗り越えている。彼女はアイリッシュだからカソリックである。彼女の勤めている学校もカソリック系である。しかし戒律の厳しいカソリックの学校では教区の神父から「信仰証明書」をもらわなければ臨時教員から常勤教員にはなれない。異教徒と同棲している彼女を教区の神父は認めなかった。彼女はカソリックではない学校に転勤することを余儀なくされた。

  ロシーンとカシムの関係を単なる白人と東洋人の関係と見るのは正確ではない。彼女は長い間イギリスの植民地にされてきたアイルランド出身なのである。宗教もカソリックだから、プロテスタントが主流のイギリスでは少数派である。彼女も差別されてきたのだ。彼女が自分を譲らないのは彼女の性格もあるだろうが、家族が身近にいないためにより自由に判断できるからでもある。彼女に両親がいたら、彼女の両親もカシムとの結婚に反対しただろう。この場合は差別意識が当然絡んでいるはずだ。ケン・ローチが扱っているのはこういう何重にもがんじがらめになった世界なのである。簡単には解決が見出せない。

  彼女の考え方を示唆する重要な場面がある。音楽の授業のときに彼女はビリー・ホリデイの名曲「奇妙な果実」を流している。「奇妙な果実」とはリンチを受け木に吊るされた黒人の死体を意味している。彼女はこの曲をかけながら木に吊るされた黒人の姿などを描いたスライドを生徒たちに見せている。彼女の伝えようとしたメッセージは明らかだろう。彼女が思想的にラディカルであるかどうかは分からない。しかし教室でこのような授業を行っていることと、決して自分の意志を曲げない彼女の姿勢とはつながっている、少なくともこれだけは言える。

  白人と有色人種との違いはあるが、元植民地出身で少数派同士の恋愛。それに家族や世代の問題、民族、文化、宗教、価値観などの違い、そして差別などの問題が複雑に絡まりあう。カシムの苦悩も、ロシーンの頑固な姿勢も、カシムの家族の願いも、どれも理解できる。カシムの婚約が決まり、カシムの姉の結婚も決まり、うれしそうに家の増築に励む父親の気持ちは本当によく分かる。その喜ぶ両親を前にして心が揺れ動くカシムの気持ちにも共感できる。一方で、自分でつかんだ幸せをどんなことがあっても手放したくないというロシーンの信条も理解できる。それでいて弟と別れて欲しいと必死に訴える姉の気持ちにも心を揺り動かされる。誰が正しく、誰が間違っているか単純には判断できない。誰の言うことも理解できる。理解できるからこそ解決が見出せない。観ていて歯がゆくなるほどだ。ケン・ローチはこのような深刻な問題をわれわれに投げかけている。問題を一面的にではなく、多面的に描き出したケン・ローチのアプローチの仕方は賞賛すべきである。アメリカ映画のような単純な善と悪の判断は下さない。

  民族問題や差別問題が絡むだけに状況は『ロミオとジュリエット』以上に深刻である。いたるところに二人をさえぎる壁が存在する。誰も悪人は存在しないのに壁が作られてしまう。映画は最後まで結論は下さない。しかし最後は希望をかすかに感じさせる終わり方になっている。ロシーンとカシムが互いの愛を確認しあうシーンで終わるのだ。ケン・ローチが描く苦いラブ・ストーリー。ほんのちょっと後味に甘さが残るのが救いである。

  時に現実に圧倒されそうになりながらも、二人は最後まで分かれようとはしなかった。二人がその後どうなるかは分からない。だが迷い悩みつつも二人は自分たちの道を歩んでゆくのだろう。イスラム教徒を描きながら、ケン・ローチは9.11後に顕著になった敵対的な描き方をしなかった。現実の厳しさはなくならない。しかし二人が歩むであろう茨の道に流れるのはロバート・バーンズの詩による甘く切ない「Ae Fond Kiss...(やさしいキス)」の調べだ。

やさしいキスを そしてお別れ
さようなら それは永遠
胸は張り裂け 涙絞りつつ
あなたを思えば 嘆きと溜息が・・・

  彼らは険しい道を決して彼らだけで歩んでゆくのではない。振り返れば後ろにはカシムの妹タハラの姿が見えるはずだ。彼女は自分に対する差別には体を張って対抗した。カシムとロシーンが出会ったきっかけは、白人の男子生徒がタハラを「パキ、パキ」とパキスタン人に対する差別語で呼んだことである。彼女は男の子たちをどこまでも追いかけていった。彼女には兄にない強さがある。彼女も親の反対を押し切り、地元グラスゴーの大学ではなくエジンバラ大学に進学することを宣言する。自分の目指すジャーナリズム学部はエジンバラ大学にしかないからだ。両親の悩みがまた増える。子供は親の思うようには育たないものだと分かっていても、親としては一抹の寂しさと悲しみを禁じえないだろう。いや、それどころか家族崩壊の危機である。カシムとロシーンに焦点を当てているので両親の苦悩は間接的にしか描かれないが、子どもを持つ人が見れば身につまされるだろう。同じ血が流れていても子どもはイギリスで育っている。時代の流れは否応なく人々を押し流してゆく。同じ姉妹でも親に言われるままに結婚を決めた長女のルクサナと末娘のタハラの価値観には大きな開きがある。この映画は時代に押し流されてゆかざるを得ない人々にささげた哀歌(エレジー)なのである。明日は見えない。しかし確実に変化はやってくる。

 カシムたちが進んでゆく長く険しい道にはかつてそこを歩んだ何人もの足跡が残されているはずだ。カシムとロシーンの前にもたくさんの人が歩んできた道であり、タハラの後に続く者も次々に現れるだろう。最後に魯迅の「故郷」からの一節を引用して終わろう。

