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2005年10月2日 - 2005年10月8日

2005年10月 8日 (土)

小さな中国のお針子

moontalisman22002年 フランス
監督:ダイ・シージェ
出演:ジョウ・シュン、チュン・コン、リィウ・イエ
    ツォン・チーチュン、ワン・シュアンバオ
    ワン・ホンウェイ、シャオ・ション

  期待通りの傑作だった。「山の郵便配達」よりももっと山奥の小さな村に二人のインテリ青年(マーとルオ)が下放されてくる。誰ひとり字を読めるものもおらず、バイオリンを見てもおもちゃだと思ってしまう始末。もってきた料理の本はすぐその場で燃やされてしまう。そこで二人は「小さなお針子」という名前の女の子に出会う。村一番の美人だ。二人はすっかり彼女に引かれてしまう。すぐ二人は彼女と親しくなる。二人と彼女を結び付けているのはお互いの愛情だけではなく、本である。字の読めない彼女に本を読み聞かせ、字を教えていた。本はもう一人の下放青年「メガネ」から盗んだものだ。魯迅のものも一冊あったが、他は西洋の本ばかり。「ゴリオ爺さん」、「モンテ・クリスト伯爵」等々.やがて彼女は西洋の考え方に感化され、村と二人を捨てて出て行ってしまう。20数年後再会した二人はかつて二人が青春時代をすごした山村が巨大ダムに沈むことをテレビのニュースで知る。しかし「小さなお針子」にはその後会えなかった。

   文革時代を背景に恋愛ロマンスを描いたところが新鮮だ。「初恋のきた道」より時代色が濃く、識字と文学が絡まっている分奥行きがある。「山の郵便配達」と同じような山村を舞台にしているが、親子の愛ではなく、男女の恋愛を描いている。しかも一種の三角関係である。一人は気持ちを奥に秘めてはいたが。風景描写の美しさはどちらもすばらしい。恋愛的情緒は「イルマーレ」に通じるが、「小さな中国のお針子」に比べると「イルマーレ」はいかにも人工的な設定に思える。

 隠れて字を教えるというテーマはNHKのドラマ「大地の子」にも通じる。文字を学ぶことを通して物語を知ることは、自分の世界を超えた新しい世界、まだ見ぬ広い世界を知ることである。また、新しい自分の可能性を知ることでもある。だから「小さなお針子」は村を出て行ったのだ。恋愛のテーマよりもこのことこそ、作者が一番言いたかったことではないか。

山田洋次監督「故郷」

1972年 松竹kagaribisou-1
【スタッフ】
製作:島津清
脚本:山田洋次、宮崎晃
監督:山田洋次
音楽:佐藤勝
撮影:高羽哲夫
【出演】 倍賞千恵子、井川比佐志、渥美清、前田吟
          田島令子、矢野宜、阿部百合子、笠智衆

  「家族」と対になる作品である。どちらも島に住んでいた家族が生活苦のため故郷を出てゆく話である。「家族」は島を出て北海道に行くまでの旅を中心に描いていたが、「故郷」は島の生活を中心に据え移住を決意するまでを描いている。

  瀬戸内海に浮かぶ小さな島、広島県倉橋島。そこに石船と呼ばれる運搬船を操り、生活を営む一家がいた。石切り場から石を運び出し、船で運んで海に捨てる仕事だ。石を海に捨てる場面には思わずぎょっとした。網に石を入れてクレーンの様なもので持ち上げる。石を入れて大きく膨らんだ網の直径は2メートル近くある。かなりの重量だ。それをクレーンを回転させて船の真横に持ってくる。当然船はバランスを失って横に傾く。小さな船なので一瞬そのまま横転してしまうと思ってぎょっとしたのだ。しかし傾いたために甲板に乗せていた石が一気に海に落ち、それで船は浮力を得、さらに網の石も放出するかまたは船の方に戻してバランスを取り戻し、船は元に戻る。ちょうどダンプカーが荷台を傾けて積荷を落とすように、船自体を横に傾けて積んでいた石を海に落とすのである。まかり間違えば本当に横転しかねない危険な作業だ。このシーンはまるで記録映画のようなタッチで描かれている。

  この危険な作業をしているのは石崎一家。家長であり、大和丸の船長石崎精一(井川比佐志)、妻であり機関長の民子(倍賞千恵子)。他に精一の父仙造(笠智衆)と二人の子供がいる。もうひとり重要な登場人物として魚売りの松下がいる。演じているのはご存知渥美清。最初は声で登場する。軽トラックで魚を売りに来るのだが、マイクから彼の呼び声が流れてくるのである。その声を聞いただけで懐かしさがこみ上げてくる。稀有な俳優だ。彼は石崎一家とは親しく付き合っており、いい魚が入るとわざわざ自分で石崎の家まで持ってくる。そこで色々話をして帰ってゆく。時には家族の言い争いの場面に出くわしたりする。寅さんシリーズで言えばタコ社長の役割だ。

  この作品のかなりの部分は石舟で仕事をしている場面に当てられている。女の子を乗せ夫と妻が交代で舵を握る。石切り場で船に石を乗せる場面は最後に出てくるが、これもきわめて危険な作業である。ダンプカーが次々に石を運んできては甲板にどさっと投げ落とす。次にまた運んでくる間に石を置きなおして次に落とすスペースを作る。うっかりすれば指を挟んだり、足の上に石が落ちてきたりしかねない。山田監督は実際に俳優たちに何度も石舟の仕事をさせ、いかにも普段からその作業をやりなれている感じを出させている。エンジンの手入れをする井川比佐志の手つきや身のこなしは本物の船長のようである。

  監督がここまで石舟の仕事を強調するのは労働の現場をじっくりと描きたかったからに違いない。映画の中で労働の現場が記録映画のようにこまごまと描かれることはまれだ。たいがいはさっと真似事で終わる。多くの仕事は単調であったり極めて危険だったりする。単調な作業の繰り返しをじっくりと腰をすえて描いたのは新藤兼人監督の「裸の島」である。井戸と畑の間を何度も水桶を背負って往復する淡々とした動きを延々と描き続けた。これは労働そのものを描いた映画である。ロバート・フラハティの有名な記録映画「アラン」を思わせる。「故郷」はそこまで徹底して描いているわけではないが、石舟の仕事がどのようなものか観ているものには十分伝わる。さらにかつて同じ仕事をしていた精一の父仙造と魚屋の松下の会話を通して海の怖さが語られる。

sasa   「故郷」は「家族」と対になる作品だと上に書いた。もっと正確に言えば、「故郷」は「家族」の前段階を描いた作品だと言える。「家族」ではやっと食べてゆけるかつかつの生活を捨て北海道の開拓に希望を託すが、島の炭鉱でどのような仕事をしていたかはまったく描かれていない。登場人物の口から収入と出費がほぼ同じでこれでは生活してゆけないと語られるだけである。生活が苦しいのは「故郷」の石崎一家も同じである。精一は「油代を引けばほとんど何も残らない」と吐き捨てる様に言っている。「故郷」は苦しい石舟の生活を捨て、尾道の造船所で働くことを決意するところで終わる。この結末の部分が「家族」の出発点なのである。

  石崎の船は老朽化し、エンジンがもう限界に来ている。修理しようにも100万円かかると言われ、かといって新しい船を作る資金があるわけはない。どうにもならないぎりぎりのところまで追い詰められて、苦渋に満ちた選択をする。造船所で働けば給金は上がるが、そのためには親から受け継いだ仕事を捨て、住み慣れた故郷を出て行かねばならない。苦しい選択だった。

  「故郷」と「家族」は二本合わせてひとつの大きな物語を形作っている。したがってこの二本には多くの共通点がある。夫婦二人とその父は全く同じ俳優が演じている。子供が二人いるのも同じだ。ともに貧しく、故郷を追われ、新天地に希望を見出そうとする。しかしそれだけではない。この二本を通して描かれている一つの大きなテーマがある。そのテーマを暗示するのは「故郷」の最後に精一が妻に向かって口にする言葉である。「大きなものとは一体何だ?時代の流れとか、大きなものに負けると言うが、それは一体何を指しているのか」という問いかけ。「家族」を論じたときにも書いたが、ここに描かれたのはたまたま不運にあった不幸な家族ではない。60年代の高度成長期を経て、日本の産業構造は大きく変化していた。「大きな時代の流れ」は容赦なく弱いものを押し流してゆく。社会や経済の構造変化は個人の意思や一企業などの思惑を超えて作用する。古いものは壊され、次々に新しいものが生まれる。人込みで沸き返っている大阪万博の影で、故郷を失い、時代に押し流されて漂ってゆく人々が無数に生まれていた。「家族」と「故郷」の二つの家族自体が悪いのではない、他人が悪いのでもない。精一が船の修理を頼みに行った男も、時代が変わり彼が作った他の船が先日廃船になって燃やされたと話す。個人や集団の意志を超えて作用する大きな力はかたちを変えつつ常に存在している。無学な精一にはその力が何であるか理解できないが、確かに自分たちの力ではどうすることも出来ない「大きな力」がそこにある事は感じ取っていた。

