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2005年10月

2005年10月31日 (月)

キャロルの初恋

monsyo_vi2002年 スペイン
原題:EL VIAJE DE CAROL
原作:アンヘル・ガルシア・ロルダン「夜の初めに」
脚本:イマノル・ウリベ、アンヘル・ガルシア・ロルダン
監督:イマノル・ウリベ
音楽:ビンゲン・メンディサバル
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
出演:クララ・ラゴ、ファン・ホセ・バジェスタ、アルバロ・デ・ルナ
    マリア・バランコ、ロサ・マリア・サルダ、カルメロ・ゴメス
    ルシナ・ヒル、ダニエル・レトゥエルト

 スペイン映画の勢いは止まらない。それほど期待して観たわけではない「キャロルの初恋」も素晴らしい傑作だった。優れたスペイン映画の多くがそうだが、この映画もスペイン戦争(内戦)によって「引き裂かれた世代」をテーマにしている。しかもこの作品はスペイン戦争時代そのものを舞台にしている。「黄昏の恋」「エル・スール」に代表されるように、独裁者フランコ死後に作られたスペイン映画の多くはその同時代を描き、そこに内戦時代の影が常に付きまとっていることを描いてきた。内戦時代の傷は何十年たっても決して癒されていなかった。内戦時代そのものを背景にした「キャロルの初恋」では、絶えず付きまとっているのは「内戦の傷(影)」ではなく、迫りつつあるファシズムに対する現実的な不安と恐怖である。古い因習に支配されてはいるが美しい風景に囲まれたスペイン北部の小さな村にも、ひたひたとファシズムの足音は迫っていた。その不安の時代がアメリカからスペインにやってきた一人の少女の目を通して鮮烈に描かれている。

  「禁じられた遊び」を例に挙げるまでもなく、大人ではなく子どもを主人公に据えることは格段に作品の求心力を高めるが、一方で作品を甘くしてしまうという捉え方がある。確かに子どもの方が同情を引くという面はあるだろう。しかし作品に描かれたテーマとそれを描く一貫した姿勢に揺るぎがなければ、主人公が子供か大人かは大した問題ではない。内戦時代のスペイン人は、大人であれ子供であれ、共和派(人民戦線派)であれフランコ派であれ、否応なく時代の混乱と危機に翻弄されていた。そう考えるべきである。問題は主人公の子どもたちが単に観客の同情と涙を誘うためだけに起用されているかどうかである。

  「キャロルの初恋」の主人公キャロル(クララ・ラゴ)はアメリカ育ちで、母親(マリア・バランコ)に連れられて初めてスペインにやってきた。母親はスペイン人で、父親はアメリカ人である。父親は人民戦線の義勇兵として国際旅団に参加しているパイロットである。キャロルはボーイッシュな髪型で、はっきりと自分の考えを主張する気の強い女の子だ。キャロルを演じたクララ・ラゴの太い眉と黒い大きな瞳が意志の強さをよくあらわしている。彼女をからかった腕白少年トミーチェ(フアン・ホセ・バジェスタ)と本気で取っ組み合いをし、結局組み伏せられてしまうが、意気揚々と去って行く彼を呼び止めざまいきなり股間を蹴り上げる。そんな勝気な女の子だ。

 スペインに来て間もなく母親が死んでしまう。死期が近いことを悟った母は死に場所として故郷を選んだのである(彼女は親の決めた婚約相手ではなくアメリカ人と駆け落ちして、以来故郷の地を踏んでいなかったのだ)。預けられた叔母の家はフランコ支持派だった。納得のいかない価値観を押し付けてくる叔母たちにキャロルははっきりとした言葉で反抗する。あるいは、父親が共和派側の義勇兵である事を揶揄した落書きが祖父(アルバロ・デ・ルナ)の家に書かれるが(叔母の家を飛び出し祖父と一緒に暮らしていた)、「こんな情勢だ、何もしないほうがいいんだ。見て見ぬふりさ」という祖父に対しても、「毎日見ないふりをするの?そんなの卑怯よ」とはっきり意見を言う。後に祖父は考えを改め落書きをペンキで消す。臆せずはっきりとものを言う彼女には共感を覚えざるを得ない。アメリカ育ちということもあろうが、彼女の性格は母親譲りでもある。母親のアウローラは大胆にもアメリカ人と駆け落ちし、故郷に戻ってくる汽車の中でも人々の視線を気にせずタバコを平然とふかしている。

 そんなキャロルが恋をした。相手は例の股間をけられた男の子トミーチェ。男勝りのボーnatubiイッシュで活発な女の子は、トミーチェとの淡い恋を通して大人の世界の入り口にさしかかる。トミーチェからきれいだねと言われたときのキャロルのうれしそうな顔、はにかむでもなくむっとするでもなく、素直に喜ぶ笑顔が輝くほどかわいい。

  母アウローラのかつての恩師で、今は親友であるマルッハ(ロサ・マリア・サルダ)がキャロルに温室を見せてくれたことがある。そこには蚕が飼われていた。マルッハはキャロルに「あなたもマユみたいなものかもしれない。もうすぐ羽根が開くわ」と言った。この言葉は暗示的だ。キャロルがスペインにいたのは1年だが、その間に年月では計りきれないほどの経験をした。タイトルは「キャロルの初恋」だが、キャロルの目に映ったのはトミーチェの姿ばかりではない。もともと保守派が支配していた村だが、人民戦線政府側の戦況が劣勢になってゆくに連れて、ファシストたちがさらに力を振るい始め、人民戦線支持者に対して弾圧が強められてゆく様も彼女は観てきた。自由主義者の祖父も肩身の狭い思いをしている。まだ子どもであるキャロルはともかく、大人にとって信念を貫き通すのは勇気がいるだけではなく命がけの行為なのだ。

  キャロルは祖父からいろいろなことを学ぶが、彼女は祖父以上にトミーチェから多くのことを学んだ。夜黒塗りの車が走ってゆくのをキャロルたちは目撃する。そして明け方銃声を聞く。その意味を教えてくれたのはトミーチェである。また誰かが拉致され、殺されて闇に葬られたのである。トミーチェの父親もどこかに連れ去られ、帰ってこなかったのだ。トミーチェ自身も、恐らく父親が人民戦線支持者だったからだろう、警官をしている伯父からことあるごとにいじめられている。

 キャロルはこの1年で大きく成長した。口も聞けず読み書きもできないお手伝いの女性に字を教え、母親からの手紙が心の支えになっている父親に母の死を知らせまいと、マルッハに手紙の代筆を頼む。ただ気が強いばかりの子ではない。そんなキャロルに、父親が誕生日プレゼントを贈る。村の上を飛行機で飛んでパラシュートでプレゼントを落としてゆく。赤いパラシュートが空を舞うシーンは例えようもないほど美しい。ただ、その父親がマドリード陥落後脱出し、キャロルと祖父の元に逃げてくるあたりの展開はやや無理があると感じた。ラストの悲劇的場面に持ってゆくために無理やりはめこんだ布石だったと思える。

 詳しくはいえないが、ラスト近くである悲劇的な出来事が起こる。美しい自然に囲まれた静かな村で過ごした1年間を、大人になったキャロルはどのように振り返るのだろう。想い出には郷愁が交じり合い、痛みや苦しみは和らぎ、後から思うと笑い話になる。キャロルの想い出はどのようなものになるのだろうか。「キャロルの初恋」は多くのスペイン映画が内戦時代の傷として懐古的に描いたものを、息苦しいほどの不安と恐怖を絶えず孕んでいる「現在」として描いた。古傷ではなく、まだ生々しい傷なのだ。

 しかし、この映画は決して重苦しい映画ではない。戦闘が続くマドリードではなく田舎の小さな村を、大人ではなく子どもたちを主人公にしたからである。そして何といってもキャロルの明るい性格が大きな救いとなっている。キャロルはラストでアメリカに帰ることになるが、車の後部座席から自転車で追いかけてくる男の子たちを振り返る顔には微笑みが浮かんでいた。彼女の目には必死で自転車をこいでいる3人の男の子たちが見えている。先頭を走っているのはトミーチェだ。ほっとすると同時に、胸を締めつけられる場面である。

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2005年10月30日 (日)

理由

監督:大林宣彦 anmo
原作:宮部みゆき 『理由』(新潮文庫刊)
脚本:大林宣彦、石森史郎
撮影:加藤雄大
美術:竹内公一 
出演:村田雄浩、寺島咲、岸部一徳、大和田伸也、久本雅美
    宝生舞、松田美由紀、赤座美代子、風吹ジュン
    山田辰夫、渡辺裕之、柄本明、渡辺えり子、菅井きん
    小林聡美、古手川祐子、加瀬亮、厚木拓郎、左時枝
    細山田隆人、ベンガル、伊藤歩、立川談志、南田洋子
    石橋蓮司、小林稔侍、永六輔、勝野洋、片岡鶴太郎
    根岸季衣、峰岸徹、裕木奈江、中江有里、その他多数

 原作を先に読んでいたが、映画もなかなかよく出来ていると思った。多くの出演者がインタビューを受けるということは知っていたが、映画を観るまではそれがどういうことか分からなかった。東京のあるマンションで発生した殺人事件の関係者がテレビか何かの取材に答えて、自分の見たこと経験したことを次々に語って行くという珍しい作りになっている。もちろん原作とはまったく違う形式だ。しかし監督自身が出来るだけ原作に忠実に描きたかったと語っているように、語りの形式は違うが事実関係はあまり変えていない。

  多くの関係者が自分の見たことを語るという方法を取ったのは、黒澤明の「羅生門」のように証言が食い違い結局真相は「藪の中」という結論にもってゆきたかったからではない。問題の事件というのは、マンションの1室で3人が殺されており、1人が窓から転落するというセンセーショナルな事件だが、後に被害者たちはすべてその部屋の住人ではなかったというさらにセンセーショナルな事実が浮かび上がってくる。では殺された人たちは一体誰だったのか、誰が犯人で、動機は何だったのか。原作の展開は見事で、ぐいぐいと読者を引き込んでゆく。この複雑に入り組んだストーリーが展開する長大な原作をどう料理するのか。そのまま描いたのでは何時間あっても足りない。そこで考え出されたのがこの方法、関係者が次々にインタビューに答えることによって徐々に事件の真相が解明されてゆくという展開であろう。真相は藪の中という展開にならなかったのは、原作がそういう展開ではなかったからだ。原作の狙いは人間存在の不可解さを描くことではなく、このような事件を生んだ現代日本社会の闇の部分を浮かび上がらせることにある。唯一謎のまま残されるのは、犯行現場となった部屋の隣に住んでいた主婦(久本雅美)が確かに見たという人影が一体誰だったのかという点である。しかし証言というのは食い違うことはよくある事で、これはこれでリアルであるとも言える。

yk01   関係者や目撃者のインタビューでつなぐという大胆な構成は特に破綻もなく、謎の解明という結末へと向かって観客をどんどんひきつけて行く。しかし一つ物足りないものがある。それはなぜこのような悲惨な犯罪が起こったかという問題に対する追求だ。犯人の人物像が十分描きこまれていないため、なぜあのような残虐な犯行を行ったのかわからない。また、マンションの住人がそっくり入れ替わっていたことの背後には様々な日本の社会事情が介在しているわけだが、そのあたりも十分描かれているとはいえない。原作は単なる謎解きに終わらず、日本の社会のゆがみをもっと描きこんでいたと思う。長大な原作なので映画化する際にはどうしても切り落とさなければならない部分が出てくるが、人物像とその社会背景という肝心な部分をかなりそぎ落としてしまった。話が交錯する中で次第に真相が見えてくるという部分だけが残った。その限りでは面白く見られるのだが、深みに欠ける。犯人が最後に夜の街の中に飛び降りてゆくシーンをシンボリックに描き、その後で関係者の一人である少年の言葉、「自分も同じことをしたかもしれない」という問いを投げかける。少年の思いとしてはそれでもよいが、映画全体としては疑問を投げかける前に問題の核心をもっと掘り下げておくべきだった。飛び降りるシーンのCGも安っぽい。

 映画化不可能と言われた原作をよく換骨奪胎してまとめ上げた点は評価できるが、インタビューで構成したために人物像の掘り下げが浅くなってしまった。もっとも、宮部みゆきの原作自体もその点では物足りないものがある。読んでいる間はぐんぐん読者をひきつけ、途中で止められなくなるほどだが、読み終わった後しばらくたつとどんな話だったかほとんど忘れてしまう。松本清張の『ゼロの焦点』や水上勉の『飢餓海峡』は時間がたっても鮮明に記憶が残っている。まあ、これは比べる相手が大きすぎるが、それにしてもほとんど後に残らないということはまだまだ通俗ミステリーの域から抜け出ていないことを意味しているのではないか。着想のユニークさ、ストーリー運びのうまさは当代指折りだが、作家として大成してゆくのはまだまだこれからだと思う。

珈琲時光

2003年1144
監督、脚本:ホウ・シャオシェン
出演:一青窈、浅野忠信、余貴美子、小林稔侍、萩原聖人

 小津安二郎生誕100周年を記念して作られた映画である。しかし小津との関連はあまり意識しない方がいいかもしれない。あまり作風に共通性はない。そもそも小津のまねをしてみても仕方がないのだから。

 実に不思議な映画だ。これといってストーリーや筋らしきものはない。テーマすらない。かといってイメージ的映像を重ね合わせた作品(タルコフスキーの「ノスタルジア」のような)でもない。とにかく日常といえば日常のひとこまひとこまを特に筋立てもなく次々とつないでいるだけだ。ヒロインの陽子は妊娠しているが、それはテーマとして取り上げられることもなく、さらっと流れてゆく。陽子はフリーライターで江文也のことを調べているが、それも特にストーリーの軸になるわけではない。(江文也は上田市、特に上田高校にゆかりの人物で、実際上田でもロケが行われたが、完成した作品からは、夕張同様、ばっさり切り落とされている。残念。)何の主題も筋もない。ただ淡々と日常の生活が映し出されてゆくだけ。登場人物もヒロインの一青窈と彼女に恋心を抱いているらしい浅野忠信、陽子の父母である小林念侍と余貴美子の4人程度しかいない。萩原聖人はチラッと出てくるだけだ。

 陽子が実家に帰って父母とくつろぐ場面では小津を思わせるカットも出てくるが、もちろん多用はされない。ほんの味付け程度だ。要するに素人が撮った日常のスナップ写真をつないだだけの様な映画だ。不思議なのはそれでいて別に退屈ではないということだ。小津の映画には親子の絆などのテーマがはっきりある。数種類のテーマを手を変え品を変え撮っていたようなものだ。「珈琲時光」はただ単に陽子の行動を追うだけである。決して彼女の内面に入り込もうとはしない。両親が娘の妊娠を心配して東京の彼女のアパートに出てきたりはするが、結局親父は何も言わない。陽子も詳しいことは何も語らない。浅野忠信との関係も江文也の調査を手伝ってもらう以上には踏み出さない。

 そういう意味では実験的な作品である。小津の映画からテーマやストーリーを抜き取ったらどんな映画が出来るか。小津からテーマを抜けば当然家族という問題も背景に後退する。したがって焦点は一人の人物に当てられることになる。ストーリーもなくなるから、淡々と一人の女性の行動を飛びとびにつなぎ合わせるだけになる。まるで陽子という女性を点描画で描いた絵画のようだ。点描画の一つ一つの点はリアルに描かれている。会話などはいまどきの女の子の会話や話し方をリアルに再現している。カットバックやフラッシュバック、クローズアップなどはほとんど使わない。素人の撮ったビデオをつないだだけといった感じの作りだ。この日常的行動の点描画、あるいはコラージュがなぜ退屈にならないのか。これは追求してみる価値がある。

 小津の映画には主題があった。多くは家族関係、特に親子関係をめぐるものだ。ストーリーの展開は淡々としたもので劇的な展開はほとんどない。それでも見るものの感情を揺さぶるのは、家族や親子関係という、人種や国境を越えて人間に共通する普遍的テーマを扱っているからだろう。そこにはドラマがあった。しかし「珈琲時光」にはその主題がない。したがってドラマもない。ヒロインの一青窈に特別人をひきつけるような魅力があるわけでもない(歌手としての彼女は好きだが、この映画の彼女は特に魅力的なわけではない)。彼女が何を考えているのかよく分からないから、共感するわけでもない。カメラも観客もただ離shnotれて眺めるだけである。ないないづくしの映画である。しかし何も説明されないからこそ、描かれていない部分を観客の側が想像で補おうとする。生まれてくる子供をかかえて彼女はどう暮らしてゆくのか、浅野忠信との関係はどうなってゆくのか。江文也の本はいつか出版されるのか。何も分からない、何も描かれていないだけに観客は無意識のうちにこれらのことを自分の中で考えようする。この類の映画はよくあるが、その多くはもっと複雑で難解な作りになっていることが多い。しかしこの映画に複雑で難解なところはまったくない。終わり方も唐突というよりは、ごく自然に都会の日常の中に溶け込むようにして終わってゆく。何も分からず、先の暗示もなく終わるが、マノエル・ド・オリヴェイラの「家路」を見終わったときの様ないらいら感はない。

 空白だらけのつぎはぎ映像を飽きずに最後まで観続けるのは、そこに映し出されているものに何らかの意味を見出したいという無意識の欲求が観客の側にあるからだ。一体どうなるのか、どうなっているのか、それを知りたいから先を見る。しかし最後まで何も明らかにならなければ観客はがっかりする。はずだ。しかし観終わったときに裏切られたような不満がそれほどないのはどういうわけか。確かに観客自身がある程度想像で空白を埋めるだろう。だがそれだけではやはり不満が残るはずだ。自分の想像した通りなのか確かめたいという欲求が残るからだ。

 では、そもそもこの映画に意味を求めることにはそれほど意味がないということなのか。ただ単にある一人の女性の日常の一部を切り取って見せただけという映画が成り立ちうるのか。この映画の場合ある程度成り立っていると言わざるを得ない。では、素人が撮った日常のスナップ映像とこの映画はどこが違うのか。これを説明するのは難しい。オリヴェイラの「家路」にいらつくのは、思わせぶりに作っておきながら何だか分からないままで途中で投げ出したように終わってしまうからだが、この映画は初めから何も思わせぶりなところもないし、何か言いたげでもないから、消えるように終わっても腹は立たない。スーッと始まりスーと終わる、それを見ている観客は「ふうん、あの二人結局どうなるんだろうね」と言って帰ってゆく、そういう映画だ。妊娠、子供の父親は台湾人、結婚はしない、子供は自分で育てる、最低限の情報だけで観客を最後まで引っ張ってゆく手腕はやはりプロの技である。単に場面をつないだだけのように見えるが、全体の構想と編集がしっかりしているのだろう(完成したシナリオはなく、その場その場で臨機応変に撮っていったようだが)。これ以上のことは分からない。今の時点で言えるのはそれくらいだ。

2005年10月29日 (土)

2005年発売のDVD/ビデオ マイ総合ランク

  今年ももう残すところ後約2ヶ月。そろそろ見落としていたものを整理してみてはどうでjewelgrape1しょうか。今年発売になったDVD/ビデオの中からゴブリンおすすめの映画をまとめてみました。言うまでもないことですが、すべてゴブリン独自の基準です。すべての人の好みや基準に合うものではありませんが、レンタルの際に少しでも参考になれば幸いです。
  Aランクはすべての人に勧めたい映画。必見の傑作です。Bランクは若干の不満はあるもののいずれも優れた映画です。ここまではゴブリンおすすめです。Cランクは一応水準を越えていると思えるもの。お好みに応じてどうぞ。
  これらのランクとは別にMグループを挙げておきます。まだ未見ながらぜひ観たいと思っているもの、気にはなるが見落としているものを挙げてあります。
 なお、今年発売になったものでも、旧作ははずしてあります。
 この後に観た映画も順次付け足して行きます。

Aランク
 アマンドラ!希望の歌
 海を飛ぶ夢
 運命を分けたザイル
 隠し剣 鬼の爪
 キャロルの初恋

 子猫をお願い
 靴に恋して
 五線譜のラブレター
 サイドウェイ
 酔画仙
 大統領の理髪師
 タッチ・オブ・スパイス
 父と暮らせば
 ディープ・ブルー
 ピエロの赤い鼻
 ベルヴィル・ランデブー
 ミリオンダラー・ベイビー
 モーターサイクル・ダイアリーズ
 ロング・エンゲージメント

Bランク
 アビエイター
 犬猫
 宇宙戦争
 エイプリルの七面鳥
 エターナル・サンシャイン
 オアシス
 カーサ・エスペランサ
 家族のかたち
 きみに読む物語
 クライシス・オブ・アメリカ
 皇帝ペンギン
 コーラス
 上海家族
 少女ヘジャル
 深呼吸の必要
 真珠の耳飾の少女
 スイミング・プール
 スウィング・ガールズ
 セルラー
 ダブリン上等!
 誰も知らない
 茶の味
 ドット・ジ・アイ
 ネバーランド
 パッチギ!
 春夏秋冬そして春
  ビフォア・サンセット
 ビヨンドtheシー
 復讐者に憐れみを
 舞台よりすてきな生活
 フライ、ダディ、フライ
 ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうな私の12か月
 ぼくセザール10歳半1m39cm
 ボーン・スプレマシー
 マゴニア
 Mr.インクレディブル
 村の写真集
 約三十の嘘
 リアリズムの宿
 理由
 ロード88
 わが家の犬は世界一
 笑の大学

Cランク
 赤目四十八瀧心中未遂
 イブラヒムおじさんとコーランの花たち
 ウィスキー
 彼女を信じないでください
 キング・アーサーjewelgrape6
 雲 息子への手紙
 ゴッド・ディーバ
 CODE46
 珈琲時光
 ザ・インタープリター
 サマリア
 シルヴィア
 スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐
 血と骨
 ツイステッド
 復活
 僕の彼女を紹介します
 ボン・ヴォヤージュ
 マシニスト
 ライフ・アクアティック
 LOVERS

M(未見)グループ
 リチャード・ニクソン暗殺を企てた男
 ビハインド・ザ・サン
 四月の雪
 コーチ・カーター
 エレニの旅
 マルチュク青春通り
 トントンギコギコ図工の時間
 さよなら、さよならハリウッド
 バッド・エデュケーション
 微笑に出逢う街角
 タカハシヒロシのすべて
 故郷の香り
 ピアノを弾く大統領
 コーヒー&シガレッツ
 スーパーサイズ・ミー
 アンナとロッテ
 みんな誰かの愛しい人
 ターミナル
 ペッピーノの百歩
 父帰る
 オールド・ボーイ
 天国の青い蝶
 やさしい嘘
 レイ
 フォッグ・オブ・ウォー
 アメリカン・スプレンダー
 インファナル・アフェア 無間序曲
 巴里の恋愛コンチェルト
 ぼくの瞳の光

2005年10月28日 (金)

ズール戦争

deep-blue01-51963年 アメリカ・イギリス
原題:Zulu
原作:ジョン・プレブル
製作:スタンリー・ベイカー、サイ・エンドフィールド
脚本:ジョン・プレビル、 サイ・エンドフィールド
監督:サイ・エンドフィールド
音楽:ジョン・バリー
撮影:スティーブン・デード
出演:スタンリー・ベイカー、マイケル・ケイン
ジャック・ホーキンス、ウーラ・ヤコブソン ナイジェル・ グリーン

   水曜日は風邪でダウンしてしまった。木曜日に何とか復帰。病み上がりには重たい映画は禁物、ということで自前のライブラリーから選んで夜観たのがこの「ズール戦争」。「BFI選定イギリス映画ベスト100」で31位に選ばれた名作。主演はなつかしやスタンリー・ベイカー。この渋いイギリスの名優を見るのは「エヴァの匂い」(1962年)以来だ。

 1879年、4000人のズール王国軍を相手に、砦に立てこもったウェールズ部隊将校8人と兵97人が最後まで砦を守りぬいた史実を描いている。恐らく英国人にはよく知られた史実であろう。かつての大英帝国の栄光が消え去って久しい。英国人にとっては愛国心をくすぐる主題である。ベスト100に選ばれるのは当然かもしれない。もっとも、映画のできもすこぶるいい。

  冒頭、ズール軍の襲撃によって英国軍が壊滅したとの報が届く。1700名の英国軍のうち戦死者は1200人にものぼった。惨敗である。画面には累々と横たわる英国兵の死体が映し出される。

  続く場面でズール族の儀式が映し出される。戦いの踊りだと思っていたが、解説を読むとどうやら集団結婚の踊りらしい。数百人もいるかと思われるズール族の中になぜか白人の男と若い女性が混じっている。すぐにその男が宣教師ウィット(ジャック・ホーキンス)であり、女性はその娘マルガレタ(ウーラ・ヤコブソン)だということが分かる。儀式の途中ズール族が英国軍を襲撃した知らせが入り大混乱になる。牧師は次に彼の教会が襲われると聞き(そこにはイギリス軍が駐留していた)あわててその場を抜け出す。

  彼の教会ではブロムヘッド中尉(マイケル・ケイン)率いるウェールズの部隊が駐留していた。そこにたまたまチャード工兵中尉(スタンリー・ベイカー)率いる工兵隊が橋を築くために合流していた。やがてそこにもズール軍によって1200名もの英国軍将兵が殺されたという知らせが届く。しかし司令部からはそこを死守せよとの命令が下された。ズール軍4000名が駐屯地に向かっていることも分かり、英国軍は教会の周りにバリケードを築く。

  このあたりの描写はゆったりとしたもので、一切戦闘場面は描かれない。今のアメリカ映画になれた人には物足りないと感じるかもしれないが、むしろ戦闘が始まるまでをじっくりと描きこんだことがこの映画を成功させているといえる。ブロムヘッド中尉とチャード中尉のどちらが指揮権を取るかの駆け引き(結局チャード中尉が指揮官になる)、将校と兵士の間に立って命令を的確に伝え、兵士の動向をしっかりと掴んでいる有能な軍曹ボーン(ナイジェル・グリーン)、傷病兵もいるのだから(教会は病院も兼ねていた)戦闘はやめて撤退しろと迫るウィット牧師とその言葉に動揺する兵士たち、食事係の男や仮病使いの兵士フックなど、個々のキャラクターがじっくりと描き出されている。ゲームのようにただめまぐるしくアクションが展開するだけのアメリカ映画にはない味わいがある。

  敵の戦術を予想して的確にバリケードを築かせ教会を砦に変えてゆくチャード中尉の有能さが発揮される。くたくたになりながら砦構築に汗を流す兵士の疲労と不安も的確に描かれている。面白いのは、たまたま合流していた一人のボーア人が参謀の様な役割を果たしていることである。彼はズール人の戦術に通じていたからである。彼の的確な指摘にチャード中尉とブロムヘッド中尉はどれだけ助けられたことか。後に、1899年から1902年にかけてイギリス人とボーア人(オランダ系南アフリカ移民)との間でボーア戦争が起こることを考えるとなんとも皮肉だ。

ten3  ズール軍の登場場面も見事である。最初は不気味な足音だけが聞こえてくる。姿が見えないだけに一層不気味だ。やがて丘の上にズール軍が姿を現す。ものすごい数だ。見渡す限り丘の上にはズール軍がいる。西部劇にも似た場面がよく出てくるが、こちらのほうがはるかにすごい。

   特筆すべきは、決してズール軍は野蛮人として描かれていないということだ。その戦術は見事で、単に数を頼んでむやみに攻撃を繰り返すというのではない。基本は槍と盾だが、先の戦闘で英軍から奪った銃も持っており、丘の上から砦めがけて撃ってくる。銃撃の後は「猛牛の角」と呼ばれる戦闘陣形を取り、おとりなどを使いながら巧みに攻めてくる。1回目の戦闘がまた見事だった。戦闘の踊りの後、ズール軍の一隊が攻めてくる。槍と粗末な盾しか持っていない。英軍の一斉射撃にもよけようとはしない。しかもすぐ引き上げてしまう。例のボーア人の指摘でやっと分かるのだが、ズール軍はいわばおとりの一隊を繰り出して、英軍の銃の数を調べていたのである。

  やがて本格的な戦闘が始まる。ここからは息もつがせぬ展開である。最近のアメリカのアクション映画を見慣れた目から観ても圧倒的な迫力である。このあたりからは数的に圧倒的に不利な状況にある英国軍の臨機応変の戦いぶりに焦点が当てられる。外囲いが破られれば内囲いに撤退し、中に引き入れた敵にえりすぐった精鋭が応戦する。「七人の侍」で使われた戦法だ。日本の戦国時代の戦闘場面でよく見かけるような、2列になった鉄砲隊が交互に発砲する戦術。最後の戦闘では3列になり絶え間なく銃火を浴びせる。

  いちいち優れた場面を挙げてゆけば切がない。二つだけ挙げておこう。ズール軍はバリケードを突き破り砦の中にまで攻め込み、教会に火をつける。中には傷病兵がいたが、壁に穴を開け必死で脱出する。それまでいい加減な態度をとっていた仮病兵士フックがここで大活躍する。後に勲章をもらったほどだ。もっとも、付録映像によると、映画を見て彼の子孫から抗議されたらしいが(うちのご先祖様はあんないい加減な男ではなかったと)。もう一つはとりでを取り囲み脅すような戦闘の歌を歌うズール軍に対抗して英軍も歌を歌って士気を奮い起こす場面だ。それまで青ざめていた兵士たちも声を合わせて歌いだす。恐らく英国人ならここで涙を流したことだろう。

  数度にわたる攻撃に英軍は耐え抜いた。巧みな戦術と近代兵器があったからこそできたことだ。憔悴しきったブロムヘッド中尉にチャード中尉が初めての実践だったのかと声をかける。しかし実はチャード中尉も初めてだったのである。それを悟って「じゃあ君も」と驚くブロムヘッドに、チャードがあっさりと「俺は橋をかけに来たんだ」答えるところがいい。敵が引き上げた後、英軍は点呼を取る。何人かが返事をしない。その途中でズール軍の大群がまた丘の上に姿を現す。英軍は気が抜けて戦う気力も残っていない。しかしズール軍は戦闘を仕掛けてこなかった。彼らは敗北を認め、勇敢に戦った英軍を称えに来たのだ。このラストは何となく予想できてしまったが、いい場面だ。

  この映画の中でズール軍に対する差別的な発言は一切なかった。帝国主義と人種差別意識が表裏一体だった時代のこと、実際には散々毒づいていたに違いない。ズール人に対する敬意を持った描き方は明らかに映画が製作された時点での製作者たちの意識が反映されている。実際、付録映像に納められたインタビューには、アメリカの西部劇がインディアンを描くような描き方はしないとはっきり意識して描いていたという発言があった。監督のサイ・エンドフィールドは南アフリカ生まれ。アメリカに渡り「群狼の街」で高い評価を得た。しかしハリウッドの赤狩りにあい、イギリスに渡った人である。「SF巨大生物の島」で知られる人だが、このような経歴の持ち主とは知らなかった。「ズール戦争」の監督としては最適だったかもしれない。

  しかし、以上のことを認めた上でなおかつ指摘しておかなければならないことがある。「ズール戦争」はとにかくズール軍が攻めてくるところから始まる。なぜ彼らが英国軍を襲撃するのかについては全く説明がない。言うまでもなく、ズール人の戦いは反植民地闘争である。その大状況を一切画面の外に追いやり、単にズール軍と英国軍の局地戦のみを描くことは、結果的に英国軍の勇敢な戦いぶりのみを賞賛することになる。確かに、ロケを行った当時の南アフリカは悪名高いアパルトヘイト政策を進めており、様々な制限が加えられていただろう。そのことはインタビューの中でも触れられている。あるいは英国人の反応も考慮に入れたのかもしれない。いずれにしても、帝国主義への言及を極力避けたことは、この闘いが持つ歴史的意味を狭めてしまっている。ズール軍がなぜ、何のために戦っているのかをきちんと描かなければ、どんなに彼らを公平に描いたとしても、彼らはただ突然襲撃してきた暴徒に過ぎないことになる。理由もなくいきなり殴りつけてきた暴漢と同じだ。優れた演出とズール人に対する公平な扱いについては称賛を惜しまないが、この点に関してはやはり疑問が残る。

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2005年10月25日 (火)

タッチ・オブ・スパイス

2003年 ギリシャ・トルコSD-ca-carousel01
脚本:タソス・ブルメティス
監督:タソス・ブルメティス
撮影:タキス・ゼルビラコス
出演:ジョージ・コラフェイス、タソス・バンディス
    マルコス・オッセ、バサク・コクルカヤ
   イエロクリス・ミハイリディス、レニア・ルイジドゥ

  禁を破って1週間レンタルになってからではなく新作で借りた今年3本目の映画。他の2本は「大統領の理髪師」と「海を飛ぶ夢」。今のところこの3本は今年公開作品のベスト3である。期待を裏切らない、いや期待以上の傑作だった。

 ギリシャ映画というと今の30代以下の人たちにとってはテオ・アンゲロプロスの映画くらいしか思い浮かばないかもしれない。しかし70年代までは、ギリシャ映画といえばまず「日曜はダメよ」(1960年、ジュールス・ダッシン監督)と「その男ゾルバ」((1964年、マイケル・カコヤニス監督)が真っ先に思い浮かんだものだ。主演のメリナ・メルクーリとイレーネ・パパスの2大女優は日本でもよく知られていた。カコヤニスはイレーネ・パパス主演で「エレクトラ」(1961年)と「イフゲニア」(1978年)も撮っている。アメリカで撮った「トロイアの女」(1971年)にもイレーネ・パパスが出ている。これは初めて岩波ホールで観た映画で、個人的にも思い出深い(観たのは77年2月9日)。67年の「魚が出てきた日」も昔よくテレビでやっていた。

   一方ダッシンは48年の「裸の町」、62年の「死んでもいい」、64年の「トプカピ」などが有名だ。この3本も昔よくテレビで放映されていた。55年の「男の争い」はフィルムノワールの傑作として知られる。彼は別にギリシャ系ではなく、ロシア系アメリカ人だが、66年にメリナ・メルクーリと結婚した関係でギリシャゆかりの映画を何本か撮っているのである。メリナ・メルクーリと組んだ79年の「女の叫び」も岩波ホールで公開された。二人の作品のうち、ギリシャ悲劇を題材にしたものは岩波ホール向きだと言える。政治サスペンスの名作「Z」(69年)で知られるコスタ・ガブラスも忘れてはならない。72年の「戒厳令」と82年の「ミッシング」も優れた作品で、社会派の巨匠として知られた。しかし90年の「ミュージック・ボックス」は今ひとつで、97年の「マッド・シティ」はもう観る気もしなかった。

 アンゲロプロスは「旅芸人の記録」(1975年)で衝撃的な日本デビューを果たした。日本公開は79年で、これも岩波ホールで上映された。79年の岩波ホールは「家族の肖像」「木靴の樹」「旅芸人の記録」と立て続けに名作を日本に紹介した。当時の岩波ホールが果たした役割はどんなに称賛してもしすぎることはない。ただ、客筋はいかにも「わたし芸術が好きザマス」という感じの金持ちおばさんが圧倒的に多くて、あまり雰囲気は好きではなかったが。もう十数年行っていないが、今でも開演前に階段にずらっと並んで待っていたのを思い出す。

