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2005年10月9日 - 2005年10月15日

2005年10月15日 (土)

ハッピー・フューネラル

2001年 中国・アメリカkouteipanda
【スタッフ】
脚本:フォン・シャオガン、リ・シャオミン、シー・カン
監督:フォン・シャオガン
音楽:サン・パオ
撮影:チャン・リー
【出演】
 グォ・ヨウ、ロザムンド・クワン、ドナルド・サザーランド
   イン・ダ、ポール・マザースキー

 ホウ・シャオシェンの「ミレニアム・マンボ」があまりにもつまらなかったので、口直しに観た映画。ホウ・シャオシェンは「珈琲時光」(2003)でもずいぶん作風が変わったと思ったが、この映画は小津へのオマージュなので、作風の変化はそのせいだろうと思っていた。しかし「ミレニアム・マンボ」(2001)を観るともっと前から作風が変わっていたことが分かる。ほとんど香港映画の作りだ。いつの間にウォン・カーウァイに弟子入りしたんだ?かつての台湾映画の旗手は擬似香港映画の三流監督になってしまった。

 そんなわけで夜中に「ハッピー・フューネラル」を見たのだが、こちらは逆に期待以上に楽しめた。中国の本格的コメディを観たのは「キープ・クール」が最初で、その時は当然中国のコメディの作風や傾向がどんなものか知らなかった。もちろん「ハッピー・フューネラル」を加えてもまだ2本目だから中国のコメディ全体については分からないが、この2本に共通する要素があることに気付いた。難しい理屈も、鋭い風刺や皮肉も、ブラックな笑いもいらない、とにかくとことん笑えればそれでいいという作りだ。この映画のレビューの中にはいろいろなことを読み取ろうとしているものがあるが、恐らくそれは見当違いだ。この映画には何もこめられていない。あるのはただ笑いだけだ。何も考えずただ面白がればいい。中国の大衆が求めているのはどうやらそういう笑いだ。

 両方に共通するのは、まず基本的なアイデアを決め(「ハッピー・フューネラル」の場合はアメリカ人映画監督の「笑える葬式」を企画するということ)、それをとことんありえないところまで突き詰めて行くことから生まれる笑いを創造することである。 

 「ラスト・エンペラー」のリメイクを撮るために、中国の紫禁城へ来ていた監督のタイラー(ドナルド・サザーランド)は、かけられた予算は膨大なものであったが、くだらない企画に飽き飽きしていた。アイデアに詰まり、撮影にもさっぱり身が入らない。撮影の合間に、中国には70歳以上生きた人間にはその大往生を祝って“喜葬”を行うという習慣があるのを、メイキングを撮っている中国人カメラマンのヨーヨー(グォ・ヨウ)から聞いて強い関心を持つ。彼はそれを「笑える葬式」と理解し(この段階で既に誤解がある)、自分が死んだときも葬式は「笑える葬式」にしてほしいとにヨーヨーにもらす。その直後本当にタイラーは倒れ、意識不明に陥ってしまう。 「笑える葬式」がタイラーの遺言と信じたヨーヨーは友人のイベントプロモーターのルイス(イン・ダ)と協力して「笑える葬式」の実現のために奔走する。チャン・イーモウ演出で『トゥーランドット』を上映するとか、人気漫才コンビに「タイラーを笑い飛ばせ」を演じさせるとか、さらには人気歌手のコンサート、アフリカの子どもに生まれ変わったタイラーのCG上映など、次々にとんでもない派手な企画をぶち上げる。他にもチェン・カイコーなど有名人の名前が次々に挙がる。金はないが意表をつくとんでもない企画を考え出す才能にたけたルイス(短髪で髪を金色に染めている)が可笑しい。

 しかしヨーヨーはタイラー監督のアシスタント兼通訳を務める中国系アメリカ人のルーシー(ロザムンド・クワン)から、葬儀の資金が全くないと聞かされ愕然とする。だがすぐ立ち直るのが中国人。ルイスと相談するうちに、資金がないのならこの葬式を世界でTV放映し、その広告費で資金を集めてしまえという究極のアイデアをひねり出す。世界に知られる大監督の「喜葬」を一大エンタテインメントとして大々的に宣伝し、世界中から群がるスポンSD-cl-rom05サー相手に広告枠を競売にかけることにする。これが大成功。広大な紫禁城がたちまち巨大な広告展示場と化してしまう。棺はいつの間にか巨額の広告費を出したイタリアの家具会社の家具に変わり、遺体の換わりの人形(本番では本物の遺体になるのか?)には、それぞれ別々のスポンサーがついている時計、衣服、靴(片方はスニーカー、もう片方は革靴)が付けられ、苦肉の策で口にはティーバッグをくわえ、頭の横にはふけ取りシャンプーが置かれている。もう滅茶苦茶だ。あたり一面スポンサーの名前だらけ、紫禁城が広告で埋めつくされる。車のボディでも何でも、とにかく空いているスペースがあれば全部広告が貼られている。このように、よくまあそこまでというくらい、とことん話を大げさにしてゆくのが中国流コメディだ(少なくとも上記の2作はそうである)。

 ところが、肝心なタイラーが奇跡的に回復してしまう。ルーシーからヨーヨーの奮闘ぶりを聞いたタイラーは、自分が回復したことを黙っているようルーシーに言い聞かせる。どうやら彼には何か考えがあるようだ。しかし、あまりの事態の進展ぶりに、ついにルーシーは真実をヨーヨーに話してしまう(その頃までには二人の間に微妙な感情が芽生えていた)。

 その後急に画面は「数ヵ月後」まで飛んでしまう。ルーシーが悩めるヨーヨーをしきりに慰めている。どうやら葬式はキャンセルになったようだ。どこにいるのかはっきりしなかったが、どうやら精神病院にいるらしい。やがて気持ちの整理がついたヨーヨーはルーシーにキスをする。となるはずだが、なかなかキスをしない。離れたところで二人を見ていたタイラーはしばらくたってから「カット」と叫ぶ。しかしどうやらヨーヨーがキスをやめないらしい、何度も「カット」を繰り返す。そして崩れるようにして倒れてしまう。

 タイラーの考えがどんなものだったかはこれで想像がつくだろう。倒れたタイラーはどうなったのか。それは実際に見てのお楽しみ。とにかくはちゃめちゃで面白い。難しいことは言わずにとにかく楽しめばいい、この手の映画はそうするのが一番。  ヨーヨーを演じたのは「活きる」で主演したグォ・ヨウ。コン・リーを上回る名演で、あのきつい顔が記憶に残っている人は多いだろう。ここではあのきつさはないが、まじめなヨーヨーを生真面目に演じている。ばかげた振る舞いをしたりおどけたりしていないから笑いを誘うのである。おどけ役は相棒のルイスを演じるイン・ダが務めている。終始まじめに演じているからこそ、このでこぼこコンビの取り合わせの妙が生きてくるのである。

 しかし僕が一番魅力を感じたのは紅一点のロザムンド・クワン。初めてみた女優である。白石美帆似で、白石美帆よりも美人だ。すっかりほれ込んでしまった。10代のコギャルや20代の女優にはない魅力。いやあ、参りました。ゴブリン沈没。

 監督のフォン・シャオガンは「ハッピー・フューネラル」が日本初紹介作品となる。中国一の売れっ子監督だそうである。97年の「甲方乙方(未)」が大ヒットして以来、中国を代表するヒットメーカーとなる。98年からは寅さんばりに毎年正月映画作品を送り出しているそうだ。恐らくコメディが持ち味なのだろう。チャン・イーモウやチェン・カイコーなどの陰に隠れてこれまで見えなかったが、フォン・シャオガンを始めとしてもっと中国製コメディの輸入が増えてもいいと思った。

寄せ集め映画短評集 その8

在庫一掃セール第8弾。今度は各国映画7連発。

ship002_s「熱帯魚」(1995年、チェン・ユーシュン監督、台湾)