 「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

 

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2006年4月 9日 (日)

ミュンヘン

Earth1 2005年 アメリカ
監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:トニー・クシュナー、エリック・ロス
撮影:ヤヌス・カミンスキー
美術:ロッド・マクリーン
音楽:ジョン・ウィリアムス
出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ
    マチュ-・カソヴィッツ、ハンス・ジシュラー
    ジェフリー・ラッシュ

  スティーヴン・スピルバーグ。ジョージ・ルーカスと並び、日本でも絶大な人気を誇る超有名監督である。しかし彼は巨匠と呼べるだろうか。こういう疑問を呈したくなるのも、彼の作品にすぐれたものはあまりないのではないかと思っているからである。もし彼の映画からマイ・ベスト5を選ぶとすれば次のようになる。

1 「シンドラーのリスト」
2 「プライベート・ライアン」
3 「カラー・パープル」
4 「激突!」
5 「ET」

  「アミスタッド」は観ていないが、ベスト5に入る可能性はある。4位までは割りとすぐに決まったが、5位には悩んだ。「JAWS」、「未知との遭遇」、「インディ・ジョーンズ」シリーズ、「ジュラシック・パーク」シリーズ、「宇宙戦争」、どれも悪くはないが今ひとつだ。有名度で「ET」を選んだ。ベスト5で苦労するとすれば巨匠とは呼べないのではないか、そう思うのだ。

  先週末、映画館で「ミュンヘン」を観てきた。「オリバー・ツイスト」よりこちらを先に見たのだが、今ひとつ「ミュンヘン」には気が乗らないので、順序が逆になってしまった。「ミュンヘン」には賛否両論あるようだ。僕自身の評価はどちらかと言えば否定的である。テーマの描き方が一貫していたかどうか、その点に関して疑問があるからだ。

  かつて80年代半ばにベトナム戦争を描いた「プラトーン」を巡って大論争が巻き起こった。各種雑誌が特集を組み、連日のように新聞に賛否両論の投書が載っていた。これほどの論争はあれ以来なかったと思う。その論争を整理した文章を当時書いていたので引用しておこう。

  ベトナムの戦場でのアメリカ軍の実体を偏見なく正面から見据えた映像の迫真性、戦場での兵士の極限状態と異常心理、残虐行為、仲間同士の殺し合い、死と隣り合わせの恐怖、軍隊内の退廃や亀裂などが、体験者のみが描ける生々しさで圧倒的な音響効果とともに観客に投げ付けられる。アメリカで公開された時、深い沈黙が劇場内をおしつつんでいたという事実が、いかにこの映画がアメリカの国民にとってショッキングであったかを物語っている。だが、他方で様々な批判の声も寄せられている。それらの批判をまとめると、「プラトーン」はベトナム戦争の一部を局部的にとらえたものに過ぎず、ベトナム人は最後まで「対象」化され、西部劇のインディアン同様にあくまで「敵」であり、したがって侵略戦争としてのベトナム戦争の本質がとらえられていない、ということになるだろう。こ の批判は重要であり、かつ正当だろう。要するに、この映画は一兵士の眼を通して描かれているために、戦場での赤裸々な人間の葛藤や悲惨な実情が直接的に伝えられているが、この「直接性」が一方で作品の視野に限界を与えてしまっているということなのだ。つまり、主人公の視点の限界を作品それ自体が乗り越えられなかったために、主人公の認識の限界がほとんどそのまま作品自体の限界になってしまっているということなのだ。もっとも、このような形になったのはプロデューサー側の「意向」があったのかも知れない。しかいいずれにせよ、ベトナム戦争に対してこれ程真摯な姿勢を示した作品が現れたことを決して過小評価すべきではない。
  「世界映画の現況(その6)」1987年6月29日

  ほぼ20年前の古い文章だが(本館HP「緑の杜のゴブリン」の「電影時光」コーナーに収録してあります)、論争の要点はつかめると思う。「プラトーン」はなぜアメリカ兵がベトナムにいるのかを真摯に考察した映画だが、一方で迷彩服を着た若者たちが肩を怒らせて満足げに劇場を去って行くような映画でもあった。わざわざ長い引用をしたのも、同じような印象を「ミュンヘン」から受けたからである。

  前売り券を買って劇場まで出かけていって「ミュンヘン」を観たのは、自分の使命に次第に疑問を持ち始めてゆくテロリストを描いていると言われていたからである。期待はずれという批判も眼にしてはいたがそれなりに期待してはいた。

  1972年のミュンヘン・オリンピック開催中にパレスチナ・ゲリラがイスラエル選手団を襲撃する場面から始まり、報復のために結成された暗殺チームが今度はアラブのテロリスト指導者を次々に暗殺してゆく。アヴナー(エリック・バナ)をリーダーとする暗殺チームは、急ごしらえの上に特別な訓練を受けたエキスパートたちでもない。爆弾のスペシャリストという触れ込みのロバート(マチュ-・カソヴィッツ)はなんと爆弾を仕掛ける方ではなく解除する方の専門家だった。そんなわけで最初の何回かは爆薬の適量が分からず、爆発が小Waveleaf さすぎたり大きすぎたりしてなかなかうまくいかない。それがちょっとしたユーモラスな味付けになっている、全体としては暗殺にいたるまでのプロセスを息詰まるような迫真力で描いてゆく。まるで自分が戦場にいるかのようなリアリティでノルマンディー上陸作戦を描いた「プライベート・ライアン」の手法を連想すればいい。テロリスト指導者暗殺のプロセスが何度も繰り返し描かれる。最後に主人公が自分たちのやっている行為の意義を見失っていく様子も描かれるが、中途半端で終わっていると言わざるを得ない。むしろ全体としてみれば、暗殺チームの活躍を描いたエンターテインメント映画だったという気がする。

