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2005年10月16日 - 2005年10月22日

2005年10月22日 (土)

寄せ集め映画短評集 その10

在庫一掃セール第10弾。今回は日・韓・中アジア映画6連発。

スウィングガールズ(2004年、矢口史靖監督)
cut-cup01   いやあ、これは楽しめました。まだ頭の中で「ムーンライト・セレナーデ」のメロディが鳴っている。ストーリーは3、4行でまとめられる程度の単純明瞭な話。あとは小ネタやギャグでつなぐ。そんな作りの映画である。だからもっと練習風景を描いてほしかったとか、家族が娘の上達振りに驚きながら熱心に応援するようなシーンも見たかった、というようなプチ不満も出てくるわけだ。実際僕も友子(上野樹里)たち数人がスーパーか何かの前で演奏しているのを見て仲間たちがあわてて楽器を買いに走り、ぴかぴかの楽器を手に演奏に加わるシーンを見て、それまで練習に参加していなかったのに何で同じようにうまく演奏できるんだよと突っ込みを入れたくなった。あるいは、友子が演奏風景を撮ったテープを出し遅れたために音楽祭に出場できなくなるが、雪で出演予定の高校がキャンセルになり友子のビッグバンドが出場できるようになる、しかし友子たちの乗った電車も止まってしまいぎりぎり音楽祭に間に合うという展開も、さながらハリウッド映画の様な「劇的な」効果を狙った、つまり受け狙いの演出だと言わざるを得ない。確かに「つっこみどころ満載」の映画なのだ。
  しかし、スウィングする楽しさという理屈を超えた要素がこの映画の一番の魅力なのである。ラストの演奏は素人の演奏にしては十分楽しめる。演奏の水準はともかく、うねるスウィング感、弾むリズムと体、女の子が身をくねらせ演奏する視覚的効果、なかなかのものである。ジャズはおじさんがしんねりむっつり楽しむものという一般的イメージを思い切り突き崩してゆく快感、女子高生がジャズをやるという意外性、おじさんの音楽と若い世代のギャップを突き崩す爽快感。難しいことを言わずに楽しめばいいじゃん、そんな単純明快さがストレートに伝わってくる。
  もちろん、演奏そのものばかりではなくドラマの部分、例えば友子たちがスウィング・ジャズの魅力に徐々にはまってゆくところも見所なのだが、先に書いたようにあまりにあっさり変わってしまうので、その点では少々不満が残る。友子たちが苦しんだりめげたりしつつ徐々に上達してゆく様子をあえて描こうとしなかったのは、それを描くと映画の性格が変わってしまうと思ったからだろう。俺が描きたいのは「巨人の星」のような「スポこん映画」ではない。若いギャルがとにかく元気にはじけてる、はじけすぎてすっ転んだり、火にかけた餃子にアルコールをぶっ掛けてスプリンクラーを作動させてしまったりするドタバタのコメディなんだということだろう。そのためには少々話がちぐはぐになってもいい、そんなことなど気にならないような面白い映画にすればいいというわけだ。
  確かに少々気になることはあっても十分楽しめる映画になっている。舞台を山形に設定して、出演者に山形弁を話させたことも成功している。スウィング・ジャズだけではなく山形弁も大いに受けた。特にいまどきの女の子が方言で話すというギャップが逆に魅力だった。
 出演した女の子たちも魅力的だ。矢口監督のこだわりぶりが結構功を奏している。ドラム担当の直美(豊島由佳梨)のおかっぱ頭は何と岸田劉生の「麗子像」 をイメージしたものだそうな。笑っちゃいました。トランペットをソロで吹いた良江(貫地谷しほり)の表情が素晴らしかった。上野樹里に次いで美人だが、この演奏場面が一番輝いていた。そして何といっても上野樹里がかわいい。「ジョゼと虎と魚たち」ではどこに出ていたのというくらい印象がなかったが、この映画では魅力爆発。演奏中のスタイルもなかなかはまってる。
   僕はモダン・ジャズ以後が好きなのだが、この映画を観てスウィング・ジャズも悪くないなと思った。考えてみれば、ジャズは難しい、小難しいことを言うおじさんたちの音楽だという印象はモダン・ジャズ以降の印象だ。ディキシーランドやスウィング時代のジャズはもっと大衆的だった。確か日本最初のトーキー映画「マダムと女房」(1931年)だったと思うが、ジャズを演奏するおじさんが出てきた。そんな前から日本でジャズが流行っていたのかと驚いた覚えがある。ジャズはダンスと結びついていた。聴いて踊れる音楽だったのだ。

刑務所の中(2002年、崔洋一監督)
  淡々としているが結構面白い。花輪和一の原作に出てくる主人公はとっちゃん坊やのようなダサいおっさんだが、山崎努が演じると格好よくなってしまうのはまあ仕方がない。同房の4人もなかなか面白い面子をそろえたが、やはり原作の漫画のほうが個性的な気がする。先に原作を読んでいると物足りなさを感じてしまうのは避けがたい。
  原作では雑居房や独居房の内部、あるいは食事のメニューが偏執狂並の正確さで事細かに再現されている。これが魅力だった。何しろめったに入れるところではないから。画家は細かいところをよく観察していて後になっても正確に再現できるというが、漫画家も同じなのだと感心した覚えがある。こっちもじっくりと見てしまう。しかし映画だとあっさりそのままに映し出されてしまうのでどこか物足りない。雑居房や作業場の様子など実に原作そっくりに再現されているだけに、もっとじっくり眺めたかった。もっとなめるようにゆっくり「塀の中」を映す場面があってもよかったのではないか。
   原作の方はいわば半分図鑑、半分観察記録の様な作りなので、どちらかというと記録映画向き。しかし、映画は本来動きを表現するものなので、劇映画にするには確かに苦労するだろう。どうしても行進している場面、作業をしている場面、風呂に入る場面、野球をしている場面など、動きのある場面を長く撮ってしまう。主人公の感じたことなどをナレーションで入れているが、原作ではもっと「へー」と思うことがたくさん入っていたはずだと思ってしまう。原作を読んでいるとまさに「へー」の連続である。「70ヘー」「80へー」当たり前。さすが「塀の中」の世界だ。映画だとそれが「30ヘー」くらいに減ってしまう。へーと思う回数も減る。それでも大きな不満も感じることなく、退屈もせずに観られたから映画として悪い出来ではないと思う。

ジョゼと虎と魚たち(2003年、犬童一心監督)
cut   難病ものや障害者ものは基本的に好きではないが、これはいい映画だ。何より泣かせようとしていないところがいい。聾唖の障害者はよく映画になるが、下半身麻痺の障害者が主人公になる映画は珍しい。障害を持ったジョゼを演じた池脇千鶴が出色の出来。障害ゆえのゆっくりとした話し方、疑わしそうに他人を見る目つき、心からうれしそうに笑う笑顔、どれもが自然だ。妻夫木聡もさわやかな青年を印象的に演じている。しかしこれは池脇千鶴の映画だ。 出会いは衝撃的だが、別れはあっさりしている。わずか数ヶ月しか関係は続かなかった。映画としては異例だが、実際の問題として考えてみれば無理からぬ結論である。理想論ではいかない現実を痛みをこめて描いている。そこに共感できる。「あれは壊れ物だから」というジョゼの祖母の言葉を取ってみてもその厳しさは理解できる。
   映画は2人の一番楽しかった時期だけを描いている。甘いと言えば甘いが、2人の関係がどんどん壊れてゆく過程を見させられるのはつらい。妥当な描き方だろう。
   タイトルの意味は、閉じ込められて生活していたジョゼが、恒夫(妻夫木)に連れられて初めて動物園で虎を見たこと、恒夫が実家に帰る時にジョゼも一緒に行き、途中「魚の館」というラブホテルに泊まったことからきている。ベッドの中でジョゼは恒夫に目をつぶらせる。その暗闇の中で自分は育ったと言う。最も感動的な場面である。
   ジョゼはサガンの小説に出てくる登場人物の名前だ。奇妙な題名も作品を観終わった時には深い陰影を帯びている。ただ、残念ながらもう一つ掘り下げ方が足りないという印象を受けた。

永遠の片想い(2002年、イ・ハン監督、韓国)
  「八月のクリスマス」、「イルマーレ」、「動物園の隣の美術館」「猟奇的な彼女」などと並ぶ韓国映画ラブ・ロマンスの傑作である。喫茶店でアルバイトをしているジファン(チャ・テヒョン)はそこで2人の女性と知り合う。最初は清楚なスイン(ソン・イェジン)に惹かれるのだが、あっさりはねつけられる。しかしやがてもう一人のギョンヒ(イ・ウンジュ)とともに3人は付き合い始める。2人ともそれぞれに魅力的だ。二人にそれぞれ引かれながらも、ギョンヒの方が好きだとやがてジファンは自覚する。だが実は2人とも病弱だった。2人とも子どものころに病院で知り合い、その後互いに支えあうようにして付き合ってきたのだ。あるとき雨に濡れたことが災いしてスインは病床に就いてしまう。結局そのまま直ることなく彼女は死んでしまう。
  映画は3人が付き合い始めた頃と、その数年後を交互に描いている。スインが死んだ後ジファンとギョンヒは分かれてしまったらしい。しかし差出人のない手紙がずっとジファンの元に届いていた。ジファンはギョンヒを探し始め、ついに彼女と会う。手紙を出していたのはギョンヒだった。しかしギョンヒの方も既に長くない命を覚悟していた。
  難病ものの一種だが、女性二人そろって病弱という点が新鮮である。このようなタイプの三角関係というのは確かに今までなかった。テーマの新鮮さもあるが、やはりこの映画の魅力は2人の女性にある。二人の美女をそろえたのだから強力だ。しかも2人の女性の死で悲恋に終わる。韓国映画のラブ・ストーリー作りのうまさに改めて感心させられる。