  映画の結末近くで、精一と妻の民子は最後の仕事に出る。石を捨てて帰る途中二人は岸で燃やされている古い船を見る。精一が「大きなもの」と言ったのはその時だ。使い古され、その使命を終え燃やされている船はまさに彼ら夫婦の現状を象徴している。「家族」のラストは明るい調子で終わっている。朝鮮戦争による特需、東京オリンピック、大阪万博と三段跳びで成長していった日本経済は、80年代後半にはバブル景気に突入する。しかしその後バブルがはじけ、いまだ出口が見えない長期不況のトンネルに入る。二つの家族が故郷を出た70年代初頭はまだ日本の成長が続いていた時代だ。失ったものも多いが、「家族」の主人公たちは自分たちで新しい生活を切り開いていった。「故郷」の精一と民子も自分たちの生活を立て直せたのだろうか。

2005年10月 7日 (金)

少年と砂漠のカフェ

2001年 イラン=日本winding-road
監督、脚本、編集:アポルファズル・ジャリリ
撮影:モハマド・アハマディ
録音:ハッサン・ザルファム
プロデューサー:アボルファズル・ジャリリ、市山尚三
エグゼクティブ・プロデューサー:森昌行
【出演】
キャイン・アリザデ、ラハマトラー・エブラヒミ
ホセイン・ハシェミアン、 アハマド・マハダヴィ

  「スプリング 春へ」「かさぶた」「トゥルー・ストーリー」「ぼくは歩いてゆく」などで知られるアボルファズル・ジャリリ監督の代表作。アッバス・キアロスタミ、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディ、バフマン・ゴバディなどと並ぶイランの代表的監督とされるが、観るのはこの作品がはじめてである。近所のレンタル店には全く彼の作品は置かれていない。中古店でも見かけたことはなく、アマゾンでやっと手に入れた。

  なぜこれほど目に触れないのか、この作品を観て何となく納得した。あまりに淡々としすぎていて彼の作品世界になかなかなじめないのである。もちろんイラン映画はほとんどどれも淡々とした映画である。しかしこれはあまりに淡々としすぎている。DVD-BOXも出ている監督ではあるが、今ひとつ一般に知られていないのはそのためと思われる。

  「少年と砂漠のカフェ」は2001年ロカルノ国際映画祭で準グランプリにあたる審査員特別賞、および国際シネクラブ連盟賞、ヤング審査員賞の三冠を受賞した。ナント三大陸映画祭ではグランプリの栄誉に輝いている。タイトルの「デルバラン」は映画の舞台となった場所の地名である。イラン北東部のホラサン地方にあり、アフガニスタンとの国境近くに位置している。主人公はアフガニスタンからイランにやってきたキャイン少年。砂漠の中にぽつんと立っているカフェで働いている。カフェといっても日本のそれとは大分違う。むしろドライブインに近い。

  映画はキャイン少年の日常を淡々と描いている。キャイン自身が語っていることによれば、キャインの母親は爆撃で死亡。父親は前線でタリバンと戦っている。姉はおばあさんと暮らしている。キャインは戦乱のアフガニスタンを逃れてイランに流れてきた。親切なハン老人が営むカフェで下働きをしている。医者に耳の病気を見てもらったとき、アフガニスタンに帰りたくはないのかと医者に聞かれるが、キャインは帰りたくないと応える。父親や姉のことに無関心というわけではない。こつこつ働いて溜めたお金を姉に送ろうとしたことからもそれが分かる(お金を託した人物が国境で撃たれて果たせなかったが)。戦乱の続く故国には帰りたくないということだろう。撮影は1999年の11月中旬に始まり、2000年の2月末に終わっている。2001年9月11日の同時多発テロ以前に撮り終えていることになる。したがって母親の命を奪った爆撃とは米軍による爆撃ではない。米軍が侵攻する以前の内紛時代のことだ。主人公を演じた少年は米軍が侵攻してくる直前に家族に会いに行くためアフガニスタンへと戻っていったが、その後の彼の消息はつかめていないそうである。

  ジャリリ監督は決してこの少年に対する観客の同情をあおるような描き方はしない。ただ淡々と少年が買い出しに行ったり、客にチャイを給仕したり、修理工を呼びに行ったりしている日常を描くだけだ。少年の表情は常に硬い。子供ながらに既につらい経験を散々してきたのだろう。大人顔負けのしたたかさを身につけている。車の修理を頼んでもなかなか出てこようとしない修理工には、何度もしつこい程催促の声をかける。大人に対しても臆することなく対等にやりあっている。重いものを運ばされたりしても弱音をはかないし、文句も言わない。近くに身寄りがいなくても決して悲しげな表情は見せない。ほとんど無表情である。彼がはっきり笑顔を見せるのは一度だけである。耳を診てくれた医者が今度は薬を持ってくるから、それがあれば早く直ると言ったときだ。その時初めてにこっと笑い、子どもらしい表情をチラッとのぞかせた。

zod-moon   キャインは不法入国したアフガニスタン人だが、警官が尋ねてきても誰も彼のことを告げ口したりはしない。実際にはキャインだけではなく、アフガニスタンからの違法労働者が時々やってきているのだが、皆同じようにアフガニスタン人などいないと答えている。一般のイラン人たちはアフガニスタンの悲惨な状況に同情を感じているのだろう。当局に隠れてアフガニスタン人を雇っている話は「少女の髪どめ」にも出てくる。多少はイラン人よりも安く雇えるのかもしれないが、それだけで当局に捕まる危険を冒すとは思えない。周りの大人たちがキャインをいつもやさしく見守っているという描き方はしていないが、キャインがついにアフガニスタン人だと分かって逮捕されたときに、ハン老人の妻であるハレーおばあさんは警察に乗り込んで彼を助け出してくる。ほのぼのと心温まる描き方はしないが、かといって冷め切っているわけでもない。情に訴えるのではなく、客観的に少年とその周りの大人たちの生活と関係を描いてゆく。そういう手法だ。

  この少年はこれからどんな人生を送ってゆくのか。映画は安易な希望も持たせないが、冷たく突き放しもしない。新しい道路が出来たために、カフェに通じる道が閉鎖されてしまった。カフェに来る客が減ったため、キャインはタイヤをパンクさせて無理やり客をカフェに連れてこようと道路に釘をばら撒く。そしてどこかへと旅立ってゆく。その先彼にどんな運命が待ち受けているのか。映画は何も示さない。少年はただ去ってゆくのである。

   少年に密着して描いているが、極度に説明的描写を排除しているため、理解できないことも多い。イラン人にはある程度察しがつくのかもしれないが、少なくとも外国人にはよく分からないことがいくつもある。そもそも「デルバラン」という地名は「恋人たち」を意味するペルシャ語だそうである。「恋人たち、とりわけ、愛する人のために家を捨ててきた恋人たち」が、砂漠のほぼ真ん中にあるため行方を探すのが非常に困難なこの土地に集まってきた。そして「デルバランのカフェは、そうした恋人たちが会う場所としてこの土地に建てられた」のである。しかしその後イランとアフガニスタンとの間に道路ができたため、もはや隠れ家ではなくなったカフェは違法就労者たちや麻薬密売人たちの集まる場所になってしまった。だからイランの警察がこのカフェにしばしばたちより目を光らせているのである。こういったことは監督のインタビューを読んでようやく分かるのである。

