最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ

  • 真紅のthinkingdays
    広範な映画をご覧になっていて、レビューの内容も充実。たっぷり読み応えがあります。
  • 京の昼寝〜♪
    僕がレンタルで観る映画のほとんどを映画館で先回りしてご覧になっています。うらやましい。映画以外の記事も充実。
  • ★☆カゴメのシネマ洞☆★
    細かいところまで目が行き届いた、とても読み応えのあるブログです。勉強になります。
  • 裏の窓から眺めてみれば
    本人は単なる感想と謙遜していますが、長文の読み応えのあるブログです。
  • なんか飲みたい
    とてもいい映画を採り上げています。短い文章できっちりとしたレビュー。なかなかまねできません。
  • ぶらぶらある記
    写真がとても素敵です。

お気に入りブログ 2

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月

2006年3月31日 (金)

亀は意外と速く泳ぐ

Cupgreap 2005年 日本
脚本・監督:三木聡
製作:橋本直樹
撮影:小林元(JS.C)
出演:上野樹里、蒼井優、岩松了、ふせえり、松重豊
     村松利史、緋田康人、要潤、森下能幸
    松岡俊介、水橋研二、温水洋一、岡本信人
    嶋田久作、伊武雅刀、播田美保、柿嶋孝雄
     池田稔、田中聡元、清田正浩、真鍋誠志、松崎貴司

  ブログが不調で散々振り回された。疲れ切って前に予告した映画を観る気力もなかった。そんな時に友人からたまたま借りたのがこの映画。前から1週間レンタルになったら借りようと思っていた作品だ。軽そうだから疲れて気力がないときにはいいだろうと思って観た。

  「イン・ザ・プール」に続く三木聡監督の長編2作目。「イン・ザ・プール」も気にはなっていたがまだ観ていない。したがってこの2作目が三木聡監督初体験。「亀は意外と速く泳ぐ」は「これまでに全くなかった“脱力系”エンターテインメント」が売り。ふ~ん、本当にそうか?TVでやっていることを映画でやっただけじゃないのか?これが正直な感想だ。個性的な出演者をそろえた割には映画に出てくるラーメン同様「そこそこ」の出来。小ネタを並べただけ。同じ「豪華」キャストでも「タンポポ」にとうてい及ばない。

  この映画の「ゆるさ」がたまらなく合うという人もいるようだ。確かにただくすくす笑ってぼけ~っと時間をすごすにはいいかもしれない。それ以上のものではない。そもそも外国のスパイという設定がばかげている。最後は秘密のミッション遂行のためにスパイたちが地下に降りてゆくが、もうシュールというよりバカバカしいだけ。まあ完全に作り物のコメディだからうるさいことを言ってもしょうがないが、もっとしっかり作って欲しい。メインのストーリーは取ってつけたようなものでしかなく、ショートコントの積み重ねでつないでゆくだけ。よく、泣くのを目的に映画館に行く人たちがいるが、これはそれと同じで笑うことを目的に映画館に行く人たち向けの映画。

  確かに舞台出身の芸達者たちはみな悪くない。岩松了とふせえりのスパイ夫婦を始め、温水洋一、松重豊、村松利史、嶋田久作、伊武雅刀などそれぞれいい味を出している。特にラーメン屋のオヤジ松重豊のエピソードはよくできている。行列ができるうまいラーメンも作れる腕を持ちながら、目立ってはいけないスパイの宿命で「そこそこ」の味のラーメンしか作れない男の悲哀感がよく出ている。その曲者ぞろいの脇役以上に魅力的なのは主人公片倉スズメを演じる上野樹里と彼女の幼馴染の扇谷クジャクを演じる蒼井優である。とにかく上野樹里がかわいい。蒼井優のはちゃめちゃさも魅力的だ。

  にもかかわらず映画全体としてはそこそこの出来なのだ。全体の構成がズルズルだからである。役者は芸をしているのに監督に芸がない。蒼井優が感電してアフロのようなチリチリ頭になるのはお定まりのギャグで平凡。「あずきパンダちゃん」などのつまらない小道具をやたらと使って受けを狙うというのも情けない。テーマなどそっちのけで、小道具などどうでもいい細かいことにばかり興味を持つ趣味的映画ファン向けに作られている。そんな感じの映画だ。

  つまり、テレビと同じ感覚で作られ、同じ感覚で観るための映画なのだ。タイトルの「亀は意外と速く泳ぐ」が象徴的である。これは映画の中に出てくる「研究用の危険な細菌は、車だと万が一の事故がこわいので、普通のおばさんが電車で運んでる」、「“止まれ”の標識の中にたまに“止れま”がある」などと同じもの、すなわち、スパイ活動を通じて片倉スズメが発見した「日常の裏側に隠れていた意外な事実」である。要するに「トリビアの泉」なのだ。「亀は意外と速く泳ぐ」は三木聡がテレビで書いてきた「ダウンダウンのごっつええ感じ」、「笑う犬の生活」、「トリビアの泉」なとの延長線上にある映画なのである。言い方を替えればテレビと同じ程度の映画にすぎないのだ。最近著しくレベルが上がってきた日本映画の秀作群と比べるとどうしても見劣りしてしまう。

  ただ、少なくとも上野樹里と蒼井優は十分魅力を発揮している。この二人の魅力を楽しむつもりで観ればそれなりに満足できるかも。

2006年3月30日 (木)

ブログに異常発生 ご迷惑をおかけしました

  28日にココログのメンテナンスがあったのですが、その直後からブログに異常が発生しました。ページが正常に表示されず、左のサイドバーしか表示されなくなることが時々生じました。あるいは正常に表示されていても、トップページと他のページではサイドバーの表示内容が違っているなどの異常が起きていました。こちらのミスではなく、メンテナンスとアップグレードの結果に伴う不具合のようです。他にも様々なトラブルが発生していたようです。当ブログはやっと今日の夕方になって正常に表示されるようになりました。もう少し使ってみないと完全に回復したかどうかは分かりませんが、ココログの方も懸命に不具合の解消に努力しているようですので、じき収まるでしょう。いずれにしても大変ご不便をおかけしました。m(_ _)m

2006年3月28日 (火)

子供たちの王様

043205 1987年 中国 1989年4月公開
監督:チェン・カイコー
原作:阿城(アー・チョン)
脚本:チェン・カイコー、ワン・チー
撮影:クー・チャンウェイ
出演:シエ・ユアン、ヤン・シュエウェン、チェン・シャオホア
    チャン・ツァイメイ、シュー・クオチン、ラー・カン
    クー・チャンウェイ、ウー・シア、リウ・ハイチェン

<チェン・カイコー・フィルモグラフィー>
「PROMISE」(2005) 監督/製作/脚本
「北京ヴァイオリン」(2002) 監督/脚本/出演
「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」(2002) 監督
「キリング・ミー・ソフトリー」(2001) 監督
「始皇帝暗殺」(1998) 監督/製作/脚本/出演
「花の影」(1996) 監督
「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993) 監督/製作
「人生は琴の弦のように」(1991) 監督/脚本
「子供たちの王様」(1987) 監督/脚本
「大閲兵」(1985) 監督
「黄色い大地」(1984) 監督

 僕の映画自伝である「あの頃名画座があった(改訂版)⑧」にも書いたが、僕が最初に観た中国映画はチェン・カイコー監督の「大閲兵」である。文芸座で開催された「中国映画祭‘87」で上映された作品中の一本だった。上映された8本全部を観たわけだから、これが最初というのは上映プログラム上の問題で偶然に過ぎない。順番が違えば他の作品が記念すべき第一作になったわけだ。それはともかく、最初の「大閲兵」でがっかりすれば8本全部観たかどうか分からない。「大閲兵」を観て中国映画のレベルの高さに驚いたからこそ通いつめて全部観たということである。それ以降、すっかり中国映画の魅力に取り付かれ、これまで何十本となく観てきた。

 チェン・カイコーの映画は上記のうち7本観た。マイ・ランクを示せば以下のとおり。なお、参考までに「中国映画マイ・ベスト30」を文末に付けておきます。

1 さらば、わが愛/覇王別姫
2 子供たちの王様
3 大閲兵
4 黄色い大地
5 始皇帝暗殺
6 北京ヴァイオリン
7 人生は琴の弦のように

 この内駄作だと思ったのは「人生は琴の弦のように」のみ。上位2作は名作と呼ぶにふさわしい。「子供たちの王様」は「大閲兵」から遅れること2年、89年5月21日に今はなき「シネヴィヴァン六本木」で観ている。映画ノートを見るとスタッフとキャストは漢字で書いてある。まだ当時は中国人と韓国人の名前は漢字で書いていた。カタカナ表記に切り変わったのは確か90年代の半ば頃だ。

 ストーリーはチェン・カイコー監督自身が文革時代に下放で経験したことを基にしている(チェン・カイコー著『私の紅衛兵時代』講談社現代新書が参考になる)。主人公は雲南省の山村に下放していた”やせっぽち”というあだ名の青年。彼自身が高校教育の途中で下方されたため、たいした教育も受けていないのだが、たまたま中学校の教員として雇われることになる。中学校はなだらかな山の天辺にあるかやぶきの粗末な校舎だ。文革時代の劣悪な教育現場。生徒には教科書もない。教師だけがぼろぼろの教科書を1冊支給される。それを黒板に書き、生徒たちはノートに写す。黒板消しはなく布でふき取る。教師も生徒もみすぼらしい身なりだ。”やせっぽち”は穴だらけのシャツを着ている。日本の今のホームレスでももっといい服を着ている。”やせっぽち”は人に教えた経験がないので最初は戸惑うが、やがて独自の教育方法を編み出してゆく。教科書を教えず、自由作文を書かせるのである。それが上部の者に知れ、同僚から「上が君の授業に目をつけている」と注意される。しかし彼は方針を変えず、ついに党の幹部に呼び出される。”やせっぽち”は教職を追われ山を降りてゆく。

 ロケは実際に雲南省で行われた。冒頭霧に煙る山の景色が映される。少しずつ霧が晴れて全景が見えてくる。非常に美しい映像で印象的である。その山道を主人公が登ってゆくのだが途中不思議な光景が出現する。小高い丘の上に奇妙な形の杭のようなものが無数に立っている。最初はそれが何かよく分からない。何かサボテンか何かがたっているように見える。映画の最後に学校を追われた主人公がまた同じ場所を通る場面が出てくる。ちょうど野焼きが始まった時期だ。その時点で初めて観客にも合点が行く。その丘はかつて森だったが、野焼きで木が全部焼かれてしまったのだ。焦げた木の幹だけが廃墟に残る柱の残骸のように立っていたのである。

 この映画を観て思い出した映画がある。83年製作のトルコ映画「ハッカリの季節」。86年5月11日に渋谷のユーロスペースで観ている。この映画もすさまじい映画だった。舞台はトルコ南部の山岳地帯にあるハッカリ県。3000メートルを越える山々の渓谷にクルド系遊牧民族が住む村落がある。そこに若い教師が赴任して来る。そこは冬になると雪でうもれて全く外界から隔離されてしまう。電気も水道もなく、郵便も来ない。古い家長制度が厳然として残っている。医者もいないので子供が病気になってもただ死んでゆくのを見守ることしかできない。やがて冬も終わり学校は閉鎖され、教師は子供たちに「私の教えたことは全て忘れてかまわない」という言葉を残し村を去ってゆく。こちらの風景もすごかった。この世のものとも思えない世界。雪に完全に覆われ、わずかに残った柴を刈っては束ね、雪の上に座った姿勢でそれを背中に背負い、そのまま斜面を村まで滑り降りてゆく。美しい自然と前近代的な人間関係。

 この二つの映画は実によく似ている。ほとんど季節が違うだけだ。文革がいかに近代文明を破壊したかがよく分かる。山を焼き尽くす野焼きはその象徴だったのである。「ハッカリの季節」の若い教師が「私の教えたことは全て忘れてかまわない」と言い残したように、”やせっぽち”も王福という生徒に「これからは何も書き写すな、辞書も書き写すな」との書置きを残して去ってゆく。王福は彼のクラスで一番できる子で、辞書を手書きですべて写そうとしていた。中国の教育というのはいまだにそうなのである。教科書丸暗記。論語の暗誦じゃあるまいし。自分の意見を持つ訓練などまったくなされていない。必死で漢字を覚えようとする王福もそういう道にはまり込んでいた。

 「子供たちの王様」とは教師をあざけって呼ぶ言葉だとDVDの解説にあった。”やせっぽち”も最初のうちは生徒に馬鹿にされていた。しかし作文指導を始めるあたりから教室に笑いがあふれ、生徒たちにやる気が出てくる。”やせっぽち”は党の教育方針を無視し生徒の発想を豊かにしようと自由作文に力を入れる。生徒たちは夢中になる。生徒たちがいっせいにノートに鉛筆を走らせる音が教室いっぱいに響く。後に触れるがチェン・カイBig_0278_1 コー監督はこの映画の中でかなり音にこだわっている。音関連でいえば音楽もまた効果的に使われている。彼の知り合いに来妹という女性がおり、歌がうまいので音楽の教師にしてくれとしきりに彼にせがんでいる。彼は自分が詩を書き彼女が作曲した歌を放課後生徒たちに教える。歌詞に「頭は飾り物じゃない、文章を書くのは自分の力♪」という一節がある。これも象徴的な言葉だ。教育の現場なのに教科書も支給されず、まともな教育も行われない。考えることさえ敵視される。そのことに対する痛烈な風刺である。子どもたちを遠景で捉え、夕焼けを背景に空を広く取った映像が美しい。

 子供たちに学習意欲がないわけではない。彼らは知識に飢えている。その典型が優等生の王福である。彼が写していた辞書は来妹のものである。ある時”やせっぽち”は王福と賭けをする。次の日生徒総出で竹を切りに行くのだが、王福は明日のことを今日作文に書けると言う。生徒と賭けをしたことがのちのち「上」からにらまれることになる。ともかく、もし王福が勝ったらなんでも欲しいものをやると”やせっぽち”は約束する。翌朝生徒たちが竹林に行くと竹はすでに王福とその父親によって昨夜のうちにすべて切られていた。王福は作文も昨日のうちに書き上げたと誇らしげに言う。これに対して”やせっぽち”は次のように言う。「王福、辞書はあげるが君の負けだ。今日のことを昨日のうちに書く約束だった。作文は確かに昨日書いたが、中身も昨日のことだ。記録は出来事の後に書くものだ。これが道理だ。君は真面目でクラスのために働いたから、辞書をあげよう。」

 結局、王福は辞書を受け取らず、自分で書き写し始める。このエピソードが印象的なのはそこに知識に対する純粋な渇望があるからだ。少しでも多く字を覚えたい、知識を得たいという願望。まさに教育の原点である。しかし同時にそれは知識の質に対する問いかけでもあった。ただ漢字をたくさん覚えること、言葉を書き写して鵜呑みにすること、果たしてそれが本当の教育なのだろうかという問いかけ。暗記はできても、まともな文章が書けない日本の子どもにも通じる問いかけだ。それはまた、党の方針を鵜呑みにさせるだけの文革の方針に対して疑問を投げかけることでもあった。この二つの主題をうまく結び付けて描いたこと、この映画が傑出しているのはその点である。文革の実態を生々しく描き出し世界中に衝撃をあたえた名作「芙蓉鎮」を始め、「青い凧」、「活きる」、「シュウシュウの季節」、「小さな中国のお針子」等々、文革、下放を描いた中国映画は多い。「子供たちの王様」には「芙蓉鎮」のような衝撃はないけれども、小さな山の学校を舞台にして教育と文化の荒廃という面から、文革という未曾有の野蛮な試みが孕む矛盾を描いて見せた。

 主題ばかりではない。チェン・カイコーは映像と音に関しても大胆な試みを行っていた。それを一言で言えば、映像と音のズレである。冒頭の一場面がその典型だ。ある家の中で一人の老人が太い竹筒のようなものでタバコを吸っている。ごぼごぼという音がするので、水タバコのようなものだろう。その老人はもう一人の男と話をしているのだが相手の男は画面には見えない。相手の男は画面の右側にある戸口の外にいるのだ(老人は画面の左側に座っている)。相手の男(これが主人公の”やせっぽち”なのだが)の声だけが聞こえる。”やせっぽち”もタバコを吸っているのだろう、時々戸口から煙が部屋に入ってくる。なんとも不思議な映像だった。かなり実験的な手法だが、実に効果的である。このように音はするが姿は見えないという「効果」をチェン・カイコーはこの映画のあちこちで用いている。”やせっぽち”が最初に山道を登って学校に行く途中で木が切り倒されている音が聞こえてくる。しかしキャメラは終始”やせっぽち”だけを映している。やがて大きな音を立てて木が倒れるがそれも映されない。あるいはどこかで誰かが歌っている不思議な響きの歌が聞こえてくる。

 ”やせっぽち”がもう一人の教師と校庭で話をしている場面もそうだ。左側に”やせっぽち”がいて、右側にもう一人がいるが、右側の男は時々画面の外に出てゆく。顔でも洗っているのか水音だけが聞こえる。また、上に書いた王福と賭けの約束をする場面だが、画面では古い竹をキャンプファイアーのように燃やしている映像を遠景で撮っており、どこか教室あたりで”やせっぽち”と生徒たちが話している声がこれにかぶせられている。この「映像と音のズレ」のクライマックスがラストの牛が走る音である。最初に触れた焼け残った木の幹が不思議なサボテンのように林立している丘の上に”やせっぽち”が差し掛かったとき、木の陰で牛追いの少年が小便をしていた。そこに突然牛の走る音と牛に付けた鈴の音が迫ってくる。”やせっぽち”も観ている観客も不安になるが、結局牛の群れは現れない。実にシュールな場面だった。

 これには伏線があって、”やせっぽち”は教室である字の説明を最後にする。日本語にはない字だが、牛という字の下に水と書く字だ。どういう意味の字かはっきりしないが、牛にとっては塩が貴重で、人間が小便をするとそれを飲みに来るという話をする。実はその字はもっと前からでてくる。”やせっぽち”が教科書の文を黒板に書いたところ、その中に王福に読めない字が二つあり、その一つがこの字だったのである。その時なぜか”やせっぽち”はこの字だけを消してしまう。想像するに、それは何か「なくてはならない大事なもの」を意味する字なのではないか。”やせっぽち”は最後にそれを生徒たちに伝えたかったのだろう。

<中国映画マイ・ベスト30>
「標識のない川の流れ」(1983)  ウー・ティエンミン監督
「黄色い大地」(1984) チェン・カイコー監督
「黒砲事件」(1985) ホアン・チェンシン監督
「大閲兵」(1986) チェン・カイコー監督
「紅いコーリャン」(1987)  チャン・イーモウ監督
「子供たちの王様」(1987)  チェン・カイコー監督
「芙蓉鎮」(1987) シェ・チン監督
「古井戸」(1987) ウー・ティエンミン監督
「菊豆」(1990)  チャン・イーモウ監督
「紅夢」(1991)  チャン・イーモウ監督
「心の香り」(1992) スン・チョウ監督
「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993)  チェン・カイコー監督
「青い凧」(1993) ティエン・チュアンチュアン監督
「活きる」(1994)  チャン・イーモウ監督
「女人、四十」(1995) アン・ホイ監督
「宋家の三姉妹」(1997) メイベル・チャン監督
「始皇帝暗殺」(1998)  チェン・カイコー監督
「スパイシー・ラブスープ」(1998) チャン・ヤン監督
「きれいなおかあさん」(1999) スン・ジョウ監督
「山の郵便配達」(1999)  フォ・ジェンチイ監督
「あの子を探して」(2000)  チャン・イーモウ監督
「初恋のきた道」(2000)  チャン・イーモウ監督
「鬼が来た!」(2000) チアン・ウェン監督
「思い出の夏」(2001) リー・チーシアン監督
「涙女」(2002) リュウ・ビンジェン監督
「小さな中国のお針子」(2002) ダイ・シージエ監督(フランス)
「ションヤンの酒家」(2002) フォ・ジェンチイ監督
「至福のとき」(2002) チャン・イーモウ監督
「HERO」(2002) チャン・イーモウ監督
「わが家の犬は世界一」(2002) ルー・シュエチャン監督

