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2006年2月27日 (月)

ビューティフル・ピープル

relief 1999年 イギリス
監督:ジャスミン・ディズダー
原題:Beautiful People
製作:ベン・ウールフォード
脚本:ジャスミン・ディズダー
撮影:バリー・アクロイド
美術:ジョン・ヘンソン
音楽:ゲイリー・ベル
出演:シャーロット・コールマン、チャールズ・ケイ
    ロザリンド・アイルズ、 ロジャー・ソロモン
    ヘザー・トビアス、ダニー・ナスバウム
    ショパン・レッドモンド、ギルバート・マーティン
    スティーブ・スウィーニィ リンダ・バセット、ニコラス・ファレル
    ファルーク・ブルティ、ダード・イェハン、 エディ・ジャンジャーノヴィテ

  ボスニア紛争。ベトナム戦争以来さまざまな戦争や地域紛争がテレビなどで報道されてきたが、ボスニア紛争ほど見ていて気の滅入るものはなかった。ついこの間まで近所付き合いをしていた同士が敵味方に分かれて殺しあっている。街がそのまま戦場と化し、双方の狙撃兵が潜んでいるためにちょっと買い物に行こうと道をわたるのも命がけになる。狙撃兵に撃たれて道に倒れている人を助けに行くことすらできない。テレビ画面に映る破壊されたビル、物陰に隠れながら腰をかがめ一気に道を駆け抜ける人々。絶えず遠くや近くで銃声や砲声が鳴り響いている。老人も子供も関係ない無差別の殺戮。そこに映っているのは映画やテレビドラマの作られた映像ではない。まさにその時地球上のある場所で起こっていた現実である。

  冷戦が終わった頃、次は民族や宗教がらみの地域紛争が多発するだろうとテレビで専門家が話していた。残念ながらその予想は現実になってしまった。多民族が共存していたユーゴスラビアの内戦は中でも深刻だった。また、ボスニア後も民族紛争は絶えない。この現実をどう受け止めるのか。報道関係者は現地に入り、「現実」をカメラに写し取った。自分の目で見たこと、市民が語ったことを記事に書いてきた。では映画はこれをどう描くのか。

  アメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵には顔がない。ただ銃弾や砲弾を受けてばたばたと倒れるだけである。たとえ戦闘後に倒れているドイツ兵の顔を身近に見たとしても、そこに何の感慨も沸かない。彼らは単に「敵」という文字で一括りにできてしまうからだ。顔がないというのはそういう意味である。これがボスニアだったらどうか。あちこちに倒れている「敵」の死体の顔をのぞいたら、隣の雑貨屋の親父さんだったり、いつもパンを買いに行く店の長男だったり、前を通るといつも声をかけてくれた花屋の若奥さんだったりするかもしれない。だからやりきれないのだ。

  もちろん顔のない「敵」なら殺してもいいということではない。どんな戦争でも悲惨でないものはない。隣人だったものが互いに争うというのは第二次大戦末期のトスカーナ地方を舞台にした「サン★ロレンツォの夜」にも出てくる。「ブコバルに手紙は届かない」の主人公であるセルビア人トーマの妻、クロアチア人のアナを戦時の混乱の最中にレイプしていったのは同じクロアチア人だった。あるいは、だいぶ前に新聞の投書欄に載っていた話はさらに悲惨だ。中国からの引き上げの最中にたまたま井戸の近くを通ったら、井戸の中から子供の声がする。中をのぞくと「おかあちゃん、何でも言うことを聞くから助けて頂戴」と子供が泣き叫んでいる。子供を抱えては逃げ切れないと思った親たちが、敵兵に殺されるよりはと胸を引き裂かれる思いで子供たちを井戸に投げ込んでいったのだろう。最後に捨てられて子供はかろうじて水面から頭が出せたので死ななかったのである。発見した人は助けてやってほしいといったが、彼らとてこれ以上の負担は背負えない。一人の兵隊が断腸の思いで井戸に手りゅう弾を投げ込んだ。

