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2005年9月25日 - 2005年10月1日

2005年10月 1日 (土)

運命を分けたザイル

2003年、イギリス 2004年 英国アカデミー賞 最優秀英国映画賞受賞
原題:Touching the Void
原作:ジョー・シンプソン『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』(岩波現代文庫)
【スタッフ】
監督:ケヴィン・マクドナルド
撮影:マイク・エリー
【出演】
ブレンダン・マッキー、ニコラス・アーロン、オリー・ライアル、ジョー・シンプソン

clip10  映画を観はじめてしばらくたった時ある奇妙な感覚に襲われた。変だな、この話知ってるぞ。もちろんこの映画を観るのは初めてだ。特に予備知識もなくレンタル店で借りてきたものである。しかし、ザイルを切られてクレバスに落ち込むという話にはどうも覚えがある。頭の中で過去の記憶を急いで検索してみる。すぐ思いついたのはジョン・クラカワーの『空へ』(文芸春秋)と映画「バーティカル・リミット」(2000年)。どちらかに似たような場面が出てきたのかもしれない。しかし確信がもてない。どうも気になるので途中でDVDを止めてネットで確認してみた。何と『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』が原作だった。覚えがあるはずだ。読書ノートを調べてみたら原作の方は2001年の3月11日に読了している。もう4年半前だ。著者本人が映画に出てくるが、名前をすっかり忘れていてうかつにも気がつかなかった。

 僕は登山はしないが、山岳遭難もののドキュメンタリーを読むのは好きだ。物語として下手な小説よりもずっと面白いからだ。上記の『空へ』は山岳遭難を扱ったドキュメンタリーの白眉だ。『死のクレバス』も傑作で、夢中になって読みふけったものだ。他にもチボル・セケリ『アコンカグア山頂の嵐』(ちくま文庫)なんてのも読んだ。漫画では谷口ジローの『神々の山嶺』(全5巻、集英社、原作は夢枕獏)が傑出している。「K」(双葉文庫)も秀作だ。

 それにしてもイギリス人は冒険物語にはいつも顔を出す国民だ。その典型はエンデュアランス号遭難事件。その事件を扱ったドキュメンタリー、アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮社)の面白さは桁外れだ(アーネスト・シャクルトン自身が書いた『南へ エンデュアランス号漂流』〔ソニーマガジンズ〕も出ている)。南極海で2年以上氷に閉じ込められた探検隊が全員一人も欠けずに無事に帰還する。事実は小説より奇なりと言うが、ほとんど信じられないことが現実に起こるのである。この実話はドラマ化され2夜にわたってNHKで放映された。ケネス・ブラナーがシャクルトンを演じている(「シャクルトン 南極海からの脱出」というタイトルで最近DVDが出た)。しかし原作の面白さには到底及ばない。登山で言えばジョージ・マロリー。女性だってすごい。19世紀後半に世界中を旅し日本も訪れたイザベラ・バード(1831-1904)。世界の7つの海を支配したかつての大英帝国の名残りか、イギリス人はどこへでも出かけてゆく。そう言えば、世界で一番最初に旅行会社を作ったのもイギリスのトマス・クックだ。

 前置きが長くなったが、イギリス映画「運命を分けたザイル」はさすがの傑作。クライミングの場面はほとんどドキュメンタリーかと思うほどの迫力だ。BBCを抱える国だけあってこのあたりの撮影技術はアメリカ以上だ。そういえばエンデュアランス号にもカメラマンが乗っていた。ドラマ化作品にはカメラマンが制止を振り切って水に沈んだ撮影済みのフィルムを拾い上げる場面が出てきて記憶に残っている。イギリス人は記録に取り付かれた国民でもある。その集大成が大英博物館と大英図書館である。「マスター・アンド・コマンダー」にも、いかにもイギリス人らしいエピソードが出てくる。艦長の親友である軍医が博物学にも関心を持つ男で、途中ガラパゴス諸島に寄って珍しい鳥や動物、昆虫などを捕まえる場面である。

 またまた寄り道してしまった。「運命を分けたザイル」にはジョー・シンプソンとサイモン・イェーツ、そしてベース・キャンプを守っていたリチャード・ホーキングがインタビューを受ける形で出演している。まさか当事者本人が出てくるとは思わなかった。考えてみれば1985年の話だからそんなに昔の話ではないわけだ。再現映像ではそれぞれブレンダン・マッキー、ニコラス・アーロン、オリー・ライアルが演じている。ただし、クライミングの場面はシンプソンとイェーツ本人が出ているらしい。何せ6000メートル級の山だ、素人じゃとてもまね出来るものではない。

 「運命を分けたザイル」という邦題はふさわしいタイトルではない。サイモンがザイルを切ったことの是非をめぐる映画ではないからだ。原作も映画もそんなことはたいして問題にしていない。どちらも主題は絶体絶命の窮地からのサバイバルである。下山途中の骨折、そしてクレバスへの転落。すべてはそこから始まる。それまでの話は序章にすぎない。

 ジョーを取り巻く状況。それは普通の人間なら1日と持たない悲惨で絶望的な状況だ。深いクレバスに落ち込みかろうじて棚のようになっているところに引っかかっている、進退窮moontalisman3まった状況。骨折しているのでクレバスを這い上がることは出来ない。下を見れば底知れない深さのクレバスが不気味な黒い口をあけている。声を上げてもサイモンに届かない。氷りの檻にたった一人で取り残されている。夜は真の暗闇になる。足の痛みに加えて孤独感と不安感、そしてその上に恐怖と絶望感が積み重なる。肉体的にも精神的にも耐え難い状況だ。並の人間なら自殺を考えるか、発狂していただろう。さいとうたかおの「サバイバル」にはわずかな食糧などを奪い合って殺しあう場面が何度も出てくるが、ジョーには奪い合う食料もなければ殺しあう相手もいない。絶対的な孤独。底知れない恐怖と絶望。しかしジョーは生き延びる可能性に賭けた。上がれないなら下に降りよう。痛む足を引きずって彼は氷壁を降りる。片足しか使えないので、ゆっくりとしか降りられない。しかし着実に降りてゆく。訓練をつんだクライマーの体力と技術には驚くしかない。足が1本動かなくてもザイル1本で氷の壁を降りられるのだ。

 やっと底に着いたかと思えば、そこは単に雪がたまっているだけで、その下にはまだ穴がある。彼自身の重みで雪だまりは下からどんどん崩れている。上を見上げると外の光が見える。幸いその斜面は緩やかだ。必死で体を引きずるようにして出口へと這い上がる。苦労の末ようやく地上に出る。そこで彼はサイモンの足跡を見つける。サイモンの足跡を見つけたとき、よかった彼も生きていたんだとジョーは喜ぶ。共に命を託し合って凶暴な自然と闘ってきた仲間に対する山男の心情に胸を打たれた。

 しかし地上に出たとはいえ、彼の前にはまだ大きな壁が立ちふさがっていた。歩けない状態でどうやってテントまで下りてゆくのか。ベースキャンプはまだまだはるか下である。途中には危険なクレバスが無数に潜んでいる。食料もない。助けも来ない。やがてブリザードが襲ってきて、サイモンの足跡を消し去ってしまった。道標さえ失った。

 この先がすごい。複雑に深いクレバスが入った氷原を這い進む、まかり間違えばまた転落である。雪と氷が消えると、岩がごろごろ転がっている地面を、片足を引きずるようにして進んでゆく。何度も石の上に転倒する。歩けなくなるとごろごろした石の上を這って進む。このあたりは視覚的効果も加わって原作以上に迫真力があった。彼を支えたもの、それはとにかくあの目標まで20分で行こうという「20分ルール」だ。そのパターンの果てしのない繰り返し。1キロ進むことを考えれば気が遠くなるが、10メートル先の目標なら可能に思える。実に賢明な行動だ。

  何日もかけて彼はやっとサイモンたちがいるテントの近くに到達し、助けられる。不思議なことにやっと助かったという感動は薄く、その後ラストも含めてほとんど記憶がない。恐らく助かるまでの苦闘があまりに凄まじすぎたため、その後の部分がかすんでしまうのだろう。テントに到達したところで事実上この壮絶な脱出劇は終わっているのである。本人がインタビューに出ているのだから、その後無事助かったことは分かっている。

 ケヴィン・マクドナルド監督は「ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実」でアカデミー「ドキュメンタリー長編賞」を受賞している。もともとドキュメンタリー作家である。監督本人は「おいしいレストランが600m以内にないと不安になる」という都会人だが、それでもこの無茶な撮影を敢行したのは「自分の見知らぬ世界、普通でない体験に身を投じる」のが好きだからだとオフィシャル・サイトに収められたインタビューで語っている。やはり彼にも探検家たるイギリス人の血が流れているのだ。最後にもう一言彼の言葉を引用しておこう。「美しさは恐怖にもなりうる。」この世のものとも思えない美しい光景も、ひとたび嵐が来ればそこに来たことを後悔したくなるような地獄に変貌する。それを身にしみるほど知っていても登山家たちは山を目指すのである。

2005年9月30日 (金)

深呼吸の必要

2004年c_aki02aw
監督:篠原哲雄
出演:香里奈、谷原章介、成宮寛貴、金子さやか、久遠さやか
    長澤まさみ、大森南朋、 北村三郎、吉田妙子

  沖縄のサトウキビ刈りに参加した5人の若者の苦労と成長を描く。それぞれ不安や傷を負った若者たち。彼らがつらい作業と共同生活を通して共通の達成感を持ち、自分を変えてゆく。よくあるパターン通りのストーリーだが、丁寧に作ってあるので完成度は高い。これがテレビドラマだったらちょっといい話で終わっていただろう。

