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2005年11月6日 - 2005年11月12日

2005年11月12日 (土)

セルラー

2004年 アメリカSD-fl6-08
原題: CELLULAR
監督: デヴィッド・R・エリス
製作: ディーン・デヴリン、ローレン・ロイド
製作総指揮: ダグラス・カーティス、キース・ゴールドバーグ
原案: ラリー・コーエン
脚本: クリス・モーガン
出演: キム・ベイシンガー、クリス・エヴァンス、
    ウィリアム・H・メイシー、 ジェイソン・ステイサ
    ノア・エメリッヒ、エリック・クリスチャン・オルセン
    ジェシカ・ビール、リチャード・バージ、マット・マッコーム

  携帯電話をcellurar phoneとかcell choneというが、この場合のcellとはどういう意味なのかと常々思っていた。「細胞」であるはずはないから何かの「単位」だろうとは思っていた。「セルラー」を観た機会に辞書を引いたら一発で分かった。「地域を数キロ程度の小さなセル(cell)に分割し、それぞれに周波数を割り当てて、中継局を介して通信を行う電話であるところから」と語源が説明されている。なるほどね。通信地域の単位だったんだ。辞書は引いてみるもんだね。

  この手のサスペンス・アクションものを見るのは実に久々。どうも意識して借りてこないといつまでもアメリカ映画を観ない日が続きそうだった。努力の甲斐あって(努力しないとアメリカ映画を観ない日が来ようとは!)最近は結構アメリカを映画見ている。「サイドウェイ」「五線譜のラブレター」「Mr.インクレディブル」「ネバーランド」「舞台よりすてきな生活」「マシニスト」「アビエイター」「エイプリルの七面鳥」。まとめると意外に多いので自分でも驚く。しかしエンターテインメント系となると4月9日の「ツイステッド」、1月21日の「コンフィデンス」くらいしか今年は見ていない。やっぱり異常だ。「ザ・インタープリター」、「バットマン・ビギンズ」、「宇宙戦争」が1週間レンタルになるまでにはしばらくかかりそうだから、間を埋めるために「ボーン・スプレマシー」と「ソウ」を観ることにしよう。「コラテラル」「コンスタンチン」「キングダム・オブ・ヘブン」「サハラ」はさっぱり食指が動かないしね。

  ぶつぶつ言っている間にまた前置きが長くなった。「セルラー」は意外にいい出来だった。売りは「手に汗握る超高速ノンストップ・サスペンス・スリラーの傑作」と相変わらずのワンパターン。いわゆる「ジェットコースター・ムービー」という奴だが、このところ「観覧車ムービー」ばかり見ていたので結構楽しめた。原案は「フォーン・ブース」のラリー・コーエン。電話つながりだが、「フォーン・ブース」は固定電話で身動きが取れないハラハラサスペンスだったので、「セルラー」は一転して動きが自由な携帯にしたということだろう。もっともジェシカ(キム・ベイシンガー)がかけているのは固定電話で文字通り身動きが取れないから、両方の電話をミックスしたとも言える。そういう意味では「フォーン・ブース」の発展形だ。昨日の「エイプリルの七面鳥」同様、二つのストーリーが同時進行する構成になっている。

  身動きが取れない人質と車で自由に動き回れる巻き込まれ男、その間をつなぐ携帯電話。設定はよく出来ている。なんで携帯につながった時点で着信履歴から住所をわりださないのかと疑問に思う人もいるだろうが、そうできない切羽詰った事情になっている。警察に行った時点でライアン(クリス・エヴァンス)の役割は本来終わるはずだった。しかし警察署内で騒ぎが起こって、結局警察に引き継げないままライアンが突っ走ることになる。ジェシカの子どもがさらわれ、次には夫が狙われる。ライアンにゆっくり警察で事情を説明している時間などなかった。無理のない設定がちゃんと作られている。もっともライアンが途中で降rashinban1りてしまえばそれまでなのだが。そもそも登場したときは軽薄そうな男だったのだから、おばさんからの電話なんか無視しておねえちゃんにまとわりついている方がよほど自然。ではあるが、そこから先の突っ込みはご法度。そういうものとして受け入れましょう。

  犯人グループも彼らの狙いも実際にありそうな設定になっている。あまり大風呂敷を広げないところはかえってリアルでいい。「24」のように荒唐無稽になってしまうと逆効果だ。サード・シーズン以降は馬鹿らしくて見る気もしない。いいのはファースト・シーズンだけだね。

  移動が自由だという携帯の最大の利点ばかりではなく、いちいち充電しないといけないとかトンネルの中では圏外になるといった欠点も十分ストーリーに生かされている。もっとも、トンネルで一旦つながらなくなっても、また外に出ればつながるじゃないかと疑問に思った。あるいは、なぜライアンは四六時中携帯を持っていないといけないのかという疑問を感じた人もいるだろう。後でよく考えてみたらちゃんと理屈に合っていた(考えている余裕を与えないのがジェットコースター・ムービー)。そもそもジェシカの電話が彼の携帯にかかったのは偶然である。したがって一旦通信が途切れると、次にかけ直したときは別の人につながってしまう。ライアンの携帯にまたつながる可能性はほとんどゼロに近い。だからジェシカはあれほど「携帯を切らないで」と懇願していたのだ。文字通り細い一本の線でつながっていたのである。なるほど、うまく出来てる。

  コメディ的要素もうまく取り入れられている。特に傑作なのはポルシェを盗られた男とウィリアム・H・メイシー演じる引退間近の警官。ピストルで脅して携帯の充電器を「買って」ゆく場面も面白い。特にウィリアム・H・メイシーは最初間抜けそうな感じで出てきながら(顔にパックをつけているシーンは傑作)最後には大活躍する。その変身振りはライアン以上である。なにせ27年間も発砲経験がないわりに、肝心なところでちゃんと弾があたるんだから。「ファーゴ」で有名になったが、僕には「ER」のモーゲンスタン部長のイメージの方が強い。映画よりテレビ向きの顔だもんね。

  最後にキム・ベイシンガーについて一言。「ナチュラル」、「ブロンディー」、「プレタポルテ」「LAコンフィデンシャル」、「8Mile」等々、結構観てきたのだがさっぱり印象の残らない女優だった。「L.A.コンフィデンシャル」でアカデミー賞を取ったそうだが、これすらほとんど印象がない。金髪美人というだけで、どこがいいのか分からないというのがこれまでの印象。覚えているのは相手役の男優ばかり。よほど個性のない女優なのだろう。容貌が衰えてすっかりおばさんになった今回の作品が一番記憶に残りそうだ。顔もほとんど覚えられなかったのだが、おばさん顔で記憶に残ることになる。