2006年3月27日 (月)

最高の映画資料「ぴあシネマクラブ」

033801   今日「ぴあシネマクラブ」の外国映画編と日本映画編を買ってきた。合わせて7400円。決して安い買い物ではない。いや、高い買い物だと言うべきだろう。映画の情報がぎっしりと詰まった分厚い冊子で、金もかかるが場所もとる(何年か前までは邦画と洋画が1冊に入っていた)。それでももう10年近く毎年買い替えている。インターネットでかなりの情報は手に入るが、やはりこのような紙媒体も手元に置いておくと便利だ。何が便利かというと、本体が充実していることもさることながら、巻末についている監督、男女優、脚本家、カメラマン等のフィルモグラフィーが実に便利なのである。監督や男優、女優等のリストとしても使える。特に洋画の場合は原題が国別に載っているので、原題を調べるだけではなく、国別にどんな映画があるかを調べるのに便利なのである。「世界中の映画を観てみよう」をモットーに掲げている僕にとってはこれが実に有用だ。かなり高価なものなのであまり人には薦められないが、毎年買わないまでも一度買っておくと便利ですよ。

  僕は毎年買い換えたときに古いものを人にあげています。行きつけのレストランのマスターで、毎月そこで映画の会(メンバー6人)を開いている。その時にこれがあると実に便利なのだ。何せみんな年だから人名やタイトルがなかなか出てこないことがしょっちゅうある。「え~と、彼女なんてったっけ。ほらあの金髪の女優だよ」って、それで分かるわけないだろ。悲しいことにこの連発である。「何に出てた人だよ」と聞けば、今度はタイトルが出てこない。まるでなぞなぞのような事態と相成る。その時これがあればすっきりするというわけ。

 僕の場合、映画や音楽の情報は基本的にインターネットではなく雑誌から得ている。僕が毎月欠かさず買っている雑誌は「DVDでーた」、「レコード・コレクターズ」、「ミュージック・マガジン」、「CDジャーナル」の4誌。記事は基本的に読まない。俳優やアーティストの個人情報には一切関心がない。新作情報とレビューだけが目当て。「スイング・ジャーナル」は毎年年末に出る1月号だけ買う。「完全データブック」という年間のレコード評を1冊にまとめた別冊子が付録で付くからである。これさえあれば十分。「キネマ旬報」も2月5日発売のベストテン号だけ買う。本の場合は「これから出る本」という無料の冊子と新聞が情報源。それと「ブックスケジュール」という無料ソフトも時々使っている。関心のある作家名や漫画のシリーズ名などを登録しておくと、1月先くらいまでの発売日がチェックできる。これ便利です。

  ネットに切り替えればだいぶお金の節約にもなるのだが、何せ長年の習慣だから半分惰性で買い続けている。音楽雑誌などは、以前は「FM fan」を買っていたが、何誌もあったFM雑誌は90年代末ごろに全滅。そのたびに別の雑誌に乗り換えてきた。変わらず買い続けているのは「レコード・コレクターズ」だけだ。音楽雑誌はジャリたれ相手のものが多いので取り上げている新譜をよく吟味して選らばなければならない。

 今買い続けている漫画のシリーズは「20世紀少年」、「プルートゥ」、「バガボンド」、「蟲師」、「平成釣りキチ三平」、「カバチタレ」、「イリヤッド」、「アタゴオルは猫の森」、「愛・・・しりそめし頃に」、「美味しんぼ」、「決定版カムイ伝全集」。作家としては、ますむらひろし、星野之宣、谷口ジロー、花輪和一、石川サブロウ、水木しげる、大友克洋、白土三平、つげ義春、諸星大二郎、浦沢直樹。手塚はほぼ欲しいのはそろえた。最近の発見はこうの史代。女性向だがなかなかいい。朝日新聞の日曜日に読書欄が載るが、漫画紹介の記事が常設されているので役に立つ。ちくま文庫も要チェック。「寺島町奇譚」を始め滝田ゆうの作品が何冊か入っている。

 何のかんのといってもただチェックするだけでは漏れもある。一番いいのはとにかく足しげく書店、レンタル店、中古店等に通うこと。こんなものが出てたのかという発見が結構あるものだ。東京中の古本屋と中古レコード店を歩き回っていた頃からもう30数年。いまだにラウンド(中古店めぐり)を続けている。僕のコレクター人生は一生続くんだろうなあ。

2006年3月26日 (日)

タンポポ

kamuro1 1985年 日本
脚本:伊丹十三
監督:伊丹十三
撮影:田村正毅
音楽:村井邦彦
美術:木村威夫
出演:山崎努、宮本信子、役所広司、渡辺謙、桜金造
    安岡力也、加藤嘉、大滝秀治、 黒田福美、村井邦彦
    松本明子、大友柳太朗、池内万平、野口元夫
    嵯峨善兵、 成田次穂、田中明夫、高橋長英
    橋爪功、岡田茉莉子、久保晶、 里木佐甫良、MARIO ABE
    加藤賢崇、高木均、二見忠男、洞口依子、藤田敏八、篠井世津子
    横山あきお、原泉、津川雅彦、中村伸郎、井川比佐志

  「お葬式」に続く伊丹十三の監督2作目。タンクローリーの運転手が、さびれたラーメン屋を立て直し、町一番の店にしてまた去ってゆくまでを描いている。タンポポとは店の女主人の名前であり、またそこから取った店の名前でもある(元は「来々軒」というありがちな名前だった)。ふらりと現れた風来坊が店の再生に一肌脱ぎ、また去ってゆく。併せて淡い女主人との恋がつづられる。まるで「シェーン」のような展開だ。伊丹十三の言葉を借りれば「ラーメン・ウェスタン」。公開当時結構評判になったのでこの程度は知っていた。しかしタイトルがあまり魅力的ではなかったのか、「タンポポ」は今まで観ていなかった。

  「お葬式」(1984年)、「タンポポ」(1985年)、「マルサの女」(1987年)、「マルサの女2」(1988年)、「あげまん」(1990年)、「ミンボーの女」(1992年)、「大病人」(1993年)、「静かな生活」(1995年)、「スーパーの女」(1996年)、「マルタイの女」(1997年)。「静かな生活」以外はすべて観た。どれもエンターテインメントとしてよくできている。こう並べてみると挑発的なタイトルが多く、「タンポポ」だけが確かに地味である。今頃「タンポポ」を観たくなったのは、友人が伊丹十三作品では「タンポポ」が一番いいと言ったからだが、それ以上に『ヨーロッパ退屈日記』(「パニのベランダで伊丹十三を読みながら」参照)、『女たちよ!』 、『再び女たちよ!』の3冊のエッセイ集を読んだからである。とにかく彼のエッセイは面白い。彼がとんでもないこだわり人間、薀蓄人間であることを知ったのはこれらのエッセイを読んでからである。日本人には使いにくいダンディという形容詞が似合う人で、料理もうまい。その彼が作った「ラーメン映画」なら面白いはずだ。そう思ってしばらく前から借りてくる機会をうかがっていたのである。どちらかというと「マルサの女」や「ミンボーの女」のドスの利いた宮本信子が好きなのだが、この映画もよかった。

  ついでに予告をしておくと、ちょうど今観たい新作DVDがなくなったので(「NANA」はいつもレンタル中)、4月までは自前のライブラリーから懐かしい作品を中心に選んで観ようと考えている。「黒いオルフェ」、「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」、「子供たちの王様」(チェン・カイコー監督)、「ザ・フロント」、「パッション・フィッシュ」、「ミツバチのささやき」、「山の郵便配達」、「わが心のボルチモア」辺りが現在の候補。「日曜日には鼠を殺せ」はその第1弾だった。もっとも、どれを観るかはそのときの気分しだいなので、どうなるか分からない。

  先のことはともかく、「タンポポ」はまず納得の行く出来。楽しめた。意外だったのは主筋に関係のない様々な食べ物に関するエピソードが挿入されていたこと。最後に全員ラーメンを食べに来るのかと思っていたが、まったく最後まで関係のないまま。昨今は複数の筋が互いに絡まりあう展開の映画が多いので、逆に新鮮だった。伊丹十三らしい遊び心。ラーメンの具のようにそれぞれのエピソードが自分の味を主張しあっている。それを麺とツユに当たるメイン・ストーリーと一緒にご賞味下さい、ちゃんと一つに解け合って絶妙な味になっています、ということか。

  何と言っても伊丹十三の持ち味はその軽妙さにある。意外にも薀蓄はそれほど傾けていない。メイン・ストーリーに絡む登場人物は、ラーメン屋の女主人タンポポ(宮本信子)、タンクローリーの運転手ゴロー(山崎努)とガン(渡辺謙)、お助け隊のショーヘイ(桜金造)、ピスケン(安岡力也)、センセイ(加藤嘉)。「シェーン」で言えば、山崎努がアラン・ラッドの役で宮本信子がジーン・アーサーに当たる。ブランドン・デ・ウィルデに当たるターボー(池内万平)という子役もいる。ただジーン・アーサーの夫ヴァン・ヘフリンに相当する役はない(すでに亡くなっているという設定)。ライカー一味が雇った殺し屋ジャック・パランスに当たるのが安岡力也なのだろうが、こちらは大喧嘩をして逆に仲良くなってしまうという「静かなる男」(ジョン・フォード監督)のパターン。ヴィクター・マクラグレンと同じ大男なので、案外意識した配役かも。最後に去ってゆくゴローとガンを見送るのはタンポポではなくこのピスケン。ただし野太い声で「ゴロー、カムバ~ック」と叫んだりはしない。タンポポを助ける助っ人がだんだん集まってくるあたりは「七人の侍」のパロディか。他にも色々パロディを忍ばせているのだろうが、そんな詮索はマニアに任せておけばいい。そんなことを知らなくたって十分楽しめる。

  「ラーメン・ウェスタン」を標榜しているが、基本的にはコメディ映画である。メインのストーリーはあるが、全体にエピソードの寄せ集め、積み重ねで構成されている。タンポポの味修行は意外にあっさりとしか描かれない。体力づくりと称して水を入れた大なべを何度も運ばせたり、マラソンしたり、なんだか「ロッキー」みたいだ(笑)。味そのものは他の店から盗んでくる。特に愉快なのはスープのだしを盗むシーン。金で買い取ろうとするがとんでもない額039195 を吹っかけられる。同じ店の男が安い値段でいいからと声をかけたので承知すると、なんと連れて行かれたのが隣の店。どんどん店の奥に入って行き、暗がりに入って行くのでタンポポが不安になって逃げ出そうとすると、男は小さな隙間を指差し、ここから覗けと言う。見るとラーメン屋の主人が出汁を作っているところだ。まあ、こんな感じで、味修行といってもほとんど他の有名店を食べ歩くのが主。時々策略を弄してコツを聞き出す程度。味にうるさいオヤジを助っ人として集めたといっても特に調理の指導をするわけではない。実際にやったのは店の改装とタンポポの衣装や髪型を変えた程度。結局はタンポポ自身がいい味を引き出せるようになるしかないというわけだ。

  もちろん伊丹十三のことだ、いくらでも蘊蓄をテンコ盛りにできただろう。そうしたい誘惑もあったに違いない。それをあえて抑え、蘊蓄の代わりに一口コントのようなエピソードを寄せ集めたのが成功したといえる。見事な味付けのさじ加減だった。『ヨーロッパ退屈日記』に現地で拾ってきたたくさんの小話が出てくる。まさにそういう感じ。奇想天外な展開である。一番すごいのは大滝秀治がぜんざいのもちをのどに詰まらせるところ。すかさずタンポポが電気掃除機を持ち出し、ホースを口に突っ込んでもちを吸い出す!「そこまでやるか?!」というくらいとんでもない映像だった。

  だから、面白いのはむしろ脇筋の方だ。中でも中心になり何度も出てくるのは白服の男とその愛人のエピソード(役所広司、黒田福美)。二人で卵の黄身を何度も口移しにするシーン、あるいは洞口依子(まだ子どもだ!)が取ってきた牡蠣を役所広司が食べるシーン(貝で唇を切って血が出る)などは実にエロティックである。開いた牡蠣の上に赤い血が一滴したたるところは強烈な映像だった。最後に銃で撃たれ血まみれになって死んでゆくが、死ぬ前に食べ物のことを口にするところが可笑しい。

  他にも、映画館でガサガサ音を立ててポテトチップスを食べるアベック(死語、懐かしい響きだ)のエピソード(村井邦彦、松本明子)、ラーメンの食べ方の本を朗読させ、そのイメージを思い描いている場面(大友柳太朗)、フランス料理のレストランでの接待(橋爪功、加藤賢崇)、焼肉屋の詐欺師(中村伸郎)、レストランでの食事マナー講習会でズルズルと音を立てて麺を食べる話(岡田茉莉子)、歯痛に悩む男(藤田敏八)、スーパーでやたらと商品を突つく老婆(原泉、津川雅彦)、グルメの乞食集団(加藤嘉)、臨終の妻が炒飯を作って死ぬ話(井川比佐志)、そして先ほど触れたもちをのどに詰まらせる老人の話(大滝秀治 桜金造)。エピソードも配役も実に多彩である。特にグルメの浮浪者が調理場に忍び込み、そこですごくうまそうなオムライスを子供に作ってやる場面は傑作だ。鮮やかな手つきでオムライスを作り、不審に思った警備員が覗きに来たときには間一髪逃げ出す。手際のよさと抜群のタイミングは「独裁者」で床屋のチャップリンが「ハンガリー狂詩曲」に合わせて独裁者の髪を刈るシーンを思い出した。曲に合わせて手を動かし、曲が終わると同時に髪を切り終わる。神業だった。「タンポポ」も伊丹監督自らフライパンを握ったところに芸人魂を見た。確かあのオムライスの作り方はエッセイのどれかに書いてあったと思う。

  井川比佐志と妻の話も傑作だ。なぜか井川比佐志が必死に走っている。家に飛び込むと妻が臨終を迎えていた。井川比佐志が妻に「しっかりしろ!そうだ、何か食事を作れ」と呼びかけたら、奥さんがいきなりむっくりと起き上がり、チャーハンを作り始める。作り終えるとばたんと倒れて死んでしまう。ワーワーと泣く子どもを叱りながら親子でチャーハンを鍋からよそって食べる。シュールな話なので泣けはしないが、非常に印象的だった。

  しかしまあ、みんな若いこと。特に役所広司と橋爪功の若いのには驚く。黒田福美も「ロード88」ではすっかりおばさんになっていたが、こちらは若すぎて分からなかった。逆に大滝秀治が変わらないのも仰天もの。また小津映画の常連中村伸郎がすっかり皺だらけの爺さんになって出てきたのにも驚いた。声と話し方は変わらないのですぐ分かった。

  変形オムニバスのような映画だが、まとまりは不思議とよい。食という生活の基本をテーマにすえた映画は意外と少ない。いわゆるラーメンブームはこの後のはずだ。とにかく楽しませることに徹した映画。伊丹十三が映画を作りながら自分でも楽しんでいたであろう事がよく伝わってくる。俳優から監督に転向して成功した人は少なくないが、日本ではまだそれほどいない。父親が伊丹万作という日本映画黎明期の大監督だったという血も感じさせる(作風はだいぶ違うが)。若い母親が赤ん坊に授乳しているシーンをエンディングに持ってきたことにも伊丹十三のセンスを感じさせる。母乳は誰もが最初に味わう「お袋の味」である。食に対する伊丹十三のこだわりが明示されたエンディング。これがまた一つのエピソードになっていると感じられるのがすごい。

2006年3月25日 (土)

日曜日には鼠を殺せ

1964年 アメリカ 037550
監督:フレッド・ジンネマン
原作:エメリック・プレスバーガー
撮影:ジャン・バダル
出演:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ
    ミルドレッド・ナトウィック、レイモン・ペルグラン
    パオロ・ストッパ、 ダニエラ・ロッカ、クリスチャン・マルカン
    ペレット・プラディエ、 ミシェル・ロンズデール

  フレッド・ジンネマン。社会派というとややずれるが、重厚な持ち味で様々なジャンルに傑作を残した。だが巨匠の割には以外に寡作で、10数本しか監督作品を残していない。おそらく日本ではゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」(1952)が一番有名だろう。僕の個人的評価では「ジュリア」(1977)が最高傑作だと思う。イギリスの大女優ヴァネッサ・レッドグレイヴの毅然とした姿が圧倒的だった。2位が「真昼の決闘」。それに続くのが「わが命つきるとも」(1966)あたりか。次いで本作「日曜日には鼠を殺せ」(1964)、「ジャッカルの日」(1973)、「尼僧物語」(1959) がほぼ横並びという印象である。名作と言われる「地上より永遠に」(1953)は僕にはどうも今一ぴんと来ない。初期の代表作「山河遥かなり」(1947)は未見。このところ大量に出回った廉価版DVDに入っているので、いずれ手に入れたい。

  「日曜日には鼠を殺せ」はもう30年以上前に観た映画でずっともう一度観たいと思っていた。なぜか映画ノートにはいくら探しても書いてない。書き漏らしたと思われるが、70年代に観たのは間違いない。淀川長治さんが解説をしていたのを覚えているので、テレビの「日曜洋画劇場」で観たのだろう。サッカーボールが道をぽんぽんと弾んでゆくシーンを見事だと言っていたのを観ているうちに思い出した。今回観直してそのシーンだけかすかに覚えていたのである。それ以外はほとんど忘れていた。

  「日曜日には鼠を殺せ」と言うタイトルは映画の原作から取ったものである。インターネットで調べるとRichard Braithwaiteの Barnabee's Journal:に“ I saw a Puritan-one hanging of his cat on Monday, for killing of a mouse on Sunday.”という一節があって、そこから取ったという説が有力である。日曜日に猫がネズミを殺したので、月曜日に猫を吊るしたという意味だ。淀長さんは、神聖な安息日にはネズミすら殺してはいけないが、それをあえて殺せと言うところに主人公の決意が暗示されている、という意味の解説をしていたと思う。しかし映画のタイトルはBehold a Pale Horseになっている。この意味は映画の冒頭に出てくる。「見よ、青白い馬が現れ、乗っているものの名は“死”といい、これに陰府(よみ)が従っていた。」(「黙示録」第6章、第8節)

  陰府とは英語では”Hell”、つまり地獄のことである。すぐその後に馬に乗った兵士の列が映され、さらにスペイン戦争の様子がしばらく描かれる。原作と映画のタイトルはどちらも隠喩的であいまいである。劇中にカトリックの神父(オマー・シャリフ)が重要な役で登場する。主人公のマヌエル・アルティゲス(グレゴリー・ペック)はネズミ捕りにかかったネズミのように罠にかかり、害獣のように殺される。どちらのタイトルにも宗教的な意味合いが込められているのは間違いない。

  「日曜日には鼠を殺せ」は決して活劇ではない。スペイン戦争が終わってから20年後を描いている。かつての共和派ゲリラの英雄マヌエル・アルティゲスも中年になり、日々鬱々と無為に暮らしている。そこにある日、パコ・ダゲスという少年がスペインから国境を越えてマヌエルに会いに来る。少年は「ビニョラスを殺して」と彼に頼み込む。彼の父ホセ・ダゲスはマヌエルの親友で、マヌエルの居場所を吐かせようとビニョラス警察署長(アンソニー・クイン)に拷問されて殺されたのだ。「あなたのせいでパパは死んだ」という少年の言葉にマヌエルは一瞬きっとなるが、話にならんと少年を追い出してしまう。しかしスペインに残してきたマヌエルの母が危篤となり、ビニョラス署長はそれを利用してマヌエルを呼び寄せ、罠にかけようとたくらむ。フランスにいるマヌエルはかつての仲間のカルロスから情報を仕入れているが、カルロスと少年の情報が食い違い、それに神父の存在が絡みマヌエルはなかなか決心がつかない。このようにフランスに亡命したかつての闘士と彼を罠にかけようとするビニョラス署長の駆け引きに大部分の時間を費やしている。マヌエルとビニョラス署長の対決、クライマックスの銃撃戦は最後に出てくるだけである。