  これは悪夢ではない。悪夢であってくれたらどんなに気が楽か。悪夢なら覚めることができる。現実に起きた出来事は消したくても消せない(もっとも悪夢もそれを生み出したおぞましい記憶が消えない限りいつまでも付きまとうのだが)。ルポルタージュの迫真性と迫力を感じ、フィクションの無力さを感じるのはこういう現実を前にしたときだ。人間はこの悲しみを乗り越えられるのか?フィクションはこれを乗り越える力を人間に与えられるのか?われわれはこの問題を真剣に問い続けなければならない。

  ボスニア紛争を題材にした映画は、僕が観ただけでも「ブコバルに手紙は届かない」(94)、「ビフォア・ザ・レイン」(94)、「ユリシーズの瞳」(96)、「パーフェクト・サークル」(97)、「ノー・マンズ・ランド」(01)などがある。他に未見のもので「ボスニア」(96)と「ウェルカム・トウ・サラエボ」(97)がある。いずれも観終わった後に暗澹たる気持ちにならないものはない。哲学的に考察を深めようが、怒りに体を振るわせようが、観ている自分たちにはどうすることもできないもどかしさ。戦慄すべき現実。どこにも逃げ場がない恐怖と絶望感。どうしても断ち切れない憎しみの連鎖。

  作品の出来具合にかかわらず、現実の重みはひしひしと伝わってくる。それでもフィクションの限界はある。この種の作品には現実の悲惨さはそんなものではないという批判が常にある。現実をリアルに描くことはもちろん必要だ。現地で生活している人たちは自分た066429 ちの置かれている悲惨な現状を知ってほしいと思うだろう。しかしだからといって悲惨な現実をただ悲惨に描けばいいのか。あなたたちの悲惨さはわかった、お気の毒に。こう言ってくれれば心は癒されるのか。彼らに必要なのは希望である。絶望とともに人間は生きられない。希望がなければ現実の厳しさに耐えられない。フィクションの可能性はそこにある。

  人間に耐えられないような悲惨さを描くときの描き方には様々なアプローチがありうる。悲劇として描く方法。この場合はカタルシスがうまく伴わなければ暗澹たる結末となる。人間の愚かさを徹底して批判的に描く方法。この場合は批判するものの寄って立つ立場が重要となる。なまくらな刀で切るには相手が固すぎる。あるいは批判ではなく風刺する方法。これは文字通り人間の愚かさというバカの壁をあぶりだす。しかし救いは少ない。そして悲劇的現実を通過した後の希望を描く方法。バカの壁は人間の作った壁である。人間の作った壁なら人間の手で突き崩すこともできるはずだ。これは描き方によっては喜劇になる。「ビューティフル・ピープル」はその最後のカテゴリーに属する作品である。

  「ビューティフル・ピープル」はロンドンを舞台に、戦乱を逃れてイギリスにやってきたボスニアの人々とイギリスの人々との出会いを描いたコメディ調の映画である。ボスニア問題を喜劇として描いた作品は僕の知る限り他にない。ナチス占領時代のチェコスロバキアを描いた「この素晴らしき世界」や韓国の軍事政権時代を描いた「大統領の理髪師」がコメディ・タッチを作品にこめられたのは、描かれた時代との距離があったからである。「ビューティフル・ピープル」の場合は時間ではなく地理的な距離があった。ボスニア問題を現地ではなくロンドンで描いた。地理的な距離を置くことによって悲劇を喜劇的に描くことが可能になったのである。この点をジャスミン・ディズダー監督自身(1961年ボスニア生まれ、1993年に英国に帰化)は次のように語っている。

  「確かに深刻な問題を扱ってはいるけど、声高に戦争反対を叫ぶような作品じゃない。僕が描きたかったのは、ロンドンに住んでいる人間群像、ボスニア戦争に対するこの街の反応なんです。自分では悲劇についてのコメディー、人間喜劇と思っている。カンヌ映画祭でも、観客は心から笑ったり、感動してくれました」

