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2005年11月27日 - 2005年12月3日

2005年12月 3日 (土)

アマンドラ!希望の歌

2002年 南アフリカ・アメリカ 053303
原題:Amandla! A Revolution in Four Part Harmony
監督:リー・ハーシュ
出演:ネルソン・マンデラ、ヒュー・マセケラ、バシレ・ミニ
    アブドゥラ・イブラヒム、ミリアム・マケバ、クリス・ハニ
    フランシス・バード、ゴールデン・ネスィスゥイ
    ジェレミー・クローニン、アルバート・ルトュリ

  アフリカ映画と聞いて思いつく映画はどれほどあるだろうか。世界中の映画が入ってきている今日でもアフリカ映画は未だに知られざる世界である。僕がまず思いつくのは「エミタイ」(71年、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル)、「チェド」(76年、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル)、「アモク!」(81年、スウヘイル・ベン=バルカ監督、モロッコ・ギニア・セネガル)の3本だ。他にはせいぜい「アルジェの戦い」(66年、ジッロ・ポンテコルヴォ監督、イタリア・アルジェリア)、エジプトのユーセフ・シャヒーン監督による「放蕩息子の帰還」(76年)と「アレキサンドリアWHY?」(79年)程度。ただ、製作はアフリカ以外の国だが、南アフリカのアパルトヘイトを告発した重要な作品が3本ある。リチャード・アッテンボロー監督のイギリス映画「遠い夜明け」(87年)、クリス・メンゲス監督の同じくイギリス映画「ワールド・アパート」(87年)、そして「マルチニックの少年」のユーザン・パルシーが監督したアメリカ映画「白く渇いた季節」(89年)。いずれも傑作である。この3本に新たな傑作が加わった。「アマンドラ!希望の歌」。アメリカ人監督による記録映画である。

  「アマンドラ」という言葉はマイルス・デイヴィスのアルバム・タイトルとして記憶している人も多いだろう。「力を」という意味で、誰かが「アマンドラ」と言うと、みんなが「アウェイトゥ」(人々の手に)と答える。「力を人々の手に」(power to the people)そういう意味になる。マイケル・ムーアを始め、最近ドキュメンタリーの手法を生かした力作が目立つ。しかしノンフィクションの力が注目されるのは今に始まったことではない。世の中には信じられないような出来事が現実に起こっている。ドキュメンタリーやルポルタージュの力に圧倒された経験は誰しもあるだろう。下手なフィクションよりもドキュメンタリーの方がはるかに優れていると思うことは珍しいことではない。僕は80年代頃にフィクションはノンフィクションを超えられるのか、リアリズムとノンフィクションはどういう関係にあるのかという問題を真剣に考えていた時期がある。結局深く追求できずに終わってしまったが、その問いは今でも有効である。例えば、アルフレッド・ランシング著「エンデュアランス号漂流」(新潮社)を超える冒険物語が存在するだろうか?小説だけではなく、いろんな分野でこの問いかけは出来るだろう。

  南アフリカのアパルトヘイトを告発した上記の3本を「アマンドラ!希望の歌」が超えているかどうかはまた別問題である。ドキュメンタリーにも出来、不出来はあるからだ。しかし「アマンドラ!希望の歌」に劇映画にはない迫力がある事は確かである。というより、南アフリカで現実に起こったこと自体が信じられない事なのである。あれほど押さえつけられ、権利を剥奪されていたアフリカ人たちが、白人の政府を現実にひっくり返してしまったのだから。94年の選挙でアフリカ人たちが勝利し、ネルソン・マンデラが大統領になったのは現実なのである。

   アメリカで奴隷制が廃止されたのはもう150年も前のことである。アパルトヘイトはあからさまな人種差別制度だったにもかかわらず20世紀末まで残っていたのである。その隔離政策には何の合理的根拠もない。例えば、原住民問題担当大臣がアパルトヘイトを「良き隣人関係政策」と言い換えているニュース映像が最初の頃に出てくる。これには何の説得力もないし、滑稽ですらある。しかし滑稽だと笑ってはいられない。彼らの政策によって多くの血が流されたのだ。冒頭に、南ア史上屈指の作曲家で絞死刑にされたウィシレ・ミニの死体が掘り起こされる場面が出てくる。無造作に穴に埋められている。ほとんど犬並みの扱いだ。

  しかし、「アマンドラ!希望の歌」はアパルトヘイトの非道さを告発するだけの映画ではない。この映画のユニークさは、いかに歌が抵抗する民衆に力を与えていたかを描き出したことにある。映画はシャープヴィル事件や有名なソウェト蜂起などの映像をたくみに織り込みながら、歌によって革命を起こした民衆の姿を映し出してゆく。アフリカを代表するミュージシャンや活動家が何人もインタビューを受けている。ミリアム・マケバ(アフリカのディーヴァ、「アモク!」にも出演している)やアブドゥラ・イブラヒム(「アフリカン・ピアノ」で知られるstainedglass4nジャズ・ピアニスト)などもインタビューに答えている。アブドゥラ・イブラヒムが語った言葉は印象的だ。「追放されてつらいのは夢を見ること、故郷にいる夢をね。夢では故郷にいるのに目が覚めると帰れない」。「南アフリカの革命は唯一音楽で実現した革命だ。他に類を見ない」。

  とにかく全編歌があふれている。コンサートの場面やインタビューを受けた人たちが歌いだす場面もあるが、ほとんどは名もないアフリカ人たちが踊りながら歌っている実際の映像である。「戦いのどの局面にも必ず歌があった」。これが圧倒的だ。歌は民衆のものだった!彼らの持つリズム感は天性のものだ。列車の中でもリズムをとっている。歌うとき必ず体全体で歌う。大人も子供も。彼らは体で歌を覚えたのである。それらの歌、フリーダム・ソングには抵抗の精神と「俺たちこそ本当のアフリカ人だ」という誇りがこめられている。
 「歌は一つが消えるとまた次が生まれる。そうやって多くの歌が生まれた。表現したいことを数人の友と歌い、その輪が次々と広がり新しい歌になる」。それらの歌を「ラジオ・フリーダム」が流し、歌はさらに民衆の中に入ってゆく。かつてルイ・アラゴンが『フランスの起床ラッパ』で、民衆の口から口へと伝わるうちに詩はさらに付け加えられ豊かになってゆくと歌ったが、それが現実に起こっていたのだ!

  民衆の中から様々な歌が生まれた。「神よ アフリカに祝福を」。国歌代わりとして集会の冒頭などで歌われた。「あの歌は抑圧の隙間から染み出てきた」。ある人がインタビューに答えていった言葉だが、この歌の本質を見事に表現している。70年代誰もが歌った歌、「われわれが何をした、唯一の罪は黒人であること・・・」と何度も繰り返す歌。そして、ラストあたりで女性アーティストが歌う祖先を称えた歌、これはまさに至上のゴスペル、例えようもなく美しい(その歌の間に殺された著名活動家の写真が多数映し出される、その中には「遠い夜明け」で描かれたスティーブン・ビーコの写真もあった)。

  アフリカ人がネルソン・マンデラに捧げる敬意が並大抵のものではないこともよく分かる。「獄中のマンデラは神話の中の人だった」。中でもヒュー・マセケラの思い出は感動的だ。「83年の誕生日、ボツワナにいた私はマンデラからバースデーカードをもらった。20年も投獄されている彼が私を励ましてくれた。『君を誇りに思う アフリカの神の祝福を』と。そして私の姪や妻や友人を気遣う言葉もね。まるで私が監獄にいるみたいだったよ。カードを読み終え横になったら涙がこぼれた。その時曲が浮かんだんだ」。ただ、マンデラに対する尊敬が個人崇拝に結びつかないか少々気にならないでもない。個人崇拝は腐敗につながるからだ。

  1990年2月11日。ネルソン・マンデラ釈放。「皆テレビの前に釘付けよ。私はひざまづいてテレビの前で泣いたわ」(ミリアム・マケバ)。94年、南アフリカの歴史上初の投票に無数のアフリカ人が出かけた。一人の男性が語った言葉が胸を打つ。最後にその言葉を引用して終わろう。「僕が票を入れたとき、母のためにと思った。祖父と曽祖父のための投票だとね。彼らに機会はなかったのだから」。

