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2005年12月11日 - 2005年12月17日

2005年12月17日 (土)

きみに読む物語

2004年 アメリカ akinokehai1
原題:The Notebook
原作:ニコラス・スパークス“The Notebook”
製作:マーク・ジョンソン
脚本:ジャン・サーディ、ジェレミー・レヴェン
監督:ニック・カサヴェテス
出演:ジーナ・ローランズ、ジェイムズ・ガーナー
    ライアン・ゴズリング レイチェル・マクアダムス
    ジョアン・アレン、ジェームズ・マーズデン
    サム・シェパード、ケヴィン・コノリー、デヴィッド・ソーントン

  正直前半は退屈だった。ヒロインのレイチェル・マクアダムスは今ひとつ魅力に欠け、ライアン・ゴズリングとのロマンスもありきたりだった。いかにも安っぽいアメリカ映画という感じで、はずれくじを引いたかなと思った。しかし後半が素晴らしい。DVDで二日に分けて観たのだが、同じ映画とは思えないほど後半は泣けた。

  療養所に入居している銀髪の老女カルフーン夫人(ジーナ・ローランズ)にデューク(ジェイムズ・ガーナー)という老人が毎日のように物語を読んで聞かせている。それは1940年代のアメリカ南部、ノース・カロライナ州シーブルックを舞台にした若い男女の恋物語であった。材木工場で働く青年ノアは一目ぼれしたアリーを強引に口説く。最初迷惑顔だったアリーもノアの情熱に押され、二人の仲は急速に近づいてゆく。しかしアリーは裕福な家庭の娘で、ノアとは全くの身分違いであった。アリーの両親はノアが貧しい家柄の出である事を知り二人の交際を認めようとしない。夏が終わればアリーはニューヨークの大学に進学する。地元を離れられないノアは彼女と別れることを決意した。やがて第二次大戦が始まりノアは出征する。アリーは富豪の御曹司ロン(ジェームズ・マーズデン)と知り合い、結婚することになっていた。このあたりははっきり言って二流のラブ・ロマンスという感じだ。

  しかしカルフーン夫人が実はアリーでデュークがノアである事(最初からほとんど察しがついてしまうが)が明かされるあたりからぐんぐん話しに引き付けられる。カルフーン夫人は認知症であり、夫のデュークが彼女の記憶を回復させようと2人の若い頃の話を毎日語って聞かせていたのである。カルフーン夫人は見たところ普通の老女で、ほとんどぼけているようには見えない。記憶が欠けているだけで日常生活は特に困難ではないように思える。彼女はデュークが語る物語に魅きつけられ、「それから二人はどうなったの」とたびたび先を促す。ただそれが自分の話である事には気付かない。

  ノアは除隊して父(サム・シェパード)の元に戻る。父はノアに農場を買ったと伝える。その大きな農場はアリーと別れる前、ノアがいつか買い取って自分で建て替えたいと彼女に話していた農場だった。父とそこに移り住んだが、やがて父がなくなりノアは一人で農場を改築する。白い立派な建物が出来上がった。ノアはアリーが去った後も1年間毎日欠かさずアリーに手紙を書いていた。しかしアリーの母親(ジョアン・アレン)がそれらを全部抜き取ってしまうためアリーには1通も届かなかった。

  アリーはロンと結婚する直前、偶然新聞に出たノアの写真を見てひとり彼に会いに行く。再会した二人は恋の炎を再燃させる。ノアはひげを生やし、アリーは以前よりも少し大人びている。再会後の二人は最初の頃よりずっと魅力的だ。前半が面白くなかったのはかなり無理して青臭い恋を演出しようとしていたからだと分かる。アリーはノアを選ぶのかロバートを選ぶのか選択を迫られる。まあ年老いた二人を知っているから彼女がどちらを選択したかは自明だが。

  後半には素晴らしい場面がたくさんある。例えば、アリーと再会したノアが彼女をボートに066675乗せて連れて行った湖のシーンは信じられないほど美しい(タイトルバックで夕日に赤く染まる湖をボートが進んでゆくシーンの美しさも特筆ものだ)。ボートを囲むようにしてあたり一面に白鳥が泳いでいる。ほとんどありえないような幻想的なシーンである。もう一つはアリーの母親がアリーを連れ戻しに来るところ。アリーは激しく抵抗する。娘の決意が固いことを知った母親はアリーを連れて材木工場にゆく。そこで車を停めて工場で働いている一人の男を指差す。実は、彼女は若い頃その男と駆け落ちしたことがあるのだ。結局うまく行かず分かれた。お父さんと結婚したから今は幸せなのよ、本当にお父さんを愛してるのと話し、激しく泣き出す。そういいながらも彼女は娘を許したのだ。きつい顔で見るからに意地悪そうな母親であったが、娘をノアの家に戻したとき彼女に手紙の束を渡す。ノアがアリーに送った手紙だ。母親は1通も捨てずに取っておいたのである。そして「後悔しない道を選びなさい」と言いおいて去ってゆく。ありえない話で、取ってつけたようなエピソードだと言えなくもないが、感動的なシーンだった。このあたりからリアリティを無視してファンタジー色が濃くなってゆく。