  日本映画の「大誘拐」を思わせる展開。男2人組みが幼稚園生ぐらいの子供を誘拐する。それを見た高校生がトラックに飛び乗り一緒に誘拐されてしまう。小さい方の子供は養子だったので身代金は要求できないことが分かった。そこで高校生の方の親に脅迫電話をかけるが、金の受け渡し現場に警察が来ていたので引き返す。その場にいた警察官が誘拐犯の知り合いで、冷や汗をかきながら言葉を交わすあたりがこっけいだ。ところがその誘拐犯は途中で事故に会いあっさり死んでしまう。残ったもう一人の誘拐犯は困り果てた末、親戚の家族に協力を求める。金に目がくらんであっさりとその一家が協力するあたりも可笑しい。そのおばさんは見世物の蛇女をやっているような人だ。ちょっとやそっとではひるんだりしない感じ。その一家は貧しいが芯から悪い人たちではない。水門の故障で雨が降ると床まで浸水するような家に住んでいる。足元を水につけながら特別驚くでもなくテーブルで食事をしている光景がなんともシュ-ルだ。人質の高校生も別に縛られるわけでもなく親切に扱われている。
  その高校生が実は受験生だった。誘拐犯たちが何とか受験だけはさせてやろうと涙ぐましい努力をする展開が可笑しい。そのためには少しでも早く身代金を手に入れて高校生を解放しなければならない。彼らは交渉を早める。しかし色々すれ違いがあってなかなか交渉が進まない。電話係の男が市外局番のことを知らなくて、いつかけても話中だといってすごすご引き返してくるあたりは笑える。 そうこうするうち高校生は受験生の英雄になり、受験まであと何日と盛んにテレビで市民の関心を集めている。最後は結局警察に見つかってしまうが、高校生は犯人たちをかばって、犯人は別にいて彼らが助けてくれたのだと警察に嘘をつく。最後はうまく収まる。 アジアの国々はどこも学歴尊重社会だが、この映画はそれをうまく題材にして面白いコメディに仕立て上げることに成功している。

「スパニッシュ・アパートメント」(2002年、セドリック・クラピッシュ監督、仏・西)
  卒業しても就職が決まらないパリの大学生グザヴィエがスペインに留学する。いい宿が見つからず苦労した末に大学生達が共同で借りているアパートに住むことになった。他の6名の学生はそれぞれ出身国が違う。イギリス、ベルギー、スペイン、ドイツ、フランス。まるで60年代のヒッピー達のような共同生活。どうやらEUを意識しているらしい。最後にヨーロッパは混沌としているというグザヴィエのせりふが出てくる。 グザヴィエはパリに恋人(オドレイ・トトゥ)を残してきたが、離ればなれになってからはギクシャクしている。その反動からか飛行機の中で知り合ったフランス人若夫婦の奥さんのほうと浮気する。イギリス娘の弟が来てしばらく住み着き騒動が起きたりと、多少のギクシャクはあるがみんな仲はいい。
  1年間の留学期間が終わりグザヴィエはパリに帰る。パリに帰ってもしっくり来ない。かえって自分を見失っている。親の知り合いに世話してもらった仕事もやめてしまい、作家になる決意をする。今グザヴィエは留学期間の経験を思い、ヨーロッパの混沌を思う。
  青年の失業率が高く、仕事が見つかってもやりがいを感じない。そういったヨーロッパの青年の青春の彷徨を描いた映画だ。傑作とまでは行かないが、最近のフランス映画の勢いを感じさせる佳作である。

「ケミカル51」(2002年、ロニー・ユー監督、米・英・カナダ)
  意外な傑作。アメリカ人の薬剤師が新しい強力な麻薬を発明し、取引をするためにイギリスに渡る。その薬剤師を演じるのがサミュエル・L・ジャクソン。イギリスで彼を出迎えるのがロバート・カーライル。この二人に、女性の殺し屋(エミリー・モーティマー)がからみストーリーが展開する。
  何と言ってもサミュエル・L・ジャクソンがいい。イギリスに降り立ったときの彼の格好はスコットランドのキルト(スコットランドの男が腰に巻くあのスカートみたいなやつ)を身につけた何とも珍妙な格好である。終始この格好を通すところがまたいい。空港で見張っていた警察が民族衣装の男を追えと連絡を受けて、たまたまジャクソンの前を歩いていたインド人一行をそれと勘違いしてつけて行く所は愉快だ。これはまあギャグだが、一貫してアメリカとイギリスのからかい合いがサブテーマになっていて、これが実にぴりっとした薬味になっている。例えば、カーライルがフィッシュ・アンド・チップスを買ってくると、ジャクソンがイギリス人は食い物に困っているのかとからかう。チンピラのカーライルは無類のサッカー好きで、リバプールとマンチェスターUとの試合の切符が欲しいためにこの仕事を引き受けているという設定だ。ジャクソンの名前がマッケルロイというスコットランド名なのもおかしい。他にも散々ひどい目に会うチンピラが出て来たり、リス・エバンスが相変わらず切れた演技を見せていたりと細部にもよく気を配っている。
  意外な収穫だったのは殺し屋役のエミリー・モーティマーだ。細身でとても殺し屋には見are1x02えないが、それがまた妙にはまっていて魅力的である。いきなり冒頭部分の結婚式の場面で花嫁のような白い衣装を着て登場する。教会で突然ハシゴを登り機関銃を組み立て始める。首尾よく参列者の一人を撃ち殺し、教会の鐘撞きロープを伝って下に降り、何食わぬ顔で脱出する。まるで「キル・ビル」だ。この時点からもう彼女の魅力にはまっていた。坂井真紀タイプの顔だが、なかなか色気もあってとてもよろしい。また、彼女が実はカーライルの昔の恋人だったという設定も気が利いている。リバプールが舞台だが、基本的にはアメリカ人の視点からイギリスを見ている感じである。それが独特のコメディ的な味付けになっているのではないか。「シャロウ・グレイブ」「トレイン・スポッティング」などとは一味違った新たな犯罪アクション映画である。

「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976年、山田洋次監督、松竹)
  さすがの傑作。観客を笑わせ、そして泣かせる。ツボを心得た熟練の演出。笑いの引き起こし方が巧みだ。無理に笑わせるのではなく、ごく自然に笑いが湧き起こってくる。例えば、この映画を見たかったのは別所温泉でロケをしたからだが、ここでのエピソードが面白い。寅さんは別所温泉で知り合いの旅回り一座に出会い、夜上機嫌で一座を呼び奢る。しかし翌日料金を請求されるが、当然そんな持ち合わせはない。無銭飲食で警察のご厄介になる。さくらが金を用意して別所に寅を引き取りに来る。しかし警察に行くと、寅さんは今風呂に行っていると言われる。ここがおかしい。警察のご厄介になりながら、のうのうと温泉に浸かりに行っている。しかも警察官は「寅さん」と親しげに呼んでいる。警察で「一泊」した間に何があったか想像がつこうというものだ。警察での一夜そのものを描くのではなく、ちょっとした言葉の端から想像させる。見事な演出だ。
  本作のマドンナは壇ふみと京マチ子。こちらは泣かせの演出だ。壇ふみは光夫の先生役。その母親役の京マチ子は3年ぶりに病院から家に戻ってきたばかり。実はもう直る見込みがないので最後の時間を好きにすごさせようと家に帰されたのだ。そうとは知らない寅さん、初めは娘の方に入れあげるがみんなに年の差を指摘され、今度は母親の方にべったり。しかし明るく振舞っていた京マチ子が突然死去する。この辺りの運びは笑わせまた泣かせる。練達の至芸。寅さんシリーズはほぼ全作品を見たが、シリーズの中でも傑作の部類に入ると思う。