2005年11月11日 (金)

エイプリルの七面鳥

2003年 アメリカm000413fd
原題:April’s Pieces
監督、脚本:ピーター・ヘッジス
音楽:ステフィン・メリット
撮影:タミー・レイカー
出演:ケイティ・ホームズ、パトリシア・クラークソン
    デレク・ルーク、アリソン・ピル、ジョン・ギャラガーJr.
    オリバー・プラット、アリス・ドルモンド、 リリアス・ホワイト

  80分ほどの小品だがなかなかよく出来た映画である。アメリカ映画はハリウッドの大作よりも、低予算の映画にいいものがある。ヒット作の続き物や外国映画のアメリカ版などよりよほどいい。

  エイプリルは「四月」という意味ではなく、ヒロインの名前。毛を赤く染め、タトゥーを入れ、アヴリル・ラヴィーンばりに目の周りが黒くなっている。見た目は全くのパンク少女である。

  エイプリル(ケイティ・ホームズ)はニューヨークのスラム街にある小汚いアパートにボーイフレンドのボビー(デレク・ルーク)と二人で暮らしている。ボビーは黒人だ。彼女は小さい頃から家族となじめず、家を飛び出したのである。中でも、典型的な中流家庭の母親であるジョーイ(パトリシア・クラークソン)とは全くそりが合わない。しかし母親がガンで余命いくばくもないと聞いて手料理で家族全員を持て成す計画を立てた。ちょうど感謝祭の時期だったのでエイプリルは七面鳥の調理に初めて挑戦する・・・。

    映画はエイプリルが朝目覚めたときから家族と再会するまでの1日を描いている。いわゆる「心温まるホームドラマ」のカテゴリーに入る映画である。アメリカにはこのジャンルに秀作が多い。ファミリーに対する思い入れは日本よりよほど強いだろう。家族崩壊の現象が広がっているだけになおさら惹かれるものがあるのかもしれない。

  お得意のジャンルで他に傑作も多いとなれば、新手の工夫が必要である。親子の反目と和解、和解のきっかけとなる母親の不治の病という基本設定はありきたりのものだ。しかしこの映画は一日だけに時間を絞ることによって画面に差し迫った緊張感を与えている。家族との再会に心を弾ませ張り切るエイプリルを次から次へとトラブルが見舞う。一方、エイプリルに会いに行く家族たちには心の揺れがある(家族に散々迷惑をかけた不良娘に会ってもいやな思いをするだけではないか、引き返した方が良いのではないか)。特に、誰よりも娘に対して辛らつである母親の態度に不安がよぎる。多少ドタバタ調のエイプリルのエピソードと苦い笑いをこめた不安感みなぎる家族のエピソード、わずか80分の小品に異なる二つの味付けをした脚本の妙。この作品が成功したのは二つのドラマを同時進行させ、最後まで緊張感を持続させたところにある。料理などしたことのないエイプリルに家族を喜ばせるような料理が作れるのか、そもそも料理は間に合うのか、家族たちは本当に来るのか、彼らはエイプリルが料理に込めた「感謝」の気持ちを受け入れられるのか。最後まではらはらさせる展開が見事である。気が付くと観客はいつの間にか画面にのめり込んでいる。最後にこの二つのドラマは一つに合流し、お約束の「心温まる」エンディングへ。大枠は型どおりといえば型どおりだが、ドラマの進行と味付けに絶妙の工夫が見られ、ありきたりのホームドラマの枠を超えている。

  慣れない手つきでエイプリルは料理の準備をする。その手つきの不器用なこと。ナイフで指を切ったり散々苦労する。やっと七面鳥に具を詰めて後は焼くばかりとなるが、何とオーブンが故障。さっぱり熱くならない。あわてるエイプリル。アメリカ中がオーブンを使っているこの日に修理を頼むのはそもそも無理な話。頼りのボビーは身なりを整えるためにスーツを調達に出かけていていない。やむなく他の住民にオーブンを貸してほしいと頼んで回るが、どこも冷たい反応。実家に帰っていて留守のところ、いてもドアすら開けてくれないところが多い。やっと彼女に協力してくれたのは陽気な黒人の中年夫婦だった。七面鳥の詰め物やタレにレトルトばかり使っているエイプリルに、それじゃダメだと新鮮な食材を提供してくれる。

wm02b    オーブンを貸してくれたのは白人の若い男ウェイン(ショーン・ヘイズ)。しかし超が付く偏執狂でエイプリルは散々彼に振り回される。結局十分焼きあがらないうちに部屋から追い出される。困っているところに声をかけてくれたのは中国人の一家だった。一見冷たそうな人たちが実は親切な人たちだったという展開はアメリカ映画によく出てくる(例えば「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」)。これは偶然でも作り事でもない。東京のスラムで育った小板橋二郎の『ふるさとは貧民窟なりき』(ちくま文庫)という実に面白い本がある。一般のイメージとは逆に、彼が育った岩の坂というスラム街には「活気と治外法権的な自由な雰囲気があった」という。そして長じて各国を回った著者はニューヨークのハーレムにも同じ雰囲気を見出したという。いろいろなところに行ったが、別れる時いつまでも手を振って別れを惜しんでくれたのはスラムに住む人たちだけだったという話が印象的だ。

  スラム街のアパートは小さな社会である。そこに住む下層の人々を描きこむことによって、エイプリルのエピソードはぐっと豊かなものになった。住民の冷たい反応も描きつつ、作品に込められた共感はエイプリルの中流家族にではなく、これらの下層の人々に向けられている。エイプリルが中国人一家に語る「感謝祭」のいわれにも差別されてきたネイティヴ・アメリカン(インディアン)に対する共感がさりげなく込められている。いろんな人たちに助けられ、何とか家族を喜ばせる料理を作ろうと奮闘するエイプリルに「頑張れ」と声をかけたくなる。

  一方、エイプリルの家族のエピソードも朝から始まる。エイプリルの父ジムが目を覚ますと妻のジョーイがいない。思わずベッドの横を覗くところが滑稽だが、何とジョーイは早くも支度をして車に乗り込んでいた。こわばった冷たい顔で助手席にじっと座っているジョーイにはどことなく異様な雰囲気が漂っている。この出だしの描写が見事だ。どこか尋常でないジョーイの性格を的確に描き出している。出発前から不安な雲行きが漂っているのである。