 

「中川敬のシネマは自由をめざす!」というサイトにこの映画の素晴らしい解説/レビューが載っています。こちらもぜひご覧ください。

2005年12月 1日 (木)

マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ

1985年 スウェーデン 041863
原作:レイダル・イェンソン
製作:ヴァルデマール・ベリエンダール
監督:ラッセ・ハルストレム
音楽:ビョラン・イスフェルト
撮影:イェリン・ペルション
出演:アントン・グランセリウス、マンフレド・セルネル
    アンキ・リデン、レイフ・エリクソン、メリンダ・キンナマン

 ラッセ・ハルストレム。輝かしい業績の持ち主である。フィンランドのアキ・カウリスマキ(「浮雲」、「過去のない男」)やデンマークのビレ・アウグスト(「ペレ」、「愛と精霊の家」)と並ぶ、現代北欧(出身)の代表的映画監督である。スウェ-デン時代に「アバ・ザ・ムービー」(77)、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(85)、「やかまし村の子どもたち」(86)、「やかまし村の春・夏・秋・冬」(86)、「ワンス・アラウンド」(90)を作り、91年にアメリカに渡った後も「ギルバート・グレイプ」(93)、「サイダーハウス・ルール」(99)、「ショコラ」(00)、「シッピング・ニュース」(01)と秀作を作り続けている。自国で成功した後アメリカに渡った人は多いが、ほとんどの場合は自国で作った作品の水準を維持できていない。金があればいい作品が作れるわけではないのだ。そういう意味で、渡米後もこれだけの水準を維持していることは称賛に値する。いや、総合的にはアメリカで作った作品の方が上だと言ってもいい。

  「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」はハルストレム監督を世界に知らしめた出世作である。スウェーデン時代の最高作であり、渡米後の作品群にすら引けをとらない傑作である。チャップリンの「犬の生活」を連想させるタイトルの意味は冒頭の独白で暗示される。

 よく考えてみればぼくは運がよかった。たとえばボストンで腎臓移植手術を受けたあの男。新聞に名は出たが死んでしまった。あるいは宇宙を飛んだあのライカ犬。スプートニクに積まれて宇宙へ。心臓と脳には反応を調べるためのワイヤー。さぞいやだったろう。食べ物がなくなるまで地球を5ヶ月回って餓死した。僕はそれよりマシだ。

  主人公のイングマルは不幸な少年だ。兄にはいつもいじめられている。ママは好きなのだが、兄のいたずらのせいでおしっこを漏らしてしまったり、ミルクの入ったコップを持つと手が震えてこぼしてしまったりで、いつも叱られてばかり。パパは赤道の近くでバナナの出荷の仕事をしていて不在である。焚き火をすれば枯れ草に火がついて火事になってしまう。やることなすことうまく行かない。学校でも家でも叱られてばかり。決して悪い子でもいたずらっ子でもないのだが、結果的には叱られてしまう。辛くやるせない人生。そんな時イングマルは星空を見上げる。自分よりもっと不幸なものを思い浮かべることで自分を慰め、かろうじて精神のバランスをとっている。そうすれば、どんなに辛いときでも自分は「運がよかった」と考えられる。「僕はそれよりマシだ。」この考え方がなんともいじらしい。たびたび語られる「こういう時はライカ犬のことを考えよう」という言葉には胸がつまる。

  しかしハルストレム監督の演出はぐっと抑えられている。泣かせよう泣かせようとするのではなく、むしろ淡々とイングマルの生活を描いてゆく。ストーリーの展開はエピソードの積み重ねのようになっている。対象から一定の距離を置いてパノラマ的に描いてゆくのだが、離れすぎもせず随所にイングマルの独白を挿入している。この距離のとり方が絶妙だ。観客が過度にイングマルの内面に入り込むことをさけつつ、彼への共感を失わせない。見事である。

  イングマルの生活に転機が訪れるのはおじさんのいる田舎にしばらく預けられた時である。母親の具合が悪く、子供がいては気が休まらないので、子供たちは親戚に預けられることになる。兄のエリクはおばあさんの家に、イングマルはグンネル叔父さんのところに。この山間の小さな村での生活がイングマルを変えてゆく。叔父さん夫婦は共に優しい人たちだった。イングマルを出迎えたおばさんが彼に話しかけた言葉には心がこもっていた。「少し温かくなったわ、あなたが太陽を持ってきたのよ。」この言葉どおりイングマルは温かく迎えられる。

  村の人々が実にユニークだ。緑色の髪の少年。女性の下着雑誌をいつもイングマルに読ませる寝たきりの爺さん。男の子として振舞っている女の子サガ。年中屋根を修理しているフランソン。ちょっとエッチな作品を作る彫刻家。実に陽気な人たちだ。時代を50年代に設定したことが成功している。宇宙船と称してゴンドラの様なものを「飛ばす」遊びに大人も一緒になって興じている。飛ばすといってもロープウェーのようにワイヤー伝いに滑らせるだけだが(ところが、途中でひっかかって宙吊りになったまま止まってしまう)。村の男が自転車に乗って綱渡りの曲芸を始めると、いい大人が仕事を放り出して見物に集まってくる。実に伸びやかで素朴な田舎の人たち。このような人々に囲まれてイングマルはのびのびと成長してゆく。

  イングマルは男の子の様なサガと親しくなる。サッカーでは同じチームで、一緒にボクシングもしている。サッカーには面白いエピソードがある。相手チームがフリーキックを得た。イングマルたちはゴール前で壁を作ったが、男の子たちが全員股間を押さえているのにサ059259ガだけが思わず胸を押さえてしまうのだ(イングマルに注意されてあわてて股間を押さえる)。こういうさりげないシーンが可笑しい。サガは胸が膨らみ始め、イングマルがそれを隠すために胸に布を巻いてやる。子供だからエロチックではないが、目をそらしているイングマルがなんともかわいい。ほのかな性の目覚めが二人を通して描かれる。ここも抑えた演出が効いていて、決していやらしくはならない。むしろどことなくほほえましい。

  グンネル叔父さんはガラス工場で働いている。そこの女子工員が彫刻家ベリットに請われてヌードモデルをすることになった。女子工員は監視役としてイングマルを同行させる。その様子を聞いたグンネル叔父さんが興味津津で、「上から下まで裸か」と聞くところが妙に可笑しい。イングマルはその言葉に刺激されて、次に行った時は屋根に上って天窓から裸のモデルを覗こうとするが、足を滑らせて天窓を突き破り床に落下してしまう。このエピソードも愉快だ(怪我は大したことなかった)。そんな行動をとっても誰も彼を叱ったりはしない。そういうおおらかな「空気」の描き方が素晴らしい。

 しかしその愉快な生活にまた暗い影が差す。長く患っていた母親が亡くなったのだ。愛犬のシッカンもイングマルが田舎に預けられるときに一緒に連れてゆけないので他所に預けるということになっていたが、実は「処分」されていたことが分かる。イングマルはまた星空を見上げる。「こういう時はライカ犬のことを考えよう」。このイングマルの姿勢がわれわれの胸を打つのは、それが決して逃避ではないからである。逆境に打ちひしがれ僕は誰よりも不幸だと考えるのではなく、自分よりもっとつらい人もいるのだと考える。そこには、次々に降りかかる不幸を乗りこえようとする前向きの姿勢がある。丁度スポーツ選手のメンタル・トレーニングのように、自分で自分を励ましているのである。つらい時、人は往々にして自分のつらさしか見えなくなってしまう。イングマルはもっと不幸な存在を考えることで自分を相対化することが出来た。「比較すればぼくは運がいい。比較すると距離を置いてものを見られる。ライカ犬は物事がよく見えたはずだ。距離を置く事が大切だ」。彼の強さは自分を客観視できる精神的強さなのだ。