  「ビューティフル・ピープル」のストーリーの展開は、5つのエピソードが互いに幾分重なり合いながら並行して進行するという、最近よく見かける形式をとっている。その結節点となっているのはロンドンとボスニアの二つの病院である。キーワードは「ケイオス(混沌)」と「ライフ」。この2つを結び、かつ5つの中で最も感動的なのは子供を堕ろして欲しいと医者に頼むボスニア難民夫婦のエピソードである。産婦人科医モルディ(ニコラス・ファレル)は不審に思い二人に理由を聞く。夫は自分の子ではないというだけでなかなか真相を言わない。実はこの子供はボスニアにいるときに相手の兵士にレイプされてできた子だったのである。なんという人生なのか。祖国で悲惨な経験をした難民たちは、たとえロンドンに移り住んでいたとしても、祖国で身と心に刻まれた傷と苦悩を引きずってゆかざるを得ない。彼らは体と一緒に苦悩と悲しみをロンドンに持ってきたのである。戦争は人間の心の中に憎しみと苦悩の種を植え付けるのだ。

  モルディ(彼自身も妻と離婚し、二人の子供を妻に奪われるという苦悩を背負っている)は二人に産む事をすすめる。悩んだ末夫婦は子供を産む決心をする。彼らはおそらくボスニアで多くの肉親や友人たちを失ってきたのだ。どんな子であれ生き、そして幸せになる権利がある。彼らは新しい命とともに生きてゆかねばならない。生まれた子供は「ケイオス(混沌)」と名づけられた。モルディはこの夫婦を自分の家に引き取る。ケイオスという象徴的な名前をつけられたこの子の眼に世界はどう映るのか。複雑な血を受け継いでいるという意味でも、彼の誕生は世界のねじれの結果であるという意味でも、彼の存在自体が混沌である。にもかかわらず、われわれはこの子に希望を託したい気持ちになる。この子はすでに奇跡を起こしている。苦悩していた両親に生きる希望を与えたのだ。彼の誕生は両親の体から「憎しみと苦悩の種」を消し去ったのである。

  どれほど悲惨な目にあっても人生は生きるに値する、人生は変えることができる、ボスニア難民の夫婦はこういう結論に達した。同じように「人生」の意味を問うたのはやはりユーゴからの難民であるペロ(エディ・ジンジャーノヴィテ)である。役所で生活保護手帳を受け取ったとき、役人が「これはあなたのLIFEですよ」と念を押す。英語がよくわからないペロは周りの人に「LIFE」とはどういう意味かと聞いて回る。しかし誰も教えてくれない。相手にもしてくれない。これは単に英語の問題ではなく、観るものに「生命」とは、「人生」とは、「生活」とは何かを問いかけている。秀逸な設定である。

  ペロは車にぶつけられ入院する羽目になる。そこでインターンのポーシャ(シャーロット・コールマン)と出会い、恋に落ちる。ここから彼の人生は変わり始める。ポーシャの父親は議員で、家は上流家庭である。父親がテレビで語っている言葉にはまったく実質がない。彼はポーシャの家に招かれるが、ポーシャの家族はみすぼらしい身なりの彼を小馬鹿にしたxclip-r1 ような目で見ている。「ビューティフル・ピープル」はボスニア難民ばかりではなく、イギリスの階級社会も視野に入れ、民族、階級、貧富の差、世代間のギャップ、そして難民に対する偏見や差別なども抉り出してゆく。

  二人は何とか結婚にこぎつける。結婚式のスピーチでペロは、自分はボスニアで人を殺したと告白する。いっせいに身を引く参列者たち。「LIFE」と書かれた紙切れを内ポケットから取り出して、「僕はみんなと一緒だ」と話すが、周りの人たちは銃を取り出したと思って後ずさる。

  ペロは唯一の理解者ポーシャと出会い、自分の人生を変えた。だが周りは簡単には変わらない。ペロがユーゴスラビアの地図と昔の写真を示しながらポーシャに語るシーンが印象的だ。ユーゴスラビアはもう存在しない。兵士だった自分の姿も過去のものだ。彼は今ロンドンに住み、新しい人生に踏み出し、自分の生活を変えようとしている。何人もの命を過去に奪ったことを認めつつ、いつまでも過去を引きずっていないその姿勢に共感できる。人生は作ってゆくものなのだというメッセージがここに込められている。彼の生きる姿勢に様々な意味の「LIFE」が表れている。

