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2005年9月4日 - 2005年9月10日

2005年9月10日 (土)

ハリー・ポッターの新作が面白い

clip71   このところホームページとブログ作りに時間を取られ、なかなか本を読む時間が取れない。映画はブログに記事を載せるために結構観ている(何だか本末転倒の様な気もするが)。しかし家に帰るとすぐパソコンに向かう生活スタイルになってしまったので、それ以外の時間を映画と本の両方にあてる余裕がないのである。

 

  Harry Potter and the Half-blood Princeを買ったのは7月25日で、買ったその日から読み始めた。最初は順調に読んでいたが、そのうち上に述べたような事情でだんだん読む日が飛び飛びになり、ブログを作り始めてからはずっと中断したままだ。なにせ652ページもあるハードカバーの分厚い本だ。文庫本のように気軽にバッグに入れて持ち歩くわけには行かない。家にいるときしか読めない。家にいるときにはパソコンに向かっているか映画を観ているかだ。

   現在161ページまで読んだ。前作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』はさらに長大な上に話が散漫で、シリーズ中はじめて面白くないと感じた。まだ翻訳も出ていないときから第1作を読み始めて、以来ずっと新作を楽しみにしながら読み続けてきた。しかし前作が今一だったので、次は買わないつもりだった。どうもJ.K.ローリングはベストセラー作家になって慢心したのかと疑っていたからだ。 しかし新作が発売されるとやはり買ってしまった。読み出してみるとこれが面白い。前作の様な散漫なところはほとんどない。出だしからぐっとひきつけられた。

   マグルの首相のオフィスに魔法省の大臣ファッジがやってくる。このところヴォルデモートとデスイーターの巻き返しが始まり、次々と魔法使い達が殺されたり行方不明になったりしている。アズカバンのディメンターたちは囚人の番をやめ、アズカバンを抜け出しヴォルデモートの側についた。国中で冷気を撒き散らし魔法使いを襲っている。その事態を収拾できない責任を取らされてファッジは更迭された。そのことを伝えるために来たのだった。続いて新しい魔法省の大臣Rufus Scrimgeourが現れ挨拶をしてゆく。ただならぬ事態である事が伝えられる。マグルの首相のうろたえぶりが滑稽だ。

  次の章は不吉である。魔法省は対抗措置としてデスイーターたちを拘束した。ドラコ・マルフォイの父親も捕まった。スネイプの元にナーシサ・マルフォイが訪ねてくる。彼女を止めようと一緒に姉のベラトリックスもついてくる。ナーシサは夫が逮捕されたことに腹を立て、同じデスイーターとしてハリー・ポッターを殺すのを手伝ってほしいと頼みに来たのだ。スネイプがそう簡単には出来ないというと、ベラトリックスはスネイプになぜいつまでもホグワーツにいるのか、なぜわれわれの仲間に加わらないのかと詰問する。スネイプは敵の中に自分がいれば色々と情報をヴォルデモートに流すことが出来るからだと答える。ドラコがハリー・ポッターに復讐するつもりでいることも話しから分かる。スネイプは以前から微妙な立場だったが、ここで彼が言っていることは本心なのか気になるところだ。

  一方ハリー・ポッターはダンブルドア校長に連れられて、闇の魔術の防衛術の新しい教師ホレース・スラッグホーンに紹介される。でっぷりと太った男だ。ハリーは「予言」の中でヴォルデモ-トを倒す人物として名指しされていることが分かる。ハリーはダンブルドアの個人レッスンを受けることになる。

  新学期が始まり、ハリー、ロン、ハーマイオニーがまたそろう。デスイーターやディメンターたちに狙われているのでハリーには護衛がついている。ダイアゴン横丁ではハグリッドが護衛役を務めてくれた。フレッドとジョージが開店したジョーク・ショップを訪ねてゆくところも可笑しい。店は子供たちで一杯である。ウィンドウにはYou-Know-Who(例のあの人)をU-No-Pooとからかったポスターが貼ってある。

  店の中を案内してもらっている時ハリーはドラコが一人で不審な行動をとっているのを見かける。ハリーたちは後をつけて彼が怪しげな店に入るのを見つける。中の話はよく聞こえないがドラコは何かの修理を頼んだらしい。 ハリーたちはホグワーツ・エクスプレスに乗り込む。ドラコの怪しい行動が気になるハリーは、透明マントをつけてドラコたちの個室に忍び込む。しかしドラコに見つけられてペトリフィカス・トタルスの呪文をかけられ、石のように動かなくされてしまう。列車は駅に到着しみんな降りてゆくが、透明マントをかぶせられているので誰も床に倒れているハリーに気付かない。このままでは元の駅に戻ってしまう。列車が動き出す直前にトンクスに助けられる。

  とまあこんな話だ。早く先が読みたくなる。時間さえあればなあ・・・。

ハリポタ用語は「ハリー・ポーッター用語辞典」のサイトを参照しました。
(http://www.pottermania.jp/terms/te_top.htm)

下妻物語

2004年il_2anv_03
監督:中島哲也
出演:深田恭子、土屋アンナ、宮迫博之、篠原涼子
     樹木希林、阿部サダオ、小池栄子

  期待以上だった。もっとおちゃらけた映画かと心配していたが、結構まともなところがある映画だった。元ヤンキーのロリータ娘と現役ヤンキー娘の出会い。最初は反発しあいながら最後は真の友情で結ばれるようになる。こう書くとお決まりのパターンだが、最後になってもロリータ娘はロリータ路線を変えようとはしないし、ヤンキー娘も相変わらずバイクをぶっ飛ばしている。互いに友情を結び合いながらもそれぞれの生き方を貫こうとするところがさわやかな後味を残す。

  見かけの演出としてはテレビでよく見かける低俗なおふざけ、お笑いドラマタッチだが、しっかりとした芯があるのでむしろ良質の風俗コメディになっている。特に主演の二人がいい。中でも深田恭子の徹底したロリータぶりがいい。ヤンキーの土屋アンナを見るときの「何この人」という目つきや顔つきが実に堂に入っている。なかなかの存在感ですっかり彼女を見直した。土屋アンナはやや無理してヤンキーを演じている感じがしてその分深キョンに劣るが、実は役柄そのものもそういう設定なのだ。まったく煮ても焼いても食えない不良というわけではない。案外素朴で信念もあり、人情もある。本物の水野春夫を見て興奮するところも笑える。また、周りの人たちが彼女たちを冷たい目で見ていないところがいい。深キョンの父親や祖母も相当な変わり者だ。街の人たちも特に毛嫌いしている感じはない。

 しかし全面的に良いともいえない。どうしてこういうおふざけタッチで描かなければならないのか。最近の日本映画は何かを正面から描こうとするものは少ない。「GO」や「ジョゼと虎と魚たち」のような優れた映画にもそういうタッチは多少紛れ込んでいる。「深呼吸の必要」「誰も知らない」は例外的な作品だ。漫画の映画化や昔のドラマの焼き直しばかりはびこっている。エスプリもユーモアもアイロニーもない、かといって良質のどたばた喜劇の洗礼された切れ味もない。「踊る大捜査線」のようなバカバカしさがコメディだと思っている。「下妻物語」はそのレベルをはるかに超えてはいるが、その影響は受けている。ただ面白いと言っているだけではなく、このあたりも考えてみる必要があるだろう。ただこの映画には力があり、そこから新しいコメディの可能性が見えてくるかも知れない。この後どう脱皮して行くか期待したい。

駅前旅館

1958年 東宝art-temariuta20001c
監督:豊田四郎
原作:井伏鱒二
音楽:団伊玖磨
出演:森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎、淡島千景
    草笛光子、淡路惠子、藤木悠、多々良純、左卜全
        森川信、山茶花究、三井美奈、浪花千栄子

  原作が井伏鱒二とは知らなかった。こんなものも書いていたのか。もう一つ驚いたことは「駅前」とは上野駅の前だった。時代が違うのだから当然だが、70年代半ば頃で既に上野駅の前には旅館なんかなかった。映画に描かれた街頭風景はまったく消え去っていたし、そもそも駅舎そのものが違う。実に意外だった。

  上野駅のまん前の旅館だから当然修学旅行の生徒たちがどかどかとやってくる。ものすごい騒ぎだ。その旅館の館主が寅さんの初代「おいちゃん」役の森川信。最初は十朱久雄かと思った。しばらくしてやっと分かった。その女将さん役が草笛光子。計算高くて冷酷なところがある。番頭役が森繁久彌。ベテランの番頭だが、今の時代は電話一本で何十人という客が取れるのだから、腕の立つ番頭なんかいらないといって森繁を首にする提案をするのはこのおかみさんだ。森繁の下で働くのがフランキー堺。相変わらずの芸達者で、客にロカビリーをせがまれて、三味線を手にロカビリーを歌って見せる場面は傑作だ。ライバル旅館の番頭が伴淳三郎と多々良純。森繁とフランキー堺、そして他の店の番頭たちがよく通う料理屋の女主人が淡島千景。彼女は森繁に「ほの字」だ。色気があって実に魅力的だ。いつ見ても淡島千景はいい。修学旅行の生徒を引き連れてくる先生の一人が左卜全。長野県の女工たちを引き連れてきたのが淡路惠子と浪花千栄子。淡路惠子は森繁と昔縁があった。風呂場で森繁をつねったことがある。耳たぶが魅力的だったと言って淡島千景にやきもちを焼かせる。とまあ錚々たる芸達者たちが繰り広げるにぎやかな風俗コメディである。当時大ヒットし、東宝のドル箱の一つとなった「駅前」シリーズの記念すべき第1作。

 とにかく騒々しい。次からつぎから客が来て、やくざも絡んで、その上恋愛も絡めてなんやかんやとてんこ盛り。人気が出るはずだ。庶民生活の活気に満ち満ちている。こういう猥雑で活気のある映画はまず今では撮れないだろう。時代が変わってしまったのだ。

 駅前の浄化運動に腹を立てたやくざがこの旅館に因縁をつけに来たとき、そのドサクサの中で森繁は首にされてしまう。まだ地方の旅館なら彼の腕も役に立つだろうと、彼は山梨の方だったかに流れてゆく。すると淡島千景が彼を追いかけてくる。せまい田舎道に馬車を二台並べて、通れないので後ろから怒鳴り散らす自動車の群れを尻目に、2人はすずしい顔でのんびりと田舎道を行く。愉快でさわやかなラストだ。