 旅の車中でさらに不安が増幅してゆく。エイプリルの妹ベス(アリソン・ピル)と弟ティミー(ジョン・ギャラガー・ジュニア)の性格も車中の会話を通してあぶりだされる。ニューヨークに近づくに連れて不協和音が大きくなってくる。ジョーイは、エイプリルを少しもかわいいと思ったことがない、彼女の思い出はいやな思い出ばかりだと吐き捨てるように言う。必死で娘のフォローをする夫に促されて、一つだけいい思い出があると話し始めると、それは私よとベスが話の腰を折る。ついにはジョーイがあまりにひどいことを言うので、一緒に乗っていた祖母(少しぼけが入っている)が、「あなたは誰? あなたは私の娘じゃない。私の娘はそんな意地悪じゃなかった」と言ってそっぽを向く。こういうちょっとした台詞が実に効いている。

  ジョーイが途中で車を降りてしまったりと散々てこずった挙句やっとエイプリルのアパートの前に着いてみると、そこは薄汚れたスラム街で一家は尻込みする。そこへ折悪しくぼろぼろの服を着て血を流した黒人のボビーが戻ってくる(帰る途中でエイプリルの前の恋人に絡まれたのだ)。ボビーから家族が着いたと知らされてエイプリルが通りに下りてきてみると、そこに車はなかった。すっかり腰が引けているところにボビーに声をかけられた家族は逃げ出していたのだ。彼らはどこかのレストランに駆け込みほっとする。一方落胆したエイプリルは、階段を上りながら階段に沿って飾りつけておいた風船をひとつひとつ割ってゆく。ここの描写が悲しい。

  この絶望状態を救ったのは、なんと母親のジョーイである。彼女はレストランのトイレである出来事を目撃する。なぜその出来事がジョーイのかたくなな気持ちを変えたのか僕には正直ぴんとこなかった。恐らくそれは理屈ではないのだ。ジョーイが心の底に長い間押し込め封印していた何かが、この出来事をきっかけに一気に噴出したのだ。子育てで散々手を焼き苦労してきた母親だけに分かる、理屈を越えた思いが彼女の胸の中にあふれ出てきたのに違いない。エイプリルが長女なのはそういう意味で絶妙な設定だった。母親として一番未熟だったときの子なのだ。死を目前にした彼女の胸に去来したのは何か。それは彼女にしか分からない。だから彼女は夫にも子どもたちにも黙って、一人でレストランを抜け出し娘の元に駆けつけたのである。ある意味では、この場面こそ最も感動的な場面なのかもしれない。

  この映画は決して無理やり泣かせる演出をしていない。そこに好感が持てる。監督のピーター・ヘッジスは「ギルバート・グレイプ」の脚本家として知られる。本作の脚本も彼が書いている。随所に素晴らしいアイデアがこめられた見事な脚本である。

2005年11月10日 (木)

サマリア

2004年 韓国koke
監督、脚本:キム・ギドク
出演:クァク・チミン、ハン・ヨルム(ソ・ミンジョン)、イ・オル
    クォン・ヒョンミン オ・ヨン、イム・ギュノ、チョン・ユン
    イ・ジョンギル、シン・テッキ

   非社会性のみならず、この「情念と欲望」は「サマリア」を含
   めた3本の作品に共通している。「サマリア」では一転して
   都会が舞台だが、人間関係の薄さと欲望のテーマは援助
   交際(売春)というベッドの上だけの関係に引き継がれて
   いる。一方、親子という濃密な人間関係になると、娘と関
   係した男を父親が次々に殺してゆくという描かれ方になって
   ゆく。濃い人間関係が描かれたとたん、抑えがたい激情と
   不可分に結びついてしまう。

  「春夏秋冬そして春」批評の最後で上のように書いた。作品としては「サマリア」は「春夏秋冬そして春」よりも後退していると思う。「春夏秋冬そして春」では曲がりなりにも、従来の「情念と欲望」を最低限に抑制し、観念的で自己完結的ではあるが、主人公の苦悩と自己再生を美しい映像の中で描いていた。「サマリア」ではまたぞろ「情念と欲望」が復活し、人間関係はさらに薄く、人間理解はさらに観念的になっている。 「サマリア」は売春を題材にしてはいるが、その問題を社会問題として扱うという視点はもとよりギドクにはないし、望むべくもない。それはそれでいい。下手に社会問題を取り上げても、相当深く社会の矛盾に切り込まない限り、お定まりの映画で終わってしまう。疑問点はむしろ二人の少女たちの描き方、ヨジンの父親の描き方、そしてヨジンと父親の関係の描き方にある。

  チェヨンはヨーロッパ旅行の旅費を得るために売春を続けている。動機は軽すぎるが、実際そんなものだろう。チェヨンの描き方で一番違和感があるのは終始笑顔でいることと売春相手と人間的な関係を求める点である。ヨジンを除いて彼女の家族や身近な人物などは一切描かれず、真に人間的関係を結ぶに値するのは金のためにベッドを共にする見知らぬ男たちだけであるという描き方。ここに既にギドク的感覚が露わに出ている。だが、チェヨンが一番心を引かれていた男ですら、チェヨンなど死のうがどうなろうがどうでもいいと思っている男である。チェヨンにモナリザの様な微笑を与えたところでこの関係に何の変わりはない。謎の微笑みに何の意味もない。

  ヨジンは売春を汚いものと思っており、たびたびチェヨンに売春を止めさせようとしている。しかしチェヨンが死んだとたん、一転してチェヨンの罪滅ぼしと称して自ら男に体を売り、金を取るのではなくチェヨンの金を返すという行為を始める。相当無理がある設定である。罪滅ぼしというなら金だけ返せばいい。自分が同じ売春行為をすることが罪滅ぼしなら、チェヨンと一緒に売春をしなかったことを反省していることになる。男たちにとっては若い女と寝られて金まで返してもらえるのだから棚からぼた餅、やり得である。仮に何らかの精神的安らぎをヨジンが得たとしても、それは彼女の一人合点に過ぎない。

  要するにギドクは、それまでセックスと欲望を人間の本源的本性であるかのごとく描いてきたが、ここではさらに踏み込んで、あるいは踏み外して、セックスと欲望を何らかの浄化作用があるものにまで称揚している。まるで極楽への道だといわんばかりだ。チェヨンもヨジンも男たちもベッドを通じて文字通り昇天したのである。

  どのホームページやブログを観ても誰一人この描き方に疑問を投げかけたものはいない。まるで当然のごとく、いや常人の理解を超えた素晴らしい人間理解であるかのごとく、無批判的に受け入れている。海外の映画祭で賞を取り、内外で高く評価されているのだから、よく分からないけど素晴らしいに違いない。本当にそれでいいのか?

