2009年7月 8日 (水)

ボーダータウン 報道されない殺人者

2006年 アメリカ 2008年10月公開
評価:★★★★
監督:グレゴリー・ナヴァ
脚本:グレゴリー・ナヴァ
撮影:レイナルド・ヴィラロボス
編集:パドレイク・マッキンリー
出演:ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラス、マヤ・サパタ
    マーティン・シーン、ファン・ディエゴ・ボト、ソニア・ブラガ
   フアネス

はじめに
  6月4日に「闇の子供たち」、翌日の5日に「ボーダータウン 報道されない殺人者」を観た。まったく偶然だったが、同じタイプの映画を続けて観たことになる。2本とも一般には知られていない恐るべき事実を暴き、告発するタイプの映画なのである。この種の題材であればフィクションよりもドキュメンタリーの方が向いている。下手な演出をするよりも、事実をもって語らせる方がはるかにインパクトがあるだろう。実際、「闇の子供たち」では主人公の南部浩行(江口洋介)の個人的闇の部分が十分描ききれていないために、「ボーダータウン」では殺されかけて奇跡的に生き延びたエバ(マヤ・ザパタ)の描き方や筋の運びが不十分なために、優れた題材を取り上げながら傑作にはいたらなかったと思う。

 「ボーダータウン」のグレゴリー・ナヴァ監督は、自分はドキュメンタリー向きではないとDVD付録のインタビューで語っている。彼はあくまでドラマにこだわるのだが、彼はドラマの持つ可能性、ないしは優位性を次のように捕らえている。「ドキュメンタリーは事実と数字と統計を提示するが、ドラマは魂を語るものだ。本作ではエバという人物が登場し、見る者の心を揺さぶる。人間性を見せられることがドラマの強みだ。」

Fatmdrnh001   彼がなぜドキュメンタリーよりもドラマに惹かれるのかこの言葉からよく分かる。しかしこの対比は公平だろうか。「事実と数字と統計」という言い方から、彼がドキュメンタリーを何か平板なものだと捉えていることが分かる。だがドキュメンタリーには魂を語ることができないのだろうか。人間性を描けないのだろうか。「延安の娘」、「ミリキタリの猫」など、この間観てきたドキュメンタリー作品と照らし合わせてみると、この捉え方は納得が行く定義とは思えない。「事実は小説よりも奇なり」という表現があるように、僕はむしろ下手なドラマなどはるかに凌駕する、優れたルポルタージュやドキュメンタリーを、どうやったらフィクションが超えられるのかをずっとテーマとして考えてきた。重い現実を前にした時、フィクションに何ができるのか。絶望的な状況を描きながら、なおかつ希望を描きえるのか。簡単に答えを出せるものではないはずだ。

 もちろんフィクションが無力だと言いたいわけではない。「事実」に拘束されない分、フィクションはより自由に人物やテーマを描くことができる。「魂」や「人間性」をより強調して描くことは確かに可能である。しかし多くの場合は安易な結末に持って行ったり、事実に十分肉薄できず途中で腰砕けになったりしてしまうことが多い。事実の重みを十分描きながらも、なおかつドラマとして破綻がなく、安っぽくならず、問題を矮小化せず、抽象的思弁を弄して難解さに逃げ込まず、重いテーマを最後まで描ききるだけではなく、観るものに深い感銘を与える作品を作ることは至難の業である。「活きる」、「芙蓉鎮」、「ライフ・イズ・ミラクル」、「亀も空を飛ぶ」など(完璧ではないにしても)これをなしえた作品はあるが、やはりごく少数である。「闇の子供たち」も「ボーダータウン」もこれらの作品には及ばなかったと言わざるを得ない。

<1>
 「ボーダータウン」を監督したグレゴリー・ナヴァ監督は名作「エル・ノルテ 約束の地」 (1983)の監督として知られている。こちらは弾圧を逃れて南米から希望の地アメリカへ不法入国した兄妹がたどった悲惨な運命を描いている。国境の手前から見たサンディエゴの街はきらきらと輝いていたが、アメリカもまた「約束の地」ではなかった。この作品が成功したのは告発型の作品ではなく問題提起型の作品だったからだ。

 グレゴリー・ナヴァ監督はカリフォルニア州サンディエゴ出身。メキシコ人とスペイン人(バスク人)の血を引いているようだ。アメリカ人ではあるが、常にメキシコや中南米との関連でアメリカを捉えようとしている。「エル・ノルテ 約束の地」や「ボーダータウン」は言うまでもなく、未見だがもう一つの重要な作品である「マイ・ファミリー」(1995)はロサンゼルスに住むメキシコ出身の一家族を三世代に渡って物語っている。ジュリー・テイモア監督の傑作「フリーダ」 (2002)には脚本家の一人として参加している。

Stmichel7  メキシコとアメリカ。この二つの国の間には長い国境線が横たわっている。ベルリンの壁同様、この国境線には数々の悲劇が染み付いている。さまざまな理由でその国境線を越えた人々を描いた作品は「エル・ノルテ 約束の地」以外にもいくつかある。「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」(2006)、「スパングリッシュ」(2004)、「カーサ・エスペランサ」(2003)。いずれも優れた作品である。しかし残念ながら決して数は多くない。「チェ28歳の革命」(2008)と「チェ39歳別れの手紙」(2008)が話題になったが、アメリカが真摯に中南米の問題を受け止めようとした映画は他にコスタ・ガブラス監督の「ミッシング」(1982)やオリヴァー・ストーン監督の「サルバドル 遥かなる日々」(1986)など、ごくわずかしかない。中南米諸国はアメリカのすぐ近くにありながら、ほとんどその視野に入っていない国々なのである。ちなみに、グレゴリー・ナヴァ監督の次回作は「エル・ノルテ 約束の地」と似たテーマを扱った”Gates of Eden”という作品らしい。これが「エル・ノルテ 約束の地」の焼き直しではない、新たな傑作となることを期待したい(もしこれが日本で公開されるなら「エル・ノルテ 約束の地」も待望のDVDが出るかも知れない)。

 グレゴリー・ナヴァ監督はメキシコとアメリカの国境、および国境地帯に関して、上記のインタビューで重要な発言をしている。

 「国境はアメリカとメキシコが衝突する場所なんだ。第一世界と第三世界が接する世界で唯一の場所だ。変化にとんだ場所で、容易に対立が起こる。多種多様の大きな物語を抱えた地域だと思う。」
 「国境では多くのことが起こっている。アメリカとメキシコの両方の文化が変容を遂げている場所だ。大きな対立と大きな変容の震源地となる場所だよ。アメリカ全体、ひいては世界に影響を与えるだろう。アメリカは重要な国だからね。アメリカは移民問題で揺れ動いているんだ。」

 「第一世界と第三世界が接する世界で唯一の場所。」メキシコとアメリカの国境や国境地帯が持つ重要な意味をこれ以上端的に表現する言葉は他にない。「ボーダータウン」はメキシコを舞台にしているが、その背後にアメリカが常に意識されていることは明確である。アメリカの影はNAFTA(北米自由貿易協定)によって象徴的に示されている。「自由貿易」というと聞こえはいいが、この「自由」とはケン・ローチ作品「この自由な世界で」が描いた意味での「自由」に過ぎないと理解すべきだ。

<2>
  国境の町フアレス。1000もの工場が密集する地域だ。それらの工場で働くのは女性工員たちである。日当でほぼ5ドルというのだからひどい低賃金である。その町でまた女性工員を狙ったレイプ殺人が起きた。しかし警察の動きは鈍い。事件として取り上げようともせず、むしろ警察がやったことは事件を報道した新聞社から新聞を没収することだった。警察は事件を闇に葬ろうとしている。その町にシカゴ・センチネル紙から派遣された女性新聞記者ローレン・エイドリアン(ジェニファー・ロペス)が取材にやってくる。

 冒頭場面はかなり鮮烈である。メキシコの場面は黄色い色調で統一されており、どこかくすんで陰鬱な映像になっている。ローレンがかつての同僚記者ディアス(アントニオ・バンデラス)を尋ねてゆくシーンも興味深い。何もない荒野で何人もの人たちが地面を棒で探っている。二人の会話を聞きながら、観客は終始彼らが何をしているのか気になっている。会話の最後あたりでやっと事情が説明される。彼らはどこかに埋められているとみられる娘の死体を探していたのである。まるでキノコ取りに来た人々でも写しているようなさりげない映し方、それがかえって殺人が日常的であることを強烈に観客に伝えている。

 警察は殺された女性の数を375人と発表しているが、実際には5000近いとディアスはローレンに語っているが、その言葉以上にこのさりげない映像が観客の胸に澱のように残る。発表される人数が少ないのは、多くの場合遺体すら発見されていないからだということもこの場面から分かるのだ。ディアスはさらに地元では悪魔にさらわれたと噂されていると語る。それを聞いたローレンがもらす「本当に悪魔かも」という言葉が印象的だ。

 ローレンにこのせりふを言わせた後で「悪魔と地獄へ行って逃げ帰ってきた」女性エバが登場するという展開もうまい。冒頭でバスの運転手ともう一人の男が若い女性を襲い、殴り殺して地面に埋める場面が出てくる。その時襲われたのがエバだった。彼女は奇跡的に息を吹き返したのだ。夜、地面から起き上がるエバの映像には異様な迫力があった。

 この導入部あたりまでは悪くない出来だ。しかしこの肝心なエバがいまひとつリアルに描けていない。彼女が悪夢にうなされる場面はたびたび描かれるが、起きて行動している場面ではさっぱり緊張感も不安感もないのだ。殺人犯が何人もうろうろしているはずの町中にいてもあまりおびえているようには思えない。犯人を捕まえるために協力することは理解できるが、そのために冒す危険にあまりに鈍感である。おびえる彼女をローレンとディアスが必死で説得するという展開のほうがずっとリアルだったと思うが。そもそもエバが何としても犯人を見つけて欲しいという強い意思を持っているようにも見えないのだ。

 これは演じたマヤ・ザパタの演技力の問題というよりも、彼女の描き方に問題がある。おそらく彼女は架空の人物である。事件の鍵を握る重要な人物として登場させているが、どちらかというとストーリー展開上必要な役回りに重点があり、その分彼女の恐怖や不安が十分掘り下げられていないということだろう。

 例えば、サラマンカ家の令嬢の15歳の誕生パーティ会場で彼女が犯人の一人と目を合わすという場面は、あまりにご都合主義的で説得力に欠けると言わざるを得ない。その後の展開を導入するために無理やりひねり出した方策である。その後の、ローレンが囮となって工場に潜入して犯人二人をおびき出し、最後に追い詰めるという展開はハリウッドのアクション映画でも観ているような感じだった。

<3>
 どうもドラマがサスペンス・アクションの方向に流れてしまっている。その点が弱い。もちろん途中で腰砕けになっているというわけではない。殺人者たちはローレンたちが追い詰めた二人以外にまだ何人もいることは強調されている。事件は終わっておらず、なおも女Tuki1 性の行方不明は続いている。調査結果をまとめたローレンの記事は結局没にされてしまった。ディアスは暗殺され、ローレンはディアスの新聞社を引き継いでさらに追求する姿勢を示している。ローレンの父親も実は殺されており、女性行員たちの悲惨な状況がその記憶と重なって、ローレンは「私があの工場で働いていたかも知れない。あれは私のお墓だったかもしれない。」という認識にいたる。工場に潜入するために髪を金髪に染めていたのを黒髪に戻したローレンが、また金髪に染めようとして思いとどまる場面はその意識の変化を象徴的に示している。

 事件の社会的背景への追求が浅いわけでもない。警察がまともに事件を捜査する姿勢を持っていないこと、それどころかむしろ事件を闇に葬ろうとしていることは早くから示されている。事件の背後にNAFTA(北米自由貿易協定)があり、その協定の実現に大きく貢献したサラマンカ家やローリング議員などが事件のもみ消しに関わっていることが暗示されている。サラマンカ家のパーティでローレンに言い寄ってきたマルコという人物には重要な発言をさせている。「どこの国にも二つの法律がある。権力者のとその他大勢のとだ。アメリカだって同じだ。僕は双方の政治家を金で買う。だから工場が建った。」

 要するに、すべて政治がらみで、利益優先の姿勢が女性行員たちから人権を奪い、レイプ殺人の頻発という事態の下地を作っていると告発しているのだ。ローレンは結局没になった記事でこう書いている。「殺人者が大勢いるのは明白だ。隠蔽されることでさらに殺人が増える。女性の保護よりも隠蔽のほうが安価だからだ。すべてが損得勘定。そして犠牲者が増える。」

 こういう姿勢を最後まで保っているからこそ、ハリウッド的演出に一部流れてしまったことがなおさら惜しまれるのである。エバの描き方にしてもまったくだめなわけではない。犯人の一人が運転しているバスを待っている間にローレンとエバが交わした会話は作品全体の中でも重要な位置を占めている。エバがなぜ国境地帯の工場に流れてきたのかをローレンに語る場面だ。「私はオアハカから来たの。あそこを愛してた。オアハカは私の魂。私の心。彼らが奪った。」ローレン「誰が?」エバ「政府。税金が払えなくて。“国境地帯へ行って工場で働け。土地を守るなら金を稼げ”って。でもここにお金はない。政府と工場が全部持っていく。お金は彼らのもの。私たちには何もない。父さんはアメリカに働きに行ってる。何年も会ってないの。どうにもならない。土地もないし、故郷にも帰れない。何もないの。」

 この後に続く、ローレンがキャリアという言葉の意味をエバに教える場面も上昇志向だったローレンの意識が変わり始めていたことを示していて興味深い。「キャリアというのはすべてを捨ててもやりたい仕事のことよ。でも実際その仕事に就くと、期待はずれで自分の生活がないのに気づく。」エバ「分からない。」ローレン「私もよ。」

 こういう会話をもっと積み重ね、映画の重点をアクション映画的な演出ではなくエバをもっと丁寧に、よりリアルに描くことに移していたならば、この映画は群を抜いた傑作になっていたかもしれない。