   昨年の1月に上田で大林宣彦監督の講演を聞いたことがあるが、その中で彼はツイン・タワーを襲ったテロの映像について語っていた。あれを観たとき彼は「やられた」と思ったそうである。あの9.11の映像はそれまでの映画を無力にしてしまうほどの圧倒的迫力があった。自分たちはそれまで何をやっていたのか。彼ら映画人は自分たちの映画つくりの根本的見直しを迫られた。あれを超えなければならない。単に迫力ある映像を作ると言う意味ではなく、テロを否定し平和への願いを込めた映画を作らなければならない。

  あの貿易センターの映像は確かにすさまじいものだった。突然テレビの画面が切り替わり、ヘリコプターから撮った黒煙を上げているツイン・タワーの映像が映し出された。誰もが最初は何がなんだか分からなかった。やがてそれがライブ映像であり、テロリストに乗っ取られた旅客機が貿易センタービルの片方に激突したことがようやく分かってくる。そうこうしているうちに2機目が突っ込み、ついにはツイン・タワーが相次いで崩壊し始める。まるでスローモーションのように上からゆっくりと真下に崩れ落ちてゆく巨大タワー。地上ではまるで火砕流のように噴煙が舞い上がる。その一部始終が息を呑んで見つめる全世界の人たちの目の前で展開された。世界同時上映されたテロのロードショー。世界が初めて体験した世界同時中継によるテロ現場の目撃。大林監督の言うとおりである。どんな映画もなしえなかった未曾有の映像をわれわれは体験したのである。

  現場に密着した映像はそれだけで観るものの目を奪ってしまう。「ミュンヘン」ではテロ行為の詳細な描写が大部分を占め、最後に込めようとしたテロリストたちの心の葛藤をわきに追いやってしまった。何か中途半端で、釈然としないままに終わってしまった。おそらく「ミュンヘン」に感じる不満はそこにある。テーマと娯楽性のバランスを間違えていないか?これではただのヴァイオレンス・スリラーだ。

  対象に密着すればするほどリアルな映像になるが、その分視野が狭くなる。行為自体がメインになり、是非の判断は後ろに遠のく。実際暗殺チーム自体も同じだったろう。個人的に憎しみを感じているわけではない相手の暗殺行為を着々と実行してゆくだけ。爆破シーンや射殺シーンが極めてリアルに描かれていく。肉体が砕け散り、血が飛び散るリアルなテロ行為の再現映像に力を込すぎ、同じパターンを淡々と繰り返すので、最後の頃になってやっと描かれる主人公の苦悩があまり伝わってこないのだ。暗殺すべき男の娘を危うく巻き込みそうになって危うく爆破を止めたりするシーンも出てくるが、じっくり考える時間を観客に与えず、むしろはらはらどきどきの緊張した場面を作ることに狙いがあったようにも感じる。暗殺の対象となる男たちが誰一人テロリストらしく見えない、むしろごく普通の生活をしている男たちだという描き方は確かにされている。ただ、それは暗殺のプロセスの中でさっと描かれているに過ぎない。主人公たちの苦悩も十分には描かれない。

  どんなに迫力ある映像を作り上げたとしてもそれだけでは十分な意味を持ち得ない。一つの完結した作品として作られる以上、テーマとの結びつきや構成がしっかりしていなければすぐれた作品にはならない。9.11テロの映像も用い方しだいではテロへの批判にもなるし、テロの教科書にもなる。生命保険のコマーシャルにすることすら可能だ。やはり肝心なのはテーマなのだ。そのテーマの描き方が弱い。

  彼が暗殺した男たちも冷酷なテロリストではなく普通の人間ばかりだ。家族を愛する同じ人間同士。愛国心に動かされ使命を果たしてきたが、自分たちのやっていることはテロリストたちのやっていることとどこが違うのか。やがて仲間も殺され、彼らも狙われる側に回る。むなしい殺人行為。たとえ何人殺してもその穴をまた別のものが埋める。自分たちの行為は正義なのか。報復にどんな大儀があると言うのか。テロでテロに対抗しても解決にはならない。暴力の連鎖を生むだけだ。アヴナーはパレスチナの指導者たちを暗殺してゆくうちにそのことに気づく。悩んだ末彼は大儀を見失い、国も失う。彼はアメリカに移住する。国家のために戦うことをやめたとき、彼は愛する家族との安らぎの日々を手に入れることが出来た。

  確かにそういう風に描かれてはいる。しかし暗殺のプロセスを描くほどには彼の心のゆれはリアルに描かれない。だから今ひとつ説得力を感じない。彼らの苦悩や迷いが十分描かれないのは、そうするためにはイスラエルやアメリカの姿勢により徹底した批判を加えることになるからだろう。そこまで踏み込めなかったのはユダヤ人ヒューマニストである彼の限界だったのだろうか。いずれにしても最後に残るのは怒りでも批判でもない、むなしさである。

 次回はケン・ローチ監督の「やさしくキスをして」を取り上げます。

2006年4月 7日 (金)

オリバー・ツイスト

Sdlamp02 2005年 イギリス・チェコ・フランス・イタリア
監督:ロマン・ポランスキー
原作:チャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』
脚本:ロナルド・ハーウッド
撮影:パヴェル・エデルマン
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:バーニー・クラーク 、ベン・キングズレー 、ハリー・イーデン
    ジェイミー・フォアマン 、エドワード・ハードウィック、リアン・ロウ
   マーク・ストロング、マイケル・ヒース