  「真昼の決闘」も決闘シーンは最後に出てくるだけで、大部分は町の人々が協力を拒み保安官がたった一人で悪党たちに立ち向かわざるを得なくなる過程を映画いている。その点では「シェーン」や「荒野の決闘」も同じである。単なる派手なドンパチ映画ではなく、人間ドラマとして描かれているからだ。もちろんマヌエルとビニョラス署長の駆け引きだけではドラマとして弱い。そこで重要になってくるのはフランシスコ神父である。彼はこの作品の中でもっとも深い人間的葛藤を経験する。彼の葛藤とはどんなものだったか。彼は他の神父たちと一緒に聖地ルルド向かう予定だったが、急遽呼び出されてマヌエルの母と最期の会話を交わすことになる。その時神父はある難問を抱え込んでしまう。マヌエルの母は神父に最期の望みを託す。「あなたの神は不信心者の最後の望みもかなえる?ルルドに行くと聞いたわ。ポーを通るわね。息子はポーのスペイン通り17番地にいるの。奴らは罠をかけて息子を待ち伏せてる。」神父「秘蹟を授けましょう。」母「そんなものは要らない。息子を助けて。署長たちに殺される。」神父「法律に背くことはできません。」母「どちらの法に従うの?神の法?署長の法?神父なら私に慈悲を。息子の命を助けて。息子を・・・助けて。」

  神の法と署長の法、どちらに従うのか。重い問いかけだった。マヌエルたちはフランスに亡命後もたびたびスペインに侵入し、銀行などを襲ってレジスタンスを繰り返していた。たまたま銀行にいた神父の一人が頭を怪我して今はボケ老人のようになっている。レジスタンスの英雄もスペインではただの強盗、テロリストにすぎない。神父の苦悩は深い。マヌエルの母はその後すぐに息を引き取る。彼女が死んではもはや罠は意味を成さない。悩んだ末、神父は汽車の中でマヌエルに手紙を書き、ポー駅で切手を買って手紙を投函しようとしているうちに汽車が出てしまう。やむなく彼は直接マヌエルを訪ねる。しかし彼は留守で冒頭に出てきたパコ少年が留守番をしていた。神父はスペインに戻ってはいけないとマヌエルに伝えるよう頼み、彼に手紙を渡す。しかし少年は神父が味方なのか確信が持てず(共和派にとってカトリック教会は敵である)、またどうしてもマヌエルに父の敵を討ってほしいので、手紙を破いて捨ててしまう。

  その後前述のようにマヌエルは誰の言うことが正しいのか迷うことになる。ルルドに行って神父を捕まえ、無理やり家に連れてくる。そこで神父と二人で話すのだが、この場面もまた重要である。話すうちに二人が同郷であることが分かる。彼は急に打ち解け、酒を酌み交わす。「神父にも故郷はあるんだな。ロルカの男がなぜ神父になった?」神父「内乱の頃、まだ10歳の時のことです。ある晩兵士が来て父を殺した。」マヌエル「なぜだ。」神父「分からない。中立だったのに。」マヌエル「殺したのは?」神父「暗くて分かりませんでした。」マヌエル「人民側じゃない。」神父、顔色を変えて。「何の違いが?命を奪う権利があるとでも?」マヌエルは答えず、「もう行ったほうがいい」とだけ言う。

  「何の違いが?」と問われてマヌエルは答えられなかった。この点が重要だ。神父の詰問clock_sjj は正当だ。どちらが殺そうが理由もなく父が殺されたことに変わりはない。しかしマヌエルが何も答えられないということはこの映画の主題を著しく弱めている。ファシストの側か共和政府の側か、そんなことは表面的なものに過ぎない、人間という視座から見ればそんなものは相対化されてしまう。そういうことになる。これはこの作品を深めるのではなく、かえって問題を一般化してしまい、映画の底を浅くしてしまっている。スペイン戦争が持っていた歴史的、政治的意味合いを不問にふし、単なる正しい行いか誤った行いかという倫理的判断で終わらせている。単なる良心の問題に一般化されている。

  僕はこの映画を改めて観て、思っていたほどの傑作ではないと感じた。それは活劇として物足りないという問題ではない。アクション物ではなく人間ドラマとして作られているのだから。そのドラマの深さ、ドラマの中の葛藤の深さが問題なのだ。こんな一般論で終わらせるのなら、別にスペイン戦争でなくてもよかったことになる。フランシスコ神父とマヌエルのそれぞれの葛藤は傑作と呼ぶのに十分なほど深くはない、それこそが問題なのだ。

  マヌエルにも共和派に身を投じた彼なりの理由があったはずだ。何せ相手のフランコはファシストである。いくらでも言い分があったはずだ。互いの考えをぶつけ合い、それぞれになるほどと思わせる根拠があれば葛藤は深まる。ではなぜそうしなかったのか。単に20年が経過して諦めが彼の心を支配したからというのでは情けない。あるいは彼の思想の揺らぎを描きたかったのか。マヌエルが何も言い返せなかったのは、彼の政治的信条が揺らいでいたからだと。そう見ることも確かに可能だ。この映画の暗い色調もそれを裏付けているように見える。しかしそれではやはりスペイン戦争をテーマにした意味はなくなる。思想の揺らぎそれ自体は主題とするに足るものではない。独裁者フランコ対共和派という大きな対立軸がなくなれば、結局マヌエルとビニョラス署長の個人的な憎しみ合いの話に矮小化されてしまう。スペイン戦争そのものは背景に遠のき、個人と個人の対立を描いただけといわざるを得ない。

  マヌエルと神父が一夜を明かす場面は白黒画面の特性を生かして、深い陰影に縁取られた映像になっている。もちろん陰をうまく生かした映像はここばかりではない。作品のかなりの部分が暗く重苦しい色調で覆われている。暗闇の中で思い悩むマヌエル。カルロスが裏切り者であることがはっきりするが、それでも罠と知りつつマヌエルはスペインに戻りビニョラス署長を倒すことを決意する。サッカーボールを2階の窓から投げるのはそのときである。ボールは道に沿ってぽんぽんと跳ねてゆく。もう止められない、進むしかないという決意を象徴的に表しているシーンである。そこからが最後の山場。

  なぜマヌエルは罠だと知りつつそう決意したのか。マヌエルは埋めてあった銃を掘り出すために昔の仲間を誘ったときこう言う。「銃を掘り出すぞ。」「なぜ。」「母が死んだ。会いに行かねば。」「死んだ?じゃあ、行っても仕方ない。なぜ行くんだ。」「なぜ?」「ああなぜ。」「行くしかない。」「それもそうだな。」

  まったく意味のある会話になっていない。要するになぜ彼があえてほとんど自殺行為に近い選択をしたのか何も説明されていないのである。だが何となく分かる気がする。観客にそう思わせてしまうところがこの作品の力である。罠と分かっていて死地に赴く。最初に観たときそこに一番感動した。しかし今回見直していささか驚いたのは、そこにまったく悲壮感が込められていないことだ。昔の仲間と銃を掘り出すあたりからピレネーを越えて単身スペインに向かうあたりまで、ずっと軽快な曲が流れている。少しも悲壮感がない。まるでピクニックにでも行く感じだ。いかにもと言うような悲壮感漂う音楽を派手に流して盛り上げるのではなく、一種の異化効果を狙ったものだろう。しかしこれでよかったのか疑問に思う。むしろ一切の効果音を排して、自然音だけで淡々と客観的に描いたほうが良かったのではないか。穴を掘るスコップの音、銃を手入れするカチャカチャという音、山の斜面を登ってゆく砂利を踏む音。むしろ即物的に描いた方がより緊張感は高まっただろう。

  敵地に忍び込んだマヌエルは屋根に上り、狙撃用の銃を持った警官を襲う。その銃を使ってビニョラス署長に狙いをつける。するとその横に裏切り者のカルロスが現れた。銃は一発しか撃てない。周りには警官が大勢潜んでいる。2発目を撃つ前に集中砲火を浴びる。どっちを撃つか?結果は言わないでおこう。いずれにしてもマヌエルは撃たれて死ぬ。出発したときからそれは分かっていた。遺体安置所の母の遺骸の隣にマヌエルの遺体が並べられる。なるほどこれが彼の目的だったのかもしれない。神父に「何の違いが」あるのかと問われて答えられなかった時、ある意味で彼の運命は決していた。大儀を失ってしまえばもう何もこだわることはない。彼は母の元に戻りたかったのだ。そう思えてくる。

  主演のグレゴリー・ペックはなかなか渋い味を出して好演している。オマー・シャリフは実に印象的な役だ。「アラビアのロレンス」と「ドクトル・ジバゴ」が代表作だが、この作品も記憶にとどめる価値がある。アンソニー・クインは残念ながら今ひとつあくが強くない。原作はエメリック・プレスバーガーの小説である。マイケル・パウエルとの共同監督で、「赤い靴」、「ホフマン物語」、「黒水仙」、「天国への階段」などイギリス映画史上有名な作品を何本も作り出してきた人だ。特にその鮮やかな色彩の美しさ、鮮明さは今見ても色あせない。

2006年3月23日 (木)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年4月)

【新作映画】
4月1日公開
 「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督、日本)
4月8日公開  
 「家の鍵」(ジャンニ・アメリオ監督、伊仏独)  
 「美しき運命の傷痕」(ダニス・タノビッチ監督、伊仏ベルギー)  
 「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督、アメリカ)
 「タイフーン」(クァク・キョンテク監督、韓国)
 「寝ずの番」(マキノ雅彦監督、日本)
 「プロデューサーズ」(スーザン・ストローマン監督、アメリカ)
4月15日公開  
 「ダンサーの純情」パク・ヨンフン監督、韓国)
 「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」(カーク・ジョーンズ監督、英米仏)  
 「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
4月22日公開
 「Vフォー・ヴェンデッタ」(ジェイムズ・マクティーグ監督、米独)
 「ニュー・ワールド」(テレンス・マリック監督、アメリカ)
4月29日公開
 「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
 「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督、オーストリア他)
 「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督、英米仏日)
 「戦場のアリア」(クリスチャン・カリオン監督、仏独他)
 「太陽に恋して」(ファティ・アキン監督、独)
 「ファーザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
 「プラハ!」(フィリプ・レンチ監督、チェコ)
 「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ監督、米仏)

【新作DVD】
4月1日  
 「ドミノ」(トニー・スコット監督、米仏) 4月5日
 「ヴェニスの商人」(マイケル・ラドフォード監督、米英他)
 「スウィート・スウィートバック」(メルビン・バン・ピーブルズ監督、米)
 「ライフ・イズ・ミラクル」(エミール・クストリッツァ監督、仏他) 4月7日 030712_02_q
 「愛をつづる詩」(サリー・ポッター監督、英米)
 「イン・ハー・シューズ」(カーティス・ハンソン監督、米)
 「そして、ひと粒のひかり」(ジョシュア・マーストン監督、米他)
 「メリンダとメリンダ」(ウディ・アレン監督、米)
 「理想の女」(マイク・バーカー監督、英米伊他)
4月14日
 「蝉しぐれ」(黒土三男監督、日本)
4月21日
 「エリザベスタウン」(キャメロン・クロウ監督、米)
 「輝ける青春」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、伊)
 「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(マイク・ニューウェル監督、英米)
4月28日
 「女は男の未来だ」(ホン・サンス監督、仏・韓国)

【旧作DVD】

4月22日
 「歌うつぐみがおりました」(オタール・イオセリアーニ監督、ソ連)
 「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」(ハル・アシュビー監督、アメリカ)
 「四月」(オタール・イオセリアーニ監督、ソ連)
 「タンゴ・ピアソラ×ソラナスDVD-BOX」
    ※傑作「ラテン・アメリカ 光と影の詩」を含む。
 「扉の影の秘密」(フリッツ・ラング監督、アメリカ)
 「ルイス・ブニュエル DVD-BOX ①」(ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)
4月25日
 「田舎司祭の日記」(ロベール・ブレッソン監督、フランス)
 「霧の波止場」(マルセル・カルネ監督、フランス)
4月26日
 「デルス・ウザーラ」(黒澤明監督、ソ連・日本)
4月28日
 「ふくろうの河」(ロベール・アンリコ監督、フランス)

2006年3月21日 (火)

いつか読書する日

medaka7 2004年 
監督:緒方明
脚本:青木研次
撮影:笠松則通
照明:石田健司
美術:花谷秀文
音楽:池辺晋一郎
衣装:宮本まさ江
出演:田中裕子、岸部一徳、仁科亜季子、渡辺美佐子
    上田耕一、香川照之、鈴木砂羽 奥田佳菜子
    杉本哲太、左右田一平、神津はづき、田根楽子
    馬渕英里何、柳ユーレイ

  昨年の日本映画の好調を裏付ける作品。韓国の名作「八月のクリスマス」を思わせる抑えた演出で、原稿用紙に日記を綴ってゆくようなそんな佇まいの映画だ。副題を付けるなら「牛乳配達は二度恋のベルをならす」。

  舞台となるのは西東市という架空の街だが、実際の撮影は緒方監督が少年の頃住んでいた長崎市で行われた。映画はまだ薄暗い早朝に大場美奈子(田中裕子)が坂道を自転車で走り下りてくるところから始まる。今まで知らなかったが、長崎は坂が多い街だ。ほとんど街全体が山の斜面に造られているという印象である(もっとも、市電が走っているから中心部は平地なのだろう)。自転車を走らせる美奈子は勤め先の牛乳販売店に向かっていた。販売店で美奈子は冷蔵庫から牛乳を取り出し、店主(懐かしや!左右田一平)と一緒に軽トラックに牛乳を積み込む。自転車で配達するには坂が多すぎて不便なのだろう。配達地区まで車で来ると美奈子は袋に牛乳を入れ替え、歩いて坂道を登りながら牛乳を配ってゆく。一軒一軒牛乳箱から空き瓶を取り出し、新しい牛乳瓶を入れてゆく。ある家ではいつも老人が玄関前に座っており、美奈子は直接老人に牛乳瓶を手渡し、その場で飲み終わるのをまってまた空き瓶を受けとる。この一連の手順を大場美奈子ははっはっと息をして坂道を駆け上がりながら繰り返す。特に急な階段の前では「よしっ」と掛け声をかけてから上り始める。日常の事細かな行動の繰り返しを丹念に描写してゆく。まるでウルグアイ映画「ウィスキー」のようだ。

  この出だしが象徴的である。この映画の大半はなんでもない日常を描いている。美奈子以外の主要登場人物である小説家の皆川敏子(渡辺美佐子)と市役所の福祉課に勤務する高梨槐多も、最初は美奈子が牛乳を配達している内の2軒としてさりげなく登場する。同じことの繰り返しなのは朝の牛乳配達ばかりではない。昼はスーパーでレジ打ちのパート。夜は布団に入って一人で本を読む。この1日のサイクルを彼女はずっと繰り返してきたのだ。大場美奈子は50歳。いまだ独身。これまで特に大きな変化もなく一人で暮らしてきた。

  正直最初の30分は幾分退屈で、時間が長く感じられた。もちろんこの単調な日常描写のためである。なぜこれほど日常を事細かに描写するのか。それは彼女がこの単調な生活を自分に強いてきたからである。牛乳の配達が終わってからスーパーへ自転車で向かう美奈子の横を高梨槐多の乗った市電が追い抜いてゆく。美奈子と槐多は互いに顔を合わせない。どこか思わせぶりなのだが、最初はそれがどういうことなのか観客には分からない。

  実は美奈子と槐多は高校の同級生で恋人同士だった。ところがある事故がきっかけで突然二人の関係は切れてしまった。通勤途中顔を合わせなかったのは意識して互いを見ないようにしていたのである。美奈子が勤めるスーパーに槐多が買い物に来ることもあるが、槐多はわざわざ別のレジに並ぶ。分かれてから30余年。二人は互いに知らん顔をしながら、それでいて互いを忘れられずにいた。いや忘れられないからこそ互いに知らん顔をしている。槐多には妻がいる。妻の容子(仁科亜季子)は癌を患い先が長くない。寝たきりである。映画が進むにつれそういった事情が分かってくる。

  牛乳瓶の音で槐多の妻容子が目を覚まし、夫の槐多に起きているかと聞く場面が最初のあたりでさりげなく描かれる。何度か同じような場面が出てくるが、やがて毎朝槐多は美奈子が階段を上り牛乳箱の瓶を入れ替える音に耳をすましていたことが分かってくる。自転車の美奈子を市電の槐多が追い抜いてゆく場面も後半でもう一度出てくるが、今度は互いに相手を意識している。同じような場面を何度も繰り返し描くが、事情が分かってくると最初に出てきた場面を思い出し、そうかあれはこういうことだったのかと思い返すことになる。美奈子も槐多も30年間それぞれの思いを押し隠して生きてきた。美奈子が一生懸命走るのも昔の思い出を振り切るためである。「淋しかったらクタクタになればいいのよ。」思い出したくないからくたくたになるまで働き、寝てしまう。一見単調な繰り返しのように思えるが、ストーリーが進むにつれて前に出てきた場面を違った思いで反芻することになる。平凡な生活の中に隠された心のうずきが少しずつ見えてくる。その描き方がうまい。

  同じ町に住みながら、一生分かれ分かれの生活をするはずだった二人を再び結びつけたのは槐多の妻容子だった。彼女はふとしたことから二人の秘められた思いに気づいてしまう。もう自分の命が長くないことを知っている容子は、美奈子を呼び自分が死んだ後は夫と付き合ってほしいと告げる。夫にも同じことを話す。このあたりは非現実的だ。そもそも30年もお互いに昔の気持ちを持ち続けているというのも実際にはありえない話である。緒方監督自身もあるインタビュー(非常に学ぶところの多い優れたインタビュー)で「話そのものを取り出した場合、実はやっぱりファンタジーですよ。・・・ところどころに一種の寓話性みたいなものを残しておきたいなというのが狙いとしてあります」と語っている。おそらくここで評価が分かれるだろう。きれい事過ぎてありえないと受け取る人もいれば、ありえないからこそ引き込まれるのだという人と。男女でも別れるだろう。おそらく「マディソン郡の橋」に近いケースではないか。30年も同じ人を思い続けるということ自体に女性は惹かれるだろう。その点男は冷めている。

  僕自身、上のありえない設定以外にもこの映画には腑に落ちない点をたくさん感じる。美奈cyouzu1子はラジオ番組に匿名で「私には大切な人がいます。でも私の気持ちは絶対に知られてはならないのです」と投書する。しかし隠しておきたいのならどうして投書するのか。なぜ美奈子はその投書と牛乳配達の美奈子を結び付けたのか。前者は、完全に隠し切るのは息 苦しいから匿名で投書したのだと一応の説明はつくが、後者は女の勘だというのではすっきりしない。またそうと分かってからも、容子はどうして自分の気持ちを槐多と美奈子に直接伝えるようなことをしたのか。普通ならひっそりと分からないように二人を引き寄せる方法を考えるだろう。ちょっと不自然だ。

  ファンタジーだからと言ってしまえばそれまでだが、色々と意図的な誘導を感じてしまう。槐多が笑い顔のままで死んだのもありえない話だ。これなどもリアリティを無視した象徴的な描き方である。あるいは、認知症老人問題、育児放棄・児童虐待といった現代の社会問題が出てくるが、うまくドラマの中でつながっていない。どういうわけかドラマに厚みを加えるというよりは、逆に話が拡散してしまっている感じを受ける。また、あれほど美奈子が働いている場面がありながら、どういうわけか美奈子にあまり生活感がないのも不思議だ。一人暮らしだからだろうか。