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2009年7月 3日 (金)

マルタのやさしい刺繍

2006 スイス 08年10月公開
評価:★★★★
監督:ベティナ・オベルリ
原案:ベティナ・オベルリ
脚本:ザビーヌ・ポッホハンマー
撮影:ステファン・クティ
美術:モニカ・ロットマイヤー
衣装:グレタ・ロデラー、リュク・ツィマーマン
出演:シュテファニー・グラーザー、ハイジ・マリア・グレスナー
    アンネマリー・デューリンガー、モニカ・グブザー
    ハンスペーター・ミュラー=ドロサート

はじめに
  珍しいスイス映画である。スイスと映画の関係というとロカルノ国際映画祭が思い浮かぶ。1946年からスイス南部のイタリア語圏ロカルノで毎年8月に開催されている。老舗の映画祭ではあるが、地味なのであまり報道されることはない。グランプリである金豹賞を受Engle2 賞した作品でも日本未公開というのはざらにある。受賞作で僕が観たことがあるのはトルコ映画「群れ」とジム・ジャームッシュ監督の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」くらいのものだ。日本で公開された作品は他にフレディ・M・ムーラー監督の「山の焚火」(スイス)、テレンス・デイヴィス監督の「遠い声、静かな暮し」(アメリカ)、ペ・ヨンギュン監督の「達磨はなぜ東へ行ったのか」、トム・ディチロ監督の「ジョニー・スエード」(アメリカ)、クレール・ドニ監督の「ネネットとボニ」(フランス)など、数えるほどしかない。 日本映画では実相寺昭雄監督の「無常」(70年)と小林政広監督の「愛の予感」(07年)が金豹賞を受賞しているが、日本ではほとんど話題にならなかったのではないか。受賞作はほとんどすべてアート系作品ばかりである。その辺はいかにもヨーロッパの映画祭らしい。日本であまり馴染みがないのもそのせいだろう。ただし、スイスの一般観客はやはりハリウッド映画を観ている。映画館がハリウッド映画に占領されている状況はスイスでも他の国と変わらない。

 ついでに触れておくと、今年の8月に開催される第62回ロカルノ国際映画祭では、「Manga Impact - The World of Japanese Animation」と題した特集上映が行なわれることになった。アニメ映画から短編アニメーション、テレビアニメなど、初期のものから最近のものまでを網羅した大回顧展になるらしい。

 さて、スイス映画というとどのような作品があるか。ちなみにこれまで僕が観てきたスイス映画は以下の通り。実質的には他の国の映画だがスイスが製作あるいは資本に参加したものも含めてある。

「僕のピアノコンチェルト」(07、フレディ・M・ムーラー監督、スイス)★★★★
「コーラス」(04、クリストフ・バラティエ監督、独・仏・スイス)★★★★
「そして、デブノーの森へ」(04、ロベルト・アンドゥ監督、仏、伊、スイス)★★★★
「列車に乗った男」(02、パトリス・ルコント監督、仏・独・英・スイス)★★★★
「キャラバン」(99、エリック・ヴァリ監督、英・仏・ネパール・スイス)★★★★
「遥かなる帰郷」(96、フランチェスコ・ロージ監督、伊・仏・独・スイス)★★★★
「ジャーニー・オブ・ホープ」(90、クサヴァー・コラー監督、スイス)★★★★
「アリス」(88、ヤン・シュヴァンクマイエル、スイス)★★★☆
「路」(82、ユルマズ・ギュネイ監督、トルコ・スイス)★★★★★
「カンヌ映画通り」(81、ダニエル・シュミット監督、スイス)★★★☆
「光年のかなた」(80、アラン・タネール監督、仏・スイス)★★★★
「サラマンドル」(70、アラン・タネール監督、スイス)★★★★☆

 スイスは映画産業がそれほど発達しておらず、人口が少ない上にドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四つの言語圏に分かれているため(ちなみに、「マルタのやさしい刺繍」はドイツ語圏の村が舞台)、自国だけで映画を作っても制作費を回収することが困難である。また、スイスはEUに入っていないため、ヨーロッパの映画製作のための基金、文化的な基金による援助を受けられないという事情もある。そのため、カナダと同じように、他国の映画に資本参加するという形をとることが多いと思われる。「ジャーニー・オブ・ホープ」がアカデミー外国語映画賞を受賞したが、この作品を含め、まだまだスイス映画の知名度は低い。

  スイス映画が日本で知られるようになってきたのは80年代からである。当時アラン・タネール監督とダニエル・シュミット監督の作品はよく名画座や自主上映館で上映されていEngle1 た。アラン・タネール監督(1929-)は60年代のスイスのヌーヴェル・ヴァーグといわれた時代から映画を作っているスイス映画界の巨匠。1985年2月から3月にかけてアテネ・フランセ文化センターで大規模な特集が組まれた。「サラマンドル」はその時に観たもの。ダニエル・シュミット監督(1941-2006)も81年にアテネ・フランセ文化センターで「ダニエル・シュミット映画祭」が開催されている。2007年にもユーロスペースで特集が組まれ、いまだに人気を保っている。フレディ・M・ムーラー監督(1940-)は「山の焚火」で一躍知られた人である。その後さっぱり名前を聞かなくなったが、昨年「僕のピアノコンチェルト」が公開された。なかなかの出来。この3人あたりがスイスの代表的な監督だろう。

 さて、「マルタのやさしい刺繍」(原題は「遅咲きの乙女たち」)のベティナ・オベルリ監督は1972年生まれ。まだ30代の若い女性監督だ。チューリヒの造形芸術大学の映画ビデオ学科で学んだということだから、若い世代を育てる機関があり、新しい才能が着実に育っているということだろう。最初の長編劇映画「ひとすじの温もり」はいくつもの賞を受賞し注目された。「マルタのやさしい刺繍」は長編第2作目。スイスで大ヒットした作品である。何とハリウッド大作を抑え2006年度の観客動員数 No.1を獲得したという。ちなみに、日本でも2008年のミニシアター観客動員数で1位を獲得した。

* * * * * * * * * * *  

  スイスの小さな村にある、澄み切ったように美しい湖。そこに誰かが石を投げ込んだ。小さな波紋が緩やかに広がってゆく。しかしその波紋はいつまでたっても消えない。それどころか湖底から茶色く濁った汚泥が吹き上がってきた。たとえて言えばそんな映画か。若いころの夢を実現しようとする一人の老女によって、スイスの小さな村の驚くほど保守的な面がさらけ出されてゆく。この映画は「森の中の淑女たち」(1990)、「ムッソリーニとお茶を」(1999)、「ポーリーヌ」(2001)、「歌え!フィッシャーマン」(2001)、「ラヴェンダーの咲く庭で」(2004)のような老人映画であると同時に、「靴に恋して」(2002)、「カレンダー・ガールズ」(2003)のような女性映画でもある。夫をなくしたばかりの未亡人が一つのムーブメントを引き起こしてゆくという点では「カレンダー・ガールズ」が一番近い映画かもしれない。刺繍を通じて生きる力を得てゆくという点では「クレールの刺繍」(2004)とも共通点がある。

 自分の夢を実現するためには閉鎖的な村の空気や冷たい村人たちの視線、果ては悪質な妨害にも一歩も引かないマルタとその仲間たちの芯の強さに共感せずにはいられない。ついにはマルタの商売はビジネスとして成功を収め、散々妨害していた息子で牧師のヴァルターや村の保守党員フリッツたちをやり込めてしまう。何とも爽快な映画だ。

 この映画が魅力的なのはマルタ(シュテファニー・グラーザー)とその仲間たち(リージ、フリーダ、ハンニ)と保守派の代表であるヴァルター(ハンスペーター・ミュラー=ドロサーTntpn001 ト)やフリッツ(マンフレート・リヒティ)などとの対立の構図が明快だからである。ほとんどハリウッド映画を思わせる単純明快さ。これほど単純な構図でなおかつ面白さを引き出せるのは、村の生活があきれるほど保守的だからである。そもそも、あの下着を作り販売することのどこがいやらしいのか、何で破廉恥だの、ふしだらだの、身の程知らずだの、村の恥だのと言われるのかさっぱり理解できない(笑)。逆に言えば、村がそれほど保守的だったから、マルタたちが断固自分たちの意志を曲げずに自分たちの道を進む様を描くだけで、観客は彼女たちに感情移入してしまうのである。

 もちろんそれだけ話は単純になり、物足りないと感じることも確かだ。確かに、女友達のフリーダやハンニも最初のうちはマルタについて行けず非難する側に回るが、やがて考えを変えてマルタを応援するようになる。その点、イギリス映画「柔らかい手」(2006)では、普段仲良くしていた知り合いたちが最後までヒロインの足を引っ張るというよりシビアな展開になる。だから「柔らかい手」にははるかにはらはらする緊張感がある。ヒロインたちが手を染める商売も「やわらかい手」や「ヘンダーソン夫人の贈り物」(2006)のほうがずっと大胆だ。これらのイギリス映画に比べるとやはりひねりがないといわざるを得ない。

 マルタの「勝手な」行動は平穏だった村を引っ掻き回してしまう。定年で仕事を引退し、しょぼくれていた男たちが次第に新しい生きがいを見出してゆく重松清の『定年ゴジラ』(講談社文庫)に比べると、マルタの選んだ道はより厳しい道だった(『定年ゴジラ』がつまらない小説だと言っているのではない)。古い価値観と正面から衝突せざるを得ない道を選んだのだから。しかし、「マルタのやさしい刺繍」はそれを重苦しく悲痛なタッチではなく、ユーモアを交えた軽快なタッチで描いた。

 村人たちから冷たい目を向けられ(女たちからさえ白い目で見られるのだ)、身内から手ひどい妨害を受けても、マルタたちはひょうひょうとしてアップルパイとお茶でおしゃべりを楽しみ、作戦を練っている。そんな描き方がいい。

 リージ(ハイジ=マリア・グレスナー)、フリーダ(アンネマリー・デューリンガー)、ハンニ(モニカ・グプサー)といったマルタの友人たちも、彼女たちを一番しつこく非難したヴァルターやフリッツもそれぞれに悩みや事情を抱えている。中心的な対立の構図とともに、そういった個々の家族の事情を丁寧に描いている。息子のヴァルターの秘密を知ったマルタが、彼にある助言をして彼を見方にしてしまうという展開が面白い。社会派ドラマとしてではなく、ファミリー・ドラマとして描いたから「マルタのやさしい刺繍」は成功した。「オフィシャル・ストーリー」(1985)、「セントラル・ステーション」(1998)、「母たちの村」(2004)、「ヴェラ・ドレイク」(2004)、「スタンドアップ」(2005)、「スパングリッシュ」(2006)などの優れた女性映画に比べると、「マルタのやさしい刺繍」は単純すぎるといわざるを得ない。しかし、「マルタのやさしい刺繍」には「ククーシュカ ラップランドの妖精」(2002)、「オフサイド・ガールズ」(2006)、「ボルベール<帰郷>」(2007)などの、また別のタイプの優れた女性映画に通じるものがあることも確かだ。われわれにはさまざまなタイプの映画が必要なのである。あまり難しいことを言わずに、その痛快さと爽快さを楽しめばいい。

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2009年6月21日 (日)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(09年7月)

【新作映画】
6月27日公開
 「それでも恋するバルセロナ」(ウディ・アレン監督、スペイン・米)
 「BASURA バスーラ」(四ノ宮浩監督、日本)
 「台湾人生」(酒井充子監督、日本)
 「扉をたたく人」(トム・マッカーシー監督、米)
 「ディア・ドクター」(西川美和監督、日本)
7月4日公開
 「ウィッチマウンテン 地図から消された山」(アンディ・フィックマン監督、米)  
 「蟹工船」(SABU監督、日本)
 「i and i」(IZABA監督、日本)
 「スリーデイボーイズ」(夏目大一朗監督、日本)
 「鶴彬 こころの軌跡」(神山征二郎監督、日本)
7月10日公開
 「ノウイング」(アレックス・プロヤス監督、米・英)
7月11日公開
 「サンシャイン・クリーニング」(クリスティン・ジェフズ監督、米)
 「セブンデイズ」(ウォン・シニョン監督、韓国)
 「シネマ歌舞伎 怪談牡丹燈籠」(戌井市郎演出、日本)
7月15日公開
 「ハリー・ポッターと謎のプリンス」(デビッド・イエーツ監督、英・米)
7月18日公開
 「湖のほとりで」(アンドレア・モライヨーリ監督、イタリア)
 「ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢」(ニック・パーク監督、イギリス)

【新作DVD】
6月24日
 「アルパーサの決闘」(エド・ハリス監督、米)
6月26日
 「007 慰めの報酬」(マーク・フォースター監督、英・米)
 「石内尋常高等小学校 花は散れども」(新藤兼人監督、日本)
7月2日
 「ブロークン・イングリッシュ」(ゾエ・カサベテス監督、米・仏・日)
7月3日
 「未来を写した子どもたち」(ロス・カウフマン監督、米)
 「その土曜日、7時58分」(シドニー・ルメット監督、英・米)
 「崖の上のポニョ」(宮崎駿監督、日本)
 「優雅な世界」(ハン・ジェリム監督、韓国)
 「ザ・クリーナー 消された殺人」(レニー・ハーリン監督、米)
 「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」(マーティン・スコセッシ監督)
7月10日
 「ホルテンさんのはじめての冒険」(ベント・ハーメル監督、ノルウェー・独・仏)
 「マルセイユの決着」(アラン・コルノー監督、フランス)
 「感染列島」(瀬々敬久監督、日本)
7月15日
 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(デビッド・フィンチャー監督、米)
 「旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ」(マキノ雅彦監督、日本)
7月17日
 「チェンジリング」(クリント・イーストウッド監督、米)
7月24日
 「ワルキューレ」(ブライアン・シンガー監督、米・独)
8月12日
 「オーストラリア」(バズ・ラーマン監督、米)
8月19日
 「ダウト あるカトリック学校で」(ジョン・パトリック・シャンリィ監督、米)
 「初恋の思い出」(フォ・ジェンチイ監督、中国)