  だが何と言ってもすばらしいのは老いたノアとアリーだ。物語を語り続けているうち奇跡が起こる。アリーが一時的に記憶を取り戻すのだ。医者は記憶が戻るなどありえないと言っていたのに。「あれは私たちの話だったのね。」涙を流して抱き合う二人。二人で踊るダンス・シーンが実にすてきだ。しかし無情にも彼女はまたすぐノアを忘れ「他人」に戻ってしまう。「この前は5分間だった」という台詞が出てくるから、以前にも短い時間だけ記憶を取り戻したことがあったようだ。たった数分しか戻らない記憶。なんとも哀れで切ない。記憶を失うことがいかに残酷なことであるかこの映画を観て初めて認識した。老いた二人にとって思い出こそもっとも大切な財産である。過去の記憶を失うこと、人生の最も美しかった頃の記憶を失うこと、それは二人の生きた証を失うことだ。長年連れ添った相手が他人に見えるということは、二人が過ごした時間をゼロにリセットしてしまうことだ。ノアにはそれが耐えられなかったのだろう。ノアが「命がけで」物語を読み続けた気持ちも理解できる。この後に続くラストシーンも感動的だが、これは言わないでおこう。ノアが読んでいたのが何であったかも観てのお楽しみ。

  この映画はジーナ・ローランズとジェイムズ・ガーナーの映画だ。老優二人が実に素晴らしい。サスペンス映画の傑作「グロリア」で知られるジーナ・ローランズも今やすっかり太った婆さんだ。ジェイムズ・ガーナーも太った爺さんで、かつての渋い精悍さはもはや面影すらない。しかしこの二人が出てくる場面は若い二人のどの場面よりも素晴らしい。一時的に記憶が戻った場面などは「レナードの朝」以上に感動的だ。

  ライアン・ゴズリングとレイチェル・マクアダムスも後半はなかなかよかった。老優二人ばかり褒めたが、この若い二人のストーリーがあったからこそ、晩年の二人のストーリーが生きてくるのである。たとえ数分間でもその記憶が戻ったときの感動、その記憶された瞬間を若い二人は実際に生きたのだ。恐らく晩年の二人を描かなければ、この映画は単なる平凡なラブ・ロマンス映画で終わっていただろう。だが、晩年の二人を描いただけでも物足りないものになっただろう。若かった時代と晩年の二人が記憶でつながっている、この秀逸なシチュエーションがなかったらこの映画の成功もなかった。もちろん、熟年離婚などという言葉がありふれたフレーズになっている今日、これは現実にはほとんどありえない話だ。そういう意味ではこの映画は「純愛映画」というよりはファンタジーである。そして毎日のようにいやなニュースが流れている今日ほどファンタジーを必要としている時代もないのである。

2005年12月14日 (水)

わが家の犬は世界一

2002年 中国 31su
製作総指揮:フォン・シャオガン
監督、脚本:ルー・シュエチャン
製作:ワン・チョンジン
撮影:チャン・シーグイ
編集:コン・ジンレイ
美術:リュイ・ドン
音楽:シャン・ミン
出演:グォ・ヨウ、ディン・ジャーリー、リー・ビン
    リー・キンキン、シア・ユイ

  「1994年北京市は犬の飼育の厳重制限を決定。翌95年5月1日より一斉取締りが始まった。」映画冒頭の字幕がこの映画の基本的なシチュエーションを簡潔に説明している。「わが家の犬は世界一」はこの取締りによって愛犬を奪われた一家が、何とかその犬を取り戻そうと奮闘する話である。犬が取り上げられたのは登録をしていなかったからだが、登録料の5000元は庶民にとって簡単には払えない額である。その5000元がどれほど大変な額であるかは、主人公ラオ(グォ・ヨウ)の妻ユイラン(ディン・ジャーリー)の「5000元ためるのに何年かかると思うの。たかが犬のために3年はかかるのよ」という台詞から想像がつこう。

  この映画を通して中国のいろいろな事情が見えてくる。まず、中国では何事にも裏のルートがあるということ。登録料が払えないために、ラオは様々なコネやつてを頼って裏から手を回して愛犬カーラ(英語のタイトルは”Cala, My Dog”)を取り戻そうとする。犬を売る闇の業者も登場する。取締りが強化されれば闇屋が跋扈するのは道理。麻薬と同じだ。

  中国の平均的な家庭の事情もほの見える。一人っ子政策だから当然子供は一人。息子のリアンは親に反抗的なところがある。それでも、友人がカツアゲにあっているところを助ける義侠心もある。そのことが後にとんでもない結果をもたらすのだが。妻のユイランはリストラされている。中国では女性の社会進出は日本よりはるかに進んでいる。共働きでなければ暮らしていけないという事情もあるだろうが、経済的に自立している中国女性は強い。ルー・シュエチャン監督はインタビューで、「ラオのように一家で立場の弱い父親って、中国には結構多いんですか」という質問に対して次のように答えている。「僕が物心ついたころ、1970年代にはそういう父親は普通にいたね。中国では女性が自立してるんだ。ほとんどの女性が仕事を持っていて、経済的にも自立してるし、家に帰っても夫と対等な立場だ。男性の方が必ずしも発言力があるわけじゃない。女性が強い、というより、よく言えば、男性が心が広い、寛容ってことかもしれないけど。」ラオは妻にも息子にも疎んじられているうだつの上がらない男で、愛犬のカーラだけが唯一の彼の慰めだった。彼が必死で犬を取り戻そうと努力するのはそのためである。