  主演の香里奈の落ち着きのある佇まいがいい(立花ひなみ役)。TVドラマ「カバチタレ」に出ていた女優だそうだが、この作品で演技開眼したようだ。サトウキビの最後の一本を刈るシーンが実際のラストカットだったようで、緊張したそうだ。しかしその分感慨深いシーンになったという。サトウキビは実際に刈った。慣れてくると単純作業なのでそのうち集中してやってしまう。刈り終えた時は達成感があったそうである。

  他に、元甲子園で活躍したピッチャーで斜に構えている青年西村大輔(成宮寛貴)、手術に失敗して心に傷を持つ青年医師池永修一(谷原章介)、ブランドで着飾ってちゃらちゃらした女の子川野悦子(途中で逃げ出すがまた戻る、金子さやか)、ほとんど口を利かず他人と一緒に風呂にも入れない女の子土居加奈子(長澤まさみ)。もう一人、元沖縄に住んでいたが、思うところあって沖縄にふらっと戻ってきた女性美鈴(実は妊娠していた、久遠さやか)も途中から参加する。農場の持ち主であるおじいとおばあも、若者たちに余計な口出しをせず黙って見守っているところがいい。

  青年医師池永は経験の長い先輩格の青年田所豊(大森南朋)が自動車事故で怪我をしたとき手術をして活躍する(その後例の手術の失敗のことを立花に打ち明ける)。先輩の田所が、自分はサトウキビばかりではなく季節ごとに日本中あちこちに行って様々な仕事を手sep20伝っていると自慢げに話した時、西村はあんたの現住所はどこだ、あんたこそ自分の居場所がなくて逃げ回っているんじゃないかと噛み付く。しばらくギクシャクするがすべて刈り終わったとき田所は彼にグラブを渡し、一緒にキャッチボールをする。途中で逃げ出した川野もその後は心を入れ替えて懸命に頑張る。周りに打ち解けなかった土居も最後には声を出し(「なんだ話せんるんじゃないか」とみんなが驚く)、笑顔を見せる。労働と共同生活を通して若者たちが心を開いてゆく。確かによくあるストーリーだ。しかしそう思っても確かにさわやかな映画だという思いは強く残る。沖縄の強い日差し、作業が遅れても「なんくるないさぁ」と笑い飛ばすおじいの存在感などがこの映画を支えている。見ていて自分も参加したくなってくる。今の日本、みんな何か一生懸命に打ち込むこと、いろんな人との人間的なつながりをどこかで求めているのだ。

  「ナビィの恋」、「ホテル・ハイビスカス」と沖縄映画は秀作が生まれている。南国特有の明るさとたくましさがみなぎる映画だ。「深呼吸の必要」はその明るさとたくましさを求めて内地からやってきた人々の映画である。視点は違っているが、やはり沖縄ならではの映画だ。

悪人と美女

lady51952年 アメリカ
監督:ヴィンセント・ミネリ

撮影:ロバート・サーティーズ
出演:ラナ・ターナー、カーク・ダグラス、ディック・パウエル
    ウォルター・ピジョン、グロリア・グレアム
    バリー・サリヴァン、ギルバート・ローランド

  懐かしい映画との感動の再会。この映画は自分にとって思い出深い映画である。最初に観たとき感動した。長い間もう一度観たいと思っていたのだが、なぜかその後まったく出会うことのなかった映画なのだ。テレビでも、映画館でも、ビデオでも見られなかったのだ。高校2年で映画を見始めてごく最初の頃に観たと思われる。最初に見てから30年はたっているだろう。ラストシーンだけはぼんやり覚えていた。一人が電話に出て、他の仲間も顔を寄せて声を聞こうとする場面だ。それ以外の話はほとんど忘れていた。今回改めて見直して、その最後の場面に至る流れがようやくつながった。

  ある日、パリにいる名プロデューサー、ジョナサン・シールズから3人の男女に呼び出しがかかる。映画監督のフレッド(バリー・サリヴァン)、女優のジョージア・ロリソン(ラナ・ターナー)、そして作家であり、脚本家でもあるジム・バートロー(ディック・パウエル)。いずれも今では成功を収めている人たち。3人ともジョナサンによってひとかどの映画人にしてもらったのだが、彼から手ひどい扱いを受けてその後絶交している。ジョナサンはその3人にあえて声をかけ、新しい映画の製作にかかわってくれるよう頼んだのだが、3人とも冷たく断る。しかし間に信頼できる人物ハリー(ウォルター・ピジョン)が入っているため、いやいやながら3人は集まる。そこから回想になる。

  3人とジョナサンの関係が過去にさかのぼって明らかにされてゆく。確かにジョナサンは3人に対してひどい扱いをしたのだが、それは彼らを単なる道具として利用したからではなく、本物のスター、監督、脚本家を育てたかったからだということがエピソードを通して次第に明らかになってゆく。突然の亀裂が入るまでは皆ジョナサンを心から信頼し愛していたのである。だからあのラストシーンになるのである。最期に話は現在に戻る。ジョナサンはパリから電話をかけてきており、提案に対する3人の返事を待っている。3人ともその提案を断リ、部屋を出て行く。しかし最初にジョージアが立ち止まり、隣の部屋にあった電話機を取ってハリーとジョナサンの話を盗み聞きする。他の2人も彼女の両側に顔を寄せてジョナサンの声を聞こうとする。

  結局3人が映画制作に参加したのかどうかは分からないが、少なくとも彼らがジョナサンを心から憎み切っているわけではないことが分かる。見事なラストシーンだ。複雑な人間関係をうまく整理しながらもそれぞれの心理を見事に描いている脚本、シャープで重厚な演出、それらに応えた俳優たちの見事な演技。今見ても少しも色あせない見事な人間ドラマである。  

2005年9月29日 (木)

寄せ集め映画短評集 その5

 在庫一掃セールもついに第5弾。今回は各国映画7連発。

クジラの島の少女(2003年、ニキ・カーロ監督、ニュージーランド)
candlestick1   ヒロイン・パイケア役のケイシャ・キャッスル=ヒューズがいい。映画初出演というが、難しい役を見事に演じている。伝説の英雄パイケアの流れをくむ家系に生まれ、またその名を受け継ぎながら、女だというだけで伝統を受け継ぐことを拒否された少女の役だ。その悩みの深さと、男の子に負けずに先祖の意思を継ごうとけなげに努力する意志の強さを表現しえている。じっと前を見つめる黒い瞳が魅力的だ。
  伝統を受け継ぐ族長で、彼女の祖父役であるラウィリ・パラテーン,祖母役のヴィッキー・ホートン、パイケアの父親役クリフ・カーティス、いずれもニュージーランドを代表する名優で、しっかりとした存在感を持って演じている。パイケアが一際かわいい女の子で、男の子を打ち負かすほどの力を持っているという設定はできすぎという感もあるが、それがさほど抵抗なく受け入れられ、彼女をむしろ応援したくなるのは、女の子ゆえに謂われなく差別されてもそれにめげずに彼女が因習に立ち向かって行くからである。原初、どこでも母系社会だった。映画は双子の子供を生んだパイケアの母親が男児とともに死ぬところから始まっている。生き残ったのは女の子だった。民族の血を受け継ぎ受け渡すのは産む性なのだ。一貫して彼女を支えてきた祖母の存在も忘れてはならない。
 アボリジニが自らを描いた「裸足の1500マイル」は民族差別が常に背景に描きこまれていた。「クジラの島の少女」ではほとんどすべての登場人物がマオリであり、むしろマオリの民族的誇りが謳いあげられている。「裸足の1500マイル」の根底にあったのも民族が伝えてきた知恵であり、差別に立ち向かう民族の誇りであった。この年にはもう1作、イヌイット語で作られた初めての映画「氷海の伝説」も公開されている。壮大な叙事詩でこれも傑作だった。この3つの映画が同じ年に日本で公開された意義は大きい。それぞれの国でそれぞれの人々がそれぞれの言葉で自分たちを語り始めている。われわれはもっと耳を傾けなければならない。

ポーリーヌ(2001年、リーフェン・デブローワー監督、ベルギー・仏・オランダ)
  女性ばかり4人姉妹の2番目がポーリーヌ。知的障害がある。一番上の姉と暮らしていたが、その姉が突然亡くなる。3番目の妹は店を一人で切り盛りし、かつオペレッタでも活躍していた。4番目の妹は都会のブリュッセルに住み、フランス人の彼氏と暮らしている。どちらもポーリーヌをもてあましている。いっそ施設に入れようかとも思うがなかなか決心がつかない。ポーリーヌは花と妹のポーレットが好きだ(ポーレットは迷惑顔だが)。一番下の妹のことはどうやら誰なのか認識していないようだ。ポーリーヌはいたっておとなしく、天真爛漫でいつも笑っているが、廻りに迷惑をかけてしまう。一人では靴紐も結べず、食事のときもナイフを使えない。ポーレットは決意しポーリーヌを施設に入れ、オペレッタもやめ店も閉めて海辺に引っ越す。しかし寂しさに悩まされる。一人海辺のベンチに腰掛け涙を流す。結局ポーレットはまたポーリーヌを引き取り一緒に暮らす。最後のあたりは泣かされた。
  老人や障害者の世話の問題はどこの国も同じように悩みの種だ。姉妹の間でたらいまわしにする気持ちも分かる。ポーレットも店をやめ舞台を引退したからポーリーヌを引き取れたのだ。「森の中の淑女たち」「八月の鯨」「コクーン」などの老人が活躍する映画は楽しい。しかしボケや障害の問題を正面から描けばなんとも気の重い映画になる。そこをこの作品ではポーリーヌの天真爛漫さと、悩みながらも姉に対して完全には冷たくなれない姉妹たちの存在によって回避している。ただ、予告編やビデオのジャケットの説明が、まるでポーリーヌを天真爛漫な天使のように描き、彼女のせいで周りが明るくなるかのように宣伝しているのは間違いだ。彼女はやはり周りに迷惑をかけっぱなしなのだ。ただ、それにもかかわらずなぜか彼女を憎めない。そういうことだ。深刻な状況を描きながら、日本のテレビドラマのようにどろどろには描かない。この危ういバランスの上でこの映画は成り立っている。そういう意味で優れた映画だと思う。

