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2005年12月18日 - 2005年12月24日

2005年12月24日 (土)

ビヨンドtheシー

2004年 アメリカ・ドイツ・イギリス bara
製作、監督:ケヴィン・スペイシー
脚本:ケヴィン・スペイシー、ルイス・コリック
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽プロデュース:フィル・ラモーン
美術:アンドリュー・ローズ
衣装:ルース・マイヤーズ
出演:ケヴィン・スペイシー、ケイト・ボスワース、ジョン・グッドマン
    ボブ・ホスキンス 、ブレンダ・ブレッシン、グレタ・スカッキ
       キャロライン・アーロン、 ウィリアム・ウルリッチ、マイケル・バーン

 この映画を観て、ボビー・ダーリンについて全く何も知らなかったことに気付いた。もちろん名前は知っていた。しかしボビー・ダーリンと聞いてすぐ思い浮かんだのが「ほほにかかる涙」だった。情けない、それはボビー・ソロだろ。大体カンツォーネじゃないか(汗)。映画を通して、聞き覚えのある曲はタイトルになっている有名な「ビヨンド・ザ・シー」だけだった。いや、それどころかもっとショックだったことがある。「ビヨンド・ザ・シー」が流れたすぐ後にシャルル・トレネの「ラ・メール」が流れていた。DVDを観終わった後タバコを吸いながら「ラ・メール」を口ずさんでいた時、メロディが「ビヨンド・ザ・シー」と似ていることにはっと気付いた。タイトルも「ラ・メール」と「ビヨンド・ザ・シー」、ひょっとして・・・。そう、そんなことも知らなかった。まあ、僕が洋楽を聴き始めたのは1970年以降だから、その時既に過去の人で全く関心がなかったわけだ。何しろ当時はビートルズですら過去のものだと思っていたくらいだからね。というわけで、「ビヨンドtheシー」はボビー・ダーリンについて全く予備知識なしで観た。当然思い入れもない。

 それにしても最近のアメリカ映画は有名人(特にミュージシャン)の伝記映画がやけに多い。「五線譜のラブレター」「アビエイター」、「RAY」、共同製作だが「モディリアーニ真実の愛」「モーターサイクル・ダイアリーズ」など。ヒット作の続編、外国映画の焼き直しばかり作っていると思っていたら、今度は有名人の伝記映画か。これもオリジナル脚本を作れなくなってきた兆候の一つなのか?少なくとも誰でも知っている人物の映画なら客も入るだろうという打算はあっただろう。志は低いが映画の完成度はおおむね高い。得意の分野だからだ。有名な映画だけを拾っても、「ゾラの生涯」、「ジョルスン物語」、「炎の人ゴッホ」、「打撃王」、「翼よ!あれが巴里の灯だ」、「赤い風車」、「グレン・ミラー物語」、「ベニイ・グッドマン物語」、「愛情物語」、「五つの銅貨」、「奇跡の人」、「ウディ・ガスリーわが心のふるさと」、「ビリー・ホリデイ物語」、「アマデウス」、「ハメット」、「マルコムX」、「バード」、「ドアーズ」等々、山のようにある。やはり音楽家が多い。映画として華があるからだろう。

  また、今年の10月24日92歳で亡くなったローザ・パークス女史(有名なモンゴメリーのバス・ボイコット運動のきっかけとなった人)本人の伝記映画ではないが、バス・ボイコット運動を描いた「ロング・ウォーク・ホーム」という佳作もある。アンジェラ・バセット主演の「ローザ・パークス物語」というテレビ・ドラマも作られた。ついでにもう一つ挙げておくと、逆に黒人がバスに乗る映画「ゲット・オン・ザ・バス」というのもある。これは95年にワシントンで行われた「百万人の行進」に参加するためにバスに乗った人々を描いた映画である。キング牧師の演説で有名な63年の「ワシントン大行進」を意識した映画で、スパイク・リーの隠れた傑作である。

  いつもながら前置きが長くなってしまった。「ビヨンドtheシー」はそこそこ楽しめた。「五線譜のラブレター」と似た構成。最初に本人が自分の伝記映画を作っているところから始まる。ただ、「五線譜のラブレター」の場合こうすることによって主人公を相対化し、美化することを避け、ある程度対象を客観視できる効果があったが、「ビヨンドtheシー」の場合どこに狙いがあったのか今ひとつはっきりせず、そのため効果も弱い。ましてや苦節10年、ついにやったぞ的思い入れたっぷりで、ケヴィン・スペイシー自身がボビー・ダーリンになりきり、歌まで歌ってしまうというのでは相対化のしようがない。描かれているのはボビー・ダーリンではなくケビン・スペイシーであるとか、「ケビン・スペイシーのワンマンショー」といった評が出てくるのも無理からぬことだ。

  50年代の終わりに「スプリッシュ・スプラッシュ」というロックン・ロールをヒットさせ、一躍ティーンのアイドルとなったが、彼はどうしてもフランク・シナトラのような歌手になりたかった。プロデューサーと廊下でそのことでやりあうシーンは印象的だ。そんなものを歌わなくても君は既にスターだというプロデューサーに対して、ボビーはたまたま通りかかった配達員に自分を知っているかと聞く。配達員は知らないといって立ち去る。勝ち誇ったようにボビーは言う。「配達員に知られたら真のスターさ。」こうして彼はスタンダード・シンガーへの道を歩みだす。この後は順風満帆、文字通り真のスターになるが (もっとも夫婦の間の葛藤はあった)、やがて彼の歌は時代遅れになり、売れなくなる。このあたりの苦悩が今ひとつ伝わってこない。どうもドラマとしてみた場合やや平板でメリハリに欠ける。もっとミュージシャンとしての葛藤が描かれていてもよかったと思う。一時音楽から離れ、ロバート・ケネディを応援するが、彼が暗殺されてからまた音楽の世界に戻り、反戦歌を歌ったりすることは描かれている。だがこれらは単なるエピソードの寄せ集めになっていて十分掘り下げられているとはいえない。ナイトクラブでの前座に黒人コメディアンを起用しようと頑張るシーンもあるが、思想的側面には深入りしていない。トレーラーハウスで作曲に力を入れているシーンも短く描かれるが、彼が時代や音楽シーンの変化に直面してどのように葛藤したのかほとんど描かれない。"Simple Song of Freedom"を歌うシーンをラストのクライマックスに持ってくるのだったら、このあたりをもっと描くべきだった。