  95年というと今から10年前だが、今ほどではないにしろ急激な経済発展で中国の社会や文化が急速に変わっていった時期である。富裕層が生まれ、ペットを飼う余裕が生まれてきた。次々に高層ビルが建てられ始め、古い建物はどんどん壊されていった。廃墟のようになった建物に隠れて犬を密売している業者が一斉に検挙されるシーンも出てくる。あるいは、ラオが金を借りようと母親の家に行くところでは、手前の貧しい家並みの向こうに高層ビルが覆いかぶさるように屹立しているシーンが映し出されている(彼女には日照権の訴訟により大金が転がり込んでいた)。9月に中国旅行記を書いたときに近代化と貧困が隣り合っていると指摘したが、そういう状況はこの頃既に現出していたのである。

  そんな中で庶民はたくましく生きている。違法な商売をしたり、法律違反ぎりぎりの危ない仕事をしたりして何とかしのいでいる人たちも少なくない。ラオがカーラを一旦あきらめて闇で犬を買うシーンは秀逸だ。廃墟の様な建物の前に貧しそうな露天商が並んで物を売っている。その中のひとりの女に犬はいらないかと声をかけられ、ラオは迷った末女についてゆく。女はすぐそこだというが結構遠くまで歩かされる。怪しげな路地を入ったところに犬がいた。ラオはカーラと似た犬を買う。しかしその犬はただの白い犬を斑に染めた偽ものだった。そんな犬に300元も払ってしまった。あわてて元の場所に戻るがもぬけの殻。最初に彼を誘った女もいつの間にかいなくなっていた。アメリカのサスペンス映画を観ている感じだ。

  そう、サスペンス映画。この映画は単に現代中国生活事情を垣間見るだけの映画ではない。この映画を、あえて名づければ、中国風ノンアクション・サスペンス・ムービーといった角度から見てみると面白い。カーラを取り戻す期限は翌日の午後4時。それまでに金を払って登録するか何らかの方法で助け出さなければカーラは処分されてしまう。不吉にも、映画の途中で、まるで肉屋の店先にぶら下げられている豚肉のように、皮をむかれて上から逆さまに吊り下げられている3頭の犬を乗せたトラックが走り去ってゆくシーンが出てくる。何とかしなければカーラもああなってしまう!さながら「24」のように、字幕で「あと8時間」、「あと4時間」、「あと1時間」とどんどん期限が迫っていることが示される。しかも相手は庶民から犬を取り上げるにっくき権力。相手にとって不足はない。愛犬奪還のためヒーローの孤軍奮闘、派手なアクションが展開されるはずだ。

  しかしそこは中国映画。あまり緊迫感はない。車をぶっ飛ばして疾走したり、銃を片手に公安(日本の警察にあたる)と派手な立ち回りがあったり、刑務所の壁ををよじ登ったりなどは一切ない。しかしそこがいいのである。ラオの武器は裏ルートのつてと警官への賄賂である。仲介者に頼んで犬を探し出してきてもらうが、なんとそれは血統書つきのマルチーズだった。世話をしてくれたヤン(彼女の飼い犬がカーラの親犬)は、この犬は「カーラとは月とすっぽん」だから、高い金を払って「登録する価値もあるわね」というが、ラオはそんな犬には見向きもしない。たとえ雑犬であってもカーラでなければダメだとなおも探し回るラオがいじらしい。あるいはヤンの犬の登録証を借りてカーラを引き取りにいく「替え玉作戦」も試みnekozyarashiる。親子だから写真が似ているのでうまく行くと思ったのだが、耳の形が違うことに気付かれて逆にヤンの登録証を没収されてしまう。それでは踏んだりけったりだ。そこで登場するのが賄賂。タバコ代と称して小金を渡すが、警官(「太陽の少年」、「西洋鏡」のシア・ユイ)は賄賂など受け取らないと突き返す。しかし後で登録証をヤンに返す場面が出てくるので、結局鼻薬が効いたことが分かる。あれは建前だったのである。

  いろいろやってみるがどれもうまく行かない。へそくりを取り出してみても1500元しかない。奥さんに相談するが、彼女は「たかが犬のために」そこまでする必要があるのかと渋る。説得されて彼女もへそくりを出してくるが(彼女だって出来ることならカーラを取り戻したいのだ)まだ足りない。定期預金が3万元あるが、息子のリアンの進学費用もあるから手はつけたくないといわれる。どうもこの「サスペンス映画」のヒーローはさっぱり活躍しない。「武器」の使い方もろくに知らず途方にくれるばかり。愛犬奪還のために必死の形相で車を爆走させるどころか、夜勤の疲れで眠ってしまったりする。果ては奥さんにヤン(リー・キンキン、美人である)との間をかんぐられてあわてて弁解する始末。その間にも刻々と時間は過ぎてゆく。

  ところがとんでもないことが起こり事態はにわかに緊迫する。息子のリアンがカツアゲされていた友達を助けたとき、相手の男に骨折する怪我を負わせて逮捕されてしまったのである。なんとリアンが収監されたのはカーラが収容されているのと同じ警察署。しかも時間はもうほとんど残っていない。警察署に飛んでいったラオとユイラン。カーラをこっそり逃がそうとしたり、息子に説教したり、怪我を負わせた相手の親と示談の交渉に応じたりとあわただしいこと。このあたりははらはらさせられる。