21グラム(2003年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、アメリカ)
  「アモーレス・ペロス」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。一つの交通事故を通じてナオミ・ワッツ(事故で娘2人と夫をなくす)、ベニチオ・デル・トロ(ひき逃げ犯)、ショーン・ペン(心臓の移植を待っている患者)の3人の運命が交錯する。3人とも苦悩をかかえ悩み苦しむ。「アモーレス・ペロス」と同じタイプの粘っこい映画。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督独特の持ち味。
cut-window6  ベニチオ・デル・トロは元犯罪者で今は敬虔なクリスチャン。それが事故を起こし、警察に届けず逃げてしまう。自分を許せず、悩み苦しむ。殺してほしいと望むが殺してもらえない。心臓移植を受けたショーン・ペンは心臓提供者に関心を向け、その妻(ナオミ・ワッツ)に接触する。家族を失い麻薬におぼれる彼女に同情以上の感情を持ち、ついには肉体関係まで持ってしまう。ある夜二人がベッドに寝ているとベニチオ・デル・トロが進入してきて殺してくれと懇願する。ナオミ・ワッツは憎しみにかられベニチオ・デル・トロを何度も殴りつけるが、その間にショーン・ペンは銃で自分を撃ってしまう。移植された心臓が拒否反応を起こしていた。しかしそれだけが理由ではないだろう。
  すさまじいまでに過酷な状況の中に生身の人間を投げ込み、ねじれた関係を繰り広げながら互いに苦しみもだえるさまを描く。見ごたえはあるのだが、出口が無い鬱屈した思いだけが残る。運命と出会い。生と死。反発と依存。罪の意識と信仰。重いテーマだがもう一つ胸に迫ってこない。なぜだろう。俳優たちの演技は3人とも素晴らしい。現在と過去が入り組み、交錯する展開。特に新鮮な演出ではないが、しかしこれが問題ではない。どうも、シチュエーションの設定にどこか人工的なものを感じるからかも知れない。あるいは、3人とも並行して描かれているため、結果として誰にも感情移入が出来ないからか。やはり出口がないことが問題なのか。あるいは、ひょっとしてそれぞれの人物の苦悩が個人的なものとして描かれており、社会的・歴史的な広がりや深みに欠けるからなのかも知れない。

「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年、ゴア・バービンスキー監督、アメリカ)
  ジョニー・デップがいい味を出している。ストーリー展開が巧みで飽きさせない。一言で言うと、この映画は実写版アニメだ。アニメを実写版にしたものという意味ではなく、最初から実写として撮ったアニメ調映画という意味だ。アニメが元にあってそれを実写で撮った映画にろくなものがないが、それは元のアニメに作る側も見る側もどうしても捕らわれてしまうからだ。しかしアニメの動きや味わいを生かしつつ最初から実写として企画すればそのデメリットを避けられる。ジョニー・デップの体の動きやせりふまわしなどはまるっきり「モンスターズ・インク」や「シュレック」と同じだ。ゾンビ的海賊などのCG効果はアニメ的効果を出すために使われているといっていい。アニメ的映画を作る道具としてCGを生かす可能性がここで開発されたのだ。製作がディズニーであることを考えれば、この方針はおそらく意識的なものだ。ジョニー・デップをはじめとするキャラクターの演技の仕方がいかにも戯画的、アニメ的なのも意図的なのだ。

都会の牙(1950年、ルドルフ・マテ監督、アメリカ)
  「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。この当時にこんなめまぐるしい展開の映画があったのかと驚く程のテンポの速さだ。最近の映画はどんどんエスカレートして見せ場てんこ盛り、ゲームの様なテンポになってきているが、55年前にもこんな映画があったとは新しい発見だ。こんな「お宝映像」がまだあったとは!
  ストーリーの設定もユニークだ。冒頭男が警察にやってくる。その男は殺人事件だと告げる。被害者は誰かと警察が聞くと、男は自分だと答える。そこから男の話が始まる。見事な導入部分である。
 結婚前に気ままな一人旅に出た男が酒場でルミナス毒を盛られる。その毒には解毒剤がない。男は1日か長くても1週間以内に死ぬ運命にある。その前に事の真相に迫ろうとする。体に時限爆弾を埋め込まれて爆発前に解除の方法を探るとか、毒を盛られて解毒剤を探すとかいう映画はあったが、死ぬことが決まっているという設定は新鮮だ。
  主人公がサンフランシスコに遊びに行っている間に、彼の事務所に緊急の連絡が何度も入る。事務所の秘書(主人公の婚約者)からその連絡を受けていたが主人公は無視していた。しかし毒を盛られてからその電話が気になる。電話をしてきた男の事務所を訪ねるとその男は自殺したと聞かされる。どうやら何かの取引で騙されたらしい。死んだ男の家を訪ねその妻と会う。さらに色々探って行き、とうとう真相にたどり着く。自殺だと思われていた男は実は殺されていた。犯人は・・・・・。話し終えた主人公はばたりと倒れ息絶える。
  真相自体はなんてことはないが、とにかく息をつがせぬ展開が見事だ。主演は熱演型のオドモンド・オブライエン。名優だ。タイトルは忘れたが、ある映画でなんともいやらしくて憎たらしい犯人役を熱演していた。マルコビッチもたじたじの演技だった。監督はギャング映画でおなじみのルドルフ・マテ。「知られざる傑作」の名にふさわしい作品である。このシリーズバカに出来ない。なくならないうちにめぼしいものを全部買っておこう。

ゴースト・ワールド(2001年、テリー・ツワイゴフ監督、アメリカ)
  ソーラ・バーチ(イーニド)と最近お気に入りのスカーレット・ヨハンソン(レベッカ)主演。2001年キネマ旬報ベストテンで9位に入った作品。
hanehosi1  結論から言うと、期待したほどではなかった。比重はヨハンソンよりもソーラ・バーチにある。イーニドは高校を卒業したものの自分を見出せず、世の中や他の人たちに対して不満ばかりがつのる。しがないレコードマニア(スティーブ・ブシェミ、女にもてる役なんて初めてじゃないか?!)に一方的に入れあげ、彼の恋の世話を焼く。しかしその恋がうまく行くと自分の嫉妬がつのる。唯一の友達のレベッカとも次第に亀裂が入りだす。結局イーニドは心が満たされることなく、バスに乗りどこへともなく去って行く。そのバス路線はとっくに廃線になっており、待っていてもバスが来るはずはないのだが、バス停のベンチにいつも老人が座っていてバスを待っていた。何もかもいやになって自棄になっていたイーニドはその老人がバスに乗り込むのをたまたま見かける。来るはずのないバスに。そのベンチでイーニドもバスを待ち、そして来るはずのないバスに彼女も乗ったのだ。このラストはある種の救いを暗示している。
  この映画の魅力はソーラ・バーチにある。小太りでスタイルは悪い。しかし顔の表情が豊かで、不満気な表情が魅力的だ。しかし欠点も彼女にある。と言うよりは、彼女の描き方にある。確かに彼女の不満には根拠がある。優しそうで、しかし本当には彼女のことを心配しているとは思えない父親。男たちはバカばかり。唯一気が合った中年男は女性との付き合いが苦手なレコードオタク。すべてがうまく行かない。何もかも不満だらけ。分からないでもない。しかし、ただどこかへ去ってゆくだけでは本当の解決にはならない。不満や苛立ちだけを描き、何も肯定的なものを提起しない。ヌーヴェル・ヴァーグによくあったパターンだ。この映画に対する不満はそこにあると言っていい。