ほえる犬は噛まない(2000年、ポン・ジュノ監督、韓国)
  どこか漫画チックで、シュールなブラック・コメディー。しかし最近の日本映画によくあるようなひねこびた映画ではない。むしろ健全な批判精神が背後に感 じられる。大学の非常勤講師と思われるユンジュ(イ・ソンジェ)は妻が妊娠していて、教授の座を狙っている。韓国も相当な賄賂社会のようで、学長に賄賂を 贈るよう先輩から助言されている。しかしその金がなかなか工面できない。妻からは色々小言を言われて面白くない。何となくいらいらする毎日。そんな生活を しているときに同じマンションの住人が飼っている犬のほえ声が気に障ってしょうがない。ある日その犬を捕まえ屋上から投げ捨てようとするが、さすがにそれは出来ない。仕方がないので地下の廃品置場にある箪笥の中に閉じ込める。ところがその犬は手術して声が出ないようになっている犬だということが後で分かる。犬違いだった。あわてて地下室に行くが、そこでとんでもない光景を見る。ボイラー係が犬を捕まえて料理しようとしているところだった。犬はもう死んでいた。
  ユンジュはその後ほえる犬をつきとめ、今度は本当に屋上から投げ捨てて殺してしまう。犬がいなくなった持ち主たち(最初は女の子、次はばあさん)が、マンションの管理事務所に張り紙許可のはんこをもらいに来る。事務所に勤めるヒョンナム(ペ・ドゥナ)はある時犬誘拐犯を見つけマンション中を追いかけるが、途中で急に開いたドアにぶつかり犯人を逃してしまう。
  皮肉なことにユンジュの妻が犬を飼い始める。ある日散歩をしているときにその犬が行方不明になる。仕方なくユンジュも張り紙を出すために管理事務所にはんこをもらいに来る。ここでユンジュとヒョンナムが再会する。このヒョンナム役のペ・ドゥナが何ともチャーミングだ。美人ではないが、坂井真紀似で同じようなキャラクターだ。退屈な仕事に飽き飽きし、いつも女友達とぶらぶらしているが、犬と犯人探しに一生懸命になるところがいい。ユンジュの犬を危ういところで助けたのも彼女だ。
TEL_w2  妻の退職金で何とか裏金を作りユンジュは学長に取り入る。そこで酒をしこたま飲まされる。教授の席が一つ空いたのは同じことをやった先輩が酒を飲まされ、酔っ払って地下鉄に轢かれたからだ。ユンジュもふらふらになるが無事家の近くまで帰る。木の根元で寝入っているところをヒョンナムに助け起こされ、一 緒にマンションに帰る。仕事よりも犬と犯人探しに夢中になっていたヒョンナムは、仕事を首になったとユンジュに話す。自暴自棄になっていたユンジュはわざと彼女の前で走る姿を見せ、実は自分が犬誘拐の犯人だと告白する。夜の通りを2人で走るシーンが印象的だ。
  ラストシーンは授業をしているユンジュの姿で終わるが、結局教授になれたのかどうかは判然としない。憂鬱そうに考え込んでいるユンジュのアップで終わる。はちゃめちゃなようだが、どこか芯はしっかりしている。良質のコメディである。

至福のとき(2002年、チャン・イーモウ監督、中国)
   意外にもコメディだった。いわゆるハートウォーミング・コメディ。ヒロインのウー・イン(ドン・ジエ)が盲目の娘という設定なので難病ものの一種だが、ヒロインの苦悩を中心にすえるのではなく、彼女を取り巻く人々の冷淡さと暖かさに焦点を当てたことが成功につながった。
  主人公のチャオ(チャオ・ベンシャン)がいい。失業して金はないが、どうしても結婚したいと何度も見合いを重ねている。本当は痩せ型がすきだが、贅沢は言っていられないと今度は太った女性にアタックした。お互いに気が合い、順調に付き合いが続いている。結婚資金に必要な5万元を何とか捻出しようと、公園 に放置されたバスの内部を改装し、デート場所「至福のとき」を作り上げる。まあ即席のラブホテルだ。意外に客が付き多少の収入が入ってくる。チャオは見合い相手に自分を旅館の社長だとほらを吹く。しかし相手の太った女性には前夫の連れ子の盲目の娘ウー・インがいた。彼女はこの娘を何とか厄介払いしたくて仕方がない。この娘に何とか仕事を見つけてやってほしいと頼まれたチャオは、嘘をつき続けるしかなく、バス「旅館」の仕事をさせようとつれてゆくが、何と公園再開発で丁度バスがクレーンで取り払われるところだった!
  仕方がないので、ウー・インにマッサージが出来ることを利用し、工場跡を彼が経営する旅館のマッサージ室に仕立て上げて、そこで彼女をだまして働かせる。友人たちに頼んで客を装わせる。この当たりがよく出来ている。貧乏人同士が知恵を寄せ合って何とか彼女をだまし続けようとする。しかし客として払う金が底をついた。窮余の策で、どうせ目が見えないのだから分からないだろうと、ただの紙をお札の大きさに切っただけの紙片をウー・インに渡す。彼女はすぐに札が偽ものだと気づいた。最初から変だとは思っていたのだ。しかし彼女はだまされた振りを続ける。チャオ自身と彼の仲間たちが、最初は結婚するまでの方便としてウー・インをだましていたのだが、やがてそれが彼女に対する本当のやさしい気持ちに変わってゆくところが感動的である。
    一方チャオは花束を持って見合いの相手の家に行くがいつ行っても留守。電話も通じない。何度目かにアパートに行ったとき別の部屋に移っていることに気づく。部屋を覗くと、もっと大きな花束を持った見知らぬ男と彼女は抱き合っていた。チャオが非難すると、相手の女はチャオのことを調べて見て嘘に気づいたとやり返す。もう結婚してしまったから帰ってくれとチャオを追い返す。やけっぱちになって飲んだくれたチャオが家に帰ってみると、ウー・インの声を吹き込んだテープレコーダーが置手紙代わりにおいてあった。チャオは仲間たちとその声を聞く。最初から何か変だと思っていたこと、お金が途中から偽ものに変わったことに気づいていたこと、しかし彼らの親切がとてもありがたく、楽しい時間をすごせたこと、しかし自分はここを出て自分ひとりでやってゆくことを決心したこと、などが語られていた。
   ラストシーンは街中を一人で歩いているウー・インの姿を長く映し出している。その表情は明るい。はたして彼女一人でやって行けるのか、実の父親に会えるのか、見ているほうは不安を感じるが、彼女の明るい表情に安心させられる。
 型どおりのハートウォーミング・コメディだが、登場人物たちを見る優しい視線に共感せざるを得ない。どたばた調の「キープ・クール」も傑作だったが、観終わった後の後味のよさは当然こちらの方が上だ。舞台となった街は大連。

2005年10月21日 (金)

「ウォレスとグルミット 危機一髪!」とファンタジーの伝統

car1   シリーズ3作目にして最長!といっても31分だが。相変わらずどこかとぼけたユーモアと「サンダーバード」並みのメカキチぶりがほほえましい。今回はかなりスピードアップした演出が新味だ。不思議な魅力を持つキャラクターが今回も活躍する。何でも食べてしまう子ヒツジ(イギリスでよく見かけるブラック・フェイスという種類だ)、おかっぱ状モップ頭のマドンナ(およそマドンナ的ではないがウォレスは一目ぼれ)、鉄人28号ばりの強そうな犬。先ずこの独特の味を持つキャラクターがこのシリーズの魅力だ。ストーリーは、ウォレスが毛糸屋の女主人に一目ぼれし、グルミットはその女主人の飼い犬の策略でヒツジ連続誘拐事件の犯人にされ・・・。今回はドタバタ調の展開だ。

  それにしてもこのシリーズの魅力はなんだろう。キャラクターの魅力は確かに大きな要素を占める。CGではないクレイ・アニメーテョンという質感のある画面も魅力だ。動きはぎこちないが、それが却ってゆったりとしたリズムとどことなくユーモラスな雰囲気を生み出している。ミニチュアの建物やバイクなどがCGにはないリアルさを感じさせ、同時にどこか御伽噺の様な非現実的な雰囲気も漂わせる。メカへの細かいこだわりと遊び心は、どこか子どもの頃のおもちゃ遊びの楽しさに通じる。基本的にファンタジー・タッチであるが、そこは英国人のこと、独特のユーモアとひねりが練りこまれている。日本のアニメにないのはこの部分だ。あえて日本のアニメで一番近いものを探せば「おじゃる丸」だろうか。あの独特のゆったりとしたテンポと主人公のどこか飄々とした佇まいはかなり近い。と思うがどうだろうか。

 イギリスは世界に冠たるファンタジー大国である。『不思議の国のアリス』を始めとして、世に知られたファンタジーの大部分はイギリス製である。『ピータ・パン』『宝島』『ピーター・ラビット』『メアリー・ポピンズ』『指輪物語』『ハリー・ポッター・シリーズ』等々。有名な作家も多く、メアリー・ノートン、フィリッパ・ピアス、アーサー・ランサム、ルーシー・ボストン、C.S.ルイスと挙げればきりがない。『ハウルの動く城』の原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズもイギリスの作家だ。

 イギリスがファンタジー大国になるには様々な前提があったに違いない。ロビン・フッドやアーサー王伝説などの昔話、マザー・グースに代表されるナーサリー・ライム(童謡)、そして何といってもフェアリー・テイル(妖精物語)の伝統。イギリスにはケルトの伝統が息づいている。トールキンも言っているように、妖精の国は「すぐ身近にある世界」だった。ドワーフ、エルフ、トロル(ムーミンはカバではなくトロルである、もともと北欧系の妖精)、haguruma_w1巨人、ゴブリンそしてドラゴン。『指輪物語』、あるいはその映画化作品「ロード・オブ・ザ・リング」のおなじみのキャラクターの多くは、いずれも昔からなじみのある妖精たちである。スコットランド、ウェールズ、イングランドのコーンウォール地方と並ぶケルトの伝統が残る国アイルランド、そのアイルランドのナショナル・シンボルのうち二つが妖精(バンシー、レプラコーン)である。驚くべきことだ。日本で言えば、富士山や桜と並んで座敷童子や砂かけばばあが挙げられているようなものである。あるいは河童や天狗と言い換えてみれば多少はその感覚が理解できるかもしれない。イギリスの妖精は日本の妖怪に近い。水木しげるの世界だ。天使の様な存在とイコールだと思ってはいけない。『指輪物語』のエルフは人間より美しい存在だが、『ハリー・ポッター・シリーズ』に出てくるハウス・エルフのトビーは妖怪に近い。

 ニック・パークは妖精をより現代的なもの、つまり機械やロボットに置き換えたのかもしれない。あるいはまた別の伝統が彼の中にあるのかもしれない。風刺誌『パンチ』の伝統である。人物の戯画化はこの伝統につながっているような気がする。あるいは空想的な世界の創造は『ガリヴァー旅行記』以来の伝統ともつながっているだろう。世界で最初に小説を生み出したのもイギリスであるが、小説の源流とも言われる『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』は刊行後すぐに子供の本として書き直され、人気を博した。その意味でイギリスは最初の子供向け創作童話を生み出した国でもある。子供の本に書き換えられたとき『ガリヴァー旅行記』の風刺的な面が大幅に削られたが、風刺はイギリス文学の伝統のひとつである。『ガリヴァー旅行記』と言えば巨人の国と小人の国の話が有名だが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のラピュタと検索エンジン「ヤフー」のヤフーは『ガリヴァー旅行記』に出てくるものである。『ガリヴァー旅行記』は4話からなり、ガリヴァーは巨人の国、小人の国、ラピュタ、ヤフーの国を訪れるのである。ヤフーはほとんど猿にまで退化した人間で馬に支配されている。まるで「猿の惑星」の世界だ。ラピュタは空飛ぶ島だが、実はこれはイギリスrabbitを暗に示している。アイルランドは長い間イギリスの植民地だった。ラピュタは空中から下界を支配し、ひとたび反乱があれば地上に落下して「暴徒たち」を押しつぶすのである。

 いや、勢いにまかせて少し書きすぎた。もちろんニック・パークにここまでの風刺精神はない。しかし、このCGの時代にあえて非効率的なクレイメーションを作り続けるのには、彼なりのこだわりと反骨精神があるのだろう。一方、とんでもない世界を想像・創造する能力という点では、風刺よりももっとつながるものがあるかもしれない。独特のキャラクターの創造や不可思議なストーリー展開という点では『不思議の国のアリス』やナンセンス文学の伝統との関係の方が深いかもしれない。もちろん彼の世界は独特の世界であって、「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」の世界ともまた違う。あまり伝統ばかり言い立てるより彼のユニークな才能を探ることも大事だろう。しかし、チェコのイジー・トルンカと比較してみると、ニック・パークには明らかにイギリスの香りがする。様々なイギリスの伝統があって彼の様な才能が生まれたのもまた事実だと思えてならない。