 ロマン・ポランスキーが描くディケンズの世界。楽しみにしていた映画だったので、前売り券を買って上田の映画館で観てきた。19世紀のロンドンを再現した話題のセットは確かにすごかった。まるで実際の19世紀のロンドンにいるような気分になるほどである。何枚も映されるギュスターヴ・ドレなどの版画も素晴らしい。まるで額縁のように映画の最初と最後に配置されており、白黒の細密画が映画の雰囲気をよく表している。ちなみに、小池滋編著『ドレ画ヴィクトリア朝時代のロンドン』(社会思想社)はたっぷりドレの世界を味わえる好著。ぜひ手に入れておくことをおすすめします。19世紀のロンドン、特にその下層社会は白黒が似合う。映画のできも傑作と呼べるほどではないが決して悪くはない。

  監督のロマン・ポランスキー。これまで30本近い映画を撮ってきた。半分くらい見たがマイ・ベストテンをあげれば以下の通り。4位以下は順不同。というか「オリヴァ・ツイスト」を除いてほとんど忘れているというのが正直なところ。

1 戦場のピアニスト(2002)
2 テス(1979)
3 マクベス(1971)
4 袋小路(1965)
5 水の中のナイフ(1962)
6 吸血鬼(1967)
7 チャイナタウン(1974)
8 反撥(1964)
9 ローズマリーの赤ちゃん(1968)
10 オリバー・ツイスト(2005)

  ディケンズの『オリバー・ツイスト』はこれまで何度も映画化されているが、やはり一番出来がいいのはデヴィッド・リーン監督の「オリヴァ・ツイスト」(1948)だろう。それに次ぐのがこのポランスキー版、その次がキャロル・リード監督のミュージカル版「オリバー!」(1968)というところか。ディケンズは15の長編小説を残したが、そのほとんどは1910年代から30年代に映画化されている。ほとんどがサイレントだろう、もちろん一本も観たことはない。観たのは40年代以降のものばかりである。その中で最も出来がいいのはデヴィッド・リーンの「大いなる遺産」である。それに続くのは上に挙げた『オリバー・ツイスト』原作の3本。優れているといえるのはこの4本くらいではないか。まだディケンズの世界を満足が行くほど完璧に映像化した作品には出会っていない。大長編小説ばかりなのでそもそも2時間程度に収めるのには無理がある。特に傑作が集中する後期の作品群はプロットもより複雑化してくるので、「完全映画化」というのはあるいは永遠の夢かもしれない。また、高度にデフォルメされた彼の小説の登場人物を生身の俳優が演じるのはこれまた無理がある。やはり活字で読んで頭の中で想像した方がいい。視覚化されたとたんに、これはイメージが違うとどうしても思ってしまう。ユーライア・ヒープなどはどんなに名優が扮装を凝らしても小説のイメージ通りにはならないだろう。これはどんな原作にもありうることだが、特にディケンズの場合避けがたいことだ。

  それでもイギリスを代表する小説家だから連綿と映画化され続けている。また当然BBCなどのテレビでもドラマ化されている。こちらは収録時間が長いのでかなり原作に近く描けるが、テレビドラマだとどうしても映画より安っぽく見えてしまうのが残念。数年前に大量にBBC版が日本でも発売された。とんでもない値段なのでディケンズの研究家でもなければ手は出ないだろうが、何とかほぼ買い揃えた。残念ながらまだほとんど観ていない。

  さて、原作の『オリバー・ツイスト』。おそらく日本ではチャールズ・ディケンズ(1812~1870)と言われてまず思いつくのは「クリスマス・キャロル」(中篇)、『二都物語』、『デヴィッド・コパフィールド』あたりだろう。『二都物語』はフランス革命期を背景にした人情物みたいな話なので昔は人気があったが、今これを読む人はほとんどいないだろう。しかしなぜかいまだにいろんな所でディケンズの代表作としてこれが必ず挙げられている。この3作に続いて思い浮かぶのは今でも新潮文庫に入っている『オリバー・ツイスト』と『大いなる遺産』あたりか。

  それ以外の作品、たとえば90年代初頭にちくま文庫から出た『ピクウィック・クラブ』、『骨董屋』、『マーティン・チャズルウィット』、『荒涼館』、『リトル・ドリット』、『我らが共通の友』あたり(一部は以前三笠書房から出ていた)を読んでいる人は、よほどのディケンズ好きか英文科を出た人だろう。ミステリーが好きな人ならディケンズの未完となった最後の長編『エドウィン・ドルードの謎』(創元推理文庫)を読んでいるかもしれない。一般の人には敷居が高い岩波文庫所収の『ボズのスケッチ』、文庫版がない『ニコラス・ニクルビー』、『バーナビー・ラッジ』、『ドンビー父子』、『ハード・タイムズ』を持っていたら間違いなく研究者かディケンズ・マニアである。

  幸いなことにいずれも今では翻訳が手に入る。僕が英文科の学生だった頃はこのうちの半分くらいは翻訳がなかった。それはともかく、人気があるものと小説として優れたものとは必ずしも一致していない。僕の評価では『デヴィッド・コパフィールド』、『大いなる遺産』、『荒涼館』、『我らが共通の友』がディケンズを代表する傑作だと思う。『オリバー・ツイスト』はごく初期の作品で、とても傑作とはいえない。それでも人気があるのはおそらくストーリーが分かりやすく、波乱万丈で起伏に富んでいるからである。