  またまた前置きが長くなってしまった。「タッチ・オブ・スパイス」は久々に観るアンゲロプロス以外のギリシャ映画である。アンゲロプロスのような高踏的な衒いはなく、その分観やすく分かりやすい。ギリシャで記録的な大ヒットを飛ばしたのもうなずける。前半はどこか「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」を思わせる雰囲気で展開する。雑貨屋ではなくスパイス屋で、トルコ人ではなくトルコに住むギリシャ人の話ではあるが。しかし商品が所狭しと並ぶ店内、あるいは老人と少年の交流を描いた点では共通するものがある。ひとつ大きな違いは、「タッチ・オブ・スパイス」には淡い恋が描かれていることである。ファニス少年と幼馴染のサイメ。料理が得意なファニスは肉団子に入れる効果的なスパイスを教える代わりに、ダンスが得意なサイメに踊りを踊らせる。キスをねだるのかと思ったが、このあたりはいかにも子供らしくてかわいい。幸せな時代だったが、やがてトルコとギリシャの間でキプロス島の領有をめぐる紛争が勃発して、ファニスは両親と共にギリシャに強制退去させられる。キプロス島はギリシャとトルコの間に刺さったとげの様なものだ。何度も紛争の火種になっている。

angels4   中盤はギリシャでの生活が中心に描かれる。ファニスが料理の腕を発揮する様子が中心に描かれる。終盤はまたイスタンブールが舞台だ。ファニスはトルコに残ったおじいさんを見舞いに35年ぶりにイスタンブールへ行く。しかしおじいさんはすぐ亡くなってしまう。だがそこでファニスはサイメに再会する。この部分はスペインの名作「黄昏の恋」を思わせる切なくも美しい展開になる。共に戦争によって引き裂かれた男女が描かれる。「黄昏の恋」ではスペイン戦争によって、「タッチ・オブ・スパイス」ではキプロス島の領有をめぐるギリシャとトルコの紛争によって。ここにも戦争によって「引き裂かれた世代」があったのだ。

  この映画には素晴らしい場面がたくさんある。まず、ファニスたちがギリシャに強制退去させられる時の別れの場面がいい。駅でおじいさんはファニスに言う。「2ヵ月後には私も行く。サイメを連れてな。一緒に暮らそう。星を見て待て。もし私が遅くなっても、同じ星を見るのを思い出せ。空には見える星もあれば、見えない星もある。いつも人は目に見えないことにこそ興味を持つ。塩やコショウが見えないとまずいか?違うだろ、それでも決めては塩加減だ。」タイトルの「タッチ・オブ・スパイス」の意味はここにある。人生には目に見えない隠し味が必要なのだと。また星は色々とシンボリックに使われている。タイトルバックには宇宙が映される。また、長じてファニスは宇宙物理学者になっている。おじいさんに会えない間ずっと星を眺めていたのだろう。

  サイメは別れに「私を忘れないように」とスパイスをつめた大きな箱(ままごと用か?)を渡す。「また会えたら料理して、私は踊るから。」しかし二人はその後35年間会えなかったのである。

  中盤のギリシャ編はユーモラスな味付けになっている。ファニスは料理が得意で、学校でも男の子とは遊ばずに、女の子とばかり遊んでいる。親が心配して台所から締め出したり、ボーイスカウトに入れたりするが、隙を見てはあちこちで料理の腕を振るっていた。ふんだんにギリシャ料理が出てくる。おいしい料理は人間関係を滑らかにし、また明るくする。

    学校の教師がファニスがトルコなまりのギリシャ語を話して困ると父親に告げる場面も傑作だ。ギリシャの英雄の名にトルコ風の語尾変化をつけて話しているというのだ。しかし、ただユーモラスなだけではない。トルコからギリシャに逃れてきた一家は「トルコではギリシャ人、ギリシャではトルコ人扱い」される。色々といじめに合ったようだ。

   一方トルコへの郷愁も語られる。ファニスの父親が、おじいさんがギリシャに来ると何度も言いながら結局来ないのはもっともだと語る場面である。「あの街は世界一美しい。」だから離れられないのだと言うのである。退去勧告をしたトルコ人の係官がイスラムに改宗すれば残れると彼に耳打ちしたそうだ。「即答できなかった。5秒間心が揺れた。あれは人生最悪の5秒だった。」涙ながらに父親が語るこの場面も名場面のひとつだ。

  終盤の再会の場面。ここは二つのシーンだけ取り上げよう。サイメはファニスになぜ戻ってこなかったのと問いかける。ファニスの答えはこうだ。「怖かったんだ、再び離れる瞬間が。」恐らくこれは本心だろう。35年。長い月日だ。それでも再会した二人はお互いの愛がうせていないことを確認する。遠く離れながら同じ星を眺めていたのはおじいさんとファニスだけではなく、サイメも同じだったのだろう。

  サイメと別れたファニスは、昔住んでいた懐かしい店の二階に上がる。すっかり古びていたるところに蜘蛛の巣が張っている。ふとファニスは床に落ちているスパイスを見つける。昔おじいさんがしたように、机の上に何種類ものスパイスを並べる。そして一気に息を吹きかけると、スパイスの粉が埃のように舞い上がる。冒頭の宇宙空間の映像がそれにかぶさる。宇宙空間に浮かんでいた雲の様な星雲はこの埃だったのである。そしてもう一つ、宇宙空間にあるはずのないものが冒頭の映像には映っている。しだいに手前に近づいてきてやっとそれが何か分かる。それが何かは言わない。ただ、映画の途中で空中に飛ばされたものだとだけ言っておこう。

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2005年10月24日 (月)

ロスト・ハイウェイ

clip-lo51997年 アメリカ
原題:LOST HIGHWAY
【スタッフ】
製作: 脚本:デヴィッド・リンチ、バリー・ギフォード
監督:デヴィッド・リンチ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
撮影:ピーター・デミング
【出演】
ビル・プルマン、パトリシア・アークエット、バルサザール・ゲティ
ロバート・ブレイク、ロバート・ロジア、ゲイリー・ビューシイ
リチャード・プライアー、ジャック・ナンス

  サックス奏者のフレッド(ビル・プルマン)は、ある朝「ディック・ロラントは死んだ」と誰かがインターフォンで謎のメッセージを告げるのを聞いた。ディック・ロラントという名前には全く心当たりがない。やがて、彼の元に差出人の名のない封筒が届く。中にはビデオ・テープが入っており、彼らの家の外観が録画されていた。数日後またビデオ・テープが届く。何と今度は寝室で眠る彼と妻のレネエ(パトリシア・アークエット)の姿がビデオに映っていた。明らかに誰かが彼らの寝室に忍び込んでいたのだ。わけの分からない恐怖が二人を襲う。

   この謎めいた出だしが素晴らしい。ここまでは素晴らしくよく出来たサスペンス・ミステリーの様な出だしである。実際全編に謎めいた雰囲気が漂っており、そこが魅力である。しかし、レネエの友人アンディのパーティで、フレッドが不気味な白塗りのミステリー・マン (ロバート・ブレイク)と出会うあたりから、サスペンス・ミステリーにサイコ・ホラーの様な要素が入りこんでくる。ミステリー・マンの登場と共に映画は不条理の世界に突入してゆくのだ。フレッドが全く別の男ピート(バルサザール・ゲティ)に代わってしまうというありえない展開になってゆく。どこまでが妄想世界でどこまでが現実世界なのか。

    デヴィッド・リンチの魅力は、彼の作品世界に漂う不気味で、ミステリアスで、狂気に満ちた雰囲気である。その雰囲気に飲み込まれてぐいぐいと作品世界に引き込まれてゆく。しかしこの謎めいた雰囲気を最後まで維持できない。どれもが竜頭蛇尾に終わってしまう。その典型が「ツイン・ピークス」だ。あれだけ期待させておきながらこの結末はないだろう。ほとんどの人がそう感じたはずだ。ミステリアスだと思っていたら単なる荒唐無稽だった。謎の多くは解決しない。超常現象でお茶を濁してしまう。「シックス・センス」「4人の食卓」などよりははるかにましだが、本当に傑作だと思ったリンチ作品は一本もない。「ブルー・ベルベット」も「マルホランド・ドライブ」も最初は良いが、最後にがっかりさせられた。唯一傑作だと思ったのは、不思議なくらいまともな「ストレイト・ストーリー」である。あの変態男でもこんな愚直なほどまともな映画が撮れるのかと、誰もが唖然としたものだ。

   それはともかく、リンチのアプローチの仕方には理解できるところもないではない。通常night2のサスペンス・ミステリーは、謎めいた雰囲気で始まりながら、結局最後にはすべて説明され、解決されてしまう。説明のつく謎は謎ではない、リンチにはそういう思いがあるのだろう。謎が謎のまま最後まで残るのは彼なりの主張なのだ。しかし、だからといって、非現実的な要素を持ち込んで解けない謎を作るのという手法にはこれまた疑問を感じる。

  一連のリンチ作品の中で「ロスト・ハイウェイ」はましな方だと思う。ミステリー・マンが登場するあたりで早くも「リアリティ」を曖昧にさせてしまうので、ここで展開されているのは現実と妄想と幻想が入り混じった独特の不条理世界であることを観客に早い段階から意識させているからであろう。そのため大きな破綻もなく最後まで描ききることが出来た。途中で人物が入れ替ってしまうのだから謎もなにもない。そういうものだと受け入れて、ただ謎めいた雰囲気を楽しめばいいのである。その限りではよく出来ている。最初と最後に出てくる夜のハイウェイを突っ走る車のイメージのように、随所に意味ありげな場面がちりばめられているのも効果的だ。「意味ありげ」で良いのだ、説明不能なのだから。シュールな映像と展開、エロスと暴力、恐怖と不安、時間と人物の交錯、謎に満ちた不思議な人物、これらが不条理に混じりあい、絡み合い、その結果摩訶不思議な血のように赤いカクテルが出来上がる。思いっきりかき混ぜればかき混ぜるほど味が出る。ピリッと辛くて味は悪くないが、お代わりはほしくない。

アメリカン・ラプソディ

barakamo2001年 アメリカ・ハンガリー
監督、脚本:エヴァ・ガルドス
出演:ナスターシャ・キンスキー、スカーレット・ヨハンソン
    ラファエラ・バンサギ、トニー・ゴールドウィン
    エミー・ロッサム

  日本未公開だが素晴らしい傑作である。監督のエヴァ・ガルドス自身の経験を映画化したものだ。彼女の一家は冷戦時代に共産化したハンガリーを脱出してアメリカに移民してきた。映画はその脱出行から始まる。白黒画面である。若い夫婦は上の娘を連れてハンガリーを逃れようとしている。まだ赤ん坊の下の娘は泣き出す心配があるので後から別の人によって逃れてくることになっている。しかし、後に残った祖母は、赤ん坊に麻酔を飲ませて眠らせた上で芋袋に入れて運ぶという運び屋の女の言葉を聞いて、直前に思いとどまる。直後に祖母は逮捕される。赤ん坊は危うく知り合いの農夫に預けられることになる。

  6年後赤十字を通じて夫婦は娘をハンガリーから引き取ることに成功した。娘はハンガリーの農家で優しい養父母に育てられ、幸せに育っていた。ある日おばあちゃんが現れ(ようやく収容所から解放された)、ブタペストを見に行こうと誘われる。何も知らずに孫娘のジョジーは車に乗せられるが、着いたのは空港だった。そこからたった一人で飛行機に乗せられる。アメリカに着くと実の父母と姉が待っていた。戸惑いながらも泣かずにジョジーはついてゆく。ついた日の夜、娘を寝かしつけた母(ナスターシャ・キンスキー)が「お休み」というと、娘は「お休みおばさん」と答える。悲しげな母の顔。切ない場面だ。ジョジーはその後しばらく戸惑いながら暮らしていた。ある日ホームシックになり家を飛び出したジョジーが公園でブランコに乗っていると探していた父親が近づいてきた。ハンガリーに帰りたいという彼女の気持ちを聞き、父は大人になったらハンガリーに行ってもよい、しかし今はここが家だと諭す。ジョジーは納得して、父親と握手をして約束する。

  それから10年後、16歳になったスーザン(ジョジーのアメリカ名)は女友達や恋人と遊び歩く年頃になっている。しかし厳格な母親はそれを許さない。ついには窓に格子を取り付けドアに鍵をつけて閉じ込めてしまう。自由を束縛されたスーザン(スカーレット・ヨハkey_mw4ンソン)は銃でドアを撃ち、ドアを叩き壊す。母親と丁度出張から帰ってきた父は呆然とする。何度も母親と対立を繰り返すスーザンはついにハンガリーに帰ると言い出す。母親は問題外だとはねつける。家を飛び出したスーザンがあのブランコに座っているところにまた父親が現れる。子どものころハンガリーに行っても言いと約束したはずだと主張するスーザンに、父親は言ってもよいと許可する。母親を何とか説き伏せてスーザンはハンガリーに向かう。

  このハンガリー旅行がこの作品のハイライトであり、最も感動的な部分である。今はブダペストに住んでいる養父母との再会。そして養母が止める(「またお前をさらわれる!」)のをさえぎって祖母に会いに行く。スーザンが祖母に言った「来なければよかった。私はみんなを不幸にしている」という言葉が悲しい。この言葉にこの映画の主題が潜んでいる。二つの祖国と二組の父母の間にはさまれた一人の娘の苦悩。他の移民ものと違うこの映画の特性はこの点にある。赤ん坊の時に実の両親と姉を奪われ、6歳のときには養父母と祖国を奪われる。他の映画にない深みはここから来ている。

  スーザンは祖母から母親の悲しい過去を聞かされる。彼女が娘だったときに経験した悲しい出来事を。その出来事を目撃した時母はアメリカに行くことを決心したという。娘たちを安全に育てられるように。母親がなぜあれほど頑強にハンガリー行きに反対したのかスーザンは始めて理解した。ハンガリー行きはスーザンのアイデンティティを求めての旅だったが、それはまた母親の悲しい過去を知る旅でもあった。養父母と祖母との再会を通してスーザンは変わる。悲しそうな養父母に「わたしの家はここではない」と言ってスーザンはアメリカに帰る。空港では母親が待っていた。娘と母親は和解する。娘は母親への無理解を反省し、母親は過去を振り返ることを恐れていたことを反省して。

  この映画は「エル・ノルテ 約束の地」、「ジョイ・ラック・クラブ」、「わが心のボルチモア」、「イン・アメリカ 三つの小さな願い事」などと並ぶ、アメリカの移民を描いた傑作の一つだと言える。どうしてこの作品が未公開なのか心から疑問に思う。

2005年10月23日 (日)

舞台よりすてきな生活

2000年 アメリカ・ドイツglass-small03
原題:How to kill your neighbor's dog
製作総指揮:ロバート・レッドフォード
脚本:マイケル・カレスニコ
監督:マイケル・カレスニコ
出演:ケネス・ブラナー、ロビン・ライト・ペン
    スージー・ホフリヒター、ジャレッド・ハリス
    リン・レッドグレーヴ、ピーター・リーガート

  レビューを書いていて採り上げてよかったと思う映画というものがある。すなわち、あまり世間では評判にならなかったが、作品として優れている映画である。まあ、僕が採り上げている映画の大半はそういう映画ではあるが、中には自分でも意外な拾い物だと感じるものが何本かある。この映画もそういう映画だった。

  レビュー数は少ないが、取り上げている人の評価はおおむね高い。ジャンルでいえばハート・ウォーミング・コメディに入るだろう。この種の映画は幸せな気分になれて、後味もいいからまずひどい評価にはならない。無難なジャンルなのである。したがって常に一定数作られている。

  その手の映画はおおむねファミリー物が多い。家族でそろって楽しめる映画、したがって幾分子供向きの傾向がある。「舞台よりすてきな生活」にも女の子が登場し、作中で重要な役割を果たしている。しかし焦点は大人たちに当てられている。一般のファミリー映画と違うのはその点である。少し角度を変えてみてみると、この映画は「ネバーランド」と逆のケースを描いている。「ネバーランド」は劇作家バリがピーター少年の閉ざされた心を開こうと苦心する映画だが、「舞台よりすてきな生活」は子供嫌いで子供をうまく描けない劇作家(彼の名もピーターだ)が女の子との出会いを通じて子供と心を通わせて行く映画である。

  この映画を魅力的にしている最大の要素は、言うまでもなく、主人公の劇作家ピーター・マクガウェンを演じたケネス・ブラナーである。監督として、俳優として数々の名作にかかわってきた。今や英国映画界の重鎮である。本作はアメリカ映画だが、イギリス人気質丸出しの毒舌家を演じて、本領発揮である。

  ピーターは今スランプに陥っている。台本には直接子供が出てこないが、間接的に言及されている。しかしその言葉使いが不自然だと俳優たちに指摘されされる。果ては、劇場の床を掃除している掃除係の男にまで「子供は舞台に登場しないが、重要な第3の登場人物だ。存在感を与えなきゃ」と指摘される始末。ピーターは「台本を書くのは俺だ」と怒って席を立つが、掃除係に「おれの意見なんか無用ってわけか。清掃係だもんな。そっちは掃除の出来を批判するくせに」と言われてしまう。

  たまたま掃除をしていた素人にまで台本の欠点を指摘される。ピーターは実は極端な子供嫌いだった。妻のメラニー(ロビン・ライト・ペン、好演)からは子供がほしいと求められるが、なんだかんだと言って逃げてしまう。公私共に子供に悩まされている。その上、夜は隣の犬の鳴き声がうるさくて不眠症気味。原題の「隣の犬の殺し方」はここから来ている。その上、近所に彼の名を騙る別人が出没しているらしく、一度など眠れなくて夜の散歩に出たとき偽者のピーターと間違えられて警察に捕らえられてしまう。妻の証言であっさり解放されるが、そんなこんなでさっぱり筆が進まない。絶不調のどん底。名優ケネス・ブラナーがこの不幸なピーターを何ともユーモラスに演じている。頑固でしょっちゅう怒鳴り散らす男だが、どこかかわいげがあって憎めない。ちょっと「サイドウェイ」のポール・ジアマッティの役柄を思い出させる。

  たまに気分が乗った夜は奥さんとことに及ぼうとするも、なぜかうまくいかない。思い余っtree_ww1て医者に行くと、前立腺がはれ上がり精子が塞がれてたまっていると言われる。その上あろうことかイボ痔にもなっている。四つんばいになって尻に指を突っ込まれて「ウギャー」と叫んでいる姿はおよそ情けない図だ。思わず叫んだ「まるで指人形にされた気分だ」と言うせりふには大笑いしてしまった。

  そんなスランプ時に、たまたま隣に娘を連れた女性が引っ越してくる。娘のエイミー(スージー・ホフリヒター)は時々ピーターの家にある小屋で一人で遊んでいるが、ピーターは隠れて彼女を観察しようとする。しかしエイミーに見つかり、仕方がないので一緒に遊ぶことになる。二人でままごとをするシーンは傑作である。子役のスージー・ホフリヒターがなかなかかわいい上に達者な演技でうならされる。ままごとの場面はアドリブでやったとインタビューで答えていた。うまくままごとについてゆけないピーターをエイミーがたしなめるところが愉快だ。難しい言葉をエイミーが理解できなかったりする一方で、子供たちの間で使われる言葉をピーターが理解できなかったりする。かと思うとエイミーが意外な言葉を知っていたりもする。子供の話し方に対するピーターの理解はエイミーとの出会いを通じて格段に豊かになってゆく。台本もどんどんよくなってゆく。

  このあたりからエイミーの存在が大きくなって主題の一部になってくる。エイミーは片足が不自由である。彼女の母親はいじめを警戒して彼女をあまり外に出さない。ピーターの妻エミリーはダンスの教師で、エイミーにも踊りを教え始める。エイミーはインディアンの踊りを母親とピーター夫婦の前で披露するが、母親は娘を見世物にする気かと腹を立て途中で止めさせてしまう。怒ったピーターと激しい口論になる。

  エイミーとの出会いをきっかけにピーターはスランプを脱し、台本もうまく仕上がった。最後の稽古の後、例の掃除係も交えてみんなで一斉にペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」を歌う場面がすばらしい。だが、恐らく先の口論がきっかけになったのだろう、エイミーたちは町を出て行くことになる(母親はまたもとの夫とよりをもどした)。詳しくは書かないが、別れの場面は感動的だ。エイミーはどうなってしまうのか。

  すべてをうまく収めてしまわなかった演出が出色である。単なるファミリー映画では終わっていない。ある夜、眠れなくて夜の街を散歩していた時にピーターは偽のピーターと出会う。何度か出会ううちにいつしかさまざまなことを話し合う仲になっている。この夜のシーンがなかなかいい。さほど深い内容の会話ではないが、ピーターにエイミーからとは別の影響を与えている。今ひとつ主題にうまく絡められていない気もするが、作品に奥行きを与えているのは確かである。妻メラニーとのやり取りも秀逸だ。子供のように感情をむき出しにするピーターと優しい笑顔と眼差しでうまく彼の手綱を取るメラニー(ロビン・ライト・ペンは実に魅力的だ)。喧嘩しているときでもほのぼの感が漂っている。ファミリー・ドラマを撮らせたらアメリカ映画はうまい。名作の宝庫である。この映画はその長い系譜に連なる新たなる1本である。

2005年10月22日 (土)

寄せ集め映画短評集 その10

在庫一掃セール第10弾。今回は日・韓・中アジア映画6連発。

スウィングガールズ(2004年、矢口史靖監督)
cut-cup01   いやあ、これは楽しめました。まだ頭の中で「ムーンライト・セレナーデ」のメロディが鳴っている。ストーリーは3、4行でまとめられる程度の単純明瞭な話。あとは小ネタやギャグでつなぐ。そんな作りの映画である。だからもっと練習風景を描いてほしかったとか、家族が娘の上達振りに驚きながら熱心に応援するようなシーンも見たかった、というようなプチ不満も出てくるわけだ。実際僕も友子(上野樹里)たち数人がスーパーか何かの前で演奏しているのを見て仲間たちがあわてて楽器を買いに走り、ぴかぴかの楽器を手に演奏に加わるシーンを見て、それまで練習に参加していなかったのに何で同じようにうまく演奏できるんだよと突っ込みを入れたくなった。あるいは、友子が演奏風景を撮ったテープを出し遅れたために音楽祭に出場できなくなるが、雪で出演予定の高校がキャンセルになり友子のビッグバンドが出場できるようになる、しかし友子たちの乗った電車も止まってしまいぎりぎり音楽祭に間に合うという展開も、さながらハリウッド映画の様な「劇的な」効果を狙った、つまり受け狙いの演出だと言わざるを得ない。確かに「つっこみどころ満載」の映画なのだ。
  しかし、スウィングする楽しさという理屈を超えた要素がこの映画の一番の魅力なのである。ラストの演奏は素人の演奏にしては十分楽しめる。演奏の水準はともかく、うねるスウィング感、弾むリズムと体、女の子が身をくねらせ演奏する視覚的効果、なかなかのものである。ジャズはおじさんがしんねりむっつり楽しむものという一般的イメージを思い切り突き崩してゆく快感、女子高生がジャズをやるという意外性、おじさんの音楽と若い世代のギャップを突き崩す爽快感。難しいことを言わずに楽しめばいいじゃん、そんな単純明快さがストレートに伝わってくる。
  もちろん、演奏そのものばかりではなくドラマの部分、例えば友子たちがスウィング・ジャズの魅力に徐々にはまってゆくところも見所なのだが、先に書いたようにあまりにあっさり変わってしまうので、その点では少々不満が残る。友子たちが苦しんだりめげたりしつつ徐々に上達してゆく様子をあえて描こうとしなかったのは、それを描くと映画の性格が変わってしまうと思ったからだろう。俺が描きたいのは「巨人の星」のような「スポこん映画」ではない。若いギャルがとにかく元気にはじけてる、はじけすぎてすっ転んだり、火にかけた餃子にアルコールをぶっ掛けてスプリンクラーを作動させてしまったりするドタバタのコメディなんだということだろう。そのためには少々話がちぐはぐになってもいい、そんなことなど気にならないような面白い映画にすればいいというわけだ。
  確かに少々気になることはあっても十分楽しめる映画になっている。舞台を山形に設定して、出演者に山形弁を話させたことも成功している。スウィング・ジャズだけではなく山形弁も大いに受けた。特にいまどきの女の子が方言で話すというギャップが逆に魅力だった。
 出演した女の子たちも魅力的だ。矢口監督のこだわりぶりが結構功を奏している。ドラム担当の直美(豊島由佳梨)のおかっぱ頭は何と岸田劉生の「麗子像」 をイメージしたものだそうな。笑っちゃいました。トランペットをソロで吹いた良江(貫地谷しほり)の表情が素晴らしかった。上野樹里に次いで美人だが、この演奏場面が一番輝いていた。そして何といっても上野樹里がかわいい。「ジョゼと虎と魚たち」ではどこに出ていたのというくらい印象がなかったが、この映画では魅力爆発。演奏中のスタイルもなかなかはまってる。
   僕はモダン・ジャズ以後が好きなのだが、この映画を観てスウィング・ジャズも悪くないなと思った。考えてみれば、ジャズは難しい、小難しいことを言うおじさんたちの音楽だという印象はモダン・ジャズ以降の印象だ。ディキシーランドやスウィング時代のジャズはもっと大衆的だった。確か日本最初のトーキー映画「マダムと女房」(1931年)だったと思うが、ジャズを演奏するおじさんが出てきた。そんな前から日本でジャズが流行っていたのかと驚いた覚えがある。ジャズはダンスと結びついていた。聴いて踊れる音楽だったのだ。

刑務所の中(2002年、崔洋一監督)
  淡々としているが結構面白い。花輪和一の原作に出てくる主人公はとっちゃん坊やのようなダサいおっさんだが、山崎努が演じると格好よくなってしまうのはまあ仕方がない。同房の4人もなかなか面白い面子をそろえたが、やはり原作の漫画のほうが個性的な気がする。先に原作を読んでいると物足りなさを感じてしまうのは避けがたい。
  原作では雑居房や独居房の内部、あるいは食事のメニューが偏執狂並の正確さで事細かに再現されている。これが魅力だった。何しろめったに入れるところではないから。画家は細かいところをよく観察していて後になっても正確に再現できるというが、漫画家も同じなのだと感心した覚えがある。こっちもじっくりと見てしまう。しかし映画だとあっさりそのままに映し出されてしまうのでどこか物足りない。雑居房や作業場の様子など実に原作そっくりに再現されているだけに、もっとじっくり眺めたかった。もっとなめるようにゆっくり「塀の中」を映す場面があってもよかったのではないか。
   原作の方はいわば半分図鑑、半分観察記録の様な作りなので、どちらかというと記録映画向き。しかし、映画は本来動きを表現するものなので、劇映画にするには確かに苦労するだろう。どうしても行進している場面、作業をしている場面、風呂に入る場面、野球をしている場面など、動きのある場面を長く撮ってしまう。主人公の感じたことなどをナレーションで入れているが、原作ではもっと「へー」と思うことがたくさん入っていたはずだと思ってしまう。原作を読んでいるとまさに「へー」の連続である。「70ヘー」「80へー」当たり前。さすが「塀の中」の世界だ。映画だとそれが「30ヘー」くらいに減ってしまう。へーと思う回数も減る。それでも大きな不満も感じることなく、退屈もせずに観られたから映画として悪い出来ではないと思う。

ジョゼと虎と魚たち(2003年、犬童一心監督)
cut   難病ものや障害者ものは基本的に好きではないが、これはいい映画だ。何より泣かせようとしていないところがいい。聾唖の障害者はよく映画になるが、下半身麻痺の障害者が主人公になる映画は珍しい。障害を持ったジョゼを演じた池脇千鶴が出色の出来。障害ゆえのゆっくりとした話し方、疑わしそうに他人を見る目つき、心からうれしそうに笑う笑顔、どれもが自然だ。妻夫木聡もさわやかな青年を印象的に演じている。しかしこれは池脇千鶴の映画だ。 出会いは衝撃的だが、別れはあっさりしている。わずか数ヶ月しか関係は続かなかった。映画としては異例だが、実際の問題として考えてみれば無理からぬ結論である。理想論ではいかない現実を痛みをこめて描いている。そこに共感できる。「あれは壊れ物だから」というジョゼの祖母の言葉を取ってみてもその厳しさは理解できる。
   映画は2人の一番楽しかった時期だけを描いている。甘いと言えば甘いが、2人の関係がどんどん壊れてゆく過程を見させられるのはつらい。妥当な描き方だろう。
   タイトルの意味は、閉じ込められて生活していたジョゼが、恒夫(妻夫木)に連れられて初めて動物園で虎を見たこと、恒夫が実家に帰る時にジョゼも一緒に行き、途中「魚の館」というラブホテルに泊まったことからきている。ベッドの中でジョゼは恒夫に目をつぶらせる。その暗闇の中で自分は育ったと言う。最も感動的な場面である。
   ジョゼはサガンの小説に出てくる登場人物の名前だ。奇妙な題名も作品を観終わった時には深い陰影を帯びている。ただ、残念ながらもう一つ掘り下げ方が足りないという印象を受けた。

永遠の片想い(2002年、イ・ハン監督、韓国)
  「八月のクリスマス」、「イルマーレ」、「動物園の隣の美術館」「猟奇的な彼女」などと並ぶ韓国映画ラブ・ロマンスの傑作である。喫茶店でアルバイトをしているジファン(チャ・テヒョン)はそこで2人の女性と知り合う。最初は清楚なスイン(ソン・イェジン)に惹かれるのだが、あっさりはねつけられる。しかしやがてもう一人のギョンヒ(イ・ウンジュ)とともに3人は付き合い始める。2人ともそれぞれに魅力的だ。二人にそれぞれ引かれながらも、ギョンヒの方が好きだとやがてジファンは自覚する。だが実は2人とも病弱だった。2人とも子どものころに病院で知り合い、その後互いに支えあうようにして付き合ってきたのだ。あるとき雨に濡れたことが災いしてスインは病床に就いてしまう。結局そのまま直ることなく彼女は死んでしまう。
  映画は3人が付き合い始めた頃と、その数年後を交互に描いている。スインが死んだ後ジファンとギョンヒは分かれてしまったらしい。しかし差出人のない手紙がずっとジファンの元に届いていた。ジファンはギョンヒを探し始め、ついに彼女と会う。手紙を出していたのはギョンヒだった。しかしギョンヒの方も既に長くない命を覚悟していた。
  難病ものの一種だが、女性二人そろって病弱という点が新鮮である。このようなタイプの三角関係というのは確かに今までなかった。テーマの新鮮さもあるが、やはりこの映画の魅力は2人の女性にある。二人の美女をそろえたのだから強力だ。しかも2人の女性の死で悲恋に終わる。韓国映画のラブ・ストーリー作りのうまさに改めて感心させられる。

ほえる犬は噛まない(2000年、ポン・ジュノ監督、韓国)
  どこか漫画チックで、シュールなブラック・コメディー。しかし最近の日本映画によくあるようなひねこびた映画ではない。むしろ健全な批判精神が背後に感 じられる。大学の非常勤講師と思われるユンジュ(イ・ソンジェ)は妻が妊娠していて、教授の座を狙っている。韓国も相当な賄賂社会のようで、学長に賄賂を 贈るよう先輩から助言されている。しかしその金がなかなか工面できない。妻からは色々小言を言われて面白くない。何となくいらいらする毎日。そんな生活を しているときに同じマンションの住人が飼っている犬のほえ声が気に障ってしょうがない。ある日その犬を捕まえ屋上から投げ捨てようとするが、さすがにそれは出来ない。仕方がないので地下の廃品置場にある箪笥の中に閉じ込める。ところがその犬は手術して声が出ないようになっている犬だということが後で分かる。犬違いだった。あわてて地下室に行くが、そこでとんでもない光景を見る。ボイラー係が犬を捕まえて料理しようとしているところだった。犬はもう死んでいた。
  ユンジュはその後ほえる犬をつきとめ、今度は本当に屋上から投げ捨てて殺してしまう。犬がいなくなった持ち主たち(最初は女の子、次はばあさん)が、マンションの管理事務所に張り紙許可のはんこをもらいに来る。事務所に勤めるヒョンナム(ペ・ドゥナ)はある時犬誘拐犯を見つけマンション中を追いかけるが、途中で急に開いたドアにぶつかり犯人を逃してしまう。
  皮肉なことにユンジュの妻が犬を飼い始める。ある日散歩をしているときにその犬が行方不明になる。仕方なくユンジュも張り紙を出すために管理事務所にはんこをもらいに来る。ここでユンジュとヒョンナムが再会する。このヒョンナム役のペ・ドゥナが何ともチャーミングだ。美人ではないが、坂井真紀似で同じようなキャラクターだ。退屈な仕事に飽き飽きし、いつも女友達とぶらぶらしているが、犬と犯人探しに一生懸命になるところがいい。ユンジュの犬を危ういところで助けたのも彼女だ。
TEL_w2  妻の退職金で何とか裏金を作りユンジュは学長に取り入る。そこで酒をしこたま飲まされる。教授の席が一つ空いたのは同じことをやった先輩が酒を飲まされ、酔っ払って地下鉄に轢かれたからだ。ユンジュもふらふらになるが無事家の近くまで帰る。木の根元で寝入っているところをヒョンナムに助け起こされ、一 緒にマンションに帰る。仕事よりも犬と犯人探しに夢中になっていたヒョンナムは、仕事を首になったとユンジュに話す。自暴自棄になっていたユンジュはわざと彼女の前で走る姿を見せ、実は自分が犬誘拐の犯人だと告白する。夜の通りを2人で走るシーンが印象的だ。
  ラストシーンは授業をしているユンジュの姿で終わるが、結局教授になれたのかどうかは判然としない。憂鬱そうに考え込んでいるユンジュのアップで終わる。はちゃめちゃなようだが、どこか芯はしっかりしている。良質のコメディである。