ネバーランド

le_pa2004年 イギリス・アメリカ
原題:Finding Neverland
原作:アラン・ニー
脚本:デイヴィッド・マギー
監督:マーク・フォースター
出演
 ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、ダスティン・ホフマン
 フレディ・ハイモア、ラダ・ミッチェル、ジュリー・クリスティー
 ニック・ラウド、 ケリー・マクドナルド、ジョー・プロスペロ
 ルーク・スピル、イアン・ハート

  このレビューを書く前に幾つかのブログやホームページを覗いてみた。驚くべきことにほとんどの人がピーター・パンと聞いて最初に思い浮かべているのは「ピーター・パン症候群」である。酒井法子みたいに「そういう時代でしょ」といってしまえばそれまでだが、ほとんどの人がピーター・パンの話そのものは知らず、原作者の意図とはかけ離れたところで勝手につけられた名称を通じて理解されているのは悲しいことだ。  もっともピーター・パン自体はまだいいほうだ。作者のジェームズ・バリにいたっては知っている人を探す方が難しいだろう。僕は大学の英文科を出たが、ジェームズ・バリは英文学ではほとんどまともに扱われていなかった。せいぜい「ピーター・パン」の作者として名前だけが知られている程度だった。

 「ピータ-・パン」や「宝島」はご多分に洩れず子どもの頃読んだが、話の内容はほとんど忘れてしまった。映画の「フック」も見ていない。「ネバーランド」を観て少し気になったのでジェームズ・バリと「ピーター・パン」の事を調べてみた。今手元に『小さな白い鳥』という分厚い本がある。2003年3月に「パロル舎」から出た本である。出てすぐ買って、今日まで埃をかぶっていた(英文学関係の翻訳は見つけたらすべて買ってしまうのは悲しい性か)。著者はもちろんジェームズ・バリ。原書が出版されたのは1902年。この本はバリの最後の小説であり、これ以後バリは劇作家として活躍する。もう一つ重要な点は、この本で初めてピーター・パンが登場していることである。鈴木重敏氏の「訳者まえがき」によれば、ピーター・パンが登場するバリの作品は全部で3つある。最初がこの『小さな白い鳥』で、ピーター・パンは26章からなるこの本の13章で突然登場し、18章を最後に二度と現れない。ここでのピーター・パンは自分では空も飛べず、まだ赤子である。われわれがなじんでいるピーター・パンとは名前だけが同じといった方がよさそうだ。

  2作目がいわゆる「ピーター・パン」として知られている『ピーターとウェンディ』(1911)である。普通の小説形式で書かれている。これは映画「ネバーランド」で描かれた1904年初演の劇「ピーター・パン」を小説にしたものである。当事海賊版が横行したため、それらを駆逐するために作者自らが小説化したものである。

  3作目が戯曲『ピーター・パン』(1928)。1927年上演の舞台の台本を戯曲としてまとめたもので、6000語に及ぶ長い序文が付いている。  とまあ、映画の理解に参考になりそうなのはこの程度で、作者バリの説明やピーター・パンのモデルになった少年との運命的出会いなどは書かれていない。

  ただ、ちょっと面白かったのは、全編を通しての語り手であるキャプテンWの愛犬がポーソスという名前であること(映画ではバリの愛犬の名前になっている)と、バリが自分のチームを持つほどのクリケット好きであるという指摘だ(映画にもクリケットの場面が出てくる)。techo_w1『小さな白い鳥』の25章はほぼ半分がクリケットの試合で、翻訳では大幅にカットしたと「訳者あとがき」に書かれている。日本人には理解できないからという理由である。確かにそれはそうかもしれない。イギリス人の知り合いに一度クリケットとはどういうゲームか説明してもらったが、いくら聞いても理解できなかった。野球でいえばピッチャーみたいな役割の人とバッターみたいな人が実は同じチームであるとか、1回の試合が終わるのに数日から1週間もかかる(僕の理解に間違いがなければだが)といわれた日にゃ全く理解不能である。バッターの横に立っている三本の棒は何なのか聞いて見たが、これまたさっぱり分からなかった。これもきちんと理解している日本人を探すのは一苦労だろう。

  まえがきが長くなりすぎた。ここらで本題に入ろう。僕もラストで泣かされた一人だが、冷静になって考えてみるとそれほど優れた映画なのか疑問に思う。終わりよければすべて良しで、何となく全体としてよかったという気分についなってしまう。もちろんつまらない作品でも下手な作品でもない。どちらかと言えば、いい映画だったと言える。しかし多くの人が絶賛するほど優れているとは思わない。 確かに泣かせるのはうまいが、特に深みがあるわけではない。家で寝込んでいるシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に「ピーター・パン」の劇を見せる場面や、シルヴィアの葬儀の後のラストあたりは泣き所としてうまく作ってあるが、それ以外の場面は平板で、そこまで持ってゆくための前段階の様な気がする。

  妻メアリー(ラダ・ミッチェル)との関係は挿話以上ではないし(ただし一方的にどちらかが悪いと言う描き方はしていない)、シルヴィアとの関係をめぐって世間でささやかれていた噂もチラッと出てくるだけで、なんらストーリーに暗い影を落としてはいない。「信じることの大切さ」を説き聞かせるあたりもありきたりで、ときどき現実と想像が入り混じる演出もわざとらしくうまく出来ているとはいえない。父親の死後子供らしさを失っていたシルヴィアの三男のピーター(フレディ・ハイモア)のかたくなさの描き方もどこか違和感を覚えた。 シルヴィアと子供たちの生活苦も意図的に深く立ち入らないように描いているが、それでもこの映画の中では比較的よく出来ている部分だ。夫が死んだだけで収入がゼロになると言うことは、夫は長男ではなく土地持ちではないことが暗示されている。夫の母親のデュ・モーリエ夫人(なつかしや!ジュリー・クリスティ)は大金持ちで慈善家として知られているのだから。1904年の時点であの年ということは、彼女はまさにヴィクトリア時代の最盛期を生きてきた世代である(ヴィクトリア女王は1901年没)。大英帝国華やかなりし時代の体験者だ。何とか自分の価値観で子供たちを育てようとするが、シルヴィアはかたくなに拒否する。

 デュ・モーリエ夫人からの多少の援助はあったにしても、収入がないのだからそれまでのたくわえでかろうじて暮らしているということになる。余裕がないから、使用人を使わず自分で家事と子育てを一手に引き受けている。その無理がたたって体を壊してしまうのである。恐らく生まれは中流の中か上あたりだろうが、当時は女性の働き口などほとんどなく、ガヴァネス(家庭教師)の口はあったとしても子供を4人もかかえていては雇ってくれるところはない。だいたい、働くなどという上流夫人にあるまじき行為はデュ・モーリエ夫人が許さなかっただろう。後ろ盾のデュ・モーリエ夫人がいなければ、あるいはいい相手を見つけて再婚をしなければ、娼婦に身を落としてゆくしかないのが当時の実情だ。だからデュ・モーリエ夫人はしきりにシルヴィアに再婚を勧めるのであり、再婚の邪魔になる既婚のバリを遠ざけようとするのである。

fairy  シルヴィアはイギリス小説が描いてきたヒロインの系譜の一つに入る。デュ・モーリエ夫人もバリの様な親切な人物もいなければ、彼女の子供たちは彼女の死後孤児院に入れられる運命である。当時は女権拡張運動が盛んな時期だったが、社会的弱者を社会が支えるという考えはまだ世間に十分広まっていない時代である。デュ・モーリエ夫人のような慈善活動が支えだったのである。バリの考えもその範囲を超えてはいない。それでもただ上流階級の義務として、それも慈善家としての自分の名声を得るために活動をしているデュ・モーリエ夫人よりはましかもしれない。「ピーターパン」の舞台の初日に孤児院の子供たちを招待したのもその彼の発想から来ている。個人的な同情から発する行為であるとはいえ、夢のない立場にある子供たちに夢を与えようという行動は素直に胸を打つ。その子供たちの率直な反応が大人たちをも巻き込んでいったのである。

  このように見てくれば、「ネバーランド」は劇作家バリとピーター少年の心の交流を描いたことよりも、悲劇の要素を含んだシルヴィア一家(それだけで彼女をヒロインにした小説が成り立つ)を重要な要素として作中に取り込んだことに意義がある事が分かる。だからこそシルヴィアは単なるピーター・パン誕生のきっかけとなったピーター少年の母親という以上の位置づけをされているのだ。ある意味でシルヴィアはこの作品中でピーター以上に重要な存在なのである。ケイト・ウィンスレットの演技が観客の心を引くのは、彼女の存在こそがこの映画の根底を支えているからなのだ。

   そして彼女との関係でデュ・モーリエ夫人の存在も重要になってくる。存在感といえばこの映画で一番の存在感を発揮しているのは間違いなくジュリー・クリスティである。全盛時代のイメージからは後年こんなきついばあさん役をやるなんて想像も出来なかった。正直、エンディング・ロールでキャストを確認するまでは彼女だとは分からなかった。彼女が演じた役柄は典型的なイギリスの上流夫人像で、マギー・スミスあたりが得意とする役柄だ。きつい、怖い、きびしい、という3Kが演じられなければ務まらない。それを彼女は見事に演じてのけた。こんなすごい女優だったとは、正直驚きだ。彼女に比べると、ダスティン・ホフマンは彼らしさを発揮しているとはいえない。

  シルヴィア一家の生活をもっと描きこんでいたら、この映画は別の映画になっていただろう。上で言ったように、平板になることを覚悟でこれらを大胆にそぎ落とし、ピーターとバリの心の交流に焦点を当てて観客の涙を誘う演出にしたから成功したとも言える。泣きの演出も決していわゆるお涙頂戴的演出ではない。よく出来ていて、実に自然な演出だった。その点は率直に評価したい。傑作ではないが、確かに一般受けする映画ではある。

2005年10月20日 (木)

女ひとり大地を行く

cut_b-gear101953年
監督:亀井文夫
出演:山田五十鈴、宇野重吉、織本順吉、内藤武敏
    中村栄二、岸旗江、北林谷栄

 亀井文夫監督による独立プロ映画の名作である。脚本に新藤兼人が加わっている。山田五十鈴主演。戦前から既に大スターだった彼女が独立プロの映画に出る、しかもまったくの汚れ役を演じる。当時相当な物議をかもしたようだ。正直言って山田五十鈴という女優はあまり好きではなかった。特に美人だとも思わないし、女優としてもさほど優れているとも思わなかった。しかしこの映画を観て初めて彼女を大女優だと感じた。当時30代の後半だったが、若くはつらつとした年齢から、初老の年齢まで見事に演じ分けた。老け役を演じている時の彼女はむしろ女優として輝いていた。女優によっては顔を汚すこと自体を嫌う人もいるのに、彼女は坑道の中に入って働く役までひるむことなく演じたのである。