  「ぼくが好きなのはママとシッカン」という言葉に示されるように、母親はイングマルにとって特別な存在だった。だが実際には、母親はいつもイングマルを叱ってばかりいる。しかしイングマルがいつも思い浮かべる母親のイメージは全く違うものである。しばしば挿入される海辺の光景。イングマルのおどけたしぐさに笑い転げる母。ソフトフォーカスで映し出されるこのノスタルジックで美しい光景はイングマルの夢想なのか、母がまだ若い頃の実際の記憶なのか?いずれにせよ、この映像にはやや後ろ向きのセンチメンタルな気持ちが交じり合っている。「元気な時にママにいろいろ話せばよかった」、こういう後悔の気持ちが重ねられているからである。そこに甘さを感じ取ることも可能だろう。しかし母親との幸せな「記憶」を持ち続けたいというイングマルの気持ちも痛いほどよく分かる。

 村での生活を通してイングマルは成長してゆく。しかしその成長には痛みが伴っていた。悲しみを通して彼は成長していったのである。人の成長は決して直線的ではない。ひとりあずま屋のなかで号泣することもあった。やけっぱちになり、四つんばいになって犬の真似をして周りの人たちを困らせたこともあった。その時「犬のようなぼくの人生」というタイトルはより複雑な意味を帯びだす。イングマルの人生は、実は「ライカ犬」と同じように不幸な人生だったのではないか。そういうニュアンスを帯びだす。しかしイングマルは最後にそういう考え方を乗り越えていった、むしろそう解釈すべきだろう。

 ほのかな性の目覚めと共にイングマルは大人への入り口に差しかかる。宙吊りのまま放置されていたゴンドラ宇宙船がもう一度「打ち上げ」られることになった。イングマルと一緒にゴンドラに乗り込んだサガは初めて女の子の服を着てきた。しかし牛の群れに突っ込みそうになり、あわててブレーキをかけたためゴンドラは泥水の中に突っ込んでしまう。せっかくのサガの服も泥まみれになってしまった。こういう描き方をする冷めた目に僕はむしろ監督の才能を感じる。

 エンディングがまた素晴らしい。イングマルはサガと寄り添いながらソファの上で幸せそうに眠っている。外では村人たちがイングマルの名を連呼している。ボクシングのタイトルマッチがあり、スウェーデンの英雄イングマル・ヨハンソンがフロイド・パターソンに勝ったのだ。その非日常的な大騒ぎの中、ただ一人日常を続けている男がいる。年中屋根の修理をしているフランソンだ。村人の騒ぎをよそに彼は屋根の修理に余念がない。トントントントントン・・・。

 自分も同じような悲しみを経験しながら、宇宙を飛んだライカ犬に「さぞいやだったろう」という同情を寄せるイングマル。やがて優しい人たちと出会い、成長し、逆境を乗り越えてゆくすべを身につける。悲しみを経験したが、ずっと背負いはしなかった。緑豊かな小村で悲しみと折り合いをつけながら大人になってゆく一人の少年の成長がみずみずしいタッチで描かれている。15年ぶりに見直したが、今観ても少しも色あせていない。「フランスの思い出」や「マルセルの夏」と並ぶ忘れがたい作品である。

2005年11月30日 (水)

あの頃名画座があった(改訂版)⑤

054599◆83年
  池袋にスタジオ200というスペースがあった。恐らく演劇なども上映しているところだと思うが、ここで「20世紀のドキュメンタリー ライプチヒ映画祭の25年」という企画が催された。83年5月7日に「『クチ』のゲリラ」、「ハノイ・13日・金曜日」、「すべての哀しみは他人事ではない」、「ダー河の架線」を観た。いずれも短編記録映画である。貴重な体験だったが、残念ながらほとんど記憶は残っていない。ライプチヒ映画祭は記録・短編映画専門の映画祭である。その存在は知ってはいたが、そこで上映された作品を観る日本で機会はめったにない。東京はこのように、多くの自主上映館があり、さまざまなユニークな企画が並んでいる点で非常に便利である。渋谷の東京国際映画祭は別格としても、文芸座の中国映画祭、三百人劇場の「ソビエト映画の全貌」などを始め、映画館単位で独自の「映画祭」企画を組んでいる。この傾向は84年頃から目立ってきており、特に86年以降(88年からは長野に移ったのでその後は分からないが)極めて盛んになっている。フィルムセンターや三百人劇場、あるいは名画座などは特集を組むのが普通だが、それ以外の映画館でも特集を組むようになったからだ。

  83年6月にまた池袋のスタジオ200でグルジア映画「ピロスマニ」を観ている。同名の画家を描いたものだが、何もない空間と静寂が支配する映画である。傑作だと思った。この頃からソ連の中の各共和国の映画が日本に入って来るようになった。3月に有楽町シネマで「サン・ロレンツォの夜」、新宿ビレッジ2で「エボリ」を観た。いずれも傑作で、久々にイタリア映画が息を吹き返したと感じた。80年代に公開されたタヴィアーニ兄弟の作品はどれも傑作だった。

  この年の10月から12月にかけて三百人劇場で「黒澤明の全貌」という特集が組まれていた。この頃にはもうほとんど彼の作品は観ていたので、まだ観ていなかった「姿三四郎」と「一番美しく」だけを観た(12月19日)。後者はいわゆる「戦争協力映画」で、予想通り内容はたいしたことはなかったが、観ておかねばならなかった。また12月から翌年の1月にかけて渋谷の東急名画座で「山本薩夫セレクト・フェア」が開催された。偶然なのか、同時期に竹橋の「近代美術館」(フィルム・センターが火事で焼けたため、一時ここに引っ越していた)で「今井正監督特集」が組まれていた。今井正と山本薩夫は共に社会派の大監督だが、二人とも不当に無視されてきた感じがする。このような特集が組まれたことはその意味で非常に重要なことであった。山本薩夫の「金環食」、「真空地帯」を観た。

  しかし何といってもうれしかったのはこの年ついに小津を初めて観たのである。10月26日文芸座で「生まれてはみたけれど」と「小早川家の秋」を観たのだ。特に「生まれてはみたけれど」には感動した。84年から小津ブームが起きるが、これはその先駆けだった。

◆84年
   翌84年の2月6日・7日に大井武蔵野館で「東京物語」、「生きてはみたけれど」、「晩春」、「早春」を観ている。大井町に行ったのは恐らくこの日が初めてで、その後何回か行ったが、映画館がなければまず行くことのないところである。それはともかく、この頃小津ブームで、いろいろな所で小津の特集が組まれていた。2月28日には池袋の「サンシャイン劇場」で「秋刀魚の味」を観ている。大井町にはもう一つ大井ロマンもあり、そこでは4月15日に「ウッドストック」と「レッド・ツェッペリン狂熱のライブ」を観ている。

  この年には新しいなじみの映画館がかなり増えた。3月1日にシネ・ヴィヴァン六本木でニキータ・ミハルコフの「ヴァーリャ」を観た。この映画館はその頃でき始めた新しいタイプの映画館で、会員制になっていた。その日入会し、以後頻繁に通った。10月1日にはアフリカ映画「アモク!」(モロッコ・ギニア・セネガル)を観ている。岩波ホール並の芸術性の高い作品を中心に上映しているところで、結構いい作品を何本もここで観た。アフリカ映画といえばセネガルの「エミタイ」も岩波ホールで4月6日に観ている。3月5日に東銀座の松竹シネサロンで「花咲く港」と「カルメン故郷に帰る」を観た。ここはこの頃から特集を組んで、松竹の財産とも言える過去の名作を次々に上映していた。この時は木下恵介の特集だった。そのすぐ後には「田中絹代フェア」をやった。「野菊の如き君なりき」、「喜びも悲しみも幾年月」、「マダムと女房」、「おぼろ駕籠」等々、ここで初めて観た日本映画は多い。

  3月7日に渋谷のユーロスペースでアレッサンドロ・ブラゼッティの「雲の中の散歩」を観ている。ユーロスペースにはこの時初めて行ったのだが、ちょうどイタリア映画特集(「ネオリアリスモ秀作選」)をやっていた。料金は800円。3回券2000円。8日に「ウンベルトD」、9日に「二ペンスの希望」、11日に「屋根」、12日に「激しい季節」と立て続けに観に行っている。イタリア映画は昔から大好きで、たまたまこの特集はそれまで見逃していた作品を選んでくれたかのように上映していた。特に、「二ペンスの希望」は僕にとって長い間幻の映画だっただけに、感激ひとしおだった。というのも、昔テレビでこの映画を途中から観たのだが、ずっと題名が分からないでいた。全部観た訳ではないのでノートにも書いてなかったからである。カルメンとかいうヒロインがいて、その恋人が映画館から映画館に自転車で映画のフィルムを運ぶ仕事をしていた事だけをぼんやり覚えていた。だから「二ペンスの希望」を観ていてその場面が出てきたときには、やっと幻の映画を捜し当てた喜びで胸が騒いだ。

