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2005年11月10日 (木)

サマリア

2004年 韓国koke
監督、脚本:キム・ギドク
出演:クァク・チミン、ハン・ヨルム(ソ・ミンジョン)、イ・オル
    クォン・ヒョンミン オ・ヨン、イム・ギュノ、チョン・ユン
    イ・ジョンギル、シン・テッキ

   非社会性のみならず、この「情念と欲望」は「サマリア」を含
   めた3本の作品に共通している。「サマリア」では一転して
   都会が舞台だが、人間関係の薄さと欲望のテーマは援助
   交際(売春)というベッドの上だけの関係に引き継がれて
   いる。一方、親子という濃密な人間関係になると、娘と関
   係した男を父親が次々に殺してゆくという描かれ方になって
   ゆく。濃い人間関係が描かれたとたん、抑えがたい激情と
   不可分に結びついてしまう。

  「春夏秋冬そして春」批評の最後で上のように書いた。作品としては「サマリア」は「春夏秋冬そして春」よりも後退していると思う。「春夏秋冬そして春」では曲がりなりにも、従来の「情念と欲望」を最低限に抑制し、観念的で自己完結的ではあるが、主人公の苦悩と自己再生を美しい映像の中で描いていた。「サマリア」ではまたぞろ「情念と欲望」が復活し、人間関係はさらに薄く、人間理解はさらに観念的になっている。 「サマリア」は売春を題材にしてはいるが、その問題を社会問題として扱うという視点はもとよりギドクにはないし、望むべくもない。それはそれでいい。下手に社会問題を取り上げても、相当深く社会の矛盾に切り込まない限り、お定まりの映画で終わってしまう。疑問点はむしろ二人の少女たちの描き方、ヨジンの父親の描き方、そしてヨジンと父親の関係の描き方にある。

  チェヨンはヨーロッパ旅行の旅費を得るために売春を続けている。動機は軽すぎるが、実際そんなものだろう。チェヨンの描き方で一番違和感があるのは終始笑顔でいることと売春相手と人間的な関係を求める点である。ヨジンを除いて彼女の家族や身近な人物などは一切描かれず、真に人間的関係を結ぶに値するのは金のためにベッドを共にする見知らぬ男たちだけであるという描き方。ここに既にギドク的感覚が露わに出ている。だが、チェヨンが一番心を引かれていた男ですら、チェヨンなど死のうがどうなろうがどうでもいいと思っている男である。チェヨンにモナリザの様な微笑を与えたところでこの関係に何の変わりはない。謎の微笑みに何の意味もない。

  ヨジンは売春を汚いものと思っており、たびたびチェヨンに売春を止めさせようとしている。しかしチェヨンが死んだとたん、一転してチェヨンの罪滅ぼしと称して自ら男に体を売り、金を取るのではなくチェヨンの金を返すという行為を始める。相当無理がある設定である。罪滅ぼしというなら金だけ返せばいい。自分が同じ売春行為をすることが罪滅ぼしなら、チェヨンと一緒に売春をしなかったことを反省していることになる。男たちにとっては若い女と寝られて金まで返してもらえるのだから棚からぼた餅、やり得である。仮に何らかの精神的安らぎをヨジンが得たとしても、それは彼女の一人合点に過ぎない。

  要するにギドクは、それまでセックスと欲望を人間の本源的本性であるかのごとく描いてきたが、ここではさらに踏み込んで、あるいは踏み外して、セックスと欲望を何らかの浄化作用があるものにまで称揚している。まるで極楽への道だといわんばかりだ。チェヨンもヨジンも男たちもベッドを通じて文字通り昇天したのである。

  どのホームページやブログを観ても誰一人この描き方に疑問を投げかけたものはいない。まるで当然のごとく、いや常人の理解を超えた素晴らしい人間理解であるかのごとく、無批判的に受け入れている。海外の映画祭で賞を取り、内外で高く評価されているのだから、よく分からないけど素晴らしいに違いない。本当にそれでいいのか?

  ヨジンの父親ヨンギの描き方も疑問だらけだ。最初に「親子という濃密な人間関係」と書いたが、濃密ではあっても対話はない。一緒に食事をする場面は描かれるが、どこかよそよそしさがある。ヨンギは娘が売春をしていることに気付いても、娘には何も言わない。ただ相手の男たちを殺すか追い詰めるだけだ。世代の断絶となどというものではない。最初から言012葉による相互理解の可能性を放棄している。口で説得してもどうぜ通じやしないから、行動で示すのだ。言葉ではなく、パトカーで連れ去られる父親の背中が示す無言のメッセージを受け取れと。それはそれでもいい。問題は彼の「行為」だ。警察官として売春を取り締まっているときは法を守るが、個人の怒りは法を超えるというのか。彼が目撃した場面は男が無理やり自分の娘を押し倒して強姦している場面ではない。娘がモーテルで男とむつまじく話している場面だ。しかし彼の怒りは娘には向かない。男に向かう。警察官であれば、人一倍売春を許せないという気持ちは理解できる。だが、それで人を殺すことを正当化できるのか。いや、あんなのは比喩に過ぎない。彼の怒りと絶望を暗示するシンボリックな行為なのだ。別に映画なのだから本当に人が死ぬわけではない。衝撃的な効果が得られればそれで良いじゃないか。こう考えるのだろうか。だとすれば、やはり作り物だ。鬼面人を驚かす見世物に過ぎない。「魚と寝る女」の自傷行為と同じだ。