  「アビエイター」でも指摘したことだが、もっと焦点を絞った方がよかったのではないか。たとえ37歳で夭折した人であっても、一人の人間の人生を2時間ですべて描くことはそもそも無理なのだ。しかもレイ・チャールズのような波乱の人生を送ったわけではないのだから、切るべきところは切り、焦点を当てるところはじっくり描かないと平板になってしまう。一番問題なのはステージの上以外の彼の人生を描く時に、サンドラ・ディーとの恋愛と結婚を中心piano1にしてしまったことだ。正直ほとんど記憶に残っていない女優だ。しかもサンドラ・ディー役のケイト・ボスワースも本人によく似ているのだが、あまり魅力を感じなかった。まあそれは個人の好みだが。ただこの部分を救っているのは彼女の母親を演じているグレタ・スカッキである。どうせ結婚するなら「ロック・ハドソンと結婚してほしかったわ!」と平然と言い放つ女性だ。そりゃ美男子だがね。やや日本のテレビドラマみたいなステレオタイプ化された人物像だが、彼女が演じると妙にはまる。しかし結婚後はグレタ・スカッキもあまり登場しない。結婚後の描写はかなりありふれたものになっている。かつらの話は面白いが、それだけでは彼の人間的苦悩を十分描いたとはいえない。ゴールド・レコードを前にかつらを脱ぐシーンは印象的ではあるが。

  ところでこの映画は何を描きたかったのか。昔は伝記映画といえばそれこそ偉人伝だった。そこには伝えるべき教訓があった。今はそれでは成り立たない。だから音楽家にしてもクラシックではなくポピュラーのミュージシャンが対象になり、教訓ではなくエンターテインメントとして、まるで昔のミュージカル映画を楽しむような作りになる。昔のミュージカルを再現しても時代に合わない、それならミュージシャン本人を取り上げ、歌やダンスも楽しめながら人間ドラマとしても楽しめる作りにしよう。そういうことだろう。

 ショーの部分は確かによく出来ている。これはアメリカ映画お得意の分野だし、才人ケヴィン・スペイシーが本領発揮できる部分だから、悪かろうはずはない。なにしろ子供の頃からタップを習っており、ミュージカル経験もあるそうだ。物まねは名人級。ただそんなに苦労して似せる必要もなかったように思うが。ほとんど忘れ去られた人なのだから似ていようが似ていまいがどうでもいいことだ。そっくりショーを見に行ったわけではない。それらしさが出ていればそれでいいではないか。それにそんなに似せたところで、ボビー・ダーリンの歌自体が古臭いのだからこちらは心底楽しめるわけではない。そもそもフランク・シナトラからして少しもいいとは思わない。確かに歌は抜群にうまいのだが、聞いていて面白くない。むしろ思い切って現代風にアレンジしてしまって、ケビン・スペイシー以外の人にも歌わせた方がよかったのではないかと思う。飲みに行った店で誰かが彼の歌を歌っているとか、BGMで流すとか。『五線譜のラブレター』の方が現役のエンターテイナーが多数出演しており、ショーを楽しむという点ではこちらの方がずっと上である。まあ、さすがに歌がうまいから飽きることはなかったしそれなりに楽しめたから、その点はむしろ評価してもいいと思う。

  歌われた曲の中では、最後に歌った"Simple Song of Freedom"が一番いい歌だと思った。文字通りシンプルだがぐっと胸に迫る素晴らしい曲で、ここが一番感動的なシーンだ。僕は60、70年代のフォークで育った世代だから素直に入ってくる(逆にスタンダードが好きな人は違和感があるかもしれないが)。最初のうちは観客からブーイングを受けるが、同じ歌をいつもの盛装で歌うと、観客から熱烈な反響が返ってくるという展開も悪くない。「人は見た目で聞く。」格好だけ若者に合わせても馬鹿にされるだけ。ちゃんと盛装すれば客は聞いてくれる。変革の時代だったが、まだそういうところも残っていたのである。"

  それに比べると泣かせどころとして用意された彼の出生の秘密が明かされる場面、そしてそれを公衆の前で公表する場面はいかにもお涙頂戴調である。かつらの話といい、どうしても伝記映画というと知られざる事柄を描いて観客をあっといわせるという展開になりがちだ。それよりも子どもの頃をもっと描いた方がよかったと思う。ボビー・ダーリンは、リューマチ熱のために心臓を悪くして、よくて15歳までしか生きられないと宣告された。そんな彼が「15歳以上生きてやる!」と思うようになったのは音楽と出会ったからであり、そう仕向けたのは母親である。母親と共に音楽の才能を伸ばしてゆくシーンを前半のメインにしたらいいシーンがたくさん作れたのではないか。そうしなかったのは、子ども時代はケヴィン・スペイシーに演じられないからである。

  子役の位置づけにも疑問がある。子役のウィリアム・ウルリッチには子ども時代のボビーそのものを演じさせるべきだった。ボビーが製作している「自伝映画」の中でボビーの子ども時代を演じる子役ではなく。「ビヨンドtheシー」の冒頭で子役がボビーに意見するあたりはいかにも不自然だ。「自伝映画」の子役が必要だったのは後の方で子役とボビーが一緒に踊るシーンを撮りたかったからだと思われる。大人のボビーと子供時代のボビーが一緒に踊ることは現実には不可能だからだ。だが、現実には無理でも夢想や幻想の中でなら可能だ。死の床でボビーが自分の人生を振り返り、子ども時代の自分と一緒に踊る幻想的なシーンが流れる、という方がずっとよかったと思う。