  この頃のACTのラインナップはすごい。3月13日に「禁じられた遊び」、「恐怖の報酬」、「やぶにらみの暴君」の三本立て、翌14日には「暗殺者の家」、「処女の泉」、「もだえ」を観042680ている。3月29日にもACTでドイツ表現主義のサイレント映画「カリガリ博士」、「ジーグフリード」、「ヴァリエテ」を観た。偶然かもしれないがその数日後赤坂の東ドイツ文化センターで「巨人ゴーレム」を観ている。ちょうど「スクリーン上のデーモン――表現主義の影」という特集を組んでいたのである。8日には「ドクトル・マブゼ」も観ている。ここへは後に『ドイツ映画の黎明――「三文映画」と「作家映画」』という特集を組んだときも観に行っている。これもめったに観られない貴重な企画だった。各国が同じような企画を立ててくれたらその国の文化紹介にもなるのでいいと思うのだが。

  84年4月14日、この日三百人劇場で忘れられない映画を観た。当時三百人劇場は4月から5月にかけて「ソビエト映画の全貌PART2」という特集を組んでおり、その一環として上映されたカレン・シャフナザーロフ監督の「ジャズメン」を観たのである。1920年代のオデッサが舞台。主人公はジャズのピアノ弾きである。当時ソ連ではジャズはブルジョア文化の手先とされ、理解されていなかった。それでも主人公はジャズが好きでやめられず、たまたま監獄で知り合ったサキソフォン吹きの男を交えてバンドを結成するが、その男は軍楽隊出身でアドリブが全くできない....。ジャズが好きで好きでしょうがない青年の情熱を描いたさわやかな映画で、特にピアノを弾いているときの彼の笑顔が素晴らしい。好きでたまらないことをやっているときの人間の顔はこれ程輝くものか。忘れられない映画の一つである。そのときの特集では他に名作アニメ「話の話」を観た。料金は当日1200円、特別鑑賞券1000円。

  5月12日に高田馬場東映パラスで「ザ・デイ・アフター」と「アトミック・カフェ」の二本立てを観ている。ニュース・フィルムを編集したドキュメンタリー映画「アトミック・カフェ」は、マイケル・ムーアの原点ということで「華氏911」が公開された昨年改めて注目され、DVDも出た。5月17日には三鷹オスカーで「祇園の姉妹」と「浪華悲歌」を観た。黒澤、小津と比べるとあまり上映される機会のない溝口健二の作品は見つけたら必見である。めったに行かない三鷹まで行ったのはそのためである。80年代に入ってかなり日本映画を観ている。この84年の7月には並木座で「にごりえ」と「真昼の暗黒」を観ている。同館で7月23日には「私が棄てた女」と「砂の女」を、10月10日には「切腹」と「武士道残酷物語」を観た。

  7月11日にお茶の水のアテネ・フランセでカール・ドライアーの「奇跡」を観た。アテネ・フランセにはこの日初めて行った。ここも自主上映の常連館で特集を組んで上映するのでありがたかった。8月6日には「岩波ホール」でサタジット・レイの「大地のうた」、「大河のうた」、「大樹のうた」三部作を一気に観た。有名な「大地のうた」はこのとき始めて観たが、期待どおりの傑作だと思った。前後するが、7月31日にキネカ大森でポーランド映画「大統領の死」を、9月1日には「王者のためのアリア」を観ている。「ポーランド・シネマ・ウィーク」と題した特集だった。当日券1500円、学生1300円、前売1200円。当時、ハンガリーを始め、チェコやポーランドの東欧映画がけっこう日本に入ってきていた。この2本は期待したほどではなかったが、10月14日に岩波ホールで観たユーゴ映画「歌っているのはだれ?」は傑作だった。独特の雰囲気をもったコメディタッチの映画である。キネカ大森はこの頃から増えてきた新しい映画館の一つである。キネカ錦糸町と恐らく同じ系列店だと思うが、錦糸町の方が後に出来たと思う。六本木のシネ・ヴィヴァンもそうだったが、新しい映画館は特色を出すためにユニークな作品を上映する傾向があり、ありがたかった。座席も座りやすくなり、前の人の頭が邪魔にならないように一列毎に座席半分ずらして並べるなどの工夫もするようになった。

  84年11月には渋谷の東急名画座(東口東急文化会館6F)で「スペイン映画祭」が開かれた。「クエンカ事件」、「黄昏の恋」、「夢を追って」、「パスクアル・ドゥアルテ」、「庭の悪魔」の5本を観た。料金は一般1500円、学生1300円。5枚セット券5000円。80年代前半はフランコ死後に息を吹き返したスペイン映画の黄金時代で、国際映画祭で次々に賞を取っていた。「黄昏の恋」はアカデミー外国語映画賞を取った傑作である。80年代の中国映画が文革時代を引きずっていたように、当時のスペイン映画はスペイン戦争の影を引きずっていた。「黄昏の恋」はそんな時代のせつない中年の男女の恋を描いた映画である。「クエンカ事件」は実際にあった事件を描いたもので、無実の罪で牢獄に入れられた男を描いたものである。全編これ拷問シーンばかりといった印象の映画だが、当時のスペインで空前の大ヒットとなった。そのことから当時のスペインの雰囲気がよく分かる。「パスクアル・ドゥアルテ」は徹底したアナーキズム映画だ。何の動機もなく次々に人や動物を殺す場面が出てきて、何とも気が滅入る映画だった。「問題作」だとパンフに書いてあったが、確かにそうとしか書けないだろう。名作「エル・スール」もこのときの上映作品に入っていたが、残念ながらこのときは観られなかった。85年の11月にシネ・ヴィヴァン六本木で上映されたときにようやく観ることが出来たのである。

 11月17日に初めて早稲田松竹で「波止場」と「地上より久遠に」を観ている。「早稲田松竹」に行ったのがこんなに遅かったとは。もっと行っていそうな気がするが、他の名画座よりも若干料金が高かったことと、やはりラインナップが今一つだったということだろう。

2005年11月29日 (火)

寄せ集め映画短評集 その12

在庫一掃セール第12弾。今回は各国映画6連発。

「ザ・インタープリター」(2005年、シドニー・ポラック監督、アメリカ)
 シドニー・ポラック監督というと「一人ぼっちの青春」(69年)、「追憶」(73年)、「トッツィー」(82年)等が有名だ033798が、75年に「コンドル」というサスペンスの名作を作っている。他にも「ザ・ファーム」(93年)という、法律事務所を舞台にしたジョン・グリシャム原作のサスペンス・ミステリーも作っている。
 「ザ・インタープリター」は国連を舞台に同時通訳の女性(ニコール・キッドマン)を主人公にしたという点でユニークである。しかし偶然大統領暗殺計画を耳にしたために命を狙われるという展開はありきたりである。出来は可もなく不可もなくというところか。特にこれといって新味もない。シークレット・サービス役でショーン・ペンがからむ。彼はさすがの存在感だが、こういう組み合わせもありきたりである。ただ、こういう場合ハリウッド映画は二人を必ず恋愛関係にしてしまうのだが、ショーン・ペンが妻を亡くしたばかりでその痛手から完全には立ち直っていないという設定になっていて、深い関係に踏み込ませない(一度だけ無言のまま抱き合う場面があるが)ところはさすがシドニー・ポラックである。
 最初のサッカー・スタジアムのエピソードがどう絡むのかかなり後の方にならないと分からない仕掛けや、狙われるニコール・キッドマン自身にも何か秘密があるというあたりは工夫を感じさせるが、これもよく使われる手だ。何で自分が追われているのかさっぱり分からないという「コンドル」の謎めいた展開に比べるとかなり見劣りする。まあ、平均的な出来栄えで悪くはないのだが、アメリカはこの手の映画を作りすぎているのだろう。「メメント」のような思い切り意表をつく設定でないといまさらもう驚かない。こちらはもう散々この手の映画を観てきているし、早川文庫や創元文庫を読み漁ってきているわけだから。
 この映画の収穫といえるのはニコール・キッドマンの若さと美しさだ。彼女こんなに若かったっけ?こんなに美人だったっけ?正直驚いてしまった。彼女が意外に美人だと気付いた(?)のは「ムーラン・ルージュ」の時だが(ただし最後まで観ていない)、その時よりも若く美人になっている。これが素顔なのか?それともメーキャップの賜物なのか?この映画より深い謎だ。