  ところが我らがヒーロー・ラオは中国人には珍しく押しが弱い。ひたすら頭を下げて頼み込むばかりだ。全くのアンチヒーローである。同じ必死で走り回るのでも「ボーン」シリーズのマット・デイモンとはなんという違い!しかしそのしょぼくれ具合がいい。ラオを演じているのは「活きる」(94年)、「さらば、わが愛/覇王別姫」(93年)、「キープ・クール」(97年)そして「ハッピー・ フューネラル」(01年)などで日本でも知られる名優グォ・ヨウ。いかにも情けない顔で奔走する頼りないお父さんを見事に演じている。戸惑い、困惑し、へりくだりながらも必死でカーラをすくおうと走り回る姿が哀愁を帯びてきて、いつしか彼に共感してしまう。

  しかし無情にも時間は過ぎてゆく。ついに期限の4時になってしまった。息子は閉じ込められたまま、カーラはトラックで運び去られる。そこで映画は突然終わってしまう。あまりの唐突さに正直唖然とした。カーラがどうなったかは字幕で知らされる。しかしリアンがどうなったかは何も分からない。後で冷静になって考えてみると、この様な唐突な終わり方にした理由が理解できる気がした。あの終わり方は、この映画が描いたのは人生の一断面である事を示すために意図的に取られた手段なのだろう。監督もインタビューで「ラオのような労働者の家庭で、父親と息子が理解し合えないケースは実際凄く多いんだ。90分という1つの作品の中で解決できる関係ではないんだよ」と語っている。映画のように2時間で区切りがつくわけではない。人生は続く。今度はリアンを救い出すためにお父さんはまた走り回らなければならないのである。

 ルー・シュエチャン監督は第五世代(50年代生まれ)に続く第六世代(60年代から70年代生まれ)を代表するひとりである。文革の影を引きずっていた第五世代に対して第六世代の監督たちは現代の生活を中心に描いてきた。ルー・シュエチャン監督も「庶民の生活をじっくり描いてみたいとかなり前から思っていた。中国映画全体には、こうしたごく普通の庶民を描いた作品は意外に少ない。だから、僕のように比較的若い世代の監督でリアルに現実を反映した映画を撮りたいと思っている人たちは多いんだ。今までは、現実をあまりにも反映させた作品だと検閲に通らなかったんだけど、ここ最近は検閲がやや緩やかになってきた。こういう作品を撮れる条件が整ってきたということもあるね」と語っている。権力に対する批判よりやはり庶民生活を描きたかったのではないか。上でこの映画を「中国風ノンアクション・サスペンス・ムービー」と呼んだが、ノンアクションだからジェットコースター・ムービーではなく「観覧車ムービー」である。だからこそ中国の事情がよく見えるのだ。車で走っていると気づかなかったことでも、自転車や歩きでは目に留まるように。ストーリ-を楽しむと同時に現代中国事情も垣間見られる一粒で二度おいしい映画である。小品だが愛すべき作品だ。

2005年12月13日 (火)

メゾン・ド・ヒミコ

2005年 日本 TEL_w2
監督:犬童一心
脚本:渡辺あや
音楽:細野晴臣
プロデューサー:久保田修、小川真司
撮影:蔦井孝洋
美術:磯田典宏
出演:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、西島秀俊、
    村上大樹、新宿洋ちゃん、森山潤久、 井上博一
    柳澤愼一、青山吉良、歌澤寅右衛門、大河内浩
    草村礼子、藤井かほり、 岡庭淳志、沖中玲斗
    峯村淳二、枝光利雄、高橋昌也、筒井康隆(声の出演)

  日本ではまだ珍しいゲイの映画である。ゲイ、あるいはホモ・セクシャル映画というと「真夜中のパーティー」(70)、「ハーヴェイ・ミルク」(記録映画、84)、「アナザー・カントリー」(84)、「蜘蛛女のキス」(85)、「トーチソング・トリロジー」(88)、「オール・アバウト・マイ・マザー」(99)、「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」(01)などが思い浮かぶ。80年代に集中しているのはフェミニズムの流行と関係があるのかもしれない。 ヒミコのファッション(特に頭に巻いた布)は明らかに「蜘蛛女のキス」を意識している。ゲイの人々に対する温かい視線は「トーチソング・トリロジー」に通じる。この「トーチソング・トリロジー」は傑作であった。露骨な偏見にさらされた人々の苦渋に満ちた恋愛模様と人間的苦悩が描かれている。