  脇役にジョン・グッドマン、ボブ・ ホプキンス、ブレンダ・ブレッシンなどのイギリス人俳優を配したことが劇に厚みを加えている。撮影監督は「鳩の翼」と「真珠の耳飾の少女」でアカデミー賞を取った名手エドゥアルド・セラ。

 1967年にボビーと離婚したサンドラ・ディーは、2005年2月20日に62歳で亡くなった。

2005年12月22日 (木)

ロード88

2004年 日本 SD-glass05-09
監督:中村幻児
脚本:梅村真也・中村幻児
撮影:高間賢治
音楽:遠藤浩二
原作:山名兌二
製作総指揮:大里洋吉
出演:村川絵梨、小倉久寛、須藤理彩、津田寛治
    小園崇、黒田福美、川上麻衣子、ニコラス・ペタス
    高松英郎、長谷川初範、神山繁、富田靖子
    三宅裕司、岸谷五朗、寺脇康文、新藤晴一

  いまどき珍しいほどストレートな映画である。しかも、いわゆる難病もの。いかにもという作りなのだが結構素直に感動できる。この映画の魅力の大半は主演の村川絵梨の魅力だといっていいだろう。帽子とバンダナがやけに似合うし、スケボーに乗っている姿がまたなかなか様になっている。そして何といってもけなげでかわいい。奥山佳恵を若くした感じの顔で、好きなタイプだ。彼女はNHK朝の連ドラ「風のハルカ」のヒロインなので、ご存知の方は多いだろう。演技力はまだまだ未熟だが、とにかくひたむきに頑張る彼女のけなげさに惹きつけられた。

  タイトル「ロード88」の「88」とは四国88カ所霊場巡りのことを指している。主人公の槙村明日香(村川絵梨)がスケボーでお遍路さんをするというストーリーなのである。その意味でこれは一種のロードムービーである。明日香は骨髄性白血病に冒されている。ドナーも見つからないため、いつまで生きられるかも分からない不安な状態に置かれている。彼女は思うところがあってスケボーと携帯だけを持って四国88ヶ所・お遍路巡りに旅立つ。映画は彼女が最後の寺まで行き着く過程をずっと追ってゆく。

  もちろんそれだけでは話が単調になるので、旅の途中で出会った人たちを絡ませてゆく。同じお遍路巡りをしている人たちなので、つかず離れずほぼ同じペースで巡ってゆく。「旅の仲間」の一人は売れないお笑い芸人佐藤勇太(小倉久寛)。彼の旅はかなり悲惨である。テレビ番組の収録のために自転車でお遍路巡りをしているのだが、スタート時に財布を取り上げられ、所持金はゼロ。旅の費用は道々お笑い芸で稼ぐしかない。だがコンビの相方に見捨てられた売れない芸人の芸では稼ぎはさっぱり。飯代もろくに稼げず、旅館にも泊まれない。佐藤勇太は準主役と言ってもいいくらいの重要な役割を振り当てられている。一緒に回っているディレクターの小園崇(津田寛治)とADの真中涼子(須藤理彩)との関係も描きこまれてゆく。

  もう一人の「旅の仲間」は、ある理由で警察と怪しげな組織に追われている伴野一郎(長谷川初範)。死んだ娘にそっくりな明日香に引かれ、途中から彼女と一緒に旅をする。娘に何もしてやれなかったことが心の傷になっている。勇太も伴野も明日香のひたむきさによって生きる勇気を与えられる。

  映画の出来は決してよくはない。全く型どおりの映画である。あまりにストレートすぎるので、途中で先の展開がある程度読めてしまう。お遍路の意味や各寺の来歴も語られず、寺は単なる通過点に過ぎない。四国の風景も美しく撮られているが、これも単なる背景に過ぎない。この映画は骨髄バンクのドナー登録者を増やすためのキャンペーン映画として作られた。そのことが映画の完成度を低めていると思われる。どうしても一種の「プロパガンダ映画」になってしまうからだ。ドナー提供者が現れずに明日香が死んでゆくか、提供者が現れて助かるか、結論はどちらかにほぼ決まってしまう。そこからストーリーを作ってゆけば、当然途中で先が読めてしまう。まあ、そういうことだったのではないか。ユニークな「旅の仲間」をひねり出したりしていろいろと工夫はしているが、もう一つ、二つ工夫が足りないということだ。ラストだって明日香がその後どうなったのか結論を出さずに終わらせる事だって出来ただろう。彼女は助かったのか?結論を与えるのではなく、観客に考えさせることで関心を持たせる。そうすれば途中のエピソードだって必ずしもラストに向かって直線的に収斂していかなくてもいい。まあ、実際は口で言うほど簡単ではないのだろうが。

  ただ、完成度が高くないといっても、観終わった後はさわやかで、それなりに感動も出来る。逆に言えば、それほど村川絵梨が魅力的だということである。煎じ詰めると村川絵梨の魅力がすべてなのである。「ヒーリング・ロード・ムービー」というのがキャッチコピーのようだが、映画のテーマよりも彼女の姿そのものがヒーリングなのである。骨髄バンクのドナー登録者を増やすためのキャンペーン映画、あるいは四国4県オールロケによる四国宣伝映画を作ったつもりが、皮肉なことに村川絵梨のプロモーション映画になってしまった。おかげで彼女は朝ドラのヒロインにもなれたし、ひょっとするとものすごい大器なのかも知れない。「臭く」なりがちなテーマだが、彼女の魅力がその臭さをかなり消してしまった。出来は「深呼吸の必要」ほどではないが、同じように若者のひたむきさをストレートに描いた数少ない日本映画である。斜に構えた映画が横行する中で、ほどよいさわやかさを感じたことを率直に認めておくべきだろう。