「ボーン・スプレマシー」(2004年、ポール・グリーングラス監督、アメリカ・ドイツ)
 こちらもそれほど展開に新味があるわけではないのだが、ずっと出来はいい。しかしどこが違うのか、どこがいいのか説明は難しい。前作の「ボーン・アイデンティティ」もそうだが、どこか「ダイ・ハード」(88年)を思わせるところがある。並みのアクション映画とは違う厚みと風格がある。「ダイ・ハード」はサスペンス・ハード・アクションの金字塔で、もう結構前の映画になるがいまだに何度観ても面白いと思う。この「ダイ・ハード」が他の作品よりどこが優れているのか説明するのは難しい。派手なアクション、めまぐるしい展開、強大な敵を相手にした孤独な戦い、これらの点で「ダイ・ハード」に匹敵する、あるいは上回る映画はいくつもあると思うのだが、映画全体の出来として「ダイ・ハード」を超える映画はまだ現れていないと思う。「ダイ・ハード」が優れているのは上に挙げた要素をすべて兼ね備えている上に、主人公に忘れがたい個性と存在感を与えているからだとしか今はいえない。
 「ボーン・スプレマシー」は「ダイ・ハード」に迫る数少ない映画である。「ボーン」シリーズはマット・デイモンの存在感が大きい。それまではおよそアクション俳優というイメージはなかったのだが、あっと驚く変身ぶりを見せてくれた。スマートでかっこいいというタイプではなく、どちらかというとずんぐりしてあまり身軽に見えないのだが、いざというときには俊敏な動きで見事なファイトをする。殺人マシーンという設定に負けていない。へろへろになって孤軍奮闘しながら「なんで俺がこんな目にあうんだ」とぼやくマクレーンは主人公として一つの確固としたイメージを作り上げているが、ジェイソン・ボーンの普段は優しい男だが、一旦緊急事態となれば無言でてきぱきと事を進めることができる冷静な役柄(ほとんど殺し屋のイメージ)もなかなかのキャラクターである。どこかゴルゴ13を思わせる凄みと身のこなし。ブルース・ウィリスなくして「ダイ・ハード」がありえないように、「走るジミー大西」マット・デイモンなくしては「ボーン」シリーズは考えられない。もはや「エイリアン」シリーズにおけるシガニー・ウィーバーの様な存在である。シリーズもので2作目が1作目に並ぶ、あるいは超えるものはそうはない。だからシリーズものの安易な作り方を常々批判してきたが、この水準を維持できるなら3作目があってもいいとさえ思った(元々三部作のようだが)。
 かつて同じ訓練を受けた仲間との格闘シーン、何度も出てくる脱出シーン、ラストのカーチェイス・シーンと盛りだくさんである。追われる立場でありながら、追う立場でもあるという抜群の設定と展開。そのアクションとサスペンスの連続に芯を与えているのは、不完全な記憶と悪夢にうなされつつ自分の記憶とアイデンティティを探ろうとするジェイソン・ボーンの複雑なキャラクターとそれを演じたマット・デイモンの演技力である。演技派の彼を主役に持ってきたことが見事に成功している。断片化した記憶を手繰ってゆくことが重要なサブ・テーマとなっていて、それが謎の解決と結びついている。
 しかも今回は敵役のカール・アーバンに凄みがありターミネーター並にしつこい。ボーン捜索を担当する女性指揮官役のジョアン・アレンもきつい顔で、有能な指揮官らしさ横溢。アクションの展開だけではなく、登場人物たちのキャラクターがしっかり描きこまれていないと、「マトリックス」のように観た次の日にはどんな話だったか全く思い出せないということになってしまう。とにかくいろんな意味でよく出来た映画である。原作はロバート・ラドラムの「殺戮のオデッセイ」(角川文庫)。

「アイリス」(2001年、リチャード・エア監督、イギリス)
 期待に違わぬいい映画だった。アイリス・マードックの若いときをケイト・ウィンスレット、晩年をジュディ・デンチが演じている。ケイト・ウィンスレットは輝くばかりの若さと美しさで奔放な性格の若きアイリスを魅力的に演じている。一方のジュディ・デンチは最初と最後で全く違うアイリスを演じ分けなければならない。最初に登場したときは理知的な老女であった。テレビで講演をしている場面が出てくるが、言葉も話の内容も明瞭である。しかし、徐々に同じことを繰り返し言ったり、 綴りが書けなくなったりしてゆく。最後は子供のようになってしまう。海岸でメモ帳の紙をちぎり、飛ばされないように上に石を乗せて並べてゆく。何の意味があるのか分からないが(恐らく本人にも分からないのだろう)、非常に印象的な場面である。もう一つ印象的なのは施設に入れられたアイリスが廊下で一人踊っているシーンである。短い場面だが、すぐ次に彼女がベッドで息を引き取る場面が続くだけに何とも強い印象を残す。
 夫である有名な文芸評論家ジョン・ベイリー役のジム・ブロードベントも見事な存在感を示した。若いころから太っていて、頭は禿げかかっており、その上どもりなのだが、まじめで人のよいその性格は人を引き付けるものがある。彼はアイリスがボケてからも決して彼女を見捨てなかった。時にはイライラしてどなったり、ののしったりすることもあるが、すぐに彼女のせいではないと気持ちを入れ替える。原作がジョン・ベイリーなので実際より美化されているとは思うが、いい話だ。
 このところイギリス映画には作家を描いたものや小説の映画化作品が多いが、BBCが果たしている役割が大きいのではないか。この映画もBBCの製作である。

「長雨」(1979年、ユ・ヒョンモク監督、韓国)
 最近の韓国映画はアメリカ映画に似てきたが、この作品は韓国独自の文化風習を色濃く反映している。しかも南北問題という韓国独特の社会・政治問題を中心にすえている。
 033799ある一家の家にその家の嫁の家族が移り住むことになる。嫁の母親もいて、2人のおばあさんは最初仲良く暮らしていた。丁度人民軍と韓国軍が一進一退の攻防を繰り広げていた時期だ。ところがその村が人民軍の占領下に置かれたときに、その一家の次男が人民軍に惹かれ参加してしまう。彼以外の家族はみな当然韓国側だ。嫁の家族にも同じような年頃の息子がおり、彼は右派の活動をしていたので裏山に隠れ住むことになる。人民軍に入った息子は撤退間際に山に隠れているいとこを密告する。幸いそれを予期していたため、いとこは無事だった。しかし韓国軍による解放後、彼は軍に入り戦死してしまう。彼の母は人民軍を呪う。それを聞いたもう一人のばあさん(つまり、息子が人民軍に参加した方)は激しく相手のばあさんをののしる。嫁の小さな息子もチョコレートに釣られおじが人民軍に参加していることを教えてしまう。こうして一家は真二つに割れてしまう。南北分断の悲劇を一つの家族の中に描きこんでいるわけだ。
 情勢は人民軍に不利になってゆくが、人民軍の息子を持つばあさんは、息子は決して死なないと公言する。しかし最後の戦闘で人民軍は壊滅する。それでもばあさんは息子の無事を主張してはばからなかったが、祈祷師が予言した日に息子は帰らなかった。代わりに蛇が門から入ってくる。それを見てばあさんは気を失う。するともう一人のばあさんが茶碗に食べ物を供え、(おいの生まれ変わりである)蛇に心を込めて話しかける。家のことは心配しなくてもよい。みな無事にやっている。だから安心して帰りなさいと。その言葉を理解したのか、蛇はゆっくりとまた門から出て行った。その一部始終を聞かされたもう一人のばあさんは、横たわったまま自分の非をわびる。外出を禁じていた孫にもわび、外で遊ぶことを許す。ようやく許しが出た孫は喜び勇んで長雨のあけた外に飛び出してゆく。希望と平和への祈りが込められた、感動的なラストシーンだった。
 南北分断が人々に与えた苦難を描くことは朝鮮戦争後ずっと韓国映画の主題の一つだった。最後に止むまでずっと降り続いている雨は、この鬱屈した重苦しい時代の雰囲気を象徴している。「長雨」(1979年)はその主題を扱った映画の代表作の一つだ。