  小説として傑作とはいえないが、『オリバー・ツイスト』にはディケンズの特徴がよく表れている。一つは救貧院でオリバーが言った有名なせりふ「お願いです。ぼく、もっと欲しいんです」というせりふに表れている、社会悪に対する厳しい批判的姿勢。これはディケンズのほぼ全作品に共通する姿勢である。「救貧院」といえば聞こえはいいが、英語のworkhouseそのものの「貧民苦役所」とでも訳した方が実態に近い。原作には「すべての貧乏人どもは救貧院に入ることによって、徐々に餓死させられるか、救貧院に入らないですぐに餓死させられるか、どちらかを自由に選択すべきである」という文が出てくる。『我らが共通の友』では登場人物のベティ・ヒグデンに「救貧院に入るくらいなら死んだほうがましだ」とまで言わせている。映画でもわずかなおかゆしか与えられない子どもたちと救貧院を運営している委員会のメンバーが贅沢な食事をしている場面が対比的に描かれていた。

  この対比は『オリバー・ツイスト』の作品全体でも繰り返される。フェイギン一味が登場するロンドンのアンダーワールドとブラウンロー氏に代表される上流の世界の対比。これもディケンズの全編に共通する主題である。ディケンズは階級社会イギリスを徹底して分析した作家である。『オリバー・ツイスト』ではまだ単純な比較・対比で終わっているが、後期の作品ではこれがより複雑なプロットの中でより深い分析や考察を伴って展開される。ディケンズの共感は常に社会の下積みの層に向けられていた。ポランスキーの映画が映し出した19世紀のイギリスの街並みは、馬車や紳士淑女が行きかう表通りの喧騒ばかりではなく、ネズミが這い回りあちこちで人々がけんかしている薄汚れた裏通りも当時はかくやと思わせるほどリアルに再現していた。

  この二つの世界はしばしば「二つの国民」(ディズレイリの小説『シビル、または二つの国民』から取られた言葉)と呼ばれるほど隔絶した世界である。『大いなる遺産』ではこの対比は主人公ピップが育った鍛冶屋の価値観と莫大な遺産を相続することになったピップが足を踏み入れたジェントルマン世界の価値観との対比・葛藤という形で表れている。彼がLe_pa 描く社会や人間関係の根底には常に階級意識と金がある。そのテーマをとことん追求したのが彼の完成した最期の小説『我らが共通の友』である。ディケンズは常に下層の人々に共感を持っていたが、彼らがいかに非人間的な環境におかれているかも深く認識していた。『大いなる遺産』の第1章を支配しているイメージ、墓地、水路標、絞首台、海賊、古い砲台、沼地、霧、監獄船、囚人、足かせ、恐怖、あるいはピップがロンドン(ピップはこの「醜く、奇形で、薄汚い都会」がすぐいやになる)に行って目の前で見ることになるニューゲート監獄などは、決してジェイン・オースティンの小説世界には入りこむことのない要素である。

  もう一つ、ディケンズの特徴は善人よりも悪人の方がよく描けていることである。彼の描く善人は善人過ぎて面白みにかける。一方、彼の小説の登場人物の中で一番生き生きしているのは悪党どもである。非人間的な下層社会の中でしぶとく生き延びてきた悪党どもにはあふれんばかりの活力がある。彼らの醜さ、卑劣さ、残酷さ、下劣さ、計算高さは貧困や差別の結果であるが、同時に生き抜くための手段でもある。彼らが生きてゆくためには、他人の弱点を徹底的に突けるしたたかさ、抜け目なさや狡猾さ、残酷さや冷酷さを身につけることが不可欠だったのである。だからこそ彼らには異様な活力があるのだ。キャラクターとして善人たちよりはるかに生きており、説得力があるのだ。それは『オリバー・ツイスト』を見れば明らかだろう。ただ周りに振り回されるだけのオリバーよりも、フェイギンやアートフル・ドジャーの方がはるかに生き生きとしたキャラクターになっている。原作がそもそもそうなのである。ちなみに、アートフル・ドジャーのドジャーはドッジボールのドッジに「人」を表す(e)rをつけたものである。つまり「ひらりと身をかわすのが巧妙な奴」、「なかなか捕まらない奴」という意味である。見事なネーミングではないか。

  『オリバー・ツイスト』あるいはその映画版の一番の欠点は主人公オリバーのキャラクターとしての弱さである。実はポランスキー版の映画では描かれていないが、原作の最後ではオリバーの出生の秘密が明かされる。彼は元々いい家柄の生まれだったのである。だからフェイギンたちと交わっても決して赤く染まらなかったのであり、簡単に上流の生活になじめるという設定になっているのである。だが、この認識にそもそも問題があるのだ。高貴な生まれのものは高貴な心を持つ、卑しい生まれのものは卑しい心しかもてない。そんなことはありえない。オリバーは生まれてすぐ捨てられ、孤児院で育ったのだからフェイギンの手下の子どもたちと同じようになっていても不思議はない。いや、むしろその方が自然である。ここにディケンズ自身の人間認識の浅さがはっきり表れている。魅力に欠ける善人が肯定的価値を与えられ主要登場人物として登場するところに彼の小説の大きな欠点のひとつがある。彼の小説がしばしば大衆小説と言われるのもこのことと無関係ではない。あるいはストーリー構成がゆるく、エピソードを積み重ねたような行き当たりばったりの展開もよく批判される。これらの欠点は後に修正されてゆくが、完全には払拭されなかった。この点は指摘しておかなければならない。