  〃メゾン・ド・ヒミコ〃とは老いたゲイたちの老人ホームである。特定の「業界」の人々が集まる老人ホームというテーマはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の名作「旅路の果て」(39) に通じる。こちらは俳優ばかりの老人ホームが舞台だ。「メゾン・ド・ヒミコ」に出てくる「みんなと一緒なら寂しくないと思ってここに来たのに、実は一人一人減っていくのをただ見守るだけだったのよ」(正確な引用ではない)、という台詞には「旅路の果て」と共通する悲哀感が表れている。 今このようなテーマが取り上げられるのは偶然ではないだろう。「チルソクの夏」、「血と骨」、「パッチギ!」などの在日コリアンを描いた映画が注目を浴びている。在日コリアンにしろ、ゲイにしろ、被差別者だ。そこには取り上げるべき深刻なテーマがあり、したがってまた強烈なドラマがある。しかしそこは日本映画。「メゾン・ド・ヒミコ」は差別問題を必ずしも前面には出さない。老人ホームを舞台にすることで差別よりも悲哀感を前面に出し、コメディタッチを加えることで口当たりをよくしている。日本で流行るのはコメディやシュールな味付けをした映画ばかり。そうでなければ「誰も知らない」のような出口のない重苦しい暗澹たる映画になる。あるいは故なき暴力に走る。一貫した姿勢を保ってテーマを掘り下げ、かつ重苦しくなり過ぎない映画がなかなか現れない。日本の観客が一様にコメディ調の映画ばかり観たがるということではない。日本では様々なタイプとジャンルの外国映画が公開されている。したがって幅広い様々なニーズはあるわけだ。日本映画にないものを求める観客は洋画に向かう。どん底だった70、80年代に比べれば秀作が多く生まれ活況を呈してはいるが、同じようなタイプの映画ばかり作っていたのでは決して未来が明るいとはいえない。厳しい検閲があるわけではないのだから、自己規制しているということになる。テレビのお笑いブームをあてこんで、それに合う無難な作品ばかり作っているとしか思えない。この姿勢を変えない限り日本映画の本当のルネッサンスはまだ遠い先のことだ。

  最近のアメリカ映画はオリジナル脚本を作る力が減退しているため作品の質が著しく落ちたが、その点「メゾン・ド・ヒミコ」が完全オリジナルストーリーに基づいていることは評価できる。主人公は塗装会社の事務員として働く吉田沙織(柴咲コウ)。沙織は幼い自分と母を捨ててゲイの道に走った父ヒミコ(田中泯)が許せなかった。ある日、沙織はヒミコが造ったゲイのための老人ホームで日曜だけ働かないかと誘われる。父が末期がんで死にかかっているからだ。沙織は最初冷たく断るが、破格の日給と遺産をちらつかされて、手伝いに行くことを決意する。沙織は3年前に癌で死んだ母の入院費と手術費で借金を背負っていたからだ。

  「メゾン・ド・ヒミコ」は沙織の視点で語られているわけではないが、焦点は彼女に当てられており、沙織がゲイたちと接することでしだいに彼らを理解してゆく過程がメインのストーリーになっている。そこに父ヒミコと沙織の確執やヒミコの若い恋人岸本春彦(オダギリジョー)と沙織の微妙な関係が織り込まれてゆく。犬童一心監督自身インタビューに答えて、「僕はゲイの人たちの資料をずっと読んできて、彼らの抑圧の歴史のようなものを入れたかった。でもあやちゃん(脚本の渡辺あや)は、むしろ父と娘の関係のほうに重きを置いていたと思います」と発言している。父娘の確執を縦軸に、〃メゾン・ド・ヒミコ〃に住むゲイたちの人間模様を横軸にした展開はここから生まれている。監督自身この二つのストーリーがうまく絡み合っているか心配している。大きな破綻はないが、やや中心テーマを薄めてしまっていることは否定できない。なぜなら沙織とヒミコの関係は、別にヒミコがゲイでなくてもありうることだからだ。妻と子を捨てた父親の話はありふれている。沙織がゲイの子と周りから馬鹿にされて育ったために、父親を激しく恨んでいるというのなら話はつながると思うが。

  〃メゾン・ド・ヒミコ〃に着いた沙織が最初に出合ったのは「汚いもの」でも見るような目で覗いてすぐドアを閉めてしまった近所のおばちゃんである。この描写はリアルだ。「世間の目」からは〃メゾン・ド・ヒミコ〃に住んでいる者ばかりか、たまたまそこを訪ねてきた人も同じに見られてしまうのである。引き返したい気持ちを抑えて恐るおそる〃メゾン・ド・ヒミコ〃に入っていった沙織は、TVドラマに夢中になっているキクエを見て逃げ出しそうになる。そこに出てきた美形の岸本春彦に説得されて沙織は何とか踏みとどまる。その後ヒミコと他の住民たちに紹介される。生まれ変わったらバレリーナと相撲部屋の女将になりたいと望んでいるルビイ、将棋が趣味の政木、ギターがうまいダンディーな高尾、洋裁が得意な山崎、家庭菜園に精をだす木嶋、これらの老人たちの面倒をみているチャービー、そしてヒミコ。

  正直もっとびっくりするような奇抜なキャラクターがごろごろ出てくるものと期待していたがいたって「普通の」ゲイたちである。なんだか物足りない気がしたが、後で皆実際にゲイの人たちだということを知った。見世物小屋じゃあるまいし、やっぱり好奇の目で見ていたのかと後で自分を恥じた。彼らは決してイロモノのようには描かれていない。女装したりオネエ言葉を喋るのは観客のステレオタイプ化したイメージ(僕のように)に合わせている面もあるかもしれないが、それだけではない。ここはゲイの人たち専用の老人ホームである。ここに来tree_ww1る前は普通の生活の中にまぎれて隠れてひっそりとゲイの趣味を楽しんでいた者も、ここでなら自分の好きなように振舞える。〃メゾン・ド・ヒミコ〃とはそういう場所なのである。残された短い余生を過ごすホスピスの様なところではない。住人たちが明るいのはそのためなのだ。彼らには開放感がある。世間とは隔絶されているこの建物の中なら誰はばかることなく好きな格好や振る舞いが出来る。ヒミコはそういう場所をゲイの老人たちに提供したかったのである。石もて追われるごとく逃げ込んできた駆け込み寺の様な場所、だからそこには賑やかさや温かさがあり、また、それでもなお消えやらぬ悲しさも漂っているのである。そこにあるのは、かつては叶わなかった「なりたかった自分」である。しかしそれの望みが叶った時にはもうわずかな時間しか残されていない。だからルビイは「生まれ変わったら」という話をするのだ。そう考えるとこれは悲しい言葉なのだ。癒されない心の傷。仲間と一緒にいても消え去らない孤独感。だから彼らはそれらを振り払うようにハイテンションではしゃぐのである。