  しかしこれらの疑問はあっても、この作品にはそれらを超える不思議な魅力がある。その魅力のかなりの部分は田中裕子と岸部一徳の存在感にある。二人とも50歳という設定。「きみに読む物語」のような老人同士の愛情を描いた作品は少ないが、中年の恋愛を肯定的に描いた作品も同様に少ない。その意味で貴重な作品である。演じている田中裕子もちょうどその年齢である。彼女ももう50になるのか。1979年のNHKテレビ小説「マー姉ちゃん」でデビューしてから四半世紀以上たっている。デビューした頃からあののっぺりした顔がどうしても好きになれなかった。うまい女優だと思ったこともない。しかしこの映画の彼女はなかなかいい。化粧もせず日々の生活を平々凡々と生きている中年の女性を余すところなく演じている。ほとんど無表情な役なのだが、派手な役よりもこういう役柄の方が彼女には合っているのかもしれない。美奈子に感情移入してしまうことはないが、共感はできる。

  無表情な人物を演じさせたら岸部一徳もすごい。以前からそうなのだが、彼が出てくるとあたりの音が消える(気がする)。画面全体に透明感が漂い出すというのか、せりふ無用の不自然なほど静けさに満ちた世界になる。実に不思議な雰囲気を持った俳優だ。全体にせりふの少ないこの映画にはぴったりの配役である。ほとんど妻と会話を交わすことなく淡々と世話をし、美奈子への思いを無表情な顔の奥に隠し仕事に励む男。まだしゃんとしている美奈子に比べると背中を丸めた立ち姿は隠しようもなく中年を感じさせる。容子が死ぬ前、一度だけスーパーのガラス越しに彼と美奈子の目が合ったことがある。ガラス越しに交わす無言のまなざし。この映画を象徴する場面だ。

  決して明るい映画ではないが、秘めた思いを描きながら鬱屈もしていない。二人が一生懸命日常を生きているから。会話の少ない映画だが、様々な場面やそのつながりからそこに描かれていないことまで読み取れる。今井正の名作「にごりえ」のレビューにも書いたが、これは昔から日本人が得意としてきた表現法である。緒方監督自身もそのあたりを十分意識して演出している。「映画ってスクリーンだけじゃなくて、人の心に入ったときに初めて完結するんですね。映画はやっぱり僕は見世物ではなく、見えないものを映すものだろうと思っているんで。それは例えば人を好きになったときの気持ちであったり、心の揺れであったり、葛藤であったり、あるいは空気であったり、ようするにパッと目にわからないもの。」

  もう一人重要な役割を果たしているのは容子である。全体にせりふが少ないこの作品にあって、病に伏せている容子はさらにせりふが少ない。しかしこの作品中で最も印象的な言葉を読者に投げかけてくるのは容子だ。容子から美奈子とのことを言われ、槐多は「俺さ、若いころにさ、絶対平凡に生きてやるって決めたんだよ。・・・必死になって、そうしてきたんだ。邪魔なんだあの人」と答える。それに対して容子が浴びせた言葉は強烈だった。「あなたはずっと気持ちをね、殺してきたのよ。気持ちを殺すって周りの気持ちも殺すことなんだからね。あの人と向き合いなさいよ、付き合いなさいよ。あたしにできることって、もうこれしかないじゃない。」最期に書き残した手紙もずばりと核心に踏み込んでいる。「あなたたちは互いに知らんぷりをしながら、結局惹かれあっているのです。ただ決して認めようとしないのです。」

  容子を演じた仁科亜季子は主演の二人に比べると存在感は薄いが、体が弱って行くはかなさのようなものはよく描かれている。こういうせりふがあった。容子「昼間蚊が飛んでた。夏でもないのに。」槐多「刺された?」容子「刺してもくれない。」美奈子と夫の間の秘められた愛情を知った時、容子はどんな思いだったのか。これもはっきりとは示されない。三人がそれぞれ胸のうちに思いを秘めている。それを退屈にならずに、また説明的にならずに描きとおした監督や脚本家の力量は賞賛すべきである。

  容子の葬儀の後、美奈子と槐多はそれぞれの母親と父親が事故で死んだ場所へ行く。そこで二人は互いの気持ちを確かめあう。二人は美奈子の家に行き初めて愛し合う、雨と涙でびしょ濡れになりながら。それまで封印されていたものが一気に噴き出す。しかしその短い盛り上がりの後、急転直下事態は予想外の方向に展開してゆく。

  緒方監督は「この映画のテーマというのは『人は過去にふりまわされて生きていくものではないか』ということです」と語っている。やっと過去から開放され幸福をつかんだと思った矢先に、指から幸福がすり抜けてゆく。しかし今度もまた美奈子はそれを乗り越えていった。美奈子はいつものように牛乳を配達し終えた後、そのまま坂を上りきって丘の上から街を見下ろす。ここで映画は終わる。美奈子が打ちひしがれていないのが救いだ。その表情は落ち着いていて明るい。ショックがないわけはない。過去を忘れることはないだろうが、引きずりはしないだろう。ある意味で、30年間胸に突き刺さっていたとげが抜けたのである。ほんの一晩だったが槐多の気持ちを確かめることができた。彼の肌を感じることができた。それを思い出にまた生きて行ける。美奈子をいつも温かく見守っている皆川敏子(渡辺美佐子)に「これからどうしていくの?」と聞かれ、美奈子は「読書でもするわ」と答える。また一日一日を力強く生きてゆくだけ。

  淡々とした展開の映画だが、非常に強い余韻を残す。坂道に響く美奈子の息遣いと牛乳瓶の音がいつまでも耳に残る。丘から眺める長崎の街は美しい。坂ばっかりの街だが、どの坂にも表情がある。その坂を美奈子は明日もまた駆け上ってゆくのだろう。

  最後に余談だが、槐多は有名な画家の息子という設定になっている(父の絵を売りに行く場面が出てくる)。となれば、槐多という名前は夭折した画家村山槐多から取った名前だろう。画家だった父が尊敬する村山槐多の名を息子に付けたと推測できる。ただ、わざわざそういう名前をつけたことが映画の中で特に意味を持たされていない気がする。

人気blogランキングへ

2006年3月18日 (土)

クライシス・オブ・アメリカ

2004年 アメリカ
監督: ジョナサン・デミ
製作: イロナ・ハーツバーグ、ジョナサン・デミ、スコット・ルーディン、ティナ・シナトラ
脚本: ダニエル・パイン、ディーン・ジョーガリス
撮影: タク・フジモト
原作: リチャード・コンドン
音楽: レイチェル・ポートマン
出演:デンゼル・ワシントン、メリル・ストリープ、リーヴ・シュレイバー
    ジェフリー・ライト、キンバリー・エリス、ジョン・ヴォイト
    ブルーノ・ガンツ、テッド・レヴィン、ミゲル・ファーラー
    サイモン・マクバーニー、ヴェラ・ ファーミガ

  今年のアカデミー賞は社会派が圧倒した。テロリストの苦悩を描いた「ミュンヘン」、赤狩りをテーマにした「グッドナイト&グッドラック」、様々な人種・階層の人々の群像劇「クラッorora1 シュ」、CIAと石油資本を告発した「シリアナ」、炭鉱での女性差別を批判した「スタンドアップ」、カウボーイの同性愛を取り上げた「ブロークバック・マウンテン」。ノミネート作品以外にも死の商人を主題にした「ロード・オブ・ウォー」や戦争の大儀を問う「ジャーヘッド」がある。2月に開催されたベルリン映画祭でも英国にするイスラム教徒をアルカイダと間違えて虐待した問題を描いた「ロード・トゥ・グランタナモ」や深刻な失業問題を扱った「イッツ・ウィンター」をはじめ社会性の強い作品が集まった(「シリアナ」も招待作品として上映された)。

  韓国では国産映画を守っていたスクリーンクォータ制の縮小(国産映画の年間上映日数の割り当てを146日から73日に減らす)が3月7日の閣議で決定された。アメリカの圧力が背後にある。チョン・ドヨン、アン・ソンギ、チャン・ドンゴン、カン・ヘジョン、チェ・ミンシク、キム・ジウン、チョン・ユンチョルなど韓国を代表する俳優や監督をはじめ映画人はデモを行い、これに強く抗議してきた。こちらはフィクションではなく、現実的課題として映画と政治の問題が論じられている。

  いうまでもなくこれらに対する日本での反応は鈍い。韓国映画界の大問題はほとんどろくに報道されず、アカデミー賞は「ブロークバック・マウンテン」にばかり報道の関心が集まっていた。同性愛問題を認知するかどうかがハリウッドの開放度の目安というわけだ。かつてセックス描写が表現の自由のものさしのように言われていたのと同じである。性描写も含めて表現の自由を守ることはいうまでもなく重要だが、セックス描写ばかりを問題にするのは問題の矮小化である。同性愛問題も同じことだ。

  少し話題がずれたので元に戻そう。前にも書いたが、このように社会派の映画が台頭してきたのは9.11からアフガニン戦争、イラク戦争をへて今日に至るアメリカの政治姿勢に対する映画人の態度が変化してきたからである。おそらくその変化のきっかけとなった映画はマイケル・ムーア監督の「華氏911」あたりだろう。歯に衣着せぬブッシュ批判がアメリカ内外の議論を沸騰させた。ほぼそれと同じ時期にアメリカで公開されたのが「クライシス・オブ・アメリカ」である。こちらはフィクションという形を取りながら、アメリカを影で動かす巨大コングロマリットと副大統領候補の恐るべき関係を暴き出している。

  大胆な設定だが、実はこれまた過去の作品のリメイクである。元になったのはジョン・フランケンハイマー監督の「影なき狙撃者」(63年)。リバイバル時に「失われた時を求めて」と改題されている。僕が90年にレンタル店で借りたビデオはこちらのタイトルになっていた。ジョン・フランケンハイマー監督と言えばシドニー・ルメットやスタンリー・クレイマーなどと並ぶ社会派の巨deep-blue01-5 匠として知られる。傑作といえるのはデビュー直後の60年代の作品に集中している。「明日なき十代」(60年)、「終身犯」(61年)、「五月の七日間」(63年)、「大列車作戦」(64年)、「フィクサー」(68年)あたりが代表作。重厚な持ち味を遺憾なく発揮して次々と傑作を作り出していた。「五月の七日間」と「フィクサー」が最高傑作だと思うが、残念なことにどちらもまだDVDが出ていない。これらに比べると70年代以降の作品はぐっと質が落ちると言わざるを得ない(ほとんどが大味になってしまう)。62年の「影なき狙撃者」はまさに彼の絶頂期に作られたことになる。これも結構有名な作品だが、ほとんど記憶がないところを見ると、僕としてはそれほど感心しなかったと思われる。

  「クライシス・オブ・アメリカ」のストーリーは元の作品と大筋ではほぼ同じだが、40年以上時間の隔たりがあるので当然いくつかの設定に変更が加えられている。そもそも原題のThe Manchurian Candidate は直訳すると「満州の候補者」だが、中国(当時よく中共と呼ばれていた)の操り人形という意味である。まさに冷戦時代の産物である(同時に赤狩り批判も込められている)。朝鮮戦争が湾岸戦争に変えられているのは当然だが、特に大きな変更は背後で操る敵と操る手段である洗脳の仕方である。背後の敵は共産国からアメリカ内部に置き換えられる。マンチュリアン・グローバル社というアメリカ政治に奥深く食い込んでいる巨大企業である。

  一方人間を洗脳して操る方法は当然より現代的になっている。操られる人間の脳にチップを埋め込み、ある言葉を聴くと洗脳された人格が表れる。62年版はトランプのあるカードが引き金になっていた。しかしこれがどうも荒唐無稽な感じがする。リアリティが売り物の政治劇にSFの題材を持ち込んだようでしっくりこない。「クライシス・オブ・アメリカ」はある程度期待してみたのだが、結果は期待を下回った。その主な理由の一つはこの荒唐無稽さだ。ある合図を送ることで人物を操るという設定だから、洗脳というよりマインド・コントロールに近いが、本当にそんなことが可能なのか。治療のため医療機器をインプラントする事はすでに行われているようだが、そこから埋め込んだチップで人を操ることまではまだはるかに距離があるだろう。脳の構造は心臓などよりはるかに複雑で、ペースメーカーを埋め込むようには行かないはずだ。現代のハイテクをもってしてもこれはまだ荒唐無稽という感じはぬぐえない。むしろなんとか真理教のローテクの方がはるかに脅威としてリアリティを感じさせるのは皮肉だ。さらに、何者かが最前線から負傷した小隊を連れ去り小さな島で手術を施す、しかも息子を盲愛している母親がその息子に対する危険な手術を許すという設定も著しく説得力に欠ける。

 ジャンルとしては政治サスペンスなのだが、湾岸戦争下のクウェートで負傷した米軍大尉ベン・マルコ(デンゼル・ワシントン)が、クウェートで実際には何が起こったのかを探ってゆくという展開が今ひとつサスペンスとして弱い。しかも、副大統領候補レイモンド・ショー(リーヴ・シュレイバー)、その母親エレノア・ショー(メリル・ストリープ)、その二人の疑惑を追及するベン・マルコ大尉に焦点が絞られすぎ、その結果アメリカの政権の中枢部に巣くう根深い腐敗の追及ではなく、エレノアの野望をベンがどう食い止めるかという展開に関心が向けられてしまう。途中でFBIが絡んできて、最期にはFBIが何事もなかったかのように事件の真相をもみ消してしまうという結末の付け方は悪くはないが、かといって意外というほどでもない。全体としてみると、社会派ドラマというよりもエンターテインメントに傾いている。

  結局問題の根源を個人に収斂させてしまった。そこに問題があると思われる。実際DVDの付録映像で脚本担当のダニエル・パインが次のように語っている。「この作品が描く“敵”とは、アメリカや世界を支配しようというその考え方だ。エレノアのゆがんだ野望は世の中に悲劇をもたらす。だからこの作品では敵はマンチュリアン社ではなくエレノアなんだ。」確かにエレノア役のメリル・ストリープは圧倒的な存在感である。おかげでマンチュリアン・グローバル社がかすんでいるほどである。しかしエレノアがマンチュリアン・グローバル社に利用されていた面も当然あるはずだ。この種の会社がそんなやわなはずはない。この点ではTVドラマ「24」の方がまだ複雑に描かれていた。やはり問題を単純化しているといわざるを得ない。

  アメリカの世界支配構造は相当奥が深く、様々な要素が複雑に入り組み絡まりあっているので、1本の映画でそれをすべて描き出すのはそもそも無理である。批判政党が弱小で保守の2大政党が政権をたらしまわしにしている米国内の政治構造、武器商人や石油関連企業や多国籍企業などが米政権内に深く食い込み、内外の利権をむさぼっている構造、日本政府に代表されるアメリカの「言いなり」政権が側面からアメリカを支えている国際的政治構造、これらの複雑な構造を総体的に描き出さなければその全体像はつかめない。「クライシス・オブ・アメリカ・サーガ」といった壮大な連作でも作らなければとうてい描けるものではない。しかし様々な角度からアメリカの政治と社会を鋭くえぐる映画が現れてきた。それらの作品群を総合的に捕えることで複眼的なアメリカ像が見えてくるかもしれない。色々不満はあるが、「クライシス・オブ・アメリカ」はそれらの作品群のさきがけになった映画だと言える。

2006年3月15日 (水)

コープス・ブライド

2005年 アメリカ・イギリス
監督:ティム・バートン、マイク・ジョンソン
製作:アリソン・アベイト、ティム・バートン
製作総指揮:ジェフリー・オーバック、ジョー・ランフト
脚本:パメラ・ペトラー、キャロライン・トンプソン、ジョン・オーガスト
撮影:ピート・コザチク
プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル
編集:クリス・レベンゾン、ジョナサン・ルーカス
音楽:ダニー・エルフマン
声の出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン
       トレイシー・ウルマン、ポール・ホワイトハウス、アルバート・フィニー
       ジョアンナ・ラムレイ、リチャード・E・グラント、クリストファー・リー
       マイケル・ガフ、ジェーン・ホロックス、ディープ・ロイ、ダニー・エルフマン

  今回は引用からはじめよう。

  ローズ・アシュトンにも誕生間もなく死んだ妹がいた。出生届も出されず、墓標にも名を記されずに終わった多くの赤ん坊の一人だ。一九〇四年、母の寝室に呼ばれたローズは、生まれたばかりの妹が枕の上で「ちっちゃな人形のように、きれいな顔で」死んでいるのを見た。母はローズに、雑貨屋へいって石鹸の箱をもらっておいで、その中に赤ん坊を入れて墓掘り人のところへ持っていって埋葬しておもらい、と言った。小さな妹のために何かしてやりたかったローズは、父親のコートの裏地を引きちぎって石鹸の箱に敷きつめた。きれいに見えるようにしてから、ようやくローズは妹の亡骸を入れたこの間に合わせの柩を持って墓koinobori_2w 地へ向かった。墓掘り人は小さな箱をしっかりと抱えたローズを見て、驚いた様子もなく、教会のそばに積み上げられた同じような箱や包みを指さした。ローズはわけがわからず、小さな赤ちゃんたちをどこに埋めるの、とたずねた。そのとき墓掘り人が言った言葉をローズはいまだに忘れない。「『いいかね、嬢ちゃん。今どきお墓を買う余裕のある人なんかいないんだ。公共墓地はいっぱいだし、埋める準備ができるまでああして置いておくしかない。一人ひとりの墓なんてもてないから、足の下とか頭の上に埋めるっきゃないんだ』。これを聞いて私はこの小さな人形のことを思い、胸が張り裂けそうになりながら家に帰りました。」

  これはディケンズからの引用ではない。アンジェラ・ホールズワース著『人形の家を出た女たち』(新宿書房、pp.189~190)からの引用である。イプセンの有名な戯曲『人形の家』(1879)のヒロインであるノラが「人形の家」を出た後どうなったか、20世紀に生きる実際の女性たちにインタビューを重ね、20世紀のノラたちは本当に「開放され」「自由に」なったのかを丹念に描き出した労作である。上の引用文に漂う悲しい沈痛な思いはまるで小説の一節のように読むものの心を捉え、何年たっても忘れがたい記憶として心に刻まれる。死人がまるで生ゴミのように軽く扱われる世界が20世紀に入ってもまだ実際に存在していたのである。小さな妹が死んでもまともな棺桶さえ作ってやれないほどの貧困。石鹸の箱にせめてもの思いで父親のコートの裏地を敷き詰めてあげる姉の思いやり(死んだ小さな妹を「人形」にたとえるのは示唆的である)。それを無造作に取り扱う墓掘り人。死が日常的な世界、これはディケンズの小説からの引用だと言われても誰もすぐには疑わないだろう。

  ティム・バートンの「コープス・ブライド」は19世紀のイギリス、ディケンズが活躍したヴィクトリア時代のイギリスを舞台にしている(元になったのはロシアの民話である)。隣り合う生者の世界と死者の世界。グレイのモノトーンで統一された生者の世界はまさにディケンズのイギリスである。グロテスクなほどディフォルメされたキャラクターたちは、まさにディケンズの登場人物たちの特徴と重なり合う。それぞれのキャラクターは特定の特徴が極限まで誇張され、一貫してその特徴に沿った行動をする。外見的特長がその人物の性格や言動と一致している。その視覚的イメージはディケンズの小説の挿絵(Oxford University Press発行のディケンズ全集に収められたイラストはそれだけでも眺めてみる価値がある)やイラスト付き諷刺誌『パンチ』のイラストを思わせる。

  それだけではない。ストーリー展開もどこかシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を思わせるところがある。対立する二つの世界、それぞれの世界に住む男女が出会い、生の世界に属する男がいっそのこと自分も死んで死の世界の女と一緒の世界に行ってしまおうと決意する。男には生の世界にも婚約者がいるところはシェイクスピアと違うが、どこか共通するものを感じる。登場人物もいかにもイギリス的。娘の結婚によって財産を狙う没宅貴族と息子の結婚で貴族との姻戚関係を持ちたいなり上がりの魚缶詰業者。実際によくあったことで、イギリス小説にもよく出てくるシチュエーションである。当時は妻や娘などは一家の当主の財産の一つのように思われていた時代である。互いの親の目論見で決められた縁組、結婚する当事者たちは結婚の直前まで会ったことすらなかった。欲望渦巻く中でこの二人(ヴィクターとヴィクトリア)だけが無垢な存在として描かれる。そこに結婚式に呼ばれたと称してちゃっかりもぐりこむ悪党バーキス卿。地上の世界は欲の皮の突っ張った人間が多数派である。