【旧作DVD】
6月24日
 「オルカ」(77、マイケル・アンダーソン監督、米)
6月26日
 「ハーヴェイ・ミルク」(84、ロバート・エプスタイン監督、米)
6月27日
 「河と死」(55、ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)
 「去年マリエンバードで」(61、アラン・レネ監督、仏・伊)
7月3日
 「日曜はダメよ」(60、ジュールス・ダッシン監督、米・ギリシャ)
 「アシャンティ」(79、リチャード・フライシャー監督、スイス・英・米)
 「ニュールンベルグ裁判」(61、スタンリー・クレイマー監督、米)
7月8日
 「砂丘」(70、ミケランジェロ・アントニオーニ監督、米)
7月17日
 「ドヌーヴ×ドゥミ×ルグラン コンプリートDVD-BOX」
  収録作品:「シェルブールの雨傘」、「ロシュフォールの恋人たち」、「ロバと女王」、他

090410_5  新作には気になる作品が盛りだくさん。まず、ゴブリンお気に入りニック・パーク監督の新作「ウォレスとグルミット ベーカリー街の悪夢」が登場。彼の作品に駄作はない。期待大です。久々に期待できそうなイタリア映画が「湖のほとりで」。殺人事件が絡むが、単なるサスペンスではなく人間ドラマになっているようだ。「扉をたたく人」、「ディア・ドクター」と「リトル・ミス・サンシャイン」のチームが手がけた「サンシャイン・クリーニング」も期待できそうだ。ドキュメンタリーの勢いもとまらない。中でも「台湾人生」に興味を引かれる。

 新作DVDでは「その土曜日、7時58分」と「チェンジリング」に一番期待している。その他では「ホルテンさんのはじめての冒険」、「ワルキューレ」、「オーストラリア」、「初恋の思い出」あたりが良さそうだ。話題作「崖の上のポニョ」は子供向けの作りだが、そこは宮崎作品、観ておいて損はない。

 旧作DVDでは「ミルク」の公開のおかげでドキュメンタリー「ハーヴェイ・ミルク」がやっと出る。以前ビデオで観たが、なかなかDVDにならなかった。「日曜はダメよ」と「ニュールンベルグ裁判」がDVDで観られるようになるのもうれしい。カトリーヌ・ドヌーヴの人気作を集めた「ドヌーヴ×ドゥミ×ルグラン コンプリートDVD-BOX」も、バラで持っていなければお買い得かも。「ジャック・ドゥミ初期作品集 DVD-BOX」も6月末に発売される。

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2009年6月20日 (土)

細田守監督のアニメ「サマーウォーズ」が話題に

 8月1日公開予定のアニメ「サマーウォーズ」が話題になっている。監督は「時をかける少女」の細田守。主題歌「僕らの夏の夢」を歌うのは何と山下達郎。この映画は長野県上田市が舞台である。上田の街のあちこちに「サマーウォーズ」のポスターが貼られている。

 上田は昔から映画のロケが盛んだった。別所温泉があるので宿泊場所が確保でき、しかも全国で3本の指に入るほど晴天率が高いので撮影にもってこいだったからだと言われている。上田フィルム・コミッションの努力もあり、現在でも映画やテレビドラマ、プロモーションビデオの撮影が盛んに行われている。

 しかし、上田が全面的に舞台となる作品はそう多くない。その点「サマーウォーズ」は上田がメインの舞台となるようだ。しかも架空の地名ではなく、上田という地名がはっきり示されているようだ。「サマーウォーズ」の公式ブログで配布している壁紙の右上に纏が描かれているが、纏の先端にはっきりと「上田市」と書いてある。右下の野球少年のユニフォームにも「UEDA」の文字が。

 主人公の小磯健二は、憧れの先輩である夏希に誘われて長野にある彼女の田舎に行く。そこが上田という設定らしい。夏希の実家、陣内(じんのうち)家は室町時代から続く戦国一家。明らかにこれは真田家をモデルにしている。上田は真田家の城下町であり、真田町という地名も残っている。 まだ上田のどのあたりがアニメに描かれているのかは明かされていないが、別所線は出てくるらしい。ただし終点は別所温泉ではなく、なぜか角間渓谷になっているらしい。他にどんなところが出てくるのか。アニメとはいえ上田がどのように描かれるか楽しみだ。

 7月20日には上田市民会館で無料特別試写会が行われる(上田市の住民のみ申し込み可)。明日にでも申し込みはがきを出そう。どうか当たりますように。

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【ゴブリンの上田案内】

 上田はどんなところか。ゴブリンが手っ取り早くご案内しましょう。これまで撮りためてきた写真を別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」に載せています。東信地域(信州は北信、中信、東信、南信の4地域に分かれます)をメイン・フィールドに写真を撮っていますが、その中から上田関連の記事を下に並べておきます。リンクをはってありますので、クリックすれば記事に飛んでゆきます。

別所温泉を撮る
上田城跡公園で紅葉を撮る
角間渓谷~深山幽谷に秋を見る
柳町を歩く
浮世橋と旧北国街道
信濃デッサン館、無言館、浦野川散策+α
無言館第二展示室~パノラマライン展望台
前山~古安曽散策
路地へ
路地裏探索 その2
生島足島神社と長福寺
上塩尻散策 土塀の美しい町 1
上塩尻散策 土塀の美しい町 2
鴻の巣、いにしえの丘公園ふるさとの森+α
古城緑地公園と古城庵
隧道を抜けるとそこは不思議の町だった
パニのベランダで伊丹十三を読みながら
生活の中に水路のある町
産川探索 その2 沢山湖へ行く

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2009年6月15日 (月)

先月観た映画(09年5月)

「この自由な世界で」(ケン・ローチ監督、イギリス・他)★★★★★
「ウォーリー」(アンドリュー・スタントン監督、米)★★★★☆
「おくりびと」(滝田洋二郎監督、日本)★★★★☆
「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」(ジェームズ・D・スターン他監督、米)★★★★
「赤い影」(73年、ニコラス・ローグ監督、英・伊)★★★★
「マサイ」(パスカル・プリッソン監督、フランス)★★☆

 5月に観た映画はわずか6本。本数はかなり落ち込みましたが、作品的には充実していました。特に月末に集中して観た「この自由な世界で」、「ウォーリー」、「おくりびと」の3本はいずれも傑作でした。久々に本格レビューを書きたいという抑えがたい気持ちが湧き上がってきた作品です。「この自由な世界で」と「おくりびと」についてはレビューを書きましたので、そちらを参照してください。

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「ウォーリー」
090509_61_2  これはいい。大いに期待して観たが、その期待を上回る傑作だった。これまでのところ、ピクサーの最高傑作だと思う。基本的なテーマに手塚治虫の世界を感じさせるところがいい。人間の心を持ったロボットというテーマ。アニメはよく動物を主人公にするが、ロボットを主人公にしたものは多くない。「アイアン・ジャイアント」という優れた作品があるが、ロボットがロボットに恋をするラブストーリーというのはアニメでも手塚作品の中でも少ないのではないか。ほとんど言葉を発しないロボットの「心理」や「感情」を動作や表情だけで表現してみせた画期的な作品なのである。

 動物のような感情移入や擬人化しやすい対象ではなく、本来無機質なロボットを主人公にして恋愛冒険ドラマに仕立てている。ウォーリーの姿は人間の姿とは程遠いし、より人間の形に近いイヴですらより無機質な姿である(性格的には小生意気な感じの女の子という設定になっているところがいい)。「目は口ほどにものを言う」というが、目と手の動き、そしてしぐさで、観る者を共感させてしまうほどの「感情」表現を生み出しているのである。その表現方法が見事である。

 それだけではない。ロボットという人間の道具として使われている存在に「感情」を持たせるということには、猿を見て「ああ、人間そっくりだ」と感じたり、ペットに人間と同じような愛着を感じたりすること以上の意味がある。人間の単なる道具として作られ使われてきたロボットが人間と同じような願望を持つ、それにわれわれは強く共感してしまう。そこにある共感の質は、虐げられて来た人々の怒りや、あるいはささやかな希望に対してわれわれが覚える共感とおそらく同質のものなのだ。いくらでも取替え可能で、使い捨て可能な存在。人工知能は持たされていても、言葉や感情はあらかじめ奪われていた存在。そんな彼らがささやかな「愛」という感情を持ち始めたとき、ささやかな反乱が始まっていたのである。それは一方で、でっぷりと太って自分では歩けないほど退化し、ヴァーチャルなものですべて代用して感情すらなくしかけている人間世界を風刺的に描くことにつながってゆく。かといって、厭世的、世捨て人的な人間批判が展開されているわけではない。ロボットたちの「反乱」とその生き生きとした行動が活力を失い惰性的な生活を送っていた人間たちを覚醒させるという展開になってゆくのである。「俺達は生き延びたいんじゃない。生きたいんだ!」

  「ウォーリー」が生み出した世界に最も近い作品、そして同じくらいの高みに達していた作品はティム・バートンの「コープス・ブライド」である。「コープス・ブライド」の世界は生者と死者が逆転した世界である。われわれはおぞましい姿の死者(死んだ花嫁)に生きている人間以上の魅力を感じ、彼女の切ない願いに深く共感し、感動すら覚えてしまう。「コープス・ブライド」が観客に与える共感と感動の質は「ウォーリー」と同じなのだ。単にウォーリーとイヴのキャラクターのかわいらしさだけに目を奪われるべきではない。

 すっかりガラクタの山になってしまった「緑の地球」というテーマも手塚治虫を連想させる。タイトルは忘れてしまったが、手塚治虫の漫画に似た話がある。短編だったか長編の中の一挿話だったかも定かではないが、確かこんな話だった。長い間宇宙で暮らしていたある人物が死ぬ前に地球に戻ってくる。死ぬ前に緑の地球を見たかったのである。彼の記憶の中にある地球(あるいは親から聞かされた話の中での地球だったか)は緑あふれる美しい星だった。しかし彼が見た実際の地球は緑などどこにもないコンクリート・ジャングルになっていた。あるのはヴァーチャルな緑の映像だけ。そんなはずはない。彼は必死で緑を捜し歩く。そしてようやく発見する。たった一箇所だけ本物の植物が残っている場所があったのだ。

 確かそんな話だった。同じように未来の話で、人間は宇宙に進出しているという設定。手塚は宇宙もの、未来ものをよく描いた。手塚が漫画で描いた世界が、海の向こうで受け継がれている(「ウォーリー」では感情の芽生えと小さな緑の芽生えがパラレルな関係になっている)。そう思えるのがうれしい。「ウォーリー」はロボットたちのラブ・ストーリーであると同時に未来と宇宙を描いたSFアニメでもある。宇宙船の描き方などは「スター・ウォーズ」シリーズを彷彿とさせる。

 さらに連想を膨らませると、人間に捨てられたゴミだらけの地球で一人黙々と鉄クズを集めてまるで高層ビルのように積み上げているウォーリーの姿。これはニック・パークの「ウォレスとグルミット」シリーズの1本、「チーズホリデー」とよく似たシチュエーションである(地球ではなく別の星が舞台だが)。手塚治虫+「スター・ウォーズ」+「チーズホリデー」。「ウォーリー」はそういう作品である。ウォーリーは英語では“WALL・E”となっているが(ウォーリーという名前の普通のつづりは”Wally”である)、これはゴミの壁を築いているロボット(Eは電気仕掛けということだろう)という意味と思われる。しかし、深読みすれば人間とロボットの「壁」を壊そうとする映画だという意味がこめられているとも読める。

「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」
 映画版「コーラスライン」(リチャード・アッテンボロー監督)は85年に製作された。日本でも同年に公開され大ヒットした。83年公開の「フラッシュダンス」と並んで鮮烈な印象を残したミュージカル映画だった。オリジナルの「コーラスライン」は75年初演の舞台劇。ミュージカル製作の舞台裏をそのまま作品にしたミュージカル劇である。 この有名なブロードウェイ・ミュージカルが2006年に再演されることになり、8ヵ月間にわたる長く過酷なオーディションが展開された。「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」はそのオーディションの過程を追いながら、応募者たちの人生模様を描いたドキュメンタリー映画である。

080713_33  ″コーラスライン″とは、稽古でコーラス(役名のないキャスト達)が、ダンス等でこれより前に出ないよう舞台上に引かれるラインのことである。つまり、「コーラスライン」の主役たちは、メインキャストではなくその背後で踊るその他大勢役に応募してきた人たちである。メインキャストではないコーラスの役ですらこれほど過酷な選抜試験をくぐり抜けねばならないのか、85年12月に映画版を観た時そう思った。ダンスの楽しさを堪能しただけではなく、ショービジネスという能力主義世界のすさまじさを垣間見た思いである。

 「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」はドキュメンタリーなので劇的な盛り上がりには欠けるが、順番待ちの間の緊張感、オーディションにかける思い、本番での熱演、そして結果発表の瞬間の明暗、無名の応募者たちのさまざまな人生の断面が捉えられている。実際のオーディションの具体的様子も良く分かる。アメリカのショービジネス界の熱さが伝わってくる優れたドキュメンタリーである。

「赤い影」
 BFI(the British Film Institute)が1999年に選定した「イギリス映画ベスト100」(本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「イギリス映画の世界」コーナーに全作品のリストを載せています)で歴代8位にランクされた作品。2005年にDVDが出てやっと観られるようになった。かなり期待して観たが、ややがっかりしたというのが正直なところ。というのもサスペンス映画だと思っていたら実はオカルト・ホラーだったのである。もちろんサスペンス的要素もあるが、どうも中途半端な印象だ。結末もすっきりしない。