  どうも監督自身が説明的描写は極力避けるべきだという考えを持っているようだ。映画の途中で突然銃声が聞こえてくることがある。恐らく密入国する人たちを国境警備隊か何かが銃で撃っているのだろう。このように間接的に、あるいは暗示的にしか周囲の状況が描かれない。意識的にそう描いているのである。余計な夾雑物(不純物)を極力排除して対象となる人物に密着すればその本質が見えてくる、そう考えているのだろう。しかし人間は社会的な存在である。歴史的状況や社会状況を曖昧にしたために却って見えなくなっている側面がありはしないか。あるいは人物の描き方や映画そのものが平板になっていやしないか。もっと説明しろと言っているのではない。説明的な映画は面白くない。そうではなく、もっと人物や人間関係を状況の中で捉えるべきではないかということである。人間は時空を越えて生きることは出来ないのだから。もちろんジャリリ監督はキャインを大状況から完全に切り離して描いているわけではない。ただ、前提となる状況が暗示的にしか示されていないのである。対象となる少年との距離のとり方、全体状況の示し方、これらに対するこの映画の微妙なさじ加減は評価の分かれるところだろう。個人的にははやはり物足りなさを感じる。眼前の状況だけを限定して描いていたサミラ・マフマルバフ監督の「ブラックボード――背負う人――」にも同じ物足りなさを感じた。終始いらいらを感じた映画だ。

  ジャリリ監督は「少年と砂漠のカフェ」を世界中の戦災孤児に捧げている。キャインを演じた少年自身アフガンの難民だった。ジャリリ監督がこの映画の出演者を探して砂漠を旅している時、偶然出会ったのである。そのため急遽主人公をアフガニスタン人に変更したということである。

  本国イランではジャリリ監督の作品のほとんどが上映禁止となっている。外国人にはなかなか理解しがたい検閲制度がそうさせているようだ。この点については佐藤忠男氏の詳しい説明がある。非常に有益な講演なので一読をおすすめする。
  「少年と砂漠のカフェ上映後講演」

少女ヘジャル

girl12001年 トルコ・ギリシャ・ハンガリー
監督:ハンダン・イペチク
出演:ディラン・エルチェティン、シュクラン・ギュンギョル
    フュスン・デミレル

 予想した展開とは大分違っていたが、やはり優れた映画だった。ヘジャルはクルド人の少女。トルコのクルド人というとユルマズ・ギュネイの名作「路」を思い出すが、演出方法は大分違う。

 ある日一人の男がヘジャルを連れて人を訪ねてくる。男は子供が多すぎて世話できないので引き取ってくれと無理やりヘジャルを置いてゆく。ところが、どうやらヘジャルが預けられた家族はクルド人のテロリストであったらしく、突然警察の急襲を受けて全員射殺されてしまう。ヘジャルだけが隠れていて助かった。ヘジャルは向かいの部屋の老人ルファトに助けられる。ルファトは元判事のトルコ人だ。たまたまルファトの家政婦がクルド人だった。ヘジャルがクルド語で「ママ」と叫ぶのを聞いてその家政婦は思わずクルド語で話しかけてしまう。ルファトは家政婦がクルド人だったことを知って驚く。二度とクルド語を話すなと注意して家に帰す。ルファトはヘジャルをすぐどこかに預けるつもりでいたが、様々な事情でなかなか手放せない。

 ルファトは次第にヘジャルに情が移ってゆくが、強情なヘジャルはなかなかルファトになつかない。ついにルファトは家政婦にクルド語を習い始める。その一方でルファトはヘジャルを連れてきた男を捜す。何とかその男と会うが、貧しく子沢山なその男の家庭を見てしまうと、とてもヘジャルを引き取ってくれとは言えなかった。

 ルファトはヘジャルを自分で育てる決心をする。ヘジャルもようやく少しずつルファトになついてきた。彼はケーキを買ってきてヘジャルの誕生日を祝ってあげる。仲良く笑いあう二人にハッピーエンドを予想しかけたとたん、突然ヘジャルがクルド語で「ママにあいたい」と泣き叫び始める。ルファトは業を煮やし、電話で家政婦に助けを求める。安易な解決を拒む印象的なシーンだ。

 ルファトはヘジャルを連れてきた男の家賃を肩代わりし、男の負担を軽くしてやる。そうして結局ヘジャルをその男に引き取らせる。男に連れられて去ってゆくヘジャルがルファトを振り返る。それがラストシーンだ。

 トルコ人とクルド人の融和を主題とした作品だが、安易な結論に持っていかないところに共感できる。しかし去ってゆくヘジャルを胸を引き裂かれる想いで見つめるルファトと、彼を振り返るヘジャルの瞳にかすかな希望がたくせる。地味だがいい映画だ。

2005年10月 6日 (木)

チルソクの夏

sen2003年
監督:佐々部清
出演:水谷妃里、上野樹里、桂亜沙美、三村恭代、淳評
    山本譲二、高樹澪

  「半落ち」の佐々部清監督の第2作。「半落ち」はどうということもない作品だったが、こちらはなかなかいい出来だ。

 1977年7月7日。「携帯もメールもなかった時代」に、姉妹都市である下関と釜山の間で行われた親善陸上競技大会をきっかけとして知り合った二人の高校生の淡い恋を描いている。海を挟んで年に一回陸上競技大会の時だけ逢える。だから映画の設定として大会は七夕の日でなければならない。「チルソク」とは七夕に当たる韓国語である。

 日本人の女子高校生遠藤郁子(水谷妃里)と韓国の男子高校生安大豪(鈴木淳評)。二人の間を海が隔てており、それを超えようにも当時は携帯もメールもなかった。しかも二人を隔てていたのは海と通信手段の不足だけではなかった。あるホームページがこの点をうまく指摘していた。「コミュニケーションが難しかった事は確かですが、それは道具のせいだけではなかったというのがよく表れていましたね。」大事な指摘だ。当時は「携帯もメールもなかった時代」であるだけではなく、また「日本の歌を歌ってはいけなかった時代」でもあった。朝鮮人に対する日本人の蔑み、日本人に対する韓国人の憎しみ。海という物理的な障害よりもこの精神的な障害のほうがより強力で打ち破りにくいものだった。郁子の父親は朝鮮人と付き合うことだけは許さないと言い、安大豪の母親は身内が日本人に殺されたからといって二人の交際に反対する。この映画は「GO」に通じる主題を扱った映画なのである。

kingyo  二人の空間的隔たりを埋めていたのは手紙とラジオである。互いに手紙を交わしながら郁子は韓国語の放送を聴き、安大豪は日本語の放送を聴いている。「ラジオの電波は海を越えられる」という郁子の言葉が印象的だ。この作品はさらにもう一歩踏み込む。関門トンネルに引かれている県境の白線をまたいで郁子が言う。「今右足が山口県で左足が福岡県。」それに対して安大豪がこう言う。「38度線もこうして自由にわたれるといい。」胸にぐっと来た言葉だ。間を隔てる線は日本と韓国の間だけではなく、同じ民族である韓国と北朝鮮の間にも引かれている。この視点を忘れずに取り込んだことを高く評価したい。男女の淡い恋愛を中心にしているため「GO」ほど強烈ではないが、日韓両国民の間にある心理的国境線を乗りこえようとする真摯な思いは十分伝わってくる。つい数年前までこの国境線は両国民の間に根強く存在していたのだ。未だに完全には解消されてはいないが。まさに2000年代でなくては描けなかったテーマだ。

 「チルソクの夏」は欠点も目立つ映画である。郁子、真理(上野樹里)、巴( 桂亜沙美)、玲子(三村恭代)は同じ高校の陸上部の仲良しグループだが、まだまだ彼女たちは若くて演技も拙い。上野樹里も脇役ということもあるが、魅力全開とは言えない。安大豪役を演じた日本人俳優鈴木淳評も今ひとつだ。しかしこれらの欠点もこの作品の芯の部分が持つ魅力を消し去りはしない。その魅力は主題そのものから来るものだ。少々の欠点など気にならない、それほど力強くまた共感を誘う主題を持つ映画というものがある。完成度の高い作品とはいえないが、惜しみなく賞賛の拍手を送りたい。

  脇役では山本譲二が見せた「親父の背中」が出色。主題歌「なごり雪」を歌ったイルカも教師役でちょこっと顔を出している。すっかりおばさんになった。郁子と安大豪が観に行った「幸せの黄色いハンカチ」、山口百恵やピンクレディの歌が時代を感じさせる。そうか77年当時はこんなものが流行ってたんだっけ。懐かしい。まだ学生だった頃だ。あれから28年。日韓の間の心理的境界線はほとんど消えかけたが、もう一本の地図上の線はいつ消えるのだろうか。

2005年10月 5日 (水)