  ヨジンの父親ヨンギの描き方も疑問だらけだ。最初に「親子という濃密な人間関係」と書いたが、濃密ではあっても対話はない。一緒に食事をする場面は描かれるが、どこかよそよそしさがある。ヨンギは娘が売春をしていることに気付いても、娘には何も言わない。ただ相手の男たちを殺すか追い詰めるだけだ。世代の断絶となどというものではない。最初から言012葉による相互理解の可能性を放棄している。口で説得してもどうぜ通じやしないから、行動で示すのだ。言葉ではなく、パトカーで連れ去られる父親の背中が示す無言のメッセージを受け取れと。それはそれでもいい。問題は彼の「行為」だ。警察官として売春を取り締まっているときは法を守るが、個人の怒りは法を超えるというのか。彼が目撃した場面は男が無理やり自分の娘を押し倒して強姦している場面ではない。娘がモーテルで男とむつまじく話している場面だ。しかし彼の怒りは娘には向かない。男に向かう。警察官であれば、人一倍売春を許せないという気持ちは理解できる。だが、それで人を殺すことを正当化できるのか。いや、あんなのは比喩に過ぎない。彼の怒りと絶望を暗示するシンボリックな行為なのだ。別に映画なのだから本当に人が死ぬわけではない。衝撃的な効果が得られればそれで良いじゃないか。こう考えるのだろうか。だとすれば、やはり作り物だ。鬼面人を驚かす見世物に過ぎない。「魚と寝る女」の自傷行為と同じだ。

  ヨジンと父親が二人で母親の墓参りに行くあたりからラストまでは「春夏秋冬そして春」に近い雰囲気がまた漂いだす。美しい風景。しかしやはり人間は少ない。魂の浄化を描こうとすると、必ずギドクは人里はなれた空間を必要とする。徹頭徹尾社会を避け、人間関係は薄く、決して踏み込まない。母親の墓(何であんな山の中にあるんだ?)を見舞っても、何も話さずただ寿司を食らうだけだ。唯一親子の結びつきを暗示するのは、車が溝にはまって進めなくなったときだ。父はすぐあきらめるが、代わりに娘が石をどかして溝から車を脱出させる。これも言葉ではなく行為によって示されている。

  川辺に車を停めて娘に車の運転を教えるところはこの作品中もっとも印象的な場面だ。素晴らしい場面だといってもいい。相変わらず美しい風景だが、そこはギドク、ただただ美しくは描かない。ヨンギが娘の首を絞めて殺し、川辺に埋めるシーンが差し挟まれる。もちろん幻想シーンなのだが、この程度ならごく普通の描き方で何の違和感もない。パトカーに乗せられ去ってゆく父親を、運転を習ったばかりの娘が車で追いかけるシーンもよく出来ている。無言の行為に込めた父親の心情。こう書くと「親父の背中」のような心温まるものに思えるが、無論そんなものではない。その行為の元にある父親の行為と娘の行為に根本的な疑問がある以上、手放しで褒めるわけには行かない。

  第1部のテーマは体を売る行為を通じて男たちに仏教の教えを伝えたパスミルダ。第2部のテーマは罪を償い信心深く生きたサマリア人の女性。第3部の「ソナタ」は鎮魂の章だ。宗教的テーマやアリュージョンを描くことは、作品を抽象的、観念的にしてしまうきらいはあるが、必ずしも否定すべきことではない。だがここでは、不条理な設定を覆い隠す隠れ蓑の様な役割を負わされている気がする。枠組みがそうなっていれば何となく納得させられてしまう。パスミルダのたとえを持ち出されると、ヨジンの体を売る行為を肯定できそうな気がしてくる。実際、ヨジンは男とベッドを共にするに連れてどこかすっきりした、憑き物が取れたような表情になってゆくではないか。顔中血まみれになってゆく父親とは反対に。父と娘を対比させることによって、キム・ギドクは現代人の孤独と魂の彷徨を描いているのだと。

  しかしこの描き方には無理があり、説得力に欠ける。どうやらギドクは娘の売春行為を「罪」と捕らえている。これがそもそも観念的なのだ。なぜならこの場合の「罪」は刑法上の罪ではなく、より抽象的な、多分に宗教的な意味を含んだ「罪」だからである。だからパスミルダやサマリア人という宗教的な枠組みが必要なのである。この枠組みは必然なのだ。売春行為に対するギドクのアプローチは当然ながら社会的なものではなく、宗教的なアプローチだった。ここでの「罪」の捉え方は、「春夏秋冬そして春」で少年が生き物を殺して背負った「業」の捉え方に近いといえるかもしれない(少年が魚や蛇や蛙を殺したことは明らかに刑法上の罪には当たらない)。そう考えればヨジンが「罪滅ぼしに」男と寝る行為は、「春夏秋冬そして春」の少年が大人になって自分の体に石を縛りつけて山の頂上に仏像を運び上げる苦行と同質の行為だということが分かる。しかし後者の場合は男が自分ひとりで行う自己完結的な修行だったから破綻はなかったが、ヨジンの場合は彼女一人の自己完結的行為では納まらない。なぜなら彼女の行為は社会的行為だったからだ。相手の男がおり、父親にも影響を及ぼしている。結局相手の男の何人かが殺されまた自殺し、父親は殺人犯になる。「春夏秋冬そして春」の世界は、まるで試験管の中の世界のように、閉じられた自己完結的世界だった。人里離れた世界という意味でも、輪廻という円環構造の世界という意味でも。しかし一歩社会の中に出て行ったとき閉じられた輪は破れ破綻してしまう。