  ここに住んでいる人たちはみな悲しみと苦悩を通り抜けてきた人たちである。美輪明宏の話をテレビで聞いた友人は非常に感動したと言っていた。それはそうだろう。そこでは被差別者が散々なめてきた屈辱と苦しみと怒りとそれを乗り越えてきた信念の強さが語られていたに違いない。差別に耐えてきた彼らは並の人よりよほど強い精神と広い心を持っている。散々周りから変態扱いされ、まるで”汚いもの”のように扱われてきたのだろう。彼らは地獄を見てきたのである。もちろん一生隠し通してきた人もいただろう。誰もが堂々とカミングアウトできるほど強いわけではない。しかし、決まりきった考え方と行動しか出来ない「普通の」人たちより、彼らはある意味で自由である。阪神淡路大震災で一番活躍したのは「茶髪の兄ちゃん、姉ちゃんたち」だったと長田区の区長さんが語っているのを聞いたことがある。彼らは「規則」などといったものから元々自由だったから、非常時に適切な行動が取れたのである。まだ人が中に残っている建物が燃えているのを笑いながら「見物」に行った若者たちこそ「変態」だ。犬童監督がインタビューで「ゲイの人たちや芸人って、僕には“解放された人たち”に見える。それまで自分が暮らしてきた一般社会、生活といったものに踏ん切りをつけて、違うところに踏み込まないといけない。そこはしんどいけど自由な場所で、ゲイの人たちもそういう場所にいると思えてしまう」と言っているのも同じことを指していると考えていいだろう。

  沙織とヒミコは最後まで和解することはなかった。安易な結末に持っていかなかったところがいい。ヒミコを演じた田中泯は、ほとんど台詞はないにもかかわらず圧倒的な存在感である。どんなに沙織に責められ詰問されても、ヒミコは何一つ言い返しもせず、言い訳もせず、それらを全て黙って受け止めている。散々無責任だと責められた後に言う「あんたの事が好きよ」という一言がなんとも切ない。沙織はヒミコの葬儀にも出なかった。〃メゾン・ド・ヒミコ〃とも縁を切った。しかし父を憎みきっていた気持ちは少し溶けはじめていた。ラスト近くで会社の専務に抱かれながら沙織が言う言葉にそのことがさりげなく暗示されている。「私が泣いてる理由は専務が思っているどれとも違います。」飛び出してきた〃メゾン・ド・ヒミコ〃に彼女が戻ったのも石のように硬かった彼女の心が少し和らいだからだ。沙織を歓迎する壁の落書きもさわやかである。

  観た後にさわやかな気持ちが残るが疑問がないではない。一つは沙織のゲイたちに対する気持ちがあっさり変わりすぎることである。山崎が沙織のために用意した様々なコスチュームにすぐに夢中になり、互いにあれこれ着替えてはしゃぐ様子はちょっと不自然だ。あまりに簡単に変わりすぎる。その後勢いでダンスホールに行こうと誘うのもあまりに性急過ぎる。もっとも、ダンスホールに行って踊りまくる場面は確かに楽しめる。柴咲コウの魅力満開でなかなかいい。偶然居合わせた元部下に山崎がしつこく絡まれ、沙織が「謝れ!」と本気で怒るシーンでは思わず彼女を応援していた (この時点では露骨な差別に腹を立てても不思議ではないところまで来ている)。しかしあまりに性急過ぎた感は否めない。あるいはゲイバー「卑弥呼」にいる母の写真を沙織が見つけるエピソードも、いかにも取ってつけたようで感心しない。不自然で、あまりに都合のいい設定だ。

  もう一つの疑問はゲイたちの描き方である。もっと彼らの背負ってきた苦痛を描きこむべきだったと思う。どこか平板ですっと通り過ぎてしまった感じだ。コミカルな要素を取り入れるのは必ずしも悪いことではない。「この素晴らしき世界」の重苦しい雰囲気をコミカルなタッチがどれだけ救っていることか。問題はそのさじ加減だ。どうもコミカルな演出に逃げてしまった気がする。彼らが背負ってきた苦悩や心の傷や悲しみに共感しなければ沙織は変わらなかったはずだ。そこをもっと描いてほしかった。

  ただ以上の様な不満はあったとしても、全体としてみれば今年の日本映画の中でも出色の出来だと言っていいだろう。まだまだ不満はあるが、着実に日本映画は力をつけてきている。僕自身もそうだが、洋画ばかり見ていた観客が一部日本映画に戻ってきている。映画製作にかかわる諸条件にはまだまだ解決すべき課題が多く残っているが、そんな中で注目すべき作品がたくさん出てきたことは希望の光である。これらの芽をさらに伸ばしてゆく方向に日本の文化状況が進んでいくことを期待したい。