活きる(1994年、チャン・イーモウ監督、中国)
  40年代から60年代までの中国に生きたある一家を描いている。地主の息子が博打で家財産をすべて失い、影絵芝居で何とか暮らしを立ててゆく。公演中に国民党に無理やり徴兵され、九死に一生を得る。塹壕の中で酒を飲んで翌朝目覚めると部隊は撤退して一緒に寝ていた3人しか残っていない。野戦病院があったところには累々と死体が折り重なっている。この場面はショッキングだ。やがて共産軍に救われ影絵の芸を活かして何とか生き延びる。しかも革命活動に従事したという証明までもらう。これが幸いした。やがて時代は共産党時代に代わり、博打で彼の家をのっとった男は走資派として処刑される。博打で負けていなければ彼がその運命にあっていた。
  戦争から戻ると娘が口をきけなくなっていた。しかし息子が生まれていた。その息子は学校で鉄を作っているとき事故で死んでしまう。娘は足の悪い紅衛兵と結婚するが、出産の際に出血多量で死んでしまう。医者は走資派として糾弾されており、空腹のあまり饅頭を7個も食べて倒れてしまって役に立たなかった。
  次々と不幸が襲う。しかし娘は死ぬ前に男の子を産んでいた。その子は無事成長している。初老になった夫婦は孫と娘婿に囲まれて子供たちの墓参りをする。次々と降りかかる不幸に負けず生き抜いてゆく二人の夫婦に共感を抱かずにはいられない。決して重苦しくならないのは、主人公が絶望せず、常に生き続けようとしているからだ。
  主人公を演じたグォ・ヨウが実に存在感があってすばらしかった。妻役のコン・リー以上の好演だった。彼はテレビでも人気の俳優のようだ。きつい顔立ちだが、いい味を出している。特に初老になってからのふけ具合が実に自然だった。コン・リーももちろんよかったが、あまりふけて見えなかった。しかし、「きれいなおかあさん」同様、汚れ役をやらせてもはまるのは大女優の証だ。
  この映画は中国では上映禁止になった。今でもそうなのかは分からない。劇中に、主人公が娘に、アヒルはガチョウになり、ガチョウは馬に、馬は牛になり、牛は共産党になるというせりふが出てくるが、後に同じせりふを主人公が孫に言うときには最後の共産党を言えなかった。おそらくこれが検閲に引っかかったのではないか。つまらないことで上映禁止にするものだ。

ブリジット・ジョーンズ゙の日記 きれそうなわたしの12か月 

2004年 英・仏・米・独・アイルランドSD-ca-book1-03
監督:ビーバン・キドロン
出演:レニー・ゼルウィガー、コリン・ファース
    ヒュー・グラント、ジャシンダ・バレット
    ジム・ブロードベント、ジェマ・ジョーンズ
       サリー・フィリップス

 等身大の独身女性を描いて評判になったヒット作の続編。主要な観客層として独身の女性を想定していると言われるが、男性が観ても面白い映画である。圧倒的に女性ファンが多い作品の場合(例えば「マディソン郡の橋」など)男が見るとどうということがない場合が多い。しかしこの作品には何の抵抗もなく入って行ける。なぜだろう。

 一つはヒロインのキャラクターが魅力的だからだろう。ブリジット(レニー・ゼルウィガー)は少々のことではへこたれない。体ばかりか神経も相当太い。びしょ濡れになろうが、入ってはいけない場所に入ってはいけないタイミングで入ってしまおうが、めげずに突き進む。その爽快感が何といっても魅力だ。ダーシーとうまく行かなくなったときはさすがにめげたりもするが、そういう時の気持ちを含めて、女性たちは彼女に共感してしまうのだろう。非常に分かりやすいシチュエーションなので彼女の気持ちは男性でも理解できる。

    ストーリーはドジで太った(太めなどという控えめな表現のレベルをはるかに超えている)独身女性の恋人獲得(あるいは再獲得)物語だが、細身・長身・美貌・エレガンスなどといったラブストーリーのヒロイン像を見事にひっくり返した設定が功を奏している。誰もが美人であるわけではない。どこにでもいる普通の女性の行動と感情だから共感できるのである。同時に、それはまたコメディ向きの設定でもある。難しい理屈抜きのラブ・コメディという作りになっている。それが性別を問わず誰にでも親しめるもう一つの理由だろう。

    ブリジットは前作以上に肥え太っている。「ぽっちゃりしていてかわいい」から、「ぶくぶく太っているのにそれでもかわいい」へ。この分では3作目が作られるときは相撲取りのようになって出てくるのか?タイトルも「ブリジット・ジョーンズの日記 恋のはっけよい 抱きしめて!手が届くなら」になってたりして(タイトルがさらに長くなるのは言うまでもない)。冗談はともかく、渋い二枚目の恋人マーク・ダーシー(コリン・ファース)との全く似合わない組み合わせも妙にはまっている。コリン・ファースは渋すぎてほとんど怒っているように見えるが(また怒って当然というタイミングで必ずブリジットが現れる)、実はブリジットを憎からず思っている、というのもほとんどシュールなレベルに達していてかえって可笑しい。あの太った姉ちゃんのどこがいいねん、と思わずなれない関西弁で突っ込みを入れたくなるが、分からなくていいんだそんなことはといわんばかりの強引な設定にいつしかのせられている。

SD-ca-daf03   ダーシーという名前はジェーン・オースティンの『高慢と偏見』でヒロインが憧れる大地主の名前と同じで、明らかにそれを意識している。ヒロインよりもヒーローの方が社会階層は上という設定も同じである。しかし全体としてはアメリカ的ドタバタ・コメディという色彩が濃い。冒頭に「サウンド・オブ・ミュージック」を真似たシーンが出てくるが、これもほとんど毒のないパロディである。イギリスらしいねじれてブラックな味付けはほとんどない。アイロニーや風刺よりもストレートな笑いに重点が置かれている。その分口当たりがよくなっている。アメリカ的コメディへの傾斜は前作より強まった気がする。男女を問わずすんなり受け入れられるのはそのためだろう。

 脇役もお約束のようにうまく配されている。元上司でとことん女たらしのダニエル・クリーバー(ヒュー・グラント)、美人ですらりとスタイルのいいレベッカ(ジャシンダ・バレット)。ドジで、早とちりで、妄想癖があり、タイミングの悪いブリジットに、この二人が絡んで無事に済むはずはない。ダニエルに騙された挙句に麻薬所持の現行犯で逮捕されてしまう。いやはや。しかしそこでも彼女はめげない。いつしか周りの女囚たちをすっかり手なずけてしまっている。誰かがまるで牢名主のようになっているといっていたが、さすがにそれは言いすぎでしょ(笑)。むしろたとえるなら「天使にラブ・ソングを・・・」、修道院に逃げ込んだウーピー・ゴールドバーグですな。「どうせやるんなら徹底的にやらなきゃ」と言って、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」の振り付けを始めるあたりはまさにそのノリだ。考えてみればデロリス(ウーピー・ゴールドバーグ)とブリジットはキャラクターも体形も似ている!?レニー・ゼルウィガーが太らねばならないのはどうやら必然性があるんだ。あの押しの強さはあの体形でないとだせない。

 周りの女囚たちとうまくやってはいるが、少なくとも15年は豚箱に入ったままだと言われて、さすがにブリジットも落ち込む。ことここに至ってようやく渋い、というより苦々しい顔の王子様(ダーシー)が登場する。そこからハッピーエンドまでは一直線だ。ちょっとした誤解が間に挟まるが、その誤解が解けてハッピーエンドになるのは『高慢と偏見』のパターンである。

   ブリジット・ジョーンズはすっかりレニー・ゼルウィガーの当り役になってしまったが、もうこの辺で打ち切ったほうがいいのではないか。また太ったらもう元に戻れないかもしれない。あるいは逆に激痩せのキャラクターにするか。いやいや、あんまり体に無理をさせてはいかん。どうしても続編を作るなら普通の体形の普通のOL役にしなさい。

2005年9月28日 (水)

茶の味

2003年reath1
監督、脚本:石井克人
出演:坂野真弥、佐藤貴広、浅野忠信、手塚理美
    三浦友和、我修院達也、土屋アンナ、中嶋朋子

 一風変わった映画だがなかなかいい映画だ。どこが変わっているのか。まず、シュールな映像がふんだんに出てくる。男の子(佐藤貴広)の額から列車が出てきて、空を飛んでゆく。男の子の頭には穴が開き向こうが見通せる。その妹の幸子(坂野真弥)には時々巨大な自分が見える。庭や教室やグランドに突然巨大な女の子が出現する。おじいちゃん(我修院達也)はどう見ても老人には見えないし、その行動も奇怪だ。幸子のおじさん(浅野忠信)が子どもの頃、卵の上に野糞をしたと思ったら、それは卵ではなくしゃれこうべだった。その後刺青をした血だらけの男が野糞をした男の子に付きまとう。また別の男が土の中から出てくる。色々なエピソードが唐突に挟まれ、ストーリーも素直につながっていない。

 しかしそれでも支離滅裂にならないのはどこかつながりがあるからである。列車が額から出てきた男の子は丁度好きだった女の子が列車に乗って転校していくのを見送っていた。列車が頭から出てくるのはいかにもシュールな映像だが、去ってゆく女の子を思う男の子の気持ちをとっぴな形で描いただけだ。なぜ巨大な女の子が出てくるのかはよく分からないが、いずれにしても女の子のもう一つの意識だろうと想像できる。血まみれの男は頭蓋骨に糞をしてしまった男のこの罪の意識の表れだろう。土から出てきた男はよく分からないが、罪の意識が消えたとき血まみれの男が消えたので、その男が生き返ったのかもしれない。しかし訳が分からなくてもこれだけシュールな映像があふれていれば、これぐらいのことは大して違和感を感じない。

 突然関係ないと思える映像が出てくるのは、この映画が特定の人物に焦点を絞っているのではなく、家族一人一人をほぼ等分に描いていることから来るものでもある。同じ家族でも家にいるとき以外はそれぞれ学校に行ったり職場に行ったり別々にすごしている。それを等分に描こうとすれば、ばらばらのエピソードの積み重ねにならざるを得ない。女の子を演じた坂野真弥がキャストの一番最初に名前が出てくるのがそれを象徴している。他にもビッグネームが何人もいるのに、必ずしも一番多く出演していたわけではない坂野真弥の名前が先頭にあるのだ。佐藤貴広の名前が2番目に出てくるのも同じ考えに基づいている。奇怪な行動をとるおじいちゃんも、最後に家族みんなの絵をかいていたことが死後に分かり、残された家族や観客をほろりとさせる。と、こんな風に説明してしまうのも野暮だ。要するに、観ながらどこか辻褄が合っていると思えるからシュールな映像や展開が頻繁に出てきても違和感を覚えないのである。奇抜な映像を好む監督は得てして人生や社会をひねてみていることが多いが、この監督が人間を見る目は温かい。おじいちゃんが残した絵や家族みんなが一斉に(それぞれ別の場所で)同じ夕焼けを眺めるラストシーンにそれが現れている。