  ヨジンと父親が二人で母親の墓参りに行くあたりからラストまでは「春夏秋冬そして春」に近い雰囲気がまた漂いだす。美しい風景。しかしやはり人間は少ない。魂の浄化を描こうとすると、必ずギドクは人里はなれた空間を必要とする。徹頭徹尾社会を避け、人間関係は薄く、決して踏み込まない。母親の墓(何であんな山の中にあるんだ?)を見舞っても、何も話さずただ寿司を食らうだけだ。唯一親子の結びつきを暗示するのは、車が溝にはまって進めなくなったときだ。父はすぐあきらめるが、代わりに娘が石をどかして溝から車を脱出させる。これも言葉ではなく行為によって示されている。

  川辺に車を停めて娘に車の運転を教えるところはこの作品中もっとも印象的な場面だ。素晴らしい場面だといってもいい。相変わらず美しい風景だが、そこはギドク、ただただ美しくは描かない。ヨンギが娘の首を絞めて殺し、川辺に埋めるシーンが差し挟まれる。もちろん幻想シーンなのだが、この程度ならごく普通の描き方で何の違和感もない。パトカーに乗せられ去ってゆく父親を、運転を習ったばかりの娘が車で追いかけるシーンもよく出来ている。無言の行為に込めた父親の心情。こう書くと「親父の背中」のような心温まるものに思えるが、無論そんなものではない。その行為の元にある父親の行為と娘の行為に根本的な疑問がある以上、手放しで褒めるわけには行かない。

  第1部のテーマは体を売る行為を通じて男たちに仏教の教えを伝えたパスミルダ。第2部のテーマは罪を償い信心深く生きたサマリア人の女性。第3部の「ソナタ」は鎮魂の章だ。宗教的テーマやアリュージョンを描くことは、作品を抽象的、観念的にしてしまうきらいはあるが、必ずしも否定すべきことではない。だがここでは、不条理な設定を覆い隠す隠れ蓑の様な役割を負わされている気がする。枠組みがそうなっていれば何となく納得させられてしまう。パスミルダのたとえを持ち出されると、ヨジンの体を売る行為を肯定できそうな気がしてくる。実際、ヨジンは男とベッドを共にするに連れてどこかすっきりした、憑き物が取れたような表情になってゆくではないか。顔中血まみれになってゆく父親とは反対に。父と娘を対比させることによって、キム・ギドクは現代人の孤独と魂の彷徨を描いているのだと。

  しかしこの描き方には無理があり、説得力に欠ける。どうやらギドクは娘の売春行為を「罪」と捕らえている。これがそもそも観念的なのだ。なぜならこの場合の「罪」は刑法上の罪ではなく、より抽象的な、多分に宗教的な意味を含んだ「罪」だからである。だからパスミルダやサマリア人という宗教的な枠組みが必要なのである。この枠組みは必然なのだ。売春行為に対するギドクのアプローチは当然ながら社会的なものではなく、宗教的なアプローチだった。ここでの「罪」の捉え方は、「春夏秋冬そして春」で少年が生き物を殺して背負った「業」の捉え方に近いといえるかもしれない(少年が魚や蛇や蛙を殺したことは明らかに刑法上の罪には当たらない)。そう考えればヨジンが「罪滅ぼしに」男と寝る行為は、「春夏秋冬そして春」の少年が大人になって自分の体に石を縛りつけて山の頂上に仏像を運び上げる苦行と同質の行為だということが分かる。しかし後者の場合は男が自分ひとりで行う自己完結的な修行だったから破綻はなかったが、ヨジンの場合は彼女一人の自己完結的行為では納まらない。なぜなら彼女の行為は社会的行為だったからだ。相手の男がおり、父親にも影響を及ぼしている。結局相手の男の何人かが殺されまた自殺し、父親は殺人犯になる。「春夏秋冬そして春」の世界は、まるで試験管の中の世界のように、閉じられた自己完結的世界だった。人里離れた世界という意味でも、輪廻という円環構造の世界という意味でも。しかし一歩社会の中に出て行ったとき閉じられた輪は破れ破綻してしまう。