  第3部に宗教色のない「ソナタ」というタイトルがつけられているのは、単に3部作という意味だけではないだろう。もはや宗教の枠に収まりきらないからであると考えられる。宗教という枠を断ち切ったのは、ギドクをギドクたらしめている要素の一つ、激烈な「情念」である。第3部では父親が主人公になる。そこではまたぞろ「激情」が爆発するのだ。しかし一通り懲罰行為を繰り返して「激情」が収まると、素直に自分から自首する。押し込められていた黒いマグマが一気に噴出して、すべて出し切った後で「鎮魂」へと向かう。どうやらギドクという男の中で、「反省」して悔い改める気持ちと「激情」がせめぎあっているようだ。その心の揺れがそのまま「サマリア」に表れているように思える。最後にちょっとよろめいたが、何とか姿勢を保った。娘の首を絞めるのをかろうじて幻想にとどめた。しかしたまっていた黒いマグマは吐き出したが、マグマを生む「根」はまだ残っているに違いない。ちょっと気を抜くとまた封印がはずれて、どす黒いマグマが噴き上げてきそうだ。

  「サマリア」でギドクは山を降り、里に出てきた。当然作品に社会が入り込む。しかしそれはきわめて限定され歪められた形で取り入れられている。歪められた人間関係は押さえ込まれていた情念を噴き出させる起爆剤となる。これを、「春夏秋冬そして春」の閉じられた世界から一歩踏み出し、より複雑で不可解な人間の本性を描きこんだとして評価すべきだろうか?いや、それにしては人間の捉え方は一面的で、説得力に欠ける。むしろ人間と社会の関係に対するギドクのどこか歪んで観念的な捉え方が露わになった作品だと捉えるべきではないか。
 (2005年11月16日加筆訂正)

2005年11月 7日 (月)

春夏秋冬そして春

2003年 韓国・ドイツ07150011
監督、脚本:キム・ギドク
撮影:ペク・ドンヒョン
出演:キム・ギドク、オ・ヨンス、キム・ジョンホ、キム・ヨンミン
    ソ・ジェギョン、ハ・ヨジン

  キム・ギドクの作品で最初に観たのは「魚と寝る女」である。キネマ旬報で上位に入った映画だが、少しも良いとは思わなかった。要するにかつての「芸術派」ポルノ映画の韓国版だ。この手の映画作家には確かに才能を思わせる一面はある。湖の上に浮かべた小屋付き釣りいかだの不思議な映像と存在感。バイクに縛り付けられて水に沈んでゆく娼婦。その後に続く水中を覗くヒロインの顔。これは確かに衝撃的な映像だ。水中に顔を差し入れる様子を水中から撮っている。顔の周りに髪の毛が広がり、さながらゴルゴンを思わせる。

  このようにいくつかの場面で才能を感じさせるが、全体としてみれば、限定された空間で繰り広げられる単なる情念の世界である。ヒロインが言葉を話せないことが、何よりこれが情念だけの世界であることを物語っている。社会的広がりを一切切り捨て、まるで湖に浮かぶ売春宿のような人間の下卑た欲望が絡まる世界を描こうとしている。この手の作品は映画、小説などのジャンルを問わず、このような人間の情念や欲望が人間性の本質であるかのごとく描き出す。ひたすら情念の激しさを追う。男が自分の喉に釣り針を引っ掛け力ずくで引きちぎる場面、同様に女が自分の陰部に釣り針を引っ掛け力ずくで引きちぎる場面。何の必然性もなく、ただ情念の強さを示すためだけに付け加えられた場面だ。

  「春夏秋冬そして春」もそうだが、無理やり限定された人工的な空間を作りその外の世界を一切描こうとしない。外部の人間はただやってきてまた去ってゆくだけだ。限定された架空の時空間、作り物の空間である。「春夏秋冬そして春」で大きく作風が変わったように見えるが、その後に見た「サマリア」も含めて、社会性を絶ち、限定された世界の中でのみ人間を描くという点は一貫している。

   「春夏秋冬そして春」は「自分の激情的すぎた生き方の反省を込めて撮った」という作品。確かに「魚と寝る女」より断然できはいい。設定は「魚と寝る女」とよく似ている。湖の上に浮かぶ寺が舞台。この設定がまず似ている。人里はなれた場所に舞台を限定しており、登場人物も同じように少ない。「魚と寝る女」は情念の世界だったが、こちらは観念の世界。深い共感が生まれないのはそのせいだ。仏教の思想をうまく取り入れてはいるが、どこか現実離れした観念の世界であるという印象はぬぐえない。

  山奥の湖に浮かぶ寺で老僧と2人で暮らしている少年は、蛙と魚と蛇に石を結びつけるという無邪気ないたずらをして生き物を殺したことから、一生の業を背負ってしまう。この設定自体が既に観念的だ。少年はその寺で青年に成長する。ある時病気がちの娘が病気を治そうと寺にやって来る。青年はその娘に引かれ、修行僧であるにもかかわらず娘と何度もセックスをする。このあたりの欲望の描き方はいかにもキム・ギドク的だ。やがて病気の直った娘は寺を出てゆく(お祈りよりセックスの方が効果的だと言いたげだ)。青年も娘への欲望を断ち切れず、娘の後を追ってこっそり寺を出て行く。このあたりもいかにもキム・ギドクらしい展開だ。「魚と寝る女」よりは抑えられているが、まるで性欲が人間の本質であるかのように描いている点では同じだ。

moon25   やがて青年はその女が別の男を好きになったという理由でその女を殺して、また寺に逃げ戻ってくる。髪を伸ばし、すぐカッとなる粗暴な男に変わっている。後から2人の刑事が彼を追って寺にやってくる。老僧は寺の床に般若心経の文句を書き、青年にそれをなぞって彫るよう命ずる。夜明けに経文を彫り終えた青年は刑事に連れられて去ってゆく。このあたりはなかなかいい場面だ。しかし、その後老僧は船に火をつけて自殺する。これがまったく理解しがたい。なぜ自殺する必要があるのか。何の説明もない。ただストーリーの展開上必要だったからという以上に理由はない。

  それから何年か後、男はまた寺に戻ってくる。既に中年になっている。湖面が凍りついた湖の上で男は一人修行に励む。魚や蛙にしたように自分の体に大きな石をくくりつけ、山の頂上まで仏像を運びあげる。氷が少し解けかけた頃、顔をスカーフの様なものですっぽり覆って隠している女が赤ん坊をかかえて寺にやってくる。赤ん坊を寺に置き去りにして女は夜寺から逃げ出す。しかし女は、男が氷にあけた穴に誤って落ちて凍死してしまう。男は子供を引き取り育てる。やがて子供は大きくなり、無邪気ないたずらを始める。その子供は最初の子供と同じ子役が演じている。輪廻のように同じことが繰り返されようとしている。