  「駅前」シリーズはだいぶ昔1本だけ観に行ったことがある。一つだけはっきり覚えているシーンがあるが、そのシーンは出てこなかったのでシリーズの中の別の1本だったのだろう。

2005年9月 9日 (金)

おばあちゃんの家

toy12002年 韓国
監督、脚本:イ・ジョンヒャン
出演:キム・ウルブン、ユ・スンホ、ミン・ギョンフン
     イム・ウンギョン、トン・ヒョフィ、イ・チュニ

 耳が遠く口も利けないおばあちゃんと大都会ソウルから来た孫との心温まる交流を描いた映画だ。昔の日本映画を思わせる温かみのある映画だが、今の日本にはこのような映画はほとんどなくなってしまった。

  監督は「美術館の隣の動物園」の女性監督イ・ジョンヒャン。彼女の長編第2作である。ありがちなテーマだがユニークなのはおばあちゃんがまったく話せないことと、ほとんどおばあちゃんと孫の2人だけで話が進行することである。孫のサンウはソウル育ちでわがままな子どもに育っている。サンウの母親は自分のことだけで精一杯で、離婚して職探しのために足手まといになる息子を母親に預けてさっさとソウルに帰ってしまう。何もない山奥の田舎におばあちゃんと2人で取り残されたサンウはなかなかおばあちゃんになじまない。おばあちゃんはすっかり腰が曲がっている。昔は日本にも腰の曲がった老人はたくさんいた。耳が聞こえないと思って「バカ」などと汚い言葉を浴びせかけるあたりは腹が立つくらいだ。一人でゲーム機で遊んでいるところは日本の子どもとまったく同じである。実際日本の今の子どももまったく同じような反応を示しただろう。持っているゲーム機やロボット(サイコロを組み合わせたような形)やアイボのようなロボット犬などもほとんど日本のものと同じだ。おばあちゃんが作るものを食べず、母親が持ってきた缶詰をもっぱら食べている。おばあちゃんが何を食べたいかと聞くと、ピザやフライドチキンを食べたいと答えるあたりは笑ってしまう。おばあちゃんが町に行って鶏を買って来るが、鳥の丸焼きを見てこれはフライドチキンじゃないから食べられないとわがままを言う。

 そんなサンウも近所の女の子に心を惹かれるあたりから変わりはじめる。その彼女が仲良くしている男の子に、暴れ牛が来るぞと嘘をついて意地悪をしたりするが、逆に自分が暴れ牛に踏み潰されそうになったときには助けてもらった。少しずつ他人へのいたわりの気持ちが芽生え始め、雨の中鶏を買いに行って風邪を引いたおばあちゃんに布団をかけ、食事を作ってあげたりする。

 小道具としてうまく使われているのが電池だ。ゲーム機の電池が切れた時、サンウはおばあちゃんのかんざしを盗んで電池を買いに行く。しかし村中を探したが電池は手に入らず、ゲーム機はそれっきり放り出してあった。ある日野菜を売りにサンウとおばあちゃんはバスで町に出かけた。サンウは電池を売っている店を見かけるが、おばあちゃんが野菜を売って稼いだ金を自分においしいものを食べさせるためにほとんど使ってしまっているのを見ていたため、サンウは電池代をねだらなかった。そこに彼の成長が伺える。そのゲーム機はさらにもう一度印象的な場面に小道具として使われる。女の子に会いに行く孫におばあちゃんがゲーム機を手渡すのである。どうせ壊れているんだからと迷惑そうにサンウは受け取ったが、後で紙包みを開けてみると中に紙幣が2枚入っていた。サンウは思わず涙を流す。感動的な場面である。

 やがて母親が来てサンウは帰ってゆく。バスの中でサンウは胸をなでるしぐさをし(おそらく「ごめんなさい」という意味だろう)、おばあちゃんに手を振る。去ってゆくバスを見送るおばあちゃん。ラスト・シーンのようだが、ここで終わってほしくないと思った。2人がその後どうなったのか知りたいと思った。果たしてその後に短いシーンが続いていた。サンウは字のかけないおばあちゃんのために「すぐに合いたい」「体の具合が悪い」等と書いた絵葉書を作り、バスに乗るときに手渡していたのだ。口が利けないので電話もかけられないおばあちゃんがいつでも連絡を取れるように。家に続く長い坂道をいつものようにゆっくりと登ってゆくおばあちゃんの姿を映しながら映画は終わる。おばあちゃんが腰を曲げてゆっくりと道を歩く場面が映画の中で何度も出てくる。それがおばあちゃんの日常生活を象徴している。ラストシーンとしてこれ以上ふさわしいものはないだろう。

フランス・アニメの傑作「ベルヴィル・ランデブー」

2002年 フランス=カナダ=ベルギー 2004年12月公開tuki-siro
原題:Triplettes de Belleville, Les
【スタッフ】
製作:ディディエ・ブリュネール
脚本:シルヴァン・ショメ
監督:シルヴァン・ショメ
音楽:ブノワ・シャレスト
美術:エフゲニ・トモフ

 日本製アニメは確かに世界でも最高の水準にある。日本の漫画やアニメに慣れた目から見ると、ディズニーでさえも絵の下手さにあきれることがある。確かに絵の見た目のきれいさは日本アニメが最高だろう。しかし、一見下手に見えるがまた独特の味わいを持った絵柄というのもある。「ベルヴィル・ランデブー」もそういうアニメのひとつだ。その絵の味は、「木を植えた男」(1987)のような素朴な味わいを持つアニメともまた違う。ソ連の「チェブラーシカ」ほどメルヘンチックでもない。絵の感じはフランスの古典的アニメ「やぶにらみの暴君」(1952)にむしろ近い。

  エンキ・ビラルの未来・SF志向とは反対に戦後のフランスを舞台にしたどこか懐かしさを感じる物語。最初にフレッド・アステアやジョゼフィン・ベーカーのパロディ/カリカチュアも出てくる。しかし実に独特のアニメだ。極端にデフォルメされた人体。主人公のおばあちゃんの目とメガネは頭のてっぺんにある。自転車選手の息子は体の太い部分と細い部分が極端に強調されている。背景描写は凝っているがこれもデフォルメされている。どう見てもうまい絵ではないし、きれいな絵でもない。しかし不思議な魅力がある。例えば船が出てくるが、これがありえないほど幅が狭く(まるでまな板の長いほうの辺を下にして立てたような形だ)、喫水線が極端に低い(ほんのわずかしか水に沈んでいない)。これではすぐに横倒しになってしまう。しかし現実にはありえない形だからこそ却って新鮮でインパクトがあるわけだ。

  絵の動きのスムーズさや顔の美しさ、あるいは派手な展開よりも、素朴だがシュールでひねりのあるストーリー展開やキャラクターの奇抜な個性に重きが置かれているアニメである。せりふが少ないのも特徴のひとつだ。宮崎駿ともアメリカの「モンスターズ・インク」や「シュレック」とも違う。どちらかというとイギリスの「ウォレスとグルミット」シリーズやチェコのイジー・トルンカなどに近い味わいである。またベルヴィルという街は明らかにアメリカのカリカチュアだが、風刺的味付けはまたヨーロッパ的だ。同じフランスのミッシェル・オスロ監督(「キリクと魔女」「プリンス&プリンセス」)ともまた違う。こうしてみてくると世界にはいろんなタイプのアニメがある事が分かる。

 この映画の主人公は一人のおばあちゃんだ。孫のシャンピオンはまるで機械のようで、感情を持たない感じである。顔の表情も変わらない。シャンピオンは自転車が好きで、それを見抜いたおばあちゃんがツール・ド・フランスに出場させようと特訓を始める。その成果があって孫はツール・ド・フランスに出場するが、途中で棄権してしまう。しかもその直後に謎の黒服の男たちに連れ去られてしまう。それに気付いたおばあちゃんが息子を取り戻そうと大活躍する。なにしろ息子たちは例の不思議な形の船に乗せられベルヴィルに連れてゆかれるのだが、その船をおばあちゃんはよく湖などにある足こぎボートで追いかける。何と大西洋を足こぎボートで漕ぎ渡ってしまうのだ!!いやはや、彼女こそツール・ド・フランスに出場すべきだった。
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  ベルヴィルの街は明らかにパロディ化されたアメリカである。ベルヴィルを通してアメリカそのものが風刺されている。特にアメリカ映画・アニメがカリカチュアの対象だ。自由の女神は太ったおばちゃんになっている。例のなんとも奇妙な黒服の男たちはアメリカのギャングのパロディ。またベルヴィルでおばあちゃんは年取った三人姉妹と出会うが、彼女たちを通してアメリカのショービジネスがパロディ化されている。彼女たちはアニメの最初に登場している。まだ現役の若い頃で、テレビのショーに出演している。かなり売れっ子だったのだろうが、今は年老いて貧乏暮らしをしている。彼女たちが食べているものがすごい。池で蛙を取ってきて食べているのだ。しかも蛙の取り方がまた荒っぽい。手りゅう弾を池に投げ込んで、吹き飛ばされた蛙を網で拾い上げる。この蛙料理にはさすがのおばあちゃんも一瞬たじろぐ。おばあちゃんはこの三人姉妹と協力して孫を救い出すのである。この三人姉妹は実に魅力的だ(決して悪意がこめられたパロディではない)。おばあちゃんも十分すごいが、やはり彼女だけでは魅力に欠けると考えたのだろう。おばあちゃんのペットの犬(列車を見ると必ずほえるのが可笑しい)も含めて、登場するキャラクターがみんな魅力的なのがすごい。

  黒服の男たちは自転車選手を誘拐して、無理やり自転車を焦がせて客たちに賭けをさせている。自転車は、健康器具として使われる自転車のように固定されていて動かない。前にスクリーンが付いていて、そこにツール・ド・フランスのコースと思われる道が映し出される。よくゲームセンターにある、コースから外れないように自動車を走らせるゲームの様な画面だと思えばいい。最後は動かないはずのこの自転車が台ごと動き出して、おばあちゃんたちはそれに乗って逃げる。それを自動車に乗った黒服の男たちが追跡する。アメリカ映画お得意のカー・チェイスのパロディだ。

