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2005年10月21日 (金)

ネバーランド

le_pa2004年 イギリス・アメリカ
原題:Finding Neverland
原作:アラン・ニー
脚本:デイヴィッド・マギー
監督:マーク・フォースター
出演
 ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、ダスティン・ホフマン
 フレディ・ハイモア、ラダ・ミッチェル、ジュリー・クリスティー
 ニック・ラウド、 ケリー・マクドナルド、ジョー・プロスペロ
 ルーク・スピル、イアン・ハート

  このレビューを書く前に幾つかのブログやホームページを覗いてみた。驚くべきことにほとんどの人がピーター・パンと聞いて最初に思い浮かべているのは「ピーター・パン症候群」である。酒井法子みたいに「そういう時代でしょ」といってしまえばそれまでだが、ほとんどの人がピーター・パンの話そのものは知らず、原作者の意図とはかけ離れたところで勝手につけられた名称を通じて理解されているのは悲しいことだ。  もっともピーター・パン自体はまだいいほうだ。作者のジェームズ・バリにいたっては知っている人を探す方が難しいだろう。僕は大学の英文科を出たが、ジェームズ・バリは英文学ではほとんどまともに扱われていなかった。せいぜい「ピーター・パン」の作者として名前だけが知られている程度だった。

 「ピータ-・パン」や「宝島」はご多分に洩れず子どもの頃読んだが、話の内容はほとんど忘れてしまった。映画の「フック」も見ていない。「ネバーランド」を観て少し気になったのでジェームズ・バリと「ピーター・パン」の事を調べてみた。今手元に『小さな白い鳥』という分厚い本がある。2003年3月に「パロル舎」から出た本である。出てすぐ買って、今日まで埃をかぶっていた(英文学関係の翻訳は見つけたらすべて買ってしまうのは悲しい性か)。著者はもちろんジェームズ・バリ。原書が出版されたのは1902年。この本はバリの最後の小説であり、これ以後バリは劇作家として活躍する。もう一つ重要な点は、この本で初めてピーター・パンが登場していることである。鈴木重敏氏の「訳者まえがき」によれば、ピーター・パンが登場するバリの作品は全部で3つある。最初がこの『小さな白い鳥』で、ピーター・パンは26章からなるこの本の13章で突然登場し、18章を最後に二度と現れない。ここでのピーター・パンは自分では空も飛べず、まだ赤子である。われわれがなじんでいるピーター・パンとは名前だけが同じといった方がよさそうだ。

  2作目がいわゆる「ピーター・パン」として知られている『ピーターとウェンディ』(1911)である。普通の小説形式で書かれている。これは映画「ネバーランド」で描かれた1904年初演の劇「ピーター・パン」を小説にしたものである。当事海賊版が横行したため、それらを駆逐するために作者自らが小説化したものである。

  3作目が戯曲『ピーター・パン』(1928)。1927年上演の舞台の台本を戯曲としてまとめたもので、6000語に及ぶ長い序文が付いている。  とまあ、映画の理解に参考になりそうなのはこの程度で、作者バリの説明やピーター・パンのモデルになった少年との運命的出会いなどは書かれていない。

  ただ、ちょっと面白かったのは、全編を通しての語り手であるキャプテンWの愛犬がポーソスという名前であること(映画ではバリの愛犬の名前になっている)と、バリが自分のチームを持つほどのクリケット好きであるという指摘だ(映画にもクリケットの場面が出てくる)。techo_w1『小さな白い鳥』の25章はほぼ半分がクリケットの試合で、翻訳では大幅にカットしたと「訳者あとがき」に書かれている。日本人には理解できないからという理由である。確かにそれはそうかもしれない。イギリス人の知り合いに一度クリケットとはどういうゲームか説明してもらったが、いくら聞いても理解できなかった。野球でいえばピッチャーみたいな役割の人とバッターみたいな人が実は同じチームであるとか、1回の試合が終わるのに数日から1週間もかかる(僕の理解に間違いがなければだが)といわれた日にゃ全く理解不能である。バッターの横に立っている三本の棒は何なのか聞いて見たが、これまたさっぱり分からなかった。これもきちんと理解している日本人を探すのは一苦労だろう。

  まえがきが長くなりすぎた。ここらで本題に入ろう。僕もラストで泣かされた一人だが、冷静になって考えてみるとそれほど優れた映画なのか疑問に思う。終わりよければすべて良しで、何となく全体としてよかったという気分についなってしまう。もちろんつまらない作品でも下手な作品でもない。どちらかと言えば、いい映画だったと言える。しかし多くの人が絶賛するほど優れているとは思わない。 確かに泣かせるのはうまいが、特に深みがあるわけではない。家で寝込んでいるシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に「ピーター・パン」の劇を見せる場面や、シルヴィアの葬儀の後のラストあたりは泣き所としてうまく作ってあるが、それ以外の場面は平板で、そこまで持ってゆくための前段階の様な気がする。