みなさん、さようなら。

2003年 カナダ・フランスf_kesiki01w
監督:ドゥニ・アルカン監督
出演:レミ・ジラール、ステファン・ルソー
       マリー・ジョゼ・クローズ、ドロテ・ベリマン
       ピエール・キュルジ、イヴ・ジャック

  最初のうちはやや退屈で時間が長く感じたが、後半はぐっと引き込まれた。歴史の教授だった父親が病気で死を迎えようとしている。長らく父親と疎遠だった息子が色々な後始末を手伝ってほしいと母親に懇願され、いやいやながら父の元に戻る。父親は女が好きで、どうやら母親とも離婚か別居をしている様子。息子はロンドンで証券関係の仕事をしている。金があるので何でも金で解決しようとする。

 母親にせがまれ何とか父親の最後の時間を快適に過ごさせようと息子は努力し始める。父親の親しかった人たちを世界中から呼び集める。娘は船に乗っていて会いにこれないが、パソコンを通じてメッセージを送ってくる。このあたりから作品に魅力が増してくる。皆あけすけにセックスの話題を口にする。集まった友人たちの中には元愛人たちもいる。知識人が多く、知的だがしかし大して意味の無い会話が飛び交う。

 父親は左翼知識人で、何かにつけて文句を言い、おとなしく人の言うことを聞かない。むきになって人に食ってかかる。息子は父親の苦痛を取るためにヘロインを使うことにする。そこでジャンキーの娘(元愛人の娘)が呼ばれる。彼女の麻薬からの立ち直りも小さな脇エピソードとして描かれる。

 最後は友人の別荘を借りてみんなで最後に時間をすごす。点滴にヘロインを注入し苦しむ父親を死に至らしめる。父親にとっては理想的な死の迎え方だ。監督自身も自分の理想だとインタビューで語っていた。集まった人々が皆芸達者である。18年ほど前の「アメリカ帝国の滅亡」のスタッフが再結集した映画。和気藹々とした雰囲気で撮られたそうだ。カナダ映画の水準の高さを示す傑作である。

寄せ集め映画短評集 その6

在庫一掃セール第6弾。各国映画8連発。

SD-cut-mo3-07「ブコバルに手紙は届かない」
(1994年、ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督、ユーゴスラビア)

 ブコバルは旧ユーゴスラビアのクロアチアにある町。クロアチア人のアナとセルビア人のトーマが結婚式を挙げる。しかし結婚パレードの最中、クロアチア人のデモ隊と出会う。別の道からはユーゴスラビアを支持するデモ隊が進んでくる。混乱に巻き込まれ、式のパレードは中断せざるを得なかった。
  不穏な空気が国中に広まる。トーマが軍隊に入る日、彼の家の壁に「セルビア人は出て行け」という落書きが見つかる。その後は混乱の一途。戦争が始まり美しかったブコバルの街は廃墟となってしまう。留守を守るアナはおなかに子供がいたが、クロアチアの男に強姦される。最後に街がセルビア人に占領された時アナの家も兵隊に接収されるが、彼らは強姦はしなかった。敵ではなく味方に強姦されるという混乱した状況。やがて戦闘は収まりアナとトーマは別々のバスに乗り、別々の方向に分かれて行く。カメラは廃墟となったブコバルの街を延々と映し出す。
  なんともやりきれない映画だ。怒りがこみ上げてくる。紛争の原因・理由は一切描かれない。しかし描いたとしてもそれで解決につながるわけでもない。ほとんどの人々はわけも分からず、否応なしに戦争に巻き込まれていったのだ。「ビフォア・ザ・レイン」(1994)、「ユリシーズの瞳」(1995)、「パーフェクト・サークル」(1997)と民族紛争を描いた力作が90年代の後半次々と日本で公開された。また2001年製作の「ノー・マンズ・ランド」は、中間地帯に敵同士の2人の兵士が取り残されてしまうという特異な状況を設定することで、このテーマに対してユーモラスでかつアイロニカルな処理の仕方を試みた。
  94年製作、97年日本公開の「ブコバルに手紙は届かない」はその中で最も見るものの心を揺り動かす作品だ。他の作品はいたずらに哲学的だったり、思索的だったり、アイロニカルだったりして、必ずしも感動を誘いはしない。哲学的ではない分「ブコバル」は深みにかける面もないわけではないが、訴える力はダントツだ。あまりにも悲惨で出口のない主題を描く際の表現者の視点と視線と姿勢を考えさせられる。

「幸せになるためのイタリア語講座」(2000年、ロネ・シェルフィグ監督、デンマーク)
   人間の優しさといとおしさが身にしみる映画である。ドグマ95というハンディ・カメラによる接写を多用した作風。もっとも、見ているときはそれほどハンディ・カメラということを意識しなかった。だが、それはうまくいっているということだろう。あまり技法が目立つようなら成功しているとは言えない。
  珍しいデンマーク映画。製作はデンマークとスウェーデン。あるレストランに勤めるウェイターのフィンは元サッカー選手。すぐに切れる性格で接客態度が悪いため首にされる。同じレストランの受付係のヨーゲンはフィンの友人で、4年間女性と寝たことがないのが悩み。また、そこで働くウェイトレスのジュリアは黒髪のイタリア人美人。ヨーゲンを密かに愛している。フィンがよく買い物に行くパン屋の女性店員オリンピアは金髪痩せ型で不器用なおっちょこちょい。よくパンの入ったトレイをひっくり返す。43回の転職を経験したが、このパン屋の仕事は長く続いている。偏屈な父親にも悩まされている。フィンがヨーゲンに紹介されて行った美容院の女性美容師カーレンはセクシーな女性だが、アル中の母親に悩まされている。
  カーレンの母親とオリンピアの父親がなくなる。二人が葬式を挙げるために行った教会の新任牧師がアンドレアス。信者がなかなか集まらず悩んでいる。葬儀の後オリンピアとカーレンが実は幼いころに分かれた姉妹同士だということが分かる。
  それぞれに悩みと心の傷を抱え、満たされない生活を送っている。そんな彼らが通っているのがイタリア語の講座だ。他にも3人の女性が通っている。心の隙間を埋めるように、6人の男女はこの講座に通う中でそれぞれに愛する相手を求め合う。
  ある日オリンピアに父の財産が入る。彼女は同じ講座に通う人たちとイタリアに旅行することに決める。白夜のオランダからベニスへ。この旅行で3つのカップルが誕生する。フィンはカーレンと。オランピアは牧師アンドレアスと。ヨーゲンはジュリアと。
  市井のなんでもない人たちに注ぐ視線が暖かい。閉ざされた心の奥のドアをノックしてくれる人は必ず現れるはずだ。そんなメッセージが心地よい。

「氷海の伝説」(2001年、ザカリアス・クヌク監督、カナダ)c_aki03b
  「氷海の伝説」は、北アメリカ大陸最北端に住むイヌイットに先祖代々語り継がれてきた、アタナグユアト(足の速い人)の伝説に基づく一大叙事詩である。上映時間3時間に近い氷原の叙事詩だ。監督自身イヌイットであり、イヌイット語でイヌイットを描いた最初の長編劇映画である。
  あまりの生活習慣と文化の違いに最初の1時間あまりは戸惑いを感じなかなか映画の世界に入り込めなかった。しかし、主人公のアタナグユアトが寝入ったところを襲われ、素っ裸で氷原の上を逃げてゆくものすごいシーンあたりからぐいぐいと引き込まれる。悪霊が出てくるあたりはいかにも伝説に基づいた話だが、ドラマの基本線がしっかりしているため、そんなことは気にならない。
  氷以外何もない世界だが、人間さえいればドラマが成り立つことを教えられる。雪と氷の美しさも特筆ものである。新しい世界を世に知らしめた力作だ。