  古瀬陽子の挿入歌「夢は夢のままで」は非常にいい曲だった。BOYSTYLE(村川絵梨もメンバーの一人)の歌う主題歌「Tomorrow~風の道標~」も悪くない。

2005年12月21日 (水)

年末から06年新春にかけて出る注目すべきDVD

xclip-r1  2005年は過去の映画をDVD化する作業が飛躍的に進んだ年です。それまで観たくても観られなかった映画が家庭で気楽に観られるようになったのは喜ばしいことです。特に映画館が近くにあまりない地方都市の住民にとってはずいぶん便利になりました。レンタル店の棚も2、3年前と比べるとDVDの比率が格段に多くなっています。ずいぶん長かったビデオ時代ももう終わりですね。次世代DVDが今後どのように展開されるのか気になりますが、この傾向はまだしばらくは続くでしょう。もっとも、わざわざDVDを借りたり買ったりしなくても、衛星放送やインターネットを通じて観るのが普通になる日も遠くないと思われます。

  11月20日に「05年にDVD化されたおすすめ旧作」というリストを掲げましたが、年末に来てかなり貴重な映画が一気にDVD化されます。サイレント時代に作られたソ連映画の歴史的名作5本です。「戦艦ポチョムキン」などいくつかは前にもDVDになっていたと思いますが、これだけまとまって出るのは初めてではないでしょうか。もっとも、すべての人におすすめできるわけではありません。何しろ古い映画だし、僕はこれらを70年代の前半に見たのですが(SF映画「アエリータ」は80年代)、その当時既に古いと感じたわけですから。専門家でもなければ観る必要のない映画ですが、歴史的に貴重な作品だけにDVD化されたこと自体は大いに意義のある事です。他に比較的新しいソ連映画も2本出ます(いずれも12月22日発売)。先にDVD化されていたソ連映画最初のカラー映画「石の花」とあわせると、今年かなりソ連映画のライブラリーは充実したことになります。しかしまだまだソ連映画は未発掘の分野。個人的に出してほしいものだけでも2、30本は下りません。来年はさらに多くの作品が身近になることを期待します。

「アエリータ」(1924年、ヤーコフ・プロタザーノフ監督)
「アジアの嵐」(1928年、フセボロド・プドフキン監督)
「アンドレイ・ルブリョフ」(1966年、アンドレイ・タルコフスキー監督)
「人生案内」(1931年、ニコライ・エック監督)
「大地」(1930年、アレクサンドル・ドブジェンコ監督)
「母」(1926年、フセボロド・プドフキン監督)
「炎628」(1985年、エレム・クリモフ監督)

 また、来年1月に「ポランスキー・スペシャルDVDコレクション」が発売されます。初期の傑作「水の中のナイフ」、「反撥」、「袋小路」の3作を収録。滅多に観られない名作ですので是非この機会に手に入れておくといいでしょう。2月にはG.W.パプスト監督のサイレント映画の名作「パンドラの箱」も出る予定。これも滅多に観られない歴史的名作ですので関心のある方は是非。

1月27日  「ポランスキースペシャルDVDコレクション」
2月25日  「パンドラの箱」

 旧作ばかりでは何ですので、来年出る新作DVDからぜひ観たいと思っているものも挙げておきます。1月、2月は話題作がひしめき、かなり充実しています。先日レビューした「メゾン・ド・ヒミコ」も3月3日発売予定。

1月12日  「ヒトラー最期の12日間」(04年、オリバー・ヒルシュピーゲル監督)
1月13日  「理想の恋人」(05年、ゲイリー・デビッド・ゴールデンバーグ監督、米)
1月25日  「シンデレラマン」(05年、ロン・ハワード監督、米)
1月25日  「亀は意外と速く泳ぐ」(05年、三木聡監督、日本)
1月27日  「マラソン」(05年、チョン・ユンチョル監督、韓国)
1月27日  「星になった少年」(05年、河毛俊作監督、日本)
1月27日  「樹の海」(04年、瀧本智行監督、日本)
1月27日  「運命じゃない人」(04年、内田けんじ監督、日本)
1月27日  「Dearフランキー」(04年、ショーナ・オーバック監督、英)
1月27日  「ラヴェンダーの咲く庭で」(04年、チャールズ・ダンス監督、英)
2月 3日  「チャーリーとチョコレート工場」(05年、ティム・バートン監督、米英)
2月22日  「リンダ リンダ リンダ」(05年、山下敦弘監督、日本)
2月24日  「NANA」(05年、大谷健太郎監督、日本)
2月24日  「いつか読書する日」(05年、緒方明監督、日本)
2月24日  「ヴェラ・ドレイク」(04年、マイク・リー監督、英仏)
2月24日  「南極日誌」(05年、イム・ピルソン監督、韓国)
2月24日  「ふたりの5つの分かれ路」(04年、フランソワ・オゾン監督、フランス)
2月24日  「ハッカビーズ」(04年、デビッド・O・ラッセル監督、米・独)

  最期に、「2005年発売のDVD/ビデオ マイ総合ランク」というリストも掲げておりますので、よければごらんになってください。今年の総点検をする際に多少のお役に立てるかもしれません。

2005年12月20日 (火)

風の遺産

1960年 アメリカ(劇場未公開・TV放映) SD-fai2-09
原題:INHERIT THE WIND
監督:スタンリー・クレイマー
製作 : スタンリー・クレイマー
脚本 : ネイサン・E・ダグラス、ハロルド・ジョイコブ・スミス
撮影 : アーネスト・ラズロ
音楽 : アーネスト・ゴールド
出演:スペンサー・トレイシー、フレデリック・マーチ
 ジーン・ケリー、 フローレンス・エルドリッジ、ディック・ヨーク
 ヘンリー・モーガン、 ドナ・アンダーソン、エリオット・リード
 クロード・エイキンズ