 父親(三浦友和)と母親(手塚理美)はまともに描かれている。一時的に厄介になっている伯父さんの浅野忠信もまともだ。彼が突然昔振られた中嶋朋子と出会い、言葉を交わすシーンは実にリアルだ。互いにばつが悪そうに、そわそわしながら話す。話はまったく弾まない。言葉を交わしたいが、どこか気まずくて言葉が出てこない、そんな空気が場面にあふれていて、見ているこちらまでそわそわしてしまう。「下妻物語」に先立って出演していた土屋アンナも魅力的だ。佐藤貴広が一目ぼれしてしまうのも無理はない。

 監督は石井克人。他の作品も観てみたくなった。ここ数年の日本映画は見逃しているのが多いが、少し意識してみてみる必要があると考え直した。日本映画はかなり上向きになってきているという印象は間違っていなかった。韓国映画や中国映画の活躍が日本映画人に刺激を与えているのかもしれない。                              

子猫をお願い

SD-fl6-092001年 韓国映画
監督、脚本:チョン・ジェウン
出演:ペ・ドゥナ、イ・ヨウォン、オク・ジヨン、イ・ウルシル
    イ・ウンジュ、オ・テギョン、キム・ファヨン
        チェ・サンソル、パク・ソングン、ムン・ジョンヒ

 韓国の女性観客映画賞で「韓国女性が選ぶ最高の韓国映画」に選ばれた作品だ。監督はこれが初長編のチョン・ジェウン。短髪で一見男性の様な顔立ち。年齢は30代くらいか。かなり落ち着いた感じの人だ。初めての長編なので自分の気持ちに重ねてストーリーを作ったとインタビューで語っている。それまでに短編を2本作っただけの新人がこれだけの作品を作れるところに、韓国映画の水準の高さ、映画人育成システムの充実ぶりがうかがえる。

  高校を出たての5人の女性が社会に出ても互いに友情を保とうと努力する映画である。テヒ役にペ・ドゥナ。ボーイッシュな髪型で鼻が大きく、決して美人ではない。しかし顔も雰囲気も坂井真紀似で、実に魅力的だ。「ほえる犬はかまない」ではすっかり魅了された。ここでも5人の中で一番の存在感だ。驚いたことにインタビューでは長髪になっていて、結構美人に見える。もう一つ驚いたのは、彼女はモデル出身だということだ。小柄なイメージだが実際は結構背が高いようだ。「リンダ リンダ リンダ」(未見)の写真を見ると一番背が高い。共演のイ・ヨウォンとオク・ジヨンとはモデル時代からの知り合いだという。

  大企業でOLをしている美人のヘジュをイ・ヨウォン、貧しい暮らしをしながらデザイナーになる夢を持っているジヨンをオク・ジヨン、双子の姉妹をイ・ウンシルとイ・ウンジュが演じている。ヘジュの誕生日に貧しいジヨンは拾った子猫をプレゼントする。しかしヘジュはいらないと付き返す。その後ジヨンは不運に見舞われ、ついには火事で家族を失う。警察による単なる型どおりの尋問になぜかジヨンは何も答えない。彼女は怪しまれ拘置される。テヒだけが彼女を案じて面会に行く。

  一時5人の関係が壊れかかるが、また仲が戻る。親とはそりが合わないが、優しいところがあるテヒ。美人で薄情でファッションなどに目がないが、仲間とは離れてゆきそうで離れないヘジュ。イラストレーターの才能があるのに貧しいゆえに夢をかなえられないジヨン。いつも陽気で明るい双子。それぞれの個性が絡み合い、つかず離れず関係が続く。社会に出て互いに流されそうになりながら、何とかむかしの友情を保とうとする5人の女性。監督が言うように、女性なら、誰もが誰かに自分を投影できるようだ。男には必ずしもぴんと来ないが。しかし共感は出来る。誰かに自分を重ねたりはしないが、群像劇として楽しめる。女性がたくさん出てくることだけが魅力なのではない。個性を描き分け、それぞれどこか社会の中に足場を十分築けず浮遊しながらも、精一杯生きようとする姿勢に共感できるのだ。ほとんど男性との恋愛が出てこないところがいい。韓国はそんな映画も作れるのだ。韓国映画にまた傑作が一つ加わった。

2005年9月27日 (火)

ベッカムに恋して

jewelgrape5 2002年 イギリス・ドイツ
監督:グリンダ・チャーダ
出演:パーミンダ・ナーグラ、キーラ・ナイトレイ
    ジョナサン・リース・マイヤーズ、アーキー・パンジャビ
    シャヒーン・カーン、フランク・ハーバー

 サッカーにあこがれるインド系少女がインドの伝統を押し付けてくる母親との葛藤を経ながら自分の夢をあくまで追求するという映画だ。その意味では「インドへの道」の系譜、「ぼくの国、パパの国」の系譜に属するが、成功物語という意味では「ブラス!」、「リトル・ダンサー」や「グリーン・フィンガーズ」の系統にも属する。しかし、イギリス国内に暮らすインド人というテーマからすれば、イギリスのパキスタン人移民を描いた「ぼくの国、パパの国」の系統に入れるのが一番妥当だろう。監督をはじめ製作スタッフの中心はインド人である。そのことが成功を生んだといえるだろう。一貫してインド人の視点から描かれている。その点でイギリス人の視点から描かれる「インドへの道」と異なる。

  主人公のジェスの姉が映画の最後で結婚するのだが、婚約や結婚のパーティの場面はまるでインド映画のようだ。極彩色の衣装、音楽と踊り。両親、特に母親はインドの伝統を守ろうとしている。母親は娘がサッカーをすることには反対だ。男と混じってプレイする、肌を見せて走り回る、すべてが気に入らない。このあたりはさすがにインド人のスタッフが作っているだけあってリアルだ。ジェスも自分の夢は捨てきれないが、家族の考えを無視するわけにはいかない。何度も練習に出られない事態になる。特に決勝戦が姉の結婚式の当日に当たることが分かり、状況は深刻になる。この彼女の葛藤がおざなりでないところが作品に真実味を与え、作品の価値を高めている。

  決勝戦と結婚式がかち合うのはドラマによくある常套手段と言えるが、それまでに十分伝統と新しい価値観の衝突は描きこまれているため、とってつけたような人工的クライマックスという感じは与えない。彼女は結局式を途中から抜け出して、試合に出る。そして試合に勝った。しかも彼女の活躍で。そしてアメリカから来たプロのスカウトに認められてアメリカ行きと奨学金を手にする。絵に描いたような結末だが、最後のあたりは涙を禁じえなかった。古い伝統を跳ね返し、自分の人生を自分で決めようとするジェスに深く共感したからだ。

  インド人とイギリス人の人種問題、それも植民地意識が介在する関係もよく描かれている。同じ有色人種でもインド人とイスラム教徒とでは扱いが違うようだ。娘に反対して父親が「サッカー選手にインド人がいるか?(いないだろう)」とどなると、ある有色人種の選手の名前があげられる。しかし彼はイスラムだと父親は反論するのだ。実は父親自身かつてクリケット選手で、有望な才能があったようだが、インド人だというだけで相手にされなかったという苦い経験を持っていた。この父親の描き方がいい。最初から母親とは違って多少娘に理解がある親として描かれていた。最も感動的なのは結婚式を抜け出そうとする娘に気づいた彼が、姉の結婚式に不機嫌な顔をされていてはかなわない、それより試合に行ってこい、だが帰ってきたときには最高の笑顔を見せてくれと言った時だ。あるいは、娘のアメリカ行きに反対する母親に向かって、昔自分は人種の壁にぶつかってクリケットをあきらめたが、娘には同じ思いをさせたくないと断固として娘の肩を持った時である。

  ジェスをスカウトしたイギリス人の女子選手とその家族(彼女とジェスをレスビアンだと勘違いしてしまう母親が傑作だ、彼女は最後には娘を失いたくないとサッカー・ファンになる)、そして女子チームの男性監督もいい。特に彼をめぐっては女子サッカーチームに対する差別意識が絡められ、作品のテーマを深めている。彼とジェスは恋愛関係になる。甘い設定といえば甘いが、前向きな意思にむしろ共感した。映画は夢を描くものなのである。

  最後に主役の女の子について一言。ちょっと小太りで歩くときの姿勢もやや前かがみだ。サッカーをしているときの動きもあまり機敏ではない。しかし彼女の表情がいい。普通にしているときやふくれているときはそれほどかわいく見えないが、ちょっといたずらっぽく笑ったときの笑顔がいい。このまま女優を目指すのか分からないが、普通の女の子を演じられる女優になってほしい。

人生は、時々晴れ

2002年 イギリス・フランスdan01bw
監督、脚本:マイク・リー
出演:ティモシー・スポール、レスリー・マンビル
    アリソン・ガーランド、ジェイムズ・コーデン