  第3部に宗教色のない「ソナタ」というタイトルがつけられているのは、単に3部作という意味だけではないだろう。もはや宗教の枠に収まりきらないからであると考えられる。宗教という枠を断ち切ったのは、ギドクをギドクたらしめている要素の一つ、激烈な「情念」である。第3部では父親が主人公になる。そこではまたぞろ「激情」が爆発するのだ。しかし一通り懲罰行為を繰り返して「激情」が収まると、素直に自分から自首する。押し込められていた黒いマグマが一気に噴出して、すべて出し切った後で「鎮魂」へと向かう。どうやらギドクという男の中で、「反省」して悔い改める気持ちと「激情」がせめぎあっているようだ。その心の揺れがそのまま「サマリア」に表れているように思える。最後にちょっとよろめいたが、何とか姿勢を保った。娘の首を絞めるのをかろうじて幻想にとどめた。しかしたまっていた黒いマグマは吐き出したが、マグマを生む「根」はまだ残っているに違いない。ちょっと気を抜くとまた封印がはずれて、どす黒いマグマが噴き上げてきそうだ。

  「サマリア」でギドクは山を降り、里に出てきた。当然作品に社会が入り込む。しかしそれはきわめて限定され歪められた形で取り入れられている。歪められた人間関係は押さえ込まれていた情念を噴き出させる起爆剤となる。これを、「春夏秋冬そして春」の閉じられた世界から一歩踏み出し、より複雑で不可解な人間の本性を描きこんだとして評価すべきだろうか?いや、それにしては人間の捉え方は一面的で、説得力に欠ける。むしろ人間と社会の関係に対するギドクのどこか歪んで観念的な捉え方が露わになった作品だと捉えるべきではないか。
 (2005年11月16日加筆訂正)

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映画」カテゴリの記事

コメント

 laundryさん コメントありがとうございます。
 いびつだけど、透明な愛、恐らくそれは多くの人が受け止めた感想でしょうね。確かキネ旬のベストテンにも入っていたと思います。キム・ギドクはベストテンの常連です。
 でも僕はどうしても彼の基本的な人間理解とその表現方法に疑問があるので、全面的には評価できません。どこが疑問なのか僕なりに分析してみたレビューです。

こんにちわ。コメントどうもありがとうございました。

分析かぁ。ま、人それぞれ見方はありますよね。
同じものを観ているのに、違う意見が生まれるし、だからそれを読みたいと思うわけやからなぁ。と思ったりして。
そして、ゴブリンさんの記事を読んで「なるほどなぁ」と思いました。

ただ私はキム・ギドクの作品は初めて見たので、傾向とかよくわからないです。
しゃーけど、彼が描く愛の形は少し見えた気がします。すごく美化されてもいたけれど。
そもそもこの映画に正解はなくて みんな過ちを犯すんですよね。
愛は色んな形をしていて、色んな色をしている。
この映画に息づく愛は、限りなくいびつで、それでいて透明やった。

私はそんな風に観ましたよ(^-^)

コメントありがとう。
ギドクの情念や歪みはどこからくるのか、僕もよくはわかりませんが、道徳的という意味ではなくて、たしかに、破綻を楽しんでいるところもあります。

小学校しか出ていない、と誰かが書いていました。
また、この映画は2週間で撮影した、と別の誰かが書いていました。
役者には役になりきることを要求すると、これは、解説にありました。

「春夏秋冬そして春」には、びっくりしました。おっしゃるように、とても抑制がきいていて、訴えたいテーマと作法をひっくりがえしたがっているギドクの生理が、ちょどいいバランスをとっていたのでしょう。

この映画は、一気に撮影したという勢いは感じます。あんまり緻密な計算はしていない分、自分の生理が色濃く出ています。

ただそれはそれとして、ここにギドクの正直な生理があるとしたら・・・・。

たぶん、「春夏秋冬そして春」のような作品を、続けて、望んでも、彼自身が、耐えられないのかもしれませんね(笑)

 りりこさん コメントありがとうございます。
 僕はかなり否定的に書きましたが、キム・ギドクには非凡な表現者としての力量があります。ただのしょうもない作品だったらさすがに賞は取れないでしょう。ただその基本的な価値観、人間観に僕は疑問を感じます。評価するにしても全く無批判的に受け入れてしまうのは危険だと思うのです。そういうことを伝えようと思って書いた文章でした。

はじめまして。
エイプリルの記事にTBありがとうございました。
こちらにもTBさせていただきますね。
この映画、現実では考えられないことがたくさん出てきて、
それを変だとはっきり認識していないと
映画だからいい!ってことになってしまう危険はあると思いました。

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