「草の乱」(2004年、神山征二郎監督)
   大したことはないかも知れないという気持ちもあったが、どうしてなかなか立派な作品だった。全体にきりっとした演出で、画面から農民たちの勢いが伝わってくる。秩父困民党のことは名前程度にしか知らなかったが、この映画で見る限り農民一揆というより全面戦争だ。武装蜂起による革命の様相を呈している。国家が暴徒、反逆者として歴史から葬り去ろうとした意図が分かる。それにしても明治17年というのに刀を引っさげ火縄銃を持って立ち上がるところは、まるで維新戦争だ。弓矢があればまるっきりそうだ。まだ銃や刀が農民たちの間に残っていたとは。
  反乱蜂起の直接の原因は高利貸しによる借金地獄だが、その背後に富国強兵に走る政府の過重な税金が農民たちの生活を追い詰めていた事実がある。そのあたりはもう少し描きこんでほしかった。農民たちの困窮がリアルに描かれないと、蜂起にいたる過程に説得力が出ない。高利貸しや役所に掛け合う場面ばかりでは迫力不足だ。
 しかし蜂起の場面は感動的だった。実際はどうだったのか分からないが、蜂起した農民たちはまるで戦国軍団のように勇ましかった。決して彼らを暴徒として描いていないところがいい。高利貸しの家を焼き討ちにした時、周りの家への延焼を防ぐ努力をしている様がきちんと描きこまれていた。しかし他の地域は結局呼応することはなく、彼らは孤立してしまった。憲兵隊が派遣され彼らはいっぺんに崩れてゆく。見ていて悔しかった。
  配役には不満もある。緒形直人は顔ばかり深刻だが、もう一つその情熱や怒りが伝わってこない。彼はどうしても好きになれない。反乱軍の首相役を演じた林隆三も太ってしまって迫力がない。「七人の侍」の志村喬のような指導者としての器の大きさを感じられなかった。しかし不満はあっても歴史的に意味のある作品であることには変わらない。

「東京原発」(2004年、山川元監督)
  これもなかなかよく出来た映画だ。「突入せよ!『あさま山荘』事件」や「金融腐食列島 呪縛」の系譜につながる作品。「草の乱」は歴史的事件を真っ向からリアルに描いた骨太の映画だが、こちらはコメディ調ながらたっぷり風刺を利かせた別の意味で骨太な映画である。
  東京都知事(役所広司)が突然東京に原発を誘致すると言い出して、副知事を初めとする都の幹部達は大慌て。何とか知事を思いとどまらせようとするが、知事の舌鋒は鋭い。初めは単なる利権が絡んだ提案だと思わせておきながら、次第に原発問題の矛盾に鋭く切り込み始める。幹部たちはたじたじとなる。そこへ副知事が呼んだ原発の専門家が現れ鋭く知事や彼の支持に回った幹部たちに反論を突きつける。このやり取りが重要だ。知事と専門家の指摘によって、原発は安全でありまた必要だという主張が次々と覆される。あるいは原発問題に対する都民、いや国民の無関心さが抉り出される。散々笑わせながら鋭い風刺を放つ、あの革新的演劇集団「ザ・ニュースペーパー」の手法だ。
  やがて、知事はその無関心な都民に原発問題の重大さを意識させるためにあえて原発を東京に誘致するという挑発的な提案をしたのだと、副知事が気付く。一同なんだそうだったのかと安心したのもつかの間、そこに突然とんでもない電話が入る。
  プルトニウムを運んでいたトラックが謎の少年にのっとられたのである。少年はトラックに爆弾を仕掛けた。トラックの運転席にカメラを取り付け、都のホームページにその映像を流して、それをテレビで放映しろとその少年は知事に迫る。ここから映画の流れは一変してしまう。結局配線が切れていたため爆発はしなかった。この部分は不要だったと思う。おそらく製作者側は都知事と幹部たちの原発問答だけでは映画が持たないと考えたのだろう。弱気になって最後にはらはらさせる要素を付け加えたのだ。しかし知事たちの問答とトラックのっとりの部分がうまくかみ合っていない。だからいかにも付け足しという感じがする。ここで逃げてしまったためせっかくの鋭い風刺劇が薄められてしまった。その点が残念である。

SDlamp02 「夕映えの道」(2001年、レネ・フェレ監督、フランス)
   ヨーロッパ映画に多い効果音を抑えた淡々とした映画だ。しかしこれといった筋も劇的な展開もない映画だが、感動を誘うものがある。中年の女性経営者イザベルがたまたま知り合った老女マドレーヌ(マド)の世話を焼くという単純な話だ。最初は自分の中に閉じこもりイザベルをうるさがっていたマドも少しずつ心を開き始める。ポツリポツリと自分の過去を語り始めるマド。 低予算の映画だがマドとイザベルの心の交流が素直に胸を打つ。傑作というほどではないが心に残る映画だ。
   原作はドリス・レッシングの「善き隣人の日記」。イギリスの小説をフランスで映画化するというのも興味深い。

「史上最大の作戦」(1962年、ケン・アナキン監督他)
   昔見た映画はどれもそうだが、悲しいことに大部分忘れている。上陸作戦が始まるまでかなり時間をかけて描いていることに驚いた。すっかり忘れていた。まあ戦闘場面に比べればどうしても印象は薄いわけだから仕方がないが。あるいは、「プライベート・ライアン」の印象に引きずられていたのかもしれない。
   うまい設定だと思うのは、ジョン・ウェインが落下傘で着地したときに足をくじいてしまうことだ。終始杖をついたり馬車に乗ったりして、あらかじめ大活躍の場を奪っている。その代わり有能な指揮官としての彼を存分に描いている。西部劇の時代と違って、現代の戦争は一人の英雄の活躍で勝負が決するわけではない。総力戦なのだ。どんな剣豪も鉄砲隊の前では無力なのと同じだ。
  同じ視点は映画全体にも貫かれている。アメリカ軍、イギリス軍、フランスのレジスタンス部隊がそれぞれに別の場所で共同の目的のために戦っている。何度見ても感動するのはこの描き方だ。「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザーズ」にはない視点である。つまり、アメリカ軍の視点ではなく、連合軍の視点から描いているのである。いやドイツ軍の視点もかなり入れ込んでいる。このパノラマ的な視点はあの時代だから出来たのかもしれない。
  戦闘場面は思った以上にすさまじかった。「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザーズ」のような銃弾や砲弾が本当に飛んでくるようなリアルさはないが、スケールの大きさがそれを補って余りある。CGなしでこれだけの迫力ある戦闘場面が描けていたのだ。ドラマ性もしっかりしている。どんなに撮影技術が進んでも決して色あせない映画だ。

「西洋鏡」(2000年、アン・フー監督、米・中国)
 1902年から1908年あたりまでを描いている。主人公は写真屋で働いている青年。新し物好きで当時まだ珍しかった蓄音機などを持っている。そこへ英国人が活動写真を持ち込んで見世物小屋を始めた。主人公はすぐ興味を持ち、勝手に客引きを始める。英国人とも仲良くなりいつしか彼の仕事を手伝うようになる。初めて活動写真を見て仰天したり、感心したりする中国人たちの様子がリアルで愉快だ。主人公は京劇の第一人者の娘にほれてしまうが、活動写真が彼の人気を奪っていることに悩んだりする。ついには西太后に招かれ紫禁城で活動写真を上映する。同時に彼の勤めていた写真館の主人と京劇の役者も招かれていた。西太后は活動写真に大いに感心するが、張り切りすぎて映写機が火を噴き火事になってしまう。英国人は追放されるが、主人公は特別に許される。一人で活動写真を守り続ける主人公と彼が思いを寄せる娘が結ばれることを暗示して終幕。
  劇的な盛り上がりに欠けるかもしれないが、いい映画だ。中国の観客が山を映し出した映像を見てなんてきれいなんだとため息をついたり(どうも初めて山を見た感じだ)、万里の長城の映像が映し出されるあたりでは声も出ないほどに感動しているシーンは特に印象的だ。チリ映画の名作「100人の子供たちが列車を待っている」を思い出した。どちらも映画の原点を思い起こさせるすぐれた作品だ。

2005年10月 4日 (火)

白い恐怖

clip-lo51945年 アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック
製作:デイヴィッド・O・セルズニック
原作:フランシス・ビーディング
撮影:ジョージ・バーンズ
出演:グレゴリー・ペック、イングリッド・バーグマン
   レオ・G・キャロル、ロンダ・フレミング
   マイケル・チェコフ

  映画を続けて観るきっかけになった記念すべき映画。高校2年生のときに見て映画の面白さをはじめて知った作品である。その後も何度も観たはずだが結構忘れていた。最初にエドワーズ博士(グレゴリー・ペック)が精神病院の院長として赴任することから始まる。精神分析医のコンスタンス・ピーターセン(イングリッド・バーグマン)は人目でエドワーズに惹かれてしまう。まずこの設定をまるっきり忘れていた。食事のときコンスタンスがテーブルにフォークで線を書くと、エドワーズが異常な反応を示す。やがて彼は偽の院長だということが分かる。その上本物の院長の殺害の疑いをかけられる。