 独立プロの作品だけに今見るとかなり紋切り型のせりふが目立つ。しかし当時の労働運動の言葉は実際そんなものだったかもしれない。時代が変わってしまったのだ。炭鉱町を描いた映画といえばイギリスのウェールズを舞台としたジョン・フォードの名作「わが谷は緑なりき」が思い出される。ウェールズを描いたこれまで最高の作品である。「わが谷は緑なりき」はウェールズにおける炭鉱産業の衰退とそこで働くある炭坑夫一家が崩壊してゆく様を叙情的に描いたものである。それに対して「女ひとり大地を行く」は一旦崩壊しかかった家族の再生を描いている。

 昭和七年冬、秋田県横手在の農夫山田喜作(宇野重吉)は生活苦のため妻サヨ(山田五十鈴)と二人の子を残して北海道の炭鉱に行った。しかしそのあまりに過酷な労働と無慈悲なまでの扱いに(脱走しようとした炭坑夫が見せしめに焼きごてを押し当てられ殺される場面が出てくる)耐えかね脱走を図る。その時ガス爆発事故が起き多くの犠牲者が出た。山田喜作は幸い助かったが、彼もその事故で死んだものと思われる。

 仕送りを断たれたサヨは夫を頼って炭鉱に行くが、そこで夫は事故で死んだと知らされる。生活のためサヨは女坑夫としてそこで働く決意をする。やがて戦争が始まり、彼女に好意をもつ炭坑夫の金子も出征して戦死する。やがて朝鮮戦争が始まり炭鉱は増産の指示を出した。その頃サヨの夫の喜作は家族を探してこの炭鉱に戻り働いていた。体を壊したサヨは炭鉱の仕事をやめていたので、そのことを知らなかった。次男の喜代二も炭鉱で働いていたが、父の顔を覚えていなかった。

 無理な増産体制のため事故が頻発する。組合は無理な増産を中止するよう要求してストに入る。生活苦を嫌って女と駆け落ちしていたサヨの長男喜一が町に戻ってきて、金欲しさから嘘をついて、組合の先頭に立って活動している弟の喜代二を陥れる証言をする。その証言によって喜代二は坑内の排水ポンプを動かす送電線を切断した犯人とされてしまう。やがて一切の真相が判明し、喜代二は釈放され、喜一も改心して母の許に戻る。寝込んでいるサヨの元に夫の喜作がやってきて再会の言葉を交わす。しかし既に体がぼろぼろになっていたサヨは「やっとあなたに二人の子供を渡すことが出来た」と言って息を引き取る。

 このようなストーリーのため宇野重吉は最初と最後しか登場しない。サヨの息子たちなどの若手の俳優に混じって山田五十鈴を脇で支えたのは、長屋の隣に住む北林谷栄とそのsnowrabbit夫の花澤徳衛である。この二人はさすがにうまい。特に北林谷栄の存在感は抜群で、炭鉱の上役も平気で怒鳴りつける。せめて息子だけには教育を受けさせたいと気丈に働く山田五十鈴とはまた違い、北林谷栄は少々のことではへこたれないたくましい女性役を演じている。また、独立プロならではの視点として、炭鉱で働かされていた中国人捕虜が出てくる。脚気でまともに働けないため棒で殴られる中国人の役を加藤嘉が演じている。殴られている彼を助けたのは戦死した金子だ。彼は戦後中国に帰り、サヨが死んだ日に連帯の意味を込めた旗をサヨに送ってくる。喜作は二人の息子に命じてサヨの亡骸にその旗をかけてやる。

 ストはまだ続いている。ラストは喜代二と彼に思いを寄せる孝子が立つ丘の頂上に向かって、若者たちが旗を持ち労働歌を歌いながら一列になって上ってくるシーンだ。いかにも独立プロ作品という描き方で、時代を感じる。このタイプの映画は今では完全に日本映画から、いやほとんどの国の映画から消えてしまった。しかし今見ても、紋切り型のせりふや思想性が前面に出過ぎているところなどが気にはなるが、力強い作品だと感じる。戦う労働者ではなく、家族のために身を削るようにして働き死んでいったひとりの母親を中心にすえたことが、この作品を成功させている。貴重な歴史的作品がDVDでよみがえったことの意味は大きい。

 次男喜代二を演じた内藤武敏のインタビュー(特典映像)によると、撮影は北海道の夕張炭鉱で行われたそうだ。映画にも出てくるが、せまい谷間に炭鉱町が作られ、斜面にびっしりと長屋が立ち並んでいる。下から見るとまるで戦艦の様な光景だったそうである。非常に面白いインタビューで、特に撮影中に炭坑労働者がストに入ってしまい、撮影が難航したエピソードが興味深い。撮影隊も炭坑夫たちもともに生活がかかっている。炭坑労働者の生活とその思いがじかに伝わってきたそうだ。スタッフはみなその長屋に今で言うホームステイをしたわけだが、町の人たちはみな人なつこく、ノックも挨拶もなく突然家の中に入ってきて、また挨拶もなく出て行くそうだ。それでも1週間か10日もすれば慣れてきて、自分も同じようにふらっと他人の家には入れるようになったという。

 亀井文夫は、戦時中表向きは国策にそってはいるがその裏にぎりぎりの抵抗を込めて撮った「戦ふ兵隊」「上海」、あるいは戦後の「日本の悲劇」などで知られる。日本を代表するドキュメンタリー作家である。もっと知られていなければならない重要な人物である。早く彼の代表作がまとまってDVDになることを強く望む。 (佐藤忠男著『キネマと砲聲』に「亀井文夫の孤立した戦い」という章がある。ぜひ一読を進めたい。)

どっこい生きてる

momiji_w1951年
監督:今井正
出演:河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎しづ江、飯田蝶子
    岸破旗江、木村功

 今井正監督の独立プロ第1作。独立プロ自体としては山本薩夫監督の「暴力の街」が第1作で、これは第2作目にあたる(特典映像の早乙女勝元インタビューで彼がそう話していた)。山本薩夫の「暴力の街」「傷だらけの山河」「証人の椅子」などは思想性が前面に出すぎて今ひとつの出来だと思ったが、さすがに今井正の作品は出来がいい。徹底したリアリズムで戦後の不況時代を描いている。映画会社を飛び出して、全国からカンパを集めて作った独立プロ作品だが、仕事がなく食い詰めた人たちをそのまま描くことで説得力を得ている。イタリアのネオリアリズモの影響が指摘されているが、意識はしていたかもしれないが、現実を描けばこうなるのだろう。

 まず、当時ニコヨンと呼ばれていた日当240円で日雇い仕事を引き受ける人たちの群れが描き出される。電車から次々と人が降り立ち、なぜか皆駆けてゆく。早く列に並ばないと人数に制限があるのであぶれてしまうからだ。昔のアメリカ映画でよく見かけた風景(例えばジョン・フォードの「怒りの葡萄」)だが、当時の日本も同じだったわけだ。主人公の毛利(河原崎長十郎)はその日仕事にあぶれた。家に帰ると、長屋を明日取り壊すので出て行ってくれと大家に言われる。出て行っても他に住む家があるはずもなく、何とかしてくれと頼むがもちろん受け入れられない。

 結局、妻と子供2人を田舎に返し、毛利本人は簡易宿泊所に泊まって日雇い仕事を続けることにする。その宿泊所には日雇い仕事仲間(中村翫右衛門)がいた。お調子者で、生き抜くすべを心得たはしこい男だ。中村翫右衛門がまさにはまり役。いまではいなくなったいい役者だ。

 ある日毛利は電柱に貼ってあった「旋盤工求む」の張り紙を見て応募してみた。何とか雇ってもらえたが(徴用で覚えた技術が役に立った)、前借を申し出たため不審がられる。前借は出来なかったが、仲間が金を集めて給料日までの資金を出してくれた。しかしその晩酒を飲んで酔っ払い、目が覚めたら金を取られていた。弱り目に祟り目で、翌日仕事場に行ってみると、昨日は雇うと言ったのに注文が減ったので雇えないと言われる。仲間が集めてくれた金を取られ、仕事もふいになった。その上、田舎に帰ったはずの女房と子供がまた戻ってきた。田舎も子沢山でとても長くはいられなかったのだ。どうにもならない状況に押しつぶされ、毛利は死ぬ決意をする。盗み(水道管を抜き取って売る)をして稼いだ金でその晩は精一杯の贅沢をする。翌日死ぬ前に子供たちを楽しませてやろうと遊園地につれてゆく。しかし息子が池に落ちておぼれかける。死ぬつもりだったが、彼は思わず池に飛び込み息子を助ける。これで彼の考えは変わった。先の見通しはまったくないが、生きてゆくことにした。翌日からまた仕事斡旋所前の人ごみの中に彼の姿があった。

 「どっこい生きてる」というタイトルから、最後は何か浮かび上がれるきっかけを掴むのかと思っていたが、最後まで希望はない。もちろんそのほうがリアルだ。安易な救いをもたらさなかったことがこの作品の価値を高めている。日本のリアリズム映画の傑作の一つだ。

姉妹

1955年asagao-cut1
監督:家城巳代治
出演:野添ひとみ、中原ひとみ、望月優子、川崎弘子
    多々良純、河野秋武、内藤武敏、北林谷栄、加藤嘉

 家城巳代治監督の代表作。主演は野添ひとみと中原ひとみ。特典映像として付けられた中原ひとみのインタビューによれば、実年齢は中原ひとみの方が1歳年上だそうだが、映画の中では野添ひとみが3歳年上の姉になっている。野添ひとみの方が背が高く、落ち着いた雰囲気があるからだろう。当時野添ひとみは既にスターで、中原ひとみの方は初の主演だったようだ。

 2人の姉妹(「きょうだい」と読ませるあたりが時代を感じさせる)は対照的な性格である。姉は落ち着いた性格で、クリスチャンである。当然争いごとや乱暴なことを嫌い、自分を抑えてでも流れに逆らわず生きてゆこうとする。妹は跳ね返りな性格で、革命とか労働者の権利だとか生意気なことを言う。田舎育ちだが、都会の叔母に預けられ学校に通っている。叔母(望月優子)は庶民的でおおらかな性格。伯父(多々良純)は博打打かなんかで、金が入るとお大尽遊びをする。故郷には父母と下に3人の弟たちがいる。父(河野秋武)は発電所で働いている。優しい母(川崎弘子)は専業主婦。この都会と田舎の庶民の生活を中心に描いている風俗映画である。

 しかし社会派の家城巳代治監督のこと、これに様々な社会問題を練りこんでいる。妹(中原ひとみ)の友人で、金持ちだが不幸な娘(母親は娘が付き合う友達の身分をしきりに気にし、姉は足が悪く外に出ない、弟も何か障害を持っている)がチラッと登場して、社会的な視点も持ち込まれている。姉妹は知り合いの女性の家に行って掃除をする。父親(加藤嘉)は盲人で母親(北林谷榮)は病気がちで臥せっている。娘本人も腰にギプスをしていて満足に働けない。掃除もろくに出来ないのでゴミとほこりにまみれて生活している。それを見かねて手伝いに行ったのだが、娘は自分たちは全員結核に罹っているので、もう来ないでくれと姉妹に突き放すように言う。結核が不治の病であった頃か。時代を感じる。