2005年12月11日 (日)

マゴニア

2001年 オランダ G20_1
監督:イネケ・スミツ
プロデューサー:ヴァレリー・スハイト
原作・脚本:アルチュール・ジャピン「Magonian Stories」
撮影:ピヨッター・クックラ
美術:ビリー・レリフェルト、グーガ・コテタシビリ
音楽:ジオ・ツィンツァーゼ
出演:ウィレム・フォーフト、ディルク・ローフトホーフト
    ノダル・ムガロブリシビリ、 ラムゼイ・ナスル
    ナト・ムルバニゼ、リンダ・ファン・ダイク

  オランダ映画はまだまだ珍しい存在だ。人口が少ないので自国の市場だけでは制作費が回収できないため、共同出資というかたちをとることが多い。「さまよえる人々」「遥かなるクルディスタン」「家族のかたち」「ポーリーヌ」などがそうだ。それでも去年オランダだけで製作した「クリビアにおまかせ!」と「オランダの光」が日本で公開されている(気になりつつもまだ観ていない)。オランダ映画は徐々に力をつけてきているようだ。「ロゼッタ」、「ポーリーヌ」「雲 息子への手紙」などのベルギー映画、「バベットの晩餐会」、「奇跡の海」、「ペレ」、「マイ・リトル・ガーデン」、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「幸せになるためのイタリア語講座」などのデンマーク映画と共に今後さらに伸びてくるものと期待している。

  「マゴニア」は2005年3月にユーロスペースで上映された作品。いかにもユーロスペースにふさわしい、独特の味わいを持った映画である。「師の歌を奪った青年」、「砂漠の孤島に訪れた夫婦」、「恋人の迎えを待つ女」という3つの挿話からなる一種のオムニバス映画で、全体をつなぐのは空に浮かぶ架空の国「マゴニア」である。解説によれば、「マゴニア」とは古くからヨーロッパに伝わる想像上の世界で、不運が空から降ってくる前に一時的に留まる場所。天空に浮かぶ船の形をした救いの地である。本作でも大きな帆船の形をした凧を揚げる象徴的な場面が出てくる。

  ジャンルとしてはファンタジーに入る映画である。しかしファンタジーといっても、宮崎駿の様なヒロインが大活躍する活劇ではなく、アメリカ製アニメの様なはちゃめちゃな楽しさとも違う。かといってファンタジー王国イギリスの様に皮肉や風刺が込められているわけでもないし、妖精が出てくるわけでもない。そこはやはり北欧に近い国の映画。むしろ「さまよえる人々」のような隠喩や寓意に富み、きわめて瞑想的である。

  しかも「マゴニア」という架空の国を題材にしながら国際色が豊かである。「師の歌を奪った青年」はイスラム色が濃い。女性が顔を覆っていないのでトルコ辺りをイメージしているのではないか。残念ながら何語を使っているのか分からないので判然とはしない。いずれにせよトルコ映画かイラン映画を観ている感覚である(しかも、なんとロケ地はグルジアである!)。「砂漠の孤島に訪れた夫婦」のエピソードは砂漠の中の一軒家が舞台。家に住んでいるのは黒人で、そこに車がエンストして助けを求めに来るのはギリシャ人夫婦という設定。どことなくジャームッシュの映画やヴェンダースの「パリ・テキサス」を連想させる。「恋人の迎えを待つ女」はある港町の酒場が舞台。一人の女が昔愛してくれた男が戻ってくるのを待っている。青い目で、両腕に東と西の刺青をした船乗り。やがて実際にその男が戻ってくる。男は「マゴニア」からやってきたと話す。こちらはまるでアメリカ映画の様な展開だ。いずれも何語を話しているのか気になるのだが、悲しいかな、さっぱり分からない。英独仏西語なら意味は分からなくても何語か区別が付くが、ここで使われている言語はまるで見当がつかない。せいぜいギリシャ人夫婦が話しているのはギリシャ語だろうと推測できる程度。ただ架空の国という設定なのでいろんな言語を合成している感じもある。ものすごくなまった英語を話しているように聞こえる部分もある。幾つかのサイトをあたってみたが、言語について言及しているものはない。

 それはともかく、この映画はある意味で「さまよえる人々」と姉妹関係の様な位置づけにある映画だと思う。「さまよえる人々」はいうまでもなく「さまよえるオランダ人」(Flying Dutchman)からの連想に基づいている。主人公のダッチマンは父親を探す旅に出る。父親は船長で、空を飛ぶことができ、七つの海を支配していると彼は信じている。文字通りの空飛ぶオランダ人。空を飛ぶ船。そこに「マゴニア」との接点がある。息子に物語を聞かせる「マゴニア」の父親は、初老に達した晩年のダッチマン (ラストで彼も空を飛んだことが暗示される)であると捉えることも出来る。とそこまで言うのはいいすぎだが、テーマ以外にも隠喩や寓意に富んだ作風は共通するものがある。