  アメリカ1920年代。ジャズ・エイジとも言われ、アメリカ人がやがて来る大恐慌の前の空前の繁栄を享受していた時代。自動車、飛行機、ラジオが市民生活をより快適なものに変えていった。そして摩天楼が出現した時代。誰もが科学の進歩の恩恵を享受していた時代。その時代にとんでもない裁判が起こった。スコープス裁判。一般には「サル裁判」として知られる、アメリカの歴史上有名な裁判である。

  1925年の蒸し暑い夏。アメリカ・テネシー州デイトンで世紀の事件は起こった。当時高校の数学教師であった(スポーツ・コーチで理科の代用教員でもあった)ジョン・スコープスが授業中にダーウィンの「進化論」を生徒に教えたことを理由に逮捕されたのである。日本では信じられないことだが、今でもアメリカではキリスト教原理主義者による進化論攻撃は続いている。80年代に保守派のレーガン大統領が誕生した時、保守派の巻き返しが激しくなった。その巻き返しの中心にいたのは「モラル・マジョリティ」などのキリスト教右派団体である。堕胎反対運動など当時話題になったのでニュース等で見た人も多いだろう。この時も反進化論キャンペーンがあり、各地で裁判になった。

  スコープス裁判についてJ.W.T.ヤングス著『アメリカン・リアリティーズ』(1985年、多賀出版)の第7章「現代と伝統――スコープス裁判と社会正義」を借りて説明しておこう。ファンダメンタリスト(原理主義者)の運動はK・K・Kほど人種差別主義的ではなかったが、その目標には共通のものも少なくなかった。両者共に聖書、農村的生活などを強調し、変化を恐れた。彼らは聖書の真実――天地創造、処女降臨、復活――を本質的真実だと考える。したがって人間は猿から進化したとする進化論の考え方は神への冒涜であり、彼らにとって主要な敵とみなされた。ファンダメンタリストは1920年代にキリスト教の少なからぬ宗派で多数派になり、中南部の各州で進化論を公立学校で教えることを禁じる法律を成立させた。テネシー州では1925年にジョン・バトラーという農民議員がこの法案を提出し、通過した。アメリカ市民自由連盟(ACLU)はこの法律に対して法廷で争う方針を立て、スコープスを拝み倒し協力を約束させた。数日後、スコープスはバトラー法違反で逮捕された。

  裁判では弁護側はクラレンス・ダーロウを弁護士にたて、検察側はウィリアム・ジェニングス・ブライアンを検事に選んだ。二人とも当時有名な人物だった。検事側の主張は単純、テネシー州で禁じられている進化論を教えたかどうかを論点にした。弁護側はその法律そのものが憲法修正第1条と第14条を犯している、広く受け入れられている科学理論を教えることを禁じるのは不当であると主張した。だが本質は、進化論とファンダメンタリズム、思想の自由と「根を下ろした価値観」の対立だった。結局、スコープスは、ダーロウの見事な弁護にもかかわらず、1927年7月21日に有罪判決を言い渡され100ドルの罰金を課された。裁判が終わった数日後、検事のブライアンは突然死去した。弁護側はその後も運動を続け、1967年バトラー法は廃止された。

  「風の遺産」はこの有名なスコープス裁判を描いた骨太な法廷劇である。このような映画がある事自体つい一月ほど前まで知らなかった。それが突然DVDで発売されたのである。最近のDVD化の動きは相当なものである。まだDVD化されていない作品も結構あるが、この動きが今後も続くなら、かなり貴重なものも入手できるようになるだろう。歓迎すべきことである。

  「風の遺産」は日本では劇場未公開。ただし「聖書への反逆」というタイトルでテレビ放映されたことがあるようだ。タイトルは旧約聖書の「箴言」にある「自分の家族を煩わせる者は風を相続し、愚かな者は心に知恵のある者の僕となる」から取られている。監督は「招かれざる客」、「手錠のままの脱獄」、「ニュールンベルグ裁判」などで知られるスタンリー・クレイマー。弁護士にスペンサー・トレイシー、検事にフレデリック・マーチという共にオスカーを2度ずつ受賞した名優を配し、さらに弁護側支持の新聞記者にジーン・ケリーを起用している。

  日本語のサイトには全く情報がないので、英語のサイトから基本的な情報を引き出してみた。Tim Dirks氏の「風の遺産」レビューが非常に参考になる。 映画ではテネシー州デイトンはテネシー州ヒルズボロに変えられ、ダーロウ弁護士はヘンリー・ドラモンドに、ブライアン検事はマシュー・ブレイディに、被告スコープスはケイツ(ディック・ヨーク)に変えられている。ジーン・ケリーが扮した「ボルティモア・ヘラルド」紙のE.K.ホーンベックのモデルは「ボルティモア・イブニング・サンズ」紙の記者H.L.メンケンである。他に判事役をヘンリー・モーガン、ジェレマイア・ブラウン牧師をクロード・エイキンズ、その娘レイチェル・ブラウンをドナ・アンダーソンが演じている。

  元はブロードウェイのジェローム・ローレンスとロバート・E・リー作の舞台劇である。初演は1955年の4月で、ドラモンド弁護士をポール・ムニ、ブレイディ検事をエド・ベグリー、ホーンベック記者をトニー・ランドールが演じている。映画の脚本はネイサン・E・ダグラス、ハロルド・ジョイコブ・スミスとなっているが、ネイサン・E・ダグラスの本名はネドリック・ヤングである。赤狩りでブラックリストに挙げられたが、屈しなかった人物である。ここでは変名で脚本を書いたのである。このネドリック・ヤングの存在は重要である。リベラル派スタンリー・クレイマーは1925年の裁判を題材に取りつつ、人間の良心と信念をめぐる激しい裁判での論争を通して、赤狩り旋風が吹き荒れた50年代の抑圧的雰囲気をも描いていたのである。