「隠し剣 鬼の爪」(2004年、山田洋次監督)
  前作「たそがれ清兵衛」と似たような設定(貧乏な平侍が主人公、藩命で人を斬ることになる、主人公が剣の達人で相手もまた達人など)だが、二番煎じの感はない。何より片桐宗蔵を演じた永瀬正敏の凛とした表情が素晴らしい。同じ山田監督の「息子」も傑作だったが、より成長した役者としての彼がいた。剣さばきは真田広之の方が上だが、演技では長瀬も負けていない。立派な役者になったものだ。とても「濱マイク」と同じ役者とは思えない。
  きえを演じた共演の松たか子も素晴らしい。控えめでしとやかな美しさが断然光っている。とても百姓の娘には見えないのは難点だが。友人で敵役になる小沢征悦もいい。しかし、この映画は基本的に主役の二人が中心となって支えている。片桐が女中のきえを実家に帰るよう説得する海辺のシーンでは涙が出た。海辺に二人並んでいる場面はどことなく小津映画を思わせるが、そう思ったときにふと気付いた。小津はあまり若い男女の愛を描いたことはないのではないか。小津の世界は家族中心の世界である。したがって親子の愛と夫婦の愛が中心だ。結婚前の男女の恋愛はあまり出てこない。それは娘や息子の結婚という形で描かれる。それは家族の外の世界なのだ。
  山田洋次は時代劇の作法を東宝の黒澤明から学んだが、松竹の先輩小津からも人間をじっくり描く視点を学んだ。冒頭の片桐の家の描写がなんでもない日常の風景を描いているだけなのに、見ていて感動を覚えた。「隠し剣 鬼の爪」の前半はじっくりと平侍の日常を描いている。これがまた出色の出来だ。従来の時代劇の様なド派手な切り合いなどはまったく出てこない。それでも観客を飽きさせないのは芯となる片桐ときえのほのかな愛情がじっくりと描かれているからである。山田洋次は小津の静と黒澤の動を一つに融合することに成功したのである。「たそがれ清兵衛」と「隠し剣 鬼の爪」を日本映画史上に残る名作に仕上げられたのは、これをなしえたからだ。山田洋次は日本映画界の最後の巨匠である。

「華氏911」(2004年、マイケル・ムーア監督、アメリカ)

  全編にマイケル・ムーアの批判精神と抜群の編集力が冴えわたる。「ロジャー&ミー」や「ボウリング・フォー・コロンバイン」は得意のアポなし突撃取材と記録フィルムをうまく編集していたが、ここでは全体の9割以上をニュースなどの記録映像が占め、それに部分的な直接取材を加えて、全体にナレーションを付けるという新しいスタイルを用いている。しかし基本の姿勢はどれも同じだ。アメリカ社会の問題点や矛盾点を鋭く抉り出し、歯に衣を着せぬ痛烈な批判を加える。 彼の故郷の小さな町フリントはここにも登場する。実質失業率は50%に上り、食べてゆけない貧しい層は、教育を受けられ食うに困らない軍隊に志願してゆく。堕落した金持ちたちが国民をだまし安全な国内にとどまりつつイラクに軍隊を送り、飢えた貧しい人々は戦場に向かい命を落とす。上院議員たちは多数の若者たちを戦場に送り出しながら、自分の息子は送ろうとはしない。
yk02   しかしジョージ・ブッシュの無能ぶりを最初から最後まで馬鹿にしているが、9.11の後は、アメリカ全体が対テロ戦争へ向かって一直線に進んでいった。ブッシュがどんなに無能でも、彼はアメリカを実際に戦争に向けて動かすことが出来たのである。ブッシュが有能だといっているのではない。無能な彼の指揮のもとでもアメリカは戦争に突き進んでいった。いったい何がアメリカをそのように動かしたのか。確かに卑劣なテロには誰もが怒りを覚えただろう。だがそれだけでも十分な説明にはならない。政府がマスコミを事実上報道管制下に置き真実を知らせず、政府に都合のよいことだけを報道したことも重大な問題だ。しかしそれだけでもない。
    アメリカ人の基本的な考え方の中に、武力に対する過信が根強くあるのだ。ここで「ボウリング・フォー・コロンバイン」との接点が生まれる。前作で銃の問題を扱っておきながら、どうしてここではその問題を追及しなかったのだろうか。焦点を絞りたかったのかも知れない。また、下手にその点に触れるとアメリカ中を敵に回しかねない。まことにお粗末な政府の論理にころっとだまされて多くの国民がイラク攻撃を支持した原因は、アメリカ国民自身の中にもあると指摘することになるからだ。まあ、理由はともかく、その点は残念だ。だからといってこの作品の価値が落ちるとは思わないが。

「ラスト・サムライ」(2003年、エドワード・ズウィック監督、アメリカ)
  まずまずの出来。半ば過ぎあたりまではそれなりにリアルな感じがしたが、最後の全滅にいたる決戦のあたりからいかにもアメリカ映画という演出が目立った。トム・クルーズと小雪のキスはほとんどありえない。当時の日本人にキスの習慣はなかったはずだし、ましてや武士道を尊ぶ一族の女がそんなことを許すはずはない。このあたりは西洋的価値観を無理やり持ち込んでいる。また、一番違和感があったのは勝元の最後を見て敵方の兵が全員跪くどころか平伏する場面だ。見事な最後に感服した敵方の指揮官が感動のあまり一人跪く程度なら理解できるが、次々に平伏するのはいかにも劇的効果を狙った演出といわざるを得ない。
  また、筋の運びの上で一番問題なのは勝元がいったい何に反対していたのかさっぱり分からないということだ。廃刀令にそむいたのは分かるが、天皇をめぐってどんな考えの違いがあったのかがほとんど描かれていない。ただ天皇の取り巻きが外国の言いなりになっている情けない奴らだと間接的に分かるだけだ。
  最後の戦闘場面も、なかなか壮絶に描かれていてさすがにアメリカ映画だと感心するが、本当に銃や大砲を持った敵に刀と矢だけで立ち向かうのが武士道なのか。鉄砲は信長も使っている。武士が本当に戦争をしなくなった時に武士道が成立したものだということがよくわかる。武士は武士道を極めるのが本来の役割ではない。彼らは兵隊であって、戦争に勝つことが彼らの究極の目標のはずだ。そのためにはより強力な武器を持つことは当然のことではないか。戦乱の時代に、いたずらに家来たちを死なすことが美徳であるはずはない。飛び道具も使ったし、政略結婚でも何でもやったのだ。勇気や誠実さなどの精神的美徳はどこでも通じるだろうが、それだけを純化して褒め上げた結果が無意味な玉砕精神をたたえることに通じるのなら、神風特攻隊を褒め上げるのと同じことになる。
  渡辺謙、真田広之、トム・クルーズたちは確かにかっこいい。しかしそのことばかり強調するのはどうか。すぐれた映画ではあるが、やはりアメリカ映画のご都合主義的演出が所々気にかかる映画である。

2005年10月14日 (金)

ロング・エンゲージメント

SD-ang4-052004年 フランス・アメリカ
【スタッフ】
脚本:ギヨーム・ローラン
監督:ジャン・ピエール・ジュネ
撮影:ブリュノ・デルボネル
【出演】
オドレイ・トトゥ、ギャスパー・ウリエル、ドミニク・ピノン
クロビス・コルニヤック  ジェローム・キルシャー
ティッキー・オルガド、ドニ・ラバン、ドミニク・ベテンフェルド
アルベール・デュポンテル、マリオン・コティヤール
ジャン・ピエール・ベッケル

 傑作「アメリ」のジャン・ピエール・ジュネ監督とオドレイ・トトゥが再び組んだ。今回は「戦場のミステリー」らしい。その程度の予備知識で借りてきた。まあ、悪くはないだろう。正直そんな気持ちだった。結果は、期待をはるかに上回る傑作だった。いや、素晴らしい。久々に胸のうち震えるような恋愛映画を観た。最後の最後まであきらめず、一途に恋人の生存を信じるオドレイ・トトゥのじっと前を見つめる目が脳裏に焼き付いてはなれない。韓国のラブ・ロマンス映画とは違う、本物のフランス映画の香り。地獄の様な戦場のリアルさ、黄色がかった映像の深み、幾重にも入り組み底の知れない謎、胸を打つエンディング。恋愛ミステリーの一級品である。