「ホワイト・バッジ」(1992年、チョン・ジヨン監督、韓国)
 東京映画祭でグランプリを受賞した作品。時代は、パク・チョンヒ大統領が暗殺された1979年。期待通りの傑作だ。今では忘れられてあまり知られていないが、韓国はベトナム戦争時アメリカに協力してベトナムに派兵していた。この映画はそのベトナムから戦争後遺症を患って帰国した元韓国兵の話である。いわばアメリカ映画「帰郷」の韓国版といったところか。 最後にベトナムでの壮絶な戦闘シーンが出てくる。3人を除き部隊はほぼ全滅してしまう。敵をひきつける役目をさせられたことが翌日視察に来た司令官(?)から知らされる。「帰らざる海兵」と同じ設定だ。もちろん主題はベトナム戦争そのものよりも、その戦争後遺症を描くことにある。主人公役のアン・ソンギおよび彼と共に生き残った一人の一等兵に焦点が当てられている。
 その一等兵は、間違って民間人を殺してしまった上官に、その事実を隠蔽するために生き残った他の民間人も殺すよう命じられる。一等兵はためらうが、銃で脅されやけになって殺してしまう。直後に自分のやってしまった事実を見てのけぞる。彼は最後の戦闘で生き残るが精神に深いダメージを受けてしまう。一方アン・ソンギの方は大きな負傷もせず、精神を病むこともなく、その後ベトナム戦争を描く作家として暮らしている。そこにかつての部下である例の一等兵が突然電話をかけてくる。彼は自殺願望に悩まされ、妻との間もうまく行かず、死ぬことも出来ない。毎日サイレンや銃声を思わせる音におびえる生活。信頼する元上官のアン・ソンギに戦場から持ち帰った銃を預かってほしいと頼みこむ。
 ラストはアン・ソンギが預けられた銃で元部下を撃ち、地面に横たわった死体の横に彼自身も横たわる。むなしそうな顔を空に向けたアン・ソンギと部下の死体が映し出されストップ・モーションになる。
 韓国は第二次世界大戦以降も朝鮮戦争とベトナム戦争を経験した。また北との小競り合いも日常的にある。アメリカほどではないが、日本と違った現代史を歩んで来た国である。アメリカ製ベトナム戦争映画のブームが終わった後にこの映画が作られた意味を理解するには、韓国の歴史をよく調べねばならないが、この映画が作られた翌年の93年にキム・ヨンサムによる文民政権が生まれたことと無関係ではないだろう(その前まで軍人の大統領が続いた)。韓国にとってある意味ではまだ戦後になっていないのかもしれない。

「ビッグ・フィッシュ」(2003年、ティム・バートン監督、アメリカ)
 ティム・バートンにしてはなんともストレートな映画だ。デヴィッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」のようなものか。もちろんティム・バートンらしいファンタスティックな雰囲気や登場人物もたくさん出てくる。5メートルの大男や魔女(ヘレナ・ボナム・カーター)、上半身は双子で下半身は一人分の姉妹、サーカスの芸人達。何と言ってもユニークなのは桃源郷のような町スペクターだ。全員が裸足で生活し、たった3行の詩を書く作家ノザー(後に銀行強盗になり、その後成功する、スティーブ・ブシェーミ)や旅人の靴を町の入り口の電線に吊るす少女ジェニファー・ビル(後の魔女)など住民もユニークだ。
 主人公のエドワードはほら話(トール・テイル)が大好きな男(アルバート・フィニー、若い頃をユアン・マクレガー)で、死期を迎えている。散々ほら話を聞かされてすっかり親父が嫌いになった息子のウィルがしぶしぶ父親を見舞いに来る。この作品の中心テーマは、ウィルが父親を理解してゆくプロセスを描くことである。その外枠の中に父親の若い頃の回想というストーリーが入り込んだ形になっている。この部分がいい。特に妻サンドラ(若い頃をアリソン・ローマン、年取ってからをジェシカ・ラング)との出会いと結婚の部分。素晴らしいロマンスになっている。若い頃のはつらつとしたエドワードとすっかり太りベッドに横になったきりの現在のエドワードの差、この差が、息子ウィルが見る父親像と母親やウィルの妻ジョセフィーン(マリオン・コティヤール)が見るエドワード像との乖離につながっている。やがて少しずつ父親への誤解が解け、ついには父親の最期の時にウィルが作り話をするに至る。若いとき魔女の瞳を覗いたエドワードはその中に自分の未来を見たという。しかしその死の場面がどんなものだったかは誰にも話したことがなかった。その死の場面を息子に語らせようとするのだ。息子は精一杯想像力を働かせ、父親の話を引き継いで物語に結末をつける。ここで初めて息子と父の共同作業が行われるのである。二人が力を合わせて(想像力を駆使して)一つの物語を完成させる。いい結末だ。
 ファンタジーにロマンスを程よくミックスさせ、さらにアメリカの伝統のトール・テイルを組み合わせるという脚本が秀逸だ。「シザー・ハンズ」「ナイトメアー・ビフォー・クリスマス」と並ぶ彼の代表作になるだろう。

2005年11月28日 (月)

カーサ・エスペランサ

2003年 アメリカ・メキシコ
tenkiyuki脚本:ジョン・セイルズ
監督:ジョン・セイルズ
音楽:メイソン・ダーリング
撮影:マウリチオ・ルビンシュタイン
出演:マギー・ギレンホール、ダリル・ハンナ
    マーシャ・ゲイ・ハーデン、スーザン・リンチ
   メアリー・スティーンバーゲン、リリ・テイラー
    リタ・モレノ、 ヴァネッサ・マルティネス

 インディーズの大物として知られているジョン・セイルズ監督の作品。僕の好きな監督の一人だ。今のところ「パッション・フィッシュ」(92年)がもっとも優れた作品だと思うが、「メイトワン1920」(87年)と「フィオナの海」(94年)も傑作である。91年の「希望の街」は「再会の街」、「シティ・オブ・ジョイ」と3本いっぺんに観たので、記憶が入り混じってよく覚えていない。何であんな馬鹿なことをしたのか(後悔の涙)。

 それはともかく、ジョン・セイルズ監督作品ということで期待して観た。非常に変わった群像劇である。とある南米の国に赤ん坊を養子にもらおうとやってきた6人のアメリカ女性たち。スキッパー(ダリル・ハンナ)、ナンシー(マーシャ・ゲイ・ハーディン)、ゲイル(メアリー・スティンバーゲン)、ジェニファー(マギー・ギレンホール)、レスリー(リリ・テイラー)、アイリーン(スーザン・リンチ)。それぞれにいろんな事情を抱えている。ラテン系の国のこと、養子縁組の手続きがなかなか進まない。時間をもてあました彼女たちは買い物をしたり、観光をしたり、互いに語り合ったりして時間を過ごす。

  しかし、彼女たちばかりにスポットライトが当てられているわけではない。失業して何とかアメリカに密入国をしようとする現地の男、アメリカ人が泊まっているホテルの女性オーナー(なんとリタ・モレノ!すっかり年を取り、加賀まりこそっくりになっている)、左翼思想を持つその息子、そのホテルで働く女性メイド、町の浮浪少年たち、子供を身ごもり母親から養子に出せと強制されている女性。ここまで徹底した群像劇も珍しい。様々な人たちの人生が交差する南米の町。様々な理由で子供がなく養子を取ろうとするアメリカ人の女性たちと、子供を手放すしかない貧しい現地の女たち。養子になるには年を取りすぎてしまったストリート・チルドレンたち。アメリカに憧れる者、アメリカを批判する者。失業男は偽造パスポートを手に入れようとするが、金が足りない。くじで当てようとするが、逆に金を全部すってしまう。越えたくても越えられない国境線。難なく国境を越えられるのは養子にもらわれた赤ん坊だけであるという皮肉。