  しかし死者の世界は一転してジャズが響き渡る色彩鮮やかなアメリカ的世界である。そこが酒場だというのがいかにもアメリカ的。イギリスのパブと違って、こちらはミスター・ボージャングルをもじったボーンジャングルズを始め、骸骨たちがジャズに合わせて歌い踊るカラフルで活気にあふれたアメリカ式キャバレーの世界。欲望渦巻く暗鬱な生者の世界と浮世の憂さを一切持たない愉快で明るく陽気な死者の世界、逆転したこの対比が効果的だ。生きている間は貧困や病気に苦しめられていたものもこちらの世界ではすっかり陽気になっている。その例がヴァン・ドート家の御者を務めていたメイヒュー。たびたび激しい咳をして奥様にしかられていたが、ついに馬車の運転中に殉職、あの世に行ってしまう。しかし新入りとして死者の世界にやってきた彼は生前の悩みがなくなりほっとした表情を浮かべている。死者の世界とはまるで極楽である。上で引用したかわいそうな赤ん坊も、あちら側の世界に行ってガイコツ・ボーイやガイコツ・ガールたちと楽しそうに遊んでいるのではないかと考えると少しは慰められる。この映画にはそういう効果もあるのかもしれない。ラスト近くで死者たちが一斉に地上に出てきて、現世の当主をご先祖様が叱りつけるというギャグも出てくる。

  余談だが、メイヒューという名前は、ロンドンの街頭商人の中に入ってインタビューと観察を行い、分厚い記録を出版したジャーナリストのヘンリー・メイヒューを意識しているかもしれない(原書房から『ヴィクトリア時代ロンドン 路地裏の生活誌』として翻訳が出ている)。ヒロインのヴィクトリアという名前もヴィクトリア時代と引っ掛けてあるのかもしれない。また、だまされた花嫁コープス・ブライドはディケンズの『大いなる遺産』に出てくるミス・ハヴィシャムを思わせる。ヴィクターがエバーグロットの奥様の服にろうそくを落として火がつくというエピソードは、明らかにミス・ハヴィシャムのエピソードを意識している。もっとも、すっかり婆さんになっているミス・ハヴィシャムに対して、コープス・ブライドは死人だから(「コープス」は「死体」という意味)若さと美貌を保っているが。 しかし死せる花嫁コープス・ブライドはミス・ハヴィシャム同様満たされぬ気持ちを持ち続けていた。だがミス・ハヴィシャムのように男に復讐を企ててはいない。エミリー(コープス・ブライドの本名)には心残りはあるが怨念はない。恨みではなく、愛する人にめぐり合えない悲しみがあった。だから彼女の言動に感動するのである。何とか彼女の思いを遂げさせてあげたいと応援したくなるのである。

  死者たちの世界は幽界でも冥界でもない、死者たちは亡者でも幽霊でもない。苦しみも憂さもみな現世においてきて、今はただ人生ならぬ「骨生」を謳歌している。エミリーだってやっと探していた夫を見つけた今は他の死者たちと同じように楽しめる。それまでは地上に思いを残し、地上と地下の世界の間で成仏しきれずにひたすら夫となる人を待っていたのだろう。

  なぜエミリーが死んだのかを歌と音楽で表すところがうまい。とにかく音楽にあふれたこの世界の描き方が魅力的だ。死者の世界にはどうやら金持ちはいない。「死んでしまえばみな同じ」ということよりも、そもそも生きているとき金持ちだったり貴族だったりしたものは別のところに送り込まれてしまった感じ。地上よりもっと暗く陰惨な地獄にでも行ったのではないか。そこでは暗い死者のうめきのような音楽と不気味な死の舞踏がゆら~りゆら~りと演じられているのかもしれない。それはともかく、楽しい死者の世界には海賊や軍人はいても金持ちはいない、庶民ばかりの世界。

  とにかくそのキャラクターがいい。みんな骸骨なのだがグロテスクさはほとんどない。むしろ土産物屋に並んでいる「骨グッズ」や「「お化けグッズ」といった感じのかわいらしさが売り。実にキュートだ。人間が演じ、原作に縛られている「チャーリーとチョコレート工場」よりはるかに豊かなイマジネーションにあふれている。これぞティム・バートンの世界だ。キャラクターの造形は「ナイトメア」同様芸術の域に達している。異形なものに偏愛を示すのは何halloween-cut もティム・バートンばかりではない。骸骨におぞましさではなくキュートさをあたえるのはアニメや漫画の世界では良くあることである。たとえば、日本の漫画で言えば、ますむらひろしの『アンダルシア姫』シリーズの象子(ゾッコ)や『夢降るラビット・タウン』シリーズの骨平太(こっぺーた)。生意気だがどこかかわいらしい骨男。骸骨以外なら、妖怪たちに魅せられた水木しげるは言うまでもなく、手塚治虫の『火の鳥』シリーズや『どろろ』にも異形のものはたくさん出てくる。さらに異形のものにかわいらしさを感じさせるのは諸星大二郎の「栞と紙魚子」シリーズ。キトラさんなんかはティム・バートンの作品に特別出演させたいくらいだ。

  「コープス・ブライド」も負けてはいない。自分の体を楽器にしてしまう骸骨ミュージシャンたち、文字通り頭だけの給仕頭(head waiter)、コープス・ブライドの目から飛び出してくるマゴット(「うじ虫」という意味)。マゴットなんかは鬼太郎の目玉親父さながらだ。ヴィクターが今は骨だけになったかつての愛犬スクラップスに懐かしい芸をさせる場面で、「死んだふり」(faint dead)と言っても既に死んでいるのでスクラップスがきょとんとして動かないというギャグが可笑しかった。

  これらのキャラクターはかわいらしさが強調されるが、コープス・ブライドのエミリーにいたっては彼女のいじらしさと悲しみに共感すらしてしまう。エミリーが青白いほほに涙を流す場面は感動せずにいられない。死者の流す涙、その時われわれは人形が人間以上にわれわれの感情を揺さぶるという体験をするのだ。人形が人間の俳優以上に観る者の胸に迫ってくる。奇跡の瞬間である。ここには「演技」を超えた人間的な共感が生まれている。ある種の擬人化の力である。人間の心を持ったロボットの行動が感動を与える手塚治虫の世界に通じるものがある。仲間のロボットの「死」に抗議して他のロボットたちが集団自殺するストーリーには深く心を揺さぶられたものだ。

  エミリーとヴィクトリアとヴィクターの三角関係という絡みもうまく描けている。誰もが指摘する事だが、エミリーとヴィクトリアがそれぞれ魅力的で、普通の三角関係と違って二人とも幸せになってほしいと観る側に思わせるところにこの作品の魅力がある。金持ちのお坊ちゃんで頼りなげなヴィクターをはさんで、悲しきヒロインとして最後まで観客の共感を得てしまうエミリーと、けなげで芯が強くそしてとにかく可愛いヴィクトリアがそれぞれに真剣に、何の打算もなくヴィクターを求めるという描き方が秀逸だ。エミリーをもっと屈折したキャラクターにして、3人の絡みをもっとひねりたくなるところだが、終始後味の良いファンタジーとして美しく描いたことがこの作品の好感度を格段に高めていることは否定できない。物足りないと感じる人もいるだろうが、僕はアニメにはファンタジーが一番似合うと思う。これでいい。「チャーリーとチョコレート工場」よりずっといい出来だ。

  3人の絡みを描く際にピアノがうまく使われている。ヴィクターとヴィクトリアが出会ったのもピアノがきっかけだった。そしてなんといっても素晴らしいのが、ビクターとエミリーがピアノの連弾をするシーン。たとえようもなく美しい。言葉ではなく音楽を通じて、ともに同じ曲を弾くという行為を通じて互いの心を通じ合わせてしまう。素晴らしい場面があふれるこの作品の中で最も心を奪われる最高のシーンだった。エミリーを最後まで悲劇のヒロインとして描きとおしたこと、朽ち果てた肉体、骨だけの手というグロテスクな外面にもかかわらず彼女を美しいと感じさせてしまう人形の造形力と演出力。彼女の表情は実に豊かで雄弁だ。最後の決着のつけ方、エミリーの体が何百もの蝶となって飛んでゆくラストにもうならされた。

  ティム・バートンをB級監督だという人がまだいる。何かマニアックな感じがあるからだろうが、世界一の漫画・アニメ大国日本で「ナイトメア」や「コープス・ブライド」をマニアックだと感じること自体が信じられない。いやマニアック云々よりも、あれだけ宮崎駿が活躍していても、いまだにアニメを子供の観るものだと思っている人が多いという事こそが問題だ。もうそろそろ認識を変えようじゃないか。

  「コープス・ブライド」は「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」に匹敵する出来だと思った。「チャーリーとチョコレート工場」のレビューにティム・バートン作品のマイ・ランキングを載せたが、順位が変わったので改めてここに載せることにする。ついでにお勧めアニメも付けておきます。

1 ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(製作・原案)
  コープス・ブライド(監督・製作)  
2 ビッグ・フィッシュ  
3 シザーハンズ  
4 チャーリーとチョコレート工場  
5 マーズ・アタック  
6 スリーピー・ホロウ  
7 プラネット・オブ・ザ・エイプス  
8 エド・ウッド

【お勧めアニメ】
「アイアン・ジャイアント」(1999年、ブラッド・バード監督)
「ウォレスとグルミット」シリーズ(ニック・パーク監督)
「風の谷のナウシカ」(1984年、宮崎駿監督)
「キリクと魔女」(2002年、ミッシェル・オスロ監督)
「銀河鉄道の夜」(1985年、杉井ギサブロー監督)
「シュレック」(2001年、アンドリュー・アダムソン監督)
「チキンラン」(2000年、ニック・パーク監督)
「天空の城ラピュタ」(1986年、宮崎駿監督)
「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」(1993年、ヘンリー・セレック監督)
「ニモ」(1989年、ウィリアム・T・ハーツ監督)
「ベルヴィル・ランデブー」(2002年 シルヴァン・ショメ監督)
「火垂るの墓」(1988年、高畑勲監督)
「真夏の夜の夢」(1954年、イジー・トルンカ監督)
「未来少年コナン」(1978年、宮崎駿監督)
「モンスターズ・インク」(2001年、ピート・ドクター監督)
「やぶにらみの暴君」(1952年、ポール・グリモウ監督)

  ソ連はユーリ・ノルシュテインの「霧につつまれたハリネズミ」(1975年)や「話の話」(1979年)、ロマン・カチャーノフの「チェブラーシカ」など有名な作品をたくさん作っている。ただ僕はもう一ついいとは思わない。名作といわれるイワン・イワノフ・ワノー監督の「せむしの仔馬」は未見。有名なフレデリック・バックの「木を植えた男」も淡々としすぎて今ひとつ物足りない。ディズニーは子供のとき以来ほとんど観ていない。今のところ「ファンタジア」(1940年)が一番好きだ。

  日本の人形アニメでは「道成寺」などで有名な川本喜八郎がいる。残念ながらまだ彼の作品を見たことがない。今岩波ホールで彼の「死者の書」を上映しているようだが、何とか時間を作って観に行きたいものだ。

人気blogランキングへ

2006年3月14日 (火)

マラソン

fan-2 2005年 韓国
監督:チョン・ユンチョル
脚本:ユン・ジノ、ソン・イェジン、チョン・ユンチョル
撮影:クォン・ヒョクジュン
照明:イ・ジェヒョク/ナム・インジュ
編集:ハム・ソンウォン
美術:イ・グナ
エグゼクティヴ・プロデューサー:キム・ウテク
アソシエイト・プロデューサー:チョン・テソン
プロデューサー:ソク・ミョンボ
出演:チョ・スンウ、キム・ミスク、イ・ギヨン、ペク・ソンヒョン、アン・ネサン
   チョ・ヨングァン

  不思議なことに「マラソン」は『キネマ旬報』の2005年ベストテンでは1点も入らず、選外になった。傑作というほどではないが、決して悪い出来ではない。かなり評判にもなった作品なので、151位までにすら入らなかったのはなんとも解せない。案外投票した人たち自身もそう思っているかもしれない。韓国映画があまりに多く入ってくるようになったので、かえってどれを観ていいのか分からなくなった、あるいは、あまりに感動作という評判が立ちすぎて、むしろ避けて通る人が多かった、そういうことなのかも知れない。感動物はもうたくさん、正直そういう雰囲気はあったと思う。僕自身それほど期待してみたわけではない。評判だったので一応観ておこうという気持ちで借りてきた。

  大量に入ってきている韓国映画にはかなりお涙頂戴物が多いと思われるが、この映画は心配したほど泣かせようという演出ではない。チョ・スンウが演じた自閉症の障害をもったチョウォンは決して同情の対象として描かれてはいない。だがいかんせんストーリーが弱い。最後にマラソンを走りきるのだろうということはタイトルから推測できる。最後までほぼ予想したとおりにストーリーは展開する。最初から結末が見えている映画である。そういう意味では傑作と呼べる映画ではない。しかし韓国映画に数多くある「難病物」に比べると(自閉症は病気ではなく障害であるが)良くできた映画だと思う。

  難病物は難病を患った本人がけなげに振舞ったり、果たせなかった夢を涙ながらに語ったりして泣かせようとする演出になりがちである。その点この映画の場合主人公が自閉症だからはっきりと自分の感情を表現できない。したがって母親との精神的葛藤も描かれない。映画はむしろ年齢は20歳でも5歳児並みの知能しかないチョウォンの振る舞いと、彼に愛情のすべてを注ぎ込む母親のキョンスク(キム・ミスク)が何とか彼を一人前のランナーとして育てようと強い意志で努力する姿を客観的に描いている。二人から一定の距離を置き、感情を排して客観的に描いたことがこの作品をお涙頂戴物にすることを防いでいる。

  障害者本人ではなく障害者を持った家族に焦点を当てると、今度はどうしても苦労話になりがちである。もちろん大変な苦労であったに違いない。実際に自分で経験しなければその苦労は分かるなどと軽々しく言えない。キョンスクは夫(アン・ネサン)やチョウォンの弟であるチュンウォン(ペク・ソンヒョン)をあえて犠牲にしてでもチョウォン一人に愛情を注ぎ込んだ。一つのことを覚えさせるのにしつこいほど何度も何度も同じ事を繰り返し教えなければならない。映画では簡単に時間を飛ばすことができるが、その間も日々同じことが繰り返されていたのである。しかし「マラソン」はこれを単なる苦労話の映画にしなかった。それは母親を客観的に淡々と描いているからであり、彼女自身が自分の内面をほとんど見せなかったからであるが、それ以上に彼女の内的葛藤に焦点を当てていたからである。

  「マラソン」はチョウォンと同じくらい母親のキョンスクに比重をかけ、その苦悩と葛藤を描いている。だがその苦悩を映画の後半まで彼女に語らせなかった。この構成がうまい。映画の前半と後半ではこの母親に対する観客の認識は変わってしまう。前半はどんな差別にも負けずに一途に息子のために努力する彼女に共感する。シマウマが大好きなチョウォンが若い女が持っているシマウマのバッグに触ってしまい、警察に引っ張られる。その女に「そんな子ほったらかしにしないで、家に閉じ込めといてよ」と罵倒される。いったんは警察署を出たキョンスクはまた引き返し、その女にきっぱりと言い返した。息子は普通の子と変わらないという彼女の信念が世間の冷たい目にひるまない強い意志を彼女の中に作り上げていたのである。

  だから「息子より一日だけ長く生きることが願い」という彼女の言葉や、走る時だけは他の人々と違わないのだからそのマラソンの才能を伸ばしてやろうとする彼女の姿勢に共感するのである。「チョウォンの足は100万ドルの足!」と何度も言い聞かせる。だが、彼女の描き方で一番見事なのは決して彼女を美化しなかったことだ。一つは強い母の内面に苦悩と葛藤があったことを描いたことである。何とか本格的なマラソンの訓練を受けさせようと、キョンスクはボストンマラソンで優勝した経験を持つソン・チョンウク(イ・ギヨン)にコーチを頼む。しかし汚い言葉やつばを吐いたりするのを覚えてきたり、酒を飲まされたりするのですぐ息子をコーチから引き離してしまう。その時にコーチから「息子にマラソンをさせているのは、あんたのただのエゴだ」、「あいつが母親なしで生きられないんじゃない。あんたが息子なしで生きられないんだ」と言われてしまう。キョンスクは「短い期間に何がわかるの?」と言い返すが、コーチに言われた言葉は彼女の頭から消えなかった。彼女は「子供の気持ちは顔を見れば分かる」と思っていたが、本当にそうなのか。そういう疑問が彼女の中に沸いてくる。チョウォンは本当に走ることが好きなのか、彼女の中で初めて自信が揺らぎ出す。ついに彼女は胃潰瘍で倒れる。

  病床へ見舞いに来た夫に彼女が語った言葉は感動的である。「好きなことを見つけてあげたかった。でも気づいたら私が夢中になっていた。夢見たり、癒されたりしてたわ。何も知らない子どもに苦労させて。でも途中で止めることはできなかった。生きがいを失う気がして。」そしてチョウォンが子どものとき動物園で迷子になったときのことを覚えていたと夫に打ち明ける。実はそのとき彼女はチョウォンの世話に疲れて、握っていた手を離してしまったのである。「本当はあの時チョウォンを捨てたのよ。どうしても育てる自信がなかったの。・・・あの子はまた捨てられると思って“つらい”と言わずに生きてきたのかも。」

  キョンスクはつらい気持ちを夫に打ち明けることで心の重荷を下ろす。彼女は反省し、もうチョウォンを無理やり走らせるのをやめようと決心する。この彼女の葛藤と反省は心からのものだ。だからこそ感動的なのである。だが、それでも彼女にはまだ変わっていない面があった。それはマラソン大会の日に表れる。マラソンを禁じられたチョウォンは大会の日一人でバスに乗って会場に行ってしまう。後から心配して駆けつけてきたキョンスクが言った言葉は、「そんなに走りたかったのね。じゃあ思い切って走ってきなさい」ではなかった。彼 green_hill 女は無理やりチョウォンの腕を押さえて走らせまいとするのである。彼女の反省は本物だったが、それでもチョウォンの行動は自分が決めるという考えにまだ縛られていたのだ。走らせるのも、止めるのも、決めるのは彼女。長いこと波打ち際で砂の城を築くように同じ事を何度も何度も最初からやり直してきた彼女は、息子には自分で判断する力がないという認識を無意識のうちに持っていたのである。自覚的な意識のさらに奥底にある無意識の思い込み。映画はそこまで描いていた。傑作とはいえないものの、並の「感動作」などよりもこの映画が優れているのは、深く矛盾を抱えたキョンスクの意識を美化することなく丹念に描いていたからである。

  子育てで悩んだことのない女性などいない。ましてや障害を持った子を育てる親の意識に迷いや矛盾がないはずはない。子供のためと思いつつ、それでよかったのかと迷わない日はないだろう。キョンスクはその迷いを、チョウォンを一流のランナーにすることこそこの子の幸せと思い込むことで押さえつけてきたのだ。手を離してしまった自分への深い反省を込めて。しかしそうすることでいつの間にか彼女は息子から離れられなくなっていたのである。周りが見えなくなっていた。彼女はコーチのチョンウクの言葉で我に返り、「あんたはいつも兄貴ばかり。俺の気持ちを考えたことがあるのか」という次男の言葉で長男べったりだった自分に気づき、チョウォンの行動で自分の中の無意識の思い込みに気づかされたのである。そうは言っても、彼女の浅はかさを批判的に描いているというのではない。もう二度と手を離すまいという彼女の強い決意もわれわれは十分理解できる。だからこそ、あれは自分のエゴだったのかという彼女の苦悩の深さが観るものの胸に響くのである。