  ポランスキー版「オリバー・ツイスト」もキャラクターとしての魅力があるのはオリバーではなく、フェイギンやアートフル・ドジャーたちである。フェイギンはディケンズの数多い名物キャラクターの中でも特に有名である(昔乗っていた黒いサイクリング車に僕は「ブラック・フェイギン号」という名前をつけていた)。ロンドンのアンダーワールドの片隅で子どものすりを使ってぼろもうけしている悪党。どう見ても悪党なのだがビル・サイクスのような残虐さはない。奇妙な魅力を持った人物である。名優ベン・キングズレーが力演している。しかしそれでもフェイギンの魅力を十分には伝え切れていない。個人的には陰影の濃い白黒画面でなければ原作の持つイメージは描き出せないと思う。アートフル・ドジャー(ハリー・イーデン)も同じである。もっとすれた感じでなければドジャーらしくない。子どものくせに酸いも甘いもかみ分けた食えない奴なのである。こういう人物こそポランスキーらしい毒気をたっぷり盛り込んで欲しかった。

  主人公が無垢で善良な少年では生き馬の目を抜く下層社会をリアルに描けば描くほどキャラクターとしての魅力に欠けることになる。しかも上流社会と下層社会の対比というテーマはあっても、ストーリーの展開はエピソードの積み重ねという構成なので、物語の魅力はむしろ脇役の魅力と下層社会のリアルな描写、社会の矛盾に対する作者の風刺にあるということになる。脇役というとディケンズはよく女性を描けないと言われる。女性を描くと皆当時の理想とされる淑女のようなキャラクターになってしまうと。確かにその通り。しかし下層社会の女性には淑女の枠をはみ出たキャラクターが何人か登場する。このカテゴリーでも有名なギャンプ夫人のような悪女が圧倒的な存在感を持っているが、「オリバー・ツイスト」のナンシーも数少ない魅力的な女性キャラクターのひとりである。フェイギン一味の一人だから当然はすっ葉な女として登場するが、オリバーに同情するやさしい面も持っている。彼女を掃き溜めの鶴のような無垢でやさしい人物として描かなかったことが彼女の人物像に奥行きを与えている。ありえないほど純粋無垢な存在でないからこそ現実味があるのだ。彼女の殺害場面は原作でも映画でもクライマックスの一つだ。

  ポランスキー監督は「戦場のピアニスト」の次回作にディケンズ作品を選んだ理由を聞かれて次のように答えている。「何を撮るか決めるのは簡単ではなかったよ。自分の子どもたちのために一本撮らなくては、と思っていてね。というのも、子どもたちはいつも僕の仕事にすごく興味を持ってくれていたんだが、映画のテーマはあまり面白がってくれなかったんだ。それで子ども向けの物語を撮り始めたんだが、最終的にはディケンズにたどり着いた。そうなってみると、『オリバー・ツイスト』以外には考えられなかったね。」

  彼自身「子どもの頃はディケンズに夢中だった」そうだ。子供向けの作品としてディケンズの作品群から「オリバー・ツイスト」が選ばれるのは自然なことである。子どもを意識しているから最後の獄中のフェイギンの描き方などは泣かせる演出になっている。原作では後日談としてさらりと描かれているだけである。ナンシーの殺害場面やビル・サイクスが自分で首を絞める場面などは子ども向きとはいえないが、犯罪と死が日常的なディケンズの世界を描く上でははずせないシーンである。特にビル・サイクスが誤って自分の首を絞めてしまうのは、明らかに絞首刑の比喩である。おかゆをもっとくださいと要求したオリバーは、そんなことではいずれ絞首刑になるぞとバンブルに脅された。しかし絞首刑に値するのはむしろビル・サイクスのような悪党だという皮肉が込められている。いかにもディケンズらしい勧善懲悪的結末だ。確かに「オリバー・ツイスト」の段階では大衆作家のレベルだったと言える。

  しかし最後にもう一度強調しておくが、「オリバー・ツイスト」の中でも随所に発揮されていた風刺精神が後の大作家を生み出している。ディケンズを読む楽しさの一つはそこにある。人間がおかれた劣悪な条件を描くとき彼の風刺はひときわ切れ味が増す。上のおかゆ関連でいえば、葬儀屋の小僧ノア・クレイポールに「暴力を振るった」オリバーについてバンブルがサワベリー婦人に忠告した言葉は最後に引用するに足る。「奥さんはあの子に食物をやりすぎたんじゃ。・・・奥さん、あの子におかゆだけを食べさせておいたら、こんなことにはならなかったでしょうにねえ。」肉なんか食わせるから(犬も食わなかった肉である!)反抗するのだと言っているのである。オリバーがもっとおかゆをくださいと言ったとき、バンブルはかわいそうだと思うどころかもっとおかゆを減らすべきだと思ったに違いない。オリバーの訴えを聞いてバンブルたちが一瞬凍りついたのは、それが当時の価値観と秩序に対する大胆な反抗だったからである。残念ながらオリバーにはその「反抗」を最後まで貫き通す素質も意思もなかった。だが彼の始めた「戦い」は後の登場人物たちに、そして何よりディケンズ自身によって引き継がれてゆくのである。

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2006年4月 3日 (月)

黒いオルフェ

Moonharp_w3 1959年 フランス・ブラジル合作
製作・監督:マルセル・カミュ
脚本:ジャック・ヴィオ
原作:ヴィニシウス・ヂ・モライス
撮影:ジャン・ブールゴワン
音楽:アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ
出演:ブレノ・メロ、マルペッサ・ドーン、レア・ガルシア
    ルールデス・デ・オリヴァイラ、アデマール・デ・シルヴァ
    ワルデタール・デ・リーザ