 それにしても不思議な感覚の映画だ。何度も出てくる凧のイメージ。その凧を結ぶロープの様々な結び方と"オランダ結び"や"恋結び"といったそのユニークな名前。空を舞う白い紙飛行機。帆船の形をした巨大な凧。印象的な物や場面があちこちにちりばめられている。

  一人の少年が毎週日曜に船で美しい島を訪れ、父に会いに来る。父は息子と凧を揚ship002_sげ、その合間に「マゴニア」の物語を語って聞かせる。父親が息子に語る物語は「毎回違う物語だが、メッセージは同じ。一本のロープでも結び目は無限だ。」息子が父親に問う。「父さん、希望が消えるとどうなる?」そこから一つめの挿話「師の歌を奪った青年」の物語が始まる。

 「リヨンの近くで農民たちが空の間に浮かぶ巨大な帆船を見た。その船は旗をなびかせ、古い橋の欄干に碇を引っ掛けた。やがて男3人と女1人が鎖をつたい果物と水の調達に来た。だが人間の重苦しさで彼らはあえぎ始めた。船に戻してやらないと溺れてしまう。自由にしてやらねばならない。そして9ノットの早さで3人の男と1人の女は去った。驚くべき体験をした場所から。」  

  「人間の重苦しさ」という言葉に注目しなければならない。自由のない人間の世界ではマゴリア人は「溺れてしまう」。自由と希望、これがキーワードである。「師の歌を奪った青年」の物語では声が出なくなった師の代わりに弟子の青年が歌う。見事な声と歌に市民は聞きほれるが、師の「歌を奪った」青年は師と師に仕える女性(青年は彼女に思いを寄せている)の信頼を失い、寂しく街を去ってゆく。2つめの話に出てくる老人は「希望は最後に消える物」とつぶやく。3つめの話の「待つ女」は決して男が帰ってくるという希望を捨てない。彼女は窓から空を眺める。「何を見てる?」「雲よ。雲が好きなの。流れていくわ、空高く、輝きながら。」雲が何を象徴しているかは明らかだ。

 人々は自由のない「重苦しい」世界に生きている。しかし希望がなければ人は「溺れてしまう。」この映画は希望なき世界を描いた絶望的映画ではない。人々は挫折を繰り返しながらなお希望を捨てない生き方を見出そうとしている。

 しかしそう単純でもない。一見美しいファンタジーのようであるが、「さまよえる人々」同様、シュールでグロテスクで非常に難解でもある。容易に解釈を許さない。美しいが残酷でもあり、リアルだがシュールでもあり、切ないが冷めてもいる。「大人のファンタジー」とよく評されるが、「大人」とはそういう意味だ。ただただ美しく感動する映画ではない。少年は最後に父親がいつも戻ってゆく建物の「正体」を見てしまう。想像力とは狂気なのか?この映画では語る行為自体もテーマになっているが、語るとは「騙る」なのか?はっきりとは分からない。様々な象徴的な物や出来事はただ意味ありげに示されるだけだ。ロープの結び方(の組み合わせ)が無限にあるように、解釈も無限にありうるということなのか?結び目が交錯するように意味も交錯して多重になってゆく。3つの物語にどんな共通性があるのか。どんなズレがあるのか。あの紙飛行機は何を象徴しているのか。すべては曖昧である。この曖昧さを深遠さだと安易に考えてはいけない。こういう意図的な韜晦に対しては常に留保が必要である。曖昧さは底の浅さを隠すイチジクの葉であるかもしれない。ドストエフスキーの小説は文字通り深遠であるが実に明快でリアルである。意図的な曖昧さなどない。しばしば難解になることはあっても曖昧ではない。

 終わり近くで少年は父親にいつもそばにいてほしいと頼む。父はこの島から出られないと答える。「おまえが行き着くところへ行くまでは。」「どこへ?」と聞くと「遠くへ」と答える。「行き着くって?」と聞くと「理解すること」と答える。「僕に行ける?」「遠ければ遠いほどいい。」  問題は「理解すること」が果たして可能な目標とされているのかということである。もちろん世界をすべて理解することなど出来ない。それでも一歩一歩理解できる範囲を広げることは出来ると考えるのか。それとも「理解すること」は到達不可能な永遠の課題だという捉え方なのか。だとすれば不可知論の一歩手前である。ここの見極めがこの作品の評価の分かれ目だと思う。

 ラストで息子は父が飛ばしていた帆船の凧が木に引っかかっているのを見つける。息子はいろいろな結び目の名前を口にしながら凧のロープを手繰り寄せる。凧は枝からはずれ飛んでゆく。一瞬父親が息子にキスをするシーンが挿入される。「ごらん船が見えるだろ。天空の船乗りたちは時々碇を下ろして、地上の様子を見にくるんだ。」希望を感じさせるラストシーン。だがやはり抽象的だ。空飛ぶ船の象徴は感動的であるが、逃避的でもある。人間は時間と空間を越えて生きることは出来ない。奴隷がプランテーションから出られなかったように、江戸時代の農民が下人、非人という考えから逃れられなかったように。もっとも、だからこそ夢と希望が重要だともいえる。キング牧師の「夢」が感動的なのはその言葉が人々に希望を与える力を持っているからだ。希望がなければ人間は生きられない。「マゴニア」は希望を捨てていないがゆえに観るものに感動を与える。しかし一方で理想論的であり抽象的ですらある。そこに曖昧さが入り込む余地がある。

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