 全編ほとんど会話で埋め尽くされている。登場人物が多く、会話の組み合わせも多様なので、観客の意識は会話の内容に深くとどまらない。それは意図された演出だろう。アメリカ人女性たちもたまたま現地で一緒になっただけ。アメリカ人と現地の人との接点も一時的なもの。どこにも深い人間関係はない。たまたま居合わせた人たち。やがて養子縁組が決まり女たちは別れてゆく。はっきり養子が決まったと分かるナンシーとアイリーン以外はどうなったのかさえ分からない。突然終わってしまう。

 ホテルのメイド・アスンシオン(ヴァネッサ・マルティネス)とアイリーンの会話が印象的だ。互いに言葉が分からない。アイリーンは娘を持った自分を想像し、それを一方的にベッド・メイキングしているアスンシオンに話して聞かせる。最初は言葉が分からないので相槌もうたずただ聞いていただけのアスンシオンだが、今度は逆に自分の子供が北(アメリカ)にもらわれていったことを話して聞かせる。言葉が通じないのに互いに自分の思いを語りかける二人の女性。それなのに何かが通じ合っている。ラストで養子縁組が決まったアイリーンが娘の名前はエスメラルダにするとつぶやく。エスメラルダとはアメリカに養子に出したアスンシオンの娘の名前だ。ここにかすかな人間的つながりが示されている。いささか唐突な終わり方だが、アイリーンのつぶやきに余韻がある。

 ジョン・セイルズは何が言いたかったのか。豊かな国と貧しい国、その対比なのか。それもあるだろう。生みの親が育てるよりアメリカ人に引き取ってもらう方が幸せになれるという期待。「カーサ・エスペランサ」とは、「希望の家」という意味である。この期待は「幻想」なのか。そういう問いかけも映画に含まれている。豊かな国と貧しい国の関係とは、例えば、貧しい国の人々が食料にならないコーヒー豆を育て、飽食した国の人たちがそれを嗜好品として飲んでいる関係、飢えた国の人たちが生きるために自分の血を売り、その血は豊かな国の人たちに輸血される関係である。一方で飢餓に瀕した人々がおり、一方でダイエットに血道を上げている人たちがいる関係でもある。「北」は本当に幸せな人々が住む国なのか。そういう問いかけもある。赤ん坊を求めてきた6人のアメリカ人女性は皆幸せなのか。アメリカは徹底した競争社会だ。キャリア優先で後ろも見ずにひたすら走ってきた女性たち、離婚率が高まり家庭崩壊寸前の女性たち、何らかの理由で不妊になった女性たち、等々。心の隙間を抱えた女性が少なからずいるという現実。女性ばかりではない。独身の女性もいるが、結婚している女性でもその夫は出てこない。夫(男)の不在。これまた暗示的だ。

 赤ん坊を里子に出す母親も仕事を求める失業男も北に憧れる2204snowmanwreath4。名作「エル・ノルテ 約束の地」はグァテマラからアメリカに密入国した兄妹の話だが、「約束の地」で待っていたのはやはり過酷な現実だった。養子になった赤ん坊たちは容易に国境を越えられるが、幸せな人生が待っているのか。アメリカ人の女性たちは一緒に話しているときは楽しそうでも、皆一人になると寂しそうな一面を見せる。豊かな暮らしをしながら「何か足りない」人生。その足りないものを補おうと赤ん坊をもらいに南にやってきた女性たち。彼女たちが望んだのは赤ん坊そのものではなかったのかもしれない。心の空隙を埋めてくれる何物か。それぞれの空隙は一人ひとり違うだろうが、赤ん坊だけで埋められるものではないだろう。

 一方貧しい国の人々。こちらにも様々な理由がある。赤ん坊は決して売られてゆくのではない。何とかいい生活をしてほしいという願いも込められている。ストリート・チルドレンを見ているとそう願う気持ちも理解できなくはない。彼らは大人になってやはり偽造パスポートを持って「北」へ行こうとするのだろうか。かつて程の貧困はないのかもしれないが、貧しいことに違いはない。かつて日本の農村でも借金を作った親が娘を売るということは珍しくなかった。姥捨ての伝説もある。木下恵介の名作「楢山節考」には、なまじ歯があるから飯を食うのだと老婆が石臼に口を打ち付けて歯を全部折ってしまう凄絶な場面が出てくる(働けなくなった老人は文字通り「ごくつぶし」なのだ)。

 ベッドの中の赤ん坊は無邪気に眠っている。この子たちにどんな未来が待っているのか。観ていていろんな思いに駆られる。それは映画の狙いでもある。最初から最後までしゃべり倒すこの映画は観客に考える余裕を与えない。かといってジェットコースター・ムービーと同じではない。こちらは別に考えなくてもいいように作られている。「カーサ・エスペランサ」は考えるべき問題がむしろあふれかえっている。アメリカ人の女性たちばかりではない、ホテルのメイドも、家のない子供たちも、失業した男もそれぞれに問題をかかえている。彼ら個人を越えた大きな社会的、政治的問題もある。むしろ問題を詰め込みすぎて消化不良になっているともいえるくらいだ。6人のアメリカ人女性だけでもそれぞれ深刻な問題をかかえているのだが、あっと言う間に会話は流れてゆくので十分記憶に残らない。心に深くしみこむ前に話は次に進んでいる。戸惑っているうちにふっと映画は終わってしまう。問題をざあっとぶちまけ、深く追求することもなく突然終わってしまう。観客は後で自分でゆっくり考え直さなければならない。そういう狙いなのだろう。どこかドキュメンタリー的なタッチも意識的に取り入れているのかもしれない。様々な人生のひとこまを切り取り、無造作に観客に投げかける。そんな映画だ。だからエンディングらしいエンディングはない。赤ん坊を引き取ったところで人生は終わらない。そこからまた始まるのだ。人生は続くのである。

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2005年11月27日 (日)

あの頃名画座があった(改訂版)④

◆76年earth1
  76年に入って異変が起こる。何とこの年にはわずか6本しか映画を見ていない。しかもその6本はすべて(ノートを見て自分でも驚いたが)テレビで観たものだった。翌77年はさらに減って年間5本。78年は若干増えたが7本。やっと79年になって20本、80年に22本まで回復している。何と76年から79年の4年間でわずか38本しか見ていない。別に意識的に映画絶ちをしていた訳ではないと思うが、とにかく忙しくなったのである。76年は大学4年生で、今も属している研究会に前年入会しその活動で非常に忙しい時期だった。帰りも遅くなることが多くなったので、それまで寄留していた流山市の叔母の家を出て、調布市菊野台(最寄り駅は京王線の柴崎駅)のアパートに引っ越した。そこに12年住むことになる。77年は大学院受験に失敗し浪人していた時期である。78~80年は大学院に通っていた時期だ。要するに映画など見ている余裕がなかったのである。どうして映画を見ずにいられたのか今から考えると不思議だが、この頃は一番勉強していた時期だから無理もなかったのだろう。

  最初の5年間で1032本見ている。2000本台に達したのは91年1月で、同じ1000本観るのに15年かかっている。71年と72年の2年間で(高2から高3に当たる)501本見ている。高校時代は片端から見まくっていたわけだ。僕の高校時代は、本を読んでいなければ映画を観ている、映画を観ていなければ本を読んでいるという生活だった(高3の頃は世界文学全集を読み漁っていた)。そんな生活をしていたからこそできたことだ。なにせ受験勉強なんか一切しなかった。受験勉強なんかするよりも、優れた本を読み、優れた映画を観る方がはるかに有意義だと信じて疑わなかった(今でもそう思っている)。

◆77年~79年
  77年2月9日に初めて神保町の岩波ホールで映画を見ている。観たのは「トロイアの女」だった。同年6月21日にはこれまた初めて高田馬場の古本屋街の一角にあるACTミニシアターで「戦火のかなた」と「自転車泥棒」を観ている。その後頻繁に利用するこの二つの場所に行ったのがこんなに遅いとは、自分でも意外だった。岩波ホールにはその後しばらく行かなかったが、79年に「家族の肖像」と「木靴の樹」と「旅芸人の記録」を観ている。これらを観てまた映画熱がぶり返し始めた。少なくとも月に1本は映画を観ようと決心したのはこの頃からである。実際、79年には20本と急に本数が増えている。しかし、年間100本以上にまで回復するのはさらに数年後、84年になってからである。