 監督のニコラス・ローグは撮影監督出身だけに、赤い色をうまく使ってサスペンスを盛り上げている。様々な映像的効果が使われていて(ラストは確かにショッキングだ)、おそらくそれが高い評価を得ている理由だろうが、結局説明のつかないオカルト的方向に行ってしまうのではがっかりである。要するに、デヴィッド・リンチの世界をいち早く70年代に描いて見せた作品と言えばいいだろう。  

 主演はドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティ。この二人の若いころの作品を観るのは実に久々だった。二人ともまだ現役で頑張っているのだから立派である。前述のように、監督のニコラス・ローグはもともと撮影監督として知られていた人。撮影監督時代の代表作にはトリュフォーの「華氏451」やジョン・シュレシンジャーの「遥か群集を離れて」(トマス・ハーディ原作、寒々とした映像が素晴らしい)などの秀作がある。名作「アラビアのロレンス」では第二班の撮影監督を務めていた。「赤い影」は監督第3作。有名な作品はこれだけで、監督としては平凡だったといわざるを得ない。

「マサイ」
 出演者は皆マサイ族で言葉もマサイ語という珍しい映画。しかし製作とスタッフはフランスである。毎月行なっている映画の会の例会で観たが、正直言ってこれははずれ。

 マサイ族の若い戦士たちが旱魃に襲われた村を救うために、伝説の獅子ヴィチュアのたてがみを手に入れる旅に出る。そのたてがみを神に捧げれば、雨は戻ってくると村では信じられていたのである。その旅はまた彼らが真の「マサイの戦士」になるため旅でもあった。

 ストーリーを簡単にまとめるとこういうことになる。実際のマサイ族の姿など滅多に見られるものではないし、その風習や生活が描かれているところは確かに興味深い。戦士でいられるのは(確か)18歳までというのも知らなかった。それを過ぎると力士の断髪式のように髪の毛を剃って卒業するのである。

 しかし映画としてはストーリーも演出もありきたりで標準以下。ラストのライオンを倒すシーンに至ってはあまりに稚拙で情けなくなる。マサイ族に対する西洋人のステレオタイプ化されたイメージに通過儀式のこれまたお定まりのパターンをかぶせた安易な作り。イヌイット語でイヌイットを描いた最初の長編劇映画「氷海の伝説」(01年、カナダ、監督のザカリアス・クヌク自身イヌイットである)が堂々たる秀作だったことを考えれば、企画があまりに安易だったと言わざるを得ない。

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2009年6月 4日 (木)

この自由な世界で

2007年 イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン 2008年8月公開
評価:★★★★★
原題:It’s a Free World
監督:ケン・ローチ
配給:シネカノン
製作:レベッカ・オブライエン
脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:ナイジェル・ウィロウビー
編集:ジョナサン・モリス
出演:カーストン・ウェアリング、ジュリエット・エリス、レズワフ・ジュリック
    ジョー・シフリート、コリン・コフリン、レイモンド・マーンズ
    フランク・ギルフーリー、デヴィッド・ドイル

<はじめに>
  5月の最終週に観た3本の映画はいずれも傑作だった。「おくりびと」、「ウォーリー」そして「この自由な世界で」。最初は3本とも本格レビューを書くつもりだったが、思うように時間が取れないので「ウォーリー」はシリーズ「先月観た映画(09年5月)」の短評で済ますことになりそうだ。

  「この自由な世界で」は昨年公開された映画の中で初めて満点をつけた作品。ケン・ローチ作品なので期待して観たが、その期待は裏切られなかった。僕にとってイギリス映画と中国映画は特別な位置にある。中国映画は80年代に文芸座で「中国映画祭」を観て衝撃を受けて以来、すっかりその魅力に取り付かれている。忙しくなってからも可能な限り作品を観てレビューを書くようにしている。一方、イギリス映画に強い関心を向ける理由は単純。大学と大学院でイギリス文学(特にディケンズとハーディ)を専攻したからである。映画に限らず、イギリスに関すること全般に今でも関心を向けている。

090509_41   そのイギリス映画の中でも、僕の中で特別重要な位置を占めているのがケン・ローチ監督作品である。最初に観たのが「カルラの歌」(98年10月)。次に観たのが「ケス」(99年2月)。次いで「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(00年3月)。このあたりまではそれほどすごい監督とは感じなかった。ケン・ローチがマイク・リーと並んで現代イギリス映画界の2大巨匠だと思うようになったのは「リフ・ラフ」(00年10月)と「レディバード・レディバード」(01年3月)を観てからである。とりわけ「レディバード・レディバード」の衝撃は大きかった。体中から怒りが噴出す思いで観た。その後2本のオムニバス映画(どちらもケン・ローチが担当した部分は飛びぬけて優れていた)をはさんで観た「SWEET SIXTEEN」、「やさしくキスをして」、「麦の穂をゆらす風」そして「この自由な世界で」はいずれも傑作だった。

  今やケン・ローチ監督は僕が一番注目している監督である。「この自由な世界で」を観てレビューを書き出したとき、ケン・ローチ監督について本腰を入れて研究してみたいと思った。まだ観ていない作品のうち、「ナビゲーター ある鉄道員の物語」、「ブレッド&ローズ」、「夜空に星のあるように」の3本はすでにDVDを持っている。これらもいずれ観てレビューを書きたい。すでに観ている作品も、レビューを書いていないものは観直してレビューを書きたい。余力があれば監督論も書いてみたい。そうなるとイギリス映画史や現代イギリス史も視野に入れなければならない。また、ケン・ローチの作品のうち「この自由な世界で」も含めて9本の脚本を書いてきた(「カルラの歌」以降「ナビゲーター ある鉄道員の物語」を除くすべての作品)ポール・ラヴァティについても調べなくてはならないだろう。ほとんどライフワークに近い、大変な作業になる。まあ、ゴールは遥か彼方だが、目標があったほうが励みになるだろう。とりあえずは作品評を1本ずつ書き上げてゆくことにしよう。

【ケン・ローチ監督フィルモグラフィー+マイ評価】
 「この自由な世界で」 (2007) ★★★★★
 「麦の穂をゆらす風」 (2006) ★★★★★
 「明日へのチケット」 (2005) ★★★★☆(ケン・ローチ担当分)
 「やさしくキスをして」(2004) ★★★★☆
 「セプテンバー11」 (2002) ★★★★☆(ケン・ローチ担当分)
 「SWEET SIXTEEN」 (2002) ★★★★☆
 「ナビゲーター ある鉄道員の物語」 (2001)
 「ブレッド&ローズ」 (2000)
 「マイ・ネーム・イズ・ジョー」 (1998) ★★★☆
 「カルラの歌」(1996) ★★★★
 「大地と自由」(1995)
 「レディバード・レディバード」(1994) ★★★★★
 「リフ・ラフ」(1991) ★★★★☆
 「ブラック・アジェンダ/隠された真相 (1990)<未>
 「ケス」(1969)  ★★★★
 「夜空に星のあるように」 (1968)

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  この映画を論ずるには、まずヒロインであるアンジー(キルストン・ウェアリング)という人物について考察することから始めるのが良いだろう。脚本を書いたポール・ラヴァティは、公式サイトに納められたインタビューで彼女について次のように語っている。「アンジーについて最初から気に入っている点は、彼女が矛盾だらけだということ。そのほうが人間らしいと思う。」アンジーが「矛盾だらけ」の人物だという指摘は重要だが、その前に「そのほうが人間らしいと思う」という発言の意味を考えてみよう。これは同じく公式サイトのインタビューでケン・ローチ監督が語っていることと呼応している。彼は「もっと極端な物語にすることもできたと思いますが」という質問に対して次のように答えている。

 

  あまり極端な人物設定にすると、観客は最初の 1~2分でその人物を受けつけなくなってしまいます。「ああ納得がいく…もし彼女がやらなくても誰かがやることだ…競争の激しい業界なんだから、競争心は強くなくては…チャンスを掴むためにはタフな人間でなくては…」という具合に彼女の論理に入り込み、最後にはその理屈がいかにひどいものかに気づくわけです。

 

  つまり最初から極端な悪女として描いたのではアンジーが抱えている矛盾が描けなくなってしまう。資本主義社会の矛盾を描くことに狙いがあるのに、単なる個人の性格・資質の問題に矮小化されてしまう。フィクションにおける登場人物としても、ハリウッド映画のような型どおりの単純化されたキャラクターになってしまう。それでは矛盾に満ちた、生きた人物像が描けなくなる。そう言っているのだ。

080216_8_2   もともとアンジーには仕事の才能もあり、不法滞在のイラン人一家を放っておけず家に連れてきて、仕事まで紹介するような優しいところもある。仕事を首になったのも、尻を触ったセクハラ上司をはねつけたからだ。職を失い、一人息子ジェイミー(ジョー・シフリート)を抱えて何とか生計を立てようと必死で努力する。友人ローズ(ジュリエット・エリス)と組んでなんとか自分たちで職業紹介所(というと聞こえはいいが、平たく言えば日雇いの斡旋所)を立ち上げる。最初のうちは正規のビザを持っている労働者だけに仕事を斡旋していた。しかし多額のローンを抱え、自分たちの事務所も持ちたいという一心で、移民労働者たちからピンはねを始める。もう少しだけ儲けたらやめる、あともう少しだけ。しかし不法滞在の移民に仕事を斡旋することに踏み切ってから、彼女は坂道を転がり落ち始める。痛い目にもあうが、そのことで彼女は反省して足を洗うどころか、悪辣な稼業により深く手を染めてゆくことになる。ラストで登場する彼女の冷酷な目つき、移民希望者を吟味するあのハゲタカのような目つき。彼女はぞっとするほどの変貌を遂げていた。

  より自分の才能を発揮できる仕事をしたい、仕事と才能に見合った正当な報酬を得たい、何とか自分たちで作った会社を軌道に乗せたい、いつか両親に預けた一人息子を引き取り一緒に暮らしたい。そのためにはもう少し上に這い上がりたい。そういう思いでがむしゃらに突き進む彼女に、少なくともある時点までは、観客を共感させなくてはならない。彼女の願望には人間的に共感できる要素がなくてはならない。彼女が変貌してゆく過程の各段階で彼女が選択した道は「なるほど無理もない」と観る者を納得させるものでなければならない。その選択が彼女自身と彼女の周囲に新たな矛盾をもたらすものであるにもかかわらず。「そのほうが人間らしいと思う」とポール・ラヴァティが言ったのはそういう意味だろう。

 アンジーを見るからに悪党という人物像ではなく、いくつもの矛盾を抱え、葛藤しながら、当初自分が思い描いた方向とは違った方向へ否応なく突き進んでゆかざるを得ない人物として描いたからこそ、「この自由な世界で」は傑作になりえたのだ。職業斡旋所の場面で始まり、職業斡旋所の場面で終わる。しかしその間にアンジーはまったく違う人物になっていた。もっと安定した生活をしたい、息子と幸せに暮らしたいというささやかな願いを実現しようと必死になっていた女性は、ラストではハゲタカの様な目をした、儲けのためには手段を選ばない闇の斡旋業者になっていた。冒頭の場面と同じような場面で終わるだけに、その乖離の大きさに観客はたじろぐ。

 この終わり方が重要である。「この自由な世界で」のアンジーは、「ロード・オブ・ウォー」の主人公ユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)と同じなのだ。ユーリーは武器商人でありながら、眠っている息子のベッドでおもちゃの銃を見つけた時は、そっと取り上げてゴミ箱に捨てるような男だった。それが最後には片手を失った女の子に「手はまた生えてくる?」と聞かれても何の感慨も抱かない冷酷な死の商人に変貌している。

080518_28  アンジーとユーリー・オルロフ。この二人の人物造形が優れているのは、最後まで彼らを道徳的に改心させなかった点にある。並みの映画なら、そうしていただろう。それまでの自分を改め、最後はめでたしめでたしで終わる。作者が勝手に道徳的裁断を下し、「勧善懲悪」(poetical justice)で丸く収めてしまうという安易な結末にはしなかった。二人とも挫折もせず、改心もせず、ひたすら己の欲望を追求し続けるままで終わる。そのおぞましいが、しかし否定しがたい「現実」と観客は最後に向き合わざるを得ない。そして映画が終わった後に、何が彼女をそうさせたのかという問題を観客に突きつけてくるのだ。妥協をせず、そこまで押し通したところにケン・ローチの非凡さがある。

 アンジーは何度も困難にぶつかり、矛盾と葛藤を抱え、そのたびに選択を迫られた。その選択は彼女自身がしたものである。彼女の自由意志で。しかしよく考えてみると、常に彼女の背中を押していたものがある事に気づく。それは少しでも上に這い上がりたいという欲求だ。共同経営者のローズのような選択もできただろう。あるいは父親ジェフ(コリン・コフリン)の忠告に従うこともできた。しかしそのつど彼女は他人を踏みつけてでものし上がる道を選んだ。彼女の前には、そしてローズやアンジーの父親の前にも、資本主義の自由競争原理という道が敷かれていたのだ。その道を進むか、その道から外れるか、選択の余地は残されてはいるが、しかれた道そのものをなくすことはできない。それは厳然と常にそこにあるのだ。そしてアンジーにはそれが輝かしい未来に続く道、自由へと続く道に見えたのである。アンジーは自分でもそれと気づかぬまま、敷かれた道に沿ってがむしゃらに突き進んでいたのである。他人の忠告を振り切ってその路線をたどって行き着いた姿、それがラストのアンジーの姿である。少しでも上に這い上がりたいともがいているうちに、知らず知らず彼女は資本主義の冷徹な論理に絡め取られていたのである。