 アニメは漫画と違って絵が動く上に音も出せるので、格段にリアリティが増す。漫画の方が表現手段として下位にあると言っているのではない。制限があるからこそ工夫が生まれるのである。スーパーマンがなぜマントをつけているかご存知だろうか。あのマント自体は何の実用性もない。にもかかわらずマントを付けているのは、空を飛んでいる場面を描く時にマントがひらめいていると風を切って飛んでいる感じが視覚的に伝わってくるからだ。マントがなければただ体が横になっているだけである。それはともかく、話を元にもどすと、アニメは漫画よりリアリティが増すが、にもかかわらずリアリズムのアニメは極めて少ない。現実ではなく、むしろ現実にはありえないものを描くのに適している。したがって相当に荒唐無稽なストーリーでもさほど抵抗なくすんなり受け入れられる。それがアニメの強みだ。

  「ベルヴィル・ランデブー」はカリカチュアやパロディといった風刺の伝統とつながっている。ヨーロッパには長いカリカチュアの伝統がある。金権腐敗にみちた十九世紀のパリを辛辣に風刺したドーミエやイギリスの『パンチ』誌を思い起こせばよい。風刺画、風刺漫画、漫画は本来毒があるものなのだ。「ベルヴィル・ランデブー」はこの伝統を受け継いでいる。残念ながら日本の漫画・アニメにはこの毒がほとんどない。その意味でももっと日本で知られていいアニメだと思う。

2005年9月 8日 (木)

犬猫

cyclamen92004年 「犬猫」製作委員会
監督、脚本:井口奈己
撮影:鈴木昭彦
美術:松塚隆史
出演:榎本加奈子、藤田陽子、西島秀俊
    忍成修吾、小池栄子

 各種映画評で肯定的に評価されていたので楽しみにして観た。多くの批評は主演の一人藤田陽子(スズ役)をほめていたが、榎本加奈子(ヨーコ役)も意外によかった。意外にというのはそれまで彼女をいいと思ったことがなかったからだが、メガネをかけた地味な顔がなんとも魅力的で、それまでの彼女とはまったく違うキャラクターになっていた。そこがいい。

 一方の藤田陽子はCMで活躍していたり、「模倣犯」「犬と歩けば」などの映画に出ていたらしいが、この2本は観ていないのでまったく知らなかった。驚いたのは「茶の味」のエンディング・テーマを作詞し歌まで歌っていたということだ。もともと歌手だったそうだ。ちょっとキーの高いソフトな声で話すのが何となく顔と合わない気がするが、独特のほんわかした雰囲気がこれまたいい。もう一人、友情出演で最初だけ出てくる小池栄子も印象的だ。売れっ子の彼女だが、彼女もまたこれまでどこがいいのかと思っていた。しかしこの映画の中では非常に魅力的だった。編み上げ帽子がよく似合う。どこにもいる普通の女の子のように見えたからかもしれない。あまりにいい感じだったので、最後にもう一度画面に出てきてほしいと思ったほどだ。他に主演の二人とからむ男優が二人出てくるが男はどうでもよろしい。

 この映画はいわば私小説映画である。女の子二人のどうということのない日常を描いている。恋愛と嫉妬も絡んではくるが、大半は家の中でごろごろしている光景だ。布団を敷いたり(シーツを敷くときスズはただ表面をパタパタたたくだけですそを織り込まないところが可笑しい、普段もそうしているのか?)、料理を作ったり、ちゃぶ台で食事をしたりといったごく日常的な描写が続く。互いに交わす言葉も特にどうということのない日常的な会話だ。一方男との会話はさっぱり弾まない。若い女性二人の等身大の日常生活がさらりと描かれているだけだ。特に劇的な展開があるわけでもない。せいぜいヨーコが密かに憧れていた三鷹(忍成修吾)とスズが急接近して、その腹いせにヨーコがスズの元彼である古田(西島秀俊)の家で一晩過ごすことぐらいだ。翌日ヨーコはスズに昨日古田と寝た(実は、古田は夜バイトに出ているのでこれは嘘)と言うとスズはヨーコに飲んでいた酒をぶっ掛けて部屋を出て行く。というような波乱はあるが、どうやらそれも収まってゆく気配だ。

 なんでもない日常の世界を描いているため、ちょっとした目の動きや表情の変化、微妙なせりふや感情の動き、あるいはその場の雰囲気などが重要な要素になってくる。最初に二人の主人公の魅力について触れたのは、まさにこの二人の存在感にこの映画の出来不出来の大部分がかかっているからだ。監督の井口奈己は二人にとにかく力を抜くよう何度も指示したそうだ。二人も本当にその部屋に前から住んでいるような感じを出そうと努力したそうである。その結果がこのよく出来た私小説映画に結実した。

 監督もこの二人の個性をうまく描き分けている。ヨーコはしっかりものだが地味な性格。スズはちょっと天然ボケが入った、こだわらない明るい性格で、料理がうまい。スズは三鷹を家に連れてきて、横で面白くない顔をしているヨーコの前で、「彼女とは昔から同じ男の子を好きになるのよね」などと脳天気に言ったりするのである。普段冴えないメガネをかけているヨーコが、スズに三鷹を取られたときはメガネをはずしてコンタクトをつける。このあたりは女性心理をうまく描いていると思う。なかなか気の利いた演出もある。スズは犬を散歩に連れてゆくアルバイトをしているが、初めてその家に行ったときなかなかその家を見つけられない。そのスズがすねてバイトに行かないのでヨーコが代わりに犬を散歩にcatw_47連れてゆくシーンがあるが、ヨーコもまたその家を探しあぐねてスズと同じように同じところを何度も行ったりきたりする。2回とも同じ角度から撮っていて、二人はまったく同じように道に迷うのだ。何とも愉快なシーンである。

 最近日常的世界を描くこの手の映画が増えてきた気がする。「珈琲時光」「茶の味」も似たような要素があるし、韓国映画の「子猫をお願い」なども多分にこの要素を含んでいる。肯定的に言えば、アメリカなどの派手な演出の映画のアンチテーゼであると位置づけられるだろう。否定的に見れば、自分たちの世界にこもって社会に目を向けようとしない視野狭窄の世代の映画だともいえる。ゲームに夢中になって育った世代は社会に目を向けることをせず、自分の身の回りのことにだけ神経を尖らせる。そういう時代の映画なのか。

 いや、そこまで言ってしまってはこの映画に対して不当な評価をしたことになるだろう。人生の大部分は日常的なことの繰り返しなのである。だからこそたまの休みにどこかへ出かけることが楽しいのだ。人々は日常にしばられ、しばられているからこそそこから逃れたいと願う。映画や小説などはその「願い」の部分を題材とすることが多い。毎日同じ仕事をしていることを描いてもドラマにならないからだ。「Shall We ダンス?」はそういう日常からの脱出という夢を描いた映画だ。いや、他にいくらでもある。西部劇やアクション映画を観て自分もヒーローになったような気分に浸るのも同じことだ。クレージー・キャッツのサラリーマン・シリーズだって一種の夢物語である。あんな脳天気な「無責任男」は現実にはいない。

 しかしその日常の部分に光を当てる映画があってもいいはずだ。小津の映画だってその範疇に入る。日本の私小説もそうだ。ドラマとしては成立しにくいが、登場人物のささやかな夢やあわい恋心、些細な悩み、微妙な感情のゆれ、意識のひだなどをクローズアップすることによって見るものの共感を誘う映画だって成立する。そういう題材になるのは、定職を持たない若い女性が多い。ある程度行動が自由で漂泊する感情の流れが描きやすいからだろう。「珈琲時光」しかり、「子猫をお願い」しかり、そしてこの映画しかり。同じ仕事を繰り返す職場が描かれる場合はむしろそこからの脱出が描かれることが多い。「Shall We ダンス?」しかり、「反則王」しかり。あるいは、普段はしがない会社員またはOLだが、しかしひとたび事件がおきれば・・・。この手の映画やアニメはいくつも思い当たるだろう。しかし日常からの脱出は現実には難しい。だから人は映画や小説の架空の世界にひと時の現実逃避を求めるのである。「犬猫」の冒頭で留学するため中国へ向かうアベチャン(小池栄子)も、それまでは他の二人と同じようにだらだらしていたのに違いない。しかし彼女は日常からの脱出を決意したのである。小池栄子にいつになく魅力を感じたのは、彼女が演じた役柄にこの行動力があったからかもしれない。しかし他の二人は彼女をうらやましく思いながらも、アベチャンを見送った後また日常に戻ってゆくのである。

 こう書いてきて自分でも気付いたが論理がぐるぐる回っている。実際それが日常生活の実態なのだ。日常から脱却したいと願いつつ、やはり日常を繰り返さざるを得ない。ある決意をして新しい人生を送り始めたとたん、それがまた日常になってゆく。人は絶えず日常を繰り返し、また絶えず日常から逃れたいと望み続けるのである。私小説映画の主人公はある意味でアンチヒーローである。「夢」を描く映画には出てこない日常の生活が却って新鮮に映るのが私小説の魅力である。若い女性は自分ひとりで家にいるときは綿入れ半纏を来てコタツで丸まっているのか?!振り返って自分を顧みれば、家の中ではだらしない格好をしているじゃないか。そうだ、そうだとここに共感が生まれる。にもかかわらず「犬猫」のような映画には物足りないものも感じる。やはりどこか息苦しさを感じる。もっと何か突き抜けたものを求めたくもなる。日常を描いてゆけば、イギリス映画によくあるお先真っ暗の暗い映画になってゆく可能性だってあるわけだ。「セールスマンの死」に行き着いたのでは余りに切ない。井口監督もこのタイプの映画ばかり撮り続けるつもりではないだろう。この先小さくまとまらないでどんどん新たな挑戦をしてほしいと願う。

月曜日に乾杯!