  エドワーズは逃走し、コンスタンスの部屋のドア下の隙間から手紙を差し入れる。彼女が手紙に気づき取ろうとする寸前に他の医師たちが部屋に入ってくる。彼らは足元の手紙に気づかない。緊張する瞬間だ。この手紙のシーンは最初に見たときから印象に残っていたシーンだ。ただ記憶では、手紙をドアの隙間から入れたとき運悪く絨毯の下に入ってしまい相手に届かないという展開だと思っていた。これはトマス・ハーディの確か『キャスターブリッジの市長』にあった場面だ。これと混同したのだろう。結局医師たちが出て行くとき最後の一人が手紙に気づくが、特に怪しまず拾い上げてコンスタンスに手紙を渡す。あわててメガネもかけずにドアに出たコンスタンスは最初は顔の近くで手紙を見るが、すぐにメガネをかけていないことに気づいて少し離して手紙を見る。次に手紙が映り、最初は焦点がぼけているが少し離すと焦点が合う。これも高校生のときに見たとき印象に残っていた。いかに登場人物があわてているかを表す細かい演出で、当時非常に感心したものだ。今見てもうまい演出だと思う。

 手紙を読み、エドワーズを愛しているコンスタンスも彼の後を追ってホテルに行く。そこで落ち合った後2人はコンスタンスのかつての恩師ブルロフ教授(マイケル・チェコフ)の家を訪ねかくまってもらう。夜エドワーズはひげをそろうとカミソリを持つが、そこで周りが白い色に囲まれていることに気づいてまた異常な発作状態になる。カミソリを持ったまま階段を下りる。1階では老教授SD-night01がまだ起きていた。教授はエドワーズにミルクを飲ませる。ミルクの入ったコップが大写しになり、コップが傾きミルクが流れる。白い色におびえる男と白いミルクがうまく使われている。階段の不気味な影や手に持ったカミソリと重なってサスペンスが盛り上がる場面だ。ここも高校生のときに強い印象を受けた場面である。

 そのミルクには睡眠薬が入っていた。老教授はとっくに彼が記憶喪失患者であることを見抜いていたのだ。エドワーズが目覚めると有名な夢解釈の場面が続く。サルバドール・ダリが協力した不気味な夢の中のシーン。屋根と巨大な目をはさみで切り取るシーンははっきり覚えていた。これも最初に見たとき強い印象を受けたシーンである。夢判断でかなりの謎が解け、コンスタンスは残された謎を解くためにゲイブリエル渓谷に向かう。そこでスキーをしたとき(いかにもフィルムを合成したと思われるチャチな映像だった。CGのない時代だから無理もないが)2人は巨大な割れ目からもう少しで転落しそうになる。その時エドワーズは、子どもの時に起こしてしまったある痛ましい事故を思い出す。それと同時に彼が成り代わっていた病院の院長にかんする記憶も戻る。彼の疑いも晴れ、これで事件は解決したかに思えた。しかし...。

 何度観ても傑作だ。発作の原因となる過去の忌まわしい記憶とは何か、奇妙な夢が意味するもの、本物の院長はどうなったのか、なぜエドワーズは院長に成り代わって病院に来たのか。サスペンスの要素がたっぷり盛り込まれている。スキーの場面がぜんぜん滑っているように見えないというような、技術的な面では今日の映画の方がはるかに自然だが、演出の冴えは時間が経過しても色あせない。「ローラ殺人事件」もそうだが、映像技術は時代が進むにつれて発達するが、それにもかかわらず過去の名作が決して色あせないのはドラマや演出が優れているからである。

コッポラ幻の処女作「ディメンシャ13」

1963年 アメリカ 原題:Dementia 13 SD-cut-mo3-17
【スタッフ】
製作:ロジャー・コーマン
脚本:フランシス・コッポラ
監督:フランシス・コッポラ
撮影:スチュアート・オブライエン
【出演】
 ウィリアム・キャンベル、ルアナ・アンダース、バート・パットン
   メアリー・ミッチェル  パトリック・マギー、エスニ・ダン

  全く知らない作品だったが、たまたま中古屋で見つけて買った。「夜歩く男」「都会の牙」と同じ「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。「幻の・・・」と銘打ったものにろくなものはないが、このシリーズは本物だ。他に「淑女超特急」「ヒズ・ガール・フライデー」「雨」「キートンの蒸気船」「キートンの大学生」など、現在8本所有。「ディメンシャ13」を買った決め手はフランシス・フォード・コッポラ監督の劇場処女作だということ。ジャケット裏に「サスペンス・ホラーの傑作」とあっては買わないわけに行かない。ロジャー・コーマンの製作で、映画のアイデア自体は彼のものである。若いコッポラの才能を見抜き監督に抜擢したそうだ。

  作品の趣としては「レベッカ」と「白い恐怖」を合わせ、それにゴシック・ホラー風の味付けをしたというところか。白黒にしたのは低予算のためだろうが、アイルランドの古城を舞台にしたサスペンス・ホラー作品なので、影を生かしたモノクロ撮影はむしろ効果的だといえる。タイトルの「ディメンシャDementia」とは「狂気、精神異常」のこと。謎解きのキー・ワードとなっている。13の意味は明確ではない。自分なりの解釈はあるが、それを言うとネタばれになる可能性があるので控えておこう。

  この作品、参考にしようと思ってネットで調べてみたが、まともなレビューは一つもない。同じ短い紹介文があちこちで使われているだけだ。しかもそれが間違っている。「アイルランドのとある古城でひとりの娘が殺された。その数十年後、まるで殺された娘の崇りかのように、この古城の住人たちが次々と惨殺されていく…。」まず娘は殺されたわけではない。事件が起こるのは「数十年後」ではなくせいぜい10年後程度。「次々と惨殺」といっても殺されるのは二人だけ。本当にこの映画を見て書いたのか、かなりいい加減だ。

  冒頭、ジョンとその妻ルイーズが小船に乗っている。ジョンは心臓が弱く、漕いでいるうちに発作を起こしてあっけなく死んでしまう。ルイーズは夫を水に沈め、彼の母親宛に偽の手紙を書いてまだ彼が生きていると思わせる。そして何食わぬ顔で夫の母親が住むアイルランドの古城に現れる。そこにはジョンの弟たち、リチャードとビリーもいた。リチャードは婚約者を連れてきていた。実は彼らの下にもうひとり妹のキャリーがいて母親に溺愛されていたのだが、不慮の事故で庭の池でおぼれて死んでしまった。母親はその痛手から立ち直れず、毎年子供たちを集めて末娘キャリーの追悼式を行っていたのである。

oldcast-entr-b1   その古城の佇まいがなんとも不気味である。古城はかつて盛んに書かれたゴシック・ロマンスにも頻繁に舞台として用いられた。普段使っていない部屋が無数にあり、夜ともなれば幽霊でも出そうな雰囲気を自然にかもし出す。古ければ古いほど、隠している古い秘密や代々伝えられてきた一族の暗い歴史が秘められている感じがする。ホラーにはもってこいの舞台、まさに定番である。30年間誰も足を踏み入れていない「開かずの間」などがあったりすればなお良い。古城には血なまぐさい秘密と怨念が染み付いている。そんな気がする。埃をかぶった部屋に置かれたなにやらわけの分からない、いわくありげな彫刻や道具、謎めいた秘密を漂わせる先祖代々の肖像画。ホラー映画の小道具に事欠かない。低予算映画には都合がいい舞台である。城さえ借りれば、小道具を含めて必要なものはそこに揃っているのだから。

  ルイーズが「開かずの間」となっているキャリーの部屋に夜忍び込んで人形を取ってくるあたりはなんとも不気味だ。ルイーズはその人形を池に沈めて時間がたつと水面に浮かび上がらせようとたくらむ。恐らく母親をショック死させようとたくらんでいたのだ。そうすれば遺産が転がり込んでくる。何しろ長男の嫁である。夫のジャックが生きているように見せかけたのはそこに狙いがあったからだ。しかし水にもぐったとき彼女は池の底であるとんでもないものを発見する。その後彼女は忽然と城から姿を消す。

  この城の広大な庭に時々忍び込んで猟をしている近所の男。手には猟銃を持っているが、30年間撃ったことはない。その彼が銃を2発はなった。何かを見つけたのだ。撃った後しばらく様子を伺い、茂みの中に這って分け入ってみるとそこにキャリーが横たわっていた・・・。