 父が勤める発電所では首切りが大きな問題になっている。父の同僚である青年(内藤武敏)は誠実で明るい性格の好青年だが、生活がかつかつでとても結婚できるような状態ではない。姉の野添ひとみと互いに惹かれあっているが、普通の付き合い以上には発展しない。野添ひとみは結局親が選んだ銀行員と結婚することになる。妹は愛を選ぶべきだと姉を説得しようとするが、親に逆らえない姉は自分の気持ちを押し殺して嫁いでゆく。不幸を予感させるが、嫁ぐ日、姉はもっと自分は強くなる、自分の言いたいことを言えるようになると妹に告げる。山の上から妹が姉の乗ったバスに「姉ちゃん頑張れー」と声をかける。この声に希望が託されている。

 型どおりといえば型どおりの映画である。しかし庶民生活の描写の中に巧みに社会問題を取り込み、庶民の暮らしは社会問題と切り離せないことをよく描いている。この時代の日本映画の代表的な作風である。傑作とまでは行かないが、忘れがたい優れた作品だ。

 野添ひとみは雛形あきこ似で今見ても美人だ。当時の日本人体形だから足は太いがスタイルはすらっとして悪くない。中原ひとみはさらに足が太く短い。背が低いのでどこか不恰好だ。しかし大きな瞳が魅力的だ。

 付録映像のインタビューでの中原ひとみの話し方と映画の中の話し方はとても同じ人とは思えないほど違う。それはそのまま時代の違いである。昔のテレビのアナウンサーの話し方を今聞くとどこかこっけいに響くが、昔の映画の話し方は上品というか、今聞くと奇妙なイントネーションで話している。いつの間にか少しずつ話し方が代わっていったのだろう。特に女性の話し方の違いはかなりのものだ。同じ女性が昔の映画と現在とではまったく違う話し方をしている。なんとも奇妙な感覚である。

2005年10月19日 (水)

さまよえる人々

fu-sya1995年 オランダ・ドイツ・ベルギー
監督:ヨス・ステリング
出演:レネ・クルーゾフ、ニーノ・マンフレディ
    ヴィール・ドベラーレ、ダニエル・エミルフォルク
    ウィリー・ヴァンダーミューレン、ジェーン・ベルブッツ
    イングリッド・ドゥ・ヴォス

 オランダ映画界の巨匠ヨス・ステリング監督作品。「レンブラント」('77)「イリュージョニスト」('83)「ポインツマン」('85)に続く4作目。「ポインツマン」は観たがもうまったく覚えていない。16世紀のフランドルが舞台。フランドルはベルギー連邦王国の北半分を占める地域である。その東隣がオランダ。

 16世紀のフランドルといえばブリューゲル(1525-1569)を連想する。まさにこの映画の前半はブリューゲルの絵をフィルムに納めたような映像が続く。しかし絵のように美しい風景を想像してはいけない。そんなものはわずかしか出てこない。この映画を支配する基本的イメージは、農場の広い中庭のど真ん中に作られた巨大な肥溜め、丘の上に置き去りにされた巨大な頭像、岸に乗り上げたまま朽ち果てた廃船、そして井戸だ。登場人物たちはまさに糞まみれ、泥まみれになってのた打ち回る。そういう映画だ。

 16世紀当時のフランドルはスペイン帝国の支配下にあった。スペインの圧政とカソリックの厳しい法に対して民衆は大きな不満を募らせ、偶像崇拝に反抗し、教会や修道院を攻撃して多くの彫像を破壊していた。映画の冒頭、反逆者たちが巨大な頭像を運んでいる。それを発見したスペイン人が反逆者たちを襲い皆殺しにする。ただ一人頭像の中にもぐりこんでいて助かった男(レネ・グルーゾフ)がいる。その男はたまたま近くにいた女に助け出され、その女とすぐその場で交わる(いかにも唐突だ)。その女は領主であるネトルネック(ウィリー・ヴァンダーミューレン)の妻で、男は領主たちに捕らえられる。男は縛られて巨大な肥溜めの中に入れられている。その一部始終を目撃していたのが吟遊詩人のカンパネリ(ニーノ・マンフレディ)である。カラスの羽を一面に貼り付けた奇妙なマントを着ている。カンパネリは男の持っていた金の聖具を目当てに男を助ける。だが、ネトルネックに見つかり、男は銃で撃たれてしまう。何とか領主の館からは逃げおおせたが、自分はオランダから来たと言って巨大な頭像の下で息絶える。

 ネトルネックの妻は翌年男の子を産んで死んでしまう。オランダ人の男との間に出来た子供だ。子供はダッチマンと呼ばれ、ネトルネックの農場で育てられる。その子はあるとき吟遊詩人のカンパネリと出会い、食糧を運んでくる代わりに父親の事を聞かせてもらう。父は空を飛ぶことができ、フライング・ダッチマンと呼ばれて七つの海を支配しているのだと。もちろん父親はとっくに死んでいるわけだから、これは口からでまかせである。(カンパネリが食べ物をもってこいとダッチマンに命じるところは、ディケンズの『大いなる遺産』の有名な冒頭の場面、脱獄囚のマグウィッチがピップを脅して食糧とやすりをもってこさせる場面とよく似ている。そういえば巨大な廃船はマグウィッチが乗せられていた監獄船を連想させkokyouる。)少年は父親に思いを馳せる。しかしカンパネリと会ったことを領主に見つかり井戸に入れられる。それを助けてくれたのが後に領主の息子と結婚するロッテである。

 やがてダッチマンは成人した(レネ・グルーゾフが二役を演じている)。カンパネリは相変わらず金の聖具を探しており、肥溜めの中を浚っていた。それを領主のネトルネックに見つかるが、逆に彼を騙してネトルネックを肥溜めの中で溺れさせてしまう。カンパネリも領主の息子に殺される。ダッチマンは肥溜めを壊し底から父親の皮袋を見つける(その中に金の聖具が入っていた)。スペイン兵が隠れて見張っていたが、ダッチマンはネトルネックの息子の妻ロッテに助けられ、二人で逃亡する。

 やがて二人は父親がいると聞かされた海に出る。そこで追いかけてきたネトルネックの息子に海に沈められ殺されかける。危うく助かったダッチマンは陸に乗り上げている巨大な船の残骸を発見する。そこには奇妙なせむしの小男(レネ・ウァント・ホヌ)が住んでいた。ダッチマンは金の聖具を金に替え、その金で船を修理し海に出ようと考える。しかしオランダの兵隊(?)に捕まり、小男と共に矯正院に入れられてしまう。ダッチマンは脱走を図るが失敗し、また井戸に入れられる。しかしそこにたまたまネトルネックとその妻のロッテが来合わせていた。二人は男の子を連れてきていたが、その子はダッチマンとロッテが逃亡中に二人の間に出来た子供だった(夫は自分の子だと思っているが)。ロッテは小男を買収してダッチマンを助ける。ダッチマンは井戸から逃れ、建物の上に上る。それを彼の息子が見上げている。今にも落ちそうなダッチマンを見て、息子が母親を呼んで一瞬振り返ったすきにダッチマンは消えていた。地面に彼の体は落下していない。彼は本当に空を飛んだのか。謎を残したまま、ロッテと息子が抱き合う場面がストップモーションとなって幕。

 何とも不思議な世界だ。異形のものたち(カンパネリや船に住んでいた小男)がうごめき、不思議な物体(頭像、巨大な肥溜め、朽ち果てた廃船)が画面の中で怪しげで謎めいた存在感を主張している。何か異教徒には理解できない宗教的な寓意がふんだんに盛り込まれている感じがする。そういえばダッチマンとネトルネックの息子は何度も鼻血を流すが、これも何かの象徴・寓意なのか?オランダに生まれた男とその息子が辿る数奇な生涯を綴った大河叙事詩と呼ばれているが、叙事詩というよりは寓意劇という方が正しい感じがする。類まれな想像力が生み出した独特の世界だが、きわめて土着的であり、フランドル以外では生まれ得なかった作品である。1、2度見ただけでは十分理解しがたい作品だ。

アラバマ物語

building003_s1962年 アメリカ
監督:ロバート・マリガン
出演:グレゴリー・ペック、メリー・バーダム
   フィリップ・アルフォード、ロバート・デュバル

 映画ノートによると、最初にテレビで見たのは72年11月26日。実に32年ぶりに見たことになる。ハーパー・リーの原作『ものまね鳥を殺すには』はピュリッツァー賞を受賞した作品である。舞台は1930年代のアラバマ州の田舎町。主人公はグレゴリー・ペックだが、彼の2人の子供ジェムとスカウトの視点から描かれている。前半は子供たちの世界。夏だけ近所に遊びに来る男の子と小さな冒険を楽しんでいる。近所にブーと呼ばれる精神障害者がおり、大人たちから恐ろしい怪物のように聞かされている。3人はブーを一目見ようと夜忍び込んだりするが、失敗する。ブーは最後になるまで姿を現さない。しかし常に影のようにその存在が感じられる。忍び込んで逃げたときに、ジェムは柵にズボンを引っ掛けてあわててズボンを脱ぎ捨てて逃げる。後で取りに行ったとき、そのズボンはきちんとたたんで置いてあったと、後にジェムはスカウトに打ち明ける。そこにブーは本当は優しい人物なのではないかという伏線がしかれている。

 そのうち黒人の男による白人女性暴行事件が起こり、グレゴリー・ペックが弁護を引き受けることになる。彼は進歩派の弁護士という設定だ。白人たちによる嫌がらせがあるが、これはそれほど描かれていない。被告が拘置されている所に白人たちが押しかける場面などがあるが、毅然と跳ね除けるグレゴリー・ペックの態度が強調された描き方になっている。その場は子供たちが一緒にいたので男たちは引き上げるという形で収まる。「ミシシッピー・バーニング」の様な、気がめいる、息詰るような雰囲気はそれほど強調されていない。

 裁判を通じて冤罪の可能性が高まる。被害者は右目を殴られているが、容疑者は右利きで左腕は麻痺している。被害者の父親が娘を暴行した可能性が浮かび上がってくる。しかし陪審員の判決は有罪だった。容疑者のトムは護送中に逃げ出して、警官に撃たれて死ぬ。しばらく後、ハロウィンのときに、ジェムとスカウトが帰宅途中林の中で何者かに襲われる。そこにもう一人男が現れ、子供たちは助け出される。子供たちを救った人物こそブーだった。ブーの顔は記憶とまったく違っていた(何と演じていたのは若き日のロバート・デュバルだ!)。大男でイースター島の巨人の様な額がせり出した顔だったとぼんやり記憶していたが、実際は目の周りが少し黒くなっているほかは普通の、ごくおとなしそうな男だった。moon45どこで記憶が違ってしまったのか分からない。ただ前半で姿の見えないブーの不気味な影が強調されていたので、その部分が印象に残って作られたイメージだったのだろう。

 それはともかく、子供が襲われた現場にはナイフで刺された男(裁判の被害者の父親)の死体があったと保安官がペックに告げる。保安官は、男を刺したのはブーだと分かっているが、あえて被害者は倒れたときに自分で誤って刺したことにするとペックに告げ、立ち去る。