  マラソン大会の時、キョンスクは握った子どもの手を再び離した。今度こそ迷いなく。チョウォンは彼女の手から飛び立っていった。走っている時のチョウォンの表情が素晴らしい。母親の手は離したが、走りながら彼は沿道の人たちの伸ばした手に次々とタッチしてゆく。初めて家族とコーチ以外の人に「触れた」のだ。途中で走れなくなるが、その時すっと彼の前にチョコパイを持った手が伸びてくる。それをつかもうと彼はまた走り出す。まるで馬の前にぶら下げたニンジンみたいで笑えるが、あの手はキョンスクの手だったのだろう(もちろん幻である)。しかし再び走り出したチョウォンはせっかくつかんだそのチョコパイを途中で捨ててしまう。もう誰の助けも要らない。後は自分でシマウマのように走るだけ。そこに彼の成長がうかがえる。

  母親のキョンスクが自分の思い込みによって見えなくなっていたのは、自分の周りのことだけではない。息子の成長に気づかなかった。それを知っていたのはコーチのチョンウクだった。最初のうち、走ってのどが渇いた時にチョウォンは自分一人で水を全部飲んでしまう。コーチが水をくれと言っても見向きもしない。それは自閉症から来るもので悪気はない。しかしある時、走り終わった後彼はペットボトルの水を全部飲まずに半分残し、それをコーチに差し出した。スモモもコーチに分けてやるようになる。そこには確かな成長があった。

  食事のときにおならをしたり、弟に敬語を使ったり、音楽が鳴るとところかまわず踊り出したり、シマウマ模様を見ると触らずにいられなかったりしていた「子ども」は、フルマラソンに参加したとき初めて母親の手を離れ解き放たれた。会場に行くバスにも自分ひとりで乗ったのである。しかし彼は走り終わったときまた母親の手に戻る。成長はしたけれども、やはりまだシマウマとチョコパイとジャージャー麺とテレビ番組「動物の王国」が何より好きなチョウォンのままなのである。手はつながなくともまだ一緒に歩かなければならない。

  手は離れていても心がつながっていれば親子の絆は切れたりはしない。これは母と子のそれぞれの成長の物語だった。手を離すこと、それは息子の成長を認めることだった。子どもを守ることは子どもを何から何まで拘束することではない。20年かけてやっとキョンスクはそういう認識に達した。あまりにも過酷な20年間。チョウォンは少し成長したが、キョンスクを必要としなくなったわけではない。彼女の長いたゆまざる苦労があったからこそチョウォンは飛びたてたのである。完走した後チョウォンがカメラの前で見せたあのさわやかな笑顔は、キョンスクが何度も「スマイル」と教えたからこそあの場面で自然に出たのだ。

  チョウォンを演じたチョ・スンウ、キョンスク役のキム・ミスク、ともに見事だった。自閉症の障害をもったチョウォンを演じたチョ・スンウの演技は、「オアシス」で重度の脳性麻痺を患った女性を演じたムン・ソリのような見た目に派手な演技ではない。しかしちょっとした目の動きや体の動作で言葉にならない様々な「意思」を伝えていた。「春香伝」は観ていないが、「ラブストーリー」でさわやかな青年を演じ、「H」では一転してレクター博士を連想させる服役中の殺人鬼を演じていた。「マラソン」で彼の演技の幅はさらに広まった。中年四天王や「ペパーミント・キャンディー」、「オアシス」、「シルミド」のソル・ギョングなど、韓国には素晴らしい俳優がたくさんいる。チョ・スンウも彼らに匹敵するいい役者になるだろう。

  キム・ミスクは22年ぶりの映画出演だそうである。テレビドラマで日本でも知られているようだが、僕は韓国のドラマは一切観ていないのでこの映画ではじめて知った。若さと美貌を売り物にする女優ではない。しっかりとした存在感があって、彼女も素晴らしい。

  そして監督のチョン・ユンチョル。彼もまた本作が長編デビュー作とのこと。もう何度も言ってきたが、新人監督が次々に現れるところに韓国映画の勢いが表れている。陸続と出てくる新人監督の誰に対しても次回作を期待したくなる。こんな国は現在韓国以外に考えられない。

  「チョウォン」という名前はハングル語で「草原」という意味だとあるブログで紹介されていた。なるほどぴったりの名前である。チョウォンと草原とシマウマ。彼は今もどこかの草原を駆けているのだろうか。

2006年3月12日 (日)

久々にコレクターの血が騒いだ

021859    最近中古品はもっぱらアマゾンで注文している。上田あたりでは見かけることすらないものでも、ネットなら根気よく探せば結構安く手に入る。自分で「ラウンド」と称している中古店めぐりは今でも続けているが、いいものはめったに手に入らない。ネットで買うより地元の店で買うほうが送料がかからない分安上がりなのだが、地元には何せいいのがあまりない。それでもびっくりするような物が手に入るときがたまにある。中古店が新規に開店した時だ。客を引き付けるためだろう、結構掘り出し物が見つかる。「ゲオ」の上田店と小諸店が開店したときも大漁だった。しかし今日ほどの大漁はこれまで経験したことがない。

  僕が古本屋めぐりを始めたのは70年代初め、東京中の中古レコード店めぐりを始めたのは80年代初め。以来今日まで本、CD、DVDは基本的に中古で買ってきた(車も中古車以外は買ったことがない)。もう30年以上のキャリアだが、1日で3万円以上一つの店で買ったことはない。今日はじめてそれをやった。手持ちの金が足りなくて一度出直したほどである。「ブック・オフ」の上田中央店に初めて行ったのである。まだ開店してそれほどたっていないと思われる。前に一度見かけたことがあるが、それきり忘れていた。今日たまたま新聞の折り込みチラシを見て思い出したのである。今ならまだいいのが残っているだろうと思って多少の期待はしていたのだが、まさかこれほどとは。完全にコレクター魂に火がついて買いまくってしまった。DVD5枚、CD14枚、本2冊。締めて34050円也。もう財布はすっからかん。明日銀行で金を下ろさねば。

  中古店に入ったら端から端まで、CDならAからZまでなめるように見て行く。欲しいCDはメモ用紙に数千枚びっしりリストアップしてある。棚の前でめぼしいのを見つけたら、すでに持っているかどうかメモを見て確かめる。これを怠ると同じものを買って泣くことになる(買ったものは線を引いて消すのだが、これも忘れるとやばいことになる)。分厚いメモを手にしてDVDとCDの棚を端から端まで見ている客がいたら、それは僕です。

  今日の成果は以下のとおり。中古店では珍しくジャズが結構たくさん置いてあった。しかし、ケルト・ミュージック系がほとんどなかったのは残念。

[DVD]
「偉大なるアンバーソン家の人々」オーソン・ウェルズ監督
「大きな鳥と小さな鳥」ピエル・パオロ・パゾリーニ監督
「上海特急」ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
「嘆きの天使」ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
「巴里の女性」チャールズ・チャップリン監督

[CD/ロック・ソウル・ブルース etc.]
アーニー・ディフランコ「エデュケイテッド・ゲス」
アンジェラ・ジョンソン「ゴット・トゥー・レット・イット・ゴー」
エルヴィス・プレスリー「30ナンバー・ワン・ヒッツ」
ケリー・ジョー・フェルプス「スリングショット・プロフェッショナルズ」
PPM「レモン・トゥリー&アザー・グレイト・ソングズ」
フランツ・ファーディナンド「ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター」
マディ・ウォーターズ「ザ・ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ」
ミッシー・エリオット「アンダー・コンストラクション」

[CD/ジャズ]
アーチー・シェップ「デジャ・ヴー」
アート・ブレイキー「カフェ・ボヘミアのジャズ・メッセンジャーズvol.1」
オスカー・ピーターソン「ガール・トーク」
ブルーベック/デズモンド「ザ・デイヴ・ブルーベック・カルテット」
ボビー・ハッチャーソン「ハプニングス」
マッコイ・タイナー「インセプション」

[本]
エリザベス・ギャスケル『メアリー・バートン』(近代文芸社)
藤沢周平『蝉しぐれ』(文春文庫)

2006年3月11日 (土)

復讐者に憐れみを

cut_b-mgear04 2002年 韓国
監督:パク・チャヌク
製作:イ・ジェスン
脚本:イ・ジョンヨン、イ・ジェスン、パク・リダメ
撮影:キム・ビョンイル
音楽:オオブ・プロジェクト
美術:チェ・ジョンファ、オ・ジェウォン
照明:パク・ヒョヌォン
出演:ソン・ガンホ、シン・ハギュン、ペ・ドゥナ
    リュ・スンボム、イム・ジウン、 ハン・ボベ
    キ・ジュボン、イ・デヨン、キム・セドン
    イ・ユンミ、 オ・グァンノク、キム・イク、チ・デハン、ホ・ジョンス

  「復讐者に憐れみを」は「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」と続く「復讐三部作」の第1作目。他の2作はまだ観ていない。まったく期待していないし、ただ批判するためだけに観ることになりそうだからさっぱり気が進まない。しかし、特に「オールド・ボーイ」は話題になり、評価も高いだけに観ておかねばならない。とはいえ、ほとんど義務感で観なければならないのはつらい(僕の嫌いなタイプの映画である可能性が9割以上という予測だから)。

  ぼやきはさておき、この作品を論じるときにリアリズムとリアルと言う言葉から入るのが良いだろう。なぜならリアルとリアリズムの混同が多く見られるからだ。リアルというのは「いかにもそれらしく見える」という意味で使われる。これはそれでいい。しかし多くの人が「復讐者に憐れみを」をリアリズムの作品と言うときは、どうやらその残酷描写がリアルで、「生身に応えるような痛さ」であるとか、「実感を伴う痛み」が生々しく直に伝わってくるという意味で使っているようだ。文学理論などで使う本来のリアリズムの意味とはだいぶ違うので最初は戸惑った。

  別にリアリズムの定義をここでしたいわけではないので、そういう意味で使われているのだろうと確認できればそれでいい。言いたいのは、多くの人がこの作品の特徴として、そしてこの作品を高く評価する理由としてそのリアルな「痛さ」を挙げていることである。最も端的なのはあちこちで見かける「痛い」映画という表現。後はそのヴァリエーション。力強い映像、強烈かつ濃厚、半端じゃない、インパクトがある、アクの強さ、強烈な映画、等々。そしてそれを体現した俳優たちの鬼気迫る熱演を一様にほめる。

  確かにソン・ガンホをはじめ、主要な俳優の演技はまことに見事である。そしてこの映画が「痛い」映画だというのもそのとおりである。だがそれだけではこの映画が優れた作品だということを意味しない。単なる「見世物」に過ぎないことをあらわしているだけかも知れない。要するに真の「リアリズム」映画だとほめるのは、単にここまでやるからすごいと言っているだけではないのか。だから耐え難い残酷さに満ちていると言いつつ褒めるのである。そこが実に面白い。この映画をホラー映画だと言う人もいるが、確かにそれに近いものがある。刺激が強烈であればあるほど、ぞっとすればするほどいい映画と言えるジャンル、インパクトの強弱が評価の指標になる珍しいジャンルである。しかも復讐をテーマとしているので、常識的な倫理観をはなから逸脱している。そこに何かただならぬ潔さ、凡百の映画を越える強烈なインパクトを感じているのだ。観る側に明確な価値観がないとホラー映画同様単にインパクトの強弱で価値を計ってしまいかねない。だがそれで価値が計れるなら本物の殺人を映したスナッフ・ビデオはそれこそ傑作に数えられることになる(本当に存在するのかどうか分からんが)。

  かくして、まるでお化け屋敷かジェットコースターのように、怖いもの見たさ、刺激の強さを求めて観客はこの映画を見に行くことになる。実際多くのブログがこの「生々しさ」は一度体験したほうが良いと勧めている。たしかにその「生々しさ」は半端じゃない。パク・チャヌク監督は「ハリウッドのスプラッター映画に比べれば全然残酷じゃないです」と言ったそうだが、この認識は間違っている。スプラッターなどは子供だましに過ぎない。それ以上にこの映画の残酷場面が生々しいのは復讐劇だからである。ただ派手に殺せば良いというスプラッターと違い、恨みと怒りがこもっているから憎しみを込めて何度も殴ったり、体を切り刻んだりする。スプラッターは首や腕が飛んだり、血がほとばしったりするが、相手を殺してしまえばそれきりのことである。あるいはギャング映画の殺し屋なら一発で息の根を止めたほうが効率的で、見つかる可能性も少ないので一連の動作がスマートである。しかし、こちらはこれでもかこれでもかと、とことん憎しみを相手の体にぶつける。相手が死んだ後も殴り続け、体を痛めつける。だから「痛い」のだ。映像テクニックもはるかに優れているから、見せ方もうまい。

  果てはエスカレートして不必要で不自然な場面まで入れ込んでいる。その典型が娘の司法解剖にドンジン(ソン・ガンホ)が立ち会う場面(韓国では司法解剖に肉親が立ち会えるのか?)とその娘がおぼれる場面。司法解剖の場面はストーリー展開と何の関係もなく、ただ体を切り刻む映像を映したかっただけである。娘が溺れるのも実に不自然で、ましてやその死体が仰向けでもうつ伏せでもなく横になって水に浮かび、顔の左半分が水面から出ているなんてことはありえない。単にそのぞっとする映像(しかも目を開けている)が撮りたかっただけである。このあたりはまさにホラー映画である。石の下から朽ち果てたリュ(シン・ハギュン)の姉の顔が出てくる場面も何の必然性もない。土に埋めなかったのは発見されることを前提にしているからである。ただ気持ち悪い映像を映したかっただけだ。

  こういった無理やり入れ込んだ映像もあるが、復讐場面が「痛いほど生々しい」という意味でリアルだという指摘は確かにそのとおりである。だが僕はこの映画を評価しない。この映画は単に刺激の強さで売っているだけの中身のない映画だと思う。その意味でもホラー映画という指摘を否定する気はない。僕がこの映画を観て最初に感じたのは、キム・ギドクと似た作風だということである。どちらも美麗な映像と情念の激烈さで不条理なテーマを描く作風である。見るものはそれに圧倒され、なんとなくすごい映画ではないかと思い込んでしまう。何か「深い」ものがそこにあるのではないかと勘違いしてしまう。

  「復讐者に憐れみを」のような作品が生まれてくるのには韓国人の国民性も関与している気がする。感情を隠したがる日本人に比べて、韓国人は大げさとも思えるほど感情をあらわに表現する。肉親に対する親近感も日本人よりずっと強い。日本では「ボラザーフッド」のような映画はまず生まれない。あそこまで入れ込む人間はからかいの対象か煙たがられる対象にしかならない。しかし韓国人はあそこまでやるのだから、それだけ兄弟を愛していたのだと考えるのだろう。

  それはともかく、この映画に完成度が高いという評価を与える人は結構多い。完成度と言うからには単に「生々しさ」だけを評価しているわけではないだろう。まるで叙情詩のような美しい自然が映し出されていることを評価する人も多い。臓器密売業者に会うため、廃墟になったビルの階段を登ってゆくリュたちを逆光で撮る場面などは確かに映像テクニックとして見事である。しかしそれだけでは傑作とするには足りない。ではテーマとしてはgolddrop1 どう評価されたのか。運命や無情な世の中に翻弄される無力な存在である人間、誰も悪人はいないのにもかかわらず、ちょっとした運命のいたずらで歯車が狂い出し、人間の心の奥底に秘めていた激しい怒りと憎しみの感情が噴出して、復讐という終わりのない悲劇の連鎖、不条理な暴力の連鎖が始まって行く。主要登場人物のほとんどは死に絶え、最後にはなにやら人間の哀しみや哀れさ、孤独感、空虚さだけが残る。ここに描かれた人間の負の連鎖には、因果応報という形で現れた、人間の根底にある欲や業が描かれている。とまあこんなことになろうか。最後の「人間の根底にある欲や業」などはまさにキム・ギドクの世界と共通する。当然「欲や業」こそが人間の本質だということになる。

  この種の映画をほめるときの常套句、「運命の皮肉とそれに翻弄される人間の卑小さ」、「不条理」、「人間の本質」、「人間の奥底にある感情(あるいは欲や業)」などが総動員されている。なるほど壮観で、これだけ数がそろっていればきっと傑作に違いない。そんな気になるかもしれない。しかし人間の本質と言われるものは本当に本質なのだろうか。だいたい「本質」という言葉自体が抽象的・観念的である。「人間とはこれこれである」と一言で言ってしまえるほど人間は単純ではない。「本質」という言葉が抽象的・観念的だからこそ「人間の業」などという抽象的・観念的な概念と簡単に結びつくのだ。どうせ抽象的なのだから何だって良いのである。ある時には「人間の本質的残酷さ」だったり、「人間の本源的罪意識」だったり、「人間の心の奥底に潜む黒い情念」だったり、その場に応じていくらでも変えられる。人間の特性を「善」と「悪」に分け、「悪」の側に属する特性をとっかえひっかえ持ち出してくるのが共通の特徴である。なぜか「悪」の特性ほど高く評価される。しかしいくらでも入れ替え可能ならば、それを「本質」と言えるのだろうか。僕がこの映画を真のリアリズム映画だと思わないのは、このように抽象・観念的的な概念に行き着いてしまうからだ。

  この作品にどこか乾いたところがあると何人かが指摘している。それもそのはず、この映画には人間の葛藤が何も描かれていない。映画は無機質な感じで淡々と進む。人間的悩みや葛藤がないから当然そうなる。まるでロボットが主人公であるかのように、ただ行為だけが示される。その行為を実行するのに何のためらいもない。ただ復讐の情念や怒りだけがある。いやその情念や怒りすら内面化してほとんど描かれない。工場の流れ作業のようにただ復讐行為だけが淡々と進行してゆく。だから「乾いた」という印象が生まれる。ハードボイルドだという指摘もそこから出てくるのだろう。まったくの人工の世界、作り物の世界である。

  したがって主人公たちの行動原理にリアリティはない。話は寓話と化す。話の展開の節目節目でパク・チャヌクは「いんちき骰子」を振る。誰が何度ふっても同じ目が出る。駄洒落を言えば「裏目」という目である。何をやっても裏目に出る。その典型が上で指摘した、誘拐された娘が溺れる場面である。あんなわざわざ溺れに行くようなことをするはずがない。遠回りして水のないところを行くか、水に入ったとしても浅いところをたどってゆくはずである。無理やりの展開。だから「いんちき骰子」なのである。運命のいたずらでも、不条理でもない。作者がある集結点に向けてすべてを転がしているだけである。

  観ていてまったく引き込まれることもなく、共感することもなく、何のインパクトも受けることもなく、終始覚めて観ていたのは、ストーリーにそういう意味でのリアリティがないからだろう。どうしてもそっちに持っていきたいのね、そう感じるだけ。リアリティがないから当然インパクトもないわけだ。ボリュームを最大にしてつまらない戦争映画をみているようなもので、うっとうしいだけでインパクトが大きくなりはしない(もっともこの映画の場合、音ではなく映像にインパクトを込めているのでうまいたとえではないが)。

  障害者、貧富の差、リストラ問題、臓器密売組織の存在などの社会問題を随所にちりばめているにもかかわらず、社会性が欠如している。イギリス映画「人生は、時々晴れ」のような生活や人間関係のリアルな描写がないので、多くの人が「救いがない」と指摘しているにもかかわらず、そんな感じはほとんど受けない。「人生は、時々晴れ」の方がリアルな生活が描かれているだけに、どうしてもその生活から抜け出せないという暗澹とした気持ちになるのである。「復讐者に憐れみを」は所詮作り物だから、そんな深刻な感じは何も残らない。社会性がないから個人の行為の強烈さだけが浮き立ち、いたずらにエスカレートしてゆく。同じ「復讐が復讐を生む悲劇的連鎖」を描くのでも、ボスニアやイラクの泥沼のような状況を描くのなら、「暴力は悲しい人間の性」という命題がはるかに現実味を帯びて迫ってくるだろう(それでも政治的、経済的、歴史的説明は可能だから、必ずしも「性」という抽象的・観念的な捉え方をする必要はないと思うが)。個人レベルの復讐を描いたのでは、ただ陰惨なだけの復讐劇で終わってしまう。ただインパクトの強さだけがあって、何の深みもない。