至福のとき(2002年、チャン・イーモウ監督、中国)
   意外にもコメディだった。いわゆるハートウォーミング・コメディ。ヒロインのウー・イン(ドン・ジエ)が盲目の娘という設定なので難病ものの一種だが、ヒロインの苦悩を中心にすえるのではなく、彼女を取り巻く人々の冷淡さと暖かさに焦点を当てたことが成功につながった。
  主人公のチャオ(チャオ・ベンシャン)がいい。失業して金はないが、どうしても結婚したいと何度も見合いを重ねている。本当は痩せ型がすきだが、贅沢は言っていられないと今度は太った女性にアタックした。お互いに気が合い、順調に付き合いが続いている。結婚資金に必要な5万元を何とか捻出しようと、公園 に放置されたバスの内部を改装し、デート場所「至福のとき」を作り上げる。まあ即席のラブホテルだ。意外に客が付き多少の収入が入ってくる。チャオは見合い相手に自分を旅館の社長だとほらを吹く。しかし相手の太った女性には前夫の連れ子の盲目の娘ウー・インがいた。彼女はこの娘を何とか厄介払いしたくて仕方がない。この娘に何とか仕事を見つけてやってほしいと頼まれたチャオは、嘘をつき続けるしかなく、バス「旅館」の仕事をさせようとつれてゆくが、何と公園再開発で丁度バスがクレーンで取り払われるところだった!
  仕方がないので、ウー・インにマッサージが出来ることを利用し、工場跡を彼が経営する旅館のマッサージ室に仕立て上げて、そこで彼女をだまして働かせる。友人たちに頼んで客を装わせる。この当たりがよく出来ている。貧乏人同士が知恵を寄せ合って何とか彼女をだまし続けようとする。しかし客として払う金が底をついた。窮余の策で、どうせ目が見えないのだから分からないだろうと、ただの紙をお札の大きさに切っただけの紙片をウー・インに渡す。彼女はすぐに札が偽ものだと気づいた。最初から変だとは思っていたのだ。しかし彼女はだまされた振りを続ける。チャオ自身と彼の仲間たちが、最初は結婚するまでの方便としてウー・インをだましていたのだが、やがてそれが彼女に対する本当のやさしい気持ちに変わってゆくところが感動的である。
    一方チャオは花束を持って見合いの相手の家に行くがいつ行っても留守。電話も通じない。何度目かにアパートに行ったとき別の部屋に移っていることに気づく。部屋を覗くと、もっと大きな花束を持った見知らぬ男と彼女は抱き合っていた。チャオが非難すると、相手の女はチャオのことを調べて見て嘘に気づいたとやり返す。もう結婚してしまったから帰ってくれとチャオを追い返す。やけっぱちになって飲んだくれたチャオが家に帰ってみると、ウー・インの声を吹き込んだテープレコーダーが置手紙代わりにおいてあった。チャオは仲間たちとその声を聞く。最初から何か変だと思っていたこと、お金が途中から偽ものに変わったことに気づいていたこと、しかし彼らの親切がとてもありがたく、楽しい時間をすごせたこと、しかし自分はここを出て自分ひとりでやってゆくことを決心したこと、などが語られていた。
   ラストシーンは街中を一人で歩いているウー・インの姿を長く映し出している。その表情は明るい。はたして彼女一人でやって行けるのか、実の父親に会えるのか、見ているほうは不安を感じるが、彼女の明るい表情に安心させられる。
 型どおりのハートウォーミング・コメディだが、登場人物たちを見る優しい視線に共感せざるを得ない。どたばた調の「キープ・クール」も傑作だったが、観終わった後の後味のよさは当然こちらの方が上だ。舞台となった街は大連。

2005年10月21日 (金)

「ウォレスとグルミット 危機一髪!」とファンタジーの伝統

car1   シリーズ3作目にして最長!といっても31分だが。相変わらずどこかとぼけたユーモアと「サンダーバード」並みのメカキチぶりがほほえましい。今回はかなりスピードアップした演出が新味だ。不思議な魅力を持つキャラクターが今回も活躍する。何でも食べてしまう子ヒツジ(イギリスでよく見かけるブラック・フェイスという種類だ)、おかっぱ状モップ頭のマドンナ(およそマドンナ的ではないがウォレスは一目ぼれ)、鉄人28号ばりの強そうな犬。先ずこの独特の味を持つキャラクターがこのシリーズの魅力だ。ストーリーは、ウォレスが毛糸屋の女主人に一目ぼれし、グルミットはその女主人の飼い犬の策略でヒツジ連続誘拐事件の犯人にされ・・・。今回はドタバタ調の展開だ。

  それにしてもこのシリーズの魅力はなんだろう。キャラクターの魅力は確かに大きな要素を占める。CGではないクレイ・アニメーテョンという質感のある画面も魅力だ。動きはぎこちないが、それが却ってゆったりとしたリズムとどことなくユーモラスな雰囲気を生み出している。ミニチュアの建物やバイクなどがCGにはないリアルさを感じさせ、同時にどこか御伽噺の様な非現実的な雰囲気も漂わせる。メカへの細かいこだわりと遊び心は、どこか子どもの頃のおもちゃ遊びの楽しさに通じる。基本的にファンタジー・タッチであるが、そこは英国人のこと、独特のユーモアとひねりが練りこまれている。日本のアニメにないのはこの部分だ。あえて日本のアニメで一番近いものを探せば「おじゃる丸」だろうか。あの独特のゆったりとしたテンポと主人公のどこか飄々とした佇まいはかなり近い。と思うがどうだろうか。

 イギリスは世界に冠たるファンタジー大国である。『不思議の国のアリス』を始めとして、世に知られたファンタジーの大部分はイギリス製である。『ピータ・パン』『宝島』『ピーター・ラビット』『メアリー・ポピンズ』『指輪物語』『ハリー・ポッター・シリーズ』等々。有名な作家も多く、メアリー・ノートン、フィリッパ・ピアス、アーサー・ランサム、ルーシー・ボストン、C.S.ルイスと挙げればきりがない。『ハウルの動く城』の原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズもイギリスの作家だ。

 イギリスがファンタジー大国になるには様々な前提があったに違いない。ロビン・フッドやアーサー王伝説などの昔話、マザー・グースに代表されるナーサリー・ライム(童謡)、そして何といってもフェアリー・テイル(妖精物語)の伝統。イギリスにはケルトの伝統が息づいている。トールキンも言っているように、妖精の国は「すぐ身近にある世界」だった。ドワーフ、エルフ、トロル(ムーミンはカバではなくトロルである、もともと北欧系の妖精)、haguruma_w1巨人、ゴブリンそしてドラゴン。『指輪物語』、あるいはその映画化作品「ロード・オブ・ザ・リング」のおなじみのキャラクターの多くは、いずれも昔からなじみのある妖精たちである。スコットランド、ウェールズ、イングランドのコーンウォール地方と並ぶケルトの伝統が残る国アイルランド、そのアイルランドのナショナル・シンボルのうち二つが妖精(バンシー、レプラコーン)である。驚くべきことだ。日本で言えば、富士山や桜と並んで座敷童子や砂かけばばあが挙げられているようなものである。あるいは河童や天狗と言い換えてみれば多少はその感覚が理解できるかもしれない。イギリスの妖精は日本の妖怪に近い。水木しげるの世界だ。天使の様な存在とイコールだと思ってはいけない。『指輪物語』のエルフは人間より美しい存在だが、『ハリー・ポッター・シリーズ』に出てくるハウス・エルフのトビーは妖怪に近い。

 ニック・パークは妖精をより現代的なもの、つまり機械やロボットに置き換えたのかもしれない。あるいはまた別の伝統が彼の中にあるのかもしれない。風刺誌『パンチ』の伝統である。人物の戯画化はこの伝統につながっているような気がする。あるいは空想的な世界の創造は『ガリヴァー旅行記』以来の伝統ともつながっているだろう。世界で最初に小説を生み出したのもイギリスであるが、小説の源流とも言われる『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』は刊行後すぐに子供の本として書き直され、人気を博した。その意味でイギリスは最初の子供向け創作童話を生み出した国でもある。子供の本に書き換えられたとき『ガリヴァー旅行記』の風刺的な面が大幅に削られたが、風刺はイギリス文学の伝統のひとつである。『ガリヴァー旅行記』と言えば巨人の国と小人の国の話が有名だが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」のラピュタと検索エンジン「ヤフー」のヤフーは『ガリヴァー旅行記』に出てくるものである。『ガリヴァー旅行記』は4話からなり、ガリヴァーは巨人の国、小人の国、ラピュタ、ヤフーの国を訪れるのである。ヤフーはほとんど猿にまで退化した人間で馬に支配されている。まるで「猿の惑星」の世界だ。ラピュタは空飛ぶ島だが、実はこれはイギリスrabbitを暗に示している。アイルランドは長い間イギリスの植民地だった。ラピュタは空中から下界を支配し、ひとたび反乱があれば地上に落下して「暴徒たち」を押しつぶすのである。

 いや、勢いにまかせて少し書きすぎた。もちろんニック・パークにここまでの風刺精神はない。しかし、このCGの時代にあえて非効率的なクレイメーションを作り続けるのには、彼なりのこだわりと反骨精神があるのだろう。一方、とんでもない世界を想像・創造する能力という点では、風刺よりももっとつながるものがあるかもしれない。独特のキャラクターの創造や不可思議なストーリー展開という点では『不思議の国のアリス』やナンセンス文学の伝統との関係の方が深いかもしれない。もちろん彼の世界は独特の世界であって、「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」の世界ともまた違う。あまり伝統ばかり言い立てるより彼のユニークな才能を探ることも大事だろう。しかし、チェコのイジー・トルンカと比較してみると、ニック・パークには明らかにイギリスの香りがする。様々なイギリスの伝統があって彼の様な才能が生まれたのもまた事実だと思えてならない。

ネバーランド

le_pa2004年 イギリス・アメリカ
原題:Finding Neverland
原作:アラン・ニー
脚本:デイヴィッド・マギー
監督:マーク・フォースター
出演
 ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、ダスティン・ホフマン
 フレディ・ハイモア、ラダ・ミッチェル、ジュリー・クリスティー
 ニック・ラウド、 ケリー・マクドナルド、ジョー・プロスペロ
 ルーク・スピル、イアン・ハート

  このレビューを書く前に幾つかのブログやホームページを覗いてみた。驚くべきことにほとんどの人がピーター・パンと聞いて最初に思い浮かべているのは「ピーター・パン症候群」である。酒井法子みたいに「そういう時代でしょ」といってしまえばそれまでだが、ほとんどの人がピーター・パンの話そのものは知らず、原作者の意図とはかけ離れたところで勝手につけられた名称を通じて理解されているのは悲しいことだ。  もっともピーター・パン自体はまだいいほうだ。作者のジェームズ・バリにいたっては知っている人を探す方が難しいだろう。僕は大学の英文科を出たが、ジェームズ・バリは英文学ではほとんどまともに扱われていなかった。せいぜい「ピーター・パン」の作者として名前だけが知られている程度だった。

 「ピータ-・パン」や「宝島」はご多分に洩れず子どもの頃読んだが、話の内容はほとんど忘れてしまった。映画の「フック」も見ていない。「ネバーランド」を観て少し気になったのでジェームズ・バリと「ピーター・パン」の事を調べてみた。今手元に『小さな白い鳥』という分厚い本がある。2003年3月に「パロル舎」から出た本である。出てすぐ買って、今日まで埃をかぶっていた(英文学関係の翻訳は見つけたらすべて買ってしまうのは悲しい性か)。著者はもちろんジェームズ・バリ。原書が出版されたのは1902年。この本はバリの最後の小説であり、これ以後バリは劇作家として活躍する。もう一つ重要な点は、この本で初めてピーター・パンが登場していることである。鈴木重敏氏の「訳者まえがき」によれば、ピーター・パンが登場するバリの作品は全部で3つある。最初がこの『小さな白い鳥』で、ピーター・パンは26章からなるこの本の13章で突然登場し、18章を最後に二度と現れない。ここでのピーター・パンは自分では空も飛べず、まだ赤子である。われわれがなじんでいるピーター・パンとは名前だけが同じといった方がよさそうだ。

  2作目がいわゆる「ピーター・パン」として知られている『ピーターとウェンディ』(1911)である。普通の小説形式で書かれている。これは映画「ネバーランド」で描かれた1904年初演の劇「ピーター・パン」を小説にしたものである。当事海賊版が横行したため、それらを駆逐するために作者自らが小説化したものである。

  3作目が戯曲『ピーター・パン』(1928)。1927年上演の舞台の台本を戯曲としてまとめたもので、6000語に及ぶ長い序文が付いている。  とまあ、映画の理解に参考になりそうなのはこの程度で、作者バリの説明やピーター・パンのモデルになった少年との運命的出会いなどは書かれていない。

  ただ、ちょっと面白かったのは、全編を通しての語り手であるキャプテンWの愛犬がポーソスという名前であること(映画ではバリの愛犬の名前になっている)と、バリが自分のチームを持つほどのクリケット好きであるという指摘だ(映画にもクリケットの場面が出てくる)。techo_w1『小さな白い鳥』の25章はほぼ半分がクリケットの試合で、翻訳では大幅にカットしたと「訳者あとがき」に書かれている。日本人には理解できないからという理由である。確かにそれはそうかもしれない。イギリス人の知り合いに一度クリケットとはどういうゲームか説明してもらったが、いくら聞いても理解できなかった。野球でいえばピッチャーみたいな役割の人とバッターみたいな人が実は同じチームであるとか、1回の試合が終わるのに数日から1週間もかかる(僕の理解に間違いがなければだが)といわれた日にゃ全く理解不能である。バッターの横に立っている三本の棒は何なのか聞いて見たが、これまたさっぱり分からなかった。これもきちんと理解している日本人を探すのは一苦労だろう。

  まえがきが長くなりすぎた。ここらで本題に入ろう。僕もラストで泣かされた一人だが、冷静になって考えてみるとそれほど優れた映画なのか疑問に思う。終わりよければすべて良しで、何となく全体としてよかったという気分についなってしまう。もちろんつまらない作品でも下手な作品でもない。どちらかと言えば、いい映画だったと言える。しかし多くの人が絶賛するほど優れているとは思わない。 確かに泣かせるのはうまいが、特に深みがあるわけではない。家で寝込んでいるシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に「ピーター・パン」の劇を見せる場面や、シルヴィアの葬儀の後のラストあたりは泣き所としてうまく作ってあるが、それ以外の場面は平板で、そこまで持ってゆくための前段階の様な気がする。

  妻メアリー(ラダ・ミッチェル)との関係は挿話以上ではないし(ただし一方的にどちらかが悪いと言う描き方はしていない)、シルヴィアとの関係をめぐって世間でささやかれていた噂もチラッと出てくるだけで、なんらストーリーに暗い影を落としてはいない。「信じることの大切さ」を説き聞かせるあたりもありきたりで、ときどき現実と想像が入り混じる演出もわざとらしくうまく出来ているとはいえない。父親の死後子供らしさを失っていたシルヴィアの三男のピーター(フレディ・ハイモア)のかたくなさの描き方もどこか違和感を覚えた。 シルヴィアと子供たちの生活苦も意図的に深く立ち入らないように描いているが、それでもこの映画の中では比較的よく出来ている部分だ。夫が死んだだけで収入がゼロになると言うことは、夫は長男ではなく土地持ちではないことが暗示されている。夫の母親のデュ・モーリエ夫人(なつかしや!ジュリー・クリスティ)は大金持ちで慈善家として知られているのだから。1904年の時点であの年ということは、彼女はまさにヴィクトリア時代の最盛期を生きてきた世代である(ヴィクトリア女王は1901年没)。大英帝国華やかなりし時代の体験者だ。何とか自分の価値観で子供たちを育てようとするが、シルヴィアはかたくなに拒否する。

 デュ・モーリエ夫人からの多少の援助はあったにしても、収入がないのだからそれまでのたくわえでかろうじて暮らしているということになる。余裕がないから、使用人を使わず自分で家事と子育てを一手に引き受けている。その無理がたたって体を壊してしまうのである。恐らく生まれは中流の中か上あたりだろうが、当時は女性の働き口などほとんどなく、ガヴァネス(家庭教師)の口はあったとしても子供を4人もかかえていては雇ってくれるところはない。だいたい、働くなどという上流夫人にあるまじき行為はデュ・モーリエ夫人が許さなかっただろう。後ろ盾のデュ・モーリエ夫人がいなければ、あるいはいい相手を見つけて再婚をしなければ、娼婦に身を落としてゆくしかないのが当時の実情だ。だからデュ・モーリエ夫人はしきりにシルヴィアに再婚を勧めるのであり、再婚の邪魔になる既婚のバリを遠ざけようとするのである。

fairy  シルヴィアはイギリス小説が描いてきたヒロインの系譜の一つに入る。デュ・モーリエ夫人もバリの様な親切な人物もいなければ、彼女の子供たちは彼女の死後孤児院に入れられる運命である。当時は女権拡張運動が盛んな時期だったが、社会的弱者を社会が支えるという考えはまだ世間に十分広まっていない時代である。デュ・モーリエ夫人のような慈善活動が支えだったのである。バリの考えもその範囲を超えてはいない。それでもただ上流階級の義務として、それも慈善家としての自分の名声を得るために活動をしているデュ・モーリエ夫人よりはましかもしれない。「ピーターパン」の舞台の初日に孤児院の子供たちを招待したのもその彼の発想から来ている。個人的な同情から発する行為であるとはいえ、夢のない立場にある子供たちに夢を与えようという行動は素直に胸を打つ。その子供たちの率直な反応が大人たちをも巻き込んでいったのである。

  このように見てくれば、「ネバーランド」は劇作家バリとピーター少年の心の交流を描いたことよりも、悲劇の要素を含んだシルヴィア一家(それだけで彼女をヒロインにした小説が成り立つ)を重要な要素として作中に取り込んだことに意義がある事が分かる。だからこそシルヴィアは単なるピーター・パン誕生のきっかけとなったピーター少年の母親という以上の位置づけをされているのだ。ある意味でシルヴィアはこの作品中でピーター以上に重要な存在なのである。ケイト・ウィンスレットの演技が観客の心を引くのは、彼女の存在こそがこの映画の根底を支えているからなのだ。

   そして彼女との関係でデュ・モーリエ夫人の存在も重要になってくる。存在感といえばこの映画で一番の存在感を発揮しているのは間違いなくジュリー・クリスティである。全盛時代のイメージからは後年こんなきついばあさん役をやるなんて想像も出来なかった。正直、エンディング・ロールでキャストを確認するまでは彼女だとは分からなかった。彼女が演じた役柄は典型的なイギリスの上流夫人像で、マギー・スミスあたりが得意とする役柄だ。きつい、怖い、きびしい、という3Kが演じられなければ務まらない。それを彼女は見事に演じてのけた。こんなすごい女優だったとは、正直驚きだ。彼女に比べると、ダスティン・ホフマンは彼らしさを発揮しているとはいえない。

  シルヴィア一家の生活をもっと描きこんでいたら、この映画は別の映画になっていただろう。上で言ったように、平板になることを覚悟でこれらを大胆にそぎ落とし、ピーターとバリの心の交流に焦点を当てて観客の涙を誘う演出にしたから成功したとも言える。泣きの演出も決していわゆるお涙頂戴的演出ではない。よく出来ていて、実に自然な演出だった。その点は率直に評価したい。傑作ではないが、確かに一般受けする映画ではある。

2005年10月20日 (木)

女ひとり大地を行く

cut_b-gear101953年
監督:亀井文夫
出演:山田五十鈴、宇野重吉、織本順吉、内藤武敏
    中村栄二、岸旗江、北林谷栄

 亀井文夫監督による独立プロ映画の名作である。脚本に新藤兼人が加わっている。山田五十鈴主演。戦前から既に大スターだった彼女が独立プロの映画に出る、しかもまったくの汚れ役を演じる。当時相当な物議をかもしたようだ。正直言って山田五十鈴という女優はあまり好きではなかった。特に美人だとも思わないし、女優としてもさほど優れているとも思わなかった。しかしこの映画を観て初めて彼女を大女優だと感じた。当時30代の後半だったが、若くはつらつとした年齢から、初老の年齢まで見事に演じ分けた。老け役を演じている時の彼女はむしろ女優として輝いていた。女優によっては顔を汚すこと自体を嫌う人もいるのに、彼女は坑道の中に入って働く役までひるむことなく演じたのである。

 独立プロの作品だけに今見るとかなり紋切り型のせりふが目立つ。しかし当時の労働運動の言葉は実際そんなものだったかもしれない。時代が変わってしまったのだ。炭鉱町を描いた映画といえばイギリスのウェールズを舞台としたジョン・フォードの名作「わが谷は緑なりき」が思い出される。ウェールズを描いたこれまで最高の作品である。「わが谷は緑なりき」はウェールズにおける炭鉱産業の衰退とそこで働くある炭坑夫一家が崩壊してゆく様を叙情的に描いたものである。それに対して「女ひとり大地を行く」は一旦崩壊しかかった家族の再生を描いている。

 昭和七年冬、秋田県横手在の農夫山田喜作(宇野重吉)は生活苦のため妻サヨ(山田五十鈴)と二人の子を残して北海道の炭鉱に行った。しかしそのあまりに過酷な労働と無慈悲なまでの扱いに(脱走しようとした炭坑夫が見せしめに焼きごてを押し当てられ殺される場面が出てくる)耐えかね脱走を図る。その時ガス爆発事故が起き多くの犠牲者が出た。山田喜作は幸い助かったが、彼もその事故で死んだものと思われる。

 仕送りを断たれたサヨは夫を頼って炭鉱に行くが、そこで夫は事故で死んだと知らされる。生活のためサヨは女坑夫としてそこで働く決意をする。やがて戦争が始まり、彼女に好意をもつ炭坑夫の金子も出征して戦死する。やがて朝鮮戦争が始まり炭鉱は増産の指示を出した。その頃サヨの夫の喜作は家族を探してこの炭鉱に戻り働いていた。体を壊したサヨは炭鉱の仕事をやめていたので、そのことを知らなかった。次男の喜代二も炭鉱で働いていたが、父の顔を覚えていなかった。

 無理な増産体制のため事故が頻発する。組合は無理な増産を中止するよう要求してストに入る。生活苦を嫌って女と駆け落ちしていたサヨの長男喜一が町に戻ってきて、金欲しさから嘘をついて、組合の先頭に立って活動している弟の喜代二を陥れる証言をする。その証言によって喜代二は坑内の排水ポンプを動かす送電線を切断した犯人とされてしまう。やがて一切の真相が判明し、喜代二は釈放され、喜一も改心して母の許に戻る。寝込んでいるサヨの元に夫の喜作がやってきて再会の言葉を交わす。しかし既に体がぼろぼろになっていたサヨは「やっとあなたに二人の子供を渡すことが出来た」と言って息を引き取る。

 このようなストーリーのため宇野重吉は最初と最後しか登場しない。サヨの息子たちなどの若手の俳優に混じって山田五十鈴を脇で支えたのは、長屋の隣に住む北林谷栄とそのsnowrabbit夫の花澤徳衛である。この二人はさすがにうまい。特に北林谷栄の存在感は抜群で、炭鉱の上役も平気で怒鳴りつける。せめて息子だけには教育を受けさせたいと気丈に働く山田五十鈴とはまた違い、北林谷栄は少々のことではへこたれないたくましい女性役を演じている。また、独立プロならではの視点として、炭鉱で働かされていた中国人捕虜が出てくる。脚気でまともに働けないため棒で殴られる中国人の役を加藤嘉が演じている。殴られている彼を助けたのは戦死した金子だ。彼は戦後中国に帰り、サヨが死んだ日に連帯の意味を込めた旗をサヨに送ってくる。喜作は二人の息子に命じてサヨの亡骸にその旗をかけてやる。

 ストはまだ続いている。ラストは喜代二と彼に思いを寄せる孝子が立つ丘の頂上に向かって、若者たちが旗を持ち労働歌を歌いながら一列になって上ってくるシーンだ。いかにも独立プロ作品という描き方で、時代を感じる。このタイプの映画は今では完全に日本映画から、いやほとんどの国の映画から消えてしまった。しかし今見ても、紋切り型のせりふや思想性が前面に出過ぎているところなどが気にはなるが、力強い作品だと感じる。戦う労働者ではなく、家族のために身を削るようにして働き死んでいったひとりの母親を中心にすえたことが、この作品を成功させている。貴重な歴史的作品がDVDでよみがえったことの意味は大きい。

 次男喜代二を演じた内藤武敏のインタビュー(特典映像)によると、撮影は北海道の夕張炭鉱で行われたそうだ。映画にも出てくるが、せまい谷間に炭鉱町が作られ、斜面にびっしりと長屋が立ち並んでいる。下から見るとまるで戦艦の様な光景だったそうである。非常に面白いインタビューで、特に撮影中に炭坑労働者がストに入ってしまい、撮影が難航したエピソードが興味深い。撮影隊も炭坑夫たちもともに生活がかかっている。炭坑労働者の生活とその思いがじかに伝わってきたそうだ。スタッフはみなその長屋に今で言うホームステイをしたわけだが、町の人たちはみな人なつこく、ノックも挨拶もなく突然家の中に入ってきて、また挨拶もなく出て行くそうだ。それでも1週間か10日もすれば慣れてきて、自分も同じようにふらっと他人の家には入れるようになったという。

 亀井文夫は、戦時中表向きは国策にそってはいるがその裏にぎりぎりの抵抗を込めて撮った「戦ふ兵隊」「上海」、あるいは戦後の「日本の悲劇」などで知られる。日本を代表するドキュメンタリー作家である。もっと知られていなければならない重要な人物である。早く彼の代表作がまとまってDVDになることを強く望む。 (佐藤忠男著『キネマと砲聲』に「亀井文夫の孤立した戦い」という章がある。ぜひ一読を進めたい。)

どっこい生きてる

momiji_w1951年
監督:今井正
出演:河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎しづ江、飯田蝶子
    岸破旗江、木村功

 今井正監督の独立プロ第1作。独立プロ自体としては山本薩夫監督の「暴力の街」が第1作で、これは第2作目にあたる(特典映像の早乙女勝元インタビューで彼がそう話していた)。山本薩夫の「暴力の街」「傷だらけの山河」「証人の椅子」などは思想性が前面に出すぎて今ひとつの出来だと思ったが、さすがに今井正の作品は出来がいい。徹底したリアリズムで戦後の不況時代を描いている。映画会社を飛び出して、全国からカンパを集めて作った独立プロ作品だが、仕事がなく食い詰めた人たちをそのまま描くことで説得力を得ている。イタリアのネオリアリズモの影響が指摘されているが、意識はしていたかもしれないが、現実を描けばこうなるのだろう。

 まず、当時ニコヨンと呼ばれていた日当240円で日雇い仕事を引き受ける人たちの群れが描き出される。電車から次々と人が降り立ち、なぜか皆駆けてゆく。早く列に並ばないと人数に制限があるのであぶれてしまうからだ。昔のアメリカ映画でよく見かけた風景(例えばジョン・フォードの「怒りの葡萄」)だが、当時の日本も同じだったわけだ。主人公の毛利(河原崎長十郎)はその日仕事にあぶれた。家に帰ると、長屋を明日取り壊すので出て行ってくれと大家に言われる。出て行っても他に住む家があるはずもなく、何とかしてくれと頼むがもちろん受け入れられない。

 結局、妻と子供2人を田舎に返し、毛利本人は簡易宿泊所に泊まって日雇い仕事を続けることにする。その宿泊所には日雇い仕事仲間(中村翫右衛門)がいた。お調子者で、生き抜くすべを心得たはしこい男だ。中村翫右衛門がまさにはまり役。いまではいなくなったいい役者だ。

 ある日毛利は電柱に貼ってあった「旋盤工求む」の張り紙を見て応募してみた。何とか雇ってもらえたが(徴用で覚えた技術が役に立った)、前借を申し出たため不審がられる。前借は出来なかったが、仲間が金を集めて給料日までの資金を出してくれた。しかしその晩酒を飲んで酔っ払い、目が覚めたら金を取られていた。弱り目に祟り目で、翌日仕事場に行ってみると、昨日は雇うと言ったのに注文が減ったので雇えないと言われる。仲間が集めてくれた金を取られ、仕事もふいになった。その上、田舎に帰ったはずの女房と子供がまた戻ってきた。田舎も子沢山でとても長くはいられなかったのだ。どうにもならない状況に押しつぶされ、毛利は死ぬ決意をする。盗み(水道管を抜き取って売る)をして稼いだ金でその晩は精一杯の贅沢をする。翌日死ぬ前に子供たちを楽しませてやろうと遊園地につれてゆく。しかし息子が池に落ちておぼれかける。死ぬつもりだったが、彼は思わず池に飛び込み息子を助ける。これで彼の考えは変わった。先の見通しはまったくないが、生きてゆくことにした。翌日からまた仕事斡旋所前の人ごみの中に彼の姿があった。

 「どっこい生きてる」というタイトルから、最後は何か浮かび上がれるきっかけを掴むのかと思っていたが、最後まで希望はない。もちろんそのほうがリアルだ。安易な救いをもたらさなかったことがこの作品の価値を高めている。日本のリアリズム映画の傑作の一つだ。

姉妹

1955年asagao-cut1
監督:家城巳代治
出演:野添ひとみ、中原ひとみ、望月優子、川崎弘子
    多々良純、河野秋武、内藤武敏、北林谷栄、加藤嘉

 家城巳代治監督の代表作。主演は野添ひとみと中原ひとみ。特典映像として付けられた中原ひとみのインタビューによれば、実年齢は中原ひとみの方が1歳年上だそうだが、映画の中では野添ひとみが3歳年上の姉になっている。野添ひとみの方が背が高く、落ち着いた雰囲気があるからだろう。当時野添ひとみは既にスターで、中原ひとみの方は初の主演だったようだ。

 2人の姉妹(「きょうだい」と読ませるあたりが時代を感じさせる)は対照的な性格である。姉は落ち着いた性格で、クリスチャンである。当然争いごとや乱暴なことを嫌い、自分を抑えてでも流れに逆らわず生きてゆこうとする。妹は跳ね返りな性格で、革命とか労働者の権利だとか生意気なことを言う。田舎育ちだが、都会の叔母に預けられ学校に通っている。叔母(望月優子)は庶民的でおおらかな性格。伯父(多々良純)は博打打かなんかで、金が入るとお大尽遊びをする。故郷には父母と下に3人の弟たちがいる。父(河野秋武)は発電所で働いている。優しい母(川崎弘子)は専業主婦。この都会と田舎の庶民の生活を中心に描いている風俗映画である。

 しかし社会派の家城巳代治監督のこと、これに様々な社会問題を練りこんでいる。妹(中原ひとみ)の友人で、金持ちだが不幸な娘(母親は娘が付き合う友達の身分をしきりに気にし、姉は足が悪く外に出ない、弟も何か障害を持っている)がチラッと登場して、社会的な視点も持ち込まれている。姉妹は知り合いの女性の家に行って掃除をする。父親(加藤嘉)は盲人で母親(北林谷榮)は病気がちで臥せっている。娘本人も腰にギプスをしていて満足に働けない。掃除もろくに出来ないのでゴミとほこりにまみれて生活している。それを見かねて手伝いに行ったのだが、娘は自分たちは全員結核に罹っているので、もう来ないでくれと姉妹に突き放すように言う。結核が不治の病であった頃か。時代を感じる。

 父が勤める発電所では首切りが大きな問題になっている。父の同僚である青年(内藤武敏)は誠実で明るい性格の好青年だが、生活がかつかつでとても結婚できるような状態ではない。姉の野添ひとみと互いに惹かれあっているが、普通の付き合い以上には発展しない。野添ひとみは結局親が選んだ銀行員と結婚することになる。妹は愛を選ぶべきだと姉を説得しようとするが、親に逆らえない姉は自分の気持ちを押し殺して嫁いでゆく。不幸を予感させるが、嫁ぐ日、姉はもっと自分は強くなる、自分の言いたいことを言えるようになると妹に告げる。山の上から妹が姉の乗ったバスに「姉ちゃん頑張れー」と声をかける。この声に希望が託されている。

 型どおりといえば型どおりの映画である。しかし庶民生活の描写の中に巧みに社会問題を取り込み、庶民の暮らしは社会問題と切り離せないことをよく描いている。この時代の日本映画の代表的な作風である。傑作とまでは行かないが、忘れがたい優れた作品だ。

 野添ひとみは雛形あきこ似で今見ても美人だ。当時の日本人体形だから足は太いがスタイルはすらっとして悪くない。中原ひとみはさらに足が太く短い。背が低いのでどこか不恰好だ。しかし大きな瞳が魅力的だ。

 付録映像のインタビューでの中原ひとみの話し方と映画の中の話し方はとても同じ人とは思えないほど違う。それはそのまま時代の違いである。昔のテレビのアナウンサーの話し方を今聞くとどこかこっけいに響くが、昔の映画の話し方は上品というか、今聞くと奇妙なイントネーションで話している。いつの間にか少しずつ話し方が代わっていったのだろう。特に女性の話し方の違いはかなりのものだ。同じ女性が昔の映画と現在とではまったく違う話し方をしている。なんとも奇妙な感覚である。

2005年10月19日 (水)

さまよえる人々

fu-sya1995年 オランダ・ドイツ・ベルギー
監督:ヨス・ステリング
出演:レネ・クルーゾフ、ニーノ・マンフレディ
    ヴィール・ドベラーレ、ダニエル・エミルフォルク
    ウィリー・ヴァンダーミューレン、ジェーン・ベルブッツ
    イングリッド・ドゥ・ヴォス

 オランダ映画界の巨匠ヨス・ステリング監督作品。「レンブラント」('77)「イリュージョニスト」('83)「ポインツマン」('85)に続く4作目。「ポインツマン」は観たがもうまったく覚えていない。16世紀のフランドルが舞台。フランドルはベルギー連邦王国の北半分を占める地域である。その東隣がオランダ。

 16世紀のフランドルといえばブリューゲル(1525-1569)を連想する。まさにこの映画の前半はブリューゲルの絵をフィルムに納めたような映像が続く。しかし絵のように美しい風景を想像してはいけない。そんなものはわずかしか出てこない。この映画を支配する基本的イメージは、農場の広い中庭のど真ん中に作られた巨大な肥溜め、丘の上に置き去りにされた巨大な頭像、岸に乗り上げたまま朽ち果てた廃船、そして井戸だ。登場人物たちはまさに糞まみれ、泥まみれになってのた打ち回る。そういう映画だ。

 16世紀当時のフランドルはスペイン帝国の支配下にあった。スペインの圧政とカソリックの厳しい法に対して民衆は大きな不満を募らせ、偶像崇拝に反抗し、教会や修道院を攻撃して多くの彫像を破壊していた。映画の冒頭、反逆者たちが巨大な頭像を運んでいる。それを発見したスペイン人が反逆者たちを襲い皆殺しにする。ただ一人頭像の中にもぐりこんでいて助かった男(レネ・グルーゾフ)がいる。その男はたまたま近くにいた女に助け出され、その女とすぐその場で交わる(いかにも唐突だ)。その女は領主であるネトルネック(ウィリー・ヴァンダーミューレン)の妻で、男は領主たちに捕らえられる。男は縛られて巨大な肥溜めの中に入れられている。その一部始終を目撃していたのが吟遊詩人のカンパネリ(ニーノ・マンフレディ)である。カラスの羽を一面に貼り付けた奇妙なマントを着ている。カンパネリは男の持っていた金の聖具を目当てに男を助ける。だが、ネトルネックに見つかり、男は銃で撃たれてしまう。何とか領主の館からは逃げおおせたが、自分はオランダから来たと言って巨大な頭像の下で息絶える。

 ネトルネックの妻は翌年男の子を産んで死んでしまう。オランダ人の男との間に出来た子供だ。子供はダッチマンと呼ばれ、ネトルネックの農場で育てられる。その子はあるとき吟遊詩人のカンパネリと出会い、食糧を運んでくる代わりに父親の事を聞かせてもらう。父は空を飛ぶことができ、フライング・ダッチマンと呼ばれて七つの海を支配しているのだと。もちろん父親はとっくに死んでいるわけだから、これは口からでまかせである。(カンパネリが食べ物をもってこいとダッチマンに命じるところは、ディケンズの『大いなる遺産』の有名な冒頭の場面、脱獄囚のマグウィッチがピップを脅して食糧とやすりをもってこさせる場面とよく似ている。そういえば巨大な廃船はマグウィッチが乗せられていた監獄船を連想させkokyouる。)少年は父親に思いを馳せる。しかしカンパネリと会ったことを領主に見つかり井戸に入れられる。それを助けてくれたのが後に領主の息子と結婚するロッテである。

 やがてダッチマンは成人した(レネ・グルーゾフが二役を演じている)。カンパネリは相変わらず金の聖具を探しており、肥溜めの中を浚っていた。それを領主のネトルネックに見つかるが、逆に彼を騙してネトルネックを肥溜めの中で溺れさせてしまう。カンパネリも領主の息子に殺される。ダッチマンは肥溜めを壊し底から父親の皮袋を見つける(その中に金の聖具が入っていた)。スペイン兵が隠れて見張っていたが、ダッチマンはネトルネックの息子の妻ロッテに助けられ、二人で逃亡する。