2002年 フランス・イタリアn0003sn
監督、脚本:オタール・イオセリアーニ
出演:オタール・イオセリアーニ、マニュ・ド・ショヴィニ
   ジャック・ビドゥ、アンヌ・クラヴズ・タルナヴスキ
   ラズラフ・キンスキー、ナルダ・ブランシェ

 オタール・イオセリアーニを最初に見たのは岩波ホールで上映された「落葉」である。当時のチラシを見ると「ピロスマニ」に続くグルジア映画第2弾という位置づけだったことが分かる。映画ノートで「落葉」を見た日付を確かめてみると82年9月18日とある。もう23年前だ。内容はもうほとんど思えていない。

 最近のヨーロッパ映画に多いのだが、「月曜日に乾杯」は実に奇妙な味わいの映画だ。主人公は工場の労働者。毎日同じように工場に行き同じように帰宅する。妻からも子どもたちからもろくに相手にされない。ある日突然工場をサボり、家族に黙ってヴェニスに行ってしまう。しばらくゆっくり羽を伸ばして、家に帰る。旅先から送っていた絵葉書を妻はろくに見もせず破り捨てていたが、夫が帰ってくると何事もなかったかのように迎える。子どもたちもちょっと長い休暇から父親が帰ってきた程度の反応。またいつものように日常が始まる。  

 ストーリーはこのようなものだが、ほとんど説明がなく勝手にどんどん場面が変わってゆく。にもかかわらずどういうわけか画面にひきつけられてしまう。冒頭の工場の様子からそうだ。何の工場かよく分からないが人々が働く様子をカメラがなめるように写し取ってゆく。いったい何が始まるのか分からないのでずっと観ていると、いつの間にか画面にひきつけられている。結局何も起こりはしない。ただ毎日の労働の様子をそのまま写しただけだ。全体がこんな感じで淡々と流れてゆく。そう、流れてゆくという感じだ。何も劇的なことは起こらない。突然の旅行もあっさり流される。そもそもなんでタイトルが「月曜日に乾杯!」なのかも分からない。

 不思議な味わいの映画だ。淡々とした描き方はオリヴェイラの「家路」を思わせるが、まだ多少なりとも筋があるだけ分かりやすい。日常からの脱出というテーマも分かりやすい。しかし日常からの脱出というよりも、日常そのものが主題ともいえる。息子たちが父親に関係なくハングライダーで空を飛ぶシーンが挿入されたりする。ヴェニスでは金をすられたり、訪ねていった家族が彼が出て行った直後に猛然と言い合いを始めたり。すべてが日常だ。確かにアメリカ映画のようにそうそう大事件が起こるわけではない。人生の大半は何事もなく凡々と過ぎてゆく。主人公もヴェニスで何か人生の教訓を学んだわけではなく、ただのんびりすごしただけだ。何とか気がまぎれて、また日常に戻ることが出来たに過ぎない。この程度のちょっとした「はめはずし」は誰にでもある。その日常を、観客を退屈させることなく描いた力量は注目に値する。ヨーロッパで小津が尊敬される理由が何となく理解できる。

 この映画の場合、説明を省いていることが効果を上げている。突然現れる人物にいったい誰かと注目する。しかしさらっとその場面は流れてゆく。汽車の中で出会う女性がどこか思わせぶりで、何かその先重要な役割を演じるのかと観客は予想するが、それきり出てきはしない。訳が分からないから何とか理解しようと緊張する。そしていつの間にか画面に引き込まれている自分に気づくのだ。小津とはまた違った日常の描き方の文法を発明している。                                    

2005年9月 7日 (水)

トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ①

ユルマズ・ギュネイ(1937-84)監督紹介
  まずギュネイ監督自身について紹介しておきたい。ギュネイは1937年4月1日生まれ。父母はともにクルド族の出身である。貧困と人種差別を経験したことから(クルドsedang3族問題は、「路」のオメールの物語 の主題になっている)、社会的矛盾に目を向けるようになった。ギュネイ自身が後に語ったことによると、金持ちの家で雑用をしていた彼の母親が持って帰る食べ物の残り物は、彼らにとってはごちそうだったが、時が経つにつれて、それは金持ちの食べ残しでしかないことに気づき、誇りを傷つけられたということだ。芸術に対する彼の興味はシナリオや小説の執筆という形で現れ、20歳になった時には既に小説家としての名声を獲得していた。彼はシナリオ作家と映画監督になりたかったが、周囲の勧めで俳優になり、1958年から14年の間に100本以上の映画に出演し、国民的スターになった。後に監督になり主演を兼ねるようになるが、途中何度も政治犯として投獄された。「路」、「敵」、「群れ」は彼が獄中にいた間に、獄中から指揮して代理監督に撮らせたものである。仮出獄したときにロケハンし、獄中を訪れる代理監督や俳優たちと細部の打ち合わせをしたという。

  ギュネイの作品が日本に紹介されたのは、85年に「路」が公開された時である。この重苦しく、悲痛な作品は日本の観客に衝撃を与え、ロングランヒットになった。このヒットを受けて、同年4月渋谷のユーロスペースで「エレジー」と「希望」が、西独製の記録映画「獄中のギュネイ」(必見!)と併映という形で公開された。小ホールにもかかわらずガラガラの入りだったが、いずれも優れた作品だった。ついでながら、翌86年5月には「ハッカリの季節」(1983、エルデン・キラル監督、日本公開84年)もユーロスペースで上映された。恐らく日本で最初に公開されたトルコ映画ではないか。高度3000メートルにある小さな村と小学校が舞台。雪に覆われた何もない世界と独特の生活風習には心底驚いた。文字通り未知の世界だった!

 そして86年の暮れから87年にかけて「群れ」と「敵」が公開された。計5本、ギュネイの主要な作品が日本に紹介されたわけだ。

世界に衝撃を与えた代表作「路」
  82年のカンヌ映画祭は社会派の作品が他を圧倒した。グランプリを分け合ったアメリカの「ミッシング』とトルコの“YOL”の他に、イタリアの「サン・ロレンツォの夜」が審査委員特別賞を獲得している。「ミッシング」は82年、「サン・ロレンツォの夜」は83年に公開されたが、“YOL”の方は84年に なっても公開されず、結局見られないのではないかと思っていた。それがやっと85年になって「路」という邦題で公開されるに至ったのである。トルコでも映画を作っているのか、という声さえ出てきそうなほど映画「後進国」と見られていた国で作られたこの映画は、しかし、公開されるやいなや波紋のように感動の輪を広げロングランになり、半年後には早くもリバイバルされるという大変な人気を得たのである。

 「路」は重苦しく、悲痛であると同時に感動的な映画である。グランプリを取ったカンヌ映画祭で上映された時、場内は厳粛な沈黙に一瞬つつまれ、やがて湧き上がるような感動の拍手に包まれたという。この映画は、イムラル島拘置所から仮出所を許された5人の男たちの後を追って行く形で展開する。5人の前に待っていた現実はそれぞれに異なっているが、いずれもトルコ社会の根深い前近代的体質、自由抑圧という点では獄中となんら変わらないことが、力強いリアリズムによって見事に描き出されている。特に印象深いのはメメットとセイットの物語である。メメットは妻の兄と銀行強盗を働いたときに、おじけづいて妻の兄を見殺しにしてしまった。出獄したメメットは妻に会いに行くが、妻の家族は彼を許さない。メメットは妻とともに逃げ出し、途中の列車のトイレの中でhanehosi1愛し合おうとする。しかし乗客に見つかりあやうくリンチにされそうになる。車掌により何とか助けられるが、そこへ彼の後を追ってきた妻の弟に妻もろとも撃ち殺されてしまう。直後にインポーズされる列車の汽笛は、まるで悲鳴のように耳をつんざく。トルコ社会の抜き難い前近代的体質を、ぞっとするような迫力でまざまざと見せつけるエピソードだ。

 セイットの物語りはさらに圧倒的であり、彼の悲劇的苦悩は見るものの胸を揺るがさずにはおかない。セイットの妻ジネは、夫の服役中身を売ったために8ヶ月も家族に監禁され、掟によってセイットはジネを殺さねばならない。しかし妻を哀れむ心を抑えられず、セイットは雪深い谷を越えて妻を実家の村へ連れて行くことによって、直接自分で手を下さずにジネを死に至らしめようとする。狼の遠吠えがこだまする中、一面の雪景色の中をセイットとジネとその息子の三人が丘をのぼって行く。8ヶ月も鎖につながれていたジネは力つき倒れ、夫を呼ぶ。「セーイーット。わたしを見捨てないで。わたしを狼のえさにしないで!」白一色の画面にジネの赤い服が映え、目に焼きついて離れない。美しくも凄絶な場面である。最初に息子が立ち止まる。セイットの歩みも遅くなる。ついに彼は立ち止まってしまう。どうしても前に進めない。ついに彼は引き返して妻を抱き上げる。眠ったら死んでしまうぞと励ましながら妻を背負ってゆくが、村に着いたときには妻は凍死していた。トルコ社会の自由なき現実を告発しつつ、民衆の中にある克服されるべき古い体質からも目をそらさないギュネイのこの姿勢を、ある批評家は「戦うリアリズム」と呼んだ。「路」は現実に対する厳しい姿勢を持つとともに、忘れ難い詩情をたたえた、まれに見る映画である。

 「路」を撮っていた時、監督のユルマズ・ギュネイは政治犯として獄中にいた。獄中で脚本を練り、仮出所した時にロケハンをし、獄中を訪れる代理監督(シェリフ・ギョレン)や俳優たちと細部の打ち合わせをした。ギュネイは映画の完成直前に脱獄し(看守たちも彼に協力的だったという)、スイスとフランスで完成させた。カンヌでグランプリをとった年(82年)から2年後の1984年9月9日、ギュネイはパリで病死した。「路」は長い間上映禁止だったが1999年にやっとトルコで上映された。

生活の困窮と人間的苦悩「敵」
 「敵」(1984)についてはもっとじっくり論じてみたいのだが、ここでは簡単にまとめておこう。「群れ」はトルコ人の生活と思考を深く支配している因習がいかに人々を不幸にしているかを主に問題とした作品だが、「敵」の中心主題は貧困と家庭崩壊である。冒頭の職探しの場面(失業者が多すぎて雇い主のいいように賃金を切り下げられるところは「怒りの葡萄」を連想させる)と、やっと見つけた野犬狩りの仕事を主人公が良心の呵責を感じてやめてしまう挿話が特に印象的だ。主人公は生活のために仕方なく野犬を毒殺する仕事をしているのだが、それを見とがめた子供に石を投げ付けられる。死んでゆく犬の苦しむ姿を見て夜は悪夢にうなされる。生活のために働こうとしても、人間としてのプライドを捨てなくてはやれない仕事しかない。生活の困窮に人間的苦悩が加わる。ついには女優志望で、派手好きの女房にまで逃げられてしまう。