  なんとも気が重くなるようなイギリスの下層の生活がこれでもかとばかりに描き出される。口数の少ない、見るからにうらぶれたタクシー運転手(ティモシー・スポール)。奥さんはしっかり者だが口うるさい。彼女もスーパーでレジのアルバイトをしているが、生活はぎりぎりだ。太った娘も老人施設のようなところで清掃の仕事をしている。まじめに働いている子だ。しかし息子は、これまた太っていて、何も仕事をせず一日中ぶらぶらして、親に口答えしてばかりいる。母親に汚い言葉を投げつけても、父親は何も言わずただ黙って見て見ぬふりをするだけ。隣は母娘の家庭で、娘には恋人がいるが、やがて妊娠が発覚する。しかし相手の男は無責任で絶対産むなと言って出てゆく。そのまた隣の家の娘はいつも家の前をぶらぶらしている。変な若い男が彼女にまとわりついているが、彼女は歯牙にもかけていない。隣の妊娠した娘の恋人に岡惚れしている。父親は最初の家族の父親と同じタクシー会社の同僚である。妻はアル中でほとんど廃人寸前。

  イギリスの下層の生活はこんなものなのだろうか。「マイ・ネーム・イズ・ジョー」「がんばれ、リアム」など出口のない気のめいる映画がイギリスには多いが、確かにこれらはイギリスの現状を伝えているのだろう。しかしこの映画の重苦しさは複数の家族の日常生活を描いているだけに、遥かに暗く、重く、よどんでいる。どこでもそうなのだという気持ちになってくる。ディケンズの小説の中にはもっとすさまじい貧困と怪物のようになった人間が出てくるが、戯画化したり、どこか突き放して客観的に書いたりしているのでこのような重苦しさはない。なまじそれぞれの家庭に密着して具体的に描いているので、逃げ道がないように思えてくるのだ。

  しかし、最後にわずかな光明が見出せる。最初の家族の太った息子がサッカーをしていた時、突然発作に襲われて倒れてしまう。それをたまたま買い物から帰ってきた隣の主婦2人が発見する。すぐに救急車を呼ぶように一人が言うが、もう一人のアル中の主婦はただおろおろするばかりで役に立たない。彼女の娘が事態に気づいて母親を押しのけるようにして電話をかける。普段ぶらぶらしてばかりいる娘だが、緊急の事態にはしっかり対応する姿が描かれている。倒れた子どもの母親は連絡を受けてすぐ夫の車で飛んで行こうとするが、夫に連絡がつかない。アル中の主婦の夫が同じタクシー会社の同僚なので、彼の車で病院に向かう。しかし途中バックしてきたほかの車と衝突してしまう。怒鳴りあう二人のドライバーを残して母親は病院へ走る。しかし夫とはまだ連絡がつかない。

  実はそのとき何もかもいやになった彼女の夫は、タクシーの無線も携帯も電源を切って、テムズ川の河口あたりと思われるところに車を止めて考え事をしていたのだ。自殺するのshot7かと思わせる気配もあった。だが、やがて気持ちが晴れたのか父親は仕事に復帰し、息子の入院を知り病院に駆けつける。妻と激しくやりあうが、幸い息子の命に別状はなかった。ただ一生薬を飲み続けなければならないと医者に言われる。ベッドに横たわる息子は人間が変わったようになり、以前のとげとげしい口の聞き方をしなくなる。息子の病気とその変化をきっかけに、その家族は立ち直り始める。父親は妻に向かって、お前は俺を愛していないんだと泣いて訴える。妻は心を動かされる。この何年かの間で初めて本心から交わした会話だったのだろう。お互いに愛を確認しあった後、2人は家庭を立て直す努力を始める。

  最後にわずかな光明が見出せるのが救いだ。ケン・ローチ、マイク・リー、リン・ラムジー、マイケル・ウィンターボトムなど、何人もの監督たちがイギリスの現状を描いてきた。貧困、無教養、無気力、麻薬禍、退廃等をリアルに描きながら、同時に必死で生きようとする人たちのもがきをどう描くのか。これがこれからのイギリス映画の課題となるだろう。簡単に出口は見出せないが、出口がなければ、希望がなければ人は生きられない。この出口なき現状に、どのようにして安易ではない出口を描き出すのか。映画人たちの苦心と努力は続くだろう。

  主演はティモシー・スポール。「ラスト・サムライ」でカメラマンを演じていた、あの太ったおっちゃんだ。イギリスの庶民を演じさせたらまさにうってつけの役者である。だらしなく太り、年中同じ服を着ている感じで、だらけた生活を日々おくっている情けない中年男、そんな役がぴったりはまる。

  90年代以降のイギリス映画にはケン・ローチ監督の作品を初め、庶民生活を描く作品が目立って多くなっている。したがって、ダニエル・デイ・ルイスやヒュー・グラントのようないかにも貴公子然とした俳優ではなく、ロバート・カーライルやユアン・マクレガーのような、不満だらけで鬱屈した労働者や町のあんちゃんが似合う役者が台頭してくる。ピート・ポスルスウェイトやブレンダ・ブレッシン同様、本来脇役が似合うティモシー・スポールも時代の流れに後押しされて、今やどうどう主役を張っているのである。その彼が一転して日本人真っ青の猛烈セールスマンに扮したのがダニー・ボイル監督の「ヴァキューミング」だ。主人公トミーは電気掃除機の販売員で、完全な仕事人間。全く逆の役柄になりきってしまう。すごい俳優だ。

  監督は「秘密と嘘」のマイク・リー。「秘密と嘘」はケン・ローチの「レディバード・レディバード」とならび、秀作・話題作ひしめく90年代イギリス映画の中でも頂点に立つ傑作である。次の「キャリア・ガールズ」はがっかりしたが、「人生は、時々晴れ」はなかなかの秀作。現在のイギリス映画界を支える重要な監督の一人である。

2005年9月26日 (月)

ディープ・ブルー

2003年 イギリス・ドイツclip-do3
監督、脚本:アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット
撮影:ダグ・アラン、ピーター・スクーンズ、リック・ローゼンタール

  今上田でも「皇帝ペンギン」が公開されているが、このところ動物ドキュメンタリー映画が続々作られている。「ディープ・ブルー」はイギリスBBC製作の海洋ドキュメンタリー映画だ。ペンギン、サメ、シャチ、亀、クジラ、アシカ、深海魚などの映像が延々と続く。NHKで放送されるBBCのドキュメンタリーもの大好きの僕にとってはたまらない映像だ。動物もののドキュメンタリーという意味ではフランスの「WATARIDORI」に通じるが、あちらは鳥がテーマ。海がテーマと言う意味では、むしろ同じフランスの「アトランティス」(リュック・ベッソン監督)に近い。ただ、「アトランティス」が静かな映像でヒーリング向きなのに対して、「ディープ・ブルー」はベルリン・フィルを使った音楽が激しく鳴り響き、波の音や魚が水を切る効果音などが体を震わせる。動きもはるかに動的で、展開もドラマチックである。とうていリクライニング・チェアーを後ろに大きく倒して、グラス片手にゆったりとくつろぎながら観る映画ではない。シャチがアシカを襲う場面、魚と鳥が小魚を追いまくる場面などはすさまじい限りである。後者は空から見ると、激しい水しぶきが上がり、まるで艦隊と爆撃機の戦闘場面のように見える。水中から見るとまるで白兵戦の修羅場だ。小魚たちは群れて一斉に同じ動きをする。まるで次々にメタモルフォーゼを繰り返す一つの巨大な生き物のように見える。

  一転して深海に潜ると光と音のない世界。暗闇に怪しく光る不思議な生き物たち。チョウチンアンコウの様なグロテスクなものから、光を放つ妖精のように美しいものまで、実に様々な異形のものたちが棲息している。深海を訪れたものは宇宙を訪れたものより少ないと言う意味のナレーションが印象的だ。人は見たことのない世界を見てみたいと思う。ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』に描かれた地中の世界もそうだし、深海ものや宇宙のかなたの星を探検する話も同じだ。深い地底や海底には人間が見たこともない怪しげな生き物や恐ろしい生き物が生息しているに違いない。そこにどんな世界があるのか、見たことがないだけに人は覗いてみたくなる。「アビス」「デプス」「リヴァイアサン」などの映画は、そのぞくぞくするような深海の怖さを味わう映画である(期待に応えたかどうかはともかく)。「ジュラシック・パーク」のような恐竜時代を再現して見せた映画が大ヒットするのも同じ欲求からくるものだろう。

  まあ、この手の映像は好きでよく観るから珍しくはないのだが、テレビで見るときと違って音響効果がものすごいのではるかに迫力がある。プラズマテレビでサラウンドにして観たのでものすごい迫力だ。映画館で見たらなおさらすごいだろう。特に海面近くで撮った映像の迫力は下手な人間のドラマをはるかに凌ぐ。そこにはナマの生存競争がある。まさに弱肉強食の世界。やらせでも芝居でもない、本物の食うか食われるかの世界だけに圧倒的な迫力である。

  疲れたときに観て心が安らぐ映画ではないが、音を消してただ流しているだけだったらどうだろうか。ヒーリングになるか。眠れない夜に「アトランティス」と「ディープ・ブルー」を続けてみてみよう。

ボン・ヴォヤージュ

SD-shipwindow022003年 フランス映画
【スタッフ】
脚本:ジャン=ポール・ラプノー、パトリック・モディアノ
監督:ジャン=ポール・ラプノー
音楽:ガブリエル・ヤレド
撮影:ティエリー・アルボガスト
【出演】
 イザベル・アジャーニ、ジェラール・ドパルデュー
 ヴィルジニー・ルドワイヤン 、イヴァン・アタル
  グレゴリ・デランジェール、ピーター・コヨーテ