 第一次大戦の激戦地として知られるソンム。冒頭の映像がすごい。雨が降り続き一面泥沼と化した戦場。フランス軍が塹壕を築いたあたりはどうやら元は教会が建っていたらしく、焼け残った木材があちこちに傾きながら、まるで荒らされた墓地の墓標のように立っている。画面手前にある1本の柱には破壊されたキリスト像の一部がぶら下がっている。別の柱にはカンテラが吊るされており、その火屋(ほや)を持ち上げて一人の兵士がタバコに火をつける。その兵士が振り向くと脛まで水がたまった塹壕を兵士たちがこちらに向かって進んでくる。その中に両手を縛られた5人の兵士がいる。彼らはわざと自分の手を銃で撃ちぬいたりして軍法会議で死刑を宣告された兵士たちだ。彼らは塹壕を追い出され、フランス軍とドイツ軍の間の中間地帯に追いやられる。事実上の死刑だ。ドイツ軍に撃たれる者、後ろから味方に撃たれる者、次々に倒れてゆく。やがてフランス軍は突撃を敢行し、5人がいた辺りは銃弾が飛び交い砲弾が炸裂する修羅場と化す。

  その5人の中にマリク(ギャスパー・ウリエル)がいた。やがて彼の婚約者マチルド(オドレSD-fai2-09イ・トトゥ)の元に彼が戦死したという知らせが届く。しかし彼女は彼の死を信じない。数年後彼女は探偵を雇い、自分もゆかりの人物を尋ねてマリクの捜索を始める。一人また一人と話を聞くうちに「死刑」の真相が徐々に明らかになってゆく。マリクはドイツ軍の飛行機の機銃に撃たれて倒れたことも分かった。その時彼は木にMMMという文字を刻んでいたという。MMMとは何を意味するのか。それは彼とマチルダだけが知っているある感動的なエピソ-ドと結びついていた。

 一方当時の関係者がある女性によって次々に殺されてゆく。彼女もまた「死刑」になったある兵士の関係者だった。一旦真相が見えそうになるが、また新たな謎が生まれ、混迷を深めてゆく。どうやら5人のうち3人は間違いなく死亡しているらしい。これには目撃者がいる。では他の二人は生きているのか、その二人の中にマリクはいるのか。少しずつすこしずつジグソーパズルのピースがはめ込まれてゆき、次々に意外な展開が待ち受けている。何かを隠しているような謎めいた関係者の表情、周りがあきらめてもなおマリクの生存を信じて疑わないマチルダの一途な思い。練りに練られた脚本が見事だ。

 この真相追及のストーリーにマリクが出征するまでの二人の思い出の場面が差し挟まれる。この映像がまた実に美しい。小児麻痺で片足が不自由なマチルダを背負って灯台の階段を上る少年時代のマリクの姿が感動的である。

 マチルダは塹壕があった場所にも足を運ぶ。何もない平地で、一面丈の高い草で覆われている。かつての激戦地の面影は全くない。そこで偶然見つけたあるものを除いて。それは事の真相とかかわる重要な伏線となる。もちろんここでは明かせない。

 冒頭の戦場の場面からラストまで、複雑な展開を含みながら、ストーリーはよどみなく進んでゆく。登場人物が多く、途中で名前が混乱してくるので、映画を観ながら簡単な登場人物リストを作っておくといいかもしれない。

 とにかくオドレイ・トトゥが素晴らしい。「アメリ」のちょっと変わった可愛らしさとはまた違う彼女の魅力と出会える。マリク役のギャスパー・ウリエルは「プライベート・ライアン」のマット・デイモンに似た感じで、好感が持てる。マチルダの育ての親である伯父夫婦も印象的だ(マチルダは子どもの頃に両親を亡くしている)。彼女を見守る優しい視線が画面に温かみを加えている。ぜひ一見を勧めたい優れた作品である。

2005年10月13日 (木)

Mr.インクレディブル

train002_s2004年 アメリカ
製作:ジョン・ウォーカー
脚本:ブラッド・バード
監督:ブラッド・バード
撮影:アンドリュー・ヒメネズ
声優:クレイグ・T.ネルソン ホリー・ハンター サミュエル・L.・ジャクソン

  「バグズ・ライフ」「トイ・ストーリー」「モンスターズ・インク」「ファイディング・ニモ」などの大ヒット作を生み出してきたピクサー&ディズニー共同による長編フルCGアニメの第6弾。監督は「アイアン・ジャイアント」のブラッド・バード。もはやピクサーはスタジオ・ジブリと並ぶ安心印。まず外れはない。本作も水準の高い、大人も楽しめる作品に仕上がっている。  CGの精度についてはあえて触れない。CGの技術は「アンツ」あたりで既にほぼ十分なレベルに達している。問題はむしろコンテンツ、つまりアイデアとストーリーである。

  「Mr.インクレディブル」は基本的には従来のディズニー・アニメの枠内に収まっている。スーパー・ヒーローが活躍し、家族そろって観られるようストーリーの中心には家族愛がすえられている。しかし、様々な工夫も見られる。世のため人のためと思ってしたことが逆に助けたはずの人たちから訴えられることになる。ついにスーパー・ヒーローたちはその活躍を禁じられてしまう。この設定がなかなか新鮮でいい。このあたりは時代を反映しているのだろう。「スパイダーマン」のシリーズは1本も観ていないが、2作目はスパイダーマンが学費のためにバイトをしたり、悪党扱いされたり、父の仇と憎まれたりで悩める日々を描いているようだ。共通する傾向が現れている。スーパー・ヒーローには生きにくい時代になったのである。

  何とか一般人になろうとMr.インクレディブルは涙ぐましい努力をしている。活躍する機会がないからすっかり太ってしまい、自分の体より小さいのではないかと思える小型車に縮こまるようにして乗り込んで通勤している。今やしがない保険会社の社員である。しかし正義感抑えがたく、依頼人に同情して裏技を教えたりして、上司から怒鳴られる毎日。そのたまった鬱憤を晴らすために、時々警察無線を傍受しては、仲間のフローズンマンと協力して隠れて人助けをしている。このあたりの描き方は実にいい。このまま最後まで押し通したら実にユニークな傑作に仕上がっただろうに。しかしそこはディズニー。結局はスーパー・ヒーローが活躍して悪党をやっつけるというお決まりのパターンに戻ってしまう。

  まあ、どうしても枠そのものは取り払えないのだが、その範囲内で他にも色々工夫をしている。例えばマントの話。「ベルヴィル・ランデブー」のレビューでなぜスーパーマンはマントをつけているかということを書いたが(ただしこれは高橋裕子著『世紀末の赤毛連盟』からの受け売り)、下手にマントをつけていると飛行機のプロペラに引き込まれたり、何かに引っ掛けたりして危ないから必要ないとカリスマ・デザイナーのエドナ・モードが力説するところはなんとも可笑しい。スーパーマンのシンボルも今や時代遅れなのである。airplane002_s

  スーパー・ヒーローの条件もただ強いだけではなくなっている。Mr.インクレディブル自身はただ力が強いだけの従来型ヒーローだ。下半身が細く、上半身が筋肉もりもり。ただし今やかなり贅肉も加わっているが。必死でシェイプアップするところが笑える。力ずくで及ばないところを奥さんのヘレンや子供たちが補う。ヘレンはスーパー・ヒーロー時代はイラスティガールと呼ばれていた。文字通り「しなやかで、変幻自在に対応できる」能力を持っている。これにものすごい速さで走れるダッシュ、バリアーが張れる娘のヴァイオレットが加わって、要するにファミリー・パワーで難敵をやっつけるという展開になっている。ファミリーを強調するところはいかにもアメリカ的だが、もはや強いお父さんが家族を守るという図式ではなくなっている。むしろ奥さんのほうが活躍しているとさえいえる。ヘレンはキャラクターとしても魅力的だ。美人ではないが、なんともチャーミングである。女性が活躍したり、黒人のスーパー・ヒーローがいたりするところはPC(ポリティカル・コレクトネス)の影響もあるだろうが、アニメにも時代が反映していることは注目すべきことだ。