  アカデミー賞に4部門でノミネートされたが、いずれも受賞は逸した。この映画は3度テレビドラマ化されている。このテーマがいかに重要、かつ現代的なテーマであるかがこのことxmastreeからもうかがえる。65年版はメルヴィン・ダグラスとエド・ベグリー主演、88年版はジェイソン・ロバーズとカーク・ダグラスとダレン・マクガヴィン主演、99年版はジャック・レモンとジョージ・C・スコットとボウ・ブリッジス主演。そうそうたる名優ぞろいである。

  さて、基本情報はこれくらいにしてそろそろ映画そのものを紹介しよう。「風の遺産」はいわゆる法廷劇のジャンルに入る作品である。息詰まる論戦、予想外の展開と意外な真相など、劇的な展開が作れるので古来名作が多いジャンルである。スタンリー・クレイマー自身の「ニュールンベルグ裁判」、ビリー・ワイルダーの「情婦」、シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」、カール・ドライエルの「裁かるゝジャンヌ」、エドワード・ドミトリクの「ケイン号の叛乱」、オットー・プレミンジャーの「軍法会議」と「或る殺人」、ゴットフリード・ラインハルトの「非情の町」、ロバート・マリガンの「アラバマ物語」、ノーマン・ジュイソンの「ジャスティス」(79年、アル・パチーノ主演)、まだまだある。ただ、残念なことに、最近のものでこのクラスに並ぶものはほとんどない。民主主義が強く、広く信じられていた時代の産物なのである。

  映画は町の有力者4人がいきなり教室に現れ、ケイツが進化論の説明を始めたとたん逮捕される場面から始まる。元が舞台劇だったこともあるだろうが、ほとんどが法廷場面である。ときどき街の人々が人形に火をつけ、「ケイツを木に吊るそう」と歌いながら(「リパブリック賛歌」の歌詞をもじったもの)行進する姿などが映し出されるだけである。このあたりの抑圧的雰囲気はK・K・Kを連想させる。あのぞっとするとんがり帽と白い衣装を着ていないだけだ。

  ドラモンド弁護士が町にやってくる。彼を迎えるのはホーンベック記者ただ一人。ホーンベックはこう呼びかける。「悪魔さん、ようこそ地獄へ」("Hello, Devil. Welcome to Hell.")うまい台詞だ。続けて、「ここがヒルズボロ、原理主義者の牙城だよ。」

  いよいよ裁判。ここからは激しい言葉の応酬。頑固そうなフレデリック・マーチと飄々としたスペンサー・トレイシー、それぞれの持ち味を出し切って丁々発止とやりあう。陪審員の選任から始まり、証人の証言へ。基本的な争点は上に挙げた実際の裁判と同じである。観察側が「いやしい動物が祖先だと学校で教えられたのです。進化論者は子供の心を毒している」と攻め立てる。弁護側は進化論を説明するために科学者たちを証人に呼ぼうとするが、検察側に拒否される。それは論点ではないと。さらにはドラモンド弁護士が法廷侮辱罪で拘束されそうになる。傍聴人の中から保釈金を払おうというものが現れ、何とか拘束は逃れる。

  追い詰められた弁護側はとんでもない証人を呼び出す。聖書の専門家としてブレイディ検事本人を証人に指名する。ブレイディは受けて立つ。聖書に書いてあることはすべて真実だと断言するブレイディに、弁護士はヨナがクジラに飲み込まれたという話はありうると思うか、ヨシュアが一日を長くするために太陽を止まらせた話を信じるのかと問い詰める。さらにカインの妻はどこから来たのか(セックスをしなければ人は増えない)、天地創造の6日間は24時間刻みの時間だったのか、太陽もないのにどうやって時間を計ったのかなどとたたみかける(これらの質問は実際の裁判でも使われた)。ブレイディは「聖書の述べることだけを信じる」としか答えられない。

  いよいよ判決の日、ドラモンドはさらに熱弁を振るう。「知識の進歩は海の水を二つに割る以上に奇跡だ。ダーウィンは私たちに生物の歴史を見せてくれた。その代償として聖書という御伽噺を捨てねばならない。・・・神はなぜ人間に考える力を与えられた?どんな動物よりも優れた能力だ。人間の唯一の武器といってもよい。」

  陪審員の判決が出た。有罪。裁判長は有罪を言い渡し、さらに100ドルの罰金を課す。裁判は終わったが、ブレイディ検事は用意してきた原稿を読みたいという。しかし裁判長は閉廷を命ずる。収まらないブレイディはざわついた中一人で大演説をぶつ。誰も聞いてはいない。実は証人として弁護士の質問を受けた時に、興奮して自分をまるで預言者のように言い出し始め、熱心な支持者からも顔をしかめられる失態を演じていたのである。彼の名声は地に落ちていた。演説のさなか彼は倒れ、事切れる。

  ラストシーンも印象的だ。ドラモンドは荷物を片付けている。ふと2冊の本を手にする。片手にダーウィンの『種の起源』、もう一方の手に聖書。重さを比べるような身振りをし、それから肩をすぼめて2冊を重ねて鞄に放り込む。ジ・エンドの文字は入らない。問題はまだ解決していないのである。