 「路」同様、主人公が新しい未来を見いだそうと出発するところで終わるが、経済、政治、社会、道徳のすべてにわたって複雑に絡み合った抑圧機構は容易には崩れず、「敵」は社会のみならず自分の心の中にも潜んでいる。車に乗って新しい地へ向かう主人公の前に続く道は、トルコ社会がこれから歩まねばならない苦難に満ちた道なのかもしれない。
 (「群れ」についてはメモが残っていない。いずれ機会があれば紹介したい。)

トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ②

ギュネイの記録映画「獄中のギュネイ」0901moon
 「路」のヒットを受けて、渋谷のユーロスペースで、ギュネイが監督と主演を兼ねた「エレジー」(1971)と「希望」(1970)の2作品が、西ドイツ製の記録映画「獄中のギュネイ」と併映という形で続けて公開された。だが「路」の大ヒットにもかかわらず、こちらの方はガラガラの状態であった。ユーロスペース自体まだほとんど知られていなかった頃だったので無理もないことだったかも知れない。だがこの2本と記録映画は全くの拾い物だった。

 まず記録映画の方を取り上げよう。パンフレットがないので細かいところは忘れてしまったが、まず印象的だったのは、ギュネイが鉄の檻の中ではなく普通の建物の前(中だったか?)で自由に相手の質問に答えていることだった。そしてその質問に対する答えが、驚くほどラディカルな言葉で語られていたことも意外な感じがした。彼はまるでアメリカを非難するベトナム兵士のように、トルコ政府とトルコ社会を厳しく批判した。だが最も鮮明な記憶として残っているのは、インタビュアーが街の人々にギュネイ監督をどう思うかと質問しているところである。聞かれる人のほとんどが、ギュネイを好きであるとか尊敬しているとか答 えている。中でも、路上で靴みがきをしていた男が、「なぜギュネイの映画が好きなのか]というインタビュアーの質問に対して、自分の靴みがき台の横に張ってある写真を指さしながら、「俺たちのことを描いているからだ」と答え、「彼は単なるスターではなく、民衆を愛する革命家なのです」と言っているところが 印象的だった。

トルコ版ウエスタン「エレジー」
 さて次に、「エレジー」の方に話を移そう。社会問題に正面から切り込んだ「路」とは別に、西部劇や悪漢小説的なアクション映画などもギュネイは手掛けて おり、「エレジー」はその代表作である。「エレジー」はトルコ版ウエスタンといった趣の作品だが、もちろんただのウエスタンではない。もろい岩ばかりの荒涼とした風景と、そこを根城に動き回る密輸グループの男たち。自然の不毛さと人間たちの冷酷非情さは、そのままトルコ社会の貧しさと人間的荒廃を映し出している。物語は単純である。仕事を頼まれた密輸グループが裏切りに合い、命からがら切り抜けるが、その帰途憲兵隊に包囲され、壮絶な撃ち合いの末、首領のチョバンオール(ギュネイ)は負傷する。彼は村の女医により手術を受け、命を取り留める。女医に心引かれながらも、チョバンオールはやはりアウトローの道 を選び、再び仲間たちと去って行くが、途中仲間割れし、残ったチョバンオールも最後には村人に殺されてしまう。

 「エレジー」の見所の一つは崖の下での憲兵隊との銃撃シーンである。巨大な岩が次々に転がってくるのを避けながら双方撃ち合う場面のダイナミズムは、まさに圧巻である。特撮など一切用いず、砂煙を上げて落ちてくる本物の岩石の腹を揺るがすような地響きと威圧感を、そのまま小細工なしで映し取ったことと、俳優たちの命懸けの演技によって、まれに見る壮絶なシーンが作り出されている。だがこの映画を真に価値あるものにしているのは、主人公の「悪党」たちに対する作者の眼である。われわれは、これらの「悪党」たちに人間性を失うギリギリのところまで追い詰められた貧しい魂を見、彼らの密輸行為の中に生活を感じてしまう。どう見ても悪党なのだが、なぜか義賊のようにも思えてくる。それでいて首にかけられた賞金のために村人たちに殺されてしまうラストシーンには、妥協のない非情さがある。貧しい者どうしが殺し合っている。生きるためには手段を選ばないのは他の人々も同じなのだ。民衆を見る複眼的な眼はここにも生きている。「エレジー」を単なるアクション映画に終わらせていないのは、人間をとらえるこの眼の豊かさである。

宝を掘り続ける貧しき者たち「希望」
 「エレジー」に登場するギュネイは精悍な顔つきであり、これがまたこの作品に魅力を加えている。しかし「希望」のギュネイは全く違った人物になりきっている。ギュネイ扮する主人公のジャバルは文盲で、しがない乗り合い馬車の御者をしている。しかし事故で馬を一頭失い、残った一頭も債権者に持ち去られる。 その後強盗を試みたりデモに行ったりするが、状況は少しも好転しない。思い余った彼は、友人ハサンが持ちかけた話を信じ、あるはずのない財宝をさがそうと、超能力を持っているという触れ込みの聖職者と三人であちこち掘り返し始める。止める妻の言葉も聞かず、残った金を全部つぎ込んでさがすが宝は見つからず、cut_gelf_non_w300ジャバルはほとんど狂人のようになって穴を掘り続ける。

 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の初めのあたりにも同じような話が出てくるが、「希望」の方がより社会的背景と密接に関連づけて描かれている。イタリアのネオ・リアリズモを思わせるような徹底したリアリズムで、ギュネイはこの作品を最後まで描き通している。馬が一頭死んだだけでみるみる生活が傾いてしまうほどの極貧、信じられないほどの無知。超能力を持つという僧が二人をだましているというのではなく、その僧自身宝の存在を信じ込んでいるという設定が卓抜である。独自の地方色や手法という点では「エレジー」に一歩譲るが、その詩情と、安易な妥協を排して市井の人々の貧しさと無知を描き抜いた手腕は非凡である。(「希望」は初期のサタジット・レイを思わせるところがある。)

亡命芸術家の苦悩
 ユルマズ・ギュネイという人物を考える時、トルコ社会の現実との関係を抜き去ることはできない。彼は最もトルコ社会の変革を望んだ人物であるが、同時に 最もトルコ人を愛した人間であり、トルコ社会の矛盾に満ちた現実を芸術作品として描き出すことに最も成功した芸術家でもあった。ギュネイが死の数週間前 にロンドンの“Still”誌と交わしたインタビュー中の次の一説は、芸術家(特に亡命を余儀なくさせられた芸術家)にとっての祖国の意味を考える上で、実に興味深い示唆を与えてくれるだろう。

インタビュアー:
  現在亡命しているわけですが、それが映画にどんな相違をもたらすと思いますか。
ギュネイ:
  亡命監督は母国から引き離されているという、大きな問題をかかえています。つまり私のイメージ、視覚的背景、そして私を母国、人々、私の過去と結びつけているバックグラウンドから切り離されていることを意味します。私には技術的、理論的基礎はありますが、それらを使って撮るには慣れ親しんだ土地が必要です。私は以前カメラを持たない〃刑務所の映画監督〃でした。今はカメラを持つことはできますが、一体何を撮ればいいのでしょう。私には視覚的な資産が 何もない。トルコにいた頃はシナリオなしに映画を撮っていました。必要なかった。撮影している土地のことも、そこに住む人間も、彼らの間の関係も熟知しているし、スタッフも旧知でした。ところが今の私は斧のまだ入っていないジャングルにいるようなもので、まずそれを切り開く新しい方法を見いださねばなりません。

2005年9月 6日 (火)

五線譜のラブレター

2004年 アメリカ・イギリスm001134bg
原題:De-Lovely
配給:20世紀フォックス映画
監督:アーウィン・ウィンクラー
脚本:ジェイ・コックス
撮影:トニー・ピアース=ロバーツ
出演:ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャッド
        ジョナサン・プライス、ケヴィン・マクナリー
        サンドラ・ネルソン、アラン・コーデュナー
    ピータ・ポリカープー、キース・アレン
       ジェームズ・ウィルビー、ケヴィン・マクキッド
特別出演
   ナタリー・コール、エルヴィス・コステロ
       シェリル・クロウ、アラニス・モリセット、ロビー・ウィリアムス、ララ・ファビアン
   ダイアナ・クラール、ヴィヴィアン・グリーン、マリオ・フラングーリス、レマー
   ミック・ハックネル

 期待を上回る傑作だった。最近アメリカ映画に元気がないと思っていたが、そんな心配を少し和らげてくれる良質の作品である。「スター・ウォーズ エピソード3」と「宇宙戦争」でルーカス対スピルバーグの競演も話題になった。やっとアメリカ映画らしくなってきた。こうでないといけない。山の様にある凡作と質はともかく話題の超大作と少数の優れた作品、これがアメリカ映画の本来の姿である。やっとその本来の姿に近づいてきた。もう少し様子を見ないと安心できないが、どうも最近のアメリカ映画界はおかしいぞという心配が杞憂であればいいのだが。

 老齢のコール・ポーターが舞台で演じられる自分の半生を客席で見る設定になっている。数々の名曲を交えたミュージカル仕立ての演出、ナタリー・コールやエルビス・コステロ等の有名ミュージシャンの特別出演、そして何といっても古きよき時代のアメリカ映画の香りを優雅に漂わせるムード。ここにはアメリカ映画の優れた伝統を凝縮した世界がある。「シカゴ」を上回る出来だ。

 出演しているミュージシャンがすごい。ナタリー・コール、エルヴィス・コステロ、シェリル・クロウ、アラニス・モリセット、ロビー・ウィリアムス、ララ・ファビアン、ダイアナ・クラール等々。この豪華さこそアメリカ映画の醍醐味だ。他の国では到底まねが出来ない。