  最後はまるで手塚の「火の鳥」のようだ。どうもどこをとってもどこかから借りてきたような印象を受ける。映像は耽美的で見事ではあるが、どこか薄っぺらな印象がぬぐいきれない。なぜこの二つの作品は同じように人里はなれた場所を舞台に設定しているのか。この設定自体が極めて人工的だ。老僧も少年も名前がない。「魚と寝る女」では女に言葉がない。これも何かの表れである。「魚と寝る女」は情念の世界だから言葉はいらなかった。ストーリーも状況設定も情念だけが渦巻くまったくの不条理の世界だった。「春夏秋冬そして春」は輪廻の世界だから個人の名前は意味を持たない。ただ人間が入れ替わり同じことが繰り返されるだけだ。やがてこの新しい少年も成長して女を追って寺を出てゆき、男は自殺するのだろう。人間は不完全な生き物で、欲望に駆られて罪を犯し、そうなって初めて、つまり自分の肩にのしかかっている業の深さを悟って初めて、真の意味で人間として成長し始める。そう言いたいのだろうが、やはりどこか観念的だ。

  本人は反省したと言ってはいるが、人間を見る目は根本的に変わっているのか。「春夏秋冬そして春」は「魚と寝る女」とかなり違う作品に見えるが、後者の「情念と欲望」が「業」に変わっただけのようにも思える。これほどの修行を積まなければ人間はその「業」を抑えられない。逆に言えばそれほど人間の不条理に満ちた「情念と欲望」は激しいものだということである。冒頭に挙げた非社会性のみならず、この「情念と欲望」は「サマリア」を含めた3本の作品に共通している。「サマリア」では一転して都会が舞台だが、人間関係の薄さと欲望のテーマは援助交際(売春)というベッドの上だけの関係に引き継がれている。一方、親子という濃密な人間関係になると、娘と関係した男を父親が次々に殺してゆくという描かれ方になってゆく。濃い人間関係が描かれたとたん、抑えがたい激情と不可分に結びついてしまう。やはりギドクはギドクなのだ。この先の詳しい分析は「サマリア」論に譲る。

2005年11月 6日 (日)

寄せ集め映画短評集 その11

 在庫一掃セール第11弾。今回は各国映画7連発。そろそろ在庫も底をついてきました。後3回くらいで打ち止めです。

「コールド・マウンテン」(2003年、アンソニー・ミンゲラ監督、アメリカ)
   2時間半の大作。時代は南北戦争時代。コールド・マウンテンは主人公たちが住んでいる土地の名前。アンソニー・ミンゲラの演出はかなり粘着質で、脱走兵(ジュード・moon39ロウ)が帰途の旅で出会う出来事と彼を待つ女性エイダ(ニコール・キッドマン)が経験する数々の苦難をしつこく描いている。再会までの互いの苦労をきちんと描きこまないと成り立たないストーリーになっているからだ。南軍の兵士インマンをジュード・ロウが好演。必ず生きて返ると誓った女性のために、脱走して、500キロの道のりを歩きとおす。一途な思いを貫き通す寡黙な男を凛々しく演じている。
  ニコール・キッドマンもいい。最初に登場したときはまだ10代という設定だと思われるが、実際そんな風に見えた。男が全員振り返るような美人だ。しかし戦争が始まってすぐ父親が死んでしまう。収入がなくなり落ちぶれてゆく。最初の上流のお嬢様という佇まいから、髪を振り乱し、なりふり構わない状態に変わってゆく。それを見かねた近所の女性が手伝いの女性を紹介する。そのルビーを演じるのがレニー・ゼルウィガーである。アカデミー助演女優賞を獲得しただけあってなかなかの力演。ベット・ミドラーが演じると合いそうな役柄で、下品で粗野だがたくましい生活力と生きるための知識を持っている女性だ。ルビーのおかげでエイダは次第にたくましく変わってゆく。役に立つことは何もしてはいけないというお嬢さん教育を受けてきたエイダが、鍬やショットガンが似合う女性に変貌してゆく。
  インマンはついにコールド・マウンテンに着き、エイダとの再会を果たす。しかし再会したのもつかの間。以前からエイダの土地を狙っていて、また脱走兵狩りをしている男たちにエイダとルビーが襲われる。それを助けたインマンは、逃げた最後の一人を追うが、相打ちとなりあっけなく死んでしまう。しかしその前日にエイダと一夜を共にしたときエイダは娘を身ごもっていた。最後の場面は数年後に飛ぶ。エイダの娘は無事成長しており、ルビー(打ち合いのとき撃たれたが致命傷ではなかったようだ)も結婚して夫と娘と父親に囲まれている。平和で幸せな光景である。
  南北戦争というアメリカ最大の国難の時代を背景にしているが、基本は恋愛劇である。時代と恋愛が十分結び付けられていない感じがした。主演3人の好演は光るがどこか物足りない。

「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年、ジョエル・シュマッカー監督、アメリカ)
  体から怒りが噴出す思いで観た。傑作である。
  麻薬犯罪を容赦なく追及したために麻薬組織に殺されたアイルランドの女性ジャーナリストを描いた映画。実話に基づいている。実際のヴェロニカは美人ではないし結構年も取っている。ジャーナリストとして賞を受けたときのスピーチの様子が付録映像としてDVDに入っているが、イブニング・ドレスが似合わないこと。まるでJ.K.ローリングと同じだ。しかしそのスピーチの中で法律の不備を指摘するあたりはいかにも彼女らしい。ケイト・ブランシェットがヴェロニカ役を演じているが、ずっと美人だし若い。しかし映画だからいいだろう。
  実際ケイト・ブランシェットは見事な演技だった。脅されて内心怯えるが、それを表には出さない。そのあたりをケイト・ブランシェットはうまく演じている。麻薬組織の黒幕を演じたジェラルド・マクソーレイもすごみがある。アイルランドの名優だそうだ。オーストラリア出身のケイト・ブランシェット以外はアイルランドの俳優を使い、アイルランドでロケをした。スタッフもアメリカ人である監督のジョエル・シュマッカーと製作のジェリー・ブラッカイマー以外はアイルランド人だ。このこだわりが映画にリアリティを与えている。
  ヴェロニカの死は大きな世論を巻き起こし、政府の麻薬に対する対応は大幅に進んだそうである。彼女の死が無駄にならなかったことを知ってほっとした。キネ旬のベストテンでは選外。ストレートな題材なので高く評価されないのだろうが、だとすればその考え方こそ間違っている。昨年公開映画の収穫の一つだ。