  とまあ、こんな感じで展開してゆく。他に登場するのは城の雇い人が2、3人、それとこの家の主治医。いずれもどこか怪しげであるのは言うまでもない。以上に挙げた登場人物の中の一人が探偵役を果たす。やがて追い詰められた犯人の魔の手は次の犠牲者に迫り・・・。

  サスペンスやホラーの常套手段があちこちで使われている。薄暗く複雑に入り組んだ城の、何が出てくるか分からない雰囲気は秀逸だが、観客をドキッとさせる手法は常套的で今ひとつ効果的ではない。犯人も明かされる前に見当がついてしまう。しかしカット割りや効果音の使い方はなかなかのもので、処女作としては上出来だといえよう。傑作「ゴッドファーザー」(1972年)が生まれるのはこの9年後である。

2005年10月 3日 (月)

キープ・クール

ctea1997年 中国
監督:チャン・イーモウ
出演:チアン・ウェン、リー・パオティエン、チュイ・イン、グォ・ヨウ
    チャオ・ベンシャン、チャン・イーモウ、リー・シュエチェン

  チャン・イーモウの芸域の広さを示す本格的なコメディだが、全編俳優たちが喋りまくり、叫びまくりで最後には頭が痛くなってきた。しかし出来はいい。チャン・イーモウには珍しく現代の、それも大都会を舞台にしている。

  地下鉄から降りてきた女の子を男が追い回す冒頭のシーンから現代性と大都会が強調される。女の子はサングラスをかけ、短髪で超ミニ。男はサングラスにモヒカン頭。超ミニで女の子は自転車に乗る。女の子のマンションまで男はついてくるが、そこは高層マンションが立ち並んでいる。そこで女の子を見失ってしまう。男はめげず、大声で彼女の名前を呼ぶ。そこに通りかかった屑屋に声をかけ、金を払って女の子の名前を大声で呼ばせる。その屑屋役がチャン・イーモウである。まるでヒッチコックのようにちゃっかり出演している。それでも女の子が無視するので、また人を雇って今度はスピーカーで叫ばせる。しかし彼女は現れない。

 多分その次の日、呼びかけが功を奏したのか男が女の子の部屋にいる。ベッドイン寸前にまた誰かが外で呼びかけている。あわてて男が飛んでゆくと、おっさんが人に頼まれたといって叫び続けている。男は頼んだのは自分だ、もういいから止めろと言うが、おっさんは人助けだからと一向に止めない。そうこうするうちに女の子はさっさと外出してしまう。

 これが冒頭場面だが、見事なコメディである。この後、女の子の新しい恋人が雇った男たちに主人公は襲われ殴られる。その時主人公はたまたま通りかかった通行人のかばんを奪って暴漢たちに投げつけた。そのかばんには実はパソコンが入っていて、後でその持ち主の中年男に壊れたパソコンの弁償を迫られる。しつこく弁償を迫る中年のおっさんと、女の子の新しい恋人(実はやくざだ)と、そのやくざ男の右手を切り落として復讐しようとする主人公が入り乱れて話はとんでもない方向へと転がってゆく。弁済の話がついて3人が話し合う場所に選ばれたカラオケバーみたいなところでのエピソードが傑作である。パソコンおっさんは最初主人公の復讐をとめるが、最後には逆切れして大暴れする。

 結末場面は刑務所から出てきたパソコンおっさんが車で出迎えられる場面である。運転手は主人公に雇われており、出所してきたおっさんは、反省しているという手紙とともに東芝の新しいパソコンを渡される。主人公のお詫びの気持ちを受け止めたおっさんは、主人公の家に行ってくれと運転手に指示する。ここで幕。きちんとコメディのつぼを押さえている演出だ。ただ、惜しむらくはもう少し間をとってほしかった。頭が痛くならないように。

 これはおそらく始めて見た中国の本格的コメディではないか。ほかに思い当たらない。香港映画にはいくらでもあるが、中国映画には珍しい。もっとも、案外多く作られてはいるが、輸入されていないだけなのかも知れない。

座頭市物語

1962年 大映京都horo_spl_clip
原作:子母沢寛
【スタッフ】
脚本:犬塚稔
監督:三隅研次
音楽:伊福部昭
撮影:牧浦地志
美術:内藤昭 
【出演】
勝新太郎 、万里昌代 、島田竜三、三田村元、天知茂、真城千都世、毛利郁子
南道郎  柳永二郎、千葉敏郎、守田学、舟木洋一、市川謹也、尾上栄五郎、山路義人

  急に「座頭市物語」が観たくなった。細谷正充編『時代劇原作選集』(双葉文庫)を読んだせいである。たまたま本屋で見つけたのだが、これは買ってよかった。タイトル通り時代劇映画の原作を集めた短編集で、「赤西蠣太」(原作:志賀直哉)「椿三十郎」(原作:山本周五郎)「座頭市物語」(原作:下母沢寛)「切腹」(原作:滝口康彦)「武士道残酷物語」(原作:南條範夫)など10編の短編が収録されている。

 「座頭市」シリーズはこれまでまともに観たことはなかった。正直言って、見るほどの映画ではないと思っていた。しかしこの間日本映画の古典が次々にDVD化され、レンタル店に並ぶようになった。ほんの3、4年前まではとても考えられなかったことである。観たいと思うアメリカ映画が激減していることもあって、このところ精力的に昔の日本映画を見直してきた。そういう事情もあって、これまで見向きもしなかった「座頭市」も視野に入ってきたのである。

 原作は『ふところ手帖』に収められた非常に短いエッセイである。エッセイといっても実際には短編小説に近い。話の大筋しか書かれていないので、映画化するにあたって大幅な書き込み、キャラクターの肉付け、筋の変更が必要となった。脚本の犬塚稔がこれに見事に応えた。特に座頭市(勝新太郎)と平手造酒(天知茂)のキャラクターは映画によって生まれ変わったと言っていいほど見事な性格付けがなされている。平手造酒は原作では単にやくざの出入りで死んだとしか書かれていない。座頭市とは直接剣を交えてはいない。これを映画では座頭市との一騎打ちという筋に変え、最大の見せ場にした。この変更は成功している。

 筋以上に見事なのは何といっても平手造酒の性格付けだ。尾羽打ち枯らし、やくざの用心棒にまで成り下がった労咳病みの凄腕剣士、ニヒルな表情と隙のない立ち居振る舞い。この陰のある剣士の役を天知茂が見事に演じている。昔から絶賛されてきたが、確かに素晴らしい。だが犬塚稔の脚本の素晴らしさはそれにとどまらない。座頭市と平手造酒の人間的ふれあいを描きこんだこと、それがあってこそこの映画は成功したのである。

 二人が初めて会ったのは川辺である。釣りをしている座頭市の隣に平手造酒がやってきて並んで釣りをする。ススキの原っぱを歩いて近づいてくる平手造酒の足元だけを写すショットが実に効果的で、場面に緊張感がみなぎる。しばらく何気ない言葉を交わすが、それだけで(恐らく息遣いから)座頭市は平手造酒が病気持ちであることを見抜く。二人は互いの実力を感じ取ると共に、互いの人間性に触れ、惹かれあうものを感じる。緊張感を底に秘めたのどかな川釣りの場面。忘れがたいシーンである。

SD-glass05-07  二人はやくざの用心棒同士である。座頭市は飯岡の助五郎(「本日休診」で八春先生を演じた柳永二郎)の客分で、平手造酒は笹川の繁蔵(島田竜三)に雇われた用心棒。助五郎は最近台頭してきた新勢力の繁蔵を叩き潰そうと機会を伺っている。座頭市にとってやくざ同士の勢力争いなどどうでもいいことだが、状況が否応なく二人を対決へと向かわせる。

 二人が対決する場面はこの映画のクライマックスである。剣戟も確かに素晴らしい。しかしそれ以上に、二人の立会いの場面には互いを認め合いながらも切り合わなくてはならないというやるせない無常感が漂っており、秀逸である。「つまらないやくざの手にかかるより貴公に切られたかった」とささやくように言い残して果てた平手造酒の凄絶な最後に、座頭市は見えない目に涙を浮かべて泣く。名場面である。