  今よりももっといい生活がしたい、もっと幸せになりたい。それ自体は誰でも持っている自然な願望である。だがそう思ったとたんに、自分がさまざまな個人的・社会的条件によってがんじがらめにされていることに気づく。シングル・マザーであるということ自体が社会の中ではきわめて不利な条件である。 それでも何とか少しでも上に這い上がりたい、そのためにはちょっとした不正に手を出しても良いだろう、自分の事務所が持てるようになるまでなら・・・。仕事が軌道に乗るまでだから・・・。そのちょっとした心の隙に芽生えたわずかなエゴイズムを資本主義という怪物は見逃さず、すかさず食い込んでくる。 ささやかな願望がいつしかどす黒い強欲に変わっていた。その変貌のリアルさ。それがあまりにリアルであるからこそ観客はたじろぎたくなるような居心地の悪さを感じるわけだ。

  食うか食われるかの自由競争原理の下でもがき苦しみ、踏みつけられる側から踏みつける側に這い上がったアンジー(もちろん這い上がっても、這い上がっても、彼女の上にはまた彼女を踏みつける連中がいるわけだが)。先のインタビューで、ケン・ローチはアンジーのことを次のように評している。「彼女は今の時代の精神性を非常によく表した存在でもある。数年後にはビジネスウーマン・オブ・ザ・イヤーになりそうな人物ですね。」あるいは、もっと端的に彼女を揶揄してこうも言っている。「『サッチャーの反革命』の申し子がアンジーです。」

  80年代はまるまるサッチャーの時代だった。その後何代か首相が変わり、保守党から労働党に変わったが、サッチャーが敷いたレールはいまだにイギリス社会を根本において規定している。「ゆりかごから墓場まで」という福祉社会のスローガンはとうに消えうせ、競争原理の下で国民が汲々とするリトル・アメリカになってしまった。経済は上向きになったものの格差は広がるばかり。薬中やアル中が蔓延し、「トレインスポッティング」や「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「レイヤー・ケーキ」などの映画がアメリカの真似をした絵空事どころか、リアリティをもって迫ってくる社会になってしまった。

  少しでも上に這い上がりたいともがき続けたアンジー。さまざまな段階で彼女は自分の自由意志で次のステップを選択した。彼女がその果てにつかんだ自由。端的に言えば、それは搾取する自由だった。いつの間にか彼女は踏みつけられる側から踏みつける側に回っていた。「何をしても自由な世界なのよ。」儲けるためなら手段を選ばない。そんな放縦な自由は一方で多くの不自由を生む。なぜなら利潤は搾取することから生まれるからだ。資本主義は人間のエゴイズムを食って成長する。

  トレーラーハウスで暮らす移民たちを警察に通報して強引に立ち退かせようとしたアンジーに向かって、共同経営者のローズはこう問い詰めた。「私を見て。アンジー私を見て。何をしても自由なの?」この問いに少し迷いながらアンジーは「たぶん違うわ」と答えた。この段階ではまだそう言うだけの良心はあった(皮肉なことに、立ち退かされる運命の移民たちの中には、かつて彼女が世話したイラン人家族もいたのだ)。しかし最後にはそれすらなくしてしまう。最後のウクライナの場面で、イギリスで働けるとうれしそうに微笑んでいる女性が写される。通訳が彼女の言葉をアンジーに伝えている。「子供を二人残して働きに出るそうで、この虹が幸せを運んでくれると。」虹はアンジーの会社のシンボルマークである。希望を胸に無邪気に微笑む女性。イギリスでどんな過酷な運命が彼女を待っているのか。そう案じずにはいられない。向かい側で彼女を見つめるアンジーの鋭い目には哀れみのかけらもうかがえない。彼女は今や他人の夢をむさぼり食って生き延びているのだ。

081225_25   英語に次のようなことわざがある。”Devil take the hindmost.”(遅れたやつは鬼に食われろ。)これこそまさに自由市場主義の冷徹な論理である。マルクスはさらに的確な表現を用いている。「大洪水よ、わが亡き後に来たれ!これがすべての資本のスローガンである。」この論理が多くの人間を突き動かしてきた。「貧乏暮らしはもう飽きた。浮かび上がりたい。見上げてばかりではなく、見下ろしたいんだ。」これは「男の闘い」(1969、マーティン・リット監督)で、劣悪な労働条件に抗議して抵抗運動を続ける炭鉱労働者の中に資本家側から送り込まれたスパイ(リチャード・ハリス)が言ったせりふだ。同じアイルランド移民である炭鉱労働者たちを裏切ってまでスパイになろうとする彼の背後には強烈な上昇志向があった。この映画もまた最後に勝ち残るのは炭鉱労働者の首魁ショーン・コネリーではなくスパイであるリチャード・ハリスの方である。中国映画「ココシリ」(2006、ルー・チュ-アン監督)ではチベットカモシカを乱獲する密猟者たちと彼らをとことん追跡する民間パトロール隊との死闘がすさまじいばかりの迫力で描かれるが、ここでもまた最後に生き残るのは密猟者たちだった。

 大企業が自ら生き残るために大量に派遣労働者や従業員を解雇している日本でも、この冷徹な論理は貫徹している。「この世のたががはずれてしまった。」(『ハムレット』)いつまでこんなことを続けるのか?すべて自由市場に任せておけばいいという路線はすでにアメリカで破綻している。その後の混乱の中からオバマ大統領が登場した。今後アメリカは、日本は、そして世界はどのような方向へ進むのか。

  ポール・ラヴァティはインタビューでこう言っている。「僕たちが映画のなかで見せようとしているのは、自身の行動には何かしらの結果がつきまとうということなんだ。」アンジーが失ったものは良心だけではない。おそらく家族も失ってしまった。そしてかすかな愛情を感じていたカロル(レズワフ・ジュリック)も。彼女はより自由になったのか?その後彼女はどうなってゆくのか?5年後、アンジーはどんな暮らしをしているのだろう。ポーランドから来た若者カロルは5年後も「この国は嘘だらけだ」と言っているのだろうか。そしてウクライナからイギリスに渡ったあの女性は?

 個々人の運命は誰にも予想できない。しかしこれだけはいえる。5年後も、20年後も、アンジーを誘い込んだあの一見輝いて見える「自由への道」は消えずに残っていると。そしてその道の先には・・・断崖が待ち受けているのかも知れない。

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2009年6月 1日 (月)

おくりびと

2008 日本 2008年9月公開
評価:★★★★☆
監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
撮影監督:浜田毅
美術:小川富美夫
音楽:久石譲
出演:本木雅弘、山崎努、広末涼子、余貴美子、吉行和子、笹野高史
    杉本哲太、峰岸徹、山田辰夫、橘ユキコ

<はじめに>
 滝田洋二郎監督の作品は「僕らはみんな生きている」(1993)に続いて2本目。調べてみるとポルノ映画からスタートした人のようで、80年代半ばまでもっぱらポルノ映画を監督していた。86年の「コミック雑誌なんかいらない」が最初の一般映画。その後「木村家の人びと」、「病院へ行こう」、「僕らはみんな生きている」、「眠らない街 新宿鮫」、「陰陽師」、「壬生義士伝」など、次々に話題作を作ってきた。

070728  いずれも名前は知っていたが「僕らはみんな生きている」以外はなかなか手が出ない監督だった。「僕らはみんな生きている」も真田広之主演なのでたまたま観てみた作品である。出来は悪くなかったが(『キネマ旬報』ベストテン5位)、傑作といえる出来ではない。93年という年は全く不作の年だった。90年代の日本映画は70、80年代のどん底から徐々に上向きになってきていた時期で、黒澤明、新藤兼人、熊井啓、今村昌平、黒木和雄、神山征二郎、小栗康平、市川準、山田洋次、伊丹十三、高畑勲、宮崎駿、崔洋一、原田眞人、黒沢清などの前の世代に交じって、中原俊、周防正行、阪本順治、岩井俊二、河瀬直美、三池崇史、井筒和幸などの新しい才能が台頭してきた時期である。日本映画が本格的に息を吹き返し、製作本数のみならず質的にも優れたものを少なからず生み出し始めるのは「たそがれ清兵衛」、「刑務所の中」、「OUT」、「阿弥陀堂だより」、「突入せよ!『あさま山荘』事件」などが登場した2002年以降である(一方でしょうもない駄作が多数作られてはいるが)。

 「博士の愛した数式」、「フラガール」、「かもめ食堂」、「武士の一分」、「紙屋悦子の青春」、「嫌われ松子の一生」、「THE有頂天ホテル」、「雪に願うこと」、「六ヶ所村ラプソディー」、「ヨコハマメリー」などが公開された2006年に頂点に達し、その後もやや下降気味ながら勢いを保っている。90年代の作品で観たものは限られているが、次にマイ・ベスト15を挙げておく。

■90年代日本映画マイ・ベスト15
 中原俊「櫻の園」(90)
 篠田正浩「少年時代」(90)
 山田洋次「息子」(91)
 岡本喜八「大誘拐」(91)
 大林宣彦「ふたり」(91)
 中原俊「12人の優しい日本人」(91)
 周防正行「シコふんじゃった」(92)
 宮崎駿「紅の豚」(92)
 新藤兼人「午後の遺言状」(95)
 岩井俊二「Love Letter」(95)
 周防正行「Shall we ダンス?」(96)
 宮崎駿「もののけ姫」(97)
 三谷幸喜「ラヂオの時間」(97)
 平山秀幸「愛を乞うひと」(98)
 原田眞人「金融腐食列島〔呪縛〕」(99)

 さて、「おくりびと」は間違いなく滝田洋二郎監督を代表する作品になるだろう。ポルノ映画から出発してついにここまで到達した。彼の才能がやっと全面開花したということだろう。これだけの才能を持っているにもかかわらず、最初はポルノ映画しか撮れなかった。70・80年代の日本映画界はそういう状況だったのである。

 「おくりびと」の主演は本木雅弘と山崎努。本木雅弘は周防正行の「ファンシイダンス」(1989)と「シコふんじゃった」(1992)で主演し、俳優としてただならぬ才能を見せつけた。こんなに才能のあるヤツだったかと当時驚いたものである。その後に観た「トキワ荘の青春」(1996)と「中国の鳥人」(1998)は作品自体がいまひとつだった。2000年代に入ってさっぱり映画では見かけなくなった。せいぜい「伊右衛門」のCMで見る程度。あれだけの才能が惜しいと思っていたところへ「おくりびと」が出現した。やっぱり彼は俳優として非凡な才能を持っている。「おくりびと」を観て、改めてそう確信した。

 一方の山崎努は滝田洋二郎監督の「僕らはみんな生きている」にも出演していた。今や日本映画界の長老とも言うべき名優だ。最初に映画で彼を観たのは恐らく黒澤明監督の「天国と地獄」 (1963)だろう。いつも丘の上の邸宅を暗く鬱屈した目で眺めていた誘拐犯人の役。暗く落ち窪んだ目が薄気味悪くぎらついていた。実に不気味で強烈な存在感だった。僕の中では、この役柄が彼のイメージとしてしばらく固着していたほどだ。「悪の階段」 (1965)でも悪党の役で、これがまた恐ろしいほどはまっていた。翳りのある暗い表情、どこか底知れない暗闇と冷酷さを内に秘めた不気味さ、そんな役柄がやたらと似合っていた。

080302_4  なぜか70年代には出演作に恵まれなかったが、80年代には伊丹十三監督作品に次々と出演した。この頃には飄々とした持ち味を発揮するようになっていた。2000年代に入ってもその活躍は止まらない。貫禄がありながら飄々とした持ち味を失わない。そんな得がたい役者になっている。いんちき広告でカモを釣っておいて、平然とした顔で広告は「安らかな旅立ちのお手伝い」の誤植だとうそぶく。それでいて彼が執り行う納棺の所作には一部の隙もなく、本木雅弘がほれ込んでしまうほど見事なものであった。かといって仕事人間であるはずもなく、フグの白子を食べながらあの苦々しい顔で「うまいんだなこれが、困った事に。」などというせりふをさりげなく吐く。いい加減な奴なんだか、いい人なんだかよく分からない。飄々とした立ち居振る舞い、巧まざるユーモア。まさに至芸である。彼の作品についてもマイ・ベスト10を挙げておこう。

■山崎努 マイ・ベスト10
 「おくりびと」 (2008)
 「刑務所の中」 (2002)
 「GO」(2001)
 「僕らはみんな生きている」 (1992)
 「マルサの女」 (1987)
 「タンポポ」 (1985)
 「お葬式」 (1984)
 「悪の階段」 (1965)
 「赤ひげ」 (1965)
 「天国と地獄」 (1963)
   次点「クライマーズ・ハイ」 (2008)

* * * * * * * * * * * * * *

 上で指摘したように、「おくりびと」の魅力はこの二人の主要登場人物の圧倒的な存在感にかなり依存している。とりわけ、誰もが指摘するように、二人が行う「納棺」の儀式の美しさは観る者をひきつけて離さない。思わず食い入るように見とれてしまう。一連の所作が実に美しいのだ。流れるような動作の手際のよさ、手つきの美しさ。名人が行う茶道の点前を見ているようだ。小林大悟(本木雅弘)の表情も美しい。いや、表情や手つきだけではない。一連の所作に死者への敬意が込められていることが観客に伝わってくるから美しいと感じるのだ。しかもこの儀式は遺族の目の前で行われている。われわれ観客もまたその場に居合わせていると思わせるほどリアリティを感じる。それには「現実の音」も大いに貢献している。シュシュという絹ずれの音がどんな効果音よりもリアルにその場にいるような臨場感を伝えているのだ。「武士の一分」の決闘シーンでわれわれが耳にした、刀が触れ合うときの背筋がぞくぞくするような金属音、その金属音に匹敵するリアリティがあった。

 この「納棺の儀」を見たことがある人はほとんどいないと思われる。どうやら現在では滅多に執り行われることのない古式にのっとった儀式らしい。なるほど、こんな風に行われるのか。見たことのない古風な儀式を見る喜び、その喜びを味わうこともこの映画の魅力である。しかし、そこにこの映画の重要なテーマの一つが絡んでいることを見逃してはいけない。観たことがないのはそれが古風なものだからというだけではない。納棺師という職業自体が「見えない職業」、あるいは表立って「見せられない職業」だからこそ、われわれは見た事がないのだ。死者に触れるという仕事柄、“穢れ”というイメージが付きまとい、それゆえに差別される職業なのである。われわれの知らないどこかでそれは秘かに執り行われ、遺体がわれわれの目の前に現れるときには既に棺に入っているのである。