  ギリシャ神話のオルフェウスを描いた映画作品には49年のジャン・コクトー作品「オルフェ」、59年の「黒いオルフェ」、99年のブラジル映画「オルフェ」がある。コクトー作品はギリシャ神話を大胆に脚色したもので、死神がバイクに乗って街を疾走するシーンが印象的だった(60年の遺作「オルフェの遺言」はオルフェウス神話とは直接の関係はない)。「黒いオルフェ」はヴィニシウス・デ・モライスの戯曲をフランス人監督マルセル・カミュがオール・ブラック・キャストで描いた異色作。1959年にカンヌ映画祭グランプリ、1960年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞。当時絶賛された映画だが、そこに描かれていたのはあくまで外国人の見たブラジル、西洋人の目から見たエキゾチックなブラジルに過ぎない。カーニバルの活気と楽しさにあふれているが、その背後にある貧困、犯罪の蔓延という現実が十分描かれていない。おそらくそういう思いがブラジル人にはあるのだろう。その欠けているものを描こうとしたのがブラジル版「オルフェ」というわけだ。興味深いがまだこちらは観ていない。

  もう1本「黒いオルフェ」と同じ59年に映画化されたオルフェ映画がある。シドニー・ルメット監督、マーロン・ブランド主演の「蛇皮の服を着た男」。これはテネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』を映画化したものだ。ほとんど知られていない作品だがなかなかの力作。74年にたまたまテレビで観て以来観る機会がなかったが、なんと去年DVDが出た。まだ手ごろな値段の中古版が出ないが、いずれ入手したい。

  「黒いオルフェ」を観るのは今回で3度目になる。今回観てやはり一番強烈なのは音楽と色彩の洪水だ。年に一度のリオのカーニバルの前日に始まり、カーニバル当日にクライマックスを迎え、その翌日の朝に終わる。途切れることなくサンバのリズムが映画の中で鳴り響いている。静かな場面でも遠くから音楽や歌が聞こえている。音楽は常に踊りと結びついている。サンバのリズムに乗って踊り回る人々。その人々の服装や飾り付けの強烈な原色の色彩。リズムと踊りと色彩と熱気が一体となって、画面の中で渦を巻いている。

  冒頭、船に乗って人々がリオにやってくる場面が映し出されるが、船の甲板でもう人々は踊り出している。このうねるようなリズムが全編途切れなく続いている。リオのカーニバルは言わばブラジル版「ええじゃないか」の世界で、貧しい人々も借金してまで衣装をそろえ、その日ばかりはすべてを発散して踊り続ける。普段丘の上に住む貧しい人々もいっせいに山を降りて踊りに加わる。激しいリズムとくるくる回りながら踊る体の動きには生の息吹があふれかえっている。サンバのリズムが聞こえてくるだけで体が自然に動き出す。体の中にリズムが埋め込まれた人々。この映画を観ていて、音楽でアパルトヘイトを突き崩した南アフリカの人々を描いた傑作「アマンドラ!希望の歌」を思い出した。ここでも音楽は生きる力だった。うねる太鼓のリズム、はじける肉体、あふれかえる熱気。歌に込めた自由への意思。ここでの音楽は抑圧を跳ね返す力にすらなっていた。

  「黒いオルフェ」の中で音楽は絶えず聞こえているのだが、もちろんメリハリが付けられている。当然静かな場面もある。そこではもう一つのブラジルの音楽が取って代わる。この映画の頃から急速に盛り上がっていったボサノヴァが取り入れられているのだ。オルフェ(ブレノ・メロ)がギターの弾き語りで歌う有名な「カーニバルの朝」は日本でも知られる名曲。他にも「フェリシダージ(悲しみよさようなら)」やラストで子供たちが朝日に向かって歌う「オルフェのサンバ」など静かな曲が効果的にさしはさまれている。

  だが、このリズムと踊りの狂乱のさなかで展開されるドラマは今回観て弱いと思った。ギリシャ神話を現代によみがえらせる、しかもヨーロッパではなく南米のブラジルを舞台にするという試みの大胆さは賞賛に値するが、ドラマ展開にどうしても無理がある。神々の意思が現実を左右する神話の世界に比べると現代社会ははるかに複雑である。この二つの世界はかなり異質な世界であって、その二つを結び付けようとするとどうしても齟齬が生まれる。中でも問題となるのは「死」や「運命」の描き方だ。冒頭あたりでオルフェは婚約者のミラ(ルールデス・デ・オリヴァイラ)と役所の婚姻係へ行く。係りの男に名前を聞かれオルSun11 フェが答えると「じゃあ花嫁さんはユリディスだ」と言われる。ここにオルフェとユリディスの運命的出会いが暗示されている。実は市電の運転手をしているオルフェは既にユリディス(マルペッサ・ドーン)と会っていた。彼が運転する市電に乗った客のひとりがユリディスだったのである。ユリディスはカーニバルを見物に来たのではなく、彼女を追い掛け回している謎の男から逃れるために、リオに住む従姉妹のセラフィナ(レア・ガルシア)を訪ねてきたのである。ところがそのセラフィナの家はオルフェの家の隣だった。出会った二人はたちまち互いにひきつけられてしまう。

  その夜二人は結ばれるが、彼女には死の影が迫っていた。彼女を追い回していた男(アデマール・ダ・シルヴァ)がリオにも姿を現す。その男は髑髏のマスクをかぶり、黒ずくめの服には骸骨が描かれている。明らかにこの男は死神を象徴している。実に不気味な存在なのだが、ドラマの展開にうまく嵌め込まれているとは言い難い。骸骨姿が画面から浮いているという意味ではない。むしろカーニバルの最中で人々は皆様々な衣装を身につけているから、誰も彼を取り立てて意識しないくらいである。そうではなく、ファンタジーならともかく、普通の現代劇に「死」の象徴としての髑髏マスクを登場させたのではリアリティがないということである。コクトーのように最初からシュールな展開であれば違和感はないのだが、突如何の理由も脈絡もなく死神が現れ、人を黄泉の国に連れ去るというのは神話の世界ならぬ現代世界ではリアリティに欠ける。