 やがて二人は父親がいると聞かされた海に出る。そこで追いかけてきたネトルネックの息子に海に沈められ殺されかける。危うく助かったダッチマンは陸に乗り上げている巨大な船の残骸を発見する。そこには奇妙なせむしの小男(レネ・ウァント・ホヌ)が住んでいた。ダッチマンは金の聖具を金に替え、その金で船を修理し海に出ようと考える。しかしオランダの兵隊(?)に捕まり、小男と共に矯正院に入れられてしまう。ダッチマンは脱走を図るが失敗し、また井戸に入れられる。しかしそこにたまたまネトルネックとその妻のロッテが来合わせていた。二人は男の子を連れてきていたが、その子はダッチマンとロッテが逃亡中に二人の間に出来た子供だった(夫は自分の子だと思っているが)。ロッテは小男を買収してダッチマンを助ける。ダッチマンは井戸から逃れ、建物の上に上る。それを彼の息子が見上げている。今にも落ちそうなダッチマンを見て、息子が母親を呼んで一瞬振り返ったすきにダッチマンは消えていた。地面に彼の体は落下していない。彼は本当に空を飛んだのか。謎を残したまま、ロッテと息子が抱き合う場面がストップモーションとなって幕。

 何とも不思議な世界だ。異形のものたち(カンパネリや船に住んでいた小男)がうごめき、不思議な物体(頭像、巨大な肥溜め、朽ち果てた廃船)が画面の中で怪しげで謎めいた存在感を主張している。何か異教徒には理解できない宗教的な寓意がふんだんに盛り込まれている感じがする。そういえばダッチマンとネトルネックの息子は何度も鼻血を流すが、これも何かの象徴・寓意なのか?オランダに生まれた男とその息子が辿る数奇な生涯を綴った大河叙事詩と呼ばれているが、叙事詩というよりは寓意劇という方が正しい感じがする。類まれな想像力が生み出した独特の世界だが、きわめて土着的であり、フランドル以外では生まれ得なかった作品である。1、2度見ただけでは十分理解しがたい作品だ。

アラバマ物語

building003_s1962年 アメリカ
監督:ロバート・マリガン
出演:グレゴリー・ペック、メリー・バーダム
   フィリップ・アルフォード、ロバート・デュバル

 映画ノートによると、最初にテレビで見たのは72年11月26日。実に32年ぶりに見たことになる。ハーパー・リーの原作『ものまね鳥を殺すには』はピュリッツァー賞を受賞した作品である。舞台は1930年代のアラバマ州の田舎町。主人公はグレゴリー・ペックだが、彼の2人の子供ジェムとスカウトの視点から描かれている。前半は子供たちの世界。夏だけ近所に遊びに来る男の子と小さな冒険を楽しんでいる。近所にブーと呼ばれる精神障害者がおり、大人たちから恐ろしい怪物のように聞かされている。3人はブーを一目見ようと夜忍び込んだりするが、失敗する。ブーは最後になるまで姿を現さない。しかし常に影のようにその存在が感じられる。忍び込んで逃げたときに、ジェムは柵にズボンを引っ掛けてあわててズボンを脱ぎ捨てて逃げる。後で取りに行ったとき、そのズボンはきちんとたたんで置いてあったと、後にジェムはスカウトに打ち明ける。そこにブーは本当は優しい人物なのではないかという伏線がしかれている。

 そのうち黒人の男による白人女性暴行事件が起こり、グレゴリー・ペックが弁護を引き受けることになる。彼は進歩派の弁護士という設定だ。白人たちによる嫌がらせがあるが、これはそれほど描かれていない。被告が拘置されている所に白人たちが押しかける場面などがあるが、毅然と跳ね除けるグレゴリー・ペックの態度が強調された描き方になっている。その場は子供たちが一緒にいたので男たちは引き上げるという形で収まる。「ミシシッピー・バーニング」の様な、気がめいる、息詰るような雰囲気はそれほど強調されていない。

 裁判を通じて冤罪の可能性が高まる。被害者は右目を殴られているが、容疑者は右利きで左腕は麻痺している。被害者の父親が娘を暴行した可能性が浮かび上がってくる。しかし陪審員の判決は有罪だった。容疑者のトムは護送中に逃げ出して、警官に撃たれて死ぬ。しばらく後、ハロウィンのときに、ジェムとスカウトが帰宅途中林の中で何者かに襲われる。そこにもう一人男が現れ、子供たちは助け出される。子供たちを救った人物こそブーだった。ブーの顔は記憶とまったく違っていた(何と演じていたのは若き日のロバート・デュバルだ!)。大男でイースター島の巨人の様な額がせり出した顔だったとぼんやり記憶していたが、実際は目の周りが少し黒くなっているほかは普通の、ごくおとなしそうな男だった。moon45どこで記憶が違ってしまったのか分からない。ただ前半で姿の見えないブーの不気味な影が強調されていたので、その部分が印象に残って作られたイメージだったのだろう。

 それはともかく、子供が襲われた現場にはナイフで刺された男(裁判の被害者の父親)の死体があったと保安官がペックに告げる。保安官は、男を刺したのはブーだと分かっているが、あえて被害者は倒れたときに自分で誤って刺したことにするとペックに告げ、立ち去る。

 全体としていかにも進歩派の知識人が書いたストーリーだという感じが強い。黒人に対する白人の偏見はしっかり描かれて入るが、見ているのがつらくなるほどリアルにしつこく描いているわけではない。グレゴリー・ペックを初め、ブーや最後の保安官の言葉など、善人の立場が強調されている。しかし底が浅いというほどではない。判決は有罪だし、被害者は無実の罪をかぶせられた上に、逃げようとして撃たれて死ぬ。全体の明るい雰囲気は、子供たちを前面に出していることもあるが、人間の良心に信頼を寄せ、その可能性を前向きにとらえようとする作者の姿勢から来ている。甘いという批判もあるだろうが、感動的な作品であることは確かだ。

 子供たちが父親をアティカスと名前で呼んでいるのが印象的だ。このあたりにも父親の進歩的な姿勢が示されている。子供たちの質問に嫌がらずきちんと答えていることにも共感を覚える。娘のスカウトの顔は記憶に残っていた。とても印象的な子役だ。

2005年10月17日 (月)

寄せ集め映画短評集 その9

在庫一掃セール第9弾。今回は各国映画6連発。

「ぼくゼザール10歳半1m39cm」(2003年、リシャール・ベリ監督、フランス) apple_w
 主役の子供たちがかわいい。セザール(シーザーという意味)もいいが、何といってもサラ役のジョゼフィーヌ・ベリがかわいい。ハリポタ・シリーズのエマ・ワトソンに似たタイプだ。  主人公のセザール(ジュール・シトリュク)はちょっと太目のぽっちゃり少年。友達のモルガンは成績抜群でクラスの人気者だ。
  セザールは転校生のサラに心を引かれる。彼女の前に出ると二言以上に話せなくなってしまうところが可笑しい。誰しも経験がある事だ。だからモルガンとサラの関係にやきもきしたり、急に張り切ってみたりするモルガンに共感してしまう。それぞれの家族はそれぞれに問題をかかえているが、彼らは仲良しになり明るく楽しんでいる。
 モルガンの母は黒人で、父親はイギリス人。母は未婚の母のようだ。モルガンがイギリスの父親に会いに行くというので、英語が話せるサラが一緒に行くと言い出す。2人だけにしたくないのでセザールもついてゆく。初めての海外!3人の冒険が始まる。イギリスで、フランス人であるカフェの女主人(アンナ・カリーナ)と出会う。彼女の知り合いに警察関係者がいるのでそのつてでモルガンの父親が見つかる。モルガンが会いに行くと父親は大歓迎してくれた。
 フランスに戻ると3人の親が駅で待ち構えていた。黙って家を出た子供たちを親たちは腰に手をやりカンカンに怒って待ち構えている。カフェの女主人が一緒でなかったら「死者が出ただろう」、というセザールのナレーションが可笑しい。
 それが転機になり、それぞれの家族が変わった。親たちは優しくなり、3つの家族とモルガンの父親の家族(黒人の女性と結婚しており子供も3人いる)が互いに付き合うようになった。独り者のカフェの女主人にはいっぺんに4つも家族が出来た。
 悪人が一人も登場しない。さわやかな気分になれる映画だ。御伽噺の様な話だが、世の中にはこのような話も必要なのだ。

「真珠の耳飾の少女」(2003年ピーター・ウェーバー監督、イギリス)
  フェルメールの有名な絵を基にした作品。絵の少女グリートを演じるのはスカーレット・ヨハンソン。フェルメールを演じるのはコリン・ファース。そのパトロン役にトム・ウィルキンソン。フェルメールの母親役を演じているのは、何と「ER」のジョン・カーターの母親を演じているジュディ・パーフィット。イギリスの名女優だそうだ。
 当時のオランダの様子が見事に再現されている。ストーリーは特に凝ったものではなく、グリートがメイドの見習いとしてフェルメール家に来るところから始まる。フェルメールには子供が何人もいて、その上まだ妻の腹に一人入っている。そのせいか家計は苦しい。その苦しい家計を助けるためにフェルメールはパトロンから絵の依頼を受け、絵を描かなければならない。
 グリートはフェルメールのアトリエを掃除するよう奥様に言いつけられる。あるときフェルメールに認められ絵のモデルになる。有名な窓辺に立っているメイドの絵だ。最初は左手前に椅子が描かれていたが、グリートは椅子が邪魔だと思い掃除のときにどけてしまう。すると絵からも椅子が消えていた。また彼女には色彩の才能があり、あるときフェルメールに雲の色はなに色かと聞かれ最初は白だと答えるが、しばらくして白と黄色と青色と灰色だと答える。
 次にタイトルとなったあの有名な少女の絵の制作に取り掛かるが、この頃には奥方がフェルメールとグリートの間にただならぬ関係があると感づき、嫉妬し始める。グリートが耳につけていた真珠の耳飾は奥方のものだった。しかしフェルメールは彼女に手を出してはいなかった。彼女を狙ったのはフェルメールのパトロンの方だった。危うく手篭めにされそうになるが、幸い危ういところで助かる。しかし完成した絵を見て奥方は狂ったように興奮し、グリートを解雇する。やがてグリートの元に真珠の耳飾が送り届けられた。グリートには肉屋の手伝いのピーターという恋人がいたが、彼と結局結ばれたのかどうかは分からない。
 ストーリーは特にこれといって素晴らしいわけではない。この映画の魅力はほとんどグリートを演じたスカーレット・ヨハンソンの清楚で若々しい魅力と当時の風景と風俗を見事に再現したことにある。

「プラットホーム」(2000年、ジャ・ジャンクー監督、中国)
  期待して観たのだが、長くて退屈な映画だった。芸術を気取る監督によくある、これと言ったストーリーもなく、連続性のない細切れ的な映像を少ない科白でつなぐというタイプの映画だ。これで2時間半程もあるのだから眠くなってくる。
  特徴的なのはほとんど接写を用いず、遠くから人物を撮っていることである。70年代後半から80年代にわたる約10年間を描いているのだが、思い入れたっぷりに昔を懐かしむのではなく、農村を回る文化工作隊の青年たちをあえて突き放して描くというのが監督の意図だろう。意図はともかくあまり成功しているとは言いがたい。感情移入を排し、効果音をほとんど使わず市販ビデオで撮った様な自然音のみで構成されているが、この手の映画は作る側の独りよがりになりやすい。
  ただ、確かに退屈な前半を過ぎて後半当たりになってくると、妙に画面に引かれることもある。多少のストーリーらしきものが見えてくるからだろう。初めて村に電気がくる場面などのように、時代の移り変わりが分かるようになっている。一番それが表れているのは、彼らが演じる演目で、最初は文革時代そのままのプロパガンダ演劇をやっていたが、時代が移るにつれてフラメンコを取り入れたり、ロックやブレイクダンスなども入ってくる。人間関係も移り変わり、工作隊の若者たちも少しずつバラバラになってゆく。文革後の短い開放的な時代に生きた青年たちの淡い恋愛、目的もなくただその日が過ぎて行くだけのような生き方、そういう時代の雰囲気が多少なりとも伝わってくるからだ。
 それと、どさ回りをしながら通過する風景が人物たち以上に引き付けるものがある。煉瓦造りの崩れかけたような貧しい家々、何もないだだっ広い平原、広大な低地にかかる橋の上を走り抜ける汽車、上海や北京のような大都市とは掛け離れた田舎の生活と風景がもう一つの主人公だと言えるかもしれない。このような不思議な魅力はあるが、全体としてみれば成功した作品とは呼べない。

「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年、ロナルド・ニーム監督、アメリカ)
ship004_s 東京に出てきて初めて観た記念すべき映画。久しぶりに観直してみて、傑作だと思った。次からつぎからめまぐるしく展開する今のパニック映画に比べると展開が遅いが、それがむしろいい。今の映画はこれでもかと見せ場を次々と作るが、その分味わいが薄くなっている。その典型が「マトリックス」だ。観た次の日にはもう内容を思い出せなかった。その時だけ楽しめばそれでよいという映画になってしまっている。
 その点昔の映画はじっくりとドラマを描いている。有名なタイタニック号の悲劇も、97年の大ヒット作品よりも白黒時代の作品の方が人間ドラマをよく描けていた。アクションからアクションへとただ移るだけでは人間が描けない。 「ポセイドン・アドベンチャー」は今の映画よりじっくりとキャラクターを描いている。特にシェリー・ウィンタースは存在感があってよかった。彼女と夫のドラマは映画を引き締めている。2人は孫に会いに行くところだった。ペンダントが効果的に使われている。彼女が水にもぐって心臓発作で死んだ後、夫は後に残ると言い出した。リーダーの牧師(ジーン・ハックマン)は彼女から受け取ったペンダントを彼女の夫に渡し、生き残って孫に会うべきだと伝える。やっと夫は生きようと決意する。パニック状態になったキャロル・リンレイ(懐かしい!)や、元娼婦の妻を心から愛しているがすぐ牧師のやり方に口を出すアーネスト・ボーグナイン。オールスター・キャストだが、単なる顔出しには終わっていない。テンポが必ずしも速くなくても手に汗握る展開に出来る。それを改めて教えられる。
 改めて見るとこの映画が後の映画のお手本となっていることがよく分かる。途中水にもぐる場面は「デイライト」や「エイリアン4」がそっくりぱくっている。安全を無視して採算を優先する船主の存在は「ジョーズ」や「エイリアン」シリーズに影響を与えている。それにしてもすべてがそっくりさかさまになったセットは今見ても見事だ。船が転覆してさかさまになるという設定そのものが意表をついている。傾いた床を人が落ちてゆく場面はいかにもお粗末だが(今ならCGでいくらでもリアルに再現できる)、CDがなくてもこれだけのセットを作ってしまう。美術部や大道具部の熟練の技術は時にCGも及ばない見事なセットを作り上げることが出来る。イギリス映画の名作「黒水仙」は崖の上にある修道院が舞台だが、その崖自体がセットだったと聞いて仰天したものだ。安易にCGに頼ることは考え直すべきだ。リアルなセットを作る技術がこれまでどれだけの優れた映画を支えてきたことか。30年以上たった今でも「ポセイドン・アドベンチャー」はパニック映画の傑作のひとつだ。

「名もなきアフリカの地で」(2001年、カロリーヌ・リンク監督、ドイツ)
 久々のドイツ映画。なかなかいい。ナチスに迫害されるユダヤ人の話だが、舞台をアフリカにしたところがユニーク。ナチスの不穏な動きを早めに察知した主人公はアフリカに亡命する。後から妻と娘を呼び寄せる。他の家族にも早くドイツを出るよう説得したが、結局脱出できたのは彼らだけだった。残された人たちはポーランドに送られ帰ってこなかった。
 話はこのドイツ人一家のアフリカでの暮らしを中心に描いている。最初こんな土地にはすめないと言っていた妻が最後にはドイツ帰国に一番強く反対するようになる。料理のうまい現地人が雇われていて、彼が娘と心を通わせて行く。現地の子どもたちともすぐ仲良くなり、親しい男友達も出来る。父親は元弁護士で満足な仕事を得られなくていらいらしている。同じようにいらいらしている妻としょっちゅうぶつかり合う。
  やがてイギリスはドイツと戦争状態に入ったため彼らは適性国民としてイギリス軍に拘束されるが、迫害されているユダヤ人だということで意外にいい待遇を受ける。妻がドイツ語の出来るイギリス兵に夫の職を見つけてやるという条件で一夜の関係を迫られる。彼女は夫と家族のために従う。また以前から親しくしていたドイツ人亡命者ともいい関係になるが、最後は夫を選ぶ。やがて戦争が終わり夫は裁判官の職をドイツで得られることになる。妻は反対する。娘はイギリスの学校に通っていたが、強くは反対しなかった。結局妻も夫に同意する。
 親しくしていた現地人の料理人との別れの場面がいい。名作というほどではないが、すがすがしい印象の残る映画である。

「誤発弾」(1961年、ユ・ヒョンモク監督、韓国)
 長い間韓国映画の最高傑作といわれていた作品。驚くほど日本の古い映画に似ている。ストーリーの展開、映像、音楽や録音の状態、建物まで似ている(障子がある)。日本語で吹き替えていたら韓国映画だとはしばらく気づかないのではないか。顔や服装だって日本人そっくりなのだから。実際ときどき日本映画を見ているような錯覚を覚えた。話も戦後の混乱期を描いた日本映画に通じるところがある。戦後といってもこちらは朝鮮戦争後だが。山本薩夫が密かに韓国で撮った映画だと言われたら、うっかり信じてしまうかも知れない。
  貧しくて自分の歯の治療にもいけない兄、ただ我慢するだけの妻、戦争で腹を撃たれまともな仕事に就けず毎日酒を飲んでいる弟、家族に隠れて体を売っている妹、いつも「行こう」「行こう」と叫ぶぼけた母親(空襲の恐怖を思い出しているのか)、それに子ども2人。貧しいぼろ家に7人が住んでいる。弟は銀行強盗をしてつかまり、兄の妻は出産で死ぬ。兄は妻の死を聞いて、呆然となる。病院からの帰り、思い切って歯を抜く。もう一本も抜いてくれと頼むが、出血がひどくなるので1本しか出来ないと断られる。しかし痛みに耐えかね別の歯医者に行きもう1本も抜いてしまう。出血でふらふらになりタクシーに乗る。最初は病院へ行けと命じ、次に警察署に行けと言う。口の端から血が滴り落ちている。着くと今度はどこでもいいから行けと言う。運転手は酔っ払っているのかと思い、まるで誤って発射された弾丸のように行方が定まらないとつぶやく。
 さすがに白黒の映像は古さを感じる。フィルムも韓国内では失われていたので、アメリカにあった英語の字幕つきのものが使われている。英語と日本語の字幕がついているので多少見にくい。しかしそれはしばらく見ていれば気にならなくなる。気になるのはやはり日本映画との類似性だ。61年の映画だから日本占領時代の名残りが今より色濃く繁栄されていただろう。字幕もハングルではなく漢字だ。建物の瓦も日本と同じ。玄関で靴を脱いで家に上がるのは「接続」「春の日は過ぎ行く」などで見て知っていた。最初は驚いたが。つまり韓国の生活自体が日本によく似ているのだ。今まで遠くて近い国だったのでそんなことすら知らなかったのである。「猟奇的な彼女」か「イルマーレ」に剣道が出てきて驚いたこともあった。映画作りもかつては日本映画から多くを学んでいたことがよく分かる。

庭の枯葉~生活のゆとり

momizi  庭でタバコを吸っていたら、枯葉がかなり落ちていることに気付いた。昨日までは気付かなかった。今日になって急に落ち始めたのだろうか。秋が深まってきたようだ。庭の木はまだ一部しか紅葉していないのに、もう葉が落ちるとは。木に元気がないということか。そう言えばおとといあたりからリンドウの花が一輪咲いている。去年まではもっとたくさん咲いていたのに、今年は寂しい。庭のいたるところに芝がはびこり、いつか抜かねばと思いつつやらずに来てしまった。庭の一部に植えたはずが、どんどん回りに広がっている。リンドウに元気がないのは芝のせいだろうか。伸び放題の芝、厄介な存在だ。

 長野に来てから季節の変化を感じるのはもっぱら山だった。しかし庭を造ってからは庭の変化から季節を感じることが多くなった。やはり庭を造ってよかった。最近はブログ作りに時間を取られ、すっかり庭の手入れをおろそかにしている。うっかりすると水撒きさえ忘れている。プランターの花をいくつも枯らしてしまった。地面に直に植えている花はしばらく水をやらなくても長持ちするが、プランターの場合はそうは行かない。

 そろそろブログに割く時間を減らすようにしよう。何も毎日更新する必要はない。自然のリズムに出来るだけ近づけてゆこう。映画のレビューは1本仕上げるのに3、4時間はかかる。映画自体を見る時間を合わせれば5、6時間かけていることになる。映画を見るたびにこれを繰り返すのは正直しんどい。そろそろ肩の力を抜く時期だな。 ちょうどブログに載せる映画レビューのストックも底をついてきた。ここらで生活の余裕を取り戻そう。毎日長い時間パソコンに向かっているので、庭の手入れだけでなく本を読む時間も減った。以前紹介したハリポタの新作もあれ以来ほったらかしだ。好きな散歩も長いことしていない。音楽をゆっくり聴く時間も激減した。パソコンとばかり向き合っているので日記も短くなってしまった。ほかのことを何もしていないから書くことがないわけだ。ブログに載せるために映画を必死で見る。いかん、いかん、これでは本末転倒だ。もっとペースを落とそう。

 今週あたりからブログの更新を週2~4回に減らそう。もっと時間をかけて記事を書こう。SD-rain01行き当たりばったりで映画を見るのではなく、シリーズを作ってある程度計画的に見るようにしよう。今ひとつ考えているのは「名作の森」シリーズ。古典的名作を1~2週間に1本ずつ紹介するシリーズだ。今まででもそれはやってきていたが、シリーズ化することで自分に課題を持たせ、広く名作を知ってもらおうという考えである。ペースもこの程度なら負担にはならない。名作は何十年たっても色あせない。今なら、DVDや衛星放送で古い映画も簡単に見られる。さらに、シリーズ化すれば、次はどんな作品を採り上げるのだろうと期待してくれる読者も出てくるかもしれない。

 ブログに関してもう一つ課題がある。映画レビューの五十音順のリストを作ることだ。ブログの欠点は、古い記事を探しにくいということである。最近書いた記事しかトップページには表記されない。バックナンバーも付いてはいるが、日付で区切られているので、一つひとつの記事のタイトルが分からない。他のブログには五十音順のリストが付いているものもあるが、ココログには標準装備されていない。何らかの工夫をしてつけているのだと思うが、その方法が分からない。何とかその方法を見つけるのが当面の課題だ。

2005年10月16日 (日)

リアリズムの宿

2003年 silver_cart
原作:つげ義春「リアリズムの宿」「会津の釣り宿」
【スタッフ】
脚本:山下敦弘、向井康介
監督:山下敦弘
音楽:くるり
撮影:近藤龍人
【出演】
長塚圭史、山本浩司、尾野真千子、山本剛史、康すおん
サニー・フランシス、多賀勝一

 ちょうど先月高野慎三の『つげ義春1968』(ちくま文庫)を読んだばかりだった(「リアリズムの宿」のエンディング・クレジットを見ていたら企画:高野慎三と出ていた)。友人の勧めもあり、今一番見たいと思っている日本映画「リンダ、リンダ、リンダ」の監督でもあるので、「リアリズムの宿」をレンタルしてきた。当然つげワールドとは別の世界である。つげの原作を忠実に再現しようとしてもどだい無理な話だ。白黒の画面でなければあの雰囲気は出せないだろうし、当時の風景も消え去ってしまっている。時代は逆行するが(原作が書かれたのは70年代)、60年代に白黒で映画化していたらかなり原作に近い雰囲気が出せたかもしれない。それでもつげ独特のシュールで乾いた味わいを盛り込むのは難しいだろう。「無能の人」の映画化も失敗していたと思う。あまり原作にとらわれず、思い切って新しい世界を作るつもりでなければ成功しないのではないか。それではつげの世界ではなくなってしまうが、それで構わない。映画化というより再創造なのだから。その意味ではこの映画はある程度原作の味を残しながら独自の世界を作ることに成功したといえる。

  映画を観終わった後つげの原作を読み直してみた。「リアリズムの宿」「会津の釣り宿」は両方とも「つげ義春全集5」(筑摩書房)に入っている。ど汚い宿(病気の旦那がいて、風呂が汚くて入れなかったあの宿)に泊まる話は「リアリズムの宿」、魚を売りつけた男が実は泊まった宿の旦那だったという話や持ち込んだ酒を飲まれてしまう話は「会津の釣り宿」から取っている。そうそう、露天風呂の話も「会津の釣り宿」にあるエピソード。内風呂をただ外に置いただけの「露天風呂」は、原作では洪水で下流の床屋の風呂が逆に上流に流されてきたのを、宿の主人が貰い受けて開発したことになっている。床屋の娘が風呂に入ったまま、風呂が乗っていた大きな岩盤ごと上流に流されてきたというシュールな設定である。映画ではさすがにそこまでは描かなかったが、その理由の一つは焦点が主人公の二人に当てられているからだろう。泊まった宿や出会った人たちにはあまり深入りせず、それらは点々とつながるエピソードの一つとして流れてゆくだけである。

 唯一の例外は海岸で出会った不思議な女の子、川島敦子である。彼女は原作には出てこない。他の短編にキャラクターの原形があるかも知れないが、そこまで調べる時間はなかった。現金なもので、それまで弾まなかった会話も彼女が現れてからは急に弾むようになり、男2人も元気になってくる。しかし突然彼女はバスに乗って2人の前から消えうせてしまう。現れ方も消え方も唐突で、その謎めいた雰囲気が映画と合っている。その意味で彼女の創造は成功だった。彼女は最後にもう一度出てきて種明かしがされてしまうが(東京の原宿に住んでいると言っていたが、実は...)。演じた尾野真千子はなかなか存在感があっていい。

 リアリズムという言葉の意味についてここで少し触れておこう。「リアリズムの宿」のリアリズムという言葉は芸術の用語、あるいは文学理論におけるそれとは違う意味で使われている。原作から引用すると、「ぼくは貧しげでみすぼらしい風物にはそれなりに親しみを覚えるのだが、リアリズム(生活の臭い)にはあまり触れたくないのだ、というより胸が痛むのがいやなのだ」。これは主人公の男のせりふ、ないし独白である。においを「匂い」ではなく「臭い」と書くあたりに生の現実に対する男の感覚が出ている(ある程度までつげ本人の感覚と共通しているのかもしれない)。つまり「生の現実」ではなく「現実らしさ」に惹かれているのである。テレビのニュースやドラマで見て共感することでも、現実に自分の身に降りかかってきた場合うっとうしくて仕方がない。そういう感覚。男がひなびた温泉宿を泊まり歩くのも、都会を離れてひなびた雰囲気に浸りたいからであって、そこでの生々しい生活を見たいからfusen6ではないのだ。「柳川掘割物語」のレビューでも書いたが、現実は「わずらわしい」ものなのである。そういえば、山下監督も「何か作品を作っている人はどこか生身の人間が苦手なんじゃないかと僕は思う」とインタビューで語っていた。どんなにリアリズムといっても所詮はフィクションである。だから感動したり、共感したり、もらい泣きしたり出来るのである。貧しさやみすぼらしさは「風物」であって「現実」であってはならない。つかの間それに浸ることが出来ればそれでよい。別に男の感覚を批判しているわけではない。これは誰にでもある感覚だろう。映画に描かれた戦場での友情や勇気に感動したとしても、弾丸や砲弾が飛び交う戦場に自分もいたいとは誰も思わない。

 原作の漫画は、宿を間違えたため皮肉なことにその泊まりたくない「リアリズムの宿に」泊まらざるを得なくなった男の戸惑いを描いている。ゴホゴホ咳き込んでいる宿の主人、部屋は薄汚くて畳が傾き、子供が走り回り、女将さんはそれをしょっちゅう叱り飛ばしている。やせこけ、髪もほつれている女将は「ちょっと散歩に出てきますから」という口実で逃げ出そうとする男を引きとめ、どうしても外に行くならカバンを置いてゆけとすがる。女将が靴を土間の片隅にかたすのを見て男は観念する。散歩の途中、寒風吹きすさぶ中を女将がイカ一杯(1匹)をなべに入れて買い物から戻るところを目撃する。風に背を丸めて去って行くしおれたような寂しい後姿。その夜薄くて透けそうなイカの刺身が出た。味噌汁を運んできた子供が「シャモジ」を落としたり、風呂が汚くて入れなかったことなどは映画と同じ。男はもはや「胸が痛くなる」どころか怒りさえ感じはじめる。ふて寝している男に教科書を読む子供の声が聞こえてくる。「蜘蛛の糸」だ。一本の糸にすがって地獄から抜け出そうとする亡者たち。男の気持ちも似たような気持ちだったのか。

 この映画は間の取りかたが絶妙だとよく言われる。しかし間のとり方というよりは、要するに会話が弾まないわけである。冒頭の駅での場面がそのシチュエーションを象徴的にあらわしている。映画監督の卵・木下と脚本家の卵・坪井は駅の前で並んで立っている。互いに顔ぐらいは知っているが、友人と呼べるほどの仲ではない。言葉を交わすでもなく、互いに共通の友人である船木が早く来ないかと心待ちにしている。しかし舟木は来ない。とそこへ舟木から携帯に電話がかかってくる。同じ携帯で二人がそれぞれに舟木と話す。その度に一人ずつ画面の前の方に出てくるところが可笑しい。前に来るから観客にも声が聞こえるという卓抜な設定である。船木は約束を忘れていたようだ。船木が遅れることが分かると、あいつは俺より年下なのかなどもう一人のことをしきりに聞き出し始めるのが可笑しい。「ゴドーを待ちながら」じゃないが、「船木を待ちながら」二人は仕方なく宿屋へと向かう。しかし宿屋は閉まっていた。

 冒頭部分の雰囲気が映画の雰囲気を決定付けている。互いに相手を意識しあい、弾まない会話。映画は、船木が到着するまでの時間をこの二人がどう過ごしたかを描いてゆく。やがて敦子が二人に加わってようやく話が弾みだす。ここからふたりの男と一人の女の旅に変わる。様々な出来事と出会うが、映画の視点は出会った出来事や人々にではなく、むしろ主人公の木下と坪井に向けられている。二人の意識の変化と、二人を包む空気が描かれるのである。妙な宿や妙な人々が次々に出てきて、その都度彼らを包む空気が変わってゆく。二人の微妙な距離感もしだいに縮まってきて、例の「リアリズムの宿」に泊まったときには、腹を立てていた漫画の主人公とは違って、二人は一緒に笑い転げる。

 つげの原作にはこの笑いがない。宿での大笑いだけではなく、二人の微妙な距離感や彼らを包む空気が引き起こすちょっとした笑い(「オフビートな笑い」と表現した人もいる)、これがない。この違いが原作と映画の一番の違いだろう。原作にある物寂しさ、そこはかとなく感じる滑稽さに代わって、現代的なクスクス笑いが振りまかれている。どちらがいいというわけではない。映画は原作漫画とは別の作品であり、それ独自の魅力を作り出しているのだから。

誰も知らない

2004年 日本c_aki03b
【スタッフ】
脚本:是枝裕和
監督:是枝裕和
音楽:ゴンチチ
撮影:山崎裕
【出演】
柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、YOU、韓英恵
加瀬亮、寺島進

 カンヌ映画祭で主演の柳楽(やぎら)優弥が史上最年少の14歳で最優秀男優賞を受賞した。大体の話は事前に知っていたが、前半は予想に反して子供たちの 日常が意外に明るく描かれている。是枝作品は「幻の光」「ワンダフル・ライフ」に続いて3本目だが、前の2本はほとんど覚えていない。特に後者は見たことすら忘れていた。「誰も知らない」はこの2本よりも格段に優れた作品である。

 あるアパートに母親と息子一人が引っ越してくる。おや、どうして子供が一人だけなんだと思っていると、トランクの中から女の子と男の子が出てくる。もう 一人の女の子は別に電車かバスで来たようだ。長男が迎えに行く。これで全員がそろった。この最初の展開が意表をついていて面白い。母親は子供たちに大声で 騒いではいけない、ベランダや外には出てはいけないと言い聞かせる。理由ははっきり示されてはいないが、父親がいない(海外出張中ということになっている)母親と子供4人の家族ではアパートが借りられない事情があるようだ。子供は出生届も出されていず、父親もそれぞれ違う。学校にも通っていない。

 最初のうちは母親の働きと長男の主婦代わりの活躍で何とか楽しく暮らしている。子供たちも言いつけを守っている。この暮らしが暗転するのは、ある日突然母親が出て行ってしまってからだ。子供の父親が全員違うことが暗示しているように、この母親は自分勝手でうまく男と付き合ってゆけないようだ。選んだ男もそれなりの男たちなのだろう。そのわりにはよくしつけられた子供たちなのが不自然と言えば不自然だが。好意的に解釈すれば、母親がいい加減なので子供たちがその分早く自立しているともいえるかもしれない。

 長男の明を演じる柳楽優弥は確かに存在感がある。特に目が印象的だ。他の3人も個性的でよく描き分けられている。母親役のYOUもいかにも無責任そうな 母親の役をうまく演じている。というより彼女の地そのままの感じだ(言い過ぎか?)。母親失踪後一人の女子高校生が子供たちと接近する。しかし彼女もいじめにあっていて、子供たちの生活を支える力はない。

 それでもある事故が起こるまではむしろ子供たちの明るさと不自由な中でも何とか生きてゆくたくましさが描かれていて好印象があった。しかしあるとき一番下の女の子が椅子から落ちて瀕死の重態になる。その頃には母親が送ってきたお金も底をつき、医者につれて行けない。警察や生活保護に頼れば、4人がばらばらに暮らすことになるのでそれにも踏み切れない。結局幼い妹は治療も受けずに死んでしまう。長男の明は、いつか飛行機をみに連れてゆくと言った約束を果たすために、高校生の女の子と一緒に死んだ妹をトランクに詰めて羽田空港まで行く。空港の近くに妹を埋めて帰ってくる。

 この最後の3分の1あたりが見ていて非常にいらいらした。つらいというよりいらいらした。4人がばらばらになるのはいやだという明の気持ちも理解できるが、だからと言って重態の妹を見殺しにすべきだったのか。正直言って、このあたりは無責任な母親より明の態度に疑問を感じた。なんとも重苦しい結末であ る。

 実話に基づいてはいるが、子供たちの生活、心理描写については是枝監督の創作だとmado01bwいう。事実関係を見れば実際の事件の方がもっと悲惨である。映画では一番下の女の子が死ぬのは椅子から落ちたためだということになっているが、実話では長男が付き合っていた男友達の一人が面白半分に幼い女の子を折檻して死なせたのである。さらに実話ではもう一人男の子がおり、その子は病気で死んだのだが戸籍上生まれていないので死んだと届けるわけにも行かず、消臭剤と一緒に押入れに隠していたという。子供たちはずっと死体と一緒に暮らしていたのである。