  この映画から8年後の1968年、「猿の惑星」が作られた。猿が人間を支配しているという全く逆転した発想の映画である。「風の遺産」と並べてみると、この映画に込められた風刺がなお一層よく読み取れる。脚本を書いた一人はやはり赤狩りでハリウッドを追われたマイケル・ウィルソンである。「陽のあたる場所」、「地の塩」、「友情ある説得」、「戦場にかける橋」、「アラビアのロレンス」、「いそしぎ」、「ゲバラ!」の脚本家だ。「友情ある説得」とデヴィッド・リーンの2作では、名誉回復後に彼の名前がクレジット(表示)された。

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2005年12月18日 (日)

「男の争い」とフィルム・ノワール

1955年 フランス映画 053864
監督、脚本:ジュールス・ダッシン
脚本:オーギュスト・ル・ブルトン、ルネ・ウェレル
撮影:フィリップ・アゴスティーニ
音楽:ジョルジュ・オーリック
出演:ジャン・セルヴェ、ロベール・マニュエル
    カール・メーナー、マガリ・ノエル
   ジュールス・ダッシン、マリー・サブレ
       ジャニース・ダルセ、クロード・シルヴァン
   マルセル・リュポヴィシ、ロベール・オッセン

  「フィルム・ノワール」の定義は難しい。ウィキペディアによると次のように説明されている。

 1946年、フランスの映画評論家ニノ・フランクが、アメリカで第二次世界大戦中に製作された「マルタの鷹」、「飾窓の女」などの犯罪映画の一群を指して、この呼称を与えたのが起源と言われる。以後フランスの映画評論界において用語として定着し、後にはアメリカにも逆移入された。フランス語であるため、ジャン・ピエール・メルヴィルやジョゼ・ジョヴァンニらの作ったフランス製ギャング映画がフィルム・ノワールとされがちだが、もともとは、ハリウッドで製作された犯罪映画を指し、「マルタの鷹」(監督:ジョン・ヒューストン、主演:ハンフリー・ボガート)をそのはしりとする。・・・ノワールの特徴は主として、男を堕落させる「運命の女(=ファム・ファタール)」が登場し、ロー・キー(暗いトーン)で撮影され、行き場のない閉塞感が作品全体を覆っている。・・・主演女優の多くははっきりとした悪女役であり、そうでない場合でも、結果的に主人公の男を破滅させる原因を作ることの多い役柄である。

  ファム・ファタルはキーワードの一つだが、ハード・ボイルドとの関係はどうなっているのか。ダシール・ハメットの小説やヘミングウェイの「殺人者」はハード・ボイルドの代表作だが、これらは「フィルム・ノワール」の代表作とも重なる。要するに、「フィルム・ノワール」の文体はハード・ボイルドで、登場人物は男の場合ギャングか犯罪者が多く、女はファム・ファタル、かつ黒いあるいは暗い色調を基調にし、さらに何らかの犯罪が絡んだ映画だということになるのだろうか。定義というのは、定義したとたんにもれてくる映画がいくつも出てくるものである。まあ、とりあえずそんな定義をした上で、それに類した映画を加えればいいのだろう。隣接のジャンルにはサスペンス映画、ギャング映画、ケイパー・ムービー(要するに金庫破り映画)やその他犯罪映画全般があるのでどこまで含めるかは選ぶ人による。(ちなみに、本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」のmiscellanyコーナーに「フィルム・ノワール」の作品リストを挙げてあるので、興味がある方はそちらも覗いてみてください。)

  ファム・ファタルについては高橋裕子が『世紀末の赤毛連盟』(岩波書店)で面白い指摘をしている。彼女の指摘をまとめると次のようになる。

  赤い髪は望ましからぬ属性ばかり引き寄せてしまう。情熱的で癇癪持ちなどというのはまだいいほうで、滑稽とも考えられたし、はては信用をおけぬ、悪魔的、などとして忌み嫌われた。旧約聖書のカイン、福音書のユダ、北欧神話の神ロキ、これら裏切り者の悪役たちは皆赤毛とされている。赤毛はあらゆる「のけ者」の印となった。
  赤い髪はラファエル前派の作品の女たちの顕著な特色として登場する。ラファエル前派が赤毛を好んだのは、グループのメンバーを魅了したモデル(エリザベス・シダルやアレクサ・ワイルディング)がたまたま赤毛の美女だったからだとも言えるだろうが、むしろ「ファム・ファタル」のイメージと関係があるのではないか。
  「ファム・ファタル」とは「宿命の女」と一般に訳されるが、文字通りの意味は「致命的な女」である。美しく、謎めいていて男をとりこにするが、その心は邪悪で男を破滅させる女、それがファム・ファタルである。デリラ、サロメ、カルメン、クレオパトラなどがその代表格である。ラファエル前派は赤毛のファム・ファタルを多く描いてきた。それは伝統的に赤色と結び付けられてきたマイナスのイメージが、男をさいなみつつ魅了する、男に滅びをもたらすが、むしろそれゆえに却って相手を魅了するという倒錯した理想像を表現するのにうってつけだったからではないか。さらには「のけ者」、「アウトサイダー」の象徴としての赤毛の伝統も世紀末に新たな活力を得ている。「滅ぼしつつ魅了するもの」、「アウトサイダー」、この二つの意味は、相互に重なり合って「世紀末の赤毛連盟」を成り立たせている。その最も濃厚に重なった部分を代表するのが「女吸血鬼」のイメージである。

  確かに最強の、あるいは究極のファム・ファタルは「女吸血鬼」だろう。どんなに美人で妖艶であってもお近づきにはなりたくない。「フィルム・ノワール」では、例えば「深夜の告白」のように、男を誘惑して殺人を犯させ、男が罠だと気付いたときには既に破滅の渕にあるという現れ方をするのが典型である。