 「座頭市物語」はシリーズ化され、テレビシリーズも含めれば百本以上のエピソードが製作されたそうだが、そもそもシリーズ化されるのは第1作が優れているからである。シリーズ化されれば、これでもかこれでもかとばかり演出や殺陣は派手になってゆかざるを得ない。50人斬りとか100人斬りとかありえない世界に突入してゆく。その分ドラマ性は痩せてゆくだろう。この第1作が優れているのは殺陣や出入りの派手さだけではない。主要登場人物たちの性格付けとドラマ性を丹念に練り上げているからである。座頭市の描き方は多面的だ。目にも留まらぬ速さでろうそくを縦に真っ二つに切って見せたりする一方で、川に幅の狭い丸太をわたしただけの橋がうまく渡れず、四つんばいになってへっぴり腰で這って行く情けない姿も捉えている。

 ただ、これだけ長くシリーズが続くということは平均して優れた出来栄えであったということでもある。それだけ座頭市という人物像が魅力的だったといえる。

 他の登場人物としてはおたねを演じた万里昌代が印象的である。月夜の晩におたねと座頭市が並んで水辺を歩くシーンは実に美しい。白黒の映像が実に効果的だ。

 最後に余談だが、映画を観ながらずっと平手造酒役の天知茂が誰かに似ていると思っていた。映画が終わる頃やっと誰に似ているか分かった。「ER」のルカ・コバッチュ(ゴラン・ヴィシュニック)だ。あの頬のこけよう、無精ひげを伸ばしたうつむき加減の暗い表情。ちょうど自暴自棄になっていた時期のコバッチュそっくりだ。天知茂はどちらかというと四角い顔である。撮影中のスナップ写真(DVDの特典映像)を見ると素顔は当時も四角い顔だ。しかし平手造酒に扮すると頬がこけた細面の顔になってしまう。メークのマジックだろうが、一体どうやったのか。プロの技とはすごいものだ。    

2005年10月 2日 (日)

列車に乗った男

night22002、仏・独・英・スイス
監督:パトリス・ルコント
出演:ジャン・ロシュフォール、ジョニー・アリディ
    ジャン・フランソワ・ステヴナン、イザベル・プチ・ジャック
   シャルリー・ネルソン、パスカル・パルマンティエ

   パトリス・ルコント監督作品だが、これまでとはかなり作風が違うので驚く。初老の男マネスキエを演じるジャン・ロシュフォールはおなじみのキャストだが、銀行強盗のミラン役にジョニー・アリディが出演。ルコント監督にあこがれて、出演を直訴したそうだ。この寡黙な男の存在が今までとは違う雰囲気を画面にもたらしている。ルコントの映画といえばやたらと喋り捲る印象がある。マネスキエも最初のうちはよくしゃべっていたが、寡黙なミラン相手に勝手が違うのか、彼までも寡黙になる。ミラン役のジョニー・アリディは、体は以外に貧弱な感じがしたが、顔に凄みがある。ふらりと列車を降りてある町にやってくるのだが、頭痛に悩まされて薬局に入り、そこでマネスキエと出会う。それから奇妙な同居が始まる。

   やがてミランは他の仲間と銀行強盗をたくらんでいることが観客に分かってくる。そのうちマネスキエ気付く。しかし止めるわけでもなく、むしろ手伝わせてほしいと言い出す。このあたりはロシュフォールらしい持ち味だ。最後には一応止めるのだが。マネスキエは元国語の教師で詩が好きだ。週に一度生徒を教えているが、たまたま彼が留守中に来た生徒をミランが指導する場面がある。すぐに終わってしまうのだが、生徒に色々質問をして考えさせようとする。テキストはバルザックの「ウジェニー・グランデ」。ウジェニーは男を待ち続けるのだが、電話のない時代に彼女はどうするか生徒に考えさせようとする。わずかな場面だが、印象的なシーンだ。

 マネスキエは土曜日に心臓のバイパス手術を受ける。同じ日にミランたちは銀行を襲った。なぜか機動隊が待ち伏せていた。誰かが裏切ったのか。結局ミランは撃たれて死ぬ。ほぼ同時刻にマネスキエも手術中に心臓が止まる。しかしその後蘇生する。このあたりがシュールな演出で、何が真実なのかはっきりしない。よく意味の分からない場面も出てくる。ミランが死ぬ間際に見た幻想なのか。観客の解釈に任せるというよくある演出だろうが、終わり方は余韻があって悪くない。

 ルコント監督には珍しく暗くて重たい作品だ。途中少し飽きてくるところもあるが、全体としては悪くない。佳作と言えよう。

イブラヒムおじさんとコーランの花たち

2003年 フランスparis13
【スタッフ】
脚本:フランソワ・デュペイロン
        エリック=エマニュエル・シュミット
監督:フランソワ・デュペイロン
【出演】
オマー・シャリフ、ピエール・ブーランジェ、ジルベール・メルキ
イザベル・アジャーニ

 しみじみとした味わいを残す映画だが、今ひとつ胸に迫ってこない。どうも一つは物語の展開に問題がありそうだ。

 1960年代初頭のフランス。ブルー通りというパリの裏通りに住む13歳の少年モイーズは毎日満たされない生活を送っている。父と母はかなり前に離婚し、モイーズは父と二人暮し。父親は仕事から帰ってくると、モイーズが作っておいた食事を食べる。当たり前だという顔で。いかにも安っぽいアパートで、かつかつの生活をしていることが想像される。父親は本が好きで、家中に本があふれている。本棚の板が本の重みでたわんでいるのがやけにリアルだ。父は本が焼けるからと窓を開けることも許さない。父と二人で薄暗い安アパートで暮らす生活。父との会話は一向に弾まない。父は何かにつけてモイーズを兄のポポルと比較するので、モイーズは面白くない。そんなモイーズの唯一の楽しみは窓から見える通りにたむろする娼婦たちを眺めることだ。

 この導入部分から何か重苦しい。見ているこっちまで気がめいってくる。この演出方法はうまくいっていない。気のめいるような生活をしていることを分からせつつ、観客を退屈させないように描くべきだ。

 モイーズは少しずつ溜めた貯金で初めて娼婦を買う。娼婦たちにかわいがられるようになるが、彼の寂しさを救ってくれたのは彼女たちではなく、彼女たちが立っている通りに面した食糧店を営む老人だ。トルコ移民のイブラヒムである。彼はモイーズをモモと呼んだ。そのほうがユダヤ人らしくないと。満たされない思いがあるモモはしだいにイブラヒム老人と親しくなってゆく。二人の心の交流が始まってゆく。

 このあたりまで来るとイブラヒムを演じるオマー・シャリフの存在感もあって大分画面に引きつけられる。しかし突然モモの父親は解雇され、やがてモモを置いて蒸発してしまう。しばらくして父が自殺したことが知らされる。モモは唯一の知り合いであるイブラヒムの養子になる。そのとたんイブラヒムはモモを連れてトルコに旅立つ。彼の故郷に着いたとたんイブラヒムは自動車の事故であっさり死んでしまう。モモはイブラヒムの全財産を相続し、彼の店を引き継いでいる。大人になったモモの店に昔のモモの様な少年が買い物に来て、その少年をモモはモモと呼んでいる。

 物語の展開が突然ころころ変わり、どうも不自然だ。何か原作の筋だけを追っている気がする。筋の展開を追うだけで手一杯で、肝心の二人の心の交流が十分描くところまで手が回らなかった。そんな感じだ。95分と短めの映画なのでエピソードを詰め込みすぎたということだろうか。

 テーマとシチュエーションは悪くないので、2時間くらいの長さにしてもっとじっくり描けばいい作品になったかもしれない。実際いい場面は少なくない。イブラヒムの店の中での二人の会話の部分は全体にいいできである。イブラヒムが免許もなく運転もできないのに車を買うあたりのエピソードも実に滑稽だ。トルコへの旅もよくできている。トルコの荒涼とした風景は観るものに強い印象を残す。二人が入った寺院の中で見たくるくるいつまでも回って踊っている男たち、トルコの都会の様子、街の人々。どれをとってもモモには、そして観客には新鮮で鮮やかな印象を残す。ただなぜ二人がトルコに行くのか、なぜ突然イブラヒムが死んでしまうのか、そのあたりの意味合いが性急すぎて十分伝わらない。

 人種と宗教と世代の壁を超えた人間同士の絆を描く普遍的なヒューマンドラマという触れ込みのわりには、宗教への踏み込みも浅い。あえて多くを語らず観客の想像力の余地を残すという作りでもない。むしろうまく伝えられないままで終わってしまったという感じだ。原作は知らないがどうも原作を消化不良のまま描いてしまったようだ。

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