◆80年~81年
 80年に日経小ホールで「ジプシーは空に消える」(2月20日)と「ナーペト」(8月11日)を見ている。どちらもソ連映画だが、この頃きっかけは忘れたが「ソビエト映画鑑賞会」なる会に入っていて、その会でみたのである。大手町の日経新聞社のビルの中にある日経小ホールだった。めったに行かない場所だし、普通の映画館ではないので何とも不思議な空間だと感じた。ソ連映画はめったに観る機会がないので貴重な経験だったが、長くは通わずにやめてしまった。理由は覚えていない。

  岩波ホールに頻繁に通いだし、「女の叫び」、「青い年」、「メキシコ万歳」、「鏡」、「ルートヴィヒ神々の黄昏」、「チェスをする人」、「株式会社」、「約束の土地」、「山猫」と、ほとんど欠かさずに観に行った。81年の1月31日には千石の三百人劇場で「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」を観ている。三百人劇場初体験である。ここもその後頻繁に通うことになる。特に何回か開催されたソビエト映画特集は実に貴重な特集だった。73年に後楽園シネマで開催された例の「ソビエト名作映画月間」の際に見逃した「シベリヤ物語」を81年の4月に見ている(同時上映はソ連初のカラー映画「石の花」だった)。

  9月には京王線沿線にある下高井戸京王で「勝手にしやがれ」と「薔薇のスタビスキー」を観た。ここは同じ京王線沿いなのでよく利用した。一時閉鎖されそうになったが、市民の努力で残されることになった。素晴らしいことである。「出没!アド街ック天国」の下高井戸編でも10位に入っており、支援する人々のこともきちんと取り上げていた。何もできないが、影ながら応援したい。文芸座も97年に一時閉館してしまったが、2000年12月にほぼ以前と同じ場所に新文芸座として再建された。新しい建物にはまだ入ったことはないが、2、3年ほど前に行ったときはケン・ローチ特集をやっていて、ユニークな特集は健在だと安心した。その一方で、三百人劇場が2006年いっぱいで閉館になると新聞に出ていた。数々のユニークな特集を組んできたところだけに、なんとも残念なことだ。

  81年10月には文芸座ル・ピリエで「ライムライト」、12月に八重洲スター座でアンジェイ・ワイダの「世代」を観た。前者は確か文芸座と文芸地下の間に新しく建てたもので、2階に上がったと思う。いつ出来たのか正確にはわからないが、恐らくこの年(81年)だろう。後者は新しく開拓した映画館でその後頻繁に利用した。こちらは逆に入り口から地下に降りて行った。この頃ポーランドでは「連帯」が有名になり、「鉄の男」(84年4月三鷹オスカー)、「大理石の男」(80年10月岩波ホール)でアンジェイ・ワイダは再び脚光を浴びた。また、当時ムービー喫茶なるものもあって、81年9月に名前は忘れたが水道橋近くのムービー喫茶で「怒りの葡萄」を観ている。薄暗い感じの店内にスクリーンを垂らして映写していた。この店にはそれ一回しか行かなかったが、ムービー喫茶そのものも結局定着することなく消えて行った。

◆82年
 82年頃になるともうほとんど映画は映画館で見ていた。82年1月に新宿の「シネマスクエアとうきゅう」で「モスクワは涙を信じない」を観た。ソ連映画のあらゆる記録を破る大ヒットを飛ばした映画で、ついにはハリウッドでアカデミー外国語映画賞まで取った傑作であdolphin-wave1る。この映画を見てソ連映画は変わったと実感したのを覚えている。また82年4月に「シネマスクエアとうきゅう」で観た「メフィスト」、7月に新宿東映ホール1で観た「ハンガリアン」、84年12月に三百人劇場で観た「ハンガリアン狂詩曲」を観れば、当時のハンガリー映画のレベルの高さを知ることができる。いずれも傑作である。また「シネマスクエアとうきゅう」は全座席入れ替え制を導入していた。岩波ホールは前から実施していたが、一般の劇場で導入しているのはまだ珍しかった(ここが最初に始めたのかどうかは分からない)。

  3月11日に初めて自由が丘の武蔵野推理劇場に行っている。「カッコーの巣の上で」と「普通の人々」を観ている。魅力的な館名だったが、あまり観たい映画をやっていなかったので、結局この時とあと1回行っただけだった。また、この頃には結構ロードショー館にも行っている。渋谷のジョイシネマと東急名画座、新宿文化シネマ2、新宿東映ホール1など。

  とにかくこの頃はテレビ映画どころかテレビそのものをほとんど観なくなり、あちこちの映画館に足を延ばしていた。『ぴあ』を見て手帳にびっしりと観たい映画の上映時間を書き込んでいた。まだレンタルビデオが広まる前で、名画座や自主上映館があちこちにあり、ユニークな企画を競っていた。ビデオやDVDが発達した今日でも日本映画や外国映画の古典的作品は必ずしも充実しているとは言えない。ましてや80年代前半頃は、並木座や文芸座のような日本映画の古典を上映する映画館や、ACTや三百人劇場のような国内外の古典的作品を安い料金で上映する自主上映館は貴重な存在だった。しかも日本映画について言えば、黒澤や小津や溝口以外の日本映画監督の映画も積極的に上映していたという意味でも貴重だった。木下恵介、小林正樹、今井正、熊井啓、浦山桐郎、今村昌平、内田吐夢、山本薩夫等々、貴重な作品をどれだけこれらの映画館で観たか。また、高田馬場のACTでは「戦火のかなた」、「自転車泥棒」、「無防備都市」、「平和に生きる」等のイタリア・ネオリアリズモの代表作を観ることができたし、今井正の「キクとイサム」、「ここに泉あり」のような日本映画も観ることができてありがたかった。

  82年5月に渋谷のパルコ・パート3の8階にあるスペース・パート3で「ベリッシマ」を観た。ここはデパートの中にある上映スペースという点でユニークだった。渋谷は東京映画祭の中心地だったが、その後BUNKAMURAなどもできて独特の文化の薫りのする街だった。9月10日に川崎国際で「飢餓海峡」と「不毛地帯」を観ている。わざわざ川崎まで行ったのは、2本ともどうしても観たかった映画で、この機会を逃したらもう観ることはできないと思ったからだろう。館内に入るとさすが労働者の街、都内の映画館とは雰囲気がまるで違った。周りの観客はほとんど日雇い労務者風の人たちで、昼間から酒を飲んで観ている。なんとなく落ち着かなかったのを覚えている。

  82年11月3日には新宿文化シネマで「1900年」を観た。その日は祝日で館内は満員。5時間近くもあるこの大長編映画をずっと立ち通しで観たわけだが、映画に引き込まれていたせいかそれほど苦にならなかった。同じ11月に中野名画座に始めて行った。「エレファント・マン」と「フランス軍中尉の女」を観た。都内の名画座はほとんど行ったと思うが、ここは三鷹オスカー、大塚名画座や荻窪オデヲンなどとともにあまり行かないところだった。おそらくラインナップにあまり魅力がなかったからだと思うが、中央線沿線は場所的にも行きづらかったのだろう。三本立てで有名だった「三鷹オスカー」などは結構魅力的な企画を打ち出していたのだから。7月5日に六本木の俳優座で「若者のすべて」を観ている。俳優座シネマとなっていないところをみると、この頃はまだ試験的にやっていたのかもしれない。同じ六本木のシネ・ヴィヴァンより先にこちらに来ていたのは自分でも意外だった。11月の24日から12月2日にかけて、日比谷の千代田劇場で「山の音」、「雪国」、「忍ぶ川」、「浮雲」、「夫婦善哉」、「また逢う日まで」を観た。「東宝半世紀傑作フェア」と銘打った企画だった。DVDなど影も形もなかった頃だ。いずれもこのとき見逃したら一生観ることはないだろうと思っていた。

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