  さて、「男の争い」だが、この映画にはいわゆるファム・ファタルは出てこない。女性の登場人物はいるが、基本的に男中心の男くさい映画である。ハリウッドで赤狩りにあい、アメリカを逃れてヨーロッパに渡ったジュールズ・ダッシン監督が55年にフランスで発表した作品。同年公開のジャック・ベッケル作品「現金に手を出すな」と並ぶフレンチ・フィルム・ノワールの初期作品である。55年には他にジャン・ピエール・メルヴィルの「賭博師ボブ」とアンリ・ドコワンの「筋金(ヤキ)を入れろ」も作られている。アメリカでは「狩人の夜」(チャールズ・ロートン)や「キッスで殺せ」(ロバート・アルドリッチ)などが同年に作られている。

  「男の争い」は典型的なケイパー・ムービー(金庫破り映画)である。ジュールス・ダッシン042680は後にアメリカで「トプカピ」(64)も作っているから、このジャンルはお気に入りなのかもしれない。ついでながら、意外なところではパトリス・ルコントもケイパー・ムービーを作っている。84年の「スペシャリスト」(未公開だが90年代にビデオが出た)である。アメリカ映画ばりにスピーディな演出をしていて驚かされる。

  「男の争い」はギャングのトニー(ジャン・セルヴェ)が5年の刑期を終えて娑婆に戻ったところから始まる。長い刑務所生活で病気にかかったのか時々咳き込む。彼に昔の仲間ジョーが仕事を持ちこむ。宝石商ウェブ商会のショーウインドーの中身だけを盗む計画だった。トニーは一旦断る。しかし後で今度はトニーの方から同じ宝石店の金庫を狙う計画を持ちかける。ジョーは久々の大仕事に大乗り気で、さっそく仲間を集める。イタリア系のマリオ(ロベール・マニュエル)と彼がミラノから呼び寄せた金庫破りの名人セザール(ジュールス・ダッシン自らが扮している)が加わり総勢4人。

  それから準備が始まる。まずは下見。宝石店がある一角の見取り図を徹底して頭に叩き込む。宝石店や並びの店の閉店と開店の時間を調べ、警察の見回り時間をチェックする。それから一番のハードルである警報機対策。ハイテクを駆使した防犯システムを完備した現代から見るとなんともお粗末だが、その警報機はなかなか優秀だ。電源をはずしても、電源コードを切断しても音がなる仕組み。あるいは近くでちょっと大きな音を出しても反応する。いろいろ試してみた末ある方法を思いつく。これで問題解決。さらに泥棒の七つ道具を準備していざ出陣。

  男たちは宝石店に向かう。まず宝石店の真上の部屋に侵入する。ここからの30分がすごい。今見ても見ごたえたっぷり。息を呑む30分だ。自然音だけで一切の効果音を使わない。ちょっとでも立てる音が大きすぎれば警報機が鳴る。緊迫の時間帯。七つ道具を使ってまず床の板をはずし、コンクリートを少しずつ削って穴を開けてゆく。小さな穴が開くとそこから傘をさかさまに差し込み開く。コンクリートの破片が床に落ちないようにするためだ。後は穴を少しずつ大きくしてゆくだけ。この作業だけで数時間経過する。やっと人が入れるほどの穴が開き、まずひとりがロープを伝って下に降りる。警報機のところに行きあらかじめ試しておいた「措置」を施す。これで警報機は問題ない。次に金庫を前に倒し裏側に穴を開ける作業に取り掛かる。詳しくは見てのお楽しみ。とにかく見事2億フラン相当の宝石を手に入れる。

  翌日新聞に宝石店に泥棒が入ったことが大々的に報道され、男たちは祝杯を挙げる。ところがほんのちょっとしたことから足がつく。金庫室から引き上げるときセザールが宝石を1個引き出しから取っていった。セザールはそれを贈り物としてナイトクラブの歌手ヴィヴィアナ(マガリ・ノエル)にあげたのだが、それが対立するギャング、ピエールの手に渡ってしまう。ピエールはトニーが刑務所に入っている間に彼の情婦マドー(マリー・サブレ)を自分の女にしていた。警察ではなく因縁の相手ピエールとの抗争がここから始まる。ピエールはまずマリオとその愛人を殺す。次にセザールを襲い情報を聞きだす。そしてジョーの息子を誘拐して、子供と宝石の交換を要求してくる。トニーは単身ピエールのアジトに乗り込み・・・。

  この先はあまり詳しくいえない。ラストが秀逸である。トニーはジョーの息子トニオを車に乗せジョーの家に向かう。トニーは重傷をおっており、息も絶え絶えだった。ペダルを踏む足には血が滴り落ちている。後ろの座席のトニオは何も知らずはしゃぎまわっている。キャメラは進行方向ではなく、空や木や周りの建物、あるいは運転しているトニーを映す。前が見えないので観ている観客は非常な不安を感じる。もう長くは持たない、一刻も早く着かなければとあせるのだが、赤信号が邪魔する。止まっている間に気を失いそうになる。見事な効果である。若い頃ヒッチコック監督のもとで働いた経験が十分生かされている。やっとジョーのアパートの前にたどり着き、土手の様なところに乗り上げて車は止まる。トニーは息絶えていた。

  トニーを演じるジャン・セルヴェのハード・ボイルドな佇まいが秀逸だ。終始ニコリともせず、苦みばしった表情を変えない。ジュールス・ダッシンのシャープな演出も特筆ものだ。結局ギャングたちは双方とも全滅。見終わった後、ジョーの妻(ジャニーヌ・ダルセー)が夫に言った台詞がラストシーンに漂うむなしさに重なってくる。「一つだけ言いたいことがあるの。他にもいたわ、あなたのように貧しかった子供は。でもどうして、どこが違うの?その子達と。なぜあなたはギャングになって、他の子はならなかったの?私はこう思うの、ジョー。他の子は強かったのよ。」

 マガリ・ノエルが歌うシャンソン「ル・リフィフィ」が印象的だ。「ル・リフィフィ」の意味は「争い」。作詞はジャック・ラリュ、作曲はフィリップ・ジェラールである。

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