  残りの3つのエピソードは簡単にまとめよう。3つ目のエピソードはボスニアが舞台。BBCの特派員ジェリー(ギルバート・マーティン)がボスニアの野戦病院を取材した時、麻酔なしで足を切断する場面に出くわす。帰国後彼は重いボスニア症候群にかかってしまう。自分を過度にボスニアと同化させた結果、彼は精神のバランスを失い、自分も足を切ると言い出して周囲を困惑させる。幸い催眠術による治療を受けて彼は回復する。ここではボスニアでの現実をわれわれがどう受け止めるのかという問題が提起されている。

  その野戦病院に一人のイギリス人青年がいた。親からどうしようもないバカ息子と思われているジャンキー青年グリフィン(ダニー・ナスバウム)である。オランダまでサッカー観戦に行ったあげくパブで麻薬を打ってフラフラになる。空港で飛行機ではなく国連軍機の救援物資のカーゴにもぐりこんで熟睡してしまい、ボスニアの真只中に投下される。目が覚めたらそこはボスニアだった。わけがわからないまま例の野戦病院まで来て、手術に立ち会うが、たまたま持っていたヘロインを麻酔代わりに提供する。それをその場にいたBBC特派員のジェリーが特種として報道して話題になってしまう。ボスニアでの悲惨な現実にグリフィンの人生観が変わってしまい、帰国の際にはボスニアから目を負傷した孤児の少年を引き取って連れてくる。それまでバカ息子扱いしていた親たちも彼をヒーロー扱いする。彼のジャンキー仲間までグリフィンが連れてきた子供に親切に接するようになる。これが4つ目のエピソード。

  5つ目のエピソードは映画の冒頭から展開される。ロンドンのバスのなかでたまたま出会ったクロアチア人(ファルーク・プルティ)とセルビア人(ダード・イェハン)が突然喧嘩を始める。同郷で顔見知り同士だったのだろうが、その後の紛争で敵同士になったものと思われる。結局二人は大怪我をして同じ病院に運ばれ、同じ病室に入院する。たまたまイングランド人に憎しみを抱くウェールズ人爆弾魔も同室だった。最初に喧嘩を仕掛けた男は病室の中でも相手の男が体につけている装置の管をはずして殺そうとする。しかし温厚なイギリス人看護婦が間に入り、最後には仲良く4人でトランプをする。

  最後の二つのエピソードがもっぱらコメディ的な要素を担っている。互いに憎みあっていた同士が、ウェールズ人爆弾魔も含め、仲良くトランプをしているラストをどう受け止めるのか。ボスニアで地獄を見てきたグリフィンばかりでなく、彼の不良仲間まで優しくなってしまうことをできすぎだと受け止めるのか。最初の二つのエピソードがハッピー・エンディングになるのは比較的自然である。したがって、最初に提起した悲惨な現実を描きつつ、そこにとってつけたものではない希望をどう描くのかというテーマの試金石となるのは、最後の二つのエピソード、特に5つ目のエピソードである。これをあまりに都合のいいありえないエンディングと取るのか、希望を込めた感動的な終わり方と取るのか、最終的には観る側の判断になる。それが実際にはありえない結末であることはおそらく誰も否定しないだろう。憎しみ会う二人の男たちに埋め込まれた「憎しみと苦悩の種」はそんなに簡単に消え去りはしない。問題はあえてありえないエンディングにした製作者たちの意図にわれわれがどれだけ共感できるかである。製作者たちは仲良くトランプに興じる4人の姿に憎しみと対立を超えた平和共存の可能性を描きこもうとしている。希望は作り出してゆかなければならない。憎しみは克服出来る。これをどう受け止めるのか。

  この映画を甘いとする批判を僕は否定しない。映画の構成もいろんな問題を入れ込みすぎて必ずしもうまく消化し切れていない。映画の出来としても決して完璧ではない。やはり結論を急いでいることは否めないからだ。しかし互いに並んで病床に横たわりながらもなおも相手を殺そうとする男を見て、何とかその憎しみを断ち切れないものかと僕は思った。だから最後に4人がトランプをしているシーンはさわやかだった。僕は思う。この作品が決して完璧ではないことを認めつつも、そして現実がそれほど甘くないことを認めつつも、やはりここに込められた希望に託してみたいと。「ほんのちょっと運が味方すれば、人生は美しくなる」というモルディ医師の最後のセリフを僕は信じたい。悲劇を知っているからこそ希望が必要なのだ。

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