 これではあまりに悲惨なので前半は子供たちの世界を明るく描いているのだろう。前半はよく出来ていたと思う。問題は後半だ。妹が死ぬあたりから最後までは明に共感できなかった。観ているうちに気持ちが離れていった。その理由は上に述べたが、共感できない理由は明の気持ちがはっきりと示されず、彼の行動だけが描かれているからではないか。頭の中では悩んで葛藤していたに違いないが、行動だけ見ていてもその気持ちが分からない。いらいらするだけだ。死んで いった一番小さい妹は哀れだが、映画は出口が見出せないままの状態で終わる。無理やりお涙頂戴にしなかったことはいいとしても、何の救いもないままに終わ るのは疑問が残る。

 是枝監督はかつてフジテレビでドキュメンタリー番組を作っていたようだ。その中には『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(91)というタイトルの番組もあるようなので、以前からこの種の問題には関心があったのだろう。子供たちが「発見」されるところで映画を終わらせなかったのは、このような問題が今でも社会の中に存在し続けているのだと訴えたかったものと思われる。この3人の子供たちは今でもどこかで暮らしているのである。その意味でドキュメンタリー風に撮った是枝監督の手法は成功していると言ってよい。「僕はこの作品が持つ境目のない空気の中に、未だ漂っているのかもしれない」とあるサイトで書いている人がいたが、「境目のない空気」と言う表現はフィクションが現実に思えかねないこの作品の現実感をうまく表現している。

 ただやはり問題はこの最後の行き詰まり感だ。この作品を観た後に暗澹たる気持ちが残るのは、恐らく焦点を子供たちに絞っているからだ。作品は子供たちの視点から描かれている。そのために母親の事情がほとんど何も描かれていない。母親に自分勝手だと非難を向ける明に、「私には幸せになる権利はないの?」と返した言葉だけでは不十分だ。もちろん彼女だって生まれてすぐ子供を邪魔者扱いにして殺してしまったわけではない。出て行くまでは一応育ててはいた。映画が始まった時点の様な事情にどういう経緯でなったのかは一切語られていない。それでいきなり母親がいなくなれば当然非難は母親に向けられる。もちろん無知で無責任な親だったと言わざるを得ないが、戸籍のない子供をかかえた未婚の母にどれだけ世間が冷たいか観客も自問してみればいい。それぞれの子供の父親だって同じように無責任なのだが、非難が母親にばかり向けられるのは未だにダブル・スタンダードが生きていることを示している。しかしこの映画はその方向は一切切り捨て、ひたすら子供たちの日常に密着する。そこに閉塞感が生まれる。

 要するに、この映画の一番の問題はどこにも怒りのもって行き場がないことである。だから観客は、子供たちに同情し彼らをそこに追い込んだ状況に怒りを覚 えながらも、その怒りの持って行き場がないのでいらいらするのである。ケン・ローチ監督の「レディバード・レディバード」との決定的な違いはそこにある。 こちらは同じようなだらしのない母親を描きながらも、その彼女には子供を養育する資格はないと次々と子供を「保護」という名の下に奪い取ってゆく行政の非情さを描いている。ついには生まれたばかりの子供まで母親の目の前から奪い取ってゆく。体中から怒りが噴出す思いだった。閉塞感を抜け出すには怒りが必要なのだ。これを見ろとばかりにただ悲惨な状況を突きつけられるだけでは絶望感しか生まれない。見終わった後暗澹たる気持ちになるよりは、憤りを覚える方がましだ。なぜならそこからは現状を変えようという意志が生まれるから。

2005年10月15日 (土)

ハッピー・フューネラル

2001年 中国・アメリカkouteipanda
【スタッフ】
脚本:フォン・シャオガン、リ・シャオミン、シー・カン
監督:フォン・シャオガン
音楽:サン・パオ
撮影:チャン・リー
【出演】
 グォ・ヨウ、ロザムンド・クワン、ドナルド・サザーランド
   イン・ダ、ポール・マザースキー

 ホウ・シャオシェンの「ミレニアム・マンボ」があまりにもつまらなかったので、口直しに観た映画。ホウ・シャオシェンは「珈琲時光」(2003)でもずいぶん作風が変わったと思ったが、この映画は小津へのオマージュなので、作風の変化はそのせいだろうと思っていた。しかし「ミレニアム・マンボ」(2001)を観るともっと前から作風が変わっていたことが分かる。ほとんど香港映画の作りだ。いつの間にウォン・カーウァイに弟子入りしたんだ?かつての台湾映画の旗手は擬似香港映画の三流監督になってしまった。

 そんなわけで夜中に「ハッピー・フューネラル」を見たのだが、こちらは逆に期待以上に楽しめた。中国の本格的コメディを観たのは「キープ・クール」が最初で、その時は当然中国のコメディの作風や傾向がどんなものか知らなかった。もちろん「ハッピー・フューネラル」を加えてもまだ2本目だから中国のコメディ全体については分からないが、この2本に共通する要素があることに気付いた。難しい理屈も、鋭い風刺や皮肉も、ブラックな笑いもいらない、とにかくとことん笑えればそれでいいという作りだ。この映画のレビューの中にはいろいろなことを読み取ろうとしているものがあるが、恐らくそれは見当違いだ。この映画には何もこめられていない。あるのはただ笑いだけだ。何も考えずただ面白がればいい。中国の大衆が求めているのはどうやらそういう笑いだ。

 両方に共通するのは、まず基本的なアイデアを決め(「ハッピー・フューネラル」の場合はアメリカ人映画監督の「笑える葬式」を企画するということ)、それをとことんありえないところまで突き詰めて行くことから生まれる笑いを創造することである。 

 「ラスト・エンペラー」のリメイクを撮るために、中国の紫禁城へ来ていた監督のタイラー(ドナルド・サザーランド)は、かけられた予算は膨大なものであったが、くだらない企画に飽き飽きしていた。アイデアに詰まり、撮影にもさっぱり身が入らない。撮影の合間に、中国には70歳以上生きた人間にはその大往生を祝って“喜葬”を行うという習慣があるのを、メイキングを撮っている中国人カメラマンのヨーヨー(グォ・ヨウ)から聞いて強い関心を持つ。彼はそれを「笑える葬式」と理解し(この段階で既に誤解がある)、自分が死んだときも葬式は「笑える葬式」にしてほしいとにヨーヨーにもらす。その直後本当にタイラーは倒れ、意識不明に陥ってしまう。 「笑える葬式」がタイラーの遺言と信じたヨーヨーは友人のイベントプロモーターのルイス(イン・ダ)と協力して「笑える葬式」の実現のために奔走する。チャン・イーモウ演出で『トゥーランドット』を上映するとか、人気漫才コンビに「タイラーを笑い飛ばせ」を演じさせるとか、さらには人気歌手のコンサート、アフリカの子どもに生まれ変わったタイラーのCG上映など、次々にとんでもない派手な企画をぶち上げる。他にもチェン・カイコーなど有名人の名前が次々に挙がる。金はないが意表をつくとんでもない企画を考え出す才能にたけたルイス(短髪で髪を金色に染めている)が可笑しい。

 しかしヨーヨーはタイラー監督のアシスタント兼通訳を務める中国系アメリカ人のルーシー(ロザムンド・クワン)から、葬儀の資金が全くないと聞かされ愕然とする。だがすぐ立ち直るのが中国人。ルイスと相談するうちに、資金がないのならこの葬式を世界でTV放映し、その広告費で資金を集めてしまえという究極のアイデアをひねり出す。世界に知られる大監督の「喜葬」を一大エンタテインメントとして大々的に宣伝し、世界中から群がるスポンSD-cl-rom05サー相手に広告枠を競売にかけることにする。これが大成功。広大な紫禁城がたちまち巨大な広告展示場と化してしまう。棺はいつの間にか巨額の広告費を出したイタリアの家具会社の家具に変わり、遺体の換わりの人形(本番では本物の遺体になるのか?)には、それぞれ別々のスポンサーがついている時計、衣服、靴(片方はスニーカー、もう片方は革靴)が付けられ、苦肉の策で口にはティーバッグをくわえ、頭の横にはふけ取りシャンプーが置かれている。もう滅茶苦茶だ。あたり一面スポンサーの名前だらけ、紫禁城が広告で埋めつくされる。車のボディでも何でも、とにかく空いているスペースがあれば全部広告が貼られている。このように、よくまあそこまでというくらい、とことん話を大げさにしてゆくのが中国流コメディだ(少なくとも上記の2作はそうである)。

 ところが、肝心なタイラーが奇跡的に回復してしまう。ルーシーからヨーヨーの奮闘ぶりを聞いたタイラーは、自分が回復したことを黙っているようルーシーに言い聞かせる。どうやら彼には何か考えがあるようだ。しかし、あまりの事態の進展ぶりに、ついにルーシーは真実をヨーヨーに話してしまう(その頃までには二人の間に微妙な感情が芽生えていた)。

 その後急に画面は「数ヵ月後」まで飛んでしまう。ルーシーが悩めるヨーヨーをしきりに慰めている。どうやら葬式はキャンセルになったようだ。どこにいるのかはっきりしなかったが、どうやら精神病院にいるらしい。やがて気持ちの整理がついたヨーヨーはルーシーにキスをする。となるはずだが、なかなかキスをしない。離れたところで二人を見ていたタイラーはしばらくたってから「カット」と叫ぶ。しかしどうやらヨーヨーがキスをやめないらしい、何度も「カット」を繰り返す。そして崩れるようにして倒れてしまう。

 タイラーの考えがどんなものだったかはこれで想像がつくだろう。倒れたタイラーはどうなったのか。それは実際に見てのお楽しみ。とにかくはちゃめちゃで面白い。難しいことは言わずにとにかく楽しめばいい、この手の映画はそうするのが一番。  ヨーヨーを演じたのは「活きる」で主演したグォ・ヨウ。コン・リーを上回る名演で、あのきつい顔が記憶に残っている人は多いだろう。ここではあのきつさはないが、まじめなヨーヨーを生真面目に演じている。ばかげた振る舞いをしたりおどけたりしていないから笑いを誘うのである。おどけ役は相棒のルイスを演じるイン・ダが務めている。終始まじめに演じているからこそ、このでこぼこコンビの取り合わせの妙が生きてくるのである。

 しかし僕が一番魅力を感じたのは紅一点のロザムンド・クワン。初めてみた女優である。白石美帆似で、白石美帆よりも美人だ。すっかりほれ込んでしまった。10代のコギャルや20代の女優にはない魅力。いやあ、参りました。ゴブリン沈没。

 監督のフォン・シャオガンは「ハッピー・フューネラル」が日本初紹介作品となる。中国一の売れっ子監督だそうである。97年の「甲方乙方(未)」が大ヒットして以来、中国を代表するヒットメーカーとなる。98年からは寅さんばりに毎年正月映画作品を送り出しているそうだ。恐らくコメディが持ち味なのだろう。チャン・イーモウやチェン・カイコーなどの陰に隠れてこれまで見えなかったが、フォン・シャオガンを始めとしてもっと中国製コメディの輸入が増えてもいいと思った。

寄せ集め映画短評集 その8

在庫一掃セール第8弾。今度は各国映画7連発。

ship002_s「熱帯魚」(1995年、チェン・ユーシュン監督、台湾)

  日本映画の「大誘拐」を思わせる展開。男2人組みが幼稚園生ぐらいの子供を誘拐する。それを見た高校生がトラックに飛び乗り一緒に誘拐されてしまう。小さい方の子供は養子だったので身代金は要求できないことが分かった。そこで高校生の方の親に脅迫電話をかけるが、金の受け渡し現場に警察が来ていたので引き返す。その場にいた警察官が誘拐犯の知り合いで、冷や汗をかきながら言葉を交わすあたりがこっけいだ。ところがその誘拐犯は途中で事故に会いあっさり死んでしまう。残ったもう一人の誘拐犯は困り果てた末、親戚の家族に協力を求める。金に目がくらんであっさりとその一家が協力するあたりも可笑しい。そのおばさんは見世物の蛇女をやっているような人だ。ちょっとやそっとではひるんだりしない感じ。その一家は貧しいが芯から悪い人たちではない。水門の故障で雨が降ると床まで浸水するような家に住んでいる。足元を水につけながら特別驚くでもなくテーブルで食事をしている光景がなんともシュ-ルだ。人質の高校生も別に縛られるわけでもなく親切に扱われている。
  その高校生が実は受験生だった。誘拐犯たちが何とか受験だけはさせてやろうと涙ぐましい努力をする展開が可笑しい。そのためには少しでも早く身代金を手に入れて高校生を解放しなければならない。彼らは交渉を早める。しかし色々すれ違いがあってなかなか交渉が進まない。電話係の男が市外局番のことを知らなくて、いつかけても話中だといってすごすご引き返してくるあたりは笑える。 そうこうするうち高校生は受験生の英雄になり、受験まであと何日と盛んにテレビで市民の関心を集めている。最後は結局警察に見つかってしまうが、高校生は犯人たちをかばって、犯人は別にいて彼らが助けてくれたのだと警察に嘘をつく。最後はうまく収まる。 アジアの国々はどこも学歴尊重社会だが、この映画はそれをうまく題材にして面白いコメディに仕立て上げることに成功している。

「スパニッシュ・アパートメント」(2002年、セドリック・クラピッシュ監督、仏・西)
  卒業しても就職が決まらないパリの大学生グザヴィエがスペインに留学する。いい宿が見つからず苦労した末に大学生達が共同で借りているアパートに住むことになった。他の6名の学生はそれぞれ出身国が違う。イギリス、ベルギー、スペイン、ドイツ、フランス。まるで60年代のヒッピー達のような共同生活。どうやらEUを意識しているらしい。最後にヨーロッパは混沌としているというグザヴィエのせりふが出てくる。 グザヴィエはパリに恋人(オドレイ・トトゥ)を残してきたが、離ればなれになってからはギクシャクしている。その反動からか飛行機の中で知り合ったフランス人若夫婦の奥さんのほうと浮気する。イギリス娘の弟が来てしばらく住み着き騒動が起きたりと、多少のギクシャクはあるがみんな仲はいい。
  1年間の留学期間が終わりグザヴィエはパリに帰る。パリに帰ってもしっくり来ない。かえって自分を見失っている。親の知り合いに世話してもらった仕事もやめてしまい、作家になる決意をする。今グザヴィエは留学期間の経験を思い、ヨーロッパの混沌を思う。
  青年の失業率が高く、仕事が見つかってもやりがいを感じない。そういったヨーロッパの青年の青春の彷徨を描いた映画だ。傑作とまでは行かないが、最近のフランス映画の勢いを感じさせる佳作である。

「ケミカル51」(2002年、ロニー・ユー監督、米・英・カナダ)
  意外な傑作。アメリカ人の薬剤師が新しい強力な麻薬を発明し、取引をするためにイギリスに渡る。その薬剤師を演じるのがサミュエル・L・ジャクソン。イギリスで彼を出迎えるのがロバート・カーライル。この二人に、女性の殺し屋(エミリー・モーティマー)がからみストーリーが展開する。
  何と言ってもサミュエル・L・ジャクソンがいい。イギリスに降り立ったときの彼の格好はスコットランドのキルト(スコットランドの男が腰に巻くあのスカートみたいなやつ)を身につけた何とも珍妙な格好である。終始この格好を通すところがまたいい。空港で見張っていた警察が民族衣装の男を追えと連絡を受けて、たまたまジャクソンの前を歩いていたインド人一行をそれと勘違いしてつけて行く所は愉快だ。これはまあギャグだが、一貫してアメリカとイギリスのからかい合いがサブテーマになっていて、これが実にぴりっとした薬味になっている。例えば、カーライルがフィッシュ・アンド・チップスを買ってくると、ジャクソンがイギリス人は食い物に困っているのかとからかう。チンピラのカーライルは無類のサッカー好きで、リバプールとマンチェスターUとの試合の切符が欲しいためにこの仕事を引き受けているという設定だ。ジャクソンの名前がマッケルロイというスコットランド名なのもおかしい。他にも散々ひどい目に会うチンピラが出て来たり、リス・エバンスが相変わらず切れた演技を見せていたりと細部にもよく気を配っている。
  意外な収穫だったのは殺し屋役のエミリー・モーティマーだ。細身でとても殺し屋には見are1x02えないが、それがまた妙にはまっていて魅力的である。いきなり冒頭部分の結婚式の場面で花嫁のような白い衣装を着て登場する。教会で突然ハシゴを登り機関銃を組み立て始める。首尾よく参列者の一人を撃ち殺し、教会の鐘撞きロープを伝って下に降り、何食わぬ顔で脱出する。まるで「キル・ビル」だ。この時点からもう彼女の魅力にはまっていた。坂井真紀タイプの顔だが、なかなか色気もあってとてもよろしい。また、彼女が実はカーライルの昔の恋人だったという設定も気が利いている。リバプールが舞台だが、基本的にはアメリカ人の視点からイギリスを見ている感じである。それが独特のコメディ的な味付けになっているのではないか。「シャロウ・グレイブ」「トレイン・スポッティング」などとは一味違った新たな犯罪アクション映画である。

「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976年、山田洋次監督、松竹)
  さすがの傑作。観客を笑わせ、そして泣かせる。ツボを心得た熟練の演出。笑いの引き起こし方が巧みだ。無理に笑わせるのではなく、ごく自然に笑いが湧き起こってくる。例えば、この映画を見たかったのは別所温泉でロケをしたからだが、ここでのエピソードが面白い。寅さんは別所温泉で知り合いの旅回り一座に出会い、夜上機嫌で一座を呼び奢る。しかし翌日料金を請求されるが、当然そんな持ち合わせはない。無銭飲食で警察のご厄介になる。さくらが金を用意して別所に寅を引き取りに来る。しかし警察に行くと、寅さんは今風呂に行っていると言われる。ここがおかしい。警察のご厄介になりながら、のうのうと温泉に浸かりに行っている。しかも警察官は「寅さん」と親しげに呼んでいる。警察で「一泊」した間に何があったか想像がつこうというものだ。警察での一夜そのものを描くのではなく、ちょっとした言葉の端から想像させる。見事な演出だ。
  本作のマドンナは壇ふみと京マチ子。こちらは泣かせの演出だ。壇ふみは光夫の先生役。その母親役の京マチ子は3年ぶりに病院から家に戻ってきたばかり。実はもう直る見込みがないので最後の時間を好きにすごさせようと家に帰されたのだ。そうとは知らない寅さん、初めは娘の方に入れあげるがみんなに年の差を指摘され、今度は母親の方にべったり。しかし明るく振舞っていた京マチ子が突然死去する。この辺りの運びは笑わせまた泣かせる。練達の至芸。寅さんシリーズはほぼ全作品を見たが、シリーズの中でも傑作の部類に入ると思う。

「隠し剣 鬼の爪」(2004年、山田洋次監督)
  前作「たそがれ清兵衛」と似たような設定(貧乏な平侍が主人公、藩命で人を斬ることになる、主人公が剣の達人で相手もまた達人など)だが、二番煎じの感はない。何より片桐宗蔵を演じた永瀬正敏の凛とした表情が素晴らしい。同じ山田監督の「息子」も傑作だったが、より成長した役者としての彼がいた。剣さばきは真田広之の方が上だが、演技では長瀬も負けていない。立派な役者になったものだ。とても「濱マイク」と同じ役者とは思えない。
  きえを演じた共演の松たか子も素晴らしい。控えめでしとやかな美しさが断然光っている。とても百姓の娘には見えないのは難点だが。友人で敵役になる小沢征悦もいい。しかし、この映画は基本的に主役の二人が中心となって支えている。片桐が女中のきえを実家に帰るよう説得する海辺のシーンでは涙が出た。海辺に二人並んでいる場面はどことなく小津映画を思わせるが、そう思ったときにふと気付いた。小津はあまり若い男女の愛を描いたことはないのではないか。小津の世界は家族中心の世界である。したがって親子の愛と夫婦の愛が中心だ。結婚前の男女の恋愛はあまり出てこない。それは娘や息子の結婚という形で描かれる。それは家族の外の世界なのだ。
  山田洋次は時代劇の作法を東宝の黒澤明から学んだが、松竹の先輩小津からも人間をじっくり描く視点を学んだ。冒頭の片桐の家の描写がなんでもない日常の風景を描いているだけなのに、見ていて感動を覚えた。「隠し剣 鬼の爪」の前半はじっくりと平侍の日常を描いている。これがまた出色の出来だ。従来の時代劇の様なド派手な切り合いなどはまったく出てこない。それでも観客を飽きさせないのは芯となる片桐ときえのほのかな愛情がじっくりと描かれているからである。山田洋次は小津の静と黒澤の動を一つに融合することに成功したのである。「たそがれ清兵衛」と「隠し剣 鬼の爪」を日本映画史上に残る名作に仕上げられたのは、これをなしえたからだ。山田洋次は日本映画界の最後の巨匠である。

「華氏911」(2004年、マイケル・ムーア監督、アメリカ)

  全編にマイケル・ムーアの批判精神と抜群の編集力が冴えわたる。「ロジャー&ミー」や「ボウリング・フォー・コロンバイン」は得意のアポなし突撃取材と記録フィルムをうまく編集していたが、ここでは全体の9割以上をニュースなどの記録映像が占め、それに部分的な直接取材を加えて、全体にナレーションを付けるという新しいスタイルを用いている。しかし基本の姿勢はどれも同じだ。アメリカ社会の問題点や矛盾点を鋭く抉り出し、歯に衣を着せぬ痛烈な批判を加える。 彼の故郷の小さな町フリントはここにも登場する。実質失業率は50%に上り、食べてゆけない貧しい層は、教育を受けられ食うに困らない軍隊に志願してゆく。堕落した金持ちたちが国民をだまし安全な国内にとどまりつつイラクに軍隊を送り、飢えた貧しい人々は戦場に向かい命を落とす。上院議員たちは多数の若者たちを戦場に送り出しながら、自分の息子は送ろうとはしない。
yk02   しかしジョージ・ブッシュの無能ぶりを最初から最後まで馬鹿にしているが、9.11の後は、アメリカ全体が対テロ戦争へ向かって一直線に進んでいった。ブッシュがどんなに無能でも、彼はアメリカを実際に戦争に向けて動かすことが出来たのである。ブッシュが有能だといっているのではない。無能な彼の指揮のもとでもアメリカは戦争に突き進んでいった。いったい何がアメリカをそのように動かしたのか。確かに卑劣なテロには誰もが怒りを覚えただろう。だがそれだけでも十分な説明にはならない。政府がマスコミを事実上報道管制下に置き真実を知らせず、政府に都合のよいことだけを報道したことも重大な問題だ。しかしそれだけでもない。
    アメリカ人の基本的な考え方の中に、武力に対する過信が根強くあるのだ。ここで「ボウリング・フォー・コロンバイン」との接点が生まれる。前作で銃の問題を扱っておきながら、どうしてここではその問題を追及しなかったのだろうか。焦点を絞りたかったのかも知れない。また、下手にその点に触れるとアメリカ中を敵に回しかねない。まことにお粗末な政府の論理にころっとだまされて多くの国民がイラク攻撃を支持した原因は、アメリカ国民自身の中にもあると指摘することになるからだ。まあ、理由はともかく、その点は残念だ。だからといってこの作品の価値が落ちるとは思わないが。

「ラスト・サムライ」(2003年、エドワード・ズウィック監督、アメリカ)
  まずまずの出来。半ば過ぎあたりまではそれなりにリアルな感じがしたが、最後の全滅にいたる決戦のあたりからいかにもアメリカ映画という演出が目立った。トム・クルーズと小雪のキスはほとんどありえない。当時の日本人にキスの習慣はなかったはずだし、ましてや武士道を尊ぶ一族の女がそんなことを許すはずはない。このあたりは西洋的価値観を無理やり持ち込んでいる。また、一番違和感があったのは勝元の最後を見て敵方の兵が全員跪くどころか平伏する場面だ。見事な最後に感服した敵方の指揮官が感動のあまり一人跪く程度なら理解できるが、次々に平伏するのはいかにも劇的効果を狙った演出といわざるを得ない。
  また、筋の運びの上で一番問題なのは勝元がいったい何に反対していたのかさっぱり分からないということだ。廃刀令にそむいたのは分かるが、天皇をめぐってどんな考えの違いがあったのかがほとんど描かれていない。ただ天皇の取り巻きが外国の言いなりになっている情けない奴らだと間接的に分かるだけだ。
  最後の戦闘場面も、なかなか壮絶に描かれていてさすがにアメリカ映画だと感心するが、本当に銃や大砲を持った敵に刀と矢だけで立ち向かうのが武士道なのか。鉄砲は信長も使っている。武士が本当に戦争をしなくなった時に武士道が成立したものだということがよくわかる。武士は武士道を極めるのが本来の役割ではない。彼らは兵隊であって、戦争に勝つことが彼らの究極の目標のはずだ。そのためにはより強力な武器を持つことは当然のことではないか。戦乱の時代に、いたずらに家来たちを死なすことが美徳であるはずはない。飛び道具も使ったし、政略結婚でも何でもやったのだ。勇気や誠実さなどの精神的美徳はどこでも通じるだろうが、それだけを純化して褒め上げた結果が無意味な玉砕精神をたたえることに通じるのなら、神風特攻隊を褒め上げるのと同じことになる。
  渡辺謙、真田広之、トム・クルーズたちは確かにかっこいい。しかしそのことばかり強調するのはどうか。すぐれた映画ではあるが、やはりアメリカ映画のご都合主義的演出が所々気にかかる映画である。

2005年10月14日 (金)

ロング・エンゲージメント

SD-ang4-052004年 フランス・アメリカ
【スタッフ】
脚本:ギヨーム・ローラン
監督:ジャン・ピエール・ジュネ
撮影:ブリュノ・デルボネル
【出演】
オドレイ・トトゥ、ギャスパー・ウリエル、ドミニク・ピノン
クロビス・コルニヤック  ジェローム・キルシャー
ティッキー・オルガド、ドニ・ラバン、ドミニク・ベテンフェルド
アルベール・デュポンテル、マリオン・コティヤール
ジャン・ピエール・ベッケル

 傑作「アメリ」のジャン・ピエール・ジュネ監督とオドレイ・トトゥが再び組んだ。今回は「戦場のミステリー」らしい。その程度の予備知識で借りてきた。まあ、悪くはないだろう。正直そんな気持ちだった。結果は、期待をはるかに上回る傑作だった。いや、素晴らしい。久々に胸のうち震えるような恋愛映画を観た。最後の最後まであきらめず、一途に恋人の生存を信じるオドレイ・トトゥのじっと前を見つめる目が脳裏に焼き付いてはなれない。韓国のラブ・ロマンス映画とは違う、本物のフランス映画の香り。地獄の様な戦場のリアルさ、黄色がかった映像の深み、幾重にも入り組み底の知れない謎、胸を打つエンディング。恋愛ミステリーの一級品である。

 第一次大戦の激戦地として知られるソンム。冒頭の映像がすごい。雨が降り続き一面泥沼と化した戦場。フランス軍が塹壕を築いたあたりはどうやら元は教会が建っていたらしく、焼け残った木材があちこちに傾きながら、まるで荒らされた墓地の墓標のように立っている。画面手前にある1本の柱には破壊されたキリスト像の一部がぶら下がっている。別の柱にはカンテラが吊るされており、その火屋(ほや)を持ち上げて一人の兵士がタバコに火をつける。その兵士が振り向くと脛まで水がたまった塹壕を兵士たちがこちらに向かって進んでくる。その中に両手を縛られた5人の兵士がいる。彼らはわざと自分の手を銃で撃ちぬいたりして軍法会議で死刑を宣告された兵士たちだ。彼らは塹壕を追い出され、フランス軍とドイツ軍の間の中間地帯に追いやられる。事実上の死刑だ。ドイツ軍に撃たれる者、後ろから味方に撃たれる者、次々に倒れてゆく。やがてフランス軍は突撃を敢行し、5人がいた辺りは銃弾が飛び交い砲弾が炸裂する修羅場と化す。

  その5人の中にマリク(ギャスパー・ウリエル)がいた。やがて彼の婚約者マチルド(オドレSD-fai2-09イ・トトゥ)の元に彼が戦死したという知らせが届く。しかし彼女は彼の死を信じない。数年後彼女は探偵を雇い、自分もゆかりの人物を尋ねてマリクの捜索を始める。一人また一人と話を聞くうちに「死刑」の真相が徐々に明らかになってゆく。マリクはドイツ軍の飛行機の機銃に撃たれて倒れたことも分かった。その時彼は木にMMMという文字を刻んでいたという。MMMとは何を意味するのか。それは彼とマチルダだけが知っているある感動的なエピソ-ドと結びついていた。

 一方当時の関係者がある女性によって次々に殺されてゆく。彼女もまた「死刑」になったある兵士の関係者だった。一旦真相が見えそうになるが、また新たな謎が生まれ、混迷を深めてゆく。どうやら5人のうち3人は間違いなく死亡しているらしい。これには目撃者がいる。では他の二人は生きているのか、その二人の中にマリクはいるのか。少しずつすこしずつジグソーパズルのピースがはめ込まれてゆき、次々に意外な展開が待ち受けている。何かを隠しているような謎めいた関係者の表情、周りがあきらめてもなおマリクの生存を信じて疑わないマチルダの一途な思い。練りに練られた脚本が見事だ。

 この真相追及のストーリーにマリクが出征するまでの二人の思い出の場面が差し挟まれる。この映像がまた実に美しい。小児麻痺で片足が不自由なマチルダを背負って灯台の階段を上る少年時代のマリクの姿が感動的である。

 マチルダは塹壕があった場所にも足を運ぶ。何もない平地で、一面丈の高い草で覆われている。かつての激戦地の面影は全くない。そこで偶然見つけたあるものを除いて。それは事の真相とかかわる重要な伏線となる。もちろんここでは明かせない。

 冒頭の戦場の場面からラストまで、複雑な展開を含みながら、ストーリーはよどみなく進んでゆく。登場人物が多く、途中で名前が混乱してくるので、映画を観ながら簡単な登場人物リストを作っておくといいかもしれない。

 とにかくオドレイ・トトゥが素晴らしい。「アメリ」のちょっと変わった可愛らしさとはまた違う彼女の魅力と出会える。マリク役のギャスパー・ウリエルは「プライベート・ライアン」のマット・デイモンに似た感じで、好感が持てる。マチルダの育ての親である伯父夫婦も印象的だ(マチルダは子どもの頃に両親を亡くしている)。彼女を見守る優しい視線が画面に温かみを加えている。ぜひ一見を勧めたい優れた作品である。

2005年10月13日 (木)

Mr.インクレディブル

train002_s2004年 アメリカ
製作:ジョン・ウォーカー
脚本:ブラッド・バード
監督:ブラッド・バード
撮影:アンドリュー・ヒメネズ
声優:クレイグ・T.ネルソン ホリー・ハンター サミュエル・L.・ジャクソン

  「バグズ・ライフ」「トイ・ストーリー」「モンスターズ・インク」「ファイディング・ニモ」などの大ヒット作を生み出してきたピクサー&ディズニー共同による長編フルCGアニメの第6弾。監督は「アイアン・ジャイアント」のブラッド・バード。もはやピクサーはスタジオ・ジブリと並ぶ安心印。まず外れはない。本作も水準の高い、大人も楽しめる作品に仕上がっている。  CGの精度についてはあえて触れない。CGの技術は「アンツ」あたりで既にほぼ十分なレベルに達している。問題はむしろコンテンツ、つまりアイデアとストーリーである。

  「Mr.インクレディブル」は基本的には従来のディズニー・アニメの枠内に収まっている。スーパー・ヒーローが活躍し、家族そろって観られるようストーリーの中心には家族愛がすえられている。しかし、様々な工夫も見られる。世のため人のためと思ってしたことが逆に助けたはずの人たちから訴えられることになる。ついにスーパー・ヒーローたちはその活躍を禁じられてしまう。この設定がなかなか新鮮でいい。このあたりは時代を反映しているのだろう。「スパイダーマン」のシリーズは1本も観ていないが、2作目はスパイダーマンが学費のためにバイトをしたり、悪党扱いされたり、父の仇と憎まれたりで悩める日々を描いているようだ。共通する傾向が現れている。スーパー・ヒーローには生きにくい時代になったのである。

  何とか一般人になろうとMr.インクレディブルは涙ぐましい努力をしている。活躍する機会がないからすっかり太ってしまい、自分の体より小さいのではないかと思える小型車に縮こまるようにして乗り込んで通勤している。今やしがない保険会社の社員である。しかし正義感抑えがたく、依頼人に同情して裏技を教えたりして、上司から怒鳴られる毎日。そのたまった鬱憤を晴らすために、時々警察無線を傍受しては、仲間のフローズンマンと協力して隠れて人助けをしている。このあたりの描き方は実にいい。このまま最後まで押し通したら実にユニークな傑作に仕上がっただろうに。しかしそこはディズニー。結局はスーパー・ヒーローが活躍して悪党をやっつけるというお決まりのパターンに戻ってしまう。

  まあ、どうしても枠そのものは取り払えないのだが、その範囲内で他にも色々工夫をしている。例えばマントの話。「ベルヴィル・ランデブー」のレビューでなぜスーパーマンはマントをつけているかということを書いたが(ただしこれは高橋裕子著『世紀末の赤毛連盟』からの受け売り)、下手にマントをつけていると飛行機のプロペラに引き込まれたり、何かに引っ掛けたりして危ないから必要ないとカリスマ・デザイナーのエドナ・モードが力説するところはなんとも可笑しい。スーパーマンのシンボルも今や時代遅れなのである。airplane002_s

  スーパー・ヒーローの条件もただ強いだけではなくなっている。Mr.インクレディブル自身はただ力が強いだけの従来型ヒーローだ。下半身が細く、上半身が筋肉もりもり。ただし今やかなり贅肉も加わっているが。必死でシェイプアップするところが笑える。力ずくで及ばないところを奥さんのヘレンや子供たちが補う。ヘレンはスーパー・ヒーロー時代はイラスティガールと呼ばれていた。文字通り「しなやかで、変幻自在に対応できる」能力を持っている。これにものすごい速さで走れるダッシュ、バリアーが張れる娘のヴァイオレットが加わって、要するにファミリー・パワーで難敵をやっつけるという展開になっている。ファミリーを強調するところはいかにもアメリカ的だが、もはや強いお父さんが家族を守るという図式ではなくなっている。むしろ奥さんのほうが活躍しているとさえいえる。ヘレンはキャラクターとしても魅力的だ。美人ではないが、なんともチャーミングである。女性が活躍したり、黒人のスーパー・ヒーローがいたりするところはPC(ポリティカル・コレクトネス)の影響もあるだろうが、アニメにも時代が反映していることは注目すべきことだ。

  色々工夫はしているが、結局のところヒーローたちの大活躍が売りというところは変わらない。ドリームワークスの「シュレック」「シュレック2」と比べても従来の枠に収まっていることは明瞭に分かる。「14歳までに見ておくべき映画トップ50」に「ET」「ファインディング・ニモ」「白雪姫」「スター・ウォーズ」「トイ・ストーリー」「オズの魔法使い」などの他に、「キリクと魔女」「裸足の1500マイル」「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」「ミツバチのささやき」「クジラの島の少女」「友だちのうちはどこ?」「白い風船」など、さらには「自転車泥棒」「狩人の夜」「大地のうた」「アラバマ物語」などまでが選ばれるヨーロッパと比べると、「Mr.インクレディブル」がいかにアメリカ的であるかよく分かる。日本人の感覚もアメリカ人に近いだろう。日本では「自転車泥棒」「狩人の夜」「大地のうた」「アラバマ物語」などはまず絶対挙がってこないし、思いつきもしないだろう。ヨーロッパ人の感覚のほうが正しいというつもりはないが、少なくとも子供には子供らしい楽しいお話を読ませておけばいいと考えるのではなく、様々な風俗文化に触れさせ、社会のかかえる問題についても考えさせることが必要だという考え方には学ぶべきものがある。その考え方が大事であって、どの作品を選ぶかは国によって違っていいのである。

