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2005年10月30日 (日)

珈琲時光

2003年1144
監督、脚本:ホウ・シャオシェン
出演:一青窈、浅野忠信、余貴美子、小林稔侍、萩原聖人

 小津安二郎生誕100周年を記念して作られた映画である。しかし小津との関連はあまり意識しない方がいいかもしれない。あまり作風に共通性はない。そもそも小津のまねをしてみても仕方がないのだから。

 実に不思議な映画だ。これといってストーリーや筋らしきものはない。テーマすらない。かといってイメージ的映像を重ね合わせた作品(タルコフスキーの「ノスタルジア」のような)でもない。とにかく日常といえば日常のひとこまひとこまを特に筋立てもなく次々とつないでいるだけだ。ヒロインの陽子は妊娠しているが、それはテーマとして取り上げられることもなく、さらっと流れてゆく。陽子はフリーライターで江文也のことを調べているが、それも特にストーリーの軸になるわけではない。(江文也は上田市、特に上田高校にゆかりの人物で、実際上田でもロケが行われたが、完成した作品からは、夕張同様、ばっさり切り落とされている。残念。)何の主題も筋もない。ただ淡々と日常の生活が映し出されてゆくだけ。登場人物もヒロインの一青窈と彼女に恋心を抱いているらしい浅野忠信、陽子の父母である小林念侍と余貴美子の4人程度しかいない。萩原聖人はチラッと出てくるだけだ。

 陽子が実家に帰って父母とくつろぐ場面では小津を思わせるカットも出てくるが、もちろん多用はされない。ほんの味付け程度だ。要するに素人が撮った日常のスナップ写真をつないだだけの様な映画だ。不思議なのはそれでいて別に退屈ではないということだ。小津の映画には親子の絆などのテーマがはっきりある。数種類のテーマを手を変え品を変え撮っていたようなものだ。「珈琲時光」はただ単に陽子の行動を追うだけである。決して彼女の内面に入り込もうとはしない。両親が娘の妊娠を心配して東京の彼女のアパートに出てきたりはするが、結局親父は何も言わない。陽子も詳しいことは何も語らない。浅野忠信との関係も江文也の調査を手伝ってもらう以上には踏み出さない。

 そういう意味では実験的な作品である。小津の映画からテーマやストーリーを抜き取ったらどんな映画が出来るか。小津からテーマを抜けば当然家族という問題も背景に後退する。したがって焦点は一人の人物に当てられることになる。ストーリーもなくなるから、淡々と一人の女性の行動を飛びとびにつなぎ合わせるだけになる。まるで陽子という女性を点描画で描いた絵画のようだ。点描画の一つ一つの点はリアルに描かれている。会話などはいまどきの女の子の会話や話し方をリアルに再現している。カットバックやフラッシュバック、クローズアップなどはほとんど使わない。素人の撮ったビデオをつないだだけといった感じの作りだ。この日常的行動の点描画、あるいはコラージュがなぜ退屈にならないのか。これは追求してみる価値がある。

 小津の映画には主題があった。多くは家族関係、特に親子関係をめぐるものだ。ストーリーの展開は淡々としたもので劇的な展開はほとんどない。それでも見るものの感情を揺さぶるのは、家族や親子関係という、人種や国境を越えて人間に共通する普遍的テーマを扱っているからだろう。そこにはドラマがあった。しかし「珈琲時光」にはその主題がない。したがってドラマもない。ヒロインの一青窈に特別人をひきつけるような魅力があるわけでもない(歌手としての彼女は好きだが、この映画の彼女は特に魅力的なわけではない)。彼女が何を考えているのかよく分からないから、共感するわけでもない。カメラも観客もただ離shnotれて眺めるだけである。ないないづくしの映画である。しかし何も説明されないからこそ、描かれていない部分を観客の側が想像で補おうとする。生まれてくる子供をかかえて彼女はどう暮らしてゆくのか、浅野忠信との関係はどうなってゆくのか。江文也の本はいつか出版されるのか。何も分からない、何も描かれていないだけに観客は無意識のうちにこれらのことを自分の中で考えようする。この類の映画はよくあるが、その多くはもっと複雑で難解な作りになっていることが多い。しかしこの映画に複雑で難解なところはまったくない。終わり方も唐突というよりは、ごく自然に都会の日常の中に溶け込むようにして終わってゆく。何も分からず、先の暗示もなく終わるが、マノエル・ド・オリヴェイラの「家路」を見終わったときの様ないらいら感はない。

 空白だらけのつぎはぎ映像を飽きずに最後まで観続けるのは、そこに映し出されているものに何らかの意味を見出したいという無意識の欲求が観客の側にあるからだ。一体どうなるのか、どうなっているのか、それを知りたいから先を見る。しかし最後まで何も明らかにならなければ観客はがっかりする。はずだ。しかし観終わったときに裏切られたような不満がそれほどないのはどういうわけか。確かに観客自身がある程度想像で空白を埋めるだろう。だがそれだけではやはり不満が残るはずだ。自分の想像した通りなのか確かめたいという欲求が残るからだ。

 では、そもそもこの映画に意味を求めることにはそれほど意味がないということなのか。ただ単にある一人の女性の日常の一部を切り取って見せただけという映画が成り立ちうるのか。この映画の場合ある程度成り立っていると言わざるを得ない。では、素人が撮った日常のスナップ映像とこの映画はどこが違うのか。これを説明するのは難しい。オリヴェイラの「家路」にいらつくのは、思わせぶりに作っておきながら何だか分からないままで途中で投げ出したように終わってしまうからだが、この映画は初めから何も思わせぶりなところもないし、何か言いたげでもないから、消えるように終わっても腹は立たない。スーッと始まりスーと終わる、それを見ている観客は「ふうん、あの二人結局どうなるんだろうね」と言って帰ってゆく、そういう映画だ。妊娠、子供の父親は台湾人、結婚はしない、子供は自分で育てる、最低限の情報だけで観客を最後まで引っ張ってゆく手腕はやはりプロの技である。単に場面をつないだだけのように見えるが、全体の構想と編集がしっかりしているのだろう(完成したシナリオはなく、その場その場で臨機応変に撮っていったようだが)。これ以上のことは分からない。今の時点で言えるのはそれくらいだ。

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