 しかし一番素晴らしいと思ったのは主演の二人だ。ケヴィン・クラインとアシュレイ・ジャッド。二人とも実際に吹き替えなしで歌っている。この二人の歌が素晴らしい。特にケヴィン・クラインの歌は説得力があり、ぐんぐん胸に迫ってくる。並みの才能ではやっていけないハリウッドの凄みを感じる。さらに素晴らしいのはいうまでもなく演技力だ。二人とclip-eng3も若いときから老齢までを演じ分けている。少しずつ髪の毛に白いものが混じり、動きも鈍くなり、ほほがたるみ、顔にしわが増えてくる。声も変わってくる。特に感動したのは死の床に伏せるリンダ(アシュレイ・ジャッド)のメークだ。つるつるしていた顔に残酷なしわが走り、顔にたるみが出来ている。目の周りは黒く落ち窪んでいる。これはまあ老人のメイクとして当たり前だ。驚くべきは喉のしわだ。老人は喉の辺りにもしわが出来ているが、そんなところまで手を抜かずに丁寧に作り上げている。いや、メーキャップだけの効果ではない。俳優の動き、身振り、話し方、そして何よりも年齢を重ねるごとに身にまとってゆく人生の重み、それらが伴わなければ、ただの着ぐるみを着ているのと同じだ。二人はそれを見事にやってのけた。そこが素晴らしい。

 もちろん老け役ばかりがいいわけではない。若いときの二人は輝かんばかりだ。さっそうとしたケヴィン・クライン。美しさとしとやかさを兼ね備えたアシュレイ・ジャッド。彼女は「サイモン・バーチ」以来のファンだが、この映画が一番彼女の魅力を引き出している。二人にとってこの作品は代表作になるだろう。衣装や宝石類には何の関心もないのでどうでもいいが、建物や室内装飾は時代を感じさせる豪華なものだ。コスチューム・プレイというが、衣装だけでは時代を表現できない。舞台装置も重要な要素である。こういうところに金をかけられるからこそ夢を描けるのだ。そういう点でアメリカは有利である。最もこの点では古い豪壮な建物が多く残っているヨーロッパも負けてはいないが。

 この種の伝記映画はどうしても主人公を美化して描きがちである。コール・ポーターがホモ・セクシャルだったことを隠さずに描いたのはその辺を意識してのことだったかもしれない。もっとも、全体としてそれも含めて彼の生き方を肯定しているので美化している感じは拭い去れない。特にリンダとの愛にかんしては完全に美化している。しかしそれがこの映画の一番の魅力でもある。「僕の歌は全て君の歌だった。」いかにもという感じのせりふだが、これがすっと自然に入ってくるのは演出がうまいのだろう。五線譜に書き込まれたラブレター。あまりに甘美すぎるこのテーマを、老人になり死を間近にした主人公が振り返るという設定にすることによって多少なりとも抑えようとしている。しかも本人ではなく別の演出家が演出することによって本人が触れたがらないことにも触れている。甘い思い出として振り返るだけではなく、自分で自分を客観視させられる面もある。この演出が秀逸だ。

 この映画の魅力はこれで尽きるわけではない。コール・ポーターの曲そのものの魅力がどれだけこの映画を支えているか。ジョージ・ガーシュイン、デューク・エリントン、アーヴィング・バーリンなどと並ぶアメリカの大作曲家。いかにもミュージカルという明るくテンポの速い曲から、じわりと胸にしみこむバラード調の曲まで。場面に合わせ巧みに織り込まれている。今まで特にいい曲だと思っていたものはほとんどなかったが、この映画で大分考えを改めさせられた。早くDVDを手に入れて、それぞれの曲をもう一度じっくりチェックしてみたい、サウンドトラックのCDも欲しい、そんな気持ちに駆られた。

 監督のアーウィン・ウィンクラーは長い間プロデューサーとして活躍し、数々の名作を製作してきた。監督としては91年の「真実の瞬間」が第1作である。その処女作が今までの代表作だったが、「五線譜のラブレター」はさらにその上を行く出来だ。この作品は彼の代名詞になるだろう。

永遠のマリア・カラス

gclifis2_22002年 伊・仏・英・ルーマニア・スペイン
監督:フランコ・ゼフィレッリ
出演:ファニーアルダン、ジェレミー・アイアンズ
    ジョーン・プローライト、ガブリエル・ガルコ
     ジェイ・ローダン

  この映画の成功は大部分マリア役を演じたファニー・アルダンに負っていると言ってよい。ゼフィレッリ監督もマリア・カラスにそっくりだと激賞している。もっとも監督はそっくりさんを描くことではなく、彼女の魂を描くことに狙いがあると言っているが。その狙い通りの映画が出来たということだろう。往年の美声を失い失意のまま引退生活を送っていたにしては美しすぎるが、そこまでリアリズムを突き詰めることはないだろう。プロモーター役のジェレミー・アイアンズもさっそうとして格好いい。

  かつて栄光を極めた歌手の誇り、絶頂期の自分を取り戻したいという欲望、まだやれるという執念、そして人生の最後に偽りの自分をさらしたくないという芸術家としての、そして人間としての誇り。これらの間でゆれる人間的葛藤を見事に描き出している。そしてその苦悩の末に、自らも傑作と認める映画を破棄することを決断する。

  フィクションではあるが人間としてのマリア・カラスを描こうとしている。その苦悩を十分描き切ったとは言えないかも知れない。だから、それまで満足していた映画を彼女が突然拒否するのが唐突に感じられるのである。それでもやはりすぐれた映画だと言える。絶頂期のマリア・カラスと自信をなくし失意に沈む彼女を同時に描くことに成功しているからである。この映画が「シカゴ」に勝っている理由はこの点にあるといえる。パゾリーニの「王女メディア」で本物のマリア・カラスを見てはいるものの、彼女には何の思い入れもない。全編に流れる彼女の歌はさすがに素晴らしいが、他の名歌手よりどう優れているのか分からない。それでもこの映画に共感させられたのは、やはりこの映画に力があるからだ。

  「ロミオとジュリエット」で世界中の女性の涙を絞ったフランコ・ゼフィレッリ監督も(1923年生まれだから)この作品を撮った時は79歳!99年の「ムッソリーニとお茶を」も傑作だった。最晩年に傑作を2本も生み出している。マノエル・ド・オリヴェイラもびっくり!?驚くべきじいさんだ。

2005年9月 5日 (月)

ピエロの赤い鼻

2003年  フランス映画
原題:EFFROYABLES JARDINS
原作:ミシェル・カン、”EFFROYABLES JARDINS”(恐るべき庭)
【スタッフ】
 脚本:ジャン・ベッケル、ジャン・コスモ、ギョーム・ローランtomato
 監督:ジャン・ベッケル
 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル
 撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
【出演】
 ジャック・ヴィユレ、アンドレ・デュソリエ、ティエリー・レルミット
 ブノワ・マジメル、 シュザンヌ・フロン

 「ピエロの赤い鼻」は「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」より出気がいいと思った。「ピエロの赤い鼻」の大体の話は分かっていたが、肝心な部分はかなり予想外の展開だった。大枠はピエロを演じる父親を恥ずかしく思っている息子に、父親の親友がなぜ父親がピエロを演じるかを話して聞かせるというものである。父親のジャック(ジャック・ヴィユレ)は友人のアンドレ(アンドレ・デュソリエ)とレジスタンスの真似事をして鉄道のポイント切り替え所を爆破する。ドイツ軍は犯人を見つけるために人質を4人選び、犯人が名乗り出なければこの4人を殺すと脅した。このあたりの展開はだいたい予想したとおりだった。

 しかしその4人の中にジャックとアンドレが選ばれてしまう。彼らは大きな穴の中に突き落とされる。もろい土である上に雨が降っているのでぬるぬるして這い上がることができない。4人の人質たちは雨と泥まみれになって不安な時間を過ごす。こういう展開になるとは思ってもいなかった。当然監獄の様なところに押し込められるのだろうと思っていた。恐らく配給会社は意識してこのあたりの展開を隠していたのだろう。穴の中の4人はどうやったら穴から抜け出せるか色々やってみるが、結局あきらめる。まるで安部公房の「砂の女」だ。そのうち食い物(フランスの郷土料理カスレ)の話をしたり、誰が彼ら4人を指名したのか犯人当てをしたりし始める。このあたりの展開が滑稽で、翌日には処刑されるという絶体絶命の窮地にあるにもかかわらず、どこかファンタスティックな感覚さえ覚える。さっぱり切実感も緊迫感もない4人の状態が彼らの置かれた深刻な状況と妙に齟齬をきたすために、全体としてどこかシュールな雰囲気が漂いだす。実に秀逸な演出である。

 やがてそこに一人のドイツ兵が現れ、滑稽なしぐさをして彼らを笑わせる。穴の上と穴の中。4人の男たちは下からドイツ兵を見上げている。ドイツ兵のピエロが彼らを慰める展開になることは前もって知っていたが、まさかこういう形で彼らが会うとは思わなかった。翌日彼らは銃殺されることになるが、例のドイツ兵が銃を構えなかったので指揮官に撃ち殺されてしまう。このあたりからシュールな感覚はなくなり、ぐっとリアルな演出になる。

 彼らは銃殺直前に「真」犯人が名乗り出たため助かる。実は、ジャックとアンドレが爆破した建物の中にはそこで働くフランス人がいた。彼は爆破で大怪我をして入院していた。自分が助からないと覚悟した彼は、どうせ死ぬのだからと自分が犯人だと名乗り出るよう妻に頼んだのだ。

 映画の最も感動的な部分はその後だ。やがてフランスは開放されジャックたちは平和に暮らart-pure2001awしている。ある日二人は死んだフランス人の妻に会いに行く。自分たちが犯人だったと告白するつもりだった。しかし言えずに一旦引き下がる。だが途中で思い直し、また引き返す。戻ってきた二人に、死んだ男の妻は二人がやったことは知っていたと話す。呆然とする二人。彼女の夫は爆破の直前に顔を見ていたのだ。彼女は二人が戻ってきて打ち明けたことを褒め、もうこのことは誰にも話さないよう告げる。ここは実に感動的な場面であった。毅然とした老婦人の態度に胸を打たれる。ジャックがピエロになることを決意したのはこの時である。