  とまあ、色々理屈をこねてみたが、「Mr.インクレディブル」がよく出来た作品である事は確かだ。十分楽しめばいい。ただその後に他の様々な映画と比べてみることも必要だろう。

2005年10月12日 (水)

思い出の夏

train001_s2001年 中国
監督:リー・チーシアン
出演:ウェイ・チーリン、チョン・タイション、リウ・シーカイ
        リー・ワンチュアン

  山西省の小さな田舎町を舞台にした小品だが愛すべき作品。農村部と都市部の経済格差問題を扱っているが、それを映画のロケという題材を通して描いているところが面白い。主人公の少年ショーシェンは暗記が苦手な落第生。1歳年下の生徒と同じクラスにいる。父親は息子の顔を見ると勉強しろとただ怒鳴るだけ。冒頭で村に移動映画館がやってくる場面がある。なんと上映されたのはチャン・イーモウの「キープ・クール」。現代の話だということがそれで分かる。それがなければ4、50年昔の話かと勘違いしてしまいそうだ。未だに移動映画館で映画を見るところがあるとは。町には映画館があり、毎日見られると少年たちがあこがれるのがよく理解できる。ショーシェンの家のテレビは映りが悪く、かろうじて何をやっているのか分かる程度だ。ショーシェンは映画を見に行きたいが、父親は勉強をしろと禁じる。そして妻と一緒にさっさと映画を見に行ってしまう。ショーシェンは結局勉強をサボって、後から友達と一緒に見に行くのだが、親に見つからないよう離れたところから見ているので何をやっているのか分からない始末。

  そんな村になんと映画の撮影隊がやってきた。この村でロケをするという。ショーシェンは助監督と仲良くなり、映画に出してやると言われる。しかし成績が悪いため、校長が選んだ候補者の生徒たちの中には加えてもらえなかった。しかしカメラテストをしてもいい子役が見つからない。そこにショーシェンが飛び込んできていい演技を見せる。監督が気に入って彼にするというが、校長が首を縦に振らない。劣等性を代表に出来ないと。校長は学校で一番の優等生を推薦し、監督も妥協する。ある日その優等生が脚本を読んでいるとき、ショーシェンの友達が優等生が番をしている牛を逃がし、優等生が牛を追いかけている間に脚本を奪ってしまう。ショーシェンは意外な能力を発揮してせりふを完璧に暗記してしまう。しかし牛を追っていった優等生が行方不明になってしまった。せりふ覚えのよさを買われて子役に抜擢されたショーシェンもその罰でまた子役を下ろされそうになる。助監督の説得で、教科書を暗記できれば映画出演を認めてやると校長に言われ、ショーシェンは見事に教科書を暗記してみせる。

  こうして何とかショーシェンは子役の役をもらうことができた。しかし脚本の中に「町にいたくない村に戻りたい」というせりふが出てきて、撮影が頓挫する。町に行きたくて仕方がないショーシェンはどうしてもそのせりふが言えなかったのだ。嘘はつきたくないと。このあたりはいかにもとってつけたような感じもするが、現代中国の都会と田舎の格差をよく表現していると言える。結局監督がこの子役は使えないと見切りをつけ、撮影隊は他の村にいってしまった。

  しょんぼり家にいたショーシェンは照度計が家の垣根に忘れられているのに気付き(彼car008_sの家でロケが行われた)、撮影隊を追ってそれを届けようとする。しかし撮影隊は宿泊所を既に出ていた。向かった先の村は何十キロも離れたところにある。ショーシェンは自転車で追いかけるが、途中で自転車が壊れてしまう。修理してもらっているときに撮影隊がいる村に向かうダンプカーを見つけ、その荷台に乗ってしまう。いつの間にか暗くなり、ダンプカーは積んだ荷物(どうやら石炭ガラのようだ)をザアーっと降ろして走り去る。石炭ガラと一緒に放り出されたショーシェンは、暗闇の中必死になって石炭ガラに埋もれた照度計を探す。やっと照度計を見つけ、さらに歩き続ける。

  村から連絡を受けてショーシェンが撮影隊を追いかけていることを知った助監督が車でショーシェンを探す。やっと道端で座り込んでいるショーシェンを見つける。遠くから2人を映し出すカメラ。ショーシェンが照度計をわたすのが分かる。このあたりがラストシーンだったか。

  もっと先まで見たい気がしてやや物足りなかった。しかしいい映画だ。それにしても、中国旅行記にも書いたが、中国国内の経済格差はすさまじい。巨大ビルが建ち並ぶ大都会があるかと思えば、「あの子を探して」に描かれたような、まともな教師もいない寒村もあったりする。冒頭に書いたように、何の手がかりもなければ昔の話かと錯覚するほどで、とても同じ時代とは思えない。「HERO」や「LOVERS」のようなハリウッドばりの映画が作られている一方で、それを見ようにも映画館一つない村もあるのだ。ショーシェンが都会に憧れる気持ちも分かる。考えようによっては、映画の主題になる材料がいくらでも転がっているということか。

  2人以外は全部素人の俳優を起用したそうだ。ショーシェン役のウェイ・チーリン少年も実際に村に住んでいる少年らしい。監督は主役の少年を探すために、小学校を何十校も訪ねたそうである。野性味があってなかなかいい子役だった。昔は日本にもこういうガキがいっぱいいたな。

2005年10月11日 (火)

雲 息子への手紙

sky_window2001年 ベルギー・ドイツ
監督:マリオン・ヘンセル
撮影:ディディアー・ファーター、ピオ・コラッディ
朗読:カトリーヌ・ドヌーブ、シャーロット・ランプリング

  「ディープ・ブルー」は海の生物の映像詩だったが、こちらは雲の映像詩である。生き物の生態を写し取ったドキュメンタリー映画は幾つかあるが、雲を延々と映し出した映画は今までなかったのではないか。「雲を見る」というエッセイに書いたが(本館HP「緑の杜のゴブリン」の「エッセイ」コーナー所収)、僕は雲を見るが大好きである。それでもすぐに見なかったのは映画としてどうかという不安があったからだ。果たして、結果は懸念通りだった。理由は幾つかある。まず、僕としては雲が刻々と移り変わって行く様をじっと眺めていたいのだが、映画はそうさせてくれない。どんどん次の画面に切り替わってゆく。その分様々な雲が観られるが、じっくり見られないのではどうしても不満が残る。

 もう一つの理由はナレーションである。雲の映像に時々監督のマリオン・ヘンセルが息子にあてた手紙の朗読が入る。フランス語版をカトリーヌ・ドヌーブが、英語版をシャーロット・ランプリングが担当し、他にドイツ語版やスペイン語版などもある。この手紙自体は悪くはないのだが、その度に別の映像がさしはさまれ雲の映像が中断される。これがいかにも邪魔である。もともとドラマであれば問題はないが、ドラマではない映像の流れに別のものが割って入ることになるから邪魔に感じるのである。それも単なるナレーションならそれでもいい。それはよくある一般的な形だ。映像にマッチしていれば邪魔にはならない。ところがこの場合は母子の間の個人的な独白であって、雲の映像とは何の関係もないし、個人的な事情を云々されてもうるさいだけである。普通の詩であればまだ我慢できたと思うが。  もっとも、これは完全に僕の個人的な感想だ。雲に特別関心のない人なら却ってナレーションがあるからすくわれると感じるかもしれない。いや、そういう人ならそもそも見ようと思わないだろうな。

 それはともかく、上記の様な不満はあるが、映像自体は十分魅力的である。下から上から横からと、様々な角度から様々な雲を写し取っている。中には見たこともない雲の映像もある。気持ちの悪い雲や不気味な雲も出てくる。雲だけでは飽きると思ったのか、ターナーなどの雲が描かれている絵画や、雲に似ているほかのもの、火山の噴煙や間欠泉から噴出される水しぶきなどの映像も差し挟まれる。火山の映像では火山弾がこちらに向かっていくつも飛んでくる。思わず体をそらしてよけそうになった。

 まれに見る映像もある。地上から噴煙が吹き上げられている映像が出てくるが、その煙の一部がタバコの煙を噴き出すときに時たまできるようなワッカになっている。まるで地面がタバコの煙をぷかーりぷかーりと吐き出しているように見える。不思議なことにそのワッカがなかなか消えない。空に突き出すように煙が煙突状に伸び、その先端にワッカがある。先端の部分は空気が回転しているのか、煙の先端を折り返すように巻き込んでいるのでワッカが消えない。下に煙をたなびかせながらどんどん上に上って行くのである。言葉で描写するのでは正確に伝わらないかもしれないが、先端にワッカがあり煙突状に細長く煙が伸びているさまは、変なたとえで申し訳ないが、まるで伸びきったコンドームのように見える。よけい分かりにくいか?まあ実際の映像を見てください。この映像を見るだけでも価値があります。ひょっとしたらあなたも雲好きになるかも。

2005年10月10日 (月)

海を飛ぶ夢

SD-memb-012004年 スペイン・フランス・イタリア
【スタッフ】
製作:フェルナンド・ボバイラ
脚本:アレハンドロ・アメナーバル、マテオ・ヒル
監督:アレハンドロ・アメナーバル
音楽:アレハンドロ・アメナーバル
撮影:ハビエル・アギ-レサロベ
【出演】
ハビエル・バルデム、ベレン・ルエダ、ロラ・ドゥエニャス
マベル・リベラ セルソ・ブガーリョ、クララ・セグラ、タマル・ノバス

  「アザーズ」(2001)「オープン・ユア・アイズ」(1997)で知られるアレハンドロ・アメナーバル監督の作品。多才な人で「オープン・ユア・アイズ」の再映画化作品「バニラ・スカイ」(2001)と「蝶の舌」(1999)、そして本作で音楽も担当している。スペイン映画はこのところ好調で、「死ぬまでにしたい10のこと」(2002)、「トーク・トゥ・ハー」(2002)、「靴に恋して」(2002)と傑作が続いている。アレハンドロ・アメナーバル監督はこの「海を飛ぶ夢」でペドロ・アルモドバルと並ぶ現代スペイン映画の2大巨匠になったと感じた。 参考までにこれまでに観たスペイン映画のマイ・ベスト10を次に挙げておく。

「ミツバチのささやき」(1973) ヴィクトル・エリセ監督
「黄昏の恋」(1982) ホセ・ルイス・ガルシ監督
「エル・スール」(1983) ヴィクトル・エリセ監督
「カルメン」(1983) カルロス・サウラ監督
「蝶の舌」(1999) ホセ・ルイス・クエルダ監督
「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999)  ペドロ・アルモドバル監督
「死ぬまでにしたい10のこと」(2002) イザベル・コヘット監督
「トーク・トゥ・ハー」(2002) ペドロ・アルモドバル監督
「靴に恋して」(2002) ラモン・サラサール監督
「海を飛ぶ夢」(2004) アレハンドロ・アメナーバル監督

  次点は、ガルシア・ロルカ原作の「ベルナルダ・アルバの家」(1987、マリオ・カムス監督)。暗く地味な映画だが秀作である。リストからは外したが、80年代末に話題になったチリのミゲル・リティン監督作品「戒厳令下チリ潜入記」(1988)も名義上はスペイン映画である。

  「海を飛ぶ夢」は実話を基にしている。若い頃引き潮に気付かず浅瀬に飛び込んで首を打ち、その後20数年間寝たきりになっている男が主人公である。寝たきり状態の人物が主人公であり、生と死がテーマとなっている点では「トーク・トゥ・ハー」や「ジョニーは戦場へ行った」(1971)にも通じる作品である。後者は第一次大戦で両手両足をもぎ取られ「芋虫」のようになった若き兵士ジョー・ボナムの話で、公開当時世界中に強烈な衝撃を与えた。彼は声も出せず、目も見えず、耳も聞こえず、匂いもかげない。顔のほとんども吹き飛んでいたのだ。看護婦はジョーの腹に指で字を書き何とか言葉を伝えようとする。なかなか理解できず、やっとそれが「メリー・クリスマス」と書いている事が分かって、ジョーが頭を上下に振って分かったことを伝える場面はかつてない深い感動を覚えた。

  「海を飛ぶ夢」の主人公ラモン・サンペドロ(ハビエル・バルデム)は見ることも聞くことも話すこともできるし、手足もある。しかし20年以上もの間寝たきりの生活が続き、彼はついに尊厳死を選択する。しかし裁判で敗れ、最後はほとんど自殺の様な形で自らの命を絶つ。映画は彼の最後の日々を描いている。彼が訪問者に向ける顔はいつも笑顔である。なんとも素敵な笑顔だ。だが自分でそれは「他人の助けに頼って生きるしかないと、自然に覚える」のだと話す。どんなに笑顔でいてもその底には深い絶望がある。映画では描かれなかった20数年の間、ずっと彼はその絶望と共に生きてきたのだ。しかし観ているものにとって彼の笑顔は正直救いである。絶望に沈んだ顔を見るのはつらい。

  彼の元に女性弁護士フリア(ベレン・ルエダ)がやってくる。彼とのインタビューを通じ、まSD-moonship03た彼が書いた詩を読むうちに彼女は彼に心を引かれてゆく。ラモンも彼女に引かれてゆく。自然、観ているわれわれは彼に生きる意欲が湧いてくることを望む。しかしフリアとの愛も彼の死への思いを断ち切ることは出来なかった。彼にとってその愛もまた重荷だったのだろう。愛されていても、その愛に応えられないつらさ。その立場になって見なければ分からない。彼はただ空想の世界でのみ彼女を抱けるのだ。

  観た人は誰でも言及するのだが、確かに空想の中で空を飛ぶ場面は素晴らしい。ベッドで寝たきりの彼が突然むくむくとベッドから起き上がり、助走をつけて窓から飛び出す。一瞬自殺するのかと思うと、次の瞬間彼は空を飛んでいる。緑の丘を越えぐっと上昇して目の前に空がいっぱいに広がる。突然動きが止まりカメラが下にパンするとそこには海があった。海岸をラモンとフリアが歩いており、二人は抱き合いキスをする。現実にはかなえられない夢であるだけに感動的であり、またなんとも切ない場面である。

  この映画が優れているのは、彼一人に焦点を合わせるのではなく、家族や彼を支援する人々との関係をきちんと描いているところだ。彼を支援する弁護士のフリア(彼女自身も脳欠陥性痴呆症を患っている)、彼の世話をする支援組織のジェネ(クララ・セグラ)、ラモンに心を寄せるロサ(ロラ・ドゥエニャス)、ひたすら親身になってラモンの世話をする兄嫁のマヌエラ(マベル・リベラ)、弟に生きていてほしいからこそ激しい口調で尊厳死を認めないと本気で怒鳴る兄ホセ(セルソ・ブガーリョ)、ペンを口にくわえて書いたラモンの文章をパソコンに打ち込んだり車椅子の改造をしたりと何かと世話を焼いている甥のハビ(タマル・ノバス)、死を選んだ息子をとめることも出来ずつらい気持ちを抱いている父のホアキン(ホアン・ダルマウ)。ラモンの死を認める、認めないにかかわらず、それぞれの人物の気持ちが理解できる。この複眼的な描き方がどれほどこの映画にふくらみを与えていることか。ラモンを説得しに来た神父は全くの場違いな男として描かれているが、あくまで弟の死に反対する兄ホセの気持ちは真摯なものとして描かれている。それぞれの思いが交錯し、それぞれに悩みながら生きている。死を決意したラモンの周りで生が続いている。支援組織のジェネは子供を身ごもり出産する。フリアは自分の病と闘いながらラモンの詩集を出版することに奔走する。二人の子供を持つロサは生活に疲れ、ラモンへの愛に新たなる生きがいを見出す。

  しかし周りの人たちの思いにかかわらず、ラモンの決意は揺るがない。「生きることは『権利』のはずですが、私には『義務』でした。このつらい状況に耐え続けました。28年4ヶ月と数日もの間です。」ロサと共に家を出たラモンは、特定の支援者に害が及ばないように工夫して青酸カリを用意し、据付のビデオカメラの前でそれを飲み干す。彼は若い頃船乗りとして世界中を旅した。彼の魂は海へと旅立って行ったのだろうか。

  ラモンを演じたハビエル・バルデムはまだ30代の若さだが、20歳も年上の主人公を見事に演じた。観ていて全く自然であった。特殊メークだけの成果ではない。話し方、声、身のこなし、目の表情、すべてが伴わなければこれほど自然には演じられない。単なる暑苦しいラテン系のセックス・シンボル男優でないことを世界中に示した。すごい俳優が出てきたものだ。

寄せ集め映画短評集 その7

在庫一掃セール第7弾。今回はスペイン映画特集。

ladyhome5トーク・トゥ・ハー(2002年、ペドロ・アルモドヴァル監督、スペイン)
  交通事故で植物状態のバレリーナ・アリシア(レオノール・ワトリング)と彼女を一心に看護するベニグノ(ハビエル・カマラ)、闘牛の事故で同じく植物状態 になった闘牛士のリディア(ロサリオ・フローレス)と彼女の恋人マルコ(ダリオ・グランティネッティ)の4人が主な登場人物。特にアリシアを看護するベニ グノの一途な気持ちが胸を打つ。アリシアの美しさも強烈な印象を与える。はげ頭のマルコの渋い存在感もずっしり手ごたえがある。見る前はただ寝ているだけ の女と、彼女たちにただ話しかける男たちだけでどんなドラマが展開できるのかと思っていたが、とてつもない展開が待っていた。植物状態の女性に生理があるのにびっくりしたが、なんとアリシアが妊娠してしまう。彼女と結婚したいとまで思いつめていたベニグノが逮捕され刑務所に入れられる。真相は分からないが、流産した子どもの父親はベニグノだろう。しかも妊娠後アリシアは意識を回復したのだ。しかしベニグノにはそのことは知らされず、子どもが死んだとだけ知らされたベニグノは自殺してしまう。リディアは意識を回復しないままに死んだ。
  想像を超えた展開に驚かされるが、それ以上に人間の深い愛情に打たれる。15年も母親の看病をし、母の死後アリシアの世話をしていたベニグノの本当の心情はもう一つはっきりしない。マルコを恋人と呼んだりするところからホモセクシュアルを匂わせたりもしている。しかしアリシアに対する彼の愛情は間違いな く本物だった。少し頭が足りない感じで描かれているが、刑務所に入れられてからの彼はしっかり自分と周りを理解した人間として描かれていた。哀れにも彼はアリシアの回復を知らずに死んでいった。今は代わりにマルコがリハビリに励むアリシアを見守っている。
 アルモドバルの映画はどれも強烈だ。どこか癖があるが、しかしそれがアクセントになっていて、彼の描く独特の世界に強烈さを与えている。彼はとんでもない天才なのかもしれない。

「カルメン」(1983年、カルロス・サウラ監督、スペイン)
  独裁者フランコの死後にスペイン映画は息を吹き返し、各国映画祭で次々と受賞するようになった(「エル・スール」論参照)。スペイン映画の波が日本にも及び始めたのは1984年頃からである。カルロス・サウラ(彼はスペイン映画史の中で最も多く名前が出てくる 監督である)の「カルメン」が公開され話題になってからである。「フェーム」、「フラッシュ・ダンス」、「コーラス・ライン」や、最近大量にリバイバルされている「イースター・パレード」、「ショウボート」等の50年代頃のアメリカ製ミュージカル映画を見慣れた観客の目から見ても、この映画の演出は極めて新鮮であった。
  激しいリズムにのって跳びはねるのでもなく、集団が一糸乱れぬみごとな動きを披露するのでもない。この映画のクライマックスはアントニオ・ ガデスとクリスティーナ・オヨスが二人だけで踊るフラメンコである。一切のバック・ミュージック、効果音を使わず、床を踏む音と手拍子という自然音だけがリズムを刻む。狭からぬ空間を二人の身体の動きと顔の表情、そして手と足でとるリズムが支配し、あたりの空気をいっぺんに緊張させてしまう。磨き抜かれた芸術がシンプルさを迫力に変えてしまった。静と動、絶妙の間、手の先からつま先に至るまでむだな動きはなく、体の動きはそのままリズムと化し、静止した瞬間は突如として見事にバランスをとった彫刻と化す。この二人の天才舞踏家の存在なくしてこの映画の成功はありえなかった。
  だがサウラの演出も見事である。「カルメン」の舞台を現代に置き換えただけではなく、演出過程を そのまま劇中に収め、現実に進行している場面と劇の進行の場面の境界線をあえて曖昧にすることによって、独特の効果をあげている。サウラの一つ前の作品で、「カルメン」の原型ともいうべき作品である「血の婚礼」よりもダンス、演出ともにすぐれている。第一回東京国際映画祭の時にフランチェスコ・ロージの「カルメン」を観てそのいくつかの場面の卓抜さに感心したが、こちらは本格的なオペラで、初めから最後まで朗々たる歌を聞かされたためうんざりしたところもある。サウラが舞台そのものを撮らないのも、この辺を意識してのことかもしれない。あるいは別の観点から観れば、舞台からはうかがい知ることのできない役者の実際の人間性や、役者どうしの人間関係も同時に描き出そうと(つまり舞台と人生 をないまぜにしようと)意図していたのかもしれない。

死ぬまでにしたい10のこと(2002年、イザベル・コヘット監督、スペイン)rosehome2
  難病ものはお涙頂戴調になりやすいのであまり好きではないが、この映画は傑作だと思った。お涙頂戴的な安易な泣かせ場面作りなどしていない。同じ難病ものの韓国映画「ラスト・プレゼント」はヒロインに共感できなかった。自分の病気をひた隠しにするのは当然相手の気持ちを思いやってのことだが、彼女自身の気持ちがあまり描かれていないために、ただ単に意固地なだけに見えるのでどうしても共感できなかったのだ。しかし「死ぬまで」のヒロインは同じように誰にも自分の死期が近いことを打ち明けないが、夫や母や子供たちに自分の気持ちをつづった録音テープを残すなど、彼女の気持ちが十分見るものに伝わってくるので共感ができる。
  夫を愛しているが別の男と逢びきを続ける。見ていてつらい場面だが、それが「10の誓い」の一つだけに彼女を責める気にはならない。彼女の最後の日々は「10の誓い」を実行することによって、平凡だった人生に最後の輝きを与えることに費やされる。やり残しのない人生を生きるために。その彼女の気持ちを思うと、"My Life Without Me"という原題は何とも悲しい。自分の死んだ後の周りの人々の人生に思いを寄せる彼女の優しさと同時に、それらの人生を共有することができない悲しさがこめられているからだ。

黄昏の恋(1982年、ホセ・ルイス・ガルシ監督、スペイン)
  1984年11月に渋谷の東急名画座で「スペイン映画祭」が開かれた。「クエンカ事件」、「黄昏の恋」、「夢を追って」、「パスクアル・ドゥアルテ」、「庭の悪魔」の5本を観た。80年代前半はフランコ死後に息を吹き返したスペイン映画の黄金時代で、国際映画祭で次々に賞を取っていた。「黄昏の恋」はスペイン映画として初めてアカデミー外国語映画賞を受賞した映画である。
 80年代の中国映画が文革時代を引きずっていたように、当時のスペイン映画はスペイン戦争の影を引きずっていた。「黄昏の恋」はそんな時代のせつない中年の男女の恋を描いた映画である。 恋愛映画だが、若い男女ではなく中年の男女の再会と短い恋の再燃を描いた点で出色である。今はアメリカに住み小説家として名をなしたアントニオはノーベル文学賞を受け、その帰りになつかしい故郷に立ち寄る。そこにはかつての恋人エレーナ がいた。二人は思い出の場所を訪ねる。都会では考えられないほど美しい情景を背に、二人の男女は言葉にできないお互いの愛を確かめ合う。話し合ううちに男は自分が不治の病に冒されもう先が長くないことを打ち明ける。典型的なラブ・ストーリーだが、映画は決して涙を誘おうとせず、二人の傷の深さと愛情の深さを淡々として描いてゆく。二人の俳優の演技がみごとだ。
  そしてこの作品を単なる甘いラブ・ロマンスから救っている要素がもう一つある。作品の終わり近くで、アントニオが祖国を去ったのは内戦のためであることが明かされる。二人は内戦によって「引き裂かれた世代」なのである。彼らは内戦時代に青春を送り、 アントニオはフランコの死後自らの死の直前に祖国に帰ってきたのだ。「僕は自分の人生の中では若い頃が好きだ。そこには君がいたから...」というアント ニオの言葉は、この事実と重ね合わせた時、より深い感銘を覚える。

バレンチナ物語(1983年、アントニオ・ホセ・ベタンコール監督、スペイン)
  内戦によって引き裂かれた恋は、また「バレンチナ物語」の主題でもあった。内戦から長い年月がたった後、スペイン北部のある小 さな村に一人の男が訪ねてくる。その男はバレンチナという女性を探していた。男は彼女に会い、収容所で死んだ戦友の手紙を手渡す。その手紙の主こそバレン チナの幼友達であり、二人が幼いころ深く心をかよわせあったペペであった。
  画面はそこから回想に変わる。幼い二人はペペが寄宿学校に入ることになったため 別れ別れになり、その後の内戦が二人を決定的に引き裂いてしまった。死んだ者は数知れず、生き残った者にも苦難の日々が待っていた。「黄昏の恋」に比べる と甘さは否めないが、内戦が残した傷の痛みはひしひしと伝わっており、幼い二人の恋というにはあまりに淡い心の触れ合いは忘れ難い感銘を残す(ちなみに司祭を演じたアンソニー・クインが好演している)。
  全編これ拷問シーンばかりかという作品ながらそれまでの興行収入記録を塗り替える大ヒットとなった「クエンカ事件」や名作「エル・スール」を始め、この時代のスペイン映画の多くには内戦の影が付きまとっていたのである。80年代の中国映画の多くが文革の傷を引きずっていたように。
  ソ連映画にもこの二作に通じる主題を扱った「五つの夜に」(ニキータ・ミハルコフ監督、79年)という作品があり、ラストでヒロインがつぶやく「戦争さえなかったらねえ」という言葉には胸を突かれる思いがした。

2005年10月 9日 (日)

笑の大学

art-pure1504cw2004年 東宝
【スタッフ】
脚本:三谷幸喜
監督:星護
音楽:本間勇輔
撮影:高瀬比呂史
【出演】
役所広司、稲垣吾郎、小松政夫、高橋昌也

  三谷幸喜の芝居とテレビ・ドラマは一度も見たことはない。しかし朝日新聞に連載している「三谷幸喜のありふれた生活」は愛読している。映画は「12人の優しい日本人」「ラジオの時間」「みんなのいえ」とこの「笑の大学」を観た。「みんなのいえ」はがっかりしたが、他の3本はどれもいい。「12人の優しい日本人」は「十二人の怒れる男」のパロディだが、「笑の大学」は作家としての絶頂期に召集され帰らざる人となった榎本健一の座付作家菊谷栄へのオマージュでもあるので、ラストはいささか重たい。大爆笑で終わる(らしい)舞台版とは違うエンディングなので、人によって評価がはっきり分かれている。

  映画館では終始笑っている人もいるようだが、恐らく三谷幸喜の笑いの質は爆笑するような笑いではなく、くすくす笑う類だと思う。大笑いすることもあるが、基本的には小さな笑いを引き出すタイプである。おとぼけやバカバカしいしぐさで笑わせるというよりも、どこか知的で思わずぷっと噴出す笑いである。「12人の優しい日本人」も「笑の大学」も登場人物たちは大真面目で議論している。しかしその議論が思わぬ方向に転移・発展してゆく面白さなのである。「ラジオの時間」も脚本を無理やり変更されてあたふたする話という点では「笑の大学」と共通するところがある。当人たちは必死なのだ。

  「笑の大学」の最初のあたりはあまり笑えない。シチュエーション・コメディなのでまず設定を作らなければならない。冒頭部分はその設定部分であるため笑いの要素は少ない。笑いが起きてくるのは喜劇作家が重い課題を背負って、何とかその課題をクリアしようと工夫し始めてからである。

  二人のやり取りは真剣である。何としても時勢に合わないコメディを不許可にしたい検閲官向坂睦男と初日が迫り後がない作家椿一との真剣勝負。笑いを知らない検閲官と何をやっても笑いにしてしまわずにはいられない喜劇作家。二人が真剣に遣り合えばやりあうほど可笑しさがこみ上げる。そしてやりあううちに敵対から共同へといつの間にかwaveleaf関係が転移してゆく。正反対のものがぶつかり合うおかしさ、そこから生じるズレと逆転、思わぬ方向への転移とねじれ。コメディの常道である。ねじれ弾をこれでもかとばかり次々に放つ。怒鳴り威圧しながらも少しずつ笑いに傾いてゆく検閲官、戸惑いうろたえながらも意外な粘り腰で無理難題を乗りこえてゆく作家。にらみながら時々笑いで顔が引きつる検察官、下手な芝居まで実演しながら必死で食い下がる作家。この二人の必死の攻防を通じてねじれにねじれてゆくストーリー、そこに思わぬひらめきと発想が生まれ、結果として台本は練り上げられ、二人の関係は近づいてゆく。意図せぬ共同作業が台本を練り上げていったのである。まるで弁証法のように。類まれな才能同士が協力し合ったり激しくぶつかり合ったりしていた「ビートルズ」時代の方が、自分の思うように曲が作れたそれぞれのソロ時代よりも優れた作品を生み出していたのと同じ関係だ。

  ついに文句のつけようのない台本が完成し、上演許可が下り、一件落着かと思われた瞬間、またがらっと展開が変わる。安心したあまり椿が自分の信条を向坂に吐露してしまう。上演禁止覚悟で検閲に応じないというやり方もあるが、喜劇作家である自分はむしろ自分の才能を発揮して無理難題を乗り越えてやろうと思った、それが自分なりの抵抗の仕方なのだともらしてしまう。それが向坂の検閲官としての自覚に再び火をつけてしまう。ついに向坂は椿に究極の無理難題を突きつける。翌日椿が書き上げてきたものは・・・。

  この後さらにもうひとひねりあり、その部分が菊谷栄へのオマージュとなっている。最後のあたりでがらりと作品の色調が変わってしまうのは、脚本家自身が顔をのぞかせているからである。コメディ作家の信条を語り、また尊敬する先輩作家への敬意を示す。コメディとしての一貫性が損なわれているという批判が出てくるのも理解できる。しかしそう悪いエンディングだとは思わない。ベストとはいえないが、作家は常に時代に翻弄されているのだというテーマを突き詰めたエンディングである。「サルマタ失敬!」で終わるよりはよほどいい。舞台で爆笑バージョンは作った。映画は違った作りにしたかったと本人も語っている。二つのバージョンがあってもいいだろう。

  役所広司は本当にうまい。笑いは人を変える力を持つ、笑いは人生を豊かにするというテーマを彼の体ひとつで見事に体現している。この当代随一の名優を相手に稲垣吾郎も健闘した。二人を比べれば明らかに劣るが、役者として大きく成長したことは認めるべきだろう。コメディ作家の信条を語るときの彼は実にいい顔をしていた。今後の活躍が楽しみである。

2005年10月 8日 (土)

小さな中国のお針子

moontalisman22002年 フランス
監督:ダイ・シージェ
出演:ジョウ・シュン、チュン・コン、リィウ・イエ
    ツォン・チーチュン、ワン・シュアンバオ
    ワン・ホンウェイ、シャオ・ション

  期待通りの傑作だった。「山の郵便配達」よりももっと山奥の小さな村に二人のインテリ青年(マーとルオ)が下放されてくる。誰ひとり字を読めるものもおらず、バイオリンを見てもおもちゃだと思ってしまう始末。もってきた料理の本はすぐその場で燃やされてしまう。そこで二人は「小さなお針子」という名前の女の子に出会う。村一番の美人だ。二人はすっかり彼女に引かれてしまう。すぐ二人は彼女と親しくなる。二人と彼女を結び付けているのはお互いの愛情だけではなく、本である。字の読めない彼女に本を読み聞かせ、字を教えていた。本はもう一人の下放青年「メガネ」から盗んだものだ。魯迅のものも一冊あったが、他は西洋の本ばかり。「ゴリオ爺さん」、「モンテ・クリスト伯爵」等々.やがて彼女は西洋の考え方に感化され、村と二人を捨てて出て行ってしまう。20数年後再会した二人はかつて二人が青春時代をすごした山村が巨大ダムに沈むことをテレビのニュースで知る。しかし「小さなお針子」にはその後会えなかった。

   文革時代を背景に恋愛ロマンスを描いたところが新鮮だ。「初恋のきた道」より時代色が濃く、識字と文学が絡まっている分奥行きがある。「山の郵便配達」と同じような山村を舞台にしているが、親子の愛ではなく、男女の恋愛を描いている。しかも一種の三角関係である。一人は気持ちを奥に秘めてはいたが。風景描写の美しさはどちらもすばらしい。恋愛的情緒は「イルマーレ」に通じるが、「小さな中国のお針子」に比べると「イルマーレ」はいかにも人工的な設定に思える。

 隠れて字を教えるというテーマはNHKのドラマ「大地の子」にも通じる。文字を学ぶことを通して物語を知ることは、自分の世界を超えた新しい世界、まだ見ぬ広い世界を知ることである。また、新しい自分の可能性を知ることでもある。だから「小さなお針子」は村を出て行ったのだ。恋愛のテーマよりもこのことこそ、作者が一番言いたかったことではないか。

山田洋次監督「故郷」

1972年 松竹kagaribisou-1
【スタッフ】
製作:島津清
脚本:山田洋次、宮崎晃
監督:山田洋次
音楽:佐藤勝
撮影:高羽哲夫
【出演】 倍賞千恵子、井川比佐志、渥美清、前田吟
          田島令子、矢野宜、阿部百合子、笠智衆

  「家族」と対になる作品である。どちらも島に住んでいた家族が生活苦のため故郷を出てゆく話である。「家族」は島を出て北海道に行くまでの旅を中心に描いていたが、「故郷」は島の生活を中心に据え移住を決意するまでを描いている。

  瀬戸内海に浮かぶ小さな島、広島県倉橋島。そこに石船と呼ばれる運搬船を操り、生活を営む一家がいた。石切り場から石を運び出し、船で運んで海に捨てる仕事だ。石を海に捨てる場面には思わずぎょっとした。網に石を入れてクレーンの様なもので持ち上げる。石を入れて大きく膨らんだ網の直径は2メートル近くある。かなりの重量だ。それをクレーンを回転させて船の真横に持ってくる。当然船はバランスを失って横に傾く。小さな船なので一瞬そのまま横転してしまうと思ってぎょっとしたのだ。しかし傾いたために甲板に乗せていた石が一気に海に落ち、それで船は浮力を得、さらに網の石も放出するかまたは船の方に戻してバランスを取り戻し、船は元に戻る。ちょうどダンプカーが荷台を傾けて積荷を落とすように、船自体を横に傾けて積んでいた石を海に落とすのである。まかり間違えば本当に横転しかねない危険な作業だ。このシーンはまるで記録映画のようなタッチで描かれている。