  色々工夫はしているが、結局のところヒーローたちの大活躍が売りというところは変わらない。ドリームワークスの「シュレック」「シュレック2」と比べても従来の枠に収まっていることは明瞭に分かる。「14歳までに見ておくべき映画トップ50」に「ET」「ファインディング・ニモ」「白雪姫」「スター・ウォーズ」「トイ・ストーリー」「オズの魔法使い」などの他に、「キリクと魔女」「裸足の1500マイル」「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」「ミツバチのささやき」「クジラの島の少女」「友だちのうちはどこ?」「白い風船」など、さらには「自転車泥棒」「狩人の夜」「大地のうた」「アラバマ物語」などまでが選ばれるヨーロッパと比べると、「Mr.インクレディブル」がいかにアメリカ的であるかよく分かる。日本人の感覚もアメリカ人に近いだろう。日本では「自転車泥棒」「狩人の夜」「大地のうた」「アラバマ物語」などはまず絶対挙がってこないし、思いつきもしないだろう。ヨーロッパ人の感覚のほうが正しいというつもりはないが、少なくとも子供には子供らしい楽しいお話を読ませておけばいいと考えるのではなく、様々な風俗文化に触れさせ、社会のかかえる問題についても考えさせることが必要だという考え方には学ぶべきものがある。その考え方が大事であって、どの作品を選ぶかは国によって違っていいのである。

  とまあ、色々理屈をこねてみたが、「Mr.インクレディブル」がよく出来た作品である事は確かだ。十分楽しめばいい。ただその後に他の様々な映画と比べてみることも必要だろう。

2005年10月12日 (水)

思い出の夏

train001_s2001年 中国
監督:リー・チーシアン
出演:ウェイ・チーリン、チョン・タイション、リウ・シーカイ
        リー・ワンチュアン

  山西省の小さな田舎町を舞台にした小品だが愛すべき作品。農村部と都市部の経済格差問題を扱っているが、それを映画のロケという題材を通して描いているところが面白い。主人公の少年ショーシェンは暗記が苦手な落第生。1歳年下の生徒と同じクラスにいる。父親は息子の顔を見ると勉強しろとただ怒鳴るだけ。冒頭で村に移動映画館がやってくる場面がある。なんと上映されたのはチャン・イーモウの「キープ・クール」。現代の話だということがそれで分かる。それがなければ4、50年昔の話かと勘違いしてしまいそうだ。未だに移動映画館で映画を見るところがあるとは。町には映画館があり、毎日見られると少年たちがあこがれるのがよく理解できる。ショーシェンの家のテレビは映りが悪く、かろうじて何をやっているのか分かる程度だ。ショーシェンは映画を見に行きたいが、父親は勉強をしろと禁じる。そして妻と一緒にさっさと映画を見に行ってしまう。ショーシェンは結局勉強をサボって、後から友達と一緒に見に行くのだが、親に見つからないよう離れたところから見ているので何をやっているのか分からない始末。

  そんな村になんと映画の撮影隊がやってきた。この村でロケをするという。ショーシェンは助監督と仲良くなり、映画に出してやると言われる。しかし成績が悪いため、校長が選んだ候補者の生徒たちの中には加えてもらえなかった。しかしカメラテストをしてもいい子役が見つからない。そこにショーシェンが飛び込んできていい演技を見せる。監督が気に入って彼にするというが、校長が首を縦に振らない。劣等性を代表に出来ないと。校長は学校で一番の優等生を推薦し、監督も妥協する。ある日その優等生が脚本を読んでいるとき、ショーシェンの友達が優等生が番をしている牛を逃がし、優等生が牛を追いかけている間に脚本を奪ってしまう。ショーシェンは意外な能力を発揮してせりふを完璧に暗記してしまう。しかし牛を追っていった優等生が行方不明になってしまった。せりふ覚えのよさを買われて子役に抜擢されたショーシェンもその罰でまた子役を下ろされそうになる。助監督の説得で、教科書を暗記できれば映画出演を認めてやると校長に言われ、ショーシェンは見事に教科書を暗記してみせる。

  こうして何とかショーシェンは子役の役をもらうことができた。しかし脚本の中に「町にいたくない村に戻りたい」というせりふが出てきて、撮影が頓挫する。町に行きたくて仕方がないショーシェンはどうしてもそのせりふが言えなかったのだ。嘘はつきたくないと。このあたりはいかにもとってつけたような感じもするが、現代中国の都会と田舎の格差をよく表現していると言える。結局監督がこの子役は使えないと見切りをつけ、撮影隊は他の村にいってしまった。

  しょんぼり家にいたショーシェンは照度計が家の垣根に忘れられているのに気付き(彼car008_sの家でロケが行われた)、撮影隊を追ってそれを届けようとする。しかし撮影隊は宿泊所を既に出ていた。向かった先の村は何十キロも離れたところにある。ショーシェンは自転車で追いかけるが、途中で自転車が壊れてしまう。修理してもらっているときに撮影隊がいる村に向かうダンプカーを見つけ、その荷台に乗ってしまう。いつの間にか暗くなり、ダンプカーは積んだ荷物(どうやら石炭ガラのようだ)をザアーっと降ろして走り去る。石炭ガラと一緒に放り出されたショーシェンは、暗闇の中必死になって石炭ガラに埋もれた照度計を探す。やっと照度計を見つけ、さらに歩き続ける。

  村から連絡を受けてショーシェンが撮影隊を追いかけていることを知った助監督が車でショーシェンを探す。やっと道端で座り込んでいるショーシェンを見つける。遠くから2人を映し出すカメラ。ショーシェンが照度計をわたすのが分かる。このあたりがラストシーンだったか。

  もっと先まで見たい気がしてやや物足りなかった。しかしいい映画だ。それにしても、中国旅行記にも書いたが、中国国内の経済格差はすさまじい。巨大ビルが建ち並ぶ大都会があるかと思えば、「あの子を探して」に描かれたような、まともな教師もいない寒村もあったりする。冒頭に書いたように、何の手がかりもなければ昔の話かと錯覚するほどで、とても同じ時代とは思えない。「HERO」や「LOVERS」のようなハリウッドばりの映画が作られている一方で、それを見ようにも映画館一つない村もあるのだ。ショーシェンが都会に憧れる気持ちも分かる。考えようによっては、映画の主題になる材料がいくらでも転がっているということか。

  2人以外は全部素人の俳優を起用したそうだ。ショーシェン役のウェイ・チーリン少年も実際に村に住んでいる少年らしい。監督は主役の少年を探すために、小学校を何十校も訪ねたそうである。野性味があってなかなかいい子役だった。昔は日本にもこういうガキがいっぱいいたな。

2005年10月11日 (火)

雲 息子への手紙

sky_window2001年 ベルギー・ドイツ
監督:マリオン・ヘンセル
撮影:ディディアー・ファーター、ピオ・コラッディ
朗読:カトリーヌ・ドヌーブ、シャーロット・ランプリング

  「ディープ・ブルー」は海の生物の映像詩だったが、こちらは雲の映像詩である。生き物の生態を写し取ったドキュメンタリー映画は幾つかあるが、雲を延々と映し出した映画は今までなかったのではないか。「雲を見る」というエッセイに書いたが(本館HP「緑の杜のゴブリン」の「エッセイ」コーナー所収)、僕は雲を見るが大好きである。それでもすぐに見なかったのは映画としてどうかという不安があったからだ。果たして、結果は懸念通りだった。理由は幾つかある。まず、僕としては雲が刻々と移り変わって行く様をじっと眺めていたいのだが、映画はそうさせてくれない。どんどん次の画面に切り替わってゆく。その分様々な雲が観られるが、じっくり見られないのではどうしても不満が残る。

 もう一つの理由はナレーションである。雲の映像に時々監督のマリオン・ヘンセルが息子にあてた手紙の朗読が入る。フランス語版をカトリーヌ・ドヌーブが、英語版をシャーロット・ランプリングが担当し、他にドイツ語版やスペイン語版などもある。この手紙自体は悪くはないのだが、その度に別の映像がさしはさまれ雲の映像が中断される。これがいかにも邪魔である。もともとドラマであれば問題はないが、ドラマではない映像の流れに別のものが割って入ることになるから邪魔に感じるのである。それも単なるナレーションならそれでもいい。それはよくある一般的な形だ。映像にマッチしていれば邪魔にはならない。ところがこの場合は母子の間の個人的な独白であって、雲の映像とは何の関係もないし、個人的な事情を云々されてもうるさいだけである。普通の詩であればまだ我慢できたと思うが。  もっとも、これは完全に僕の個人的な感想だ。雲に特別関心のない人なら却ってナレーションがあるからすくわれると感じるかもしれない。いや、そういう人ならそもそも見ようと思わないだろうな。