  妻メアリー(ラダ・ミッチェル)との関係は挿話以上ではないし(ただし一方的にどちらかが悪いと言う描き方はしていない)、シルヴィアとの関係をめぐって世間でささやかれていた噂もチラッと出てくるだけで、なんらストーリーに暗い影を落としてはいない。「信じることの大切さ」を説き聞かせるあたりもありきたりで、ときどき現実と想像が入り混じる演出もわざとらしくうまく出来ているとはいえない。父親の死後子供らしさを失っていたシルヴィアの三男のピーター(フレディ・ハイモア)のかたくなさの描き方もどこか違和感を覚えた。 シルヴィアと子供たちの生活苦も意図的に深く立ち入らないように描いているが、それでもこの映画の中では比較的よく出来ている部分だ。夫が死んだだけで収入がゼロになると言うことは、夫は長男ではなく土地持ちではないことが暗示されている。夫の母親のデュ・モーリエ夫人(なつかしや!ジュリー・クリスティ)は大金持ちで慈善家として知られているのだから。1904年の時点であの年ということは、彼女はまさにヴィクトリア時代の最盛期を生きてきた世代である(ヴィクトリア女王は1901年没)。大英帝国華やかなりし時代の体験者だ。何とか自分の価値観で子供たちを育てようとするが、シルヴィアはかたくなに拒否する。

 デュ・モーリエ夫人からの多少の援助はあったにしても、収入がないのだからそれまでのたくわえでかろうじて暮らしているということになる。余裕がないから、使用人を使わず自分で家事と子育てを一手に引き受けている。その無理がたたって体を壊してしまうのである。恐らく生まれは中流の中か上あたりだろうが、当時は女性の働き口などほとんどなく、ガヴァネス(家庭教師)の口はあったとしても子供を4人もかかえていては雇ってくれるところはない。だいたい、働くなどという上流夫人にあるまじき行為はデュ・モーリエ夫人が許さなかっただろう。後ろ盾のデュ・モーリエ夫人がいなければ、あるいはいい相手を見つけて再婚をしなければ、娼婦に身を落としてゆくしかないのが当時の実情だ。だからデュ・モーリエ夫人はしきりにシルヴィアに再婚を勧めるのであり、再婚の邪魔になる既婚のバリを遠ざけようとするのである。

fairy  シルヴィアはイギリス小説が描いてきたヒロインの系譜の一つに入る。デュ・モーリエ夫人もバリの様な親切な人物もいなければ、彼女の子供たちは彼女の死後孤児院に入れられる運命である。当時は女権拡張運動が盛んな時期だったが、社会的弱者を社会が支えるという考えはまだ世間に十分広まっていない時代である。デュ・モーリエ夫人のような慈善活動が支えだったのである。バリの考えもその範囲を超えてはいない。それでもただ上流階級の義務として、それも慈善家としての自分の名声を得るために活動をしているデュ・モーリエ夫人よりはましかもしれない。「ピーターパン」の舞台の初日に孤児院の子供たちを招待したのもその彼の発想から来ている。個人的な同情から発する行為であるとはいえ、夢のない立場にある子供たちに夢を与えようという行動は素直に胸を打つ。その子供たちの率直な反応が大人たちをも巻き込んでいったのである。

  このように見てくれば、「ネバーランド」は劇作家バリとピーター少年の心の交流を描いたことよりも、悲劇の要素を含んだシルヴィア一家(それだけで彼女をヒロインにした小説が成り立つ)を重要な要素として作中に取り込んだことに意義がある事が分かる。だからこそシルヴィアは単なるピーター・パン誕生のきっかけとなったピーター少年の母親という以上の位置づけをされているのだ。ある意味でシルヴィアはこの作品中でピーター以上に重要な存在なのである。ケイト・ウィンスレットの演技が観客の心を引くのは、彼女の存在こそがこの映画の根底を支えているからなのだ。

   そして彼女との関係でデュ・モーリエ夫人の存在も重要になってくる。存在感といえばこの映画で一番の存在感を発揮しているのは間違いなくジュリー・クリスティである。全盛時代のイメージからは後年こんなきついばあさん役をやるなんて想像も出来なかった。正直、エンディング・ロールでキャストを確認するまでは彼女だとは分からなかった。彼女が演じた役柄は典型的なイギリスの上流夫人像で、マギー・スミスあたりが得意とする役柄だ。きつい、怖い、きびしい、という3Kが演じられなければ務まらない。それを彼女は見事に演じてのけた。こんなすごい女優だったとは、正直驚きだ。彼女に比べると、ダスティン・ホフマンは彼らしさを発揮しているとはいえない。

  シルヴィア一家の生活をもっと描きこんでいたら、この映画は別の映画になっていただろう。上で言ったように、平板になることを覚悟でこれらを大胆にそぎ落とし、ピーターとバリの心の交流に焦点を当てて観客の涙を誘う演出にしたから成功したとも言える。泣きの演出も決していわゆるお涙頂戴的演出ではない。よく出来ていて、実に自然な演出だった。その点は率直に評価したい。傑作ではないが、確かに一般受けする映画ではある。

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HP掲載記事に関連して、劇と童話の『ピーター・パン』と『小さな白い鳥』に関するブログ記事をいくつか紹介します。 [続きを読む]

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