  この危険な作業をしているのは石崎一家。家長であり、大和丸の船長石崎精一(井川比佐志)、妻であり機関長の民子(倍賞千恵子)。他に精一の父仙造(笠智衆)と二人の子供がいる。もうひとり重要な登場人物として魚売りの松下がいる。演じているのはご存知渥美清。最初は声で登場する。軽トラックで魚を売りに来るのだが、マイクから彼の呼び声が流れてくるのである。その声を聞いただけで懐かしさがこみ上げてくる。稀有な俳優だ。彼は石崎一家とは親しく付き合っており、いい魚が入るとわざわざ自分で石崎の家まで持ってくる。そこで色々話をして帰ってゆく。時には家族の言い争いの場面に出くわしたりする。寅さんシリーズで言えばタコ社長の役割だ。

  この作品のかなりの部分は石舟で仕事をしている場面に当てられている。女の子を乗せ夫と妻が交代で舵を握る。石切り場で船に石を乗せる場面は最後に出てくるが、これもきわめて危険な作業である。ダンプカーが次々に石を運んできては甲板にどさっと投げ落とす。次にまた運んでくる間に石を置きなおして次に落とすスペースを作る。うっかりすれば指を挟んだり、足の上に石が落ちてきたりしかねない。山田監督は実際に俳優たちに何度も石舟の仕事をさせ、いかにも普段からその作業をやりなれている感じを出させている。エンジンの手入れをする井川比佐志の手つきや身のこなしは本物の船長のようである。

  監督がここまで石舟の仕事を強調するのは労働の現場をじっくりと描きたかったからに違いない。映画の中で労働の現場が記録映画のようにこまごまと描かれることはまれだ。たいがいはさっと真似事で終わる。多くの仕事は単調であったり極めて危険だったりする。単調な作業の繰り返しをじっくりと腰をすえて描いたのは新藤兼人監督の「裸の島」である。井戸と畑の間を何度も水桶を背負って往復する淡々とした動きを延々と描き続けた。これは労働そのものを描いた映画である。ロバート・フラハティの有名な記録映画「アラン」を思わせる。「故郷」はそこまで徹底して描いているわけではないが、石舟の仕事がどのようなものか観ているものには十分伝わる。さらにかつて同じ仕事をしていた精一の父仙造と魚屋の松下の会話を通して海の怖さが語られる。

sasa   「故郷」は「家族」と対になる作品だと上に書いた。もっと正確に言えば、「故郷」は「家族」の前段階を描いた作品だと言える。「家族」ではやっと食べてゆけるかつかつの生活を捨て北海道の開拓に希望を託すが、島の炭鉱でどのような仕事をしていたかはまったく描かれていない。登場人物の口から収入と出費がほぼ同じでこれでは生活してゆけないと語られるだけである。生活が苦しいのは「故郷」の石崎一家も同じである。精一は「油代を引けばほとんど何も残らない」と吐き捨てる様に言っている。「故郷」は苦しい石舟の生活を捨て、尾道の造船所で働くことを決意するところで終わる。この結末の部分が「家族」の出発点なのである。

  石崎の船は老朽化し、エンジンがもう限界に来ている。修理しようにも100万円かかると言われ、かといって新しい船を作る資金があるわけはない。どうにもならないぎりぎりのところまで追い詰められて、苦渋に満ちた選択をする。造船所で働けば給金は上がるが、そのためには親から受け継いだ仕事を捨て、住み慣れた故郷を出て行かねばならない。苦しい選択だった。

  「故郷」と「家族」は二本合わせてひとつの大きな物語を形作っている。したがってこの二本には多くの共通点がある。夫婦二人とその父は全く同じ俳優が演じている。子供が二人いるのも同じだ。ともに貧しく、故郷を追われ、新天地に希望を見出そうとする。しかしそれだけではない。この二本を通して描かれている一つの大きなテーマがある。そのテーマを暗示するのは「故郷」の最後に精一が妻に向かって口にする言葉である。「大きなものとは一体何だ?時代の流れとか、大きなものに負けると言うが、それは一体何を指しているのか」という問いかけ。「家族」を論じたときにも書いたが、ここに描かれたのはたまたま不運にあった不幸な家族ではない。60年代の高度成長期を経て、日本の産業構造は大きく変化していた。「大きな時代の流れ」は容赦なく弱いものを押し流してゆく。社会や経済の構造変化は個人の意思や一企業などの思惑を超えて作用する。古いものは壊され、次々に新しいものが生まれる。人込みで沸き返っている大阪万博の影で、故郷を失い、時代に押し流されて漂ってゆく人々が無数に生まれていた。「家族」と「故郷」の二つの家族自体が悪いのではない、他人が悪いのでもない。精一が船の修理を頼みに行った男も、時代が変わり彼が作った他の船が先日廃船になって燃やされたと話す。個人や集団の意志を超えて作用する大きな力はかたちを変えつつ常に存在している。無学な精一にはその力が何であるか理解できないが、確かに自分たちの力ではどうすることも出来ない「大きな力」がそこにある事は感じ取っていた。

  映画の結末近くで、精一と妻の民子は最後の仕事に出る。石を捨てて帰る途中二人は岸で燃やされている古い船を見る。精一が「大きなもの」と言ったのはその時だ。使い古され、その使命を終え燃やされている船はまさに彼ら夫婦の現状を象徴している。「家族」のラストは明るい調子で終わっている。朝鮮戦争による特需、東京オリンピック、大阪万博と三段跳びで成長していった日本経済は、80年代後半にはバブル景気に突入する。しかしその後バブルがはじけ、いまだ出口が見えない長期不況のトンネルに入る。二つの家族が故郷を出た70年代初頭はまだ日本の成長が続いていた時代だ。失ったものも多いが、「家族」の主人公たちは自分たちで新しい生活を切り開いていった。「故郷」の精一と民子も自分たちの生活を立て直せたのだろうか。

2005年10月 7日 (金)

少年と砂漠のカフェ

2001年 イラン=日本winding-road
監督、脚本、編集:アポルファズル・ジャリリ
撮影:モハマド・アハマディ
録音:ハッサン・ザルファム
プロデューサー:アボルファズル・ジャリリ、市山尚三
エグゼクティブ・プロデューサー:森昌行
【出演】
キャイン・アリザデ、ラハマトラー・エブラヒミ
ホセイン・ハシェミアン、 アハマド・マハダヴィ

  「スプリング 春へ」「かさぶた」「トゥルー・ストーリー」「ぼくは歩いてゆく」などで知られるアボルファズル・ジャリリ監督の代表作。アッバス・キアロスタミ、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディ、バフマン・ゴバディなどと並ぶイランの代表的監督とされるが、観るのはこの作品がはじめてである。近所のレンタル店には全く彼の作品は置かれていない。中古店でも見かけたことはなく、アマゾンでやっと手に入れた。

  なぜこれほど目に触れないのか、この作品を観て何となく納得した。あまりに淡々としすぎていて彼の作品世界になかなかなじめないのである。もちろんイラン映画はほとんどどれも淡々とした映画である。しかしこれはあまりに淡々としすぎている。DVD-BOXも出ている監督ではあるが、今ひとつ一般に知られていないのはそのためと思われる。

  「少年と砂漠のカフェ」は2001年ロカルノ国際映画祭で準グランプリにあたる審査員特別賞、および国際シネクラブ連盟賞、ヤング審査員賞の三冠を受賞した。ナント三大陸映画祭ではグランプリの栄誉に輝いている。タイトルの「デルバラン」は映画の舞台となった場所の地名である。イラン北東部のホラサン地方にあり、アフガニスタンとの国境近くに位置している。主人公はアフガニスタンからイランにやってきたキャイン少年。砂漠の中にぽつんと立っているカフェで働いている。カフェといっても日本のそれとは大分違う。むしろドライブインに近い。

  映画はキャイン少年の日常を淡々と描いている。キャイン自身が語っていることによれば、キャインの母親は爆撃で死亡。父親は前線でタリバンと戦っている。姉はおばあさんと暮らしている。キャインは戦乱のアフガニスタンを逃れてイランに流れてきた。親切なハン老人が営むカフェで下働きをしている。医者に耳の病気を見てもらったとき、アフガニスタンに帰りたくはないのかと医者に聞かれるが、キャインは帰りたくないと応える。父親や姉のことに無関心というわけではない。こつこつ働いて溜めたお金を姉に送ろうとしたことからもそれが分かる(お金を託した人物が国境で撃たれて果たせなかったが)。戦乱の続く故国には帰りたくないということだろう。撮影は1999年の11月中旬に始まり、2000年の2月末に終わっている。2001年9月11日の同時多発テロ以前に撮り終えていることになる。したがって母親の命を奪った爆撃とは米軍による爆撃ではない。米軍が侵攻する以前の内紛時代のことだ。主人公を演じた少年は米軍が侵攻してくる直前に家族に会いに行くためアフガニスタンへと戻っていったが、その後の彼の消息はつかめていないそうである。

  ジャリリ監督は決してこの少年に対する観客の同情をあおるような描き方はしない。ただ淡々と少年が買い出しに行ったり、客にチャイを給仕したり、修理工を呼びに行ったりしている日常を描くだけだ。少年の表情は常に硬い。子供ながらに既につらい経験を散々してきたのだろう。大人顔負けのしたたかさを身につけている。車の修理を頼んでもなかなか出てこようとしない修理工には、何度もしつこい程催促の声をかける。大人に対しても臆することなく対等にやりあっている。重いものを運ばされたりしても弱音をはかないし、文句も言わない。近くに身寄りがいなくても決して悲しげな表情は見せない。ほとんど無表情である。彼がはっきり笑顔を見せるのは一度だけである。耳を診てくれた医者が今度は薬を持ってくるから、それがあれば早く直ると言ったときだ。その時初めてにこっと笑い、子どもらしい表情をチラッとのぞかせた。

zod-moon   キャインは不法入国したアフガニスタン人だが、警官が尋ねてきても誰も彼のことを告げ口したりはしない。実際にはキャインだけではなく、アフガニスタンからの違法労働者が時々やってきているのだが、皆同じようにアフガニスタン人などいないと答えている。一般のイラン人たちはアフガニスタンの悲惨な状況に同情を感じているのだろう。当局に隠れてアフガニスタン人を雇っている話は「少女の髪どめ」にも出てくる。多少はイラン人よりも安く雇えるのかもしれないが、それだけで当局に捕まる危険を冒すとは思えない。周りの大人たちがキャインをいつもやさしく見守っているという描き方はしていないが、キャインがついにアフガニスタン人だと分かって逮捕されたときに、ハン老人の妻であるハレーおばあさんは警察に乗り込んで彼を助け出してくる。ほのぼのと心温まる描き方はしないが、かといって冷め切っているわけでもない。情に訴えるのではなく、客観的に少年とその周りの大人たちの生活と関係を描いてゆく。そういう手法だ。

  この少年はこれからどんな人生を送ってゆくのか。映画は安易な希望も持たせないが、冷たく突き放しもしない。新しい道路が出来たために、カフェに通じる道が閉鎖されてしまった。カフェに来る客が減ったため、キャインはタイヤをパンクさせて無理やり客をカフェに連れてこようと道路に釘をばら撒く。そしてどこかへと旅立ってゆく。その先彼にどんな運命が待ち受けているのか。映画は何も示さない。少年はただ去ってゆくのである。

   少年に密着して描いているが、極度に説明的描写を排除しているため、理解できないことも多い。イラン人にはある程度察しがつくのかもしれないが、少なくとも外国人にはよく分からないことがいくつもある。そもそも「デルバラン」という地名は「恋人たち」を意味するペルシャ語だそうである。「恋人たち、とりわけ、愛する人のために家を捨ててきた恋人たち」が、砂漠のほぼ真ん中にあるため行方を探すのが非常に困難なこの土地に集まってきた。そして「デルバランのカフェは、そうした恋人たちが会う場所としてこの土地に建てられた」のである。しかしその後イランとアフガニスタンとの間に道路ができたため、もはや隠れ家ではなくなったカフェは違法就労者たちや麻薬密売人たちの集まる場所になってしまった。だからイランの警察がこのカフェにしばしばたちより目を光らせているのである。こういったことは監督のインタビューを読んでようやく分かるのである。

  どうも監督自身が説明的描写は極力避けるべきだという考えを持っているようだ。映画の途中で突然銃声が聞こえてくることがある。恐らく密入国する人たちを国境警備隊か何かが銃で撃っているのだろう。このように間接的に、あるいは暗示的にしか周囲の状況が描かれない。意識的にそう描いているのである。余計な夾雑物(不純物)を極力排除して対象となる人物に密着すればその本質が見えてくる、そう考えているのだろう。しかし人間は社会的な存在である。歴史的状況や社会状況を曖昧にしたために却って見えなくなっている側面がありはしないか。あるいは人物の描き方や映画そのものが平板になっていやしないか。もっと説明しろと言っているのではない。説明的な映画は面白くない。そうではなく、もっと人物や人間関係を状況の中で捉えるべきではないかということである。人間は時空を越えて生きることは出来ないのだから。もちろんジャリリ監督はキャインを大状況から完全に切り離して描いているわけではない。ただ、前提となる状況が暗示的にしか示されていないのである。対象となる少年との距離のとり方、全体状況の示し方、これらに対するこの映画の微妙なさじ加減は評価の分かれるところだろう。個人的にははやはり物足りなさを感じる。眼前の状況だけを限定して描いていたサミラ・マフマルバフ監督の「ブラックボード――背負う人――」にも同じ物足りなさを感じた。終始いらいらを感じた映画だ。

  ジャリリ監督は「少年と砂漠のカフェ」を世界中の戦災孤児に捧げている。キャインを演じた少年自身アフガンの難民だった。ジャリリ監督がこの映画の出演者を探して砂漠を旅している時、偶然出会ったのである。そのため急遽主人公をアフガニスタン人に変更したということである。

  本国イランではジャリリ監督の作品のほとんどが上映禁止となっている。外国人にはなかなか理解しがたい検閲制度がそうさせているようだ。この点については佐藤忠男氏の詳しい説明がある。非常に有益な講演なので一読をおすすめする。
  「少年と砂漠のカフェ上映後講演」

少女ヘジャル

girl12001年 トルコ・ギリシャ・ハンガリー
監督:ハンダン・イペチク
出演:ディラン・エルチェティン、シュクラン・ギュンギョル
    フュスン・デミレル

 予想した展開とは大分違っていたが、やはり優れた映画だった。ヘジャルはクルド人の少女。トルコのクルド人というとユルマズ・ギュネイの名作「路」を思い出すが、演出方法は大分違う。

 ある日一人の男がヘジャルを連れて人を訪ねてくる。男は子供が多すぎて世話できないので引き取ってくれと無理やりヘジャルを置いてゆく。ところが、どうやらヘジャルが預けられた家族はクルド人のテロリストであったらしく、突然警察の急襲を受けて全員射殺されてしまう。ヘジャルだけが隠れていて助かった。ヘジャルは向かいの部屋の老人ルファトに助けられる。ルファトは元判事のトルコ人だ。たまたまルファトの家政婦がクルド人だった。ヘジャルがクルド語で「ママ」と叫ぶのを聞いてその家政婦は思わずクルド語で話しかけてしまう。ルファトは家政婦がクルド人だったことを知って驚く。二度とクルド語を話すなと注意して家に帰す。ルファトはヘジャルをすぐどこかに預けるつもりでいたが、様々な事情でなかなか手放せない。

 ルファトは次第にヘジャルに情が移ってゆくが、強情なヘジャルはなかなかルファトになつかない。ついにルファトは家政婦にクルド語を習い始める。その一方でルファトはヘジャルを連れてきた男を捜す。何とかその男と会うが、貧しく子沢山なその男の家庭を見てしまうと、とてもヘジャルを引き取ってくれとは言えなかった。

 ルファトはヘジャルを自分で育てる決心をする。ヘジャルもようやく少しずつルファトになついてきた。彼はケーキを買ってきてヘジャルの誕生日を祝ってあげる。仲良く笑いあう二人にハッピーエンドを予想しかけたとたん、突然ヘジャルがクルド語で「ママにあいたい」と泣き叫び始める。ルファトは業を煮やし、電話で家政婦に助けを求める。安易な解決を拒む印象的なシーンだ。

 ルファトはヘジャルを連れてきた男の家賃を肩代わりし、男の負担を軽くしてやる。そうして結局ヘジャルをその男に引き取らせる。男に連れられて去ってゆくヘジャルがルファトを振り返る。それがラストシーンだ。

 トルコ人とクルド人の融和を主題とした作品だが、安易な結論に持っていかないところに共感できる。しかし去ってゆくヘジャルを胸を引き裂かれる想いで見つめるルファトと、彼を振り返るヘジャルの瞳にかすかな希望がたくせる。地味だがいい映画だ。

2005年10月 6日 (木)

チルソクの夏

sen2003年
監督:佐々部清
出演:水谷妃里、上野樹里、桂亜沙美、三村恭代、淳評
    山本譲二、高樹澪

  「半落ち」の佐々部清監督の第2作。「半落ち」はどうということもない作品だったが、こちらはなかなかいい出来だ。

 1977年7月7日。「携帯もメールもなかった時代」に、姉妹都市である下関と釜山の間で行われた親善陸上競技大会をきっかけとして知り合った二人の高校生の淡い恋を描いている。海を挟んで年に一回陸上競技大会の時だけ逢える。だから映画の設定として大会は七夕の日でなければならない。「チルソク」とは七夕に当たる韓国語である。

 日本人の女子高校生遠藤郁子(水谷妃里)と韓国の男子高校生安大豪(鈴木淳評)。二人の間を海が隔てており、それを超えようにも当時は携帯もメールもなかった。しかも二人を隔てていたのは海と通信手段の不足だけではなかった。あるホームページがこの点をうまく指摘していた。「コミュニケーションが難しかった事は確かですが、それは道具のせいだけではなかったというのがよく表れていましたね。」大事な指摘だ。当時は「携帯もメールもなかった時代」であるだけではなく、また「日本の歌を歌ってはいけなかった時代」でもあった。朝鮮人に対する日本人の蔑み、日本人に対する韓国人の憎しみ。海という物理的な障害よりもこの精神的な障害のほうがより強力で打ち破りにくいものだった。郁子の父親は朝鮮人と付き合うことだけは許さないと言い、安大豪の母親は身内が日本人に殺されたからといって二人の交際に反対する。この映画は「GO」に通じる主題を扱った映画なのである。

kingyo  二人の空間的隔たりを埋めていたのは手紙とラジオである。互いに手紙を交わしながら郁子は韓国語の放送を聴き、安大豪は日本語の放送を聴いている。「ラジオの電波は海を越えられる」という郁子の言葉が印象的だ。この作品はさらにもう一歩踏み込む。関門トンネルに引かれている県境の白線をまたいで郁子が言う。「今右足が山口県で左足が福岡県。」それに対して安大豪がこう言う。「38度線もこうして自由にわたれるといい。」胸にぐっと来た言葉だ。間を隔てる線は日本と韓国の間だけではなく、同じ民族である韓国と北朝鮮の間にも引かれている。この視点を忘れずに取り込んだことを高く評価したい。男女の淡い恋愛を中心にしているため「GO」ほど強烈ではないが、日韓両国民の間にある心理的国境線を乗りこえようとする真摯な思いは十分伝わってくる。つい数年前までこの国境線は両国民の間に根強く存在していたのだ。未だに完全には解消されてはいないが。まさに2000年代でなくては描けなかったテーマだ。

 「チルソクの夏」は欠点も目立つ映画である。郁子、真理(上野樹里)、巴( 桂亜沙美)、玲子(三村恭代)は同じ高校の陸上部の仲良しグループだが、まだまだ彼女たちは若くて演技も拙い。上野樹里も脇役ということもあるが、魅力全開とは言えない。安大豪役を演じた日本人俳優鈴木淳評も今ひとつだ。しかしこれらの欠点もこの作品の芯の部分が持つ魅力を消し去りはしない。その魅力は主題そのものから来るものだ。少々の欠点など気にならない、それほど力強くまた共感を誘う主題を持つ映画というものがある。完成度の高い作品とはいえないが、惜しみなく賞賛の拍手を送りたい。

  脇役では山本譲二が見せた「親父の背中」が出色。主題歌「なごり雪」を歌ったイルカも教師役でちょこっと顔を出している。すっかりおばさんになった。郁子と安大豪が観に行った「幸せの黄色いハンカチ」、山口百恵やピンクレディの歌が時代を感じさせる。そうか77年当時はこんなものが流行ってたんだっけ。懐かしい。まだ学生だった頃だ。あれから28年。日韓の間の心理的境界線はほとんど消えかけたが、もう一本の地図上の線はいつ消えるのだろうか。

2005年10月 5日 (水)

みなさん、さようなら。

2003年 カナダ・フランスf_kesiki01w
監督:ドゥニ・アルカン監督
出演:レミ・ジラール、ステファン・ルソー
       マリー・ジョゼ・クローズ、ドロテ・ベリマン
       ピエール・キュルジ、イヴ・ジャック

  最初のうちはやや退屈で時間が長く感じたが、後半はぐっと引き込まれた。歴史の教授だった父親が病気で死を迎えようとしている。長らく父親と疎遠だった息子が色々な後始末を手伝ってほしいと母親に懇願され、いやいやながら父の元に戻る。父親は女が好きで、どうやら母親とも離婚か別居をしている様子。息子はロンドンで証券関係の仕事をしている。金があるので何でも金で解決しようとする。

 母親にせがまれ何とか父親の最後の時間を快適に過ごさせようと息子は努力し始める。父親の親しかった人たちを世界中から呼び集める。娘は船に乗っていて会いにこれないが、パソコンを通じてメッセージを送ってくる。このあたりから作品に魅力が増してくる。皆あけすけにセックスの話題を口にする。集まった友人たちの中には元愛人たちもいる。知識人が多く、知的だがしかし大して意味の無い会話が飛び交う。

 父親は左翼知識人で、何かにつけて文句を言い、おとなしく人の言うことを聞かない。むきになって人に食ってかかる。息子は父親の苦痛を取るためにヘロインを使うことにする。そこでジャンキーの娘(元愛人の娘)が呼ばれる。彼女の麻薬からの立ち直りも小さな脇エピソードとして描かれる。

 最後は友人の別荘を借りてみんなで最後に時間をすごす。点滴にヘロインを注入し苦しむ父親を死に至らしめる。父親にとっては理想的な死の迎え方だ。監督自身も自分の理想だとインタビューで語っていた。集まった人々が皆芸達者である。18年ほど前の「アメリカ帝国の滅亡」のスタッフが再結集した映画。和気藹々とした雰囲気で撮られたそうだ。カナダ映画の水準の高さを示す傑作である。

寄せ集め映画短評集 その6

在庫一掃セール第6弾。各国映画8連発。

SD-cut-mo3-07「ブコバルに手紙は届かない」
(1994年、ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督、ユーゴスラビア)

 ブコバルは旧ユーゴスラビアのクロアチアにある町。クロアチア人のアナとセルビア人のトーマが結婚式を挙げる。しかし結婚パレードの最中、クロアチア人のデモ隊と出会う。別の道からはユーゴスラビアを支持するデモ隊が進んでくる。混乱に巻き込まれ、式のパレードは中断せざるを得なかった。
  不穏な空気が国中に広まる。トーマが軍隊に入る日、彼の家の壁に「セルビア人は出て行け」という落書きが見つかる。その後は混乱の一途。戦争が始まり美しかったブコバルの街は廃墟となってしまう。留守を守るアナはおなかに子供がいたが、クロアチアの男に強姦される。最後に街がセルビア人に占領された時アナの家も兵隊に接収されるが、彼らは強姦はしなかった。敵ではなく味方に強姦されるという混乱した状況。やがて戦闘は収まりアナとトーマは別々のバスに乗り、別々の方向に分かれて行く。カメラは廃墟となったブコバルの街を延々と映し出す。
  なんともやりきれない映画だ。怒りがこみ上げてくる。紛争の原因・理由は一切描かれない。しかし描いたとしてもそれで解決につながるわけでもない。ほとんどの人々はわけも分からず、否応なしに戦争に巻き込まれていったのだ。「ビフォア・ザ・レイン」(1994)、「ユリシーズの瞳」(1995)、「パーフェクト・サークル」(1997)と民族紛争を描いた力作が90年代の後半次々と日本で公開された。また2001年製作の「ノー・マンズ・ランド」は、中間地帯に敵同士の2人の兵士が取り残されてしまうという特異な状況を設定することで、このテーマに対してユーモラスでかつアイロニカルな処理の仕方を試みた。
  94年製作、97年日本公開の「ブコバルに手紙は届かない」はその中で最も見るものの心を揺り動かす作品だ。他の作品はいたずらに哲学的だったり、思索的だったり、アイロニカルだったりして、必ずしも感動を誘いはしない。哲学的ではない分「ブコバル」は深みにかける面もないわけではないが、訴える力はダントツだ。あまりにも悲惨で出口のない主題を描く際の表現者の視点と視線と姿勢を考えさせられる。

「幸せになるためのイタリア語講座」(2000年、ロネ・シェルフィグ監督、デンマーク)
   人間の優しさといとおしさが身にしみる映画である。ドグマ95というハンディ・カメラによる接写を多用した作風。もっとも、見ているときはそれほどハンディ・カメラということを意識しなかった。だが、それはうまくいっているということだろう。あまり技法が目立つようなら成功しているとは言えない。
  珍しいデンマーク映画。製作はデンマークとスウェーデン。あるレストランに勤めるウェイターのフィンは元サッカー選手。すぐに切れる性格で接客態度が悪いため首にされる。同じレストランの受付係のヨーゲンはフィンの友人で、4年間女性と寝たことがないのが悩み。また、そこで働くウェイトレスのジュリアは黒髪のイタリア人美人。ヨーゲンを密かに愛している。フィンがよく買い物に行くパン屋の女性店員オリンピアは金髪痩せ型で不器用なおっちょこちょい。よくパンの入ったトレイをひっくり返す。43回の転職を経験したが、このパン屋の仕事は長く続いている。偏屈な父親にも悩まされている。フィンがヨーゲンに紹介されて行った美容院の女性美容師カーレンはセクシーな女性だが、アル中の母親に悩まされている。
  カーレンの母親とオリンピアの父親がなくなる。二人が葬式を挙げるために行った教会の新任牧師がアンドレアス。信者がなかなか集まらず悩んでいる。葬儀の後オリンピアとカーレンが実は幼いころに分かれた姉妹同士だということが分かる。
  それぞれに悩みと心の傷を抱え、満たされない生活を送っている。そんな彼らが通っているのがイタリア語の講座だ。他にも3人の女性が通っている。心の隙間を埋めるように、6人の男女はこの講座に通う中でそれぞれに愛する相手を求め合う。
  ある日オリンピアに父の財産が入る。彼女は同じ講座に通う人たちとイタリアに旅行することに決める。白夜のオランダからベニスへ。この旅行で3つのカップルが誕生する。フィンはカーレンと。オランピアは牧師アンドレアスと。ヨーゲンはジュリアと。
  市井のなんでもない人たちに注ぐ視線が暖かい。閉ざされた心の奥のドアをノックしてくれる人は必ず現れるはずだ。そんなメッセージが心地よい。

「氷海の伝説」(2001年、ザカリアス・クヌク監督、カナダ)c_aki03b
  「氷海の伝説」は、北アメリカ大陸最北端に住むイヌイットに先祖代々語り継がれてきた、アタナグユアト(足の速い人)の伝説に基づく一大叙事詩である。上映時間3時間に近い氷原の叙事詩だ。監督自身イヌイットであり、イヌイット語でイヌイットを描いた最初の長編劇映画である。
  あまりの生活習慣と文化の違いに最初の1時間あまりは戸惑いを感じなかなか映画の世界に入り込めなかった。しかし、主人公のアタナグユアトが寝入ったところを襲われ、素っ裸で氷原の上を逃げてゆくものすごいシーンあたりからぐいぐいと引き込まれる。悪霊が出てくるあたりはいかにも伝説に基づいた話だが、ドラマの基本線がしっかりしているため、そんなことは気にならない。
  氷以外何もない世界だが、人間さえいればドラマが成り立つことを教えられる。雪と氷の美しさも特筆ものである。新しい世界を世に知らしめた力作だ。

「草の乱」(2004年、神山征二郎監督)
   大したことはないかも知れないという気持ちもあったが、どうしてなかなか立派な作品だった。全体にきりっとした演出で、画面から農民たちの勢いが伝わってくる。秩父困民党のことは名前程度にしか知らなかったが、この映画で見る限り農民一揆というより全面戦争だ。武装蜂起による革命の様相を呈している。国家が暴徒、反逆者として歴史から葬り去ろうとした意図が分かる。それにしても明治17年というのに刀を引っさげ火縄銃を持って立ち上がるところは、まるで維新戦争だ。弓矢があればまるっきりそうだ。まだ銃や刀が農民たちの間に残っていたとは。
  反乱蜂起の直接の原因は高利貸しによる借金地獄だが、その背後に富国強兵に走る政府の過重な税金が農民たちの生活を追い詰めていた事実がある。そのあたりはもう少し描きこんでほしかった。農民たちの困窮がリアルに描かれないと、蜂起にいたる過程に説得力が出ない。高利貸しや役所に掛け合う場面ばかりでは迫力不足だ。
 しかし蜂起の場面は感動的だった。実際はどうだったのか分からないが、蜂起した農民たちはまるで戦国軍団のように勇ましかった。決して彼らを暴徒として描いていないところがいい。高利貸しの家を焼き討ちにした時、周りの家への延焼を防ぐ努力をしている様がきちんと描きこまれていた。しかし他の地域は結局呼応することはなく、彼らは孤立してしまった。憲兵隊が派遣され彼らはいっぺんに崩れてゆく。見ていて悔しかった。
  配役には不満もある。緒形直人は顔ばかり深刻だが、もう一つその情熱や怒りが伝わってこない。彼はどうしても好きになれない。反乱軍の首相役を演じた林隆三も太ってしまって迫力がない。「七人の侍」の志村喬のような指導者としての器の大きさを感じられなかった。しかし不満はあっても歴史的に意味のある作品であることには変わらない。

「東京原発」(2004年、山川元監督)
  これもなかなかよく出来た映画だ。「突入せよ!『あさま山荘』事件」や「金融腐食列島 呪縛」の系譜につながる作品。「草の乱」は歴史的事件を真っ向からリアルに描いた骨太の映画だが、こちらはコメディ調ながらたっぷり風刺を利かせた別の意味で骨太な映画である。
  東京都知事(役所広司)が突然東京に原発を誘致すると言い出して、副知事を初めとする都の幹部達は大慌て。何とか知事を思いとどまらせようとするが、知事の舌鋒は鋭い。初めは単なる利権が絡んだ提案だと思わせておきながら、次第に原発問題の矛盾に鋭く切り込み始める。幹部たちはたじたじとなる。そこへ副知事が呼んだ原発の専門家が現れ鋭く知事や彼の支持に回った幹部たちに反論を突きつける。このやり取りが重要だ。知事と専門家の指摘によって、原発は安全でありまた必要だという主張が次々と覆される。あるいは原発問題に対する都民、いや国民の無関心さが抉り出される。散々笑わせながら鋭い風刺を放つ、あの革新的演劇集団「ザ・ニュースペーパー」の手法だ。
  やがて、知事はその無関心な都民に原発問題の重大さを意識させるためにあえて原発を東京に誘致するという挑発的な提案をしたのだと、副知事が気付く。一同なんだそうだったのかと安心したのもつかの間、そこに突然とんでもない電話が入る。
  プルトニウムを運んでいたトラックが謎の少年にのっとられたのである。少年はトラックに爆弾を仕掛けた。トラックの運転席にカメラを取り付け、都のホームページにその映像を流して、それをテレビで放映しろとその少年は知事に迫る。ここから映画の流れは一変してしまう。結局配線が切れていたため爆発はしなかった。この部分は不要だったと思う。おそらく製作者側は都知事と幹部たちの原発問答だけでは映画が持たないと考えたのだろう。弱気になって最後にはらはらさせる要素を付け加えたのだ。しかし知事たちの問答とトラックのっとりの部分がうまくかみ合っていない。だからいかにも付け足しという感じがする。ここで逃げてしまったためせっかくの鋭い風刺劇が薄められてしまった。その点が残念である。

SDlamp02 「夕映えの道」(2001年、レネ・フェレ監督、フランス)
   ヨーロッパ映画に多い効果音を抑えた淡々とした映画だ。しかしこれといった筋も劇的な展開もない映画だが、感動を誘うものがある。中年の女性経営者イザベルがたまたま知り合った老女マドレーヌ(マド)の世話を焼くという単純な話だ。最初は自分の中に閉じこもりイザベルをうるさがっていたマドも少しずつ心を開き始める。ポツリポツリと自分の過去を語り始めるマド。 低予算の映画だがマドとイザベルの心の交流が素直に胸を打つ。傑作というほどではないが心に残る映画だ。
   原作はドリス・レッシングの「善き隣人の日記」。イギリスの小説をフランスで映画化するというのも興味深い。

「史上最大の作戦」(1962年、ケン・アナキン監督他)
   昔見た映画はどれもそうだが、悲しいことに大部分忘れている。上陸作戦が始まるまでかなり時間をかけて描いていることに驚いた。すっかり忘れていた。まあ戦闘場面に比べればどうしても印象は薄いわけだから仕方がないが。あるいは、「プライベート・ライアン」の印象に引きずられていたのかもしれない。
   うまい設定だと思うのは、ジョン・ウェインが落下傘で着地したときに足をくじいてしまうことだ。終始杖をついたり馬車に乗ったりして、あらかじめ大活躍の場を奪っている。その代わり有能な指揮官としての彼を存分に描いている。西部劇の時代と違って、現代の戦争は一人の英雄の活躍で勝負が決するわけではない。総力戦なのだ。どんな剣豪も鉄砲隊の前では無力なのと同じだ。
  同じ視点は映画全体にも貫かれている。アメリカ軍、イギリス軍、フランスのレジスタンス部隊がそれぞれに別の場所で共同の目的のために戦っている。何度見ても感動するのはこの描き方だ。「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザーズ」にはない視点である。つまり、アメリカ軍の視点ではなく、連合軍の視点から描いているのである。いやドイツ軍の視点もかなり入れ込んでいる。このパノラマ的な視点はあの時代だから出来たのかもしれない。
  戦闘場面は思った以上にすさまじかった。「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザーズ」のような銃弾や砲弾が本当に飛んでくるようなリアルさはないが、スケールの大きさがそれを補って余りある。CGなしでこれだけの迫力ある戦闘場面が描けていたのだ。ドラマ性もしっかりしている。どんなに撮影技術が進んでも決して色あせない映画だ。