 それはともかく、上記の様な不満はあるが、映像自体は十分魅力的である。下から上から横からと、様々な角度から様々な雲を写し取っている。中には見たこともない雲の映像もある。気持ちの悪い雲や不気味な雲も出てくる。雲だけでは飽きると思ったのか、ターナーなどの雲が描かれている絵画や、雲に似ているほかのもの、火山の噴煙や間欠泉から噴出される水しぶきなどの映像も差し挟まれる。火山の映像では火山弾がこちらに向かっていくつも飛んでくる。思わず体をそらしてよけそうになった。

 まれに見る映像もある。地上から噴煙が吹き上げられている映像が出てくるが、その煙の一部がタバコの煙を噴き出すときに時たまできるようなワッカになっている。まるで地面がタバコの煙をぷかーりぷかーりと吐き出しているように見える。不思議なことにそのワッカがなかなか消えない。空に突き出すように煙が煙突状に伸び、その先端にワッカがある。先端の部分は空気が回転しているのか、煙の先端を折り返すように巻き込んでいるのでワッカが消えない。下に煙をたなびかせながらどんどん上に上って行くのである。言葉で描写するのでは正確に伝わらないかもしれないが、先端にワッカがあり煙突状に細長く煙が伸びているさまは、変なたとえで申し訳ないが、まるで伸びきったコンドームのように見える。よけい分かりにくいか?まあ実際の映像を見てください。この映像を見るだけでも価値があります。ひょっとしたらあなたも雲好きになるかも。

2005年10月10日 (月)

海を飛ぶ夢

SD-memb-012004年 スペイン・フランス・イタリア
【スタッフ】
製作:フェルナンド・ボバイラ
脚本:アレハンドロ・アメナーバル、マテオ・ヒル
監督:アレハンドロ・アメナーバル
音楽:アレハンドロ・アメナーバル
撮影:ハビエル・アギ-レサロベ
【出演】
ハビエル・バルデム、ベレン・ルエダ、ロラ・ドゥエニャス
マベル・リベラ セルソ・ブガーリョ、クララ・セグラ、タマル・ノバス

  「アザーズ」(2001)「オープン・ユア・アイズ」(1997)で知られるアレハンドロ・アメナーバル監督の作品。多才な人で「オープン・ユア・アイズ」の再映画化作品「バニラ・スカイ」(2001)と「蝶の舌」(1999)、そして本作で音楽も担当している。スペイン映画はこのところ好調で、「死ぬまでにしたい10のこと」(2002)、「トーク・トゥ・ハー」(2002)、「靴に恋して」(2002)と傑作が続いている。アレハンドロ・アメナーバル監督はこの「海を飛ぶ夢」でペドロ・アルモドバルと並ぶ現代スペイン映画の2大巨匠になったと感じた。 参考までにこれまでに観たスペイン映画のマイ・ベスト10を次に挙げておく。

「ミツバチのささやき」(1973) ヴィクトル・エリセ監督
「黄昏の恋」(1982) ホセ・ルイス・ガルシ監督
「エル・スール」(1983) ヴィクトル・エリセ監督
「カルメン」(1983) カルロス・サウラ監督
「蝶の舌」(1999) ホセ・ルイス・クエルダ監督
「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999)  ペドロ・アルモドバル監督
「死ぬまでにしたい10のこと」(2002) イザベル・コヘット監督
「トーク・トゥ・ハー」(2002) ペドロ・アルモドバル監督
「靴に恋して」(2002) ラモン・サラサール監督
「海を飛ぶ夢」(2004) アレハンドロ・アメナーバル監督

  次点は、ガルシア・ロルカ原作の「ベルナルダ・アルバの家」(1987、マリオ・カムス監督)。暗く地味な映画だが秀作である。リストからは外したが、80年代末に話題になったチリのミゲル・リティン監督作品「戒厳令下チリ潜入記」(1988)も名義上はスペイン映画である。

  「海を飛ぶ夢」は実話を基にしている。若い頃引き潮に気付かず浅瀬に飛び込んで首を打ち、その後20数年間寝たきりになっている男が主人公である。寝たきり状態の人物が主人公であり、生と死がテーマとなっている点では「トーク・トゥ・ハー」や「ジョニーは戦場へ行った」(1971)にも通じる作品である。後者は第一次大戦で両手両足をもぎ取られ「芋虫」のようになった若き兵士ジョー・ボナムの話で、公開当時世界中に強烈な衝撃を与えた。彼は声も出せず、目も見えず、耳も聞こえず、匂いもかげない。顔のほとんども吹き飛んでいたのだ。看護婦はジョーの腹に指で字を書き何とか言葉を伝えようとする。なかなか理解できず、やっとそれが「メリー・クリスマス」と書いている事が分かって、ジョーが頭を上下に振って分かったことを伝える場面はかつてない深い感動を覚えた。

  「海を飛ぶ夢」の主人公ラモン・サンペドロ(ハビエル・バルデム)は見ることも聞くことも話すこともできるし、手足もある。しかし20年以上もの間寝たきりの生活が続き、彼はついに尊厳死を選択する。しかし裁判で敗れ、最後はほとんど自殺の様な形で自らの命を絶つ。映画は彼の最後の日々を描いている。彼が訪問者に向ける顔はいつも笑顔である。なんとも素敵な笑顔だ。だが自分でそれは「他人の助けに頼って生きるしかないと、自然に覚える」のだと話す。どんなに笑顔でいてもその底には深い絶望がある。映画では描かれなかった20数年の間、ずっと彼はその絶望と共に生きてきたのだ。しかし観ているものにとって彼の笑顔は正直救いである。絶望に沈んだ顔を見るのはつらい。

  彼の元に女性弁護士フリア(ベレン・ルエダ)がやってくる。彼とのインタビューを通じ、まSD-moonship03た彼が書いた詩を読むうちに彼女は彼に心を引かれてゆく。ラモンも彼女に引かれてゆく。自然、観ているわれわれは彼に生きる意欲が湧いてくることを望む。しかしフリアとの愛も彼の死への思いを断ち切ることは出来なかった。彼にとってその愛もまた重荷だったのだろう。愛されていても、その愛に応えられないつらさ。その立場になって見なければ分からない。彼はただ空想の世界でのみ彼女を抱けるのだ。

  観た人は誰でも言及するのだが、確かに空想の中で空を飛ぶ場面は素晴らしい。ベッドで寝たきりの彼が突然むくむくとベッドから起き上がり、助走をつけて窓から飛び出す。一瞬自殺するのかと思うと、次の瞬間彼は空を飛んでいる。緑の丘を越えぐっと上昇して目の前に空がいっぱいに広がる。突然動きが止まりカメラが下にパンするとそこには海があった。海岸をラモンとフリアが歩いており、二人は抱き合いキスをする。現実にはかなえられない夢であるだけに感動的であり、またなんとも切ない場面である。

  この映画が優れているのは、彼一人に焦点を合わせるのではなく、家族や彼を支援する人々との関係をきちんと描いているところだ。彼を支援する弁護士のフリア(彼女自身も脳欠陥性痴呆症を患っている)、彼の世話をする支援組織のジェネ(クララ・セグラ)、ラモンに心を寄せるロサ(ロラ・ドゥエニャス)、ひたすら親身になってラモンの世話をする兄嫁のマヌエラ(マベル・リベラ)、弟に生きていてほしいからこそ激しい口調で尊厳死を認めないと本気で怒鳴る兄ホセ(セルソ・ブガーリョ)、ペンを口にくわえて書いたラモンの文章をパソコンに打ち込んだり車椅子の改造をしたりと何かと世話を焼いている甥のハビ(タマル・ノバス)、死を選んだ息子をとめることも出来ずつらい気持ちを抱いている父のホアキン(ホアン・ダルマウ)。ラモンの死を認める、認めないにかかわらず、それぞれの人物の気持ちが理解できる。この複眼的な描き方がどれほどこの映画にふくらみを与えていることか。ラモンを説得しに来た神父は全くの場違いな男として描かれているが、あくまで弟の死に反対する兄ホセの気持ちは真摯なものとして描かれている。それぞれの思いが交錯し、それぞれに悩みながら生きている。死を決意したラモンの周りで生が続いている。支援組織のジェネは子供を身ごもり出産する。フリアは自分の病と闘いながらラモンの詩集を出版することに奔走する。二人の子供を持つロサは生活に疲れ、ラモンへの愛に新たなる生きがいを見出す。