 葬儀には欠かせないものでありながら、誰もやりたがらない仕事。それが納棺師の仕事である。映画の冒頭で小林大悟が「納棺の儀」を執り行っている場面が出てくる。しかし、彼がNKエージェントに就職して最初の仕事に連れて行かれたとき、そこで出会ったのは死後二週間経過した老女の遺体だった。まさに「臭い、汚い、気持ち悪い」の3K職場だった。そういう現実がいやというほど観客に突きつけられる。そういう職業だけに「見えない職業」だったのである。

090206_27  「おくりびと」は単に珍しい仕事の内幕を見せてくれたという類の映画ではない。職業差別という生々しい現実と正面から向き合った映画なのである。この映画の最大の意義はそこにある。タブーに挑んだ映画なのだ。その最初の仕事の帰り、大悟はバス内で女子高生から「何か臭う」と言われ、あわてて途中下車し銭湯に飛び込む。何かに取り憑かれたように体から死臭を洗い落とそうとする彼の姿には「汚れてしまった」、その汚れを他人に気づかれてしまったという戸惑いと恥ずかしさがあった。もちろん、彼が洗い落とそうとしたのは死臭だけではない。大悟は死臭と一緒に世間の差別的視線をも洗い落とそうと必死になっていたのだ。夜な夜な夢遊病者のように眠りながら歩き回り、まだ手から血のにおいが消えない、血のしみが消えないと、深いため息をついているマクベス夫人が、手に付いた血(これは幻覚だが)と同時に殺人を犯した罪意識をも洗い落とそうとしていたように(マクベス自身も「大海原の水すべてを使えば、この手についた血を落とせるのか?いいや、それどころか、俺の手は、広大な海を血の色で染め、海の緑を赤一色にするだろう。」と嘆いている)。帰宅後、妻の体を抱きしめる。まるでその体から「生」の息吹を吸い取ろうとするかのように。このシーンは秀逸だった。

 実際、世間の冷たい視線と態度は容赦なく彼の心に突き刺さる。友人の山下(杉本哲太)からは「もっとましな仕事さ就けや」と忠告され、ある喪主からは「おめぇら死んだ人間で食ってるくせに」と怒鳴られる。「あの人みたいな仕事」と指差されることもあった。ついには、妻の美香(広末涼子)からも「汚らわしい」と言われてしまう。

 「おくりびと」が描いたのは、そういう世間の冷たい視線に押しつぶされそうになりながらも、迷いつつ葛藤しつつも大悟が自分の職業に誇りを持つに至るプロセスである。われわれがこの映画に共感するのはまさにその点である。

 彼の認識を変える上で、NKエージェントの社長である佐々木(山崎努)の存在が大きかった。この一見いい加減そうな人物は実におおらかな人柄だった。彼は仕事上の知識や技術面で大悟を指導しただけではない。死との向き合い方を教えていた。フグの白子をむしゃむしゃと食べながら言った彼のせりふは実に暗示的だ。「生き物は遺体を食って生きる。これも遺体だろ。どうせ食うなら美味しいほうがいい。うまいんだなこれが、困った事に。」この「困った事に」というところがなんとも滑稽に響くが、この言葉は「おめぇら死んだ人間で食ってるくせに」という心無い言葉に対置されている。人は生きるために食ってゆかねばならない。食うために就いた職業がたまたま人の死とかかわる職業だったに過ぎない。納棺師は生きるための手段。自分の生業で金を稼ぎ、その金でうまいものを食らう。それでいいんだ。妻にも逃げられ、くよくよしていた大悟には、世間の冷たい視線など歯牙にもかけない、このあっけらかんとした社長の姿が不思議であり、うらやましくも見えただろう。「一旦その職に就いたのなら自分の職に誇りを持て」などという直接的表現よりもはるかに説得力がある。死とかかわりながら、旺盛な食欲を持ち、旺盛に生を享受する。佐々木と違い大悟はまじめ一方の男だが、佐々木のこだわりのなさに彼もいつしか引き付けられてゆく。

 迷い続ける大悟を支え、その迷いを振り払う手助けをした人は他にもいる。彼がとっさに飛び込んだ銭湯にかかわる人たちだ。銭湯はNKエージェントと並ぶ、「おくりびと」の人間関係のもうひとつの中心である。銭湯の経営者である山下ツヤ子(吉行和子)、その息子で大悟の友人である山下、そして銭湯の常連客銭湯の常連客平田(笹野高史)。

 美人だと思ったら「あれ」が付いていた青年、幼い娘を残して亡くなった母親、沢山のキスマークで送り出されたじいさん、最後の旅立ちにルーズソックスをはいていったばあさん。大悟たちはいろんな遺体を納棺したが、その人たちの人生は垣間見ただけである。遺体はそこにある物体に過ぎない。丁寧に扱いはするが、遺族や友人たちと同じ気持ちにはなれない。しかし親しくしていた銭湯のおばちゃんの納棺の儀式が描かれることで、遺体に人生が取り戻された。単なる物体ではなく、確かに生きてきた記憶が込められた。その意味で銭湯のおばちゃんの存在は重要であり、また必要だった。遺体は単なる魂の抜け殻ではなく、死ぬ直前まで確かに生きていたのだ。彼女は身をもって大悟と観客にそのことを教えた。そしておそらく、銭湯のおばちゃんを送り出した時、大悟は体を清めるための銭湯を必要としなくなったのだ。そのとき大悟は一人前の納棺師になった。

090509_39  銭湯の常連客である平田もまた「見えない」職業に就いている人だった。そのことは銭湯のおばちゃん山下ツヤ子の火葬のときに明らかになる。その時まで誰も彼の職業を知らなかったのは故なきことではない。彼もまた人に自分の職業を話しづらい仕事をしていたのだ。その彼の言葉がまた味わい深い。「死は門である」と言うのだ。「この人たちは、三途の川を渡るのではなく、門をくぐって行くわけです。私は門番としてたくさんの人をおくって来たんですよ。」この言葉には「おくりびと」の原案となった青木新門著『納棺夫日記』に対するオマージュが感じられる。この本はまだ読んでいないが、あるサイトによると、その中に「死者にとっては、さわやかな風の世界からすきとおった世界へ往くだけである。そこには死もないから<往生>という」という文章があるようだ。「死は門である」という言葉は青木新門の世界観に通じるものがある。

 青木新門の『納棺夫日記』は独特の宗教観を持っているようだ。映画はそこまで立ち入っていない。日本人の死生観に関しても深く踏み込んでいるとはいえない。だが、それは必ずしもマイナスとはいえない。死生観や宗教的考察に下手に踏み込んでいたずらに難解な作品になってしまったかも知れない。うまく取り込むのは難しいし、下手に踏み込めば消化不良になってしまう。その是非はともかく、少なくとも、分かりやすくすっきりまとめたことが商業的成功につながったとはいえるだろう。ユーモアの味付けをしたことも評価していい。

 むしろ疑問を感じるのは最後のクライマックスである。大悟が父親を納棺する場面。彼が子供の時に家庭を捨て出て行った父を大悟はずっと憎んでいた。当然最初は遺体の引き取りすら拒否していたが、同僚の上村(余貴美子)の説得で引き取ることを決意する。この結末にいたるまでに、顔の見えない父親の姿が何度も映され、父親が残していった“石文“が伏線として何度も挿入される。大悟は父親の遺体が握っていた石を発見し、父親の真意を知る。また、一度は実家に帰っていた妻も葬儀社の人に「夫は納棺師なんです」ときっぱりと言いきるところまで変わっていた。

 伏線的に扱われていた大悟の父親と妻のエピソードがこの大団円でひとつに結びつく。そういう展開になっている。だが、はっきり言って、この部分が一番弱い。最後にお決まりの泣かせの路線に逃げてしまった。そう感じるひとつの理由は、妻の心境の変化を十分描きこめていないからである。しばらく夫から離れている間に気持ちに変化があったらしいと暗示するにとどまっている。つまり、彼女がどのように考え方を変えたのかが何も描かれていないのだ(子供ができたというだけでは説得力がない)。演じる広末涼子の力量も他の出演者と比べると大きな隔たりがあると感じる。どうも一人だけ浮いている感じだ。だから「夫は納棺師なんです」という決め台詞も胸に迫ってこない。

 父親のエピソードについては、むしろない方が良かった。ただただ観客を泣かせるためだけに無理やり作られたものである。仮に父親を納棺することになったにしても、それは大悟の成長過程の一通過点として描くほうが良かったのではないか。父親が息子に石を贈るエピソードはイギリス映画の傑作「Dearフランキー」でも描かれている。フランキーにとって父からもらった平らな石は何物にも代えがたい宝であった。しかし映画のラストで、彼は大事にしていたその石を水きり遊びに使う。その石は今までになく何度も水の上をはねた。そこにフランキーの成長が描かれていた。もう思い出の石は必要ない。同時に彼はもはや父親からの手紙(実は母親が代わりに書いていた)も必要としなくなっていた。

 大悟も何らかの形で父親の記憶に決着をつけ、先に進むべきだった。その方が安易なお涙頂戴路線に走るよりずっと良かった。

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2009年5月22日 (金)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(09年6月)

【新作映画】
5月16日公開
 「夏時間の庭」(オリヴィエ・アサイヤス監督、フランス)
5月22日公開
 「消されたヘッドライン」(ケビン・マクドナルド監督、英・米・仏)
5月23日公開
 「重力ピエロ」(森淳一監督、日本)
5月29日公開
 「スター・トレック」(J.J.エイブラムス監督、米・独)
5月30日公開
 「路上のソリスト」(ジョー・ライト監督、英・米・仏)
6月6日公開
 「ザ・スピリット」(フランク・ミラー監督、米)
 「サガン 悲しみよこんにちは」(ディアーヌ・キュリス監督、仏)
 「ジャイブ 海風に吹かれて」(サトウトシキ監督、日本)
 「ハゲタカ」( 大友啓史監督、日本)
6月13日公開
 「マン・オン・ワイヤー」(ジェイムズ・マーシュ監督、英・米)
 「嗚呼満蒙開拓団」(羽田澄子監督、日本)
 「レスラー」(ダーレン・アロノフスキー監督、アメリカ)
 「ゆずり葉」(早瀬憲太郎監督、日本)
6月19日公開
 「愛を読むひと」(スティーブン・ダルドリー監督、米・独)
6月20日公開
 「人生に乾杯!」(ガーボル・ロホニ監督、ハンガリー)
 「スティル・アライヴ」(マリア・ズマシュー=コチャノヴィチ監督、ポーランド)
 「いけちゃんとぼく」(大岡俊彦監督、日本)
 「剱岳 点の記」(木村大作監督、日本)

【新作DVD】
5月22日
 「ヘル・ボーイ ゴールデン・アーミー」(ギレルモ・デル・トロ監督、米・独)
 「その男、ヴァン・ダム」(マブルク・エル・メクリ監督、ベルギー・仏・他)
 「秋深き」(池田敏春監督、日本)
 「反恋愛主義」(クリスティナ・ゴダ監督、ハンガリー)
5月29日
 「シャッフル」(メナン・ヤボ監督、米)
5月30日
 「コロッサル・ユース」(ペドロ・コスタ監督、仏・ポルトガル・スイス)
6月3日
 「女工哀歌」(ミカ・X・ペレド監督、米)
 「画家と庭師とカンパーニュ」(ジャン・ベッケル監督、フランス)
 「きつねと私の12か月」(リュック・ジャケ監督、フランス)
6月5日
 「レボリューショナリー・ロード」(サム・メンデス監督、米・英)
 「フェイク・シティ ある男のルール」(デビッド・エアー監督、米)
 「ザ・ムーン」(デビッド・シントン監督、英・米)
 「その日のまえに」(大林宣彦監督、日本)
 「明るい瞳」(ジェローム・ボネル監督、仏)
6月12日
 「チェ 39歳 別れの手紙」(スティーブン・ソダーバーグ監督、スペイン・仏・米)
6月19日
 「007 慰めの報酬」(マーク・フォースター監督、英・米)
6月24日
 「ユッスー・ンドゥール 魂の帰郷」(ピエール・イブ・ボルジョー監督、スイス・他)
 「マンマ・ミーア」(フィリダ・ロイド監督、英・米・独)
6月26日
 「アラトリステ」((アグスティン・ディアス・ヤネス監督、スペイン)
 「戦場のレクイエム」(フォン・シャオガン監督、中国)
7月3日
 「未来を写した子どもたち」(ロス・カウフマン監督、米)
 「その土曜日、7時58分」(シドニー・ルメット監督、英・米)
7月10日
 「ホルテンさんのはじめての冒険」(ベント・ハーメル監督、ノルウェー・独・仏)
7月15日
 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(デビッド・フィンチャー監督、米)
7月17日
 「チェンジリング」(クリント・イーストウッド監督、米)
7月24日
 「ワルキューレ」(ブライアン・シンガー監督、米・独)
8月12日
 「オーストラリア」(バズ・ラーマン監督、米)

【旧作DVD】
5月21日
 「浪花の恋の物語」(内田吐夢監督、日本)
5月22日
 「100挺のライフル」(69、トム・グライス監督、米)
 「折れた槍」(54、エドワード・ドミトリク監督、米)
5月30日
 「雨の訪問者」(70、ルネ・クレマン監督、伊・仏)
 「幻影は電車に乗って旅をする」(54、ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)
6月1日
 「五番町夕霧楼」(63、田坂具隆監督、日本)
6月10日
 「動物農場」(54、ジョン・ハラス、他監督、イギリス)
6月24日
 「ミュリエルの結婚」(94、P.J.ホーガン監督、豪・仏)