「西洋鏡」(2000年、アン・フー監督、米・中国)
 1902年から1908年あたりまでを描いている。主人公は写真屋で働いている青年。新し物好きで当時まだ珍しかった蓄音機などを持っている。そこへ英国人が活動写真を持ち込んで見世物小屋を始めた。主人公はすぐ興味を持ち、勝手に客引きを始める。英国人とも仲良くなりいつしか彼の仕事を手伝うようになる。初めて活動写真を見て仰天したり、感心したりする中国人たちの様子がリアルで愉快だ。主人公は京劇の第一人者の娘にほれてしまうが、活動写真が彼の人気を奪っていることに悩んだりする。ついには西太后に招かれ紫禁城で活動写真を上映する。同時に彼の勤めていた写真館の主人と京劇の役者も招かれていた。西太后は活動写真に大いに感心するが、張り切りすぎて映写機が火を噴き火事になってしまう。英国人は追放されるが、主人公は特別に許される。一人で活動写真を守り続ける主人公と彼が思いを寄せる娘が結ばれることを暗示して終幕。
  劇的な盛り上がりに欠けるかもしれないが、いい映画だ。中国の観客が山を映し出した映像を見てなんてきれいなんだとため息をついたり(どうも初めて山を見た感じだ)、万里の長城の映像が映し出されるあたりでは声も出ないほどに感動しているシーンは特に印象的だ。チリ映画の名作「100人の子供たちが列車を待っている」を思い出した。どちらも映画の原点を思い起こさせるすぐれた作品だ。

2005年10月 4日 (火)

白い恐怖

clip-lo51945年 アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック
製作:デイヴィッド・O・セルズニック
原作:フランシス・ビーディング
撮影:ジョージ・バーンズ
出演:グレゴリー・ペック、イングリッド・バーグマン
   レオ・G・キャロル、ロンダ・フレミング
   マイケル・チェコフ

  映画を続けて観るきっかけになった記念すべき映画。高校2年生のときに見て映画の面白さをはじめて知った作品である。その後も何度も観たはずだが結構忘れていた。最初にエドワーズ博士(グレゴリー・ペック)が精神病院の院長として赴任することから始まる。精神分析医のコンスタンス・ピーターセン(イングリッド・バーグマン)は人目でエドワーズに惹かれてしまう。まずこの設定をまるっきり忘れていた。食事のときコンスタンスがテーブルにフォークで線を書くと、エドワーズが異常な反応を示す。やがて彼は偽の院長だということが分かる。その上本物の院長の殺害の疑いをかけられる。

  エドワーズは逃走し、コンスタンスの部屋のドア下の隙間から手紙を差し入れる。彼女が手紙に気づき取ろうとする寸前に他の医師たちが部屋に入ってくる。彼らは足元の手紙に気づかない。緊張する瞬間だ。この手紙のシーンは最初に見たときから印象に残っていたシーンだ。ただ記憶では、手紙をドアの隙間から入れたとき運悪く絨毯の下に入ってしまい相手に届かないという展開だと思っていた。これはトマス・ハーディの確か『キャスターブリッジの市長』にあった場面だ。これと混同したのだろう。結局医師たちが出て行くとき最後の一人が手紙に気づくが、特に怪しまず拾い上げてコンスタンスに手紙を渡す。あわててメガネもかけずにドアに出たコンスタンスは最初は顔の近くで手紙を見るが、すぐにメガネをかけていないことに気づいて少し離して手紙を見る。次に手紙が映り、最初は焦点がぼけているが少し離すと焦点が合う。これも高校生のときに見たとき印象に残っていた。いかに登場人物があわてているかを表す細かい演出で、当時非常に感心したものだ。今見てもうまい演出だと思う。

 手紙を読み、エドワーズを愛しているコンスタンスも彼の後を追ってホテルに行く。そこで落ち合った後2人はコンスタンスのかつての恩師ブルロフ教授(マイケル・チェコフ)の家を訪ねかくまってもらう。夜エドワーズはひげをそろうとカミソリを持つが、そこで周りが白い色に囲まれていることに気づいてまた異常な発作状態になる。カミソリを持ったまま階段を下りる。1階では老教授SD-night01がまだ起きていた。教授はエドワーズにミルクを飲ませる。ミルクの入ったコップが大写しになり、コップが傾きミルクが流れる。白い色におびえる男と白いミルクがうまく使われている。階段の不気味な影や手に持ったカミソリと重なってサスペンスが盛り上がる場面だ。ここも高校生のときに強い印象を受けた場面である。

 そのミルクには睡眠薬が入っていた。老教授はとっくに彼が記憶喪失患者であることを見抜いていたのだ。エドワーズが目覚めると有名な夢解釈の場面が続く。サルバドール・ダリが協力した不気味な夢の中のシーン。屋根と巨大な目をはさみで切り取るシーンははっきり覚えていた。これも最初に見たとき強い印象を受けたシーンである。夢判断でかなりの謎が解け、コンスタンスは残された謎を解くためにゲイブリエル渓谷に向かう。そこでスキーをしたとき(いかにもフィルムを合成したと思われるチャチな映像だった。CGのない時代だから無理もないが)2人は巨大な割れ目からもう少しで転落しそうになる。その時エドワーズは、子どもの時に起こしてしまったある痛ましい事故を思い出す。それと同時に彼が成り代わっていた病院の院長にかんする記憶も戻る。彼の疑いも晴れ、これで事件は解決したかに思えた。しかし...。

 何度観ても傑作だ。発作の原因となる過去の忌まわしい記憶とは何か、奇妙な夢が意味するもの、本物の院長はどうなったのか、なぜエドワーズは院長に成り代わって病院に来たのか。サスペンスの要素がたっぷり盛り込まれている。スキーの場面がぜんぜん滑っているように見えないというような、技術的な面では今日の映画の方がはるかに自然だが、演出の冴えは時間が経過しても色あせない。「ローラ殺人事件」もそうだが、映像技術は時代が進むにつれて発達するが、それにもかかわらず過去の名作が決して色あせないのはドラマや演出が優れているからである。

コッポラ幻の処女作「ディメンシャ13」

1963年 アメリカ 原題:Dementia 13 SD-cut-mo3-17
【スタッフ】
製作:ロジャー・コーマン
脚本:フランシス・コッポラ
監督:フランシス・コッポラ
撮影:スチュアート・オブライエン
【出演】
 ウィリアム・キャンベル、ルアナ・アンダース、バート・パットン
   メアリー・ミッチェル  パトリック・マギー、エスニ・ダン

  全く知らない作品だったが、たまたま中古屋で見つけて買った。「夜歩く男」「都会の牙」と同じ「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。「幻の・・・」と銘打ったものにろくなものはないが、このシリーズは本物だ。他に「淑女超特急」「ヒズ・ガール・フライデー」「雨」「キートンの蒸気船」「キートンの大学生」など、現在8本所有。「ディメンシャ13」を買った決め手はフランシス・フォード・コッポラ監督の劇場処女作だということ。ジャケット裏に「サスペンス・ホラーの傑作」とあっては買わないわけに行かない。ロジャー・コーマンの製作で、映画のアイデア自体は彼のものである。若いコッポラの才能を見抜き監督に抜擢したそうだ。

  作品の趣としては「レベッカ」と「白い恐怖」を合わせ、それにゴシック・ホラー風の味付けをしたというところか。白黒にしたのは低予算のためだろうが、アイルランドの古城を舞台にしたサスペンス・ホラー作品なので、影を生かしたモノクロ撮影はむしろ効果的だといえる。タイトルの「ディメンシャDementia」とは「狂気、精神異常」のこと。謎解きのキー・ワードとなっている。13の意味は明確ではない。自分なりの解釈はあるが、それを言うとネタばれになる可能性があるので控えておこう。

  この作品、参考にしようと思ってネットで調べてみたが、まともなレビューは一つもない。同じ短い紹介文があちこちで使われているだけだ。しかもそれが間違っている。「アイルランドのとある古城でひとりの娘が殺された。その数十年後、まるで殺された娘の崇りかのように、この古城の住人たちが次々と惨殺されていく…。」まず娘は殺されたわけではない。事件が起こるのは「数十年後」ではなくせいぜい10年後程度。「次々と惨殺」といっても殺されるのは二人だけ。本当にこの映画を見て書いたのか、かなりいい加減だ。

  冒頭、ジョンとその妻ルイーズが小船に乗っている。ジョンは心臓が弱く、漕いでいるうちに発作を起こしてあっけなく死んでしまう。ルイーズは夫を水に沈め、彼の母親宛に偽の手紙を書いてまだ彼が生きていると思わせる。そして何食わぬ顔で夫の母親が住むアイルランドの古城に現れる。そこにはジョンの弟たち、リチャードとビリーもいた。リチャードは婚約者を連れてきていた。実は彼らの下にもうひとり妹のキャリーがいて母親に溺愛されていたのだが、不慮の事故で庭の池でおぼれて死んでしまった。母親はその痛手から立ち直れず、毎年子供たちを集めて末娘キャリーの追悼式を行っていたのである。

oldcast-entr-b1   その古城の佇まいがなんとも不気味である。古城はかつて盛んに書かれたゴシック・ロマンスにも頻繁に舞台として用いられた。普段使っていない部屋が無数にあり、夜ともなれば幽霊でも出そうな雰囲気を自然にかもし出す。古ければ古いほど、隠している古い秘密や代々伝えられてきた一族の暗い歴史が秘められている感じがする。ホラーにはもってこいの舞台、まさに定番である。30年間誰も足を踏み入れていない「開かずの間」などがあったりすればなお良い。古城には血なまぐさい秘密と怨念が染み付いている。そんな気がする。埃をかぶった部屋に置かれたなにやらわけの分からない、いわくありげな彫刻や道具、謎めいた秘密を漂わせる先祖代々の肖像画。ホラー映画の小道具に事欠かない。低予算映画には都合がいい舞台である。城さえ借りれば、小道具を含めて必要なものはそこに揃っているのだから。

  ルイーズが「開かずの間」となっているキャリーの部屋に夜忍び込んで人形を取ってくるあたりはなんとも不気味だ。ルイーズはその人形を池に沈めて時間がたつと水面に浮かび上がらせようとたくらむ。恐らく母親をショック死させようとたくらんでいたのだ。そうすれば遺産が転がり込んでくる。何しろ長男の嫁である。夫のジャックが生きているように見せかけたのはそこに狙いがあったからだ。しかし水にもぐったとき彼女は池の底であるとんでもないものを発見する。その後彼女は忽然と城から姿を消す。

  この城の広大な庭に時々忍び込んで猟をしている近所の男。手には猟銃を持っているが、30年間撃ったことはない。その彼が銃を2発はなった。何かを見つけたのだ。撃った後しばらく様子を伺い、茂みの中に這って分け入ってみるとそこにキャリーが横たわっていた・・・。

  とまあ、こんな感じで展開してゆく。他に登場するのは城の雇い人が2、3人、それとこの家の主治医。いずれもどこか怪しげであるのは言うまでもない。以上に挙げた登場人物の中の一人が探偵役を果たす。やがて追い詰められた犯人の魔の手は次の犠牲者に迫り・・・。

  サスペンスやホラーの常套手段があちこちで使われている。薄暗く複雑に入り組んだ城の、何が出てくるか分からない雰囲気は秀逸だが、観客をドキッとさせる手法は常套的で今ひとつ効果的ではない。犯人も明かされる前に見当がついてしまう。しかしカット割りや効果音の使い方はなかなかのもので、処女作としては上出来だといえよう。傑作「ゴッドファーザー」(1972年)が生まれるのはこの9年後である。

2005年10月 3日 (月)

キープ・クール

ctea1997年 中国
監督:チャン・イーモウ
出演:チアン・ウェン、リー・パオティエン、チュイ・イン、グォ・ヨウ
    チャオ・ベンシャン、チャン・イーモウ、リー・シュエチェン

  チャン・イーモウの芸域の広さを示す本格的なコメディだが、全編俳優たちが喋りまくり、叫びまくりで最後には頭が痛くなってきた。しかし出来はいい。チャン・イーモウには珍しく現代の、それも大都会を舞台にしている。

  地下鉄から降りてきた女の子を男が追い回す冒頭のシーンから現代性と大都会が強調される。女の子はサングラスをかけ、短髪で超ミニ。男はサングラスにモヒカン頭。超ミニで女の子は自転車に乗る。女の子のマンションまで男はついてくるが、そこは高層マンションが立ち並んでいる。そこで女の子を見失ってしまう。男はめげず、大声で彼女の名前を呼ぶ。そこに通りかかった屑屋に声をかけ、金を払って女の子の名前を大声で呼ばせる。その屑屋役がチャン・イーモウである。まるでヒッチコックのようにちゃっかり出演している。それでも女の子が無視するので、また人を雇って今度はスピーカーで叫ばせる。しかし彼女は現れない。

 多分その次の日、呼びかけが功を奏したのか男が女の子の部屋にいる。ベッドイン寸前にまた誰かが外で呼びかけている。あわてて男が飛んでゆくと、おっさんが人に頼まれたといって叫び続けている。男は頼んだのは自分だ、もういいから止めろと言うが、おっさんは人助けだからと一向に止めない。そうこうするうちに女の子はさっさと外出してしまう。

 これが冒頭場面だが、見事なコメディである。この後、女の子の新しい恋人が雇った男たちに主人公は襲われ殴られる。その時主人公はたまたま通りかかった通行人のかばんを奪って暴漢たちに投げつけた。そのかばんには実はパソコンが入っていて、後でその持ち主の中年男に壊れたパソコンの弁償を迫られる。しつこく弁償を迫る中年のおっさんと、女の子の新しい恋人(実はやくざだ)と、そのやくざ男の右手を切り落として復讐しようとする主人公が入り乱れて話はとんでもない方向へと転がってゆく。弁済の話がついて3人が話し合う場所に選ばれたカラオケバーみたいなところでのエピソードが傑作である。パソコンおっさんは最初主人公の復讐をとめるが、最後には逆切れして大暴れする。

 結末場面は刑務所から出てきたパソコンおっさんが車で出迎えられる場面である。運転手は主人公に雇われており、出所してきたおっさんは、反省しているという手紙とともに東芝の新しいパソコンを渡される。主人公のお詫びの気持ちを受け止めたおっさんは、主人公の家に行ってくれと運転手に指示する。ここで幕。きちんとコメディのつぼを押さえている演出だ。ただ、惜しむらくはもう少し間をとってほしかった。頭が痛くならないように。

 これはおそらく始めて見た中国の本格的コメディではないか。ほかに思い当たらない。香港映画にはいくらでもあるが、中国映画には珍しい。もっとも、案外多く作られてはいるが、輸入されていないだけなのかも知れない。

座頭市物語

1962年 大映京都horo_spl_clip
原作:子母沢寛
【スタッフ】
脚本:犬塚稔
監督:三隅研次
音楽:伊福部昭
撮影:牧浦地志
美術:内藤昭 
【出演】
勝新太郎 、万里昌代 、島田竜三、三田村元、天知茂、真城千都世、毛利郁子
南道郎  柳永二郎、千葉敏郎、守田学、舟木洋一、市川謹也、尾上栄五郎、山路義人

  急に「座頭市物語」が観たくなった。細谷正充編『時代劇原作選集』(双葉文庫)を読んだせいである。たまたま本屋で見つけたのだが、これは買ってよかった。タイトル通り時代劇映画の原作を集めた短編集で、「赤西蠣太」(原作:志賀直哉)「椿三十郎」(原作:山本周五郎)「座頭市物語」(原作:下母沢寛)「切腹」(原作:滝口康彦)「武士道残酷物語」(原作:南條範夫)など10編の短編が収録されている。

 「座頭市」シリーズはこれまでまともに観たことはなかった。正直言って、見るほどの映画ではないと思っていた。しかしこの間日本映画の古典が次々にDVD化され、レンタル店に並ぶようになった。ほんの3、4年前まではとても考えられなかったことである。観たいと思うアメリカ映画が激減していることもあって、このところ精力的に昔の日本映画を見直してきた。そういう事情もあって、これまで見向きもしなかった「座頭市」も視野に入ってきたのである。

 原作は『ふところ手帖』に収められた非常に短いエッセイである。エッセイといっても実際には短編小説に近い。話の大筋しか書かれていないので、映画化するにあたって大幅な書き込み、キャラクターの肉付け、筋の変更が必要となった。脚本の犬塚稔がこれに見事に応えた。特に座頭市(勝新太郎)と平手造酒(天知茂)のキャラクターは映画によって生まれ変わったと言っていいほど見事な性格付けがなされている。平手造酒は原作では単にやくざの出入りで死んだとしか書かれていない。座頭市とは直接剣を交えてはいない。これを映画では座頭市との一騎打ちという筋に変え、最大の見せ場にした。この変更は成功している。

 筋以上に見事なのは何といっても平手造酒の性格付けだ。尾羽打ち枯らし、やくざの用心棒にまで成り下がった労咳病みの凄腕剣士、ニヒルな表情と隙のない立ち居振る舞い。この陰のある剣士の役を天知茂が見事に演じている。昔から絶賛されてきたが、確かに素晴らしい。だが犬塚稔の脚本の素晴らしさはそれにとどまらない。座頭市と平手造酒の人間的ふれあいを描きこんだこと、それがあってこそこの映画は成功したのである。

 二人が初めて会ったのは川辺である。釣りをしている座頭市の隣に平手造酒がやってきて並んで釣りをする。ススキの原っぱを歩いて近づいてくる平手造酒の足元だけを写すショットが実に効果的で、場面に緊張感がみなぎる。しばらく何気ない言葉を交わすが、それだけで(恐らく息遣いから)座頭市は平手造酒が病気持ちであることを見抜く。二人は互いの実力を感じ取ると共に、互いの人間性に触れ、惹かれあうものを感じる。緊張感を底に秘めたのどかな川釣りの場面。忘れがたいシーンである。

SD-glass05-07  二人はやくざの用心棒同士である。座頭市は飯岡の助五郎(「本日休診」で八春先生を演じた柳永二郎)の客分で、平手造酒は笹川の繁蔵(島田竜三)に雇われた用心棒。助五郎は最近台頭してきた新勢力の繁蔵を叩き潰そうと機会を伺っている。座頭市にとってやくざ同士の勢力争いなどどうでもいいことだが、状況が否応なく二人を対決へと向かわせる。

 二人が対決する場面はこの映画のクライマックスである。剣戟も確かに素晴らしい。しかしそれ以上に、二人の立会いの場面には互いを認め合いながらも切り合わなくてはならないというやるせない無常感が漂っており、秀逸である。「つまらないやくざの手にかかるより貴公に切られたかった」とささやくように言い残して果てた平手造酒の凄絶な最後に、座頭市は見えない目に涙を浮かべて泣く。名場面である。

 「座頭市物語」はシリーズ化され、テレビシリーズも含めれば百本以上のエピソードが製作されたそうだが、そもそもシリーズ化されるのは第1作が優れているからである。シリーズ化されれば、これでもかこれでもかとばかり演出や殺陣は派手になってゆかざるを得ない。50人斬りとか100人斬りとかありえない世界に突入してゆく。その分ドラマ性は痩せてゆくだろう。この第1作が優れているのは殺陣や出入りの派手さだけではない。主要登場人物たちの性格付けとドラマ性を丹念に練り上げているからである。座頭市の描き方は多面的だ。目にも留まらぬ速さでろうそくを縦に真っ二つに切って見せたりする一方で、川に幅の狭い丸太をわたしただけの橋がうまく渡れず、四つんばいになってへっぴり腰で這って行く情けない姿も捉えている。

 ただ、これだけ長くシリーズが続くということは平均して優れた出来栄えであったということでもある。それだけ座頭市という人物像が魅力的だったといえる。

 他の登場人物としてはおたねを演じた万里昌代が印象的である。月夜の晩におたねと座頭市が並んで水辺を歩くシーンは実に美しい。白黒の映像が実に効果的だ。

 最後に余談だが、映画を観ながらずっと平手造酒役の天知茂が誰かに似ていると思っていた。映画が終わる頃やっと誰に似ているか分かった。「ER」のルカ・コバッチュ(ゴラン・ヴィシュニック)だ。あの頬のこけよう、無精ひげを伸ばしたうつむき加減の暗い表情。ちょうど自暴自棄になっていた時期のコバッチュそっくりだ。天知茂はどちらかというと四角い顔である。撮影中のスナップ写真(DVDの特典映像)を見ると素顔は当時も四角い顔だ。しかし平手造酒に扮すると頬がこけた細面の顔になってしまう。メークのマジックだろうが、一体どうやったのか。プロの技とはすごいものだ。    

2005年10月 2日 (日)

列車に乗った男

night22002、仏・独・英・スイス
監督:パトリス・ルコント
出演:ジャン・ロシュフォール、ジョニー・アリディ
    ジャン・フランソワ・ステヴナン、イザベル・プチ・ジャック
   シャルリー・ネルソン、パスカル・パルマンティエ

   パトリス・ルコント監督作品だが、これまでとはかなり作風が違うので驚く。初老の男マネスキエを演じるジャン・ロシュフォールはおなじみのキャストだが、銀行強盗のミラン役にジョニー・アリディが出演。ルコント監督にあこがれて、出演を直訴したそうだ。この寡黙な男の存在が今までとは違う雰囲気を画面にもたらしている。ルコントの映画といえばやたらと喋り捲る印象がある。マネスキエも最初のうちはよくしゃべっていたが、寡黙なミラン相手に勝手が違うのか、彼までも寡黙になる。ミラン役のジョニー・アリディは、体は以外に貧弱な感じがしたが、顔に凄みがある。ふらりと列車を降りてある町にやってくるのだが、頭痛に悩まされて薬局に入り、そこでマネスキエと出会う。それから奇妙な同居が始まる。

   やがてミランは他の仲間と銀行強盗をたくらんでいることが観客に分かってくる。そのうちマネスキエ気付く。しかし止めるわけでもなく、むしろ手伝わせてほしいと言い出す。このあたりはロシュフォールらしい持ち味だ。最後には一応止めるのだが。マネスキエは元国語の教師で詩が好きだ。週に一度生徒を教えているが、たまたま彼が留守中に来た生徒をミランが指導する場面がある。すぐに終わってしまうのだが、生徒に色々質問をして考えさせようとする。テキストはバルザックの「ウジェニー・グランデ」。ウジェニーは男を待ち続けるのだが、電話のない時代に彼女はどうするか生徒に考えさせようとする。わずかな場面だが、印象的なシーンだ。

 マネスキエは土曜日に心臓のバイパス手術を受ける。同じ日にミランたちは銀行を襲った。なぜか機動隊が待ち伏せていた。誰かが裏切ったのか。結局ミランは撃たれて死ぬ。ほぼ同時刻にマネスキエも手術中に心臓が止まる。しかしその後蘇生する。このあたりがシュールな演出で、何が真実なのかはっきりしない。よく意味の分からない場面も出てくる。ミランが死ぬ間際に見た幻想なのか。観客の解釈に任せるというよくある演出だろうが、終わり方は余韻があって悪くない。

 ルコント監督には珍しく暗くて重たい作品だ。途中少し飽きてくるところもあるが、全体としては悪くない。佳作と言えよう。

イブラヒムおじさんとコーランの花たち

2003年 フランスparis13
【スタッフ】
脚本:フランソワ・デュペイロン
        エリック=エマニュエル・シュミット
監督:フランソワ・デュペイロン
【出演】
オマー・シャリフ、ピエール・ブーランジェ、ジルベール・メルキ
イザベル・アジャーニ

 しみじみとした味わいを残す映画だが、今ひとつ胸に迫ってこない。どうも一つは物語の展開に問題がありそうだ。

 1960年代初頭のフランス。ブルー通りというパリの裏通りに住む13歳の少年モイーズは毎日満たされない生活を送っている。父と母はかなり前に離婚し、モイーズは父と二人暮し。父親は仕事から帰ってくると、モイーズが作っておいた食事を食べる。当たり前だという顔で。いかにも安っぽいアパートで、かつかつの生活をしていることが想像される。父親は本が好きで、家中に本があふれている。本棚の板が本の重みでたわんでいるのがやけにリアルだ。父は本が焼けるからと窓を開けることも許さない。父と二人で薄暗い安アパートで暮らす生活。父との会話は一向に弾まない。父は何かにつけてモイーズを兄のポポルと比較するので、モイーズは面白くない。そんなモイーズの唯一の楽しみは窓から見える通りにたむろする娼婦たちを眺めることだ。

 この導入部分から何か重苦しい。見ているこっちまで気がめいってくる。この演出方法はうまくいっていない。気のめいるような生活をしていることを分からせつつ、観客を退屈させないように描くべきだ。

 モイーズは少しずつ溜めた貯金で初めて娼婦を買う。娼婦たちにかわいがられるようになるが、彼の寂しさを救ってくれたのは彼女たちではなく、彼女たちが立っている通りに面した食糧店を営む老人だ。トルコ移民のイブラヒムである。彼はモイーズをモモと呼んだ。そのほうがユダヤ人らしくないと。満たされない思いがあるモモはしだいにイブラヒム老人と親しくなってゆく。二人の心の交流が始まってゆく。

 このあたりまで来るとイブラヒムを演じるオマー・シャリフの存在感もあって大分画面に引きつけられる。しかし突然モモの父親は解雇され、やがてモモを置いて蒸発してしまう。しばらくして父が自殺したことが知らされる。モモは唯一の知り合いであるイブラヒムの養子になる。そのとたんイブラヒムはモモを連れてトルコに旅立つ。彼の故郷に着いたとたんイブラヒムは自動車の事故であっさり死んでしまう。モモはイブラヒムの全財産を相続し、彼の店を引き継いでいる。大人になったモモの店に昔のモモの様な少年が買い物に来て、その少年をモモはモモと呼んでいる。

 物語の展開が突然ころころ変わり、どうも不自然だ。何か原作の筋だけを追っている気がする。筋の展開を追うだけで手一杯で、肝心の二人の心の交流が十分描くところまで手が回らなかった。そんな感じだ。95分と短めの映画なのでエピソードを詰め込みすぎたということだろうか。

 テーマとシチュエーションは悪くないので、2時間くらいの長さにしてもっとじっくり描けばいい作品になったかもしれない。実際いい場面は少なくない。イブラヒムの店の中での二人の会話の部分は全体にいいできである。イブラヒムが免許もなく運転もできないのに車を買うあたりのエピソードも実に滑稽だ。トルコへの旅もよくできている。トルコの荒涼とした風景は観るものに強い印象を残す。二人が入った寺院の中で見たくるくるいつまでも回って踊っている男たち、トルコの都会の様子、街の人々。どれをとってもモモには、そして観客には新鮮で鮮やかな印象を残す。ただなぜ二人がトルコに行くのか、なぜ突然イブラヒムが死んでしまうのか、そのあたりの意味合いが性急すぎて十分伝わらない。

 人種と宗教と世代の壁を超えた人間同士の絆を描く普遍的なヒューマンドラマという触れ込みのわりには、宗教への踏み込みも浅い。あえて多くを語らず観客の想像力の余地を残すという作りでもない。むしろうまく伝えられないままで終わってしまったという感じだ。原作は知らないがどうも原作を消化不良のまま描いてしまったようだ。

2005年10月 1日 (土)

運命を分けたザイル

2003年、イギリス 2004年 英国アカデミー賞 最優秀英国映画賞受賞
原題:Touching the Void
原作:ジョー・シンプソン『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』(岩波現代文庫)
【スタッフ】
監督:ケヴィン・マクドナルド
撮影:マイク・エリー
【出演】
ブレンダン・マッキー、ニコラス・アーロン、オリー・ライアル、ジョー・シンプソン

clip10  映画を観はじめてしばらくたった時ある奇妙な感覚に襲われた。変だな、この話知ってるぞ。もちろんこの映画を観るのは初めてだ。特に予備知識もなくレンタル店で借りてきたものである。しかし、ザイルを切られてクレバスに落ち込むという話にはどうも覚えがある。頭の中で過去の記憶を急いで検索してみる。すぐ思いついたのはジョン・クラカワーの『空へ』(文芸春秋)と映画「バーティカル・リミット」(2000年)。どちらかに似たような場面が出てきたのかもしれない。しかし確信がもてない。どうも気になるので途中でDVDを止めてネットで確認してみた。何と『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』が原作だった。覚えがあるはずだ。読書ノートを調べてみたら原作の方は2001年の3月11日に読了している。もう4年半前だ。著者本人が映画に出てくるが、名前をすっかり忘れていてうかつにも気がつかなかった。

 僕は登山はしないが、山岳遭難もののドキュメンタリーを読むのは好きだ。物語として下手な小説よりもずっと面白いからだ。上記の『空へ』は山岳遭難を扱ったドキュメンタリーの白眉だ。『死のクレバス』も傑作で、夢中になって読みふけったものだ。他にもチボル・セケリ『アコンカグア山頂の嵐』(ちくま文庫)なんてのも読んだ。漫画では谷口ジローの『神々の山嶺』(全5巻、集英社、原作は夢枕獏)が傑出している。「K」(双葉文庫)も秀作だ。

 それにしてもイギリス人は冒険物語にはいつも顔を出す国民だ。その典型はエンデュアランス号遭難事件。その事件を扱ったドキュメンタリー、アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮社)の面白さは桁外れだ(アーネスト・シャクルトン自身が書いた『南へ エンデュアランス号漂流』〔ソニーマガジンズ〕も出ている)。南極海で2年以上氷に閉じ込められた探検隊が全員一人も欠けずに無事に帰還する。事実は小説より奇なりと言うが、ほとんど信じられないことが現実に起こるのである。この実話はドラマ化され2夜にわたってNHKで放映された。ケネス・ブラナーがシャクルトンを演じている(「シャクルトン 南極海からの脱出」というタイトルで最近DVDが出た)。しかし原作の面白さには到底及ばない。登山で言えばジョージ・マロリー。女性だってすごい。19世紀後半に世界中を旅し日本も訪れたイザベラ・バード(1831-1904)。世界の7つの海を支配したかつての大英帝国の名残りか、イギリス人はどこへでも出かけてゆく。そう言えば、世界で一番最初に旅行会社を作ったのもイギリスのトマス・クックだ。

 前置きが長くなったが、イギリス映画「運命を分けたザイル」はさすがの傑作。クライミングの場面はほとんどドキュメンタリーかと思うほどの迫力だ。BBCを抱える国だけあってこのあたりの撮影技術はアメリカ以上だ。そういえばエンデュアランス号にもカメラマンが乗っていた。ドラマ化作品にはカメラマンが制止を振り切って水に沈んだ撮影済みのフィルムを拾い上げる場面が出てきて記憶に残っている。イギリス人は記録に取り付かれた国民でもある。その集大成が大英博物館と大英図書館である。「マスター・アンド・コマンダー」にも、いかにもイギリス人らしいエピソードが出てくる。艦長の親友である軍医が博物学にも関心を持つ男で、途中ガラパゴス諸島に寄って珍しい鳥や動物、昆虫などを捕まえる場面である。

 またまた寄り道してしまった。「運命を分けたザイル」にはジョー・シンプソンとサイモン・イェーツ、そしてベース・キャンプを守っていたリチャード・ホーキングがインタビューを受ける形で出演している。まさか当事者本人が出てくるとは思わなかった。考えてみれば1985年の話だからそんなに昔の話ではないわけだ。再現映像ではそれぞれブレンダン・マッキー、ニコラス・アーロン、オリー・ライアルが演じている。ただし、クライミングの場面はシンプソンとイェーツ本人が出ているらしい。何せ6000メートル級の山だ、素人じゃとてもまね出来るものではない。

 「運命を分けたザイル」という邦題はふさわしいタイトルではない。サイモンがザイルを切ったことの是非をめぐる映画ではないからだ。原作も映画もそんなことはたいして問題にしていない。どちらも主題は絶体絶命の窮地からのサバイバルである。下山途中の骨折、そしてクレバスへの転落。すべてはそこから始まる。それまでの話は序章にすぎない。

 ジョーを取り巻く状況。それは普通の人間なら1日と持たない悲惨で絶望的な状況だ。深いクレバスに落ち込みかろうじて棚のようになっているところに引っかかっている、進退窮moontalisman3まった状況。骨折しているのでクレバスを這い上がることは出来ない。下を見れば底知れない深さのクレバスが不気味な黒い口をあけている。声を上げてもサイモンに届かない。氷りの檻にたった一人で取り残されている。夜は真の暗闇になる。足の痛みに加えて孤独感と不安感、そしてその上に恐怖と絶望感が積み重なる。肉体的にも精神的にも耐え難い状況だ。並の人間なら自殺を考えるか、発狂していただろう。さいとうたかおの「サバイバル」にはわずかな食糧などを奪い合って殺しあう場面が何度も出てくるが、ジョーには奪い合う食料もなければ殺しあう相手もいない。絶対的な孤独。底知れない恐怖と絶望。しかしジョーは生き延びる可能性に賭けた。上がれないなら下に降りよう。痛む足を引きずって彼は氷壁を降りる。片足しか使えないので、ゆっくりとしか降りられない。しかし着実に降りてゆく。訓練をつんだクライマーの体力と技術には驚くしかない。足が1本動かなくてもザイル1本で氷の壁を降りられるのだ。

 やっと底に着いたかと思えば、そこは単に雪がたまっているだけで、その下にはまだ穴がある。彼自身の重みで雪だまりは下からどんどん崩れている。上を見上げると外の光が見える。幸いその斜面は緩やかだ。必死で体を引きずるようにして出口へと這い上がる。苦労の末ようやく地上に出る。そこで彼はサイモンの足跡を見つける。サイモンの足跡を見つけたとき、よかった彼も生きていたんだとジョーは喜ぶ。共に命を託し合って凶暴な自然と闘ってきた仲間に対する山男の心情に胸を打たれた。

 しかし地上に出たとはいえ、彼の前にはまだ大きな壁が立ちふさがっていた。歩けない状態でどうやってテントまで下りてゆくのか。ベースキャンプはまだまだはるか下である。途中には危険なクレバスが無数に潜んでいる。食料もない。助けも来ない。やがてブリザードが襲ってきて、サイモンの足跡を消し去ってしまった。道標さえ失った。

 この先がすごい。複雑に深いクレバスが入った氷原を這い進む、まかり間違えばまた転落である。雪と氷が消えると、岩がごろごろ転がっている地面を、片足を引きずるようにして進んでゆく。何度も石の上に転倒する。歩けなくなるとごろごろした石の上を這って進む。このあたりは視覚的効果も加わって原作以上に迫真力があった。彼を支えたもの、それはとにかくあの目標まで20分で行こうという「20分ルール」だ。そのパターンの果てしのない繰り返し。1キロ進むことを考えれば気が遠くなるが、10メートル先の目標なら可能に思える。実に賢明な行動だ。

  何日もかけて彼はやっとサイモンたちがいるテントの近くに到達し、助けられる。不思議なことにやっと助かったという感動は薄く、その後ラストも含めてほとんど記憶がない。恐らく助かるまでの苦闘があまりに凄まじすぎたため、その後の部分がかすんでしまうのだろう。テントに到達したところで事実上この壮絶な脱出劇は終わっているのである。本人がインタビューに出ているのだから、その後無事助かったことは分かっている。

 ケヴィン・マクドナルド監督は「ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実」でアカデミー「ドキュメンタリー長編賞」を受賞している。もともとドキュメンタリー作家である。監督本人は「おいしいレストランが600m以内にないと不安になる」という都会人だが、それでもこの無茶な撮影を敢行したのは「自分の見知らぬ世界、普通でない体験に身を投じる」のが好きだからだとオフィシャル・サイトに収められたインタビューで語っている。やはり彼にも探検家たるイギリス人の血が流れているのだ。最後にもう一言彼の言葉を引用しておこう。「美しさは恐怖にもなりうる。」この世のものとも思えない美しい光景も、ひとたび嵐が来ればそこに来たことを後悔したくなるような地獄に変貌する。それを身にしみるほど知っていても登山家たちは山を目指すのである。

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