  しかし周りの人たちの思いにかかわらず、ラモンの決意は揺るがない。「生きることは『権利』のはずですが、私には『義務』でした。このつらい状況に耐え続けました。28年4ヶ月と数日もの間です。」ロサと共に家を出たラモンは、特定の支援者に害が及ばないように工夫して青酸カリを用意し、据付のビデオカメラの前でそれを飲み干す。彼は若い頃船乗りとして世界中を旅した。彼の魂は海へと旅立って行ったのだろうか。

  ラモンを演じたハビエル・バルデムはまだ30代の若さだが、20歳も年上の主人公を見事に演じた。観ていて全く自然であった。特殊メークだけの成果ではない。話し方、声、身のこなし、目の表情、すべてが伴わなければこれほど自然には演じられない。単なる暑苦しいラテン系のセックス・シンボル男優でないことを世界中に示した。すごい俳優が出てきたものだ。

寄せ集め映画短評集 その7

在庫一掃セール第7弾。今回はスペイン映画特集。

ladyhome5トーク・トゥ・ハー(2002年、ペドロ・アルモドヴァル監督、スペイン)
  交通事故で植物状態のバレリーナ・アリシア(レオノール・ワトリング)と彼女を一心に看護するベニグノ(ハビエル・カマラ)、闘牛の事故で同じく植物状態 になった闘牛士のリディア(ロサリオ・フローレス)と彼女の恋人マルコ(ダリオ・グランティネッティ)の4人が主な登場人物。特にアリシアを看護するベニ グノの一途な気持ちが胸を打つ。アリシアの美しさも強烈な印象を与える。はげ頭のマルコの渋い存在感もずっしり手ごたえがある。見る前はただ寝ているだけ の女と、彼女たちにただ話しかける男たちだけでどんなドラマが展開できるのかと思っていたが、とてつもない展開が待っていた。植物状態の女性に生理があるのにびっくりしたが、なんとアリシアが妊娠してしまう。彼女と結婚したいとまで思いつめていたベニグノが逮捕され刑務所に入れられる。真相は分からないが、流産した子どもの父親はベニグノだろう。しかも妊娠後アリシアは意識を回復したのだ。しかしベニグノにはそのことは知らされず、子どもが死んだとだけ知らされたベニグノは自殺してしまう。リディアは意識を回復しないままに死んだ。
  想像を超えた展開に驚かされるが、それ以上に人間の深い愛情に打たれる。15年も母親の看病をし、母の死後アリシアの世話をしていたベニグノの本当の心情はもう一つはっきりしない。マルコを恋人と呼んだりするところからホモセクシュアルを匂わせたりもしている。しかしアリシアに対する彼の愛情は間違いな く本物だった。少し頭が足りない感じで描かれているが、刑務所に入れられてからの彼はしっかり自分と周りを理解した人間として描かれていた。哀れにも彼はアリシアの回復を知らずに死んでいった。今は代わりにマルコがリハビリに励むアリシアを見守っている。
 アルモドバルの映画はどれも強烈だ。どこか癖があるが、しかしそれがアクセントになっていて、彼の描く独特の世界に強烈さを与えている。彼はとんでもない天才なのかもしれない。

「カルメン」(1983年、カルロス・サウラ監督、スペイン)
  独裁者フランコの死後にスペイン映画は息を吹き返し、各国映画祭で次々と受賞するようになった(「エル・スール」論参照)。スペイン映画の波が日本にも及び始めたのは1984年頃からである。カルロス・サウラ(彼はスペイン映画史の中で最も多く名前が出てくる 監督である)の「カルメン」が公開され話題になってからである。「フェーム」、「フラッシュ・ダンス」、「コーラス・ライン」や、最近大量にリバイバルされている「イースター・パレード」、「ショウボート」等の50年代頃のアメリカ製ミュージカル映画を見慣れた観客の目から見ても、この映画の演出は極めて新鮮であった。
  激しいリズムにのって跳びはねるのでもなく、集団が一糸乱れぬみごとな動きを披露するのでもない。この映画のクライマックスはアントニオ・ ガデスとクリスティーナ・オヨスが二人だけで踊るフラメンコである。一切のバック・ミュージック、効果音を使わず、床を踏む音と手拍子という自然音だけがリズムを刻む。狭からぬ空間を二人の身体の動きと顔の表情、そして手と足でとるリズムが支配し、あたりの空気をいっぺんに緊張させてしまう。磨き抜かれた芸術がシンプルさを迫力に変えてしまった。静と動、絶妙の間、手の先からつま先に至るまでむだな動きはなく、体の動きはそのままリズムと化し、静止した瞬間は突如として見事にバランスをとった彫刻と化す。この二人の天才舞踏家の存在なくしてこの映画の成功はありえなかった。
  だがサウラの演出も見事である。「カルメン」の舞台を現代に置き換えただけではなく、演出過程を そのまま劇中に収め、現実に進行している場面と劇の進行の場面の境界線をあえて曖昧にすることによって、独特の効果をあげている。サウラの一つ前の作品で、「カルメン」の原型ともいうべき作品である「血の婚礼」よりもダンス、演出ともにすぐれている。第一回東京国際映画祭の時にフランチェスコ・ロージの「カルメン」を観てそのいくつかの場面の卓抜さに感心したが、こちらは本格的なオペラで、初めから最後まで朗々たる歌を聞かされたためうんざりしたところもある。サウラが舞台そのものを撮らないのも、この辺を意識してのことかもしれない。あるいは別の観点から観れば、舞台からはうかがい知ることのできない役者の実際の人間性や、役者どうしの人間関係も同時に描き出そうと(つまり舞台と人生 をないまぜにしようと)意図していたのかもしれない。

死ぬまでにしたい10のこと(2002年、イザベル・コヘット監督、スペイン)rosehome2
  難病ものはお涙頂戴調になりやすいのであまり好きではないが、この映画は傑作だと思った。お涙頂戴的な安易な泣かせ場面作りなどしていない。同じ難病ものの韓国映画「ラスト・プレゼント」はヒロインに共感できなかった。自分の病気をひた隠しにするのは当然相手の気持ちを思いやってのことだが、彼女自身の気持ちがあまり描かれていないために、ただ単に意固地なだけに見えるのでどうしても共感できなかったのだ。しかし「死ぬまで」のヒロインは同じように誰にも自分の死期が近いことを打ち明けないが、夫や母や子供たちに自分の気持ちをつづった録音テープを残すなど、彼女の気持ちが十分見るものに伝わってくるので共感ができる。
  夫を愛しているが別の男と逢びきを続ける。見ていてつらい場面だが、それが「10の誓い」の一つだけに彼女を責める気にはならない。彼女の最後の日々は「10の誓い」を実行することによって、平凡だった人生に最後の輝きを与えることに費やされる。やり残しのない人生を生きるために。その彼女の気持ちを思うと、"My Life Without Me"という原題は何とも悲しい。自分の死んだ後の周りの人々の人生に思いを寄せる彼女の優しさと同時に、それらの人生を共有することができない悲しさがこめられているからだ。