 この話を聞いて息子の父親に対する認識が一変する。このあたりはまあ予想通りだ。事前にある程度の予備知識を持っていれば、全体の枠組みは予想通りで意外性は全くない。しかしこの作品の価値はその枠組みの間に挟まれた部分、回想の部分にある。この部分は普通なら苦痛を伴うリアリスティックな描写になるはずだ。しかしこの作品は敢えてそうはしなかった。ジャックとアンドレアが登場したときから滑稽なムードが流れる。のっぽとちびの文字通りのでこぼこコンビである。その二人が共に恋心を寄せる女性ルイーズにいいところを見せたいばかりにレジスタンスの真似事に走る。ジャックとアンドレの滑稽なやり取りを見ていると、爆破事件さえも本当にあったことではなく冗談なのではないかというどこか非現実的な雰囲気がかもし出される。だから絶体絶命の穴の中でも、この非常時にカスレが手に入るわけはない、などとどうでもいいようなことを本気で論じ合うような場面が自然に描けるのである。

 笑いで不安や恐怖をやわらげるというのではない。もっとねじれていてシュールな状況になっている。日本人ならあんな場面は描けない。それでいて彼らの味わった恐怖や殺しあうことのむなしさ、さらには夫の意思を正面から受け入れ夫が銃殺される場面を目撃しても、なおレジスタンスの行為に走った二人を許す夫人の毅然とした態度を十分観るものに伝え得ている。たとえシュールに見えてもそれは現実逃避ではない。監督はあるインタビューに答えて「彼らのように、絶望の分だけ希望を持つことが人生には大切なんだ。」と語っている。フランス人の「笑い」はかくも強靭であり、また柔軟である。

 この演出方法はまかり間違えば大失敗につながる。戦争を笑いものにしていると勘違いされかねない。しかしジャン・ベッケルの演出は笑いとリアリズムのつぼをしっかりと押さえていた。冷酷なドイツ軍将校とピエロのドイツ兵を描き分けたように。命令に従わなかったドイツ兵(ピエロを演じた男)を何のためらいもなく撃ち殺すドイツ軍指揮官の冷酷さはステレオタイプ的だが、後の死体処理を命じられた下士官(?)の戸惑ったような表情はリアルだった。ドイツ軍といえども人間である。

 穴の場面を作り出したことによってこの映画は傑作となった。「笑ってごらん、幸せになれるから」という「イブラヒムおじさん」のキャッチフレーズはむしろこの作品にこそふさわしい。

寄せ集め映画短評集 その2

 在庫一掃セール第2弾。今度は5連発。


「ホテル・ハイビスカス」(2003年、中江裕司監督)

  期待通りの佳作だった。何といっても主人公の美恵子を演じた蔵下穂波の存在感がすごい。小学3年生だというが、自由奔放な性格が画面からはじけ出ている。特典映像でこれは自分の「地です」と言っていたが、彼女をオーディションで発見した段階でこの映画の成功は保障されたようなものだったのではないか。それくらい存在感がある子役だajisai2った。伝説の森の精霊キムジナー探しに夢中になったり、お父さんを探しに一人でバスに乗って「冒険」に出たりと、彼女の身の回りの出来事を追ってゆく展開で、特にこれといった一貫したストーリーがあるわけではない。基地の存在、混血児の存在、サンシンの弾き語り、先祖の霊を迎える儀式などを随所に取り込み、沖縄らしさを演出している。

  監督の中江裕司は京都出身だが大学が沖縄大学で、沖縄に魅せられ住み着いたそうだ。巧みな替え歌が効果的に使用され、屈託のない子どもの世界が描かれている。原作はもっと多面的に描かれているようだが、脚本は思い切って子どもに焦点を当てたという。おそらくそこに成功の原因があったといえよう。軽いコメディだが、ほほえましい映画だ。「ナビィの恋」(1999年)もいい映画だったが、これもそれに劣らない。

「過去のない男」(2002年、アキ・カウリスマキ監督、フィンランド)

  正直言ってカウリスマキ監督には偏見があった。最初に見た彼の作品「マッチ工場の少女」があまりに面白くなかったので、その後まともには見ていなかった。しかしこの作品を観て彼に対する認識を新たにした。

  暴漢に襲われて頭を殴られ、記憶をなくした男の話。病院で一旦死を宣告されるが、奇跡的に生き返り、病院を抜け出す。そのまま港湾のコンテナ住居に流れ着く。救世軍に救われ、そこでイルマと出会う。やがて銀行強盗に遭遇したことがきっかけで身元が分かる。しかし妻の元に返ると、既に離婚が成立しており、妻には新しい男がいた。主人公はまたイルマの元に戻る。

  カウリスマキのいつもの乾いた奇妙な雰囲気を持つ映画だが、ほのぼのとした温かみがある。コンテナ住居の周りには失業者たちがあふれている。社会の最底辺に生きる人たちが登場人物のほとんどだ。最初に世話になった男が、今日は金曜日だからディナーに行こうと主人公を誘う。行ってみると何と救世軍の配るスープをもらってくるだけだった。そこで救世軍に勤めるイルマと出会うわけだ。このあたりのほのかなユーモアの効いた演出が素晴らしい。このユーモアがこの映画に独特の温かみを与えている。救世軍のバンドに「世俗的な」曲を演奏させるあたりも面白い。イギリス映画によくある、気がめいる様な暗さはない。また、湿っぽさもない。独特の乾いた感覚がまた素晴らしい。社会の底辺に生きる人たちを温かく見守っている描き方が共感を誘う。イルマは主人公に「この世では慈悲ではなく、自力で生きねば」と話す。これがこの映画の底流となっている。

「炎/628」(1985年、エレム・クリモフ監督、ソ連)

  これは1948年、ドイツ占領下の白ロシアを描いたもので、邦題はドイツ軍に焼き尽くされた村が628あったことから付けられた。最後の大虐殺の地獄絵図は言語に絶する迫真力で、見終わった後はしばらく口もきけな いほどだ。だがラストシーンの卓抜さによって、この映画は単なる怨念と恨みの物語を超えたものになっている。
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  主人公の少年は(この時には髪が白くなり、額には皺が深く刻まれ、くちびるは割れてふくれあがり、一日にして老人のようになっている)水溜りに落ちているヒトラーの写真を銃で撃ち続ける。撃つごとに当時のニュースフィルムが逆回転で映される。軍隊は後ろに行進し、投下された爆弾は次々に爆撃機の中に納まる。そしてニュースの中のヒトラーは少しずつ若くなり、最後は母親に抱かれた赤ん坊になる。その時少年は撃つのをやめる。何がこの赤ん坊を誤った信念に取りつかれた独裁者に変えたのか。時間を元にもどしてほしい、失われた家と人々をわれわれに返してほしい、という作者の思いが痛いほど伝わってくる秀逸なシーンだ。森の中を進んでゆくパルチザンの兵士たちの背にモーツァルトのレクイエムが流れるラストの感銘は、単なる怒りと告発の作品からは得られないほど深い。

  見終わった後わずか20人にも満たない観客たちは、一様におし黙りうなだれるようにして、映画館の階段を下りていった。この作品を観て来た者の気持ちは、その原題にすべて語り尽くされている。「行け、そして見よ」。

「脱走山脈」(1968年、マイケル・ウィナー監督、アメリカ)

  傑作だと思った。象をつれてアルプスを越える話だが、象は山の上は苦手だし、一頭だけでは眠らないのでもう一頭撮影に連れて行ったというエピソードからも、そもそも設定として無理がある話だということが分かる。しかしそれでも、映画としての面白さは損なわれていない。目立ちやすい象をつれてドイツ軍の追跡をかわしつつスイスへ脱出するという奇想天外のストーリーが、むしろこの作品の一番の魅力になっている。

  このメインのストーリーに、アメリカ人の脱走捕虜(なつかしやマイケル・J・ポラード)をリーダーとするレジスタンス・グループの破壊活動が絡まりあってストーリー展開をより膨らませている。オリヴァー・リードのまじめなキャラクターとマイケル・J・ポラードの脳天気なキャラクターとのギャップもうまく作用している。今この映画はカルト的な人気があるそうだが、戦争ファンタジーとでも呼ぶべきジャンルを切り開いた傑作としてもっと正当に評価されてしかるべきだろう。

「最後の冬」(1986年、ウー・ツーニュウ監督、中国)

  冬の終わり、一人の少女と二人の男女がゴビ砂漠にあるさびれた駅に降り立つ。駅で少女が農場はどこかと聞くが、駅にいた人々の反応がどこか異様である。何とか場所を聞き出して三人は歩き出す。しかしそこは砂と岩しかない荒涼とした所で、道らしいものすらない。彼らが目指している農場とは、地の果てとも思 われるところに設置された犯罪者労働改造農場だったのだ。この冒頭の描写が素晴らしく、フランチェスコ・ロージ監督の「エボリ」を思わせるが、こちらはもっと乾いており、文字通り何もない。
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  三人はそれぞれ自分の身内に面会に来たのだった。固く心を閉ざし、最後の別れのときやっと心を開く弟、母を思い出し泣き出す妹。肉親たちの現在と過去の対比は常套的で感心しないが、肉親を思う彼らの心が素直に胸を打つ。例えば面会を終えて農場の近くの宿舎に泊まっていた時、夜突然銃声が轟く。三人とも自分の肉親が脱走したのではないかと思って恐慌状態になる。まもなく囚人たちを集める号砲だということが分かり、一斉に笑い出しそれが涙に変わる。それを見て、事情を知らない女将が言う。「何てこったね。囚われている人たちより、囚われていない人たちの方がいかれてる。」なんともアイロニカルで、緊張と弛緩のドラマティックな展開が見事である。

  翌朝、帰路につく三人は、いつの間にか一つの家族のように心を通い合わせていた。春の近いことを願いつつ駅に向かう三人の姿がさわやかだ。映像が美しく、深みがあり、また訪問者の中の少女がなまいきで可愛らしく、重くなりがちなムードを救っている。決して完璧な作品ではないが、忘れがたい一遍である。

2005年9月 4日 (日)

68年版「ミニミニ大作戦」

1968年、アメリカart-hituji3502
【原題】The Italian Job
【スタッフ】
製作: マイケル・ディーリー
脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
監督:ピーター・コリンソン
音楽:クインシー・ジョーンズ
撮影: チャック・ウォーターソン、他
【出演】  マイケル・ケイン、ノエル・カワード
            ベニー・ヒル、ラフ・ヴァローネ
       トニー・ベックリー、ロッサノ・ブラッツィ