  「JSA」は韓国映画史に残る傑作だったが、「復讐者に憐れみを」は異色作ではあっても優れた作品とはいえない。パク・チャヌク監督は若い頃映画評論家や映画雑誌編集者をしていたようだ。この経歴を見てなんとなく納得がいった。いかにも元映画評論家が作りそうな映画だ。元映画評論家たちが大挙して映画を作ったフランスのヌーヴェルヴァーグ時代はフランス映画のもっとも不幸な時代だった(あの停滞からいまだに完全には立ち直れていない)、僕はそう確信している(もちろん個々には優れた作品もあるが)。しかし映画評論家たちはヌーヴェルヴァーグの映画やキム・ギドクなどの映画をむやみと高く評価するのである。その影響は一般の映画愛好者にも伝染して、「魚と寝る女」のような映画が出るとすごい映画だと褒め上げてしまう。そんなことはない。「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を観て何がいいのか分からなくてお悩みのあなた。悩むことはありません。正しいのはあなたです。この2本は何の価値もないただのクズ映画です。偉い評論家がどう言ったかなんて関係ない。つまらんものはつまらん、はっきりそう言えばいい。

2006年3月 6日 (月)

大いなる休暇

tea-blue 2003年 カナダ
原題:La Grande Seduction
監督:ジャン=フランソワ・プリオ
脚本:ケン・スコット
撮影:アレン・スミス
美術:ノーマン・サラザン
音楽:ジャン=マリー・ブノワ
衣装:ルイーズ・ガニエ
出演:レイモン・ブシャール、デヴィッド・ブータン
    ブノワ・ブリエール、リュシー・ロリエ
   ピエール・コラン、リタ・ラフォンテーヌ、クレモンス・デロシェ

  カナダ製作の愛すべきほのぼのコメディである。このところカナダ映画の活躍はなかなか目覚しい。人口が少ないのでカナダ独自の映画はあまり作れないが、資本参加という形で結構多くの映画を共同制作している。2003年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した「みなさん、さようなら。」はその数少ないカナダ映画の代表作だが、「大いなる休暇」はそれを抑えて2003年にカナダでナンバー1のヒットを記録した作品である。「ボウリング・フォー・コロンバイン」で、カナダもかなり銃の保有率は高いが銃の絡んだ犯罪は少ないことが紹介されている。今でも家に鍵をかけないところが多い。そんなのんびりした国の映画。しかも舞台は人口がたった125人しかいない小さな島、サントマリ・ラモデルヌ島(架空の島、撮影はケベック州北部にあるハーリントンハーバーという陸の孤島と呼ばれる小さな町で行われた)という設定。

  話はしごく単純。かつて漁業で栄え活気に溢れていた島も漁業がすたれてから次第に活気を失っていった。島民たちはもう8年間もわずかな失業手当に頼って暮らしている。何とか島おこしをしたいこの島に大規模なプラスチック工場誘致の話が持ち上がる。しかし、工場を誘致する条件として島に定住する医者が必要だった。長い間無医島だった島の住民たちはお医者さん獲得のため村を挙げて大作戦を展開する。

  「Dr.コトー診療所」みたいな話だが、ストーリーはむしろイギリス映画の傑作「ウェールズの山」に近い。ウェールズの小さな村にある日イングランド人の測量技師が二人やってくる。地図作成のため山の高さを測量していったのだが、結果は1000フィート(これを越えないと山とみなされない)にわずかに足らず、山ではなく丘だということになった。これを知ったウェールズ人たちは怒り狂う。ローマ占領時代からふるさとを敵から守ってきた郷土の誇りの山を「丘」だとは何事か。イングランド人(アングロサクソン系)に対するウェールズ人(ケルト系、独自のウェールズ語もある)の敵対意識が燃え上がり、ついにはあの手この手で二人のイングランド人を引きとめ、その間に村人総出で山のふもとから土を頂上に運び上げ、何とか「山」にしてしまおうというユーモラスな作品である(原題は「丘に登り山を降りてきたイングランド人」)。最後にはイングランド人も村人と仲良くなり、一人は村の娘(「ブラス!」のタラちゃんです)と結婚することになる。スコットランドよりずっと早くイギリスに併合されたとはいえ、もともとは別の国。映画の最初のせりふは「誰か英語を話せるものはいないか?」で、「ここは外国だ」と言うせりふも出てくる。イングランド人にバカにされてたまるかというウェールズ魂に共感してしまう。「大いなる休暇」に民族意識の要素はないが、寒村と都会の対比、産業もなく寂れた村に住む人々の誇りが描かれており、ストーリー展開も含めよく似ている。

  村人にだまされるのは美容整形を専門とする青年医師クリストファー・ルイス。島に見切りをつけてモントリオールで警官になった元町長が彼をコカイン所持で捕まえ、格好の「犠牲者」として島に送り込んできたのだ。クリストファーはモントリオールで都会生活をしてきたので、島で与えられた家の内装やインテリアを「趣味が悪い」と散々こき下ろしたりする。そんなクリストファーに何とか島を気に入ってもらって定住してもらおうと切羽詰った島民が智恵を振り絞って一芝居打つ。

  イギリス関連で面白いのは、なぜか彼がクリケット好きだということ。舞台になったケベック州はカナダのフランス語圏で、映画のせりふも全部フランス語である。その彼がなぜイギリスの伝統的スポーツであるクリケットを好きになったのか何の説明もない。おそらく英語圏のほうにクリケット好きの知り合いでもいたのだろう。ともかく、このクリケットに絡む話がこっけいだ。クリケットといえばイギリスでは上流のスポーツ。階級社会のイギリスでは、中流はラグビー、庶民はサッカーとスポーツの好みも分かれている。以前何かのレビューに書いたが、クリケットのルールはさっぱり理解できない。一度直接イギリス人に聞いたことがあるが、いくら聞いても理解できなかった。とにかく1試合終わるのに長い場合は1週間もかかるというのだから、金と暇のある金持ちにしかできないスポーツであるのは確かだ。2、3年前にもっと早く試合が終わるようルールを改正する動きが出ているという記事を新聞で読んだことがある。

  それはともかく、カナダ人にもクリケットがどんなものかさっぱり理解できなかったようだ。何とかクリストファーの気を引こうとユニフォームや道具(あのバットのようなものは船の櫂を加工して作った)を作り、一夜漬けでルールを読んで(もちろんさっぱり理解できない)真似事をしてみせる。船で島にやってきたクリストファーが海岸近くで行われているクリケットの試合(決勝戦という触れ込み)を見て、上陸して近くで見てみたいと突然言い出して大慌てになるシーンが可笑しい。とっさにみんなで万歳をして試合が終わったことにするが、船に戻りながらクリストファーは「両方とも優勝したのか?」と首をひねっている。変だと気づきそうなものだが、最後まで変だと気づかないところがコメディたるゆえん。ケベック州は独立の動きを見せているようだが、クリケットを持ち出してきたのはカナダの英語圏を意識してのブラック・ユーモアかもしれない(衛星放送でクリケットの試合を流しているらしいのでそれなりに観る人もいるのだろう)。

  もう一つクリケットがらみで傑作な場面がある。村唯一のレストランでみんながクリケットの試合をテレビで観戦している。クリストファー一人が興奮して観ている。クリストファーがトイレに行っている間に誰かがテレビ画面をクリケットからアイスホッケーに変えてしまう。それまでつまらなそうに観戦していた村人がいっせいに身を乗り出し、本気で興奮し始める。sea1 口々にクリケットなんて何が面白いのかさっぱり分からん、あんなのはスポーツではないと散々こき下ろす。どよめく歓声に得点が入ったかとあわててトイレから出てきたクリストファーに、村の銀行員がしどろもどろで見てもいない試合の経過を説明する。国の文化の違いが見えて実に面白い場面だった。

  他にもあちこちにくすくす笑いたくなるような工夫が凝らされている。人は何に一番喜ぶかというアイデアを出し合って、お金を拾うのが一番うれしいというので毎晩クリストファーが通る道端のランタンの下に札を挟んで置いたり、さっぱり魚がつれないクリストファーの針に冷凍の魚を引っ掛けたりと、とても効果があるとは思えない「工夫」をするところが逆に可笑しい。どうやっても見栄えが良くならない家に市長がとった苦心の解決策には笑ってしまった。はてはクリストファーの動向をうかがうために電話の盗聴まで仕組む。盗み聞きで仕入れた謎の「マシン」と足の関係にみんなが振り回されるあたりもこっけいだ。しかしあまりに常套手段過ぎてどうかと思う場面もある。島民が200名以上いないと工場が誘致できないと知ると、視察に来た工場責任者の動きに合わせて島民が服を着替えて別の場所に移動するあたりがそうだ。どたばた劇にありがちな設定であまり笑えない。

  映画全体としても簡単に先が読めてしまい、結末も特にひねりもないのでさほど出来が良いとは言いがたい。ただ出色なのは島の抱えている問題を笑いに紛らすことなくきちんと描きこんでいたことである。映画の冒頭で島の男がぞろぞろと集まってきて郵便局の前に行列をつくっている場面が描かれる。生活保護の書類を受け取っていたのである。行列はそのまま銀行に移動し、またズラリと並んで現金に換える。銀行員が預金しないかと言っても誰も「はい」と言わない。村人のほとんどが生活保護でやっと生活しているからである。かつての海の男のプライドもすっかり傷ついているのだ。行列は映画の中ほどにも出てくる。こちらはクリストファーに診てもらおうと並んでいる患者の列だ。村人はみな何かの病気を抱えている。長い間医者がいなかったので、みな本当に医者を必要としているのである。失業手当を受け取る長い列と病院の前に並ぶ長い列。この長い列がこの島の現状を象徴的に表している。

  同じカナダの島でも『赤毛のアン』のプリンス・エドワード島とはまったく違う、活気のうせた貧しい島。短期間だけ滞在する旅行者の目にはのんびりとのどかで平和な風景と穏やかなスロ一ライフがうらやましく映るかもしれないが、実は高齢化が進み、村には失業者があふれている。教会には牧師さえいない。漁業がすたれた今では他にこれといった地場産業もない。郵便局も銀行も職員は一人、レストランは一軒しかない。衛星放送が入るテレビは村で1台だけ。携帯も届かない(携帯を使われると盗聴できないので、うそをついたのかもしれないが)離れ小島。何とか島に工場を誘致して村に産業を育てたいという気持ちは十分理解できる。この点をしっかり描いたこと、そして何よりも島に暮らす人々の地に足がついた生活を彼らの視点で描いたことがこの映画に単なるどたばたコメディ以上の価値を与えている。

  ある日クリストファーは恋人のブリジットにだまされていたのを知り、自棄酒を飲んでみんなで僕をだましていたと酔っ払って嘆いていた。新市長のジェルマン(レイモン・ブシャール)はそれを聞き、村中で彼をだましていることを後悔し始める。いつものように教会で集会を開いて、もうだますのをやめようとジェルマンは提案する。このあたりからコメディ調が薄れ、幾分シリアスな色調が混じってくる。そしてついに真相を知ったクリストファーがジェルマンを問い詰める結末へ。詳しくは見てもらうとして、ラストはもちろんハッピー・エンディングである。そんなことならわざわざこんな遠回りしなくても最初からはっきり頼めばよかったのに。そう思えてしまうところがまた可笑しい。人をだます話なのに島民たちの必死の努力に共感してしまうのは、なんとしても経済的に自立して自分たちの誇りを取り戻したいと願う彼らの気持ちが伝わってくるからであり、彼らをそうさせている島の現状をきちんと描きこんでいたからである。ただのATMだと揶揄されながらも村のために何とか工場の誘致費5万ドルを工面しようとした銀行員アンリ(ブノワ・ブリエール)の涙ぐましい努力には、笑いの中にほろ苦さが混じっている。

  傑作とは呼べないが、明るいユーモアと人情に包まれたほのぼのとした味わいには捨てがたい魅力がある。最初と最後に出てくる島民たちの夜の生活、明かりが消えあちこちから女性の声が漏れてくる、やがてまた小さな明かりがつき、家々の煙突から煙が立ち昇る。生活環境は変わっても村人の基本的な生活は変わらない。全体を包む、ゆったりとしたリズムが心地よい。

  出演しているのはほとんど知らない俳優たちだが、とても個性的で味がある俳優ぞろいだ。ジェルマンを演じたレイモン・ブシャール、クリストファー役のデヴィッド・ブータン、銀行員アンリ役のブノワ・ブリエールの他に、一生涯島から出たことのないイヴォンを演じたピエール・コランとクリストファーを魅了する村一番の美女を演じたリュシー・ロリエも実に魅力的だ。監督のジャン=フランソワ・プリオは本作が初の長編映画。CM業界でも数多くの作品を手掛け、カンヌ広告映画祭ではシルバーベアー賞を受賞している。脚本はスタンダップコメディアンとしてカナダでは有名なケン・スコット。劇中に偽医者役で登場している。

2006年3月 4日 (土)

ヴェラ・ドレイク

ranpu-1 2004年 フランス・イギリス・ニュージーランド
監督・脚本:マイク・リー
製作:サイモン・チャニング・ウィリアムズ、アラン・サルド
撮影:ディック・ポープ
編集:ジム・クラーク
美術:イブ・スチュワート
音楽:アンドリュー・デュラン
出演:イメルダ・スタウントン、フィル・デイヴィス、ピーター・ワイト
    エイドリアン・スカーボロー、ヘザー・クラニー、ダニエル・メイズ
    アレックス・ケリー 、サリー・ホーキンス、エディー・マーサン
    ルース・シーン、ヘレン・コーカー、 マーティン・サヴェッジ
    ジム・ブロードベント

  「ヴェラ・ドレイク」が提起している問題を理解するには人間と動物を比較してみると分かりやすい。動物は交接をし、メスが妊娠して子供を産む。生まれた子供を天敵から守り育てる。生き抜いた子供は大人になりまた子供を産む。これが自然のサイクルである。必死で川をさかのぼり、ぼろぼろになった体で産卵した直後に一生を終えるサケを見ていると、子供を産むために彼らは生きているとさえ思えてくる。動物は避妊をしない。人間だけが避妊をする。なぜなら人間は道徳や法という自然には存在しないものを作り出したからである。道徳は人間社会の秩序を保つために必要なのである。法律はこの道徳と無関係ではない。今では合法とされることが、かつては違法だったことはいくらでもある(もちろんその逆も)。これはまた国や宗教によっても異なる。法律は決して普遍的なものではない。

  道徳や法が崩壊すれば秩序は乱れる。逆に言えば、そうしなければ秩序が守れないほど人間は欲望に駆られた存在なのである。大きな殺傷能力のある武器を開発したり、その武器を使っていくつものグループが互いに抗争を繰り返したり、あるいは麻薬で自分の命を縮めたり、自殺したり、自分の欲望のために他の個体のものを奪ったり殺したり、他の固体を奴隷のように使ったり、このような行為をすべて行っている動物は人間以外に存在しない。強いものが他を支配したり、縄張り争いをしたりする動物はあっても、このような行為をすべて行っている動物はない。道徳や法などなくても秩序は保たれている。彼らの基本原則は種の保存である。

  道徳で縛れば秩序は保たれるが、その秩序から外れたものは哀れである。婚姻関係なしに妊娠した女は世間から非難を浴び、場合によっては堕ちるところまで堕ちていかざるを得ない。特に因習的な道徳観念と宗教の戒律に縛られ、女性が経済的に自立することが困難だった時代には陽のあたる場所に「道を外れた」彼女たちのいる場はなかった。もっとも、裕福な家庭の娘たちにはそれでも逃げ道はあった。「ヴェラ・ドレイク」では何人もの女性が人知れず子供を処理するが、金持ちの娘が合法的に処理するエピソードも出てくる。1929年の法改正で「妊娠出産が母体の命を脅かす危険があると医師が診断した場合のみ合法とする」とされた事が彼女たちに逃げ道を与えている。医師が娘にあれこれ質問していたが、一応段取りを踏んだ上で「母体の命を救う」という名目で堕胎手術をしたということだろう。もちろん手術代は庶民には手が出ないほど高額である。貧しい人々はこっそりとヴェラの様な人たちの世話になるしかなかった。法律は支配者たちの都合のいいように作られているという事実が実に明快に描かれている。金があれば無難に処理できるが、金のないものはもぐりで処理しなければならない。道徳も法も金次第なのである。

  さらに重要なのは、その金持ちの娘の場合、男が無理やりにセックスを迫ったことが描かれている。何も彼女の場合だけがそうなのではない。ヴェラに頼った貧しい娘たちの多くも似たようなケースであることは想像できる。問題は、男はまったくお咎めなしであるということである。厄介な「結果」はすべて女性が背負わなければならない。道徳と法は性のダブル・スタンダードと分かちがたく結びついている。「ヴェラ・ドレイク」が切り込んだのはまさにこの道徳と法と「秩序」をめぐる問題である。

  道徳は秩序を維持するが、一方で人間の自由を制限する。ガルシア・ロルカ原作のスペイン映画「ベルナルダ・アルバの家」(1987年、マリオ・カムス監督)のテーマはまさにその問題だった。夫を亡くしたベルナルダは8年間の喪に服し、その間娘たちを一歩も外に出さなかった。長女の結婚相手はベルナルダが勝手に決めた。末娘がこの厳しい「戒律」を破り、長女の結婚相手と愛し合い悲劇的な結末を迎えた時、ベルナルダの家の秩序は崩れ始める。道徳と法には当然宗教の戒律が絡んでいる。がんじがらめの牢獄のような世界を見事にこの映画は描いていた。

  「ヴェラ・ドレイク」は同じテーマに別の角度から切り込んだ。彼女の行為は裁かれるべきものだったのか、彼女を裁いた法は正しかったのか、行き場のない娘たちはどうすればよかったのか、ヴェラのような女を取り締まりさえすればこのような問題はなくなるのか。「ヴェラ・ドレイク」の投げかけた問題はこのようなものだった。ヴェラ(イメルダ・スタウントン)を取り調べた警部補(ピーター・ワイト)は決して高圧的ではなかった。法に従い淡々と事実を確認してゆくだけである。法廷で彼女に有利な証言をしたことからも、彼が彼女にむしろ同情的であったことが分かる。彼女に付き添う婦人警官も終始同情的な表情でヴェラを見ている。ここに製作者たちの立場が暗示されている。

  この映画は堕胎そのものの是非を問う告発ドラマではない。ましてやヴェラと家族の絆を描いただけのホームドラマでもない。堕胎という問題は一つの契機にすぎない。道徳、法、社会の秩序、性のダブル・スタンダード、階級といった大きな問題がこの一人の女性が行った行為と分かちがたく結びついていること、これらの大きな問題を抜きにしてはヴェラの行為そのものも、彼女をその行為に駆り立てた女性たちの不幸な現実も、それを裁いた法も、その法によって支えられている社会も、本当には理解することはできないことを提起したリアリズム・ドラマなのである。リアリズムを単に事実を事実として客観的に描く手法だと矮小化して捉えてはならない。リアリズムは、どんな個人もその個人が行う行為もすべて社会と時代との関連の中で捉え、表層の下に隠れている隠された真実を抉り出す創作法である。

  マイク・リー監督はオフィシャル・サイトのインタビュー記事で、「『ヴェラ・ドレイク』は1950年の物語ですが、現在にも通じる問題ですね?」と問われて次のように答えている。

  どんな時代よりも今最も関連の深い問題と思っています。私たちはいつも普遍的な問題を扱っているのです。必要に迫られた人間は中絶を行うことが出来るというのは事実ですが、痛み全体を軽減するものではありません。道徳的なジレンマという問題があります。私が映画でやろうとしている事は、この道徳のジレンマという問題とソフトなやり方で、観客と向き合う事です。人の頭を棍棒で殴ったりするよりもね。私の映画は「善玉と悪玉」の話ではありません。それは善悪について、誰もがもろい存在であるということについての物語です。私は「ヴェラ・ドレイク」を意図的に特別な感情を排して作り、安直な答のない道徳的ジレンマについて、問題提起を行ったのです。