黄昏の恋(1982年、ホセ・ルイス・ガルシ監督、スペイン)
  1984年11月に渋谷の東急名画座で「スペイン映画祭」が開かれた。「クエンカ事件」、「黄昏の恋」、「夢を追って」、「パスクアル・ドゥアルテ」、「庭の悪魔」の5本を観た。80年代前半はフランコ死後に息を吹き返したスペイン映画の黄金時代で、国際映画祭で次々に賞を取っていた。「黄昏の恋」はスペイン映画として初めてアカデミー外国語映画賞を受賞した映画である。
 80年代の中国映画が文革時代を引きずっていたように、当時のスペイン映画はスペイン戦争の影を引きずっていた。「黄昏の恋」はそんな時代のせつない中年の男女の恋を描いた映画である。 恋愛映画だが、若い男女ではなく中年の男女の再会と短い恋の再燃を描いた点で出色である。今はアメリカに住み小説家として名をなしたアントニオはノーベル文学賞を受け、その帰りになつかしい故郷に立ち寄る。そこにはかつての恋人エレーナ がいた。二人は思い出の場所を訪ねる。都会では考えられないほど美しい情景を背に、二人の男女は言葉にできないお互いの愛を確かめ合う。話し合ううちに男は自分が不治の病に冒されもう先が長くないことを打ち明ける。典型的なラブ・ストーリーだが、映画は決して涙を誘おうとせず、二人の傷の深さと愛情の深さを淡々として描いてゆく。二人の俳優の演技がみごとだ。
  そしてこの作品を単なる甘いラブ・ロマンスから救っている要素がもう一つある。作品の終わり近くで、アントニオが祖国を去ったのは内戦のためであることが明かされる。二人は内戦によって「引き裂かれた世代」なのである。彼らは内戦時代に青春を送り、 アントニオはフランコの死後自らの死の直前に祖国に帰ってきたのだ。「僕は自分の人生の中では若い頃が好きだ。そこには君がいたから...」というアント ニオの言葉は、この事実と重ね合わせた時、より深い感銘を覚える。

バレンチナ物語(1983年、アントニオ・ホセ・ベタンコール監督、スペイン)
  内戦によって引き裂かれた恋は、また「バレンチナ物語」の主題でもあった。内戦から長い年月がたった後、スペイン北部のある小 さな村に一人の男が訪ねてくる。その男はバレンチナという女性を探していた。男は彼女に会い、収容所で死んだ戦友の手紙を手渡す。その手紙の主こそバレン チナの幼友達であり、二人が幼いころ深く心をかよわせあったペペであった。
  画面はそこから回想に変わる。幼い二人はペペが寄宿学校に入ることになったため 別れ別れになり、その後の内戦が二人を決定的に引き裂いてしまった。死んだ者は数知れず、生き残った者にも苦難の日々が待っていた。「黄昏の恋」に比べる と甘さは否めないが、内戦が残した傷の痛みはひしひしと伝わっており、幼い二人の恋というにはあまりに淡い心の触れ合いは忘れ難い感銘を残す(ちなみに司祭を演じたアンソニー・クインが好演している)。
  全編これ拷問シーンばかりかという作品ながらそれまでの興行収入記録を塗り替える大ヒットとなった「クエンカ事件」や名作「エル・スール」を始め、この時代のスペイン映画の多くには内戦の影が付きまとっていたのである。80年代の中国映画の多くが文革の傷を引きずっていたように。
  ソ連映画にもこの二作に通じる主題を扱った「五つの夜に」(ニキータ・ミハルコフ監督、79年)という作品があり、ラストでヒロインがつぶやく「戦争さえなかったらねえ」という言葉には胸を突かれる思いがした。

2005年10月 9日 (日)

笑の大学

art-pure1504cw2004年 東宝
【スタッフ】
脚本:三谷幸喜
監督:星護
音楽:本間勇輔
撮影:高瀬比呂史
【出演】
役所広司、稲垣吾郎、小松政夫、高橋昌也

  三谷幸喜の芝居とテレビ・ドラマは一度も見たことはない。しかし朝日新聞に連載している「三谷幸喜のありふれた生活」は愛読している。映画は「12人の優しい日本人」「ラジオの時間」「みんなのいえ」とこの「笑の大学」を観た。「みんなのいえ」はがっかりしたが、他の3本はどれもいい。「12人の優しい日本人」は「十二人の怒れる男」のパロディだが、「笑の大学」は作家としての絶頂期に召集され帰らざる人となった榎本健一の座付作家菊谷栄へのオマージュでもあるので、ラストはいささか重たい。大爆笑で終わる(らしい)舞台版とは違うエンディングなので、人によって評価がはっきり分かれている。

  映画館では終始笑っている人もいるようだが、恐らく三谷幸喜の笑いの質は爆笑するような笑いではなく、くすくす笑う類だと思う。大笑いすることもあるが、基本的には小さな笑いを引き出すタイプである。おとぼけやバカバカしいしぐさで笑わせるというよりも、どこか知的で思わずぷっと噴出す笑いである。「12人の優しい日本人」も「笑の大学」も登場人物たちは大真面目で議論している。しかしその議論が思わぬ方向に転移・発展してゆく面白さなのである。「ラジオの時間」も脚本を無理やり変更されてあたふたする話という点では「笑の大学」と共通するところがある。当人たちは必死なのだ。

  「笑の大学」の最初のあたりはあまり笑えない。シチュエーション・コメディなのでまず設定を作らなければならない。冒頭部分はその設定部分であるため笑いの要素は少ない。笑いが起きてくるのは喜劇作家が重い課題を背負って、何とかその課題をクリアしようと工夫し始めてからである。

  二人のやり取りは真剣である。何としても時勢に合わないコメディを不許可にしたい検閲官向坂睦男と初日が迫り後がない作家椿一との真剣勝負。笑いを知らない検閲官と何をやっても笑いにしてしまわずにはいられない喜劇作家。二人が真剣に遣り合えばやりあうほど可笑しさがこみ上げる。そしてやりあううちに敵対から共同へといつの間にかwaveleaf関係が転移してゆく。正反対のものがぶつかり合うおかしさ、そこから生じるズレと逆転、思わぬ方向への転移とねじれ。コメディの常道である。ねじれ弾をこれでもかとばかり次々に放つ。怒鳴り威圧しながらも少しずつ笑いに傾いてゆく検閲官、戸惑いうろたえながらも意外な粘り腰で無理難題を乗りこえてゆく作家。にらみながら時々笑いで顔が引きつる検察官、下手な芝居まで実演しながら必死で食い下がる作家。この二人の必死の攻防を通じてねじれにねじれてゆくストーリー、そこに思わぬひらめきと発想が生まれ、結果として台本は練り上げられ、二人の関係は近づいてゆく。意図せぬ共同作業が台本を練り上げていったのである。まるで弁証法のように。類まれな才能同士が協力し合ったり激しくぶつかり合ったりしていた「ビートルズ」時代の方が、自分の思うように曲が作れたそれぞれのソロ時代よりも優れた作品を生み出していたのと同じ関係だ。

  ついに文句のつけようのない台本が完成し、上演許可が下り、一件落着かと思われた瞬間、またがらっと展開が変わる。安心したあまり椿が自分の信条を向坂に吐露してしまう。上演禁止覚悟で検閲に応じないというやり方もあるが、喜劇作家である自分はむしろ自分の才能を発揮して無理難題を乗り越えてやろうと思った、それが自分なりの抵抗の仕方なのだともらしてしまう。それが向坂の検閲官としての自覚に再び火をつけてしまう。ついに向坂は椿に究極の無理難題を突きつける。翌日椿が書き上げてきたものは・・・。

  この後さらにもうひとひねりあり、その部分が菊谷栄へのオマージュとなっている。最後のあたりでがらりと作品の色調が変わってしまうのは、脚本家自身が顔をのぞかせているからである。コメディ作家の信条を語り、また尊敬する先輩作家への敬意を示す。コメディとしての一貫性が損なわれているという批判が出てくるのも理解できる。しかしそう悪いエンディングだとは思わない。ベストとはいえないが、作家は常に時代に翻弄されているのだというテーマを突き詰めたエンディングである。「サルマタ失敬!」で終わるよりはよほどいい。舞台で爆笑バージョンは作った。映画は違った作りにしたかったと本人も語っている。二つのバージョンがあってもいいだろう。

  役所広司は本当にうまい。笑いは人を変える力を持つ、笑いは人生を豊かにするというテーマを彼の体ひとつで見事に体現している。この当代随一の名優を相手に稲垣吾郎も健闘した。二人を比べれば明らかに劣るが、役者として大きく成長したことは認めるべきだろう。コメディ作家の信条を語るときの彼は実にいい顔をしていた。今後の活躍が楽しみである。

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