 劇場公開作ではまずハンガリー映画「人生に乾杯!」に注目。80年代に次々に傑作を放ったが、ここしばらく注目されていなかったハンガリー映画。久々の傑作登場か。岩波ホールで上映される「嗚呼満蒙開拓団」は羽田澄子監督のドキュメンタリー映画。これは必見である。新田次郎原作の「剱岳 点の記」も力作のようだ。

 一方新作DVDは注目作がずらり。「女工哀歌」、「画家と庭師とカンパーニュ」、「レボリューショナリー・ロード」、「チェ 39歳 別れの手紙」、「戦場のレクイエム」、「その土曜日、7時58分」、「ホルテンさんのはじめての冒険」、「チェンジリング」、「ワルキューレ」。ああ、どれも早く観たい。特に巨匠シドニー・ルメット監督久々の注目作「その土曜日、7時58分」とベント・ハーメル監督の(傑作「キッチン・ストーリー」の監督)「ホルテンさんのはじめての冒険」が楽しみだ。

 旧作DVDでは「浪花の恋の物語」、「五番町夕霧楼」、「雨の訪問者」、「ミュリエルの結婚」の発売がうれしい。もう1本。イギリス最初の長編アニメ「動物農場」が気になる。ジョージ・オーウェルの有名な原作をどう料理したのか。これも早く観たい。

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2009年5月15日 (金)

先月観た映画(09年4月)

「イントゥ・ザ・ワイルド」(ショーン・ペン監督、アメリカ)★★★★☆
「バンク・ジョブ」(ロジャー・ドナルドソン監督、イギリス)★★★★
「ただいま」(チャン・ユアン監督、中国、イタリア)★★★★
「リダクテッド」(ブライアン・デ・パルマ監督、米・加)★★★★
「旅するジーンズと19歳の旅立ち」(サナー・ハムリ監督、アメリカ)★★★★
「レッド・クリフPart I」(ジョン・ウー監督、中国・日本・台湾・他)★★★☆
「フィクサー」(トニー・ギルロイ監督、アメリカ)★★★☆

 4月はめちゃくちゃ忙しい月でした。観た映画の本数も7本に減ってしまった。それでも短評を書くのに苦労しました。やはり、映画を観た直後にある程度まとまった感想などをメモしておかないと短評すらうまく書けない。個々のシーンやせりふなどはほとんど忘れている。このところ忙しさにかまけて、ただ映画を消費していただけだったと反省。

* * * * * * * * * * *

「イントゥ・ザ・ワイルド」
090211  2時間半くらいある長尺映画だが、引き込まれて観た。4月に観た映画の中では一番いい出来だと思う。原作はジョン・クラカワーのノンフィクション『荒野へ』。英語版は96年に出版され、翻訳は97年4月に出ている。新聞に載った書評で興味をもち、読書ノートを調べると翻訳が出た直後の5月7日に買っている。しかしいまだに読んでいない(既に文庫本が出ているようだ)。どういうわけか、後から買った『空へ』(イギリス映画「運命を分けたザイル」の原作)を先に読んでいる。

 「イントゥ・ザ・ワイルド」は、青年クリストファー・マッカンドレス(エミール・ハーシュ)が生きる意味を見出すためにアラスカの荒野に入り、自分の犯したミスのために命を落とすまでのプロセスを冷静に追って行く。彼は大学を優秀な成績で卒業しながら、ほとんど崩壊している自分の家庭に嫌気がさし、ついには欺瞞に満ちた文明社会そのものに見切りをつけて荒野を目指したのである。

 アラスカに至るまでの部分は、アメリカをヒッチハイクしながら様々な人々と出会う過程が描かれており、一種のロード・ムービー的色彩を帯びている。アラスカに徒歩で入って孤独の生活を送るあたりは「究極の自由」を求める精神の旅の趣を呈する。全体を通じて、何故彼はあのような行動をするのかという疑問が絶えず観る者の心に浮かび続ける。これが観客を引き付けるドライブの一つとなっている。

 しかし映画は決して抽象的な精神世界にのめりこむことはない。冷静に主人公の行動や言動を追ってゆく。耐え難い現実に絶望し、真実を求めて迷うことなく突き進む彼の姿勢に共感を示しつつも、それが人々との絆を断ち切って行く方向に進んでいったがゆえに悲惨で孤独な死を迎える過程を冷静に描いてゆく。この描き方が成功している。恐らくほとんどの観客が彼の一途に真実と自由を求める姿勢に引き付けられると同時に、そのかたくななまでの考え方に疑問も感じているはずだ。原作には賛否両論の感想が寄せられたという。彼の強い精神性に引かれるか、その無謀さを批判するか。人によって考えが分かれるところだ。

 僕自身終始彼の「真実」や「自由」というものに対する観念的な捕らえ方に疑問を感じていた。しかしたとえそうであっても、2時間半の間最後まで観るものを引き付けるだけの力がこの映画には確かにある。まずその点を評価したい。

 彼は心ならずも通い続けた大学を卒業すると同時に、それまでの生活を総て投げ捨てることから新しい生き方に踏み出した。家族を捨て、金を捨てる。自分の名前さえ捨ててしまう。彼はアレクサンダー・スーパートランプと名乗る。Alexander Supertrampの”tramp”とは「放浪者」という意味である。それまでの自分すら捨てて新たな人生を探す放浪の旅に出る。

090426  かつてフォーク・クルセダーズが「青年は荒野をめざす」と歌ったが、そこには似た感情があったと思われる。現状否定から模索へ。僕が終始感じていた疑問や違和感は彼の否定と模索の仕方である。一言で言えば、彼はたらいのお湯と一緒に赤子も流してしまった。欺瞞に満ちた人間関係や金銭づくの社会を否定するあまり、人間とその社会から自らを断ち切ってしまった。しかし人間は一人では生きられない。少なくとも経験不足の若者一人では。荒野で一人生きるには多くの経験とそこから得た知識が必要だ。しかし彼はそれらを充分学ぶ前に人間との関係を断ち切ってしまった。

 もちろん彼はただ逃避していたわけではない。彼自身はむしろ真実や真の自由を探求していると思っていたに違いない。しかし彼の追い求めていた真実や自由とは極めて観念的なものだったと思う。だから探求しているつもりで結局は逃避していたのである。自由は一切の拘束のない空想的な理想郷へ逃げ込むことによってではなく、自由を制限しているものを取り除くことによってこそ得られる。真実を見抜く力とは社会の根源的矛盾がどこから来るのかを見抜く力である。社会に背を向けることによっては得られない。

 人生の旅の最後に、一人中毒に苦しみもがく中で、彼は一人であることがいかに無力であるかを悟る。「人は一人では生きていけない、人生の喜びは誰かと分かち合うことではじめて得られる。」死ぬ直前に彼はやっとその認識に到達した。

 カナダのユーコン準州を舞台にしたセミ・ドキュメンタリー「狩人と犬、最後の旅」(04年、ニコラス・ヴァニエ監督)という映画がある。信じられないほど美しい自然の中で生きる猟師夫婦の生活を描いている。「人間は自然の征服者としては描かれていない。人間も自然の中で生かされている一つの動物としてとらえ、動物、植物、自然が複雑に絡み合う関係性の中で描いている。人間と犬と野生の生き物と自然のドラマなのである。」(本ブログの短評より)この映画の一番の魅力は自然の美しさである。舞台となったのはカナダのユーコン準州。厳しい自然との戦いが描かれるが、同時に人間による自然破壊と自然の消失というテーマも描きこまれている。こんな奥地にまで開発の手は伸びてくる。しかし、人間を醜いだけの存在として描いているわけではない。主人公は動物の毛皮を売って現金収入を得ている。町に行けば仲間と酒を交わす。何キロ離れていても仲間を助けに行き、また仲間が助けに来てくれる。そういう関係を維持している。

 「イントゥ・ザ・ワイルド」の主人公クリストファー・マッカンドレスも、生きながらえていたならばこのような生活に行き着いていたかもしれない。別の生き方を選んだかもしれないが、いずれにせよその前に命を絶たれてしまった。彼は自然の中に入り込みながら、なぜか打ち捨てられたバスの中で暮らしていた。バスは町と町だけではなく、人々の生活と生活をつなぐものだ。だがこのバスはどこにも向かわない。 旅の途中で出会う人々とのエピソードが印象的なのは、そこに人との触れ合いがあったからだ。彼は文明を拒否するあまり社会との絆も絶ってしまった。そこには太るのを拒否して拒食症になり餓死していった人と重なるものを感じる。

 だが、ここまで言った上で、なおかつこう付け加えたい。それでも青年は荒野を目指す。自分を拘束していたものを一切投げ捨てて、新しい生を求める。その思いの強烈さが映画の力であった。そのことを率直に認めたい。

「バンク・ジョブ」
 ダニー・ボイル監督の「トレインスポッティング」(96年)、ガイ・リッチー監督の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(98年)と「スナッチ」(00年)、ドミニク・アンシアーノ&レイ・バーディス監督「ロンドン・ドッグズ」(99)、ジョン・クローリー監督の「ダブリン上等!」(03年)、マシュー・ヴォーン監督の「レイヤー・ケーキ」(04年)、等々。イギリスのクライム・ムービーはアメリカ映画とはまた違った魅力がある。正直言って、こちらの方が僕は好きだ。90年代後半から2000年代前半にかけて結構作られたが、しばらく途切れていた印象がある。久々に活きのいいクライム・ムービーと出会った。これは楽しめましたね。

081224_7  王室関係者や上流階級の大物の恥ずかしい姿を撮ったフィルム。そんなものが外部に漏れたら英国全土を揺るがす一大スキャンダルになる。それを防ぐために考え出された作戦は実に人を食ったものだった。素人強盗団をそそのかしてスキャンダルの「ネタ」が保管されていた銀行を襲わせる。強盗が成功した後こっそりその「ネタ」を横取りしてもみ消そうという遠大な計画。政府や警察が表立って動けないゆえの苦肉の策。この設定そのものがいかにもイギリスらしい皮肉とブラック・ユーモアにあふれているではないか。

 まあ、後は観て楽しんでもらえばいい。何てったって、監督は傑作「世界最速のインディアン」(05年)のロジャー・ドナルドソン。面白くないはずはない。主演のジェイソン・ステイサムもいい。

「ただいま」
 期待した以上にいい映画だった。ラストの展開は予想がついてしまうが、それでも家族全員の苦悩が十分伝わってきた。「緑茶」(02年)、「ウォ・アイ・ニー」(03年)のチャン・ユアン監督作品。これまで観た3本の中では一番出来がいい。

 出所してきた娘が家族の下に帰る。この設定は韓国映画「ファミリー」(04年、イ・ジョンチョル監督)とよく似ている(もっとも「ただいま」の場合は3日間だけの一時帰宅だが)。しかし「ファミリー」が結局韓国映画お得意のお涙頂戴に堕してしまったのに対し、「ただいま」は泣かせの演出を押さえしっとりと味わいのある作品に仕立てた。秀逸なのは娘タウ・ラン(リウ・リン)が家に帰ってからではなく、帰るまでを中心に描いたことだ。親との再会の場面は最後の最後までとって置く。代わりにたまたま同行することになった刑務所の女性教育主任シャオジェ(リー・ビンビン)との道行きを描く。

   どうせ帰っても親に受け入れられないのではないか、合わせる顔がないといった娘の不安な心理がクローズアップされる。あくまで彼女を励まそうとする女性看守がやや美化されすぎている感じはあるが、かたくなに心を閉ざそうとするタウ・ランを優しくまた厳しく励まし、積極的に行動する姿は実に魅力的だ。制服姿が凛々しいシャオジェ、演じるリー・ビンビンは細面の凛とした美女。実質的なヒロインは彼女の方である。一方のタウ・ランは終始遠慮がちで縮こまっている(しかも入所した時は16歳だったが、17年も刑務所で過ごしていたので既に33歳になっていた)。

 一種のロード・ムービーなので、二人のやり取りばかりではなく(夜の屋台で「水餃子」を二人で食べるシーンは特に素晴らしい)タウ・ランが見る北京の街の変貌も描かれる。何せ17年ぶり。まるで浦島太郎のような心境だったろう。やっとたどり着いた故郷のフートンは、再開発のため既に取り壊されていた。呆然とするタウ・ラン。

 それでもシャオジェはあきらめず、何とか移転先を聞き出す。そしてクライマックスの両親との再会シーン。何度ノックしてもなかなか両親は出てこない。やっと父親が出てくるが、母親は影しか映らない。その影はどうも母親とは別人のように見える。ひょっとして父親は母と別れ再婚したのか。この17年間、両親にとっても地獄だったに違いない。そんな不安が頭をよぎる。この演出が実にうまい。

 母親については伏せておこう。とにかく家の中に招き入れられた後もギクシャクとしてよそよそしい空気が4人を覆っている。観客の関心は主として父親の反応に向けられる。なぜなら、実はタウ・ランの両親はそれぞれ連れ子がいて結婚したのである。タウ・ランは母親の子で、父親の連れ子をある事情で殺してしまったのである。父親は自分を恨んでいるに違いない。心の重圧。この先は実際に映画を観てほしい(DVDが入手可能)。一言だけ付け加えるなら、この映画が最終的に描いたのは邦題の「ただいま」ではなく「お帰り」だったということだ。

「リダクテッド」
  期待したほどではなかったが、なかなかの力作である。「告発のとき」(07年、ポール・ハギス監督)と共通する主題を持った映画だ。

 タイトルの「リダクテッド」とは「編集済み」という意味。アメリカの大手メディアによるイラク戦争報道は当たり障りのない内容に「編集」されているという批判が込められている。代わって映画が映し出すのは兵士たちが戦場を直に撮影したプライベート・ビデオやアメリカ以外の国のニュース映像などである。

 単純といってもいいほど分かりやすい主題である。しかしそこに描き出されたイラク戦争の「実態」にいまひとつ迫力がない。こんなものではないはず。もっといろんなことを映し出して欲しかった。そういう不満が残ってしまう。切り込みようによっては「告発のとき」以上の傑作が作れた可能性があっただけに、その点が物足りなかった。