「ラブストーリー」(2003年、クァク・ジェヨン監督、韓国)
  文字通り絵に書いたようなラブストーリーで、いまどきこんな映画を作るのは韓国以外にない。考えてみれば、今では死語になった「清純派女優」がいなければ成り立たないジャンルだ。チェ・ジウ、シム・ウナの様な女優は日本では死に絶えた。もっとも、「猟奇的な彼女」のような映画もあるが、あれはあくまで例外。最近韓国のテレビドラマを意識したドラマが日本でも作られるようになってきたが、「清純派女優」がいないのだから同じものが出来るはずもない。
neko   「ラブストーリー」のストーリーはどこか「リメンバー・ミー」と似ている。「リメンバー・ミー」はありえない設定の上に成り立っているが、こちらは一応ありえる設定になっている。昔父親が母親にあてて書いた手紙を(実は代筆)娘が見てしまう。そこから母親の過去の恋愛が回想されるという「マディソン郡の橋」のような設定になっている。娘と母親はソン・イェジンの二役だ。彼女の清楚な佇まいは、日本では絶滅種だけにどこか懐かしい感じがする。昔の日本映画を見ているような錯覚をおこしそうになる。彼女だけではない。障子のある建物、黒い学生服、日本の70年代を思わせる音楽。字幕でなく吹き替えだったらまったく日本映画と変わらない。親の世代なので、男女の付き合いもおずおずとしたものだ。これも昔の日本と同じ。ただ、ベトナム戦争が出てくるところが日本と違う。
  描き方はラブ・ロマンスの典型だ。雨に降られて雨宿り、恋文の代筆、列車での別れ、形見のペンダント。虹やホタル、お化け屋敷。これでもかとばかりラブ・ロマンスの常套手段が繰り出される。これだけ臆面もなくやられるとさすがに食傷気味になる。お約束の泣かせる設定も用意されているが、さすがに泣けなかった。「シュリ」や「ラストプレゼント」と同じで、あまりに泣かせてやるぞという意図が見え見えでかえって興醒めになる。だから「イルマーレ」のような寒々とした画面と不思議な状況設定、「八月のクリスマス」のようなあっさりとした別れ、あるいは「猟奇的な彼女」のような破天荒なヒロインが必要なのである。
  まあ、ヒロインは美人だし、若い頃誰でもあこがれる話なので惹かれるものはあるし後味も悪くはない。ただ、これだけ甘すぎる味付けをされたのではさすがにげんなりだ。

「犯罪河岸」(1947年、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督、フランス)
  期待したのとは大分違う映画だった。もっと暗く不気味な映画かと思っていた。しかしストーリーは日本のテレビドラマによくあるような設定だった。演出も切れがいいというより、多弁でゆったりとした展開。一番期待と違っていたのはルイ・ジューヴェだ。確かにうまい役者だが、ここではよくしゃべるおっさんという感じで、期待したような凄みを発揮してはいなかった。彼の出演する映画に駄作はないと思っていたが、ちょっと自信が揺らいだ。
  主演はベルナール・ブリエ。懐かしい。観終わった後にキャストを確認するまで彼だとは思わなかった。もう何十年も彼を見ていなかったので、大分顔の印象が薄れていたようだ。だが、わかってみれば確かに彼だ。
  タイトルから来る印象と違っていたので、正直戸惑いがあった。デュヴィヴィエの「モンパルナスの夜」のような犯罪映画かと思っていた。ベルナール・ブリエが妻の浮気相手を殺そうと思って男の家に行くと、既にその男は殺されていた。一方彼の妻は自分がその男を殴って殺したと女友達に打ち明けている。ベルナール・ブリエが容疑者として掴まると、妻は自分が殺したと告白し、またその女友達も彼女をかばおうとして自分が殴ったと警察に話す。しかし真犯人は別にいた。まさに夜9時からのテレビのサスペンスドラマそのものだ。真犯人に少しずつ近づいてゆく展開ではなく、最後にばたばたと片がつく。どうも今ひとつ面白くない。この手の映画はやはりアメリカ映画の方が作るのはうまい。フランス映画はそれに対してフランスならではの味つけをする。それがこの映画にはあまり無かった。実はそれが一番物足りないところなのかもしれない。

「ハリウッド・ホンコン」(2001年、フルーツ・チャン監督、香港・仏・日)
  主演の女優が「小さな中国のお針子」と同じ女優だとは観終わるまで気がつかなかった。かなりの美人に写っていた。映画はあまり出来がいいとはいえない。香港の貧民街。背景にはハリウッドという名の同じ形をした5つの高層ビルが立ち並んでいる。その貧民街に似つかわしくない美女が出没する。何が目的かなかなか分からない。彼女は何人かの男たちを誘惑してはセックスをする。一人は風俗店を営業する若いやさ男。豚肉を売る一家は男ばかり三人家族で、いずれも豚のように太っている。その三人とも謎の女と親しくなる。親父と長男は娘とセックスする。下の息子はまだ小学生くらいで、もちろん肉体関係はない。彼女もこの子とは素直に友達になれる。
  実は、彼女が男たちを誘惑してセックスをした後、怖い組織から金を払えという脅迫状が届くという仕組みになっているのだ。風俗店を営む若い男は金を払うことを拒否したため、男たちに襲われ右手を切断される。幸い切られた右手が発見されたのでつないでもらったが、それは別の人物の手でしかも左手だった。彼は復讐のため豚肉屋の長男とともに女の住む高層ビル「ハリウッド」に乗り込むが、豚肉屋の下の息子が知らせたために彼女は難を逃れた。最後に本物のハリウッドにいる彼女が映し出される。
  香港の貧民街の様子がよく描かれて入るが、全体がエンターテインメント仕立てになっている。なぜ彼女がこのような仕事にかかわっているのか最後までわからない。ただ、アメリカ行きにあこがれていることが分かるだけだ。男の子とは親しくしながらも、平気でその父親や兄とセックスをして罠にはめる彼女の心理もほとんど描かれない。まあ、難しいことを言わずに楽しめばいいって事か。香港映画なのだから。