 1940年6月14日、ドイツ軍の侵攻によりパリは陥落する。フランス第3共和制はこれにより崩壊し、政府はボルドーに疎開する。その後ペロン元帥を首相とした、親ナチス政権であるヴィシー政権が成立する。「ボン・ヴォヤージュ」はこのヴィシー政権誕生前夜の混乱した時期を背景として、2つのストーリーをもつれ合うように展開させている。

  一つは女優ヴィヴィアンヌ(イザベル・アジャーニ)と作家志望の幼なじみのオジェ(イヴァン・アタル)のストーリー。ヴィヴィアンヌはしつこく迫ってくるアルペルという男を誤って殺してしまい、その死体の始末をオジェに頼むが、オジェが車で死体を運んでいる途中事故にあい、トランクの中に隠していたアルペルの死体が見つかってしまう。オジェは犯人にされて監獄に入れられてしまう。しかしドイツ軍の侵攻により囚人たちもパリから他の土地に移送されることになるが、その混乱に乗じてオジェは同じ囚人のラウルと共に脱走する。ヴィヴィアンヌは彼女のファンである大臣ボーフォール(ジェラール・ドパルデュー)に取り入ってうまくボルドーに脱出する。

  第2のストーリーは原爆の基となる化学物質“重水”をドイツ軍に見つかる前にイギリスへ持ち出そうとするコポルスキ教授と女子学生カミーユ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)のストーリーである。彼らもパリからボルドーに向かうが、その途中足のないオジェとラウルを同乗させる。  この2つのストーリーが大混乱に陥ったパリとボルドーを舞台にめまぐるしく展開される。ボルドーは避難して来た政府関係者や一般人でごった返している。道もホテルもレストランも人であふれている。その混乱の中でドイツのスパイである新聞記者も暗躍している。

  めまぐるしい展開だが前半はやや退屈だった。人間関係が複雑なのでどうしても説明的描写が多くなるからだろう。後半は“重水”をイギリスへ持ち出せるかどうかというサスペンス的要素が濃くなるのでそれなりに惹きつけられる。ヴィヴィアンヌとカミーユとの間でゆれるオジェの三角関係の行方もそれに絡んでくる。

  魅力的なストーリーだが、テーマが複雑すぎて消化不良で終わっている。それ以上に不満なのはイザベル・アジャーニだ。主役は言うまでもなく彼女だが、この映画で一番活躍しているのはイヴァン・アタルとヴィルジニー・ルドワイヤンである(ジェラール・ドパルデューもさすがの存在感だ)。このギャップが欠点となっている。イザベル・アジャーニは確かに美人だし、もう50も近いというのに可愛らしさが十分残っているが、顔が能面みたいで表情に乏しく、主役としての魅力に欠ける。もちろん映画スターという設定だから、常に回りを意識して表情を崩さないよう努力したり、自分の魅力を武器に男に取り入ろうとするのはある意味でリアルであるともいえる。しかし女優としての表の顔のほかに当然裏の顔、すなわち彼女の素顔もあるはずだ。その二つを演じ分けられなければ主演の役割を果たしているとは言えない。めまぐるしい展開に追われて、中心にある人間ドラマを十分掘り下げられなかった。「ボン・ヴォヤージュ」が傑作にならなかった一番の理由はそこにあると思う。

2005年9月25日 (日)

ハウルの動く城

cut-window3  「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」は色々なテーマを無理に詰め込みすぎてどこかごちゃごちゃした感じがした。しかし宮崎駿は「ハウルの動く城」で再び「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」の路線に戻った。彼にはやはり大冒険活劇が似合う。理屈ぬきに楽しめるからいい。

  「ハウル」には上の3作のエコーが感じられる。爆撃機が飛び交う火に包まれた戦場の場面は「未来少年コナン」のタイトル場面や「風の谷のナウシカ」を思わせる。鉄の戦艦や飛行機は「風の谷のナウシカ」を連想させる。最後にチラッと出てくる、緑の木と芝生に囲まれた空飛ぶ「城」はまさに「天空の城ラピュタ」だ。何度も出てくる文字通り絵のように美しい場面は見ているだけで心を和ませる。フィクションが本来持っている重要な効果の一つ、現実を超えた理想的な状況や場面を疑似体験させてくれるという効果を、最大限に発揮している。わくわくする冒険の世界。これこそアニメの、ひいては物語の原点だ。魔法の世界はそういう意味で効果的に機能している。ダイアルを変えるたびに違うところに通じるドアがまさにそれだ。ヨーロッパ風の町並みの美しさも特筆すべき。「魔女の宅急便」や「紅の豚」にも出てくるが、「ハウル」のものが一番美しい。そして何といってもあの動く城だ。その外観もさることながら、内部のヨーロッパ風の作りがため息が出るほど素晴らしい。

  この作品の素晴らしさは声優の使い方にも現れている。これまで有名人を起用していたため、本職の声優の様には絵と声が一致していない恨みがあった。本作ではそれが見事に一致している。とりわけ倍賞千恵子は若いソフィーとばあさんのソフィーの声を見事に使い分けていた。妹「さくら」も顔はもうすっかりばあさんなのだが、その声の若々しいこと。実に見事な声技だ。美輪明宏と加藤治子は絵が本人に似せて描かれていたこともあり、絵と声がうまくマッチしていた。以外なのは木村拓哉。一番心配だったが何の違和感もoldcastle-1なくやってのけた。賞賛していい。

  原作が外国のものだけに、人物は西洋人風に描かれている。特にソフィー(もちろん若い方)は魅力的だ。これまでのヒロインの中で一番女の子としての魅力を感じた。顔の映らない斜め後ろからの姿がこれほどまでに心をときめかすヒロインは今までいなかった。長く愛せる作品がまた増えた。宮崎駿には毎年1作ずつ永遠に作ってほしいくらいだ。

  ちょっと褒めすぎか。自分らしくない気もするが、たまには手放しで褒める映画があってもいいだろう。宮崎駿は本当に好きなのだから。

寄せ集め映画短評集 その4

毎度おなじみ、在庫一掃セール第4弾。今回は各国映画7連発。

c_aki01b 「父よ」(2001、ジョゼ・ジョヴァンニ監督、フランス)
  「穴」で成功したジョゼ・ジョバンニの自伝を彼自らが映画化したもの。自伝だがむしろ視点はタイトルどおり父親に当てられている。父親はプロの賭博師だがまじめな性格で、暗黒街に身を投じた2人の息子とは仲が悪かった。鼻が大きくジャン・ギャバンを思わせる堂々とした体躯。息子達は逮捕され投獄される。兄は脱走を試み殺される。残った弟(マニュ)を父親は何とかして助けようと懸命の努力をする。刑務所の向かいの酒場に毎日のように通い、弁護士や看守にさかんに働きかける。ついには被害者の家族に会い、減刑嘆願書を手に入れる。そのおかげでようやく息子は死刑を逃れる。しかし父親はそれを母親の努力の成果だと息子には伝える。やがて息子は出所し、彼の書いた手記「穴」がベストセラーになり、映画も大ヒットする。出版記念のパーティに父親は姿を現すが、息子とは会わずに去る。
  全体にフィルム・ノワールを思わせる暗い色調で描かれている。それが効果的だ。死刑が迫り精神的に荒れる息子。何とかして息子を救おうと考えられる限りの努力をする父親。母親は頼りにならない。よく出来た作品だと思うが、もう一つ胸に迫ってこなかった。「穴」のような脱獄の話ではないので緊迫感が足りないのは仕方がないとしても、淡々としすぎていて盛り上がりに欠けるせいだろうか。その点が残念だ。

「道中の点検」(1971年、アレクセイ・ゲルマン監督、ソ連)
  作品完成後検閲に引っ掛かり15年もお蔵入りしていたアレクセイ・ゲルマン監督作品。この作品はどうしてそれまで上映禁止になっていたのかと思うほどすぐれた映画である。ドイツ軍の捕虜になっていた男がソ連軍に投降してくる。この男は敵のスパイか、それとも味方か?この点をめぐって二人の将校の意見が対立する。味方であることを立証するために、彼はドイツ軍の車を奪うように命令される。任務は首尾よく果たしたが、味方も一人殺され、そのため疑いはまだ晴れない。彼は最後のチャンスとしてドイツ軍の軍用列車を奪う作戦に加えられる。作戦はうまくゆき列車を奪うことができたが、主人公は味方を援護して戦死する。白黒の画面が素晴らしく、またドキュメンタリー・タッチとよく合っている。信頼と疑惑の狭間で苦悩する主人公をウラジミール・ザマンスキーが見事に演じている。
  だがこの映画の中心人物はもう二人いる。二人の将校だ。主人公に対する評価が真っ向から対立するこの二人の確執は、この作品のもう一つの主題になっている。この二人の対立を最も劇的に示しているシーンは、鉄橋爆破のシーンである。橋の架かる川の上を一隻のはしけがゆっくりと進んでいる。そのはしけにはソ連兵の捕虜がひざを抱える姿勢でぎっしり詰め込まれている。パルチザンたちは鉄橋に爆薬を仕掛け、ドイツ軍の軍用列車を爆破しようとしている。しかし列車が橋に差しかかった時、ちょうどはしけがその下を通過した。爆破すべきか否か。この時も二人の将校の意見は対立した。緊張の数秒が過ぎ去り、橋は爆破されずに残っていた。このシーンは作品の一挿話に過ぎないが、作者のヒューマンな姿勢が最もはっきりと表れた印象的なシーンである。これだけの作品が15年間も公開されないでいたということは驚くべき事実だ。