 全体としていかにも進歩派の知識人が書いたストーリーだという感じが強い。黒人に対する白人の偏見はしっかり描かれて入るが、見ているのがつらくなるほどリアルにしつこく描いているわけではない。グレゴリー・ペックを初め、ブーや最後の保安官の言葉など、善人の立場が強調されている。しかし底が浅いというほどではない。判決は有罪だし、被害者は無実の罪をかぶせられた上に、逃げようとして撃たれて死ぬ。全体の明るい雰囲気は、子供たちを前面に出していることもあるが、人間の良心に信頼を寄せ、その可能性を前向きにとらえようとする作者の姿勢から来ている。甘いという批判もあるだろうが、感動的な作品であることは確かだ。

 子供たちが父親をアティカスと名前で呼んでいるのが印象的だ。このあたりにも父親の進歩的な姿勢が示されている。子供たちの質問に嫌がらずきちんと答えていることにも共感を覚える。娘のスカウトの顔は記憶に残っていた。とても印象的な子役だ。

2005年10月17日 (月)

寄せ集め映画短評集 その9

在庫一掃セール第9弾。今回は各国映画6連発。

「ぼくゼザール10歳半1m39cm」(2003年、リシャール・ベリ監督、フランス) apple_w
 主役の子供たちがかわいい。セザール(シーザーという意味)もいいが、何といってもサラ役のジョゼフィーヌ・ベリがかわいい。ハリポタ・シリーズのエマ・ワトソンに似たタイプだ。  主人公のセザール(ジュール・シトリュク)はちょっと太目のぽっちゃり少年。友達のモルガンは成績抜群でクラスの人気者だ。
  セザールは転校生のサラに心を引かれる。彼女の前に出ると二言以上に話せなくなってしまうところが可笑しい。誰しも経験がある事だ。だからモルガンとサラの関係にやきもきしたり、急に張り切ってみたりするモルガンに共感してしまう。それぞれの家族はそれぞれに問題をかかえているが、彼らは仲良しになり明るく楽しんでいる。
 モルガンの母は黒人で、父親はイギリス人。母は未婚の母のようだ。モルガンがイギリスの父親に会いに行くというので、英語が話せるサラが一緒に行くと言い出す。2人だけにしたくないのでセザールもついてゆく。初めての海外!3人の冒険が始まる。イギリスで、フランス人であるカフェの女主人(アンナ・カリーナ)と出会う。彼女の知り合いに警察関係者がいるのでそのつてでモルガンの父親が見つかる。モルガンが会いに行くと父親は大歓迎してくれた。
 フランスに戻ると3人の親が駅で待ち構えていた。黙って家を出た子供たちを親たちは腰に手をやりカンカンに怒って待ち構えている。カフェの女主人が一緒でなかったら「死者が出ただろう」、というセザールのナレーションが可笑しい。
 それが転機になり、それぞれの家族が変わった。親たちは優しくなり、3つの家族とモルガンの父親の家族(黒人の女性と結婚しており子供も3人いる)が互いに付き合うようになった。独り者のカフェの女主人にはいっぺんに4つも家族が出来た。
 悪人が一人も登場しない。さわやかな気分になれる映画だ。御伽噺の様な話だが、世の中にはこのような話も必要なのだ。

「真珠の耳飾の少女」(2003年ピーター・ウェーバー監督、イギリス)
  フェルメールの有名な絵を基にした作品。絵の少女グリートを演じるのはスカーレット・ヨハンソン。フェルメールを演じるのはコリン・ファース。そのパトロン役にトム・ウィルキンソン。フェルメールの母親役を演じているのは、何と「ER」のジョン・カーターの母親を演じているジュディ・パーフィット。イギリスの名女優だそうだ。
 当時のオランダの様子が見事に再現されている。ストーリーは特に凝ったものではなく、グリートがメイドの見習いとしてフェルメール家に来るところから始まる。フェルメールには子供が何人もいて、その上まだ妻の腹に一人入っている。そのせいか家計は苦しい。その苦しい家計を助けるためにフェルメールはパトロンから絵の依頼を受け、絵を描かなければならない。
 グリートはフェルメールのアトリエを掃除するよう奥様に言いつけられる。あるときフェルメールに認められ絵のモデルになる。有名な窓辺に立っているメイドの絵だ。最初は左手前に椅子が描かれていたが、グリートは椅子が邪魔だと思い掃除のときにどけてしまう。すると絵からも椅子が消えていた。また彼女には色彩の才能があり、あるときフェルメールに雲の色はなに色かと聞かれ最初は白だと答えるが、しばらくして白と黄色と青色と灰色だと答える。
 次にタイトルとなったあの有名な少女の絵の制作に取り掛かるが、この頃には奥方がフェルメールとグリートの間にただならぬ関係があると感づき、嫉妬し始める。グリートが耳につけていた真珠の耳飾は奥方のものだった。しかしフェルメールは彼女に手を出してはいなかった。彼女を狙ったのはフェルメールのパトロンの方だった。危うく手篭めにされそうになるが、幸い危ういところで助かる。しかし完成した絵を見て奥方は狂ったように興奮し、グリートを解雇する。やがてグリートの元に真珠の耳飾が送り届けられた。グリートには肉屋の手伝いのピーターという恋人がいたが、彼と結局結ばれたのかどうかは分からない。
 ストーリーは特にこれといって素晴らしいわけではない。この映画の魅力はほとんどグリートを演じたスカーレット・ヨハンソンの清楚で若々しい魅力と当時の風景と風俗を見事に再現したことにある。

「プラットホーム」(2000年、ジャ・ジャンクー監督、中国)
  期待して観たのだが、長くて退屈な映画だった。芸術を気取る監督によくある、これと言ったストーリーもなく、連続性のない細切れ的な映像を少ない科白でつなぐというタイプの映画だ。これで2時間半程もあるのだから眠くなってくる。
  特徴的なのはほとんど接写を用いず、遠くから人物を撮っていることである。70年代後半から80年代にわたる約10年間を描いているのだが、思い入れたっぷりに昔を懐かしむのではなく、農村を回る文化工作隊の青年たちをあえて突き放して描くというのが監督の意図だろう。意図はともかくあまり成功しているとは言いがたい。感情移入を排し、効果音をほとんど使わず市販ビデオで撮った様な自然音のみで構成されているが、この手の映画は作る側の独りよがりになりやすい。
  ただ、確かに退屈な前半を過ぎて後半当たりになってくると、妙に画面に引かれることもある。多少のストーリーらしきものが見えてくるからだろう。初めて村に電気がくる場面などのように、時代の移り変わりが分かるようになっている。一番それが表れているのは、彼らが演じる演目で、最初は文革時代そのままのプロパガンダ演劇をやっていたが、時代が移るにつれてフラメンコを取り入れたり、ロックやブレイクダンスなども入ってくる。人間関係も移り変わり、工作隊の若者たちも少しずつバラバラになってゆく。文革後の短い開放的な時代に生きた青年たちの淡い恋愛、目的もなくただその日が過ぎて行くだけのような生き方、そういう時代の雰囲気が多少なりとも伝わってくるからだ。
 それと、どさ回りをしながら通過する風景が人物たち以上に引き付けるものがある。煉瓦造りの崩れかけたような貧しい家々、何もないだだっ広い平原、広大な低地にかかる橋の上を走り抜ける汽車、上海や北京のような大都市とは掛け離れた田舎の生活と風景がもう一つの主人公だと言えるかもしれない。このような不思議な魅力はあるが、全体としてみれば成功した作品とは呼べない。

「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年、ロナルド・ニーム監督、アメリカ)
ship004_s 東京に出てきて初めて観た記念すべき映画。久しぶりに観直してみて、傑作だと思った。次からつぎからめまぐるしく展開する今のパニック映画に比べると展開が遅いが、それがむしろいい。今の映画はこれでもかと見せ場を次々と作るが、その分味わいが薄くなっている。その典型が「マトリックス」だ。観た次の日にはもう内容を思い出せなかった。その時だけ楽しめばそれでよいという映画になってしまっている。
 その点昔の映画はじっくりとドラマを描いている。有名なタイタニック号の悲劇も、97年の大ヒット作品よりも白黒時代の作品の方が人間ドラマをよく描けていた。アクションからアクションへとただ移るだけでは人間が描けない。 「ポセイドン・アドベンチャー」は今の映画よりじっくりとキャラクターを描いている。特にシェリー・ウィンタースは存在感があってよかった。彼女と夫のドラマは映画を引き締めている。2人は孫に会いに行くところだった。ペンダントが効果的に使われている。彼女が水にもぐって心臓発作で死んだ後、夫は後に残ると言い出した。リーダーの牧師(ジーン・ハックマン)は彼女から受け取ったペンダントを彼女の夫に渡し、生き残って孫に会うべきだと伝える。やっと夫は生きようと決意する。パニック状態になったキャロル・リンレイ(懐かしい!)や、元娼婦の妻を心から愛しているがすぐ牧師のやり方に口を出すアーネスト・ボーグナイン。オールスター・キャストだが、単なる顔出しには終わっていない。テンポが必ずしも速くなくても手に汗握る展開に出来る。それを改めて教えられる。
 改めて見るとこの映画が後の映画のお手本となっていることがよく分かる。途中水にもぐる場面は「デイライト」や「エイリアン4」がそっくりぱくっている。安全を無視して採算を優先する船主の存在は「ジョーズ」や「エイリアン」シリーズに影響を与えている。それにしてもすべてがそっくりさかさまになったセットは今見ても見事だ。船が転覆してさかさまになるという設定そのものが意表をついている。傾いた床を人が落ちてゆく場面はいかにもお粗末だが(今ならCGでいくらでもリアルに再現できる)、CDがなくてもこれだけのセットを作ってしまう。美術部や大道具部の熟練の技術は時にCGも及ばない見事なセットを作り上げることが出来る。イギリス映画の名作「黒水仙」は崖の上にある修道院が舞台だが、その崖自体がセットだったと聞いて仰天したものだ。安易にCGに頼ることは考え直すべきだ。リアルなセットを作る技術がこれまでどれだけの優れた映画を支えてきたことか。30年以上たった今でも「ポセイドン・アドベンチャー」はパニック映画の傑作のひとつだ。

「名もなきアフリカの地で」(2001年、カロリーヌ・リンク監督、ドイツ)
 久々のドイツ映画。なかなかいい。ナチスに迫害されるユダヤ人の話だが、舞台をアフリカにしたところがユニーク。ナチスの不穏な動きを早めに察知した主人公はアフリカに亡命する。後から妻と娘を呼び寄せる。他の家族にも早くドイツを出るよう説得したが、結局脱出できたのは彼らだけだった。残された人たちはポーランドに送られ帰ってこなかった。
 話はこのドイツ人一家のアフリカでの暮らしを中心に描いている。最初こんな土地にはすめないと言っていた妻が最後にはドイツ帰国に一番強く反対するようになる。料理のうまい現地人が雇われていて、彼が娘と心を通わせて行く。現地の子どもたちともすぐ仲良くなり、親しい男友達も出来る。父親は元弁護士で満足な仕事を得られなくていらいらしている。同じようにいらいらしている妻としょっちゅうぶつかり合う。
  やがてイギリスはドイツと戦争状態に入ったため彼らは適性国民としてイギリス軍に拘束されるが、迫害されているユダヤ人だということで意外にいい待遇を受ける。妻がドイツ語の出来るイギリス兵に夫の職を見つけてやるという条件で一夜の関係を迫られる。彼女は夫と家族のために従う。また以前から親しくしていたドイツ人亡命者ともいい関係になるが、最後は夫を選ぶ。やがて戦争が終わり夫は裁判官の職をドイツで得られることになる。妻は反対する。娘はイギリスの学校に通っていたが、強くは反対しなかった。結局妻も夫に同意する。
 親しくしていた現地人の料理人との別れの場面がいい。名作というほどではないが、すがすがしい印象の残る映画である。