「ヴァキューミング」(2001年、ダニー・ボイル監督、イギリスTVドラマ)
  ダニー・ボイル監督はイギリスで「シャロウ・グレイブ」と「トレイン・スポッティング」 を撮った後アメリカに渡った。アメリカで「普通じゃない」「ザ・ビーチ」「28日後...」を撮ったが、惨めな結果に終わる。完全に失速していた。しかし 「ザ・ビーチ」と「28日後...」の間に、イギリスに戻ってBBCで撮ったこの作品ではあの毒気と疾走感がだいぶ戻ってきた。
  主演はティモシー・スポール。「ラスト・サムライ」でカメラマン役を演じたあの太ったおっちゃんだが、イギリス映画の常連で「秘密と嘘」にも出ている。 しかし何といっても印象的なのはマイク・リー監督の「人生は、時々晴れ」で演じたタクシー運転手役。だらしないイギリスの中年男を演じさせたらこれ以上ないほどうってつけの役者だ。
  その彼が「ヴァキューミング」では一転して、日本人真っ青の猛烈サラリーマンに扮している。主人公トミーは電気掃除機の販売員で、完全な仕事人間。どうやら独身だ。移動時間も惜しいとばかり車を爆走させ、客に口を挟む余裕を与えず歯をむき出して一方的にしゃべり倒す。売っているのはどでかい掃除機だが、とても持てそうもない老人夫婦にも平気で売りつける。
  折りしも年間売り上げコンテストの締め切りが迫っている。優勝すると掃除機をかたどった金のトロフィーがもらえる。彼の売込みにもいっそう力が入る。そんな時売れないDJの卵ピートが転職してきて、ベテランの彼と一緒に顧客回りをさせられる。この若者は意外にまともで、借金だらけの主婦に無理やり売りつけた掃除機を、後で考え直して引き取ってくる。その帰りに数人の暴漢に襲われ掃除機を奪われてしまう。この1台 が結局あだとなってトミーは年間売り上げコンテストで2位になってしまう。1位との差は1台だったのだ。優勝は間違いないと思い込んでいたトミーはパーティーで踊り騒ぐ同僚たちから離れ、一人寂しnekoくふらふらと海岸まで歩いてゆく。絶望の果てに砂浜に仰向けに倒れ伏す彼に波が静かに打ち寄せる。
  ラストは何のひねりもなく物足りないが、作品の出来は「シャロウ・グレイブ」や「トレイン・スポッティング」のレベルに迫っている。アメリカでは力を発揮できなかったボイルだが、イギリスに帰って作った本作では彼本来の持ち味がよみがえっている。今後も甘いハリウッドの誘いには目を向けず、本国で創作を続けてほしいと思った。

「美しい夏キリシマ」(2002年、黒木和雄監督)
  キネマ旬報とシネ・フロントの両ベストテンで1位になった作品。期待したほどではなかったが、なかなかの佳作である。戦争末期から終戦までの田舎の日常を描いている。黒木和雄監督の実体験にフィクションを織り交ぜたもの。黒木監督は地元で13番目といわれる地主の息子で、そのため戦争中であるにもかかわらず意外に優雅な生活をしていたようだ。確かに空襲や勤労動員、軍事訓練などはあっただろうが、案外戦争中でも日常はのんびりした生活があったのかもしれない。ましてや地主一家の生活ともなればなおさらだ。もちろん本土決戦に備えて17万人もの兵隊が九州の田舎の町に駐留していたわけだから、夫をなくした妻が軍人に体を任せ食料などをもらっていたり、兵隊が夜食糧を盗みに入ったり、姉が片足を失った元兵士と結婚したりといった戦時中ならではのエピソードも出てくる。しかしグラマンの機影が映されても爆撃や機銃掃射の場面などは出てこない。全体にのんびりした雰囲気が漂っている映画だ。もう一つ手ごたえを感じなかったのはそのあたりに原因があるのだろう。
   そののんびりした中で、一つテーマとなって貫かれているのは、主人公の少年(柄本明の息子柄本佑が演じている)の胸に傷として残っている思いだ。敵に襲われたとき友人を置き去りにして自分だけ逃げてしまったという思いである。しかしそれも必ずしも少年の内面にまで深く入り込んで追求されているわけではない。
  戦時中の日常をリアルに描くことは重要なテーマである。その描き方は当時子どもであった場合と大人であった場合、男であった場合と女であった場合とでは違っているはずだ。当然地主の息子から見た世界と小作人の息子から見た世界も違っているはずである。どの視点からでなければいけないというわけではないが、この視点の問題は重要である。戦時中の意外にのんびりした生活を描くというのは、ある意味でステレオタイプを破ることで、意味のあることだ。ただそれももう一つ突込みが足りない物足りなさが残る。
  それはどこから来るのか。どうやら全体がパノラマ的でもう一つ作品に芯がないことに理由がありそうだ。少年の眼から見た視点がもっと一貫してあってよかったのではないか。もちろんその場合一定の限界がある。視野の狭さと少年であるがゆえの理解力不足である。当時の生活を広く捉えるためには視点を広げる必要があるが、その基本にはやはり一貫した視点が必要だ。この二つが融合して芯がありつつ広い視点も含みうる作品が出来る。まあこれは理屈だが、それにしてももう一つ手ごたえがなかったのは確かだ。戦後60年近くたってから撮った映画であるため、散漫になってしまったのかもしれない。霧島の美しい風景が見事にとらえられているだけに、その点が惜しい。
  実は、作品そのものよりも感動したのは監督自身と映画評論家の佐藤忠男が音声解説をつけた特典映像である。これは実によく出来ている。2人はほぼ同じ世代で、したがってかなり共通する体験をしているために、実に豊富なエピソードや舞台裏の話が聞ける。これほど充実した音声解説は珍しい。全部通しで観たわけではないが、いろんなことを教えられた。撮影は地元の市民のボランティアによる支えがあったようだ。実際に黒木監督が住んでいた家を当時のままによみがえらせて撮影したという。実に立派な屋敷である。牧瀬里穂が演じた主人公のハイカラな叔母は、実際当時でももんぺをはかずドレスにハイヒールという服装を通した人だったという。地主の娘だから出来たこととはいえ、相当に意志の強い人だったのだろう。当時の黒木少年の目には叔母の姿が実にまぶしく映ったそうだ。

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