  言い方を換えれば、オルフェとユリディスの悲劇的運命をうまくドラマ化できていないのである。ギリシャ神話の元の話を無理やり入れ込んでいる感じだ。さすがにオルフェがユリディスを連れ戻すために黄泉の国に行く話しを入れ込むことはできないので、苦し紛れにオルフェに夜の街をさまよわせる。病院から警察署に行き、最後に不思議な祈祷所に行く。そこで霊媒の口を通じてオルフェはユリディスの声を聞く。振り向いてはいけないと言われたが、オルフェは気になって振り返ってしまう。オルフェが振り返ってしまったためにユリディスは蘇えることができなくなってしまった。オルフェは嘆きつつユリディスの遺骸を丘の上に運ぶ。そこで嫉妬したミラに石を投げつけられ、崖から転落する。

  「振り返ってはいけない」というのはオルフェが黄泉の国からユリディスを連れ帰るときに言われる有名な言葉だが、どうも現実味が薄い。単なる神話とのつじつま合わせにしか思えない。ミラの嫉妬が実に現実的なだけに、祈祷所でのエピソードには違和感がある。またオルフェがさまよう人気のない夜の街や無機質な病院や警察署が映像として力がない。要するに、現代的な死の世界を描けなかったのだ。このあたりが一番弱いところである。

  マルセル・カミュは死に付きまとわれた女とギター引きの恋を悲劇として描きたかったのかもしれない。だが、結果的には、今風に言うと、訳の分からぬストーカーに恋人の命を奪われた男の話で終わっている。以前観たときはカーニバルの躍動的な描写とキャストを全員黒人にしたことに感心して、ストーリーの弱さはあまり気にならなかったように思う。多少不満も感じたのだろうが、ギリシャ悲劇を下敷きにしていることを意識すれば話はつながっていると思っていた。しかしどうもそれほど単純ではなさそうだ。いろんな要素が介在している。ギリシャ神話と現代の世界観の違い、原作となった舞台劇と映画の違い(映画は演劇よりも格段にリアリティが要求される)、そして古代悲劇と現代悲劇の違い。突き詰めればリアリティの問題である。

  上で、リオのカーニバルはブラジル版「ええじゃないか」の世界だと書いたが、それはつまり踊り狂う人々の熱気の影に普段の貧しい生活の苦しみがあることを意味している。お祭り騒ぎの後はまたつらい日常が待っている。カーニバルの踊りがあれほど熱気に満ちているのは日常生活の悲しみと苦しみを思いっきりぶちまけているからだ。その悲しみにギリシャ神話のオルフェを重ね合わせれば素晴らしい芸術が生まれるだろう。カミュ自身が実際にリオでカーニバルを見たときの感想をそう語っている。しかしその日常はあまり描かれない。オルフェがカーニバルに備えて、もらったばかりの給料で質屋からギターを引き出す場面や、彼らの住むみすぼらしい粗末な家を映す程度で済ましている。だが、ブラジルの現実をもっと描きこめばいいのか。99年のブラジル版「オルフェ」はそれを試みたが、どうやら必ずしも成功はしなかったようだ(未見なので断言はできないが)。

  現実を描きこめば描きこむほど元のギリシャ神話との乖離が広がる。ではそもそも古代神話を現代に取り込むこと自体が無理なのか。そうかも知れない。少なくとも古典的世界観をそのまま持ち込むことはもはや無理だ。だが、まったくつながらないわけではないだろう。神話とは言っても、ギリシャ神話の神は人間に近い。人間と同じ姿であり、恋愛もすれば嫉妬もする。だから比喩的に使うことは可能かもしれない。「黒いオルフェ」はあまりに話の展開を元の神話に合わせ過ぎた。そこから齟齬が生じた。神話とのつながりは暗示程度にとどめ、思い切ってもっと換骨奪胎すべきだったのではないか。

  オルフェとユリディスの恋は悲劇的結末を迎える。崖から転落したオルフェとユリディスは折り重なるように倒れている。二人は死んでやっと結ばれたかのようだ。しかしほとんど悲哀感はない。実に乾いている。それは意識的なものだろう。なぜならある意味でオルフェは死んでいないからだ。オルフェの奏でていたギターは彼と親しくしていた少年が代わって奏でている。少年がギターを弾くと太陽が昇る。オルフェがギターを弾いて陽を昇らせたように。新しいオルフェの誕生。女の子が現れ少年二人と丘の上で踊る。丘の上から見下ろす海の景色が美しい。オルフェがカーニバルに用意した新曲「カーニバルの朝」を少年たちに弾いて聞かせたとき、少年はオルフェにギターを貸して欲しいと頼む。オルフェは古いギターだからと断る。見るとギターに“オルフェは私の主人”と書いてある。オルフェが言う。「昔もオルフェがいた。これから先もいるだろう。でも今のオルフェは俺だ。」

  何代にもわたって生まれ変わってきたオルフェ。竪琴はいまやギターに代わったが、生まれ変わる度にユリディスと出会い、愛の歌を奏で、恋をする。そして死神が現れてはまた彼女を連れ去ってゆく。少年二人と踊っていた少女は次の代のユリディスなのだろう。人間は何度生まれ変わっても恋をする。そして死がそれを分かつ。このパターンは代わらない。神話と現代のつながりはここにある。

  ストーリーの展開に十分こなれていないところはあるが、映像の力、音楽と踊りの躍動感、神話を現代のブラジルに置き換えた大胆な脚色、これらは今でも十分魅力的である。

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