「誤発弾」(1961年、ユ・ヒョンモク監督、韓国)
 長い間韓国映画の最高傑作といわれていた作品。驚くほど日本の古い映画に似ている。ストーリーの展開、映像、音楽や録音の状態、建物まで似ている(障子がある)。日本語で吹き替えていたら韓国映画だとはしばらく気づかないのではないか。顔や服装だって日本人そっくりなのだから。実際ときどき日本映画を見ているような錯覚を覚えた。話も戦後の混乱期を描いた日本映画に通じるところがある。戦後といってもこちらは朝鮮戦争後だが。山本薩夫が密かに韓国で撮った映画だと言われたら、うっかり信じてしまうかも知れない。
  貧しくて自分の歯の治療にもいけない兄、ただ我慢するだけの妻、戦争で腹を撃たれまともな仕事に就けず毎日酒を飲んでいる弟、家族に隠れて体を売っている妹、いつも「行こう」「行こう」と叫ぶぼけた母親(空襲の恐怖を思い出しているのか)、それに子ども2人。貧しいぼろ家に7人が住んでいる。弟は銀行強盗をしてつかまり、兄の妻は出産で死ぬ。兄は妻の死を聞いて、呆然となる。病院からの帰り、思い切って歯を抜く。もう一本も抜いてくれと頼むが、出血がひどくなるので1本しか出来ないと断られる。しかし痛みに耐えかね別の歯医者に行きもう1本も抜いてしまう。出血でふらふらになりタクシーに乗る。最初は病院へ行けと命じ、次に警察署に行けと言う。口の端から血が滴り落ちている。着くと今度はどこでもいいから行けと言う。運転手は酔っ払っているのかと思い、まるで誤って発射された弾丸のように行方が定まらないとつぶやく。
 さすがに白黒の映像は古さを感じる。フィルムも韓国内では失われていたので、アメリカにあった英語の字幕つきのものが使われている。英語と日本語の字幕がついているので多少見にくい。しかしそれはしばらく見ていれば気にならなくなる。気になるのはやはり日本映画との類似性だ。61年の映画だから日本占領時代の名残りが今より色濃く繁栄されていただろう。字幕もハングルではなく漢字だ。建物の瓦も日本と同じ。玄関で靴を脱いで家に上がるのは「接続」「春の日は過ぎ行く」などで見て知っていた。最初は驚いたが。つまり韓国の生活自体が日本によく似ているのだ。今まで遠くて近い国だったのでそんなことすら知らなかったのである。「猟奇的な彼女」か「イルマーレ」に剣道が出てきて驚いたこともあった。映画作りもかつては日本映画から多くを学んでいたことがよく分かる。

庭の枯葉~生活のゆとり

momizi  庭でタバコを吸っていたら、枯葉がかなり落ちていることに気付いた。昨日までは気付かなかった。今日になって急に落ち始めたのだろうか。秋が深まってきたようだ。庭の木はまだ一部しか紅葉していないのに、もう葉が落ちるとは。木に元気がないということか。そう言えばおとといあたりからリンドウの花が一輪咲いている。去年まではもっとたくさん咲いていたのに、今年は寂しい。庭のいたるところに芝がはびこり、いつか抜かねばと思いつつやらずに来てしまった。庭の一部に植えたはずが、どんどん回りに広がっている。リンドウに元気がないのは芝のせいだろうか。伸び放題の芝、厄介な存在だ。

 長野に来てから季節の変化を感じるのはもっぱら山だった。しかし庭を造ってからは庭の変化から季節を感じることが多くなった。やはり庭を造ってよかった。最近はブログ作りに時間を取られ、すっかり庭の手入れをおろそかにしている。うっかりすると水撒きさえ忘れている。プランターの花をいくつも枯らしてしまった。地面に直に植えている花はしばらく水をやらなくても長持ちするが、プランターの場合はそうは行かない。

 そろそろブログに割く時間を減らすようにしよう。何も毎日更新する必要はない。自然のリズムに出来るだけ近づけてゆこう。映画のレビューは1本仕上げるのに3、4時間はかかる。映画自体を見る時間を合わせれば5、6時間かけていることになる。映画を見るたびにこれを繰り返すのは正直しんどい。そろそろ肩の力を抜く時期だな。 ちょうどブログに載せる映画レビューのストックも底をついてきた。ここらで生活の余裕を取り戻そう。毎日長い時間パソコンに向かっているので、庭の手入れだけでなく本を読む時間も減った。以前紹介したハリポタの新作もあれ以来ほったらかしだ。好きな散歩も長いことしていない。音楽をゆっくり聴く時間も激減した。パソコンとばかり向き合っているので日記も短くなってしまった。ほかのことを何もしていないから書くことがないわけだ。ブログに載せるために映画を必死で見る。いかん、いかん、これでは本末転倒だ。もっとペースを落とそう。

 今週あたりからブログの更新を週2~4回に減らそう。もっと時間をかけて記事を書こう。SD-rain01行き当たりばったりで映画を見るのではなく、シリーズを作ってある程度計画的に見るようにしよう。今ひとつ考えているのは「名作の森」シリーズ。古典的名作を1~2週間に1本ずつ紹介するシリーズだ。今まででもそれはやってきていたが、シリーズ化することで自分に課題を持たせ、広く名作を知ってもらおうという考えである。ペースもこの程度なら負担にはならない。名作は何十年たっても色あせない。今なら、DVDや衛星放送で古い映画も簡単に見られる。さらに、シリーズ化すれば、次はどんな作品を採り上げるのだろうと期待してくれる読者も出てくるかもしれない。

 ブログに関してもう一つ課題がある。映画レビューの五十音順のリストを作ることだ。ブログの欠点は、古い記事を探しにくいということである。最近書いた記事しかトップページには表記されない。バックナンバーも付いてはいるが、日付で区切られているので、一つひとつの記事のタイトルが分からない。他のブログには五十音順のリストが付いているものもあるが、ココログには標準装備されていない。何らかの工夫をしてつけているのだと思うが、その方法が分からない。何とかその方法を見つけるのが当面の課題だ。

2005年10月16日 (日)

リアリズムの宿

2003年 silver_cart
原作:つげ義春「リアリズムの宿」「会津の釣り宿」
【スタッフ】
脚本:山下敦弘、向井康介
監督:山下敦弘
音楽:くるり
撮影:近藤龍人
【出演】
長塚圭史、山本浩司、尾野真千子、山本剛史、康すおん
サニー・フランシス、多賀勝一

 ちょうど先月高野慎三の『つげ義春1968』(ちくま文庫)を読んだばかりだった(「リアリズムの宿」のエンディング・クレジットを見ていたら企画:高野慎三と出ていた)。友人の勧めもあり、今一番見たいと思っている日本映画「リンダ、リンダ、リンダ」の監督でもあるので、「リアリズムの宿」をレンタルしてきた。当然つげワールドとは別の世界である。つげの原作を忠実に再現しようとしてもどだい無理な話だ。白黒の画面でなければあの雰囲気は出せないだろうし、当時の風景も消え去ってしまっている。時代は逆行するが(原作が書かれたのは70年代)、60年代に白黒で映画化していたらかなり原作に近い雰囲気が出せたかもしれない。それでもつげ独特のシュールで乾いた味わいを盛り込むのは難しいだろう。「無能の人」の映画化も失敗していたと思う。あまり原作にとらわれず、思い切って新しい世界を作るつもりでなければ成功しないのではないか。それではつげの世界ではなくなってしまうが、それで構わない。映画化というより再創造なのだから。その意味ではこの映画はある程度原作の味を残しながら独自の世界を作ることに成功したといえる。

  映画を観終わった後つげの原作を読み直してみた。「リアリズムの宿」「会津の釣り宿」は両方とも「つげ義春全集5」(筑摩書房)に入っている。ど汚い宿(病気の旦那がいて、風呂が汚くて入れなかったあの宿)に泊まる話は「リアリズムの宿」、魚を売りつけた男が実は泊まった宿の旦那だったという話や持ち込んだ酒を飲まれてしまう話は「会津の釣り宿」から取っている。そうそう、露天風呂の話も「会津の釣り宿」にあるエピソード。内風呂をただ外に置いただけの「露天風呂」は、原作では洪水で下流の床屋の風呂が逆に上流に流されてきたのを、宿の主人が貰い受けて開発したことになっている。床屋の娘が風呂に入ったまま、風呂が乗っていた大きな岩盤ごと上流に流されてきたというシュールな設定である。映画ではさすがにそこまでは描かなかったが、その理由の一つは焦点が主人公の二人に当てられているからだろう。泊まった宿や出会った人たちにはあまり深入りせず、それらは点々とつながるエピソードの一つとして流れてゆくだけである。

 唯一の例外は海岸で出会った不思議な女の子、川島敦子である。彼女は原作には出てこない。他の短編にキャラクターの原形があるかも知れないが、そこまで調べる時間はなかった。現金なもので、それまで弾まなかった会話も彼女が現れてからは急に弾むようになり、男2人も元気になってくる。しかし突然彼女はバスに乗って2人の前から消えうせてしまう。現れ方も消え方も唐突で、その謎めいた雰囲気が映画と合っている。その意味で彼女の創造は成功だった。彼女は最後にもう一度出てきて種明かしがされてしまうが(東京の原宿に住んでいると言っていたが、実は...)。演じた尾野真千子はなかなか存在感があっていい。

 リアリズムという言葉の意味についてここで少し触れておこう。「リアリズムの宿」のリアリズムという言葉は芸術の用語、あるいは文学理論におけるそれとは違う意味で使われている。原作から引用すると、「ぼくは貧しげでみすぼらしい風物にはそれなりに親しみを覚えるのだが、リアリズム(生活の臭い)にはあまり触れたくないのだ、というより胸が痛むのがいやなのだ」。これは主人公の男のせりふ、ないし独白である。においを「匂い」ではなく「臭い」と書くあたりに生の現実に対する男の感覚が出ている(ある程度までつげ本人の感覚と共通しているのかもしれない)。つまり「生の現実」ではなく「現実らしさ」に惹かれているのである。テレビのニュースやドラマで見て共感することでも、現実に自分の身に降りかかってきた場合うっとうしくて仕方がない。そういう感覚。男がひなびた温泉宿を泊まり歩くのも、都会を離れてひなびた雰囲気に浸りたいからであって、そこでの生々しい生活を見たいからfusen6ではないのだ。「柳川掘割物語」のレビューでも書いたが、現実は「わずらわしい」ものなのである。そういえば、山下監督も「何か作品を作っている人はどこか生身の人間が苦手なんじゃないかと僕は思う」とインタビューで語っていた。どんなにリアリズムといっても所詮はフィクションである。だから感動したり、共感したり、もらい泣きしたり出来るのである。貧しさやみすぼらしさは「風物」であって「現実」であってはならない。つかの間それに浸ることが出来ればそれでよい。別に男の感覚を批判しているわけではない。これは誰にでもある感覚だろう。映画に描かれた戦場での友情や勇気に感動したとしても、弾丸や砲弾が飛び交う戦場に自分もいたいとは誰も思わない。