 マイケル・ケイン主演の痛快犯罪アクション映画。2003年に再映画化されたが、そちらは見ていないし見る気もない。この68年版はBFI(British Film Institute)選定イギリス映画ベスト100の第36位に選ばれた傑作。マイケル・ケインの出演した作品は他に「狙撃者」(71年)16位、「ズール戦争」(64年)31位、「アルフィー」(66年)33位、「国際諜報局」(65年)59位、「モナリザ」(86年)67位など、合計6本入っている。68年のこの作品はまさに彼の絶頂期に撮られた彼の代表作の一つである。他にも「探偵スルース」(72年)、「殺しのドレス」(80年)、「デストラップ・死の罠」(82年)、「ハンナとその姉妹」(86年あたりが僕にとっては印象深い。その後さっぱり名前を聞かなくなったかと思っていたら、「リトル・ヴォイス」(98年)「サイダーハウス・ルール」(99年)「ウォルター少年と夏の休日」(03年)などで健在ぶりを示していた。すっかり爺さんになってはいたが、さすがの存在感である。

 この映画はミニ・クーパーが大活躍するので(タイトルはここから来たのだろう)車オタクたちが好むマニア向け映画のごとく思われているふしがあるが、決してそんなことはない。僕にとって車は単なる移動手段であって、名車や高級車には何の関心もない。ミニ・クーパーだろうがアストン・マーティンだろうがおよそどうでもいい。走っているのがカローラでもマーチでも一向に構わない。それでも十分楽しめる。そんなことにこの映画の眼目はない(小型車だということには重要な意味があるが)。

 まず、映画の冒頭場面からして印象的である。長い曲がりくねった道をスポーツ・カー(ランボルギーニ・ミウラだそうです)が疾走している。車はトンネルに入ったとたん何かに衝突して炎上してしまう。マフィアの待ち伏せにあったのである。いきなりのクラッシュでショッキングだが、それ以上に映像が実に鮮明でシャープであることに驚かされる。イギリスのカラー映画といえば、マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの「赤い靴」や「黒水仙」のあの鮮明で濃厚な映像が有名だが、こちらは濃厚さを排したぐっとシャープな映像である。今見ても驚くほど鮮明で新鮮だ。

 もちろん素晴らしいのは映像ばかりではない。この映画はその奇抜なアイデアが浮かんだ段階で傑作になることがほとんど保障されていたといってもいいだろう。400万ドルの金塊を積んだcar現金輸送車から金塊を奪うという計画自体はありきたりである。その方法が奇抜なのだ。信号機を制御するコンピューターに偽の指令を流して交通渋滞を引き起こし、その混乱に乗じて金塊を奪い、大通りの渋滞を尻目にミニ・クーパーで裏道や細い路地や、果ては建物の屋根から下水道まで走り抜けて逃走するという奇想天外な計画である。だからミニ・クーパーでなければならないのだ。総勢20人近くの仲間がそれぞれの持ち場でてきぱきと指示通りに動く。警察の追跡を振り切ったミニ・クーパーは大型トラックの荷台に乗り込み、金塊を積み替えた後は崖下に突き落とす。てきぱきとした手順とそれを描く切れの良い演出。この一連のプロセス全体が見せ場である。

 銀行強盗や宝石泥棒などをテーマにした映画は限られた空間で展開されることが多い。「おしゃれ泥棒」「トプカピ」「オーシャンと11人の仲間」(あるいはその再映画化作品「オーシャンズ11」)、「エントラップメント」、あるいはパトリス・ルコントの「スペシャリスト」など、いずれもその類である。しかしこの映画はトリノの街を縦横に走り回る。そこに無類の爽快感がある。金塊奪取の部分も面白いが、その後の逃走劇、カー・チェイスももちろん見せ場だ。これがすごい。ミニ・クーパーだからこそ出来る、ドラえもん的「どこでも道路」逃走術。「フレンチ・コネクション」より3年前、マックィーンの「ブリット」より1年前に作られたとは思えない、カーチェイスのお約束的要素がすべて入っている。

 だが、皮肉なことに警察もマフィアも振り切って成功を確信した瞬間にトラックは道をまがりそこね、崖のふちから車体半分を突き出したかたちで止まってしまう。まるでシーソーのように上下に揺れるトラック。ゆれるたびに金塊は滑って手の届かない奥へと移動してしまう。まるでチャップリンの「黄金狂時代」に出てくる崖っぷちの小屋だ。最後はマイケル・ケインの「いいアイデアがある」という言葉で終わる。車が宙ぶらりん状態になるというシチュエーションはその後たくさんの映画で真似されている。「いいアイデアがある」と言っているが、結局金塊は車と一緒に崖に落ちていったに違いない。仕事に成功して浮かれるあまり、帰りに事故に会うというのは「恐怖の報酬」と同じだ。

 イギリスを代表する名優の一人として、不気味な殺人者から人のいい優しい爺さんまで様々な役柄を演じてきたマイケル・ケインだが、ここでの彼はさっそうとしたチンピラやくざという役回りである。まだ若く、はつらつとした彼が見られる。

 他の出演者についても一言。マイケル・ケインに計画を指示する獄中の大ボス、ブリッジャーにイギリスの有名な劇作家ノエル・カワードが扮している。獄中なのになぜかまるで自分の大邸宅にいるような余裕の生活ぶりを見せている(これがまたシュールでいい)。ラフ・ヴァローネ(マフィアのボス)とロッサノ・ブラッツィ(最初に車を疾走させていた男)を見たのは実に久しぶり。いやあ、ふたりともなつかしかった。
 (「BFI選定イギリス映画ベスト100」の全作品を知りたい方は、本館の「緑の杜のゴブリンへ飛び、「イギリス映画の世界」のコーナーに入ってください。邦題つきで載せ
 てあります。元の英語のサイトへも本館のリンクから飛べます。)

メアリ・ローズ・ガーデン

 イギリス映画に「グリーンフィンガーズ」という作品がある。「グリーンフィンガーズ」とは「庭弄りが好きな人」という意味である。囚人たちがガーデニングを始め、やがて"ハンプトン・コート・パレス・フラワーショウ"にまで出場するという映画だ。いかにもガーデニング王国イギリスらしい映画である。そう いえば、「大脱走」にもイギリス人のガーデニング好きが活かされた場面が出てくる。連合軍の捕虜たちは脱走のためにトンネルを掘るのだが、そこで彼らは頭の痛い問題に直面した。掘り出した土をどう処理するかという難問である。そこで思いついたのが畑作り。イギリス人捕虜がドイツ兵に畑を作らせてくれと頼み込んで了解を得る。その畑に何食わぬ顔をして掘った土をばら撒いてゆくのである。頼みに行ったのがアメリカ人の捕虜だったら逆に怪しまれたかもしれない。イギリス人だったから成り立った話である。
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 別にこの映画に影響を受けたわけではないが、2001年に本格的に庭を造った。家を建てて3年目だ。それまでは庭というより荒地で、石がごろごろしていてコンクリートの破片や太い鉄線などが地面から顔を出していた。庭を造って以来、散歩のときも他の家の庭をよく眺めるようになった。ああ、あの塀の作りはいいなあ、あのかたちのいい木は何の木だろう、ああいう花の色 の配色は参考になるなどと思いながら眺めるのである。ガーデンデザインの本などを見ると見事な庭の写真が載っているが、素人にはとてもまねが出来ない。せいぜいそこからヒントを得て、自分の庭に応用する程度である。しかしそれが楽しい。

 そのうち本格的なガーデンも観たくなる。上田にはこれといったものはないが、佐久にはメアリ・ローズ・ガーデンがあり、茅野市にはバラクラ・イングリッシュ・ガーデンがある。バラクラ(「薔薇のある暮らし」をもじった名前らしい)には行ったことはないが、メアリ・ローズ・ガーデンには一度行ったことがある。その時の日記を引用しておこう。

 駐車場から見上げた建物は素晴らしかった。期待が膨らむ。美しい英国風の建物で、そこがガーデンの入り口と書いてある。中に入ると売店のようになっていて、すぐ左にレストランがある。奥に切符売り場があり、その横のドアを通るとガーデンに出た。見事なガーデンだった。自然庭園風ではなく、幾何学的な庭園 だった。丘の斜面に作られているので段々畑のようになって続いている。それぞれを塀で囲い、狭い門のような入り口でつないでいる構造がいい。ローズ・ガーデンとなっているが、薔薇以外にも様々な花が咲いていた。写真でしか見たことがなかったものもたくさんあり、勉強になった。写真では実際の大きさが分からないからだ。花の配置の仕方、芝生と花壇の配置もよくできていた。芝生が随分短く刈ってあって、こんなに短くするものかと驚く。家の芝生は長すぎる。と言うより、ほとんど手入れしていないから伸び放題である。確かにこのくらい短いと歩きやすい。しかし手入れが大変だろう。

 ガーデン全体が段々状になっているのですぐには全貌がつかめないのもいい。あちこち歩き回りながら、まだこの先にもあるのかと楽しみが長く続く。ちょっと奥の方にシークレット・ガーデンと名がついている一角もあった。ブランコがあったので乗ってみた。ブランコに乗るのは久しぶりだ。こういう隠れ家の様なスペースは前から欲しかった。ちょっとしたこの遊び心がいい。庭が広ければシークレット・ガーデンを作って見たいものだ。ガゼボのある一角も素晴らしい。同じものがほしいと思ったほどだ。うちじゃ置くとこもないが。

 一通り回った後、塔に登ってみた。結構面白い作りで、両脇に螺旋状の階段がつき、その間に小ぶりな部屋が二部屋続きで配置してあるという作りだ。屋上からは回りが見渡せ、眺めはいい。下を見下ろすと、庭園の全貌が見て取れる。意外に小さいスペースだった。中にいるとかなり広い気がするが、実際にはたいしたスペースではない。その狭い空間を、いくつものパートに区切って、それぞれ違った個性を持たせ、びっしりと花が植えてあるために狭さを感じないのだ。見事な工夫である。

 塔から降りて、レストランの横のテントを張ったテラスでコーヒーを飲む。コーヒーはサービスだ。楽しいひと時だった。

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