  「安直な答のない道徳的ジレンマ」という表現は実に多くのことを示唆している。彼はこの問題を、単純に白黒をつけられない問題だと捉えている。なぜならば、上に指摘した様々な要素が分かちがたく絡みついているからだ。ヴェラたちを一掃しても問題は解決しない。望まない子供を妊娠する女性たちがいなくならない限り、第2、第3のヴェラたちがまた生まれてくる。その中にはヴェラよりももっといい加減で危険な「処置」を施す女も多数混じっていrashinban2 るはずだ。その根本的な問題が解決されない限り、ヴェラたちはむしろ社会に不可欠な存在なのである。法がどんなに否定しようとも、彼女たちは社会の安全弁の役割を果たしているのである。それが分かっているからこそ、警部補たちは彼女を手荒に扱わなかったのである。そうでなければ、世の中に父親のいない子供を抱えて社会の最底辺で暮らしていかざるを得ない女性が絶えないことになる。何しろその原因を作った無責任な男どもはなんら咎めを受けずに野放しにされているのだから。

  ヴェラは確かに同情に値する。ひたすら家族の幸せを心から願い、寝たきりの母や身内ではない近所の人の世話までしている実に親切な女性である。地味で平凡な一人の主婦に過ぎない。堕胎の処置にしてもおそらく彼女は重大な罪を犯しているとは思っていない。あくまで彼女の親切心から出た自然な行為だった。だから堕胎行為を認めさせようとする警部補にヴェラは、「そうじゃないんです。あなたはそう言うけど、人を助けただけ。私が助けなければ他に誰もいないんです」と答えるのである。堕胎は彼女にとって近所の困っている人に親切にしてやるのとほとんど代わらない行為なのである。金を受け取っていないのも、単に人助けをしているだけと思っているからだろうし、払おうにも貧しくて払えない人が多いからだろう。もちろん違法であることは知っているから誰にも秘密にしているが、彼女には罪を犯しているという意識はほとんどなかっただろう。むしろ困っている人を救っていると思っていたはずだ。

  刑務所の中で同じ罪で投獄された女性たちと話をしていることを見ても、こういった行為を行っていた女性は他にもかなりいたことが分かる。しかも金具で引っ掻き回すなどの危険な処置を施していたに違いない。そういうことを合わせて考えてみても、ヴェラはどう見ても悪質な犯罪者ではない。だからといって、この映画が訴えているのは、ヴェラのような親切な人を逮捕するのは間違っているという単純なことではない。それでは、もっとひどいやり方で堕胎を行い、金まで取っている女なら逮捕してもいいということになる。堕胎を行った人物の人柄やそのやり方は問題の本質ではない。なぜなら、上に書いたように、ヴェラのような女たちを一掃しても問題は解決しないからだ。これ以上子供を産んでも育てられない主婦やレイプされた娘たちが後を絶たないという問題、子供を産むくらいなら自殺をしたほうが良いと娘たちが言わざるを得ないほど彼女たちを追い詰めている冷たい「世間の目」(社会の因習的規範)がなくならない限り、堕胎を行う女を逮捕するという対処療法をいくら行っても問題は解決しないのである。腹を刺されてのた打ち回って苦しんでいる人に、何の治療も施さずにただ痛み止めの麻酔をうっても何ら解決にならないのと同じだ。解決するには腹の傷そのものを治療する以外にない。その肝心な処置を怠って痛みだけ止めても、そのうち痛みどころか命までなくしてしまう。逃げ出したいほどの不安に駆られながらも、ヴェラのところにやってくる女たちが後を絶たないのは、それ以外に解決の道がないからである。それが分かっているからヴェラは、困っている彼女たちを無償で「助けて」いるのである。彼女の元を訪れる女たちは崖っぷちに立たされ、崖から飛び降りる思いでやってくるのだ。彼女たちにとって死活の問題なのである。

  この映画に悪人は一人も登場しない。前述したように、彼女を逮捕した警部補も彼女に付き添う婦人警官も彼女に同情的だ。問題は個人ではないのである。社会の制度がゆがみをもたらしており、警部補も婦人警官も裁判長もそのシステムの中で自らの役目を果たしているだけに過ぎない。法が彼らを動かしている。間違っているのは社会ではないのか。この映画が根本的に問いかけているのはこのことである。社会的に弱い立場にある貧しい人々はそのゆがみの間に挟まれて身動きが取れない。ましてや、貧しい人々の中でさらに弱い立場である女性は二重の差別をされているがゆえにより多くの犠牲者を生み出す。金持ちが国を支配し、彼らの都合の良いように法と道徳を作っている限りは後から後からまた犠牲者が生まれてくる。

  ヴェラが法廷で戦っていたのは警部補でも裁判官でもない。社会であった。社会の仕組みのエッセンスである法と戦っていた。彼女を裁いたのは法と社会だ。だからヴェラは何もいえなかったのである。夫との夫婦喧嘩ならいくらでも言い返せようが、教養もない彼女には、社会の歪んだありようを告発して自分の言い分を理路整然と述べ立てるなんてとてもできない。自分は困っている人を助けただけだと言うのが精一杯なのだ。何より、愛する家族にとんでもない迷惑をかけたという思いが彼女の胸をふさぎ、声に詰まってしまうのだ。だから、夫に自分の犯した罪を打ち明けるところではほとんど声にならず、夫は顔を近づけて聞き取らねばならないほどだったのである。彼女にはただ泣くことしかできない。だが大事なのは彼女の言ったことは真実だということである。困っている人を助けて罪に問われるのならば、法のほうが間違っている。泣くばかりで何もいえない彼女にそれでもわれわれが共感するのは、彼女が親切でやさしい人だからではなく、彼女は間違っていないと思うからである。もちろんここで言っているのは堕胎が正当かどうかということではない。前述したように、堕胎の是非自体が問題になっているわけではない。学校で進化論を教えることが違法かどうかをめぐって争われた裁判を描いた名作「風の遺産」同様、問われているのはヴェラではなく法である。

  映画の後半は警察の取調べと家族の反応をじっくりと時間をかけて描く。このあたりのイメルダ・ スタウントンの演技は圧倒的である。「いつか晴れた日に」や「恋におちたシェイクスピア」などに出ていたようだが、まったく記憶がない。初めて観たような気がした。舞台やテレビを中心に活躍してきた人で、舞台で多くの賞を受賞している。イギリスでは大変有名な女優だそうである。ジュディ・デンチに似たタイプだが、おそらく女優としてもあの大女優に引けを取らないと感じた。

  彼女の家族たちもみな素晴らしい。特に夫のスタン(フィル・デイヴィス)、その弟のフランク(エイドリアン・スカーボロ)、娘の婚約者である一人暮らしの青年レジー(エディ・マーサン)の3人が素晴らしい。ヴェラが逮捕された後の彼らの態度は実に立派だった。裏切られたとばかりに「汚いよ」と母親を罵倒する息子のシド(ダニエル・メイズ)を父親が説得する場面、レジーが「僕の人生で最高のクリスマスです。ありがとうヴェラ」と言う場面などは感動的ですらある。家族愛の強さに胸を打たれる。しかし忘れてはいけないことがある。こう考えてみてほしい。もしヴェラが犯した犯罪が、たとえば3人の人を殺してその金品を奪い死体を地中に埋めたというようなものだったら、果たして夫はここまで彼女を弁護しただろうか。彼は母親を非難する息子に「ママの心が優しいからだ」と諭す。「家族の恥だ」と息子が怒鳴ると、「違う」ときっぱり否定した。彼は妻が罪を犯したことを認めながらも、その罪は許しうると思ったのだ。彼にその思いがあったからこそ動揺する他の家族を説得することができたのである。彼は、尋問をしながらもヴェラに同情せざるを得なかった警部補と同じ心境だったのだ(もちろん夫だからそれ以上の気持ちも当然あるが)。悪いのは彼女ではない。家族愛の深さに流されて、この点を見逃してはいけないと思う。

  法は彼らの家族からかけがえのない一人を奪い去った。ラストシーンは家で家族がテーブルを囲んで無言のまま座っているシーンである。何人もの人が映っているにもかかわらず物寂しさを感じざるを得ない。彼らにとって大事な存在が欠けているのだ。埋めがたいほどの喪失感。しかしそこにはレジーがいた。事態がこのようになった以上、彼がこの家を去って行っても責められなかっただろう。しかし彼は踏みとどまっている。そこにわずかな希望が見出せる。彼はきっとヴェラの娘と結婚するだろう。家族の顔に笑顔が戻ってくるに違いない。

<付記>

 もし興味があれば本館HP「緑の杜のゴブリン」の「電影時光(映画エッセイ)」コーナー所収の「ヴェラ・ドレイクに声ありせば」もお読みください。もしヴェラが肝っ玉おっ母タイプだったら裁判でこうまくし立てただろうと想像して書いた戯れ文です。

2006年3月 1日 (水)

博士の愛した数式

glass_ht7 2005年 日本
監督・脚本:小泉堯史
原作:小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社刊)
プロデューサー:荒木美也子
撮影:上田正治
撮影:北澤弘之
音楽:加古隆
美術:酒井賢
衣裳コーディネーター:黒澤和子
ソプラノ:森麻季
出演:寺尾聰、深津絵里、吉岡秀隆、浅丘ルリ子、齋藤隆成、井川比佐志、頭師佳孝

上田周辺ロケ地:上田市営野球場、千曲川河川敷運動場、千曲川河川敷緑地公園
           真田町・唐沢の滝、千曲市、坂城町、小諸市、軽井沢別荘地

  映画の冒頭、中学の教室に一人の若い数学教師が入ってくる。黒板には彼のあだ名ルートを揶揄した落書きが書かれている。教師は特に怒ることもなく、自己紹介を兼ねてなぜ自分がルートと呼ばれるようになったかを話し始める。こうして映画の観客は画面の中の生徒たちと一緒にルート先生の授業を受けることになる。

  2時間後にはおそらく数字に対する認識が変わっていることだろう。ただし誤解がないようにはっきりさせておかなければならないが、これを観たからといって数学が楽しい科目に思えてくるわけではない。これを観てもサインやコサイン、微分や積分がわかるようになるわけではない。映画の中で様々な数字や数式にまつわる話が出てくるが、そこで語られるのは科目としての数学ではない。彼も今日は授業はやらないと最初に断っている。むしろ、本来は無機質な数字に「詩的」な意味を読み取る感性、それが磨かれるのであり、そこに魅力がある。ルート先生を通してある数学の天才教授が語ったのは、完全数、素数、友愛数、階乗、オイラーの公式などに彼が感じた感覚的な意味である。ルート先生はそれを生徒たちに伝え、同時に完全数、整数などの意味をわかりやすく説明した。したがってこれは数学そのものというよりは、数学への優れた導入教育だったといえる。僕たちはそういう授業を受けたのだ。

  もちろんルート先生は数字の話だけをしたわけではない。彼が語ったのは80分しか記憶が持たないある数学博士の話であり、また家政婦としてその世話をしたとルート先生の母とルート先生自身がその数学教博士と過ごした楽しい時間についてだった。

  「博士は、何を喋っていいか混乱した時、言葉の代わりに数字を用いた。それが他人と交流するために、彼が編み出した方法だった。」よくこのように説明されるが、これはおそらく原作に基づいた説明だろう。映画の印象は少し違う。彼は普通に会話をしている。言葉に詰まったから数字の話しをしたというよりも、頭の中はほとんど数字が占めていて、何かの数字が出てくるとすぐその数字について彼の考えを語るという描き方になっている。数字が好きで好きで仕方がない、彼は楽しそうに語っており、家政婦の杏子もそれを興味津々で楽しそうに聞いている。そういう関係である。決して苦し紛れに話の矛先を数字に向けたという印象ではない。

  ルートの母杏子(深津絵里)が家政婦として博士の家に行った最初の日、背広のあちこちにクリップでメモ用紙を留めた博士(寺尾聰)がのっそりと玄関に現れた。メモ用紙には忘れてはならない大事な事柄が書かれている。博士はいきなり杏子に名前ではなく靴のサイズを尋ねた。「24です」と答えると、博士は「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」と感心したように言う。杏子もそれを観ている観客もいきなり数字の世界に投げ入れられる。しかし博士は80分しか記憶が持たないので、杏子は翌朝も同じ質問をされ、同じ答えを言う羽目になる。「君の靴のサイズはいくつかね?」で始まる毎日。これまでも9人もの家政婦が代わったと博士の義理の姉(浅丘ルリ子)が面接のとき杏子に話しているが、おそらくこれに嫌気が差したのだろう。しかし杏子はこれを少しも苦にせず、毎日同じ質問を受け、そのうち自分から「4の階乗です」と付け足すようになる。

  この始まりが暗示するように、この映画で描かれるのはなんでもない日常の事柄である。ほとんどが同じことの繰り返し。もちろんただそれを繰り返したのでは退屈なものになるから、繰り返しの部分は暗示するにとどめ、繰り返しではない部分を拾ってつなげてゆく。しかしそれでも描かれているのはごく日常の事柄である。主要登場人物はたったの4人(子供を一人にしておくのはいけないとの博士の勧めで、途中から杏子の息子も学校が終わると博士の家に来ることになる)。ほとんど博士の家の中で話は展開され、家の外が描かれるのは散歩をする場面と野球の場面程度である。それでも退屈しないのはなぜか、観客は何にひきつけられるのか。

  この映画の雰囲気はルートが登場する前と後ではがらりと変わる。杏子が来た最初のうちは会話もあまり弾まない。博士はおそらく杏子の前の家政婦とはあまり会話を交わさなかっただろう。博士が会話を交わすのは数字相手のときだけだった。彼のそばにはいつも数字があった。数字と向き合っている間はじゃまされるのを許さない。杏子も一度不用意に声をかけて怒鳴られた。それが数字を介して少しずつ杏子とも会話が交わされるようになる。ルートが来てからはさらに大きく変わる。ルートにその名前をつけたのは博士だった。「どんな数字でも嫌がらずに自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだよ。」ルートが訪れるようになってから離れには絶え間なく笑い声が溢れるようになった。

  博士と杏子とルートが食卓を囲んで談笑している場面が何度も出てくるようになる。ここにこの映画の魅力が暗示されている。観客はそこにひとつの理想的な「家庭」を見るから心を癒されるのだ。毎日リセットされ、絶えずリフレッシュされる「家族」。杏子と博士の間には深い親密感があるが、決してそれ以上には踏み込まない。一定の距離を保つことによってtree3 常に新鮮さが保たれた「家族」。この映画に感じるやさしさ、いとおしさ、懐かしさは「家族」、「家庭」という言葉が持っている本源的なものがそこに描かれているからである。ありそうでいて現実にはなかなか存在しない理想の家族像。喧嘩もしながらしかし仲良く暮らす寅さんシリーズの「とらや」のような家族関係。日常生活さえも懐かしく思えてくる。昔子供のころに遊びから帰ってくるときに、どの家庭でも見られた食卓を囲んだ家族の光景。夕餉の煙と子供たちの笑い声。

  この「家族」を囲む風景がまた美しい。杏子が毎日自転車で通う田舎道のなんと美しいことか。田園風景、夕焼け、信州の美しい山と川、桜の咲いている散歩道(小諸の懐古園と思われる)、庭の木々。いずれも日常の風景である。自然の中で暮らす家族。笑いにあふれ暖かさに包まれた「家族のような」三人の交流。エプロンをして家事をテキパキとこなす杏子の姿ですら清々しいものを感じさせる。この映画の成功は、日々の生活の中に美しさや豊かさを見つけたことにある。このことは深津絵里が語った言葉にも示されている。

  「風に花が揺れていたり、きれいな夕日が映っていたり。そういう日本的な自然の中に人間がたたずんでいる“絵”を、どっしり構えて撮る。私たちは、大きな自然の中で、かき消されないように存在しなければいけない、と常に考えていました。」

  この日常生活の美しさははっきりいって作られた美しさである。この映画はわれわれに懐かしさを感じさせるが、庶民を描いた昔の日本映画はもっと猥雑な活気にあふれていた。ここには代わりに静かでほのぼのとした暖かさがある。主要登場人物が4人しかいないという事情もある。ルートの父親は他に家庭を持っている男であるとか、博士と義理の姉は過去に何かいわくがあるといった事柄は軽く触れられるだけで、暗示されるにとどめられている。そのかわりに何気ない日常に輝きが与えられるのである。周辺をそぎ落とした、家族の原点。「阿弥陀堂だより」同様、「静謐な」という言葉が似合う映画になっている。そして日常生活の潤いの発見は数字の美しさの発見と重ねられている。生活の安らぎと数字の美しさが与える心の安らぎ、そこからうまれる暖かく潤いのある生活が周囲の風景に溶け合い調和して、たゆたうようなリズムを生み出してゆく。

  この生活を杏子の前の9人の家政婦たちは作り出せなかった。杏子にあって他の家政婦たちになかったものは何だろうか。おそらくそれは博士を変わり者と見るのではなく広い心で受け止めることができる彼女の人柄だろう。息子をはじめて博士の住む離れに連れてきたときも、博士の記憶力のことを前もって話して聞かせ、同じ事を何度聞かれても「それはもう聞きました」と言わない様にしようねと息子に話す。こういう心遣いができる人なのだ。

  しかし障害を持った人物を主人公にしたこの映画は、そんな彼女でも全く偏見を持っていないわけではないことをきちんと描いている。ルートが野球で怪我をしたとき思わず杏子はコーチに向かって「どうして博士にルートを任せたのですか?」と問い詰めた。この言葉に博士は気の毒なほど落ち込む。帰り道ルートはどうしてあんなひどいことを博士の前で言ったのかと母を責める。深く反省していた杏子は率直に謝る。思わず口をついて出た自分の言葉に、彼女は自分にも偏見があったことを悟ったのである。しかし彼女は、たとえ相手が子供であっても、過ちを過ちとして素直に認める柔軟性と勇気を持っていた。杏子役に深津絵里を選んだのはまったくぴったりのキャスティングだった。家政婦の役なので特別美しく映っているわけではないが、他のどの映画やドラマよりも彼女は輝いていた。彼女の持っている透明感が一番うまく生かされた映画ではないだろうか。

  杏子にさして教養があるわけではない。しかし心優しい彼女には博士の語る数字の美しさを受け入れる素地があった。それは息子も同じだった。博士が杏子たちに語った数字の魅力。この映画の中心的魅力の一つはこれである。「直線を引いてごらん。本当の直線は始めと終わりが無いんだ。でも直線はとりあえず目に見える形で引かなくちゃいけない。目に見えない世界が、目に見える世界を支えているんだよ。」完全数については「神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい?」と語る。素数を孤独だが孤高な数字と捉える。一見、無機質で無味乾燥に思える数字が博士の言葉を通すとわくわくする世界に思えてくる。そこに数学に対する純粋な愛を感じるからだ。博士にとって江夏豊本人に対する愛情と彼の背番号である完全数28への愛情は分かちがたいものである。無機質な数字が「潔い」「孤高」「素直さ」などの美しい日本語とクロスオーバーした時、そこに新しい世界が生まれる。人との交わりを長い間絶って、常に数字のそばから離れようとはしなかった博士は数字や数式に人間的な価値観を見出した。数字が美しい日本語と重なり合う。だから博士の言葉は観る者の胸に響くのである。

  この数字が人間関係と重なったときもっとも深い感動が生まれる。ルートと杏子の暖かさに触れて、常に冷たく突き放す態度を保っていた博士の義理の姉が気持ちを変えてゆく。それを象徴するのが母屋と離れの間の木戸である。彼女の中にあったわだかまりが解けたとき、彼女は「この木戸はこれからはいつでも開いています」と告げる。そのとき博士が姉に渡した紙切れにはe(πi)+1=0という数字が書かれていた。これはe(πi)=-1というオイラーの公式に1をプラスした式である。マイナス1からゼロへ。それまでは何かが欠けていた。戸口は閉ざされていた。義理の姉が心を開き、母屋と離れの間の木戸を開け放ったとき、そのマイナスは埋められた。「ゼロ」を無だと博士は言ったが、むしろこの場合ゼロは「輪」を表しているのかもしれない。心が通じ合ったとき、彼らはまるで完全数のように家族という一つの結晶になったのである。

人気blogランキングへ

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2019年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
無料ブログはココログ