 原作の漫画は、宿を間違えたため皮肉なことにその泊まりたくない「リアリズムの宿に」泊まらざるを得なくなった男の戸惑いを描いている。ゴホゴホ咳き込んでいる宿の主人、部屋は薄汚くて畳が傾き、子供が走り回り、女将さんはそれをしょっちゅう叱り飛ばしている。やせこけ、髪もほつれている女将は「ちょっと散歩に出てきますから」という口実で逃げ出そうとする男を引きとめ、どうしても外に行くならカバンを置いてゆけとすがる。女将が靴を土間の片隅にかたすのを見て男は観念する。散歩の途中、寒風吹きすさぶ中を女将がイカ一杯(1匹)をなべに入れて買い物から戻るところを目撃する。風に背を丸めて去って行くしおれたような寂しい後姿。その夜薄くて透けそうなイカの刺身が出た。味噌汁を運んできた子供が「シャモジ」を落としたり、風呂が汚くて入れなかったことなどは映画と同じ。男はもはや「胸が痛くなる」どころか怒りさえ感じはじめる。ふて寝している男に教科書を読む子供の声が聞こえてくる。「蜘蛛の糸」だ。一本の糸にすがって地獄から抜け出そうとする亡者たち。男の気持ちも似たような気持ちだったのか。

 この映画は間の取りかたが絶妙だとよく言われる。しかし間のとり方というよりは、要するに会話が弾まないわけである。冒頭の駅での場面がそのシチュエーションを象徴的にあらわしている。映画監督の卵・木下と脚本家の卵・坪井は駅の前で並んで立っている。互いに顔ぐらいは知っているが、友人と呼べるほどの仲ではない。言葉を交わすでもなく、互いに共通の友人である船木が早く来ないかと心待ちにしている。しかし舟木は来ない。とそこへ舟木から携帯に電話がかかってくる。同じ携帯で二人がそれぞれに舟木と話す。その度に一人ずつ画面の前の方に出てくるところが可笑しい。前に来るから観客にも声が聞こえるという卓抜な設定である。船木は約束を忘れていたようだ。船木が遅れることが分かると、あいつは俺より年下なのかなどもう一人のことをしきりに聞き出し始めるのが可笑しい。「ゴドーを待ちながら」じゃないが、「船木を待ちながら」二人は仕方なく宿屋へと向かう。しかし宿屋は閉まっていた。

 冒頭部分の雰囲気が映画の雰囲気を決定付けている。互いに相手を意識しあい、弾まない会話。映画は、船木が到着するまでの時間をこの二人がどう過ごしたかを描いてゆく。やがて敦子が二人に加わってようやく話が弾みだす。ここからふたりの男と一人の女の旅に変わる。様々な出来事と出会うが、映画の視点は出会った出来事や人々にではなく、むしろ主人公の木下と坪井に向けられている。二人の意識の変化と、二人を包む空気が描かれるのである。妙な宿や妙な人々が次々に出てきて、その都度彼らを包む空気が変わってゆく。二人の微妙な距離感もしだいに縮まってきて、例の「リアリズムの宿」に泊まったときには、腹を立てていた漫画の主人公とは違って、二人は一緒に笑い転げる。

 つげの原作にはこの笑いがない。宿での大笑いだけではなく、二人の微妙な距離感や彼らを包む空気が引き起こすちょっとした笑い(「オフビートな笑い」と表現した人もいる)、これがない。この違いが原作と映画の一番の違いだろう。原作にある物寂しさ、そこはかとなく感じる滑稽さに代わって、現代的なクスクス笑いが振りまかれている。どちらがいいというわけではない。映画は原作漫画とは別の作品であり、それ独自の魅力を作り出しているのだから。

誰も知らない

2004年 日本c_aki03b
【スタッフ】
脚本:是枝裕和
監督:是枝裕和
音楽:ゴンチチ
撮影:山崎裕
【出演】
柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、YOU、韓英恵
加瀬亮、寺島進

 カンヌ映画祭で主演の柳楽(やぎら)優弥が史上最年少の14歳で最優秀男優賞を受賞した。大体の話は事前に知っていたが、前半は予想に反して子供たちの 日常が意外に明るく描かれている。是枝作品は「幻の光」「ワンダフル・ライフ」に続いて3本目だが、前の2本はほとんど覚えていない。特に後者は見たことすら忘れていた。「誰も知らない」はこの2本よりも格段に優れた作品である。

 あるアパートに母親と息子一人が引っ越してくる。おや、どうして子供が一人だけなんだと思っていると、トランクの中から女の子と男の子が出てくる。もう 一人の女の子は別に電車かバスで来たようだ。長男が迎えに行く。これで全員がそろった。この最初の展開が意表をついていて面白い。母親は子供たちに大声で 騒いではいけない、ベランダや外には出てはいけないと言い聞かせる。理由ははっきり示されてはいないが、父親がいない(海外出張中ということになっている)母親と子供4人の家族ではアパートが借りられない事情があるようだ。子供は出生届も出されていず、父親もそれぞれ違う。学校にも通っていない。

 最初のうちは母親の働きと長男の主婦代わりの活躍で何とか楽しく暮らしている。子供たちも言いつけを守っている。この暮らしが暗転するのは、ある日突然母親が出て行ってしまってからだ。子供の父親が全員違うことが暗示しているように、この母親は自分勝手でうまく男と付き合ってゆけないようだ。選んだ男もそれなりの男たちなのだろう。そのわりにはよくしつけられた子供たちなのが不自然と言えば不自然だが。好意的に解釈すれば、母親がいい加減なので子供たちがその分早く自立しているともいえるかもしれない。

 長男の明を演じる柳楽優弥は確かに存在感がある。特に目が印象的だ。他の3人も個性的でよく描き分けられている。母親役のYOUもいかにも無責任そうな 母親の役をうまく演じている。というより彼女の地そのままの感じだ(言い過ぎか?)。母親失踪後一人の女子高校生が子供たちと接近する。しかし彼女もいじめにあっていて、子供たちの生活を支える力はない。

 それでもある事故が起こるまではむしろ子供たちの明るさと不自由な中でも何とか生きてゆくたくましさが描かれていて好印象があった。しかしあるとき一番下の女の子が椅子から落ちて瀕死の重態になる。その頃には母親が送ってきたお金も底をつき、医者につれて行けない。警察や生活保護に頼れば、4人がばらばらに暮らすことになるのでそれにも踏み切れない。結局幼い妹は治療も受けずに死んでしまう。長男の明は、いつか飛行機をみに連れてゆくと言った約束を果たすために、高校生の女の子と一緒に死んだ妹をトランクに詰めて羽田空港まで行く。空港の近くに妹を埋めて帰ってくる。

 この最後の3分の1あたりが見ていて非常にいらいらした。つらいというよりいらいらした。4人がばらばらになるのはいやだという明の気持ちも理解できるが、だからと言って重態の妹を見殺しにすべきだったのか。正直言って、このあたりは無責任な母親より明の態度に疑問を感じた。なんとも重苦しい結末であ る。

 実話に基づいてはいるが、子供たちの生活、心理描写については是枝監督の創作だとmado01bwいう。事実関係を見れば実際の事件の方がもっと悲惨である。映画では一番下の女の子が死ぬのは椅子から落ちたためだということになっているが、実話では長男が付き合っていた男友達の一人が面白半分に幼い女の子を折檻して死なせたのである。さらに実話ではもう一人男の子がおり、その子は病気で死んだのだが戸籍上生まれていないので死んだと届けるわけにも行かず、消臭剤と一緒に押入れに隠していたという。子供たちはずっと死体と一緒に暮らしていたのである。

 これではあまりに悲惨なので前半は子供たちの世界を明るく描いているのだろう。前半はよく出来ていたと思う。問題は後半だ。妹が死ぬあたりから最後までは明に共感できなかった。観ているうちに気持ちが離れていった。その理由は上に述べたが、共感できない理由は明の気持ちがはっきりと示されず、彼の行動だけが描かれているからではないか。頭の中では悩んで葛藤していたに違いないが、行動だけ見ていてもその気持ちが分からない。いらいらするだけだ。死んで いった一番小さい妹は哀れだが、映画は出口が見出せないままの状態で終わる。無理やりお涙頂戴にしなかったことはいいとしても、何の救いもないままに終わ るのは疑問が残る。

 是枝監督はかつてフジテレビでドキュメンタリー番組を作っていたようだ。その中には『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(91)というタイトルの番組もあるようなので、以前からこの種の問題には関心があったのだろう。子供たちが「発見」されるところで映画を終わらせなかったのは、このような問題が今でも社会の中に存在し続けているのだと訴えたかったものと思われる。この3人の子供たちは今でもどこかで暮らしているのである。その意味でドキュメンタリー風に撮った是枝監督の手法は成功していると言ってよい。「僕はこの作品が持つ境目のない空気の中に、未だ漂っているのかもしれない」とあるサイトで書いている人がいたが、「境目のない空気」と言う表現はフィクションが現実に思えかねないこの作品の現実感をうまく表現している。

 ただやはり問題はこの最後の行き詰まり感だ。この作品を観た後に暗澹たる気持ちが残るのは、恐らく焦点を子供たちに絞っているからだ。作品は子供たちの視点から描かれている。そのために母親の事情がほとんど何も描かれていない。母親に自分勝手だと非難を向ける明に、「私には幸せになる権利はないの?」と返した言葉だけでは不十分だ。彼女しても生まれてすぐ子供を邪魔者扱いにしてすぐに殺してしまったわけではない。出て行くまでは一応育ててはいた。映画が始まった時点の様な事情にどういう経緯でなったのかは一切語られていない。それでいきなり母親がいなくなれば当然非難は母親に向けられる。もちろん無知で無責任な親だったと言わざるを得ないが、戸籍のない子供をかかえた未婚の母にどれだけ世間が冷たいか観客も自問してみればいい。それぞれの子供の父親だって同じように無責任なのだが、非難が母親にばかり向けられるのは未だにダブル・スタンダードが生きていることを示している。しかしこの映画はその方向は一切切り捨て、ひたすら子供たちの日常に密着する。そこに閉塞感が生まれる。

 要するに、この映画の一番の問題はどこにも怒りのもって行き場がないことである。だから観客は、子供たちに同情し彼らをそこに追い込んだ状況に怒りを覚 えながらも、その怒りの持って行き場がないのでいらいらするのである。ケン・ローチ監督の「レディバード・レディバード」との決定的な違いはそこにある。 こちらは同じようなだらしのない母親を描きながらも、その彼女には子供を養育する資格はないと次々と子供を「保護」という名の下に奪い取ってゆく行政の非情さを描いている。ついには生まれたばかりの子供まで母親の目の前から奪い取ってゆく。体中から怒りが噴出す思いだった。閉塞感を抜け出すには怒りが必要なのだ。これを見ろとばかりにただ悲惨な状況を突きつけられるだけでは絶望感しか生まれない。見終わった後暗澹たる気持ちになるよりは、憤りを覚える方がましだ。なぜならそこからは現状を変えようという意志が生まれるか

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