「旅するジーンズと19歳の旅立ち」
  前作「旅するジーンズと16歳の夏」(05年、ケン・クワピス監督)ははほとんど一般に知られなかったが、拾い物、いやそれ以上の秀作だった。その続編が出た。がっかりするかもしれないという不安もあったが、「ひょっとすると」という思いで借りてみた。

090509_41_2  あれから3年。最初はなんだか4人がバラバラで、フラッシュバックのように目まぐるしく4人のシーンが入れ替わるのであまり映画に入り込めなかった。しかし途中からどんどん引き込まれていった。最初の内は4人とも前作のような魅力がないと思っていたが、次第にその魅力を取り戻してくる。最後に魔法のジーンズはどこかに消えてしまう。しかしバラバラになりかけていた4人は友情を取り戻すことができた。「もう魔法のジーンズがなくても自分で問題を乗り越えてゆける、そこに彼女たちの本当の成長があった。」前作のレビューの最後にこう書いたが、続編も同じような展開になっている。その点が物足りないようでもあり、またほっとするところでもある。

 アンバー・タンブリン、アメリカ・フェレーラ、ブレイク・ライヴリー、アレクシス・ブレーデル。前作に引き続き出演したこの4人組がやはりいい。細かいストーリーは省略するが、今回一番良かったのはブリジットと祖母のエピソード。前回はただの可愛い子ちゃんという感じだったのが、いいストーリーと出会って輝いている。また今回は全員がリーナの応援にギリシャに駆けつけるところが見所。ギリシャの美しい風景が全体のストーリーの弱さを幾分補っている。まあ、サービスだと思って楽しめばいい。

「レッド・クリフPart I」
  「ロード・オブ・ザ・リング」をお手本にしたような作り。大味だがそれなりに楽しめた。ドラマを弱めたのはミスキャストのせいもあるかもしれない。違和感があったのは諸葛孔明に扮した金城武。もっと老獪な感じでないと諸葛孔明らしくない。それ以上に物足りなかったのは劉備役のユウ・ヨン。泰然自若とした落ち着きや思慮深さが全くなく、ほとんどただのおっさん。どこにも英傑らしさが感じられない。逆に一番魅力的だったのは周瑜を演じたトニー・レオン。事実上彼が主役の位置にある。韓国の名優アン・ソンギそっくりな深みのある顔立ち。「ラスト、コーション」(07年、アン・リー監督)でも渋い味を出していた。実に素晴らしい俳優だと最近見直している。

 しかし集団の戦闘シーンはうまく撮るのは難しい。つくづくそう感じさせられる。第二次世界大戦後の近代戦ならば壮絶な戦闘シーンが作れるが、大砲も銃もない時代の戦闘シーンは兵と馬がやたらと多いだけでゴチャゴチャと入り乱れているだけ。どれを観ても大味だ。見せ場としていろいろな陣形を見せるが、亀甲の陣だったかはほとんど笑ってしまう。「ズール戦争」(63年、サイ・エンドフィールド監督)に比べるとはるかに劣る。

 中国人は英雄、豪傑を異常なほど愛好する。『水滸伝』や『三国志』はまさに英雄伝である。したがって集団戦闘の場面でもそれぞれの英雄の超人的強さをやたらと強調する。見ていて食傷してしまう。義侠心や智恵などは脇にやり、ただ豪傑ぶりだけを描いているからだ。数年前にビデオで全巻観たテレビドラマ・シリーズ『水滸伝』の方が英傑一人ひとりの個性が描き分けられているだけにずっと面白かった。「レッド・クリフPart I」で人物、戦闘の技量共にしっかり描かれていたのは周瑜のみ。ドラマが弱くなるわけだ。アランが歌った主題曲も評判ほどいい曲だとは思えなかった。

「フィクサー」
 どんなストーリーだったか思い出すのに時間がかかった。いやはや、もうすっかり記憶から抜け落ちている。わりと評判だったので観てみたのだが、特に印象に残るところもない映画だった。

 同じ「フィクサー」というタイトルなら、68年のアラン・ベイツ、ダーク・ボガード主演作品が断然おすすめ。バーナード・マラマッドの原作をジョン・フランケンハイマーが映画化した作品。原作はずいぶん昔『修理屋』というタイトルで早川書房から翻訳が出ていた(英文科の学生だった頃に入手)。ユダヤ人差別を描いた骨太の作品で、ジョン・フランケンハイマーの最高傑作だ。30年数年前にテレビで観たが、いまだにDVD化されていない。もはや幻の名作。どうでもいい映画を繰り返し出していないで、こういう名作を早くDVDにして欲しいものだ。

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2009年5月 2日 (土)

変貌著しい世界の映画

080518_59  ケンブリッジ大学現代社会国際研究所編『ヴィジュアル・データ百科《現代の世界》』(原書房)に、2006年現在の世界の映画製作本数比較が載っている。そのリストの1位に挙げられている国の名前と製作本数を見たら、まず映画通を自認する人でもほとんどが仰天するだろう。ほんの数年前まではインドがダントツで1位だった。ところがそのインドを抜き、年間2000本も映画を製作している国が出現したのである。何と1位はナイジェリアである。映画製作国としてこれまでまったくと言ってよいほど無名だった国だ。しかも年間2000本という数はインドのほぼ2倍である。そう考えるといかに途方もない数か分かるだろう。ちなみに、映画製作本数ベストテンは次の通り。

ナイジェリア 2000本
インド     1041本
アメリカ    699本
日本      417本
中国      330本
フランス    203本
ドイツ      174本
スペイン    150本
イタリア    117本
韓国      108本

 以下、カナダ80本、イギリス78本、アルゼンチン74本、ブラジル70本などと続く。ナイジェリアが急激に映画製作本数を伸ばしているのはオイル・マネーのおかげらしい。もちろん製作本数の多さは作品の質と比例しているとは限らない。それはともかく、一体どんな作品を作っているのか。それを知る手がかりとなる記事が昨年朝日新聞に載った(08年10月15日付「等身大『ノリウッド』映画」という記事)。インドのボリウッドは今や有名になったが、今度は「ノリウッド」(言うまでもなく、ハリウッドの頭文字HをナイジェリアのNに替えたわけだ)が伸してきたという記事だ。その記事によると、ノリウッド映画は「恋愛や家族愛、部族間の争い、立身出世物語、汚職など、ナイジェリアの日常が題材」だという。どうやら家庭用ビデオカメラを片手に、どこでも誰でも撮っているということのようだ。ナイジェリアでは60年代から映画が作られていたが、映画館でかかるのはほとんどが外国映画だった。しかし90年代に家庭用のビデオカメラなどが普及し始めると一気に広まったらしい。今では政府もノリウッドに雇用の創出や観光業の起爆剤として期待しており、だいぶてこ入れをしているらしい。技術者を養成する民間の専門学校も増えてきているという。

 2位から6位まではほぼ予想通り。意外だったのは韓国をドイツ、スペイン、イタリアが上回っていたこと。ドイツやスペイン映画は本数こそ少ないが優れた作品が日本に入ってきていた。しかしレンタル店の棚に作品が溢れている韓国映画よりも製作本数が多いとは正直驚いた。もっと意外だったのはイタリア。かつてアメリカ、ソ連、フランスなどと並んで世界の映画界に君臨していたイタリア映画も90年代以降はすっかり影が薄くなっていた。朝日新聞社などが主催するイタリア映画祭が2001年から開催されてはいるが、日本で劇場公開される作品は年間10本そこそこではなかろうか。これだけ本国で作られているならば、知られざる傑作がたくさん埋もれてはいやしないか。そんな期待を抱かせる本数である。

 製作本数に比して日本での公開本数が少なすぎると一番感じるのは中国映画だ。年間300本以上作られているのなら、少なくとも今の2、3倍の公開本数があってもいいはず。この間観た中国映画の質の高さをみれば、まだまだ埋もれた傑作があるに違いない。ちなみに、香港映画について触れておくと、「東洋のハリウッド」と呼ばれ70年代から90年代初めにかけて年間250本を製作していた香港映画は、現在50本程度に製作本数が落ち込んでいるようだ(08年11月18日付朝日新聞「歴史を歩く 東洋のハリウッド」)。97年に中国に返還されて以来香港映画の製作本数は減り続け、今や中華映画の重心は大陸に移っている。浙江省の横店村に中国最大の映画撮影基地が作られ、今ではそこが「中国のハリウッド」と呼ばれている。大陸の映画は大きく変貌をとげているようだ。もっと多くの中国映画を観たいという思いがますますつのる。しかし日本で公開される中国映画の数はさほど伸びているようには思えない。まだまだ日本で公開される映画はアメリカに偏っているのが現状だ。

 しかし、そのアメリカ映画も今は深刻な状況にある。世界的な金融危機のあおりで映画の製作資金ががた減りになっているのである。09年1月1日付の朝日新聞に載った「陰るハリウッド カネも客も集まらない」という記事が参考になる。資金難の一例として、フランスの投資銀行ソシエテジェネラルが昨年の10月末に映画への投資から手を引いたことを挙げている。他にも、ドリームワークスはインド金融の資金で映画を撮ることに決め、ワーナー・ブラザーズはアート系映画を作る子会社を相次いで閉鎖したという。

090307_20  アメリカ映画界の苦境はそれだけではない。アメコミの映画化や過去の名作のリメーク、ヒット作の続編などばかり作り続けてきた付けがここに来て回ってきたというのだ。有名スターを起用しCGなどを駆使した大作路線(記事では「打ち上げ花火」的と表現している)が観客に飽きられてきたのだ。そんな安易な大作を尻目にアカデミー賞を受賞したのはインドのスラム街を舞台にしたダニー・ボイル監督の「スラムドッグ・ミリオネア」だったと記事は冒頭に皮肉っぽく書いている。「次もインドで撮りたいね。米国は、熱気にあふれる映画を作るエネルギーを失ってしまったから」というダニー・ボイル監督の言葉を添えて。

 そんなアメリカ映画を相変わらず大量に公開している日本。当然アメリカ映画不審の影響は日本にも及んでいる。昨年の日本における映画興行収入その他をまとめると次のようになる。邦画の興行収入は前年比22.4%増で過去最高となった。一方、洋画の興行収入は前年比23.9%の大幅減だった。洋画と邦画の合計は前年比1.8%減。年間公開本数は洋画で前年より15本少ない388本、邦画は11本多い418本。映画館数は138スクリーン増えて3359スクリーン。しかし入場者数は延べ約1億6049万人で前年より1.7%減。

 洋画が落ち込んだのはアメリカ映画が不振だったからである(上記2つの原因の他に脚本家組合によるストの影響もあったと考えられる)。作品の質的な問題以外に、観客数が減っている背景には経済危機があると思われる。特にそれが目立って表れたのは若者の映画離れという現象である。雇用不安が蔓延し先行きに不安を抱える若者が増えていることを考えれば、映画館から若者の足が遠のいてゆくのはある意味で当然かもしれない。映画は映画館ではなくDVDで、あるいはインターネットで観るという傾向が強まっている。消費不況が映画興行にも大きな影響を与えているのである。

 もうひとつ深刻なのはアート系映画の不振である。朝日新聞08年12月20日付の「アート系映画、真冬の次には」という記事によると、いわゆるミニシアター系映画には02年以降目立った大ヒットが表れていないそうである。ミニシアターはここ数年どこも観客数が落ち込んでいるらしい。この傾向が続くようなら、アート系映画は短期間上映の映画祭等でしか観られない時代が遠からず来るかもしれない。そんな不安を感じさせる。ただし、大手配給会社がアート系映画の買い付けから撤退したため、結果的に買い付け価格がだいぶ安くなったようだ。そこに一縷の望みをたくせると最後を結んでいる。

 このように映画をめぐる昨今の状況は大きく変わってきている。日本映画も過去最高の興行収入だったと喜んでばかりはいられない。大ヒットした映画はほとんど例外なく大手企業の配給作品である。その一方で制作費を回収できていない作品が続出している。それに追い討ちをかけるように、国による09年度の映画製作への公的助成はさらに削られることになった。作品の質という観点から見ても、06年を頂点に07年以降は下降気味にあると感じる。

 アメリカ映画界も日本以上に先行き不透明である。アカデミー賞開催前に開かれていたパーティーの自粛、大手映画会社の人員削減など、様々な所に経済破綻の影響が現れてきている。アメリカ国内においても映画製作に対する基本的姿勢を変える必要があるし、日本においてもアメリカ一辺倒の映画輸入形態を変える必用がある。05年10月のユネスコ第33回総会で、「文化の多様性」条約(文化的表現の多様性の保護および促進に関する条約)が提案され、アメリカの激しい抵抗を押し切って、07年3月に正式に発効した。日本は世界中の様々な国の多様な文化を積極的に輸入するという点では世界で最も進んでいる国かもしれない。書物で言えば、日本の翻訳文化は世界に冠たるものだろう。実に様々な国の書物を翻訳で読めるのだ。映画に関しても、これほど様々な国の映画を自国語の字幕や吹き替えで観られるところは他にないかもしれない。このブログで取り上げてきた作品を見ればそれがよく分かるはずだ。それでもまだまだ偏りがある。さらにもっと多様な国の映画に門戸を開くべきだ。

 もちろん映画は文化であると同時に興行でもある。観客動員をあまり見込めない映画を上映することには当然ためらいがあるだろう。しかし興行的観点からばかり映画を見る姿勢はもうそろそろ改めるべきだと思う。儲けばかり追及するのではなく、映画の文化的側面をもっと重視すべきだ。派手なばかりで中身のない大作をテレビや雑誌でベタ褒めして観客動員をあおる姿勢はもう改めよう。よい映画はよい観客が作る。よい観客はよい映画が作る。もっとこういう姿勢にたって映画を作り、映画を宣伝し、上映すべきだ。最後にこのことを強調しておきたい。

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