「黄色い大地」(1984年、チェン・カイコー監督、中国)
  最初に見たのが1989年の4月だから約15年ぶりに観た。主題はすっかり忘れていた。地方の民謡を採取して新しい歌詞をつけて人々に広めるために村にやってきた役人と、彼が泊めてもらった家の娘の関係を描いたものだ。今見ると共産党をたたえる歌を子供に教えたり、南の方では親が娘の結婚相手を見つけるのではなく、自分で見つけるようになっているという話に娘が感化されるなど、相当に共産党色が強い映画だ。ただ、黄河が流れる黄色い大地の色、花嫁を乗せた籠にかぶせた赤い布の色など、色彩の描き出しにチャン・イーモウ(撮影監督)らしさがのぞいている。
  たくさん出てくる民謡はいかにもスタジオ録音っぽくてリアルではない。むしろリアルさは黄色い荒れ果てた大地とその横を流れる黄河の流れ、そこまで5キロの道のりを歩いて水汲みに行く労働などにある。娘の親の老人が言う古い因習にしばられた考え方、結婚式の風習や普段の生活(娘の弟は放牧をしている)なども今見てもリアルである。f_kesiki01w
  娘には年上の、それもだいぶ前から決まっていた結婚相手がおり、いよいよ嫁入りが決まる。役人の話に出てくる自由な生き方に憧れ、自分も八路群に連れて行ってほしいと望むようになる娘の気持ちが切ない。しかし役人は帰ってしまう。娘は結婚させられるが、嫁入りの日、不気味なほど黒い手が彼女が頭にかぶっている赤い布を取る。夫の顔は出てこないが、恐ろしさに後ずさりする娘の姿が描き出される。結局、娘は夫のもとを逃げ出し、対岸の八路軍のところに渡ろうと黄河に船を出すが、途中でおぼれたことが暗示される。
  最後に役人がまた村に戻ってくると、また結婚式が行われており(映画の冒頭も結婚式で始まる)老人と息子はそれに出ていた。しかし娘の姿はない。悲恋仕立てにしているところがこの映画を救っている。

「さびしんぼう」(1985年、大林宣彦監督)
  期待したほどではなかったが、若いころ見ていたら引き込まれたかもしれない。ビデオ屋で並んでいた大林作品を眺めていて気付いたが、彼の作品はみな超自然的現象を扱ったロマンチック恋愛ドラマなのだ。「はるかノスタルジー」は言うまでもなく、過去の時代と接点を持ってしまうTVドラマ「告別」もそうだし、幽霊が出てくる「ふたり」や男女の精神が入れ替わってしまう「転校生」も同じだ。「さびしんぼう」を観ていて今の韓国映画と共通するものがあると感じた。出だしの悪がきどもの馬鹿騒ぎも「ラブストーリー」と同じだし、写真の女の子が現れるというありえない設定も「イルマーレ」や「リメンバー・ミー」に通じる。まるで今の韓国映画を見ているようだ。韓国映画が大林から影響を受けたということは聞いたことはないが、これは新しい発見だった。
  それにしてもどうして十代の若者を描くときはあんなに馬鹿みたいに描くのか。そんなに馬鹿みたいにはしゃいでばかりいるわけではないだろう。「ジョゼと虎と魚たち」の最初のあたりにもそれを感じたし、「ピンポン」や「GO」にすらその気がある。逆に小学生を描くときは大人びた生意気な子どもが多く出てくる。面白い現象だ。
  「さびしんぼう」の後半はよく出来ている。冨田靖子の魅力がよく生かされている。一番かわいかった頃だろう。高校生役と道化役がそれぞれに魅力的だ。特に道化のときの最後の場面、雨で目の黒い化粧が溶けて雫となってほほを流れ落ちるシーンは印象的だ。この後半のよさを最初から出せていたら傑作になっていただろう。しかし冨田靖子の未来の姿が藤田弓子では夢も希望もないわい。もっとも藤田弓子も最後は多少きれいに見えたが。小林稔侍が若い。20年近く前だから当然だが、今のへらへらしたいやらしさはない。

「シティ・オブ・ゴッド」(2002年、フェルナンド・メイレレス監督、ブラジル・米・仏)
  ブラジル製作の新手のギャング映画だ。麻薬と女がからむのはいずこも同じ。違うのは子供のギャングだということ。どこで手に入れるのか子供たちが銃を持っている。そして舞台は貧民街。貧困が根底にある。
  はじめは普通の強盗だったが、その仲間の一番小さい子供が仲間が引き上げた後襲った店の人間を皆殺しにしてしまう。この子供が後のリトル・ゼという町一番のギャングになる。彼は次々に他のギャングたちを殺し、麻薬を一手に支配する。しかし、最後のもう一つ別のグループと全面対立に至り、激しい抗争の末に双方ほぼ壊滅してしまう。そしてまた小さな子供たちが銃を手にして・・・。
  いつ果てるともない暴力支配を、新鮮な演出でスタイリッシュに描いている。社会派的な描き方ではないが、一人一人のギャングを短いが端的に描き分けてゆく演出力は出色だ。ストーリーを語るのはギャングの仲間ではないが、終始その近くにいたカメラマン志望の少年である。彼が決して暴力に走らないまじめな少年であることが、この映画をただ血なまぐさいだけのギャング映画になることから救っている。
  銃と暴力が密接に関係していることをいやというほど見せ付けられる映画だ。子供たち同士が殺しあっていることに胸が痛む。「ボウリング・フォー・コロンバイン」と併せて見るといいかも知れない。

「猟奇的な彼女」(2001年、クァク・ジェヨン監督、韓国)
  いかにも東洋的なラブ・ロマンスである。何といってもヒロインの激しい性格が魅力的だ。一方のキョヌは対照的に気が弱くて人が良い。「ぶっ殺されたい?」というせりふが有名になっsuiso01たが、確かに強烈な印象を残す。出会いがすごい。電車のホームでふらついて電車にひかれそうになっているのをキョヌが見かねて助ける。何とか電車に乗せたが、彼女は実は酔っ払っていて、前に座っているおじさんの頭に思いっきりゲロを吐いてしまう。そのまま眠ってしまったので仕方なくホテルに泊める。翌日食堂か何かで話していると近くの客にいきなり怒鳴りつける。気に食わないとキョヌもひっぱたく。とんでもない暴力女だが、なかなか魅力的な女性である。
 キョヌは彼女に魅かれる。だが、どこの誰だかわからない(彼女の名前は最後まで出てこない)。連絡はいつも彼女から携帯にかかってくる。しかしそのうち彼女は前の恋人と別れたことが分かってくる。彼女にはその恋人が忘れられないのだ。だからキョヌを真には愛せない。結局二人は分かれることになる。丘の上の木の下にそれぞれ相手に当てた手紙を埋め、2年後に会うことを約束する。このあたりはいかにもロマンチックな仕掛けだ。
  しかし2年後彼女は現れなかった。しばらくキョヌは通い続けたが、彼女は現れなかった。3年後に彼女は木の下にやってきた。そこには老人がいた。その老人から、実はその木は雷で折れ、代わりに同じような木を一人の若者が運んできたものだと聞かされる。そして本気で思えば、偶然会えるものだと言われる。最後に、実は彼女の元恋人の母親がキョヌの叔母だということが分かる。叔母を挟んで二人は「偶然」再会する。
  ヒロインを演じたのは、「イルマーレ」のチョン・ジヒョン。この映画の魅力の半分は彼女の魅力である。韓国の女優は美女が多い。多分これからもっと個性的な女優が出てくるだろう。しばらくぶりに若い頃の、女性に惹かれる痛い思いに浸った。相手役のチャ・テヒョンもいい。美男ではないが人のよさそうなところに好感が持てる。笑顔が良い。そして、恥ずかしくなりそうなロマンス仕立て。しかしこれが意外にはまっている。日本のテレビドラマだと鼻についてしょうがないものになってしまうだろうが、恐らくヒロインの破天荒な性格と彼女の魅力がこの絵に書いたようなロマンスの破綻を防いでいるのだろう。

「グッバイ・レーニン」(2003年、ヴォルフガング・ベッカー監督、ドイツ)
  再統一後の東ドイツの生活の移り変わりを母と息子の関係を通じて描いた映画。母親はベルリンの壁が崩壊する直前に、デモに参加していた息子が警官に逮捕される場面を目撃して気を失ってしまう。そのまま8ヶ月昏睡し続けたが、ある日意識を取り戻す。しかし強い刺激は命取りだといわれた息子のアレックスは、その間の東ドイツ崩壊の事実を母から何とか隠そうとつとめる。
  いい話なのだが、どこか設定そのものがわざとらしい。もっと正面から描く方法もあっただろう。東側に西側の文化や金が急激に入り込む様子がリアルに描かれていただけに、室内描写と親子の関係に焦点を絞ってしまったのは視野を狭める結果にもなって残念だ。しかし親子の情は良く描かれている。少しマザコン気味かと感じるほどだ。息子が眠っている隙に母親が外に出てしまうシーンは印象的だ。ヘリコプターに吊るされたレーニン像がまるで母親に手を差し伸べるようにして飛んでゆくシーンがなんとも思わせぶり。
  映画の政治的立場は微妙だ。西側の金ずくめの生活文化や考え方を皮肉に見ている面もあるが、東側のよさを見直そうというわけでもない。ただ時代の流れに流されてゆく人々を少々の感慨を込めて描いたという感じである。
  ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの生活の変化が良く描かれていたのは収穫だった。壁崩壊直後のワールドカップでドイツが優勝したことが東と西の